2012年10月23日火曜日

福島の被災地支援のボランティアに参加(その2)

4.南相馬ボランティアセンター


 私たちが滞在した南相馬ボランティアセンターは国道6号線沿いにあって、立ち入りが禁止されている浪江町の境界までは約10km、福島第一原子力発電所までは20数kmのところにあります。今は海が見えるのですが震災前までは松林が続き海は見えなかったそうです。3・11の激震、直後に襲った大津波による被害は三陸沿岸部と同様です。そして違うのは、福島第一原子力発電所の事故による放射能禍。10km圏内、20km圏内に相次ぐ避難指示、30km圏内屋内待機指示、そして集団避難。着の身着のまま(緊急・長距離・長期・家族バラバラ)の避難生活を経ての現状。地震、津波、原発事故による放射能禍の三重の深刻な被災地。これが、福島県北の沿岸部です。
非常に大雑把な表現になりますが、現時点での当地の空間放射線量は南相馬市原町(はらのまち)区(ボランティアセンターのあるところ)で私の住む埼玉の約10倍、小高(おだか)区の高いところで50~100倍でした。高いところは別にして、それでも内陸の福島市や郡山市よりも低い状態にあるそうです。当時の風向きで北西の山間部(浪江町、葛尾村、飯舘村および近辺)から内陸部をどれほど放射能が襲ったのかが推し測られます。

5.仮設住宅訪問活動
福島県北部の沿岸部には仮設住宅が南相馬市に22か所、相馬市に9か所、新地町に8か所あります。私たちはボランティアセンターから北に車で50分ほど行った相馬市の仮設住宅を訪ね、支援者からいただき埼玉から持参してきたお米とジャガイモを持ち、手分けして一軒一軒訪問して歩きました。あいにくの小雨。独居のお年寄りが多く「閉じこもり症候群」が起きている、物資の支援から心のケアが必要、「とことんお話をうかがってこよう、お話し相手になってこよう」と臨みました。この仮設住宅は9ブロックあって全体で980戸、そのうちの162戸は飯舘村の皆さんのブロック。私たちのチームのKさんは聞き上手。人によっては約1時間お話を聞くことができました。地震による家屋の倒壊、津波による家屋の喪失、原発事故避難指示による住居の喪失、それぞれが違う条件で、しかし皆さん3・11以降転々としてようやく入居に至ったとのこと。公的な支援や施策がそれぞれの条件に沿っていないこと、実態をつかんだきめ細かい被災者への支援がなされていない実態をあらためて実感しました。自分たちはこれからどこに行けばいいのか、子どもには地元のものを食べさせたくない、被災直後からお父さんは収入を得るために土木瓦礫作業に出ている「被災者が土木事業に行っている!」これってなんなのとおっしゃったお母さんの言葉が印象に残りました。

6.福島第一原発事故の収束?
「野田さんはそう吹聴(20111221日「収束宣言」)していますが、ここの実態を観ていってください。マスコミにも取り上げられません。福島第一原発からは今でも毎日放射性物質が吐き出されています。何も終わってはいない。」そう、福島県の南相馬ボランティアセンターの宮前さんは訴えていました。だから、知らせてほしい、と。
1沿岸部は激震を蒙った。
2沿岸部は一瞬にして津波に呑まれた。
3そして広範囲に被曝をした。
4着の身着のままの避難を余儀なくされた。
地震・津波の被災状況は三陸同様深刻でありましたのに、放射能禍によって復旧もできず、訪問した被災地福島の南相馬市一帯はまるで時間が1年半も止まったようでありました。行政は国も地元(相馬市、南相馬市の市長の評判は悪かった)も通り一遍のうわべの対処で、被災者へのきめ細かい救援になっておらず、放射能対策も定まらない。復旧事業がゼネコンのくいもののような予算の使われ方になっている。等々。


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