2012年9月11日火曜日

あれから1年と半年の復興


三陸沿岸部に住む家族は多くの犠牲者を出しました。
JR気仙沼線の志津川駅前にはチリ地震津波(1960年)当時、津波の高さがここまで到達したという警鐘を示す柱がありました。昔、つれあいの叔父の一家はつれあいの実家から分家し、この町で商売を始め居を構えておりましたが、その被害に遭いました。それに懲りて、当時はまだ珍しかった店舗兼住宅を三階建てにして再出発しました。商売も順調で羽振りもよかったころのことです。私はつれあいの実家でこの義理の叔父に会うことはあっても、家を訪ねたことはありませんでした。それが偶然、夫婦ふたりで志津川の駅で降ろされ、一日にほんの数本しかない列車を二時間も待つことがあり、それならと私から叔父さんの家を訪ねてみようと提案しました。つれあいはうろ覚えで家がどこにあるか知りません。私は聞いた話で見当がつき、昔ながらの市街に行けばだいたいわかるだろうということで、歩いて行き迷うことなく見つけ当てました。2010年6月のことです。歓待してもらいましたが、それが最初で最後になりました。そのわずか9カ月後、チリ地震津波とは比較にならない3・11の大津波がここを襲いましたことは周知のとおりです。
一家三代7人のうち6人が亡くなりました、もちろん家は消失。ただ一人生き残った叔父の孫も、逃げているところを偶然通りかかった車に拾われて助かったもので、紙一重の命拾いだったそうです。叔父ら2人の遺体は路上でみつかったそうです。あとの4人はなかなかみつからず、ずっとあとになってDNA鑑定で判明しました。
2012年6月陸前高田市庁舎跡にて
つれあいの実家も、陸前高田の姪の夫の叔母の家も、仙台の姪も、それぞれが大津波の被害に遭遇しました。
実家と叔父の一家とは大きな被害に遭った“お互いさま”どうしで、しばらくのあいだ援けあうこともできませんでした。兄も弟も夫婦どうしで、弟は子も孫も亡くなり、住む家も失うという構図でしたから。そんな例は少しも珍しくなく、それほど広範で未曽有な被害でした。
惨状が報じられて、なんとか救援したい!というあの直後の思いで支援は寄せられました。今も地道な支援は続いています。また、復興のための膨大な国家予算もつけられたはずでした。しかし、被災地では復興の遅れにたいするいらだちがあると報じられています(NHK仙台放送局 畠山アナウンサー)。


http://www.dailymotion.com/video/xtgdwr_yyyyyyyy-yyyyyy-yy-yyyyyyyy_news

9日日曜日放送のNHKのスペシャル東日本大震災「追跡 復興予算19兆円」。この番組を観ていてつれあいはあきれ果てていました。復興のためとこれから増税を行いながら、復興になんの関係があるのかというような、とってつけたような巨額の予算の使い方。むらがったとしか言いようのない予算の配分。これら事実を積み上げて検証し、告発する内容となっています。つまり復興予算が被災地に有効に使われていない、それどころか実際に使われていないということにたいして、後からじわりじわりと怒りが湧いてきたようでした。結局、あれほどの被害にあいながら被災者は生活再建をほとんど自力でなんとかしていかなければいけない現実。なんとも言えない、はがゆい気持ちでいっぱいです。

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