2012年9月30日日曜日

沖縄のオスプレイ配備阻止のたたかい


どうやら台風は通り過ぎたらしい。いつの間にか嵐の暴風が聞こえなくなって虫の音がする。ただ、台風のこともあまり眼中になかった。朝から【IWJ中継市民チャンネル 沖縄Ch1】を観ていた。沖縄の普天間基地ゲート前のオスプレイ配備に抗議する人々の闘いをずっと生中継していたからだ。晩飯も食べ損なった。

沖縄では9月26日から不断の抵抗が続いている。明日、岩国基地からオスプレイが普天間基地に飛来することになった。

明日普天間基地に飛来するオスプレイ。それにたいする沖縄のあらゆる抵抗。安保があるからと容認する東京の政府。警察力を使ってウチナンチュウの警官がウチナンチューの非暴力の座り込み住民を強制排除する構図。オスプレイは象徴であって、危険なのは海兵隊、そして日米安保。県外マスコミは注目もしなければ報道もしない。代表選や総裁選のことばかりだ。この日本国民みなが当事者であるのに「沖縄のこと」だと思っている。「無関心」のこわさ。「差別だと沖縄の人々は気付いている。」そうインタビューに応えていた人がいた。

沖縄のあらゆる人々が、党派を超えていま一緒になって抵抗している。耐え難いことだからだ。世界一危険な普天間基地にオスプレイが敢えて配備され、基地が肯定され強化されるということ、ひとの命と暮らしが軽んじられるということ。沖縄のみなさんにとってどれほど耐え難いことか、私たちは想い及ぶべき。私たち自身が「侮辱」されていることだと考える。

沖縄普天間基地のゲート前で最後に残された車両の中に4人。車上に10人。オスプレイ配備の強行に抵抗する人達がそれを守っている。車上には沖縄タイムスとIWJの記者さんもいる。警察車両と警察官によって強制排除させられようとしたが、留まった。一部始終を中継の画像を通じて最後まで目に焼き付けた。

「今回ほど機動隊の圧力はすさまじかった。怪我人続出、不法拘禁。オスプレイは迎え撃って、飛ばさせない、追い返す、基地撤去の闘い、運動にしていく。そのスタートが切れた」と最後まで闘った沖縄の弁護士さんの言。

沖縄の10万人以上の人々が一同に集まり異議を唱えようがなにしようが、知事さんが不快感をしめそうが、東京の政府はアメリカの言いなり。普天間基地にオスプレイを配備しようと警察力まで行使した。選挙前、民主党は沖縄の負担を軽減すると約束した。ところが、野田政権のこの仕打ち。鉄面皮の。数々の民意を踏みにじる民主党政権に正当性は感じられない。

2012年9月29日土曜日

プレ十五夜


昨日は西武池袋線の江古田でやっている望月さんの脱原発写真展に初めて顔を出し、つれあいと池袋で待ち合わせして官邸前の抗議行動に参加しました。

終了後、再び江古田にとって返し、あらためて写真展を鑑賞しました。そこにいらっしゃったみなさんと、望月さんの音頭で駅前の飲み屋で「いっぱい」やりました。みなさんとは、脱原発が接点で事実上の初対面(デモでは一緒だったみたい)。みな私たちよりは若い人たちで、楽しいひと時を過ごしました。「反原発・西武線沿線連合」が9月25日にできたそうです。ハナシは早いのですね。


「孫がいるご夫婦のようには見えなぁい」とかナントカ言われて内心喜んでおりましたね、酔っておりました。遅くから飲み始めましたので、帰り着きましたら最寄駅までの最終電車はなくなっていて、隣町から一時間の道のりを二人して林道を歩いて帰ってきました。帰り着いたのが午前2時、背中に汗びっしょりでした。それで、今日はちょっと寝不足でした。

 昨夜のお月様、日付でいうと今日ですが。今宵は曇って見えません。明日は十五夜。でも台風が来て観られるのかな…。

2012年9月28日金曜日

「領土問題」の悪循環を止めよう!――日本の市民のアピール


以下の内容に賛同して名を連ねた

「領土問題」の悪循環を止めよう!――日本の市民のアピール――2012928

1、「尖閣」「竹島」をめぐって、一連の問題が起き、日本周辺で緊張が高まっている。2009年に東アジア重視と対等な日米関係を打ち出した民主党政権の誕生、また2011年3月11日の東日本大震災の後、日本に同情と共感を寄せ、被災地に温家宝、李明博両首脳が入り、被災者を励ましたことなどを思い起こせば、現在の状況はまことに残念であり、悲しむべき事態であるといわざるを得ない。韓国、中国ともに日本にとって重要な友邦であり、ともに地域で平和と繁栄を築いていくパートナーである。経済的にも切っても切れない関係が築かれており、将来その関係の重要性は増していくことはあれ、減じることはありえない。私たち日本の市民は、現状を深く憂慮し、以下のように声明する。

2、現在の問題は「領土」をめぐる葛藤といわれるが、双方とも「歴史」(近代における日本のアジア侵略の歴史)問題を背景にしていることを忘れるわけにはいかない。李大統領の竹島(独島)訪問は、その背景に日本軍元「慰安婦」問題がある。昨年夏に韓国の憲法裁判所で出された判決に基づいて、昨年末、京都での首脳会談で李大統領が元「慰安婦」問題についての協議をもちかけたにもかかわらず、野田首相が正面から応えようとしなかったことが要因といわれる。李大統領は竹島(独島)訪問後の8月15日の光復節演説でも、日本に対し日本軍元「慰安婦」問題の「責任ある措置」を求めている。

 日本の竹島(独島)編入は日露戦争中の19052月、韓国(当時大韓帝国)の植民地化を進め、すでに外交権も奪いつつあった中でのものであった。韓国民にとっては、単なる「島」ではなく、侵略と植民地支配の起点であり、その象徴である。そのことを日本人は理解しなければならない。

また尖閣諸島(「釣魚島」=中国名・「釣魚台」=台湾名)も日清戦争の帰趨が見えた1895年1月に日本領土に組み入れられ、その3カ月後の下関条約で台湾、澎湖島が日本の植民地となった。いずれも、韓国、中国(当時清)が、もっとも弱く、外交的主張が不可能であった中での領有であった。

3、日中関係でいえば、今年は国交正常化40年であり、多くの友好行事が計画・準備されていた。友好を紛争に転じた原因は、石原都知事の尖閣購入宣言とそれを契機とした日本政府の国有化方針にある。これは、中国にとってみると、国交正常化以来の、領土問題を「棚上げする」という暗黙の「合意」に違反した、いわば「挑発」と映っても不思議ではない。この都知事の行動への日本国内の批判は弱かったといわざるをえない。(なお、野田政権が国有化方針を発表したのは7月7日であった。この日は、日本が中国侵略を本格化した盧溝橋事件(1937年)の日であり、中国では「7.7事変」と呼び、人々が決して忘れることのできない日付であることを想起すべきである)

4、領土問題はどの国のナショナリズムをも揺り動かす。国内の矛盾のはけ口として、権力者によって利用されるのはそのためである。一方の行動が、他方の行動を誘発し、それが次々にエスカレートして、やがて武力衝突などコントロール不能な事態に発展する危険性も否定できない。私たちはいかなる暴力の行使にも反対し、平和的な対話による問題の解決を主張する。それぞれの国の政治とメディアは、自国のナショナリズムを抑制し、冷静に対処する責任がある。悪循環に陥りつつあるときこそ、それを止め、歴史を振り返り、冷静さを呼びかけるメディアの役割は、いよいよ重要になる。

5、「領土」に関しては、「協議」「対話」を行なう以外にない。そのために、日本は「(尖閣諸島に)領土問題は存在しない」といった虚構の認識を改めるべきである。誰の目にも、「領土問題」「領土紛争」は存在している。この存在を認めなければ協議、交渉に入ることもできない。また「固有の領土」という概念も、いずれの側にとっても、本来ありえない概念といわなければならない。

6、少なくとも協議、交渉の間は、現状は維持されるべきであり、互いに挑発的な行動を抑制することが必要である。この問題にかかわる基本的なルール、行動規範を作るべきである。台湾の馬英九総統は、8月5日、「東シナ海平和イニシアティブ」を発表した。自らを抑制して対立をエスカレートしない、争いを棚上げして、対話のチャンネルを放棄しない、コンセンサスを求め、東シナ海における行動基準を定める――など、きわめて冷静で合理的な提案である。こうした声をもっと広げ、強めるべきである。

7、尖閣諸島とその周辺海域は、古来、台湾と沖縄など周辺漁民たちが漁をし、交流してきた生活の場であり、生産の海である。台湾と沖縄の漁民たちは、尖閣諸島が国家間の争いの焦点になることを望んでいない。私たちは、これら生活者の声を尊重すべきである。

8、日本は、自らの歴史問題(近代における近隣諸国への侵略)について認識し、反省し、それを誠実に表明することが何より重要である。これまで近隣諸国との間で結ばれた「日中共同声明」(1972)「日中平和友好条約」(1978)、あるいは「日韓パートナーシップ宣言」(1998)、「日朝平壌宣言」(2002)などを尊重し、また歴史認識をめぐって自ら発した「河野官房長官談話」(1993)「村山首相談話」(1995)「菅首相談話」(2010)などを再確認し、近隣との和解、友好、協力に向けた方向をより深めていく姿勢を示すべきである。また日韓、日中の政府間、あるいは民間で行われた歴史共同研究の成果や、日韓関係については、1910年の「韓国併合条約」の無効を訴えた「日韓知識人共同声明」(2010)も、改めて確認される必要がある。

9、こうした争いのある「領土」周辺の資源については、共同開発、共同利用以外にはありえない。主権は分割出来ないが、漁業を含む資源については共同で開発し管理し分配することが出来る。主権をめぐって衝突するのではなく、資源を分かち合い、利益を共有するための対話、協議をすべきである。私たちは、領土ナショナリズムを引き起こす紛争の種を、地域協力の核に転じなければならない。

10、こうした近隣諸国との葛藤を口実にした日米安保の強化、新垂直離着陸輸送機オスプレイ配備など、沖縄へのさらなる負担の増加をすべきでない。

11、最後に、私たちは「領土」をめぐり、政府間だけでなく、日・中・韓・沖・台の民間レベルで、互いに誠意と信義を重んじる未来志向の対話の仕組みを作ることを提案する。

来たれ!10.8さよなら原発 埼玉県民集会


いつもデモで一緒になる早崎仁さんや望月靖彦さんも呼びかけ人になっています。

埼玉県生活協同組合連合会(県内210万人)が音頭をとり、肥田舜太郎氏をはじめ、原水協と原水禁(平和運動センター)が共に参加し、被爆者協議会会長、地域婦人会連合会会長も発起人の集会です。

当日は、双葉町の井戸川町長さんもお話いただけることになっています。

また、県内で様々な活動を展開してきた人達からの報告と、「制服向上委員会」・埼玉合唱団の演奏のアトラクションがあります。



日 時:10月8日(月・祝日)午後1時30分~4時30分
場 所:さいたま市文化センター・大ホール(南浦和)
入 場:無料
プログラム:(アトラクション) 制服向上委員会
①、「内部被ばくと子どもの健康」 肥田舜太郎さん(医師)
②、「福島から見えてきたこと」 井戸川克隆さん(双葉町長)
③、「ジャーナリストの目から見た福島原発事故」 鎌田慧さん(ジャーナリスト)

2012年9月27日木曜日

植物対話




山梨の北杜市の方たちが都内の駅頭で観光宣伝をしていたときにいただいたナデシコの苗。四月のことだった、プランターに植えたら盛んに咲いた。もう枯れてもよいのだが、朝夕に水遣りをして心の中で話しかけた。けなげにもまだ咲き続けた。ここのところ、雨が降るので水遣りを省いたら咲かない。今日も雲行きがあやしいが、水遣りをすることにした。頑張ってね、あっ、無理しなくてもいいよとも、心の中でつぶやきながら。

この夏三回目の鉢の植え替えをした蘇鉄。赤ちゃんの苗のときから一緒。奄美から連れてきたので「アマミちゃん」と呼んで向き合っている。かいあって、ぐんぐんと芽が出てきた。

 みんな、きっと、わかるんだ。

2012年9月26日水曜日

こうちゃんがおにいちゃんに


後日発見されたお母さんの車
 気仙沼の魚町育ちのこうちゃんはあのとき2歳半でした。もう片言のおしゃべりができるようになっていました。あの日、お母さんと一緒に一関に行っていました。その帰り道のことです、とても大きな地震があったのは。お母さんは心配になって車を飛ばして急いでお家に帰ります。近所のお米屋さんの角を曲がって、すぐそこにお家が見えたときです。道路に水が。それがみるみる大きくなって向かってきます。一瞬で怖くなって、車を捨てて逃げ出しますが、あっという間に水がお母さんの背の高さに。車が流されていきます。なにがどうなっているんだか。こうちゃんはお母さんの腕に抱えられたままです。必死にこっちだよって、聞き覚えのあるお米屋さんのおばあちゃんの声。水に呑まれながら、無我夢中でお米屋さんの2階に救われたときのことは、お母さんもよく覚えていません。びしょぬれになって、こわくて、寒くて。暗くなってジージ、バーバ、ジッチャン、バッチャン、ミノルおじちゃん、パパ、みんなどうしたんだろうって。こうちゃんは、そのときのことをところどころ覚えています。あれから、ジッチャン、バッチャンには会っていません。

 今日、そんなこうちゃんにいいことがありました。おとうとが生まれたのです。3200gですって。こうちゃんによく似た目鼻のおとうとでした。こうちゃんたちには、高田の田舎に、冬が来る前に家ができます。そうしたら、また、ジージ、バーバ、ミノルおじちゃんたちと一緒に住めます。でも、ジッチャン、バッチャンがいません。どうしたんだろう。

2012年9月25日火曜日

理性よ興れ


連日の右倣いの「領土問題報導(報道ではない)」にウンザリしている。仕掛け人の「愛国者」慎太郎さんの“思う壷”。まさにはまっている。

キリッ!!
一方、「領土問題は存在しない(尖閣列島)」と「竹島は島根県であって、出るところに出よう」というダブルスタンダードの立場でまさに「お池にはまってさあ大変」の政府にもあきれ果てている。

国内外で能面よろしくシラァっと多数の民意と人の尊厳誇りを切り捨てにし踏みにじり、ここまでこじらせたのはノダくんの面目躍如とするところか。たまったものではない。

ひたすら対立を煽り、悠久の東アジアのひとびとの友好を壊して利益を得る者たちはいったい誰だ?権力を維持し資源を開発して金儲けをしたい1%にも満たぬ強欲な輩たちだろう。前線に立たされるのは現場の公務員やいずれ99%の若者たちになるぞ。そして泣くのは弱者だ!板挟みになるひとたちだ…。

ひとびとよ、踊らされるな!!!ほんとうに愛すべきものは国か?人か?

2012年9月24日月曜日

11・4「さよなら原発パレードin所沢」

これは練馬で企画されたときのチラシ

 埼玉県所沢の「さよなら原発パレード」は数ある自然発生的なというか、ツィッターデモというか、そういう脱原発デモの埼玉県内の発端になった「走り」のひとつだと認識している。風説によれば、ツィッターのやりとりがきっかけで呼びかけ人となった人は顔合わせしてみたら、自称ウヨクと正真正銘のサヨクの方だったと聞いている。それが昨年の9月10日のことだ。それから各地にどんどん広がって今日に至る。所沢では今年の3月17日に2回目が催された。
 
 それで、次回3回目は11月4日(日)に決まった。毎週金曜日の官邸前抗議行動やほかのデモにくらべれば、老舗の割には亀さんのような歩みで、それなりのマイペースだ。日頃は、独自の学習会や所沢市役所への放射能対策の一元化の要請など地道な活動も積み上げてきている。まだ先のハナシになるが映画『東京原発』(2004年公開)の上映会を12月に開催しようと計画もされている。
シンボルカラーは黄色

 シンボルカラーは黄色にしようと決まっていたはずだ。それで、3月からこれまでの間、私はいくつか黄色いものを買い揃えた。だが、待ちくたびれた。

 黄色いTシャツ、これはブラジルのサッカーチームのものを特売品で手に入れた。ランナー用帽子の黄色があった、これはちと高かった。普段被っていると、町ですれちがう集団下校の一年生と同じように見えて具合が悪い。生協のカタログで黄色いプラスチック製のバケツがあったので注文した。案外りっぱなものでまだ使っていない。鳴り物か被り物かなんかに使えないかなと思案はしている。おかしいかな。

2012年9月23日日曜日

「しあわせにしてみせますx」


 結婚する前も、したときも、両親に対面したときも、そういう趣旨のことを言ったと思います。それで中年を過ぎたころから、寝る前に「あなたは私と一緒になって幸せでしたか?」というのがいつしか口癖になりました。「はいはい」とか「そんなときもあります」とか、機嫌の悪い時は「不幸な結婚生活でした」とかビシっと言われます。こんな毎度の問い掛けも多少偽善くさくもありますが、半分本気で問うています。よかったのだろうか、と。
 出遭って39年、一緒になって34年。年季を重ねています。今日はお昼におはぎを食べました。

2012年9月22日土曜日

背筋を伸ばせば

隣町に通じる林の中の一本道

 お腹に力を入れると横隔膜をあげることになります。背筋を伸ばせば胸を張ることになります。胸を張って生きると、美しくみえます。胸を張って生きるとは、にんげんとしてやましいことのないということでなければなりません。つまり、にんげんとしての中味も大事になってきます。腹筋・背筋を鍛えようというのは、外見だけでなく内面も美しく生きようとするきっかけにもなります。腹筋・背筋などを鍛えたいと考えています<(^´)>。私のにんげんも鍛えなければいけないのですが(・・;)・・・。

2012年9月21日金曜日

誘導する巨大メディア


 党員ならともかく、民主党の代表選や自民党の総裁選の内容をテレビや新聞で逐一報道されたりしても、迷惑なものです。まして、街頭演説なんて道端を行く人のほとんどが関係ないのではないでしょうか。民主党や自民党の頭を決めるのは明日の日本の頭を決めるのと同じだからという論理で、公共の電波にのり大新聞に大々的に報じられますが、あくまでもそれぞれの党の中のセレモニーです。私にはどっちらけです。
 一方、まるで期待の星で「第三極」であるかのように勝手に報道されている橋下日本維新のことも、ひどいものです。主張していることは民主・自民の延長線上の小泉的タカ派で単なる海千山千。その他の元自民の党派もそう変わるものではありません。第三極であれば、共産、社民、緑の党などの主張や動向をこそとりあげるべきです。

2012年9月20日木曜日

無茶なくちゃな


 かつて「造反有理」が猛威を振るい人々を不幸に貶めた時代があった。四文字熟語は中国が本場だが、現代中国はときに自分に都合のよい熟語をつくりだす。今度は「愛国無罪」。和声四文字熟語で反すなら「無茶苦茶」だ。深刻なのは両方とも暴力や破壊がともなうことだ。誼を通じ敬愛すべき隣人どうしではあるが「愛国無罪」にはついていけない。
 やはり、背景には意図があっての「やらせ放題」、あるいは作為、おどろおどろしい権力というものがついていることが明らかになりつつある。

2012年9月19日水曜日

ひとり王子様


 ♬柱のきずはおととしの~♫ 柱にキズは刻みたくないので「メジャー・フレーム」を買い求めておりました。ソータローは7月の末に2歳になりました。身長約85cmでした。

 いとこのタイチくんには4か月前に弟が生まれました。それで、ひとり王子様が終わり、おかあさんはイクタくんのものになりました。

 親子3人で大分から初めてやってきたタイチくんは、いきなり叔母のシホさんに抱き着き甘えます。こちらのひとり王子様のソータローは母を突然奪われ唖然。空前絶後のような出来事になす術もなく、かといって2歳年上のタイチくんに立ち向かうわけにもいかず、結局おかあさんにやつあたり。まるで「ほかのオトコに抱かれるとはなにごとダ」といわんばかり。うちべんけいの我が家のお孫ちゃんやいかに…。そのタイチくんは計ってみれば身長約98cm。

 今宵のお客様は大分からやってきたシホさんの母と姉一家、にぎやかな接待の我が家でした。パパは長時間労働で参加できず、お寿司の折りと宴会の残りものを持たせました。11時過ぎに帰宅したそうです。

2012年9月18日火曜日

実りのゴーヤ


 6月の末に植えたゴーヤ。名前はわすれましたが、たしか沖縄で使われている品種だったと記憶しています。もともと売れ残りで、植えても一度花が咲いたっきりへたっておりましたが、1か月前ほどから急にめきめきと伸びてまいりまして、このたび実がなり、しかも大きくなってきました。つれあいは黄色くならないうちに早く食べようと言いますが、私はまぁ待てと言っておるところです。
 どこぞのひとは黄色くしたと書いてあったなぁ。

2012年9月17日月曜日

高いところ


私は生来の高所恐怖症。それで、募集はハイキングだというのだけれども、岩場がある。クサリ場だってたしかあった。それで前回懲りた。んなことたいしたことはないのだろうけど、ちょっと迷っている。どこかって?妙義山。申し込みは来週の水曜日。

2012年9月15日土曜日

谷山先生


 学校の前は一面田んぼでした。田んぼではスミレの花は咲き終わり、畑の菜の花も終わり、校庭の桜が咲いている頃でしょうか、小学校にあがりました。考えてみればもう半世紀以上も前のことです。あるとき、滅多に私の面倒はみない父親が珍しく私を散歩に連れていきました、それは小学校への通学路を教えるためだと終わってみてわかりました。母親が託したのでしょう。途中にある「暮川(くれがわ)」という小川の水面が春の日差しをきらきらと映していました。

 入学してみれば、クラスは5つあって私は1年1組。なんだか、わけもなくやったと思いましたね。でも、幼友達のヒロキくんとは別のクラスになりました。校舎には暗いままでガラ空きの教室がいくつか並んでいました。もとは11クラスあったそうです。入ったばかりの一年生には少し不気味でしたので、今でも印象に残っています。当時、私たちが生涯、「団塊の世代」のみなさんの次を歩むことの自覚はまったくありませんでした。

 それまで「わいどん(汝どん)とおいどん(俺どん)」で遊んでいたのが、その日から共通弁を教え込まれて「君と僕」になりました。クラスにはお金持ちの子も貧乏な家庭の子もいましたが、まだ、たかがしれた「格差」でした。

 学校にあがる前にひらがなの読み書きはすっかりできていて、もう漢字に興味がありました。落ちこぼれることはなく授業は楽しかったです。みんな、同じようで活き活きしていたのではないでしょうか。先生がチョークで丁寧に書くひらがなはとても美しく、いつも尊敬の眼差しで黒板を見上げておりました。

 満面の笑みを浮かべ、5本の大きな指で頭をずかっとつかみ、「おまいたちゃ、もじょかね」(お前たちはかわいいね)と言ってゆさぶる仕草が、担任の谷山先生の愛情表現でした。ときに先生は感極まって力を入れますから、さすがに「せんせー、痛かが」と言ってふりほどきましたねぇ。ひとりひとりを苗字ではなく名前で呼び、まるで遊んでくれるように接していました。今でいう「成果」とか、出世とかには縁もゆかりもないようなベテランの男先生でした。

 教室の姿とか、教育とか私はこういうものだと今でも思っています。

2012年9月13日木曜日

ひとのかがやき


土曜日の夜、野外音楽のイベント。バイオリンにあわせてバレリーナが踊ります。
立ち見でおりました。
踊り子が去って、バイオリンの独奏。
となりでザワッと気配がします。
うちの妻というひとが踊り出しそうなそぶり。最近すこし心得があるそうです。全身を使うのだと…。
タジッとして、ひいてしまいました(踊りはしませんでしたが)。
かがやきをみました。

2012年9月12日水曜日

無職無所属2年目


夜更かしをする。年をとったせいか朝は早く起きる。朝寝も昼寝もできると思っていたが、意外とそうしない。
吹きだして腹がよじれないように腹筋を鍛え、のけぞって大笑いができるように背筋も鍛錬している。涙腺だけは鍛えようがない。
組織の恩恵を被り人の世話になってきておきながら、組織に属さず人の傘下に入らぬ人生を選択して、昨日から2年目に入った。ただし、この6月からつれあいの扶養家族にはなっている。
はぐれもん、これを地でいっている。こぼしでもなく、自慢でもない、なんでもない。

2012年9月11日火曜日

あれから1年と半年の復興


三陸沿岸部に住む家族は多くの犠牲者を出しました。
JR気仙沼線の志津川駅前にはチリ地震津波(1960年)当時、津波の高さがここまで到達したという警鐘を示す柱がありました。昔、つれあいの叔父の一家はつれあいの実家から分家し、この町で商売を始め居を構えておりましたが、その被害に遭いました。それに懲りて、当時はまだ珍しかった店舗兼住宅を三階建てにして再出発しました。商売も順調で羽振りもよかったころのことです。私はつれあいの実家でこの義理の叔父に会うことはあっても、家を訪ねたことはありませんでした。それが偶然、夫婦ふたりで志津川の駅で降ろされ、一日にほんの数本しかない列車を二時間も待つことがあり、それならと私から叔父さんの家を訪ねてみようと提案しました。つれあいはうろ覚えで家がどこにあるか知りません。私は聞いた話で見当がつき、昔ながらの市街に行けばだいたいわかるだろうということで、歩いて行き迷うことなく見つけ当てました。2010年6月のことです。歓待してもらいましたが、それが最初で最後になりました。そのわずか9カ月後、チリ地震津波とは比較にならない3・11の大津波がここを襲いましたことは周知のとおりです。
一家三代7人のうち6人が亡くなりました、もちろん家は消失。ただ一人生き残った叔父の孫も、逃げているところを偶然通りかかった車に拾われて助かったもので、紙一重の命拾いだったそうです。叔父ら2人の遺体は路上でみつかったそうです。あとの4人はなかなかみつからず、ずっとあとになってDNA鑑定で判明しました。
2012年6月陸前高田市庁舎跡にて
つれあいの実家も、陸前高田の姪の夫の叔母の家も、仙台の姪も、それぞれが大津波の被害に遭遇しました。
実家と叔父の一家とは大きな被害に遭った“お互いさま”どうしで、しばらくのあいだ援けあうこともできませんでした。兄も弟も夫婦どうしで、弟は子も孫も亡くなり、住む家も失うという構図でしたから。そんな例は少しも珍しくなく、それほど広範で未曽有な被害でした。
惨状が報じられて、なんとか救援したい!というあの直後の思いで支援は寄せられました。今も地道な支援は続いています。また、復興のための膨大な国家予算もつけられたはずでした。しかし、被災地では復興の遅れにたいするいらだちがあると報じられています(NHK仙台放送局 畠山アナウンサー)。


http://www.dailymotion.com/video/xtgdwr_yyyyyyyy-yyyyyy-yy-yyyyyyyy_news

9日日曜日放送のNHKのスペシャル東日本大震災「追跡 復興予算19兆円」。この番組を観ていてつれあいはあきれ果てていました。復興のためとこれから増税を行いながら、復興になんの関係があるのかというような、とってつけたような巨額の予算の使い方。むらがったとしか言いようのない予算の配分。これら事実を積み上げて検証し、告発する内容となっています。つまり復興予算が被災地に有効に使われていない、それどころか実際に使われていないということにたいして、後からじわりじわりと怒りが湧いてきたようでした。結局、あれほどの被害にあいながら被災者は生活再建をほとんど自力でなんとかしていかなければいけない現実。なんとも言えない、はがゆい気持ちでいっぱいです。

2012年9月10日月曜日

季節のさんまづくし


先週の金曜日、土曜日と立て続けに三陸からさんまを送っていただきました。ちょっとうれしい悲鳴となりました。ご近所におすそ分けをしたあと、金曜日は刺身と塩焼きで。

つれあいが奮起。土曜日は新しいメニューに挑戦、おろし酢和え、さつま揚げ風、&塩焼きで。中骨は骨せんべいに、つれあいの手ほどきで私が「中火でじっくり」と揚げてうまくできました。また、生姜煮にして保存食に(これは今晩食べました)。

開きにして天日干しにしたのは、土曜日と日曜日。鮮度抜群の魚を生から干したせいか艶が出て、焼いて骨まで食べられました、その美味しかったこと。日曜日のメニューです。

突然のこと


今、つれあいのパソコンを借りています。今朝ほど、私のパソコンが突然英語だらけの画面になりました。やられたなと思い、購入したY電気に持って行き診てもらいましたところ、ウイルス感染とのこと。1万円前後の費用と最悪初期化もありうるとの前提でウィルス除去のための「入院」となりました。

自殺という郵政民営化・金融相の松下忠洋さん。ふるさとの人で、兄の高校時代以来の友人でした。当時、私の家にも泊まったことがあったそうです。そんなことで上の姉は、松下さんが高級官僚、代議士先生となっても、気にもせず声をかけていたそうです。私は歳が離れ過ぎていてまったく存じ上げません。何があったのかわかりませんが、ご冥福を祈ります。

6月末に植えたゴーヤ。1ヶ月ほどはあまり育たず、もうだめかと思っておりましたら8月あたりからにわかに弦が伸び始め、あわてて網を張りました。そして、数日前から実がなり始めましたのを見つけました。ご近所の畑には、もう栗がなっているというのに。

2012年9月9日日曜日

9・9沖縄連帯『国会包囲』


ふたりで東京に行ってきました。『9・9オスプレイ配備反対の沖縄県民大会』に連帯して呼びかけられた同時アクション『国会包囲』行動に参加するためです。岩国でも同時に連帯の集会が開かれました。まだまだ暑い日曜日でした。

どうやらうちの近所の踏切で人身事故があったらしく出発が遅れました。到着したのは開始の11時を大きくまわっておりました。永田町駅を地上に出ますと、案内の人がおりました。いつもの通り警備の警官と機動隊のバスはずらりと並んでいます。金曜日の原発再稼働反対の官邸前抗議行動の賑わうような規模には及びませんが、国会正門前まで行きましたら大勢の人々がおりほっとしました。呼びかけ人の一人高橋哲哉さんのあいさつで、同時進行の沖縄の県民大会も成功しつつあることや仲井間知事の挨拶の代読(!)に会場からブーイングが沸き起こったことなどの報告が聞こえてきました。思わず、沖縄の知事さんには(あ~あ)という感じです。12時より人間の鎖で国会を包囲するということで、正門あたりからみんなが拡散していきます。12時20分ごろ包囲がつながったとのことで、みなで思わず拍手しておりました。主催者から沖縄では10万1千人の参加者、国会包囲が1万人との発表がなされました。

各々が手をつないでひろがり、民意を主張する「人間の鎖」のなかに居りました。危険なオスプレイの配備をするな、それには米軍基地をなくせ。それはどうしても日米安保体制という従属的な軍事同盟に行きつきます。この「国是国策」とされてきた日米関係を民意として問い直すことになります。原発も、TPPも突き詰めていけば日米安保という「何でもアメリカの言う通りでございますという政策」の根本の問題に突き当たります。問答無用のオスプレイ配備にそれが象徴されているまでのことです。沖縄に押し付けられているという「差別の構造」の問題でもあります。


人間の鎖に移動中、いつも出遭う「ジンタらムータ」さんたちとすれ違いました。この人たちの音曲になんだかなごむのです。解散後は、手慣れた感じで後片付けをするお巡りさんたちとすれ違い、最後にカンパを入れて永田町をあとにしました。なにも為さずに平和に生きていくということにはならない、そう考えながら。

2012年9月7日金曜日

我が家の初さんま


 今朝突然、さんまが届いた。つれあいの親友からだ。昨日のニュースで気仙沼にも秋刀魚の水揚げがあったのを聞いてはいた。早速、つれあいに連絡した。友達も被災者仲間、ううん、気にしないで気仙沼もここまで復興したよという意味で送ったから、とのこと。あの当時一緒に泣いた。
 半分、息子のところに届けに行った、刺身でも食えと。
 夕方、こんどは邦雄さんからも送ったからと連絡があった。あわわわわ。この時期、うれしい悲鳴!(^^)!。気仙沼港が三陸で一番の水揚げ量を女川港に抜かれて久しい。
 復興への二年目の秋。「悲しみを乗り越えてともに歩もう―希望・未来―」はあの直後の地元みやぎ生協の呼びかけ。それを想い起す。福一事故の人災で思いもよらず一筋縄では行かない道のりだけれども…。
 三陸のさんま、大事にいただいた。

2012年9月6日木曜日

みなの幸せ


 時間までに保育園に迎えに行かれないからと連絡があって、シホさんにいつものように代理をたのまれた。母親が迎えにくると思っていたから、孫のソータローは我が家に来てもしばらく口をきかない。自我ができつつあり成長している。

 あの事件の母子がどんな境遇だったか。いかなる事情やどのような心理にあったのか知らない。なにがそうさせたのかも知らない。
 この世に生を受け、あたたかい乳を授かり、やわらかい乳房に触れ、包むような抱擁をうけたであろう。その幼児(おさなご)の目に邪心があろうはずがない。いつからか夜叉(やしゃ)と化した母親に、泣きじゃくり怯えながらもすがりついたであろうわずか5歳の幼子(おさなご)。繰り返される折檻に、泣きじゃくり怯えながらもそれでも猶すがりついたことだろう。痛み苦しみにいかに恐怖したとしても、虐げる母親に援けを乞うしかなかったはずだ。意識を失うまでに至り、わずかな生涯を閉ざされた幼子の不憫。母子の不幸せ。

 このような報道に、人生幾度か遭遇するようになっている。耳を塞ぎたくなるほど、いつもつらい。…。
 私は幸い子に恵まれ、そして孫にも恵まれつつある。私や私の家族が幸せでありたいけれども、私や私の家族だけが幸せでありたいとは思わない。みんなが幸せでありたいと願っている。

 内弁慶の王子様も7月に2歳を過ぎて、だいぶしゃべれるようになった。かわいい盛りだ。

2012年9月5日水曜日

自分のこと

 私は友達がそう多くない。つい人間関係に身構えてしまう性癖があるからかもしれない。

 Mさんは不審な死に方をした。大きなターミナル駅のホームから転落して轢死。事故死と決着したが、自殺だったのではとささやかれた。随分以前のことだ。

 私みたいなヤツを「いいにんげんにきまってる」といつも贔屓してくれた。私がどんな人間かそう深くも付き合っていないハナから。私も悪い気はしない。Mさんは人をみな性善説でみているかというと案外そうでもなかった。心根の優しさを持ち理想家で、また一方、強い自尊心の持ち主でもあった。すごく慕う人がある反面、“きれいごと”を言うMさんに敵も多かった。女性にももてたと思うが独身だった。わかるような気がする。

 出世もしていたがいつも悩んでいるようで酒に溺れた。定刻に出てこないなど不始末を重ねる。私が出遭ったのはそのころだ。それで、いつしか閑職に追いやられた。地位を「慕っていた」人たちは離れていった。いつかフロアが一緒になり資料庫で鉢合わせすることがあった、「寂しいでしょ」と親しみをこめてジャブを放ったら、いつもの赤ら顔に満面の笑みで「全然っ」と応酬した。「お前はいいやつだ」と言って。

 あのとき慕う人たちで偲ぶ会をやったらしいが、私は出なかった。くやしかったから。あんなやけな死に方。

 深酒をして終電車をはずしては、Mさんの家に泊めてもらった。お母さんと二人暮らしだった。また、ほかの彼の付き合いの人の家に一緒にころがりこんだりもした。世はバブルに沸いていた。子だくさんの我が家にもなんどか泊まってもらった。しばらくの間お正月に来てもらうことも続いた。

 あらためて振り返ってみれば、わたしみたいなヤツをほとんど無条件にいいやつだと信じてくれるひとが片手ぐらいはいるように思える。思い過ごしかもしれないけれど。自身を見つめるとき不思議でならない。自分だったら、こんな役立たずで付き合いたくないヤツはいないと思うから。

2012年9月4日火曜日

季節のものを


 すこやかに生きる、秋には秋のものを食べることでしょ、もう冷たいものは食べないことってインストラクターのみつもりさんが言ってましたね。このひとはスタジオの冷房・暖房をあまりいれません。終わればいつも汗だくです。

 さて、息子のお嫁さんの里から富山の梨をいただいておりました。東北や地元の茄子をいただいたり買ったりしています。そういえば最近、ゴーヤの味噌炒めから茄子の味噌炒めに切り替えています。個配の生協で来る冷凍のひき肉は便利に使えますね。つれあいに腕あがったじゃんと言われています。ナントカのひとつ覚えなのですが、文句言わずに到達度評価をしてくれるひとです。

2012年9月3日月曜日

私の散髪


私は毎日“土曜日”つまり”明日も休み”なのですが、夏休み終了前の昨日、髪を刈ってもらいました。つれあいにやってもらっています。最後に床屋さんに行ったのはいつの昔だったでしょう。もう覚えていません。電気バリカンで、そう五分もかかりませんね。毎回、えっ、もう終わり?と訊いています。おとうさんはみっともない禿ではないから、大丈夫よと言ってくれます。重層的な意味が含まれた癒しの言葉をかけてもらいます。髪さえあればと私は思うのですが、中味が大事よと言うつれあいの方が、人間ができています。

 我が家では二代目の電気バリカンです(2004年に購入)。ある程度のショートヘアーのスタイルができる多機能なアタッチメントを備えているのですが、それらを使ったことがありません。これからも使うことはないでしょう。使うのは3-6mmのアタッチメントのみ。要するにごく短い坊主頭用。

「ああ、シャンプーがしてぇ、リンスもしてみてぇ!」(NHKこころ旅の火野正平さん)

女川の初さんま水揚げ

画像は @TwitPicさんから


 本日の報道によれば、三陸の女川でさんまが初水揚げ。型も良好!脂も結構ありそうとのこと。

 まずは刺身!つみれ汁!さんま鮨、骨せんべい 、塩焼き、…あとは蒲焼き、しょうが煮だったっけ…。

『東京原発』


 この映画『東京原発』2004年に公開されてテレビではなぜか放送されない。

 これがお気に入りで、だったら、みんなで鑑賞しましょうよと熱心な方がいます。それで8月に練馬で上映会とお茶会を実施されたそうです。こんどは所沢でも上映しようと提案されています。FB(フェイスブック)をのぞいておりましたら福岡の方でも上映会があったそうです。どこに離れていても心は通じ合うものですね。

 この映画、娯楽的にも優れていて、3・11以降のあの原発事故があってなおリアルに迫ってきます。ブラックジョークみたいなものをとうに通り超していまして、原発って背筋が凍る代物なんだなあという実感が湧いてきます。
 
 ぜひ機会をつくって、いっしょにご覧になりませんか。

2012年9月2日日曜日

洗濯用粉せっけん3kg


 あるときこの「米ぬか粉せっけん3kg」を使い終わり、また、新しいのを使い始めました。
 毎回ぬるま湯で丁寧に溶かしながら、そして仕上がりのお日様の恵みの風合いを味わっています。3kgとは、いまどきなかなかのボリュームがあって、なにかプチ達成感というか一区切りというような妙な感慨がありましたね。
 主夫業を始める前から洗濯は私の家庭内役割、大昔は泣きながらたくさんのおしめも干したものでした。それも今は昔。
 歳を重ねながら、便利であれば幸せなのかどうかしばし考えさせられます。

 つれあいは明日から夏休み明けのお仕事。今日の関東は久方の雨、さっ、あしたもがんばろ。

2012年9月1日土曜日

気が充満


 昨夜の満月。
 チャージしなさいという啓示のような智恵さんの勧めに、さかなのポーズ。おっ、おっ、お。〝まいりました″のようなうさぎのポーズ。とっ、とっ、と。
“満月様”からパワーをいただく。“気”は繋がり繋がっている…。

 明くる本日は朝から家じゅうをお掃除。夕方には長男、二男の息子たち夫婦と孫三人も集まって二男の三日遅れのお誕生日会。孫の双子ちゃんは初めての来訪。

 元気、元気。