2012年3月20日火曜日

春のいちにち


目が痛かゆい。3月6日から続いている。

私らの小さいころにハッポースチロールの箱があったら、きっと遊び道具になっていただろうにねと、つれあいに語りかけた。欠けた瓦でも缶缶でもなんでも使って遊んだよね。今朝はプラのゴミの日、そして祝日でも休めない二男夫婦の子を預かっている。

姉の考えを参考にして、牛乳パックをブロック状にしたり、ちょっと気の利いた空き箱やラップの芯などをおもちゃにして遊ばせようとしたりしているが、そう思うようにはいかない。ハッポースチロールの箱ににんまりとしている。

風評被害で厚岸の毛ガニ、直売店では震災直後売上が例年の1割以下に落ち込んだ。現在も震災前の水準には戻っていないそうだ。そんなニュースをNHKでついこのあいだやっていた。その毛ガニを今年もいただいた。今年もというのは、去年もいただいたのだがちょうど3・11の直後だったことを思いだしたからだ。お礼の電話をいれたら、小走さんは今年で90になるらしい。もうスキーもおしまいですと言っていた。

今日は日差しがはいる。王子様は洋ダンスの鏡を開けたり閉めたりするのが好きで、洗面所にある体重計のデジタル数字が動くのに興味がある。台所の分別ゴミ箱を開けるのも好きだ。走りまわる。

ハッポースチロールの箱をひもで結んで捨ててきた。夜は暖かいものでもつくろう。


2012年3月17日土曜日

3・17さよなら原発in所沢


雨ニモマケズ、風ニモマケズ、ホメラレモセズ、

317さよなら原発in所沢のパレード参加者約260名。
原発要らない、輸出はするな、子どもを守れ、青空守れ、母親守れ、未来を守れ、自然を守れ、給食守れ、牛乳守れ、福島を救え、再処理反対、電気は足りる、再稼働するな、ハイロ廃炉、…訴え歩き通しました。
パレードに先立つ集いでは、澤地久枝さんのメッセージが紹介されました。
若いお母さんたちのグループ。食べ物や健康、子育てが心配だ。勉強もして、行政とも話し合った。それで代わり番コで準備の会合にも加わったと訴え。親子連れの参加。
福島県川内村から昨年の3月18日にたまたま所沢にたどりついてきた。いきなり避難しろといわれて狼狽しない人がいるでしょうか、どこへどう行けばいいのか、恐怖から逃げるってどういうことか。所沢に来て所沢はあまりにもヘイワだと思いました、という男性の発言がありました。まだ、原発事故は終わったわけではない(他人事ではないのだ)と。
3・11以降、あのとき所沢の高校生はなにかをしなければいけないと立ち上がった。それぞれの高校で自発的にそれぞれの行動をした。ある生徒会は航空公園駅頭に立ち6桁の募金を集めた。ある高校では話し合い高校ぐるみでバスを仕立てて東北の被災地に支援に出かけました、という報告が紹介されました。
パレードを終えたあと、「皆さんとは隔たりがありますが、19日には夕方から銀座で“右からの”反原発行動があります、参加してください」なんて参加者のひとりが訴えていましたネ。いろんな立場から、今の事態を憂えているんです。
雨天で支援バザーのイベントは事前に取り止め。
でも、パレード中は幸い傘をさすほどの雨ではありませんでした。
やりきりましたね。振り返りをして、また、やります。続けます。

2012年3月16日金曜日

東北の義理の甥っこへ


私も同じでムコの立場、私には義父母になるけれども、こうやって弔ってくれてうれしい。

隣町の所沢の市職労は陸前高田の支援に入っています。先日集会を持ち、小友保育所と長部保育所の保育士の先生お二人に来ていただいてお話を聞く機会がありました。深夜バスで来て、そちらでインフルエンザが流行って対応しなければいけないとのことで泊まらずにまた深夜バスで帰っていきました。頭の下がる思いです。

被災地のことに目をそむけたり、忘れようとしたり、自分のことだけを考えたりしようとしている人たちがいることも実感ですが、地道に支援をしたり寄り添いたいと考えて行動している人たちもたくさんいることも事実です。
国や腕力のある政治家に言われなくとも、ガレキの受け入れは被災をしなかった我々自身が受け入れるよう努力すべきです。我々の自治体を動かして受け入れるよう働きかけ、また、受け入れる提案に賛成していきます。「支援をしているつもり」と言いながら、実はこころない態度に悲しくなります。

こうちゃんかわいいね。
うちも孫が3人になったよ。
嫁さんにもよろしく。じゃ、また

以下、転載
ブログ「大震災から1年を迎えて (その2)20120311 1343

ここだけ時が止まったかのようです。
(つれあいの実家の止まった掛け時計の画像が掲載)

僕は未だ、『じいちゃん、ばあちゃんを助けられたのでは?』

と悔やんでいます。

この気持ちは一生変わることはないでしょう

じいちゃん、ばあちゃんがここで生きた証も

間もなく、解体という現実にさらされてしまいます。

でも、私達が生き続けて、じいちゃん、ばあちゃんが、

ここで暮らしたこと、身をもって津波の恐ろしさを

教えてくれたことを、絶対に忘れず、きっと

子や孫に伝えていくからね。


なんか胸がいっぱいで何を

ことばにしても空虚な感じがして

申し訳ありません。

安らかにお眠り下さい

合掌

2012年3月15日木曜日

落胆


沸点に達した、いらつきが。だから、そういうしゃべり方をしていただろう自分に気づきながら、ついまくし立ててしまう。それじゃ説得性は半減以下なのだが。

いったい何をしたいんだろう、この人たちの一部は。誰かがやってくれると思っているのではないか。これじゃカッコウの子育てだ。

上っ面だけの報告で、それでどうしたいと考えているのか。何回、会合が開かれても提起も行動もいつも先送りだ。それに代わる分析や洞察もない。都合が悪くなると相手のいるハナシという。

時系列はむちゃくちゃだし、あいかわらず違う数字もちらっと出されたりして大風呂敷だ。

ここに至って、どうしなければならないかということを数字も示すことができたし、口すっぱく具体的な例も示しながら提起するのだが(苛立って言うべきではなかった)、のれんに腕押し。

自分たちはいいことをやっているという主観のみが強く、客観的にどうあるべきかという課題や問題をみつけられないようだ。強い拒否反応。そして、とっちらかし。もうほかのことに興味が行っている。自己満足、一種の集団催眠。

若い人の地に足着いた提案にやっと息が付く。
迷走を正せない自分の力不足。走るか、逃げるか、苛立つか。

2012年3月13日火曜日

瓦礫処理の分担に


今日は晴れたので、椎茸をお日さまに干す。

「福島産」とか、津波被災にもかかわらず生産を再開し始めた「東北の産物」とか、みかけてしまえば、つい見境もなく買ってしまう。腹の底に風評にたいする怒りがあって、カッとなっているからだ。そういうことでしか態度を現わせない、口はへただ。ただ、見境がないのでときどきつれあいにおこられている。

去年の暮のこと。「売れねぇんだ、せぇっかくつくったども…」と岩手の上野さんがぼそっとつぶやいた干し椎茸を、「よしっ」と言って2kgも買ってしまったのも同じ勢いだ。酒の席だったけれども。私の気が変わらないうちに万札を払った。2kgの干し椎茸といえば重くはないが、嵩は米一俵分ぐらいあった。翌日、これを担いでというか、ぶら下げてというか電車を乗り継いで岩手から持って帰ってきた。このときはつれあいにあきれられたが、おこられはしなかった。知り合いにお裾分けをして、今は、せっせと食べている。こんなおいしい椎茸を、毎日戻してぜいたくな鍋や味噌汁にしている。味噌汁は飯舘村産の「さすのみそ」や神川で製造された玄米味噌だ。

九州の生まれで嗜好からすれば、麦味噌や青いネギの方が好きだ。それはそれとして、東北や関東のものを区別せず、差別せず食べ続けるつもりだ。

そして、自分の住む自治体(県や市)が東北のガレキ(瓦礫)の受け入れをするように望むし、受け入れることに断固賛成する!

2012年3月12日月曜日

確定申告初体験

毎年、つれあいに渡しておいた年末調整のための諸票を返してもらって、職場で当該の画面に打ち込んだのち総務に提出する。職場に「あとはお任せね」で済んでいた。

途中離職をしたので、生まれて初めて「確定申告」をした。

なんだかよくわからない。いろいろな証明書が来ていたのが、今年の場合は当然多い。まず、それを探し出した。ぐずぐずしているので、いつかつれあいが仕事のついでに税務署に寄って該当する申告書の用紙をもらってきてくれた。つぎに、「てびき」を読むのだがなにを書いてあるのかわからない、3行読んだだけで読む気がしない。ずっと、先送りしていた。ええいとしびれをきらして、つれあいがほとんどつくってくれる。とは言っても自分もわかっていなければいけないという葛藤と逃避の連続でいよいよ締切の週になっていた。早くもっていかないと相当な並ぶようだよと脅されて、ようやく日曜日につくりあげた。3・11の日だ。隣町だから自転車で行くつもりだったが、前週は雨が続いたのでそれで税務署に行けなかったこともある。朝、気合を入れて自転車で出かけ、3、4人ほど順番を待って、係官にちゃっちゃっと点検されてあっけなく受理された。こういうお役所への提出物の書き方を苦にはしないつれあいの的確な指導のおかげだ。私はこういうことには無能に近く、お役所の提出物はいやだ。

ハローワークにも寄った。ず~~っと気に病んでいたことが済んで気が晴れた。プロジェクトの仮決算も土曜日に徹夜して終えていた。天気がよくって、景品缶入りのヱビスビールを買ってリュックに背負って帰った。郵便局と銀行は明日にしよう。気持ちも天気もやっと少しは晴れた。

2012年3月11日日曜日

想い出



とうとうその日がめぐってきた。

薩摩富士開聞岳を望む番所ヶ鼻での二人
つい3年前までは私達夫婦には私の母親とつれあいの両親が三人揃っていた。私たちはともに末っ子で親は老いていたが、長生きだった。私の母が大往生で亡くなり、「したいときには親はなし」が実感できて、つれあいの両親にその分もっと孝行の真似事をしたいと考えていた。なにしろ、ふたりとも持病はなく老人にありがちな常備薬がないというのがいつも驚きだった。

2010年までの10年間、つれあいの母方の従兄弟どうしで親たちを招待して毎年「いとこ会」を催していた。東北の近場の温泉宿の1泊2日が例会。いとこたちは東京近辺から出向いてくる。いつからか「むこさん」である私も参加させてもらうようになった。そのうちにリタイアしたほかの従兄弟の「むこさん」も加わるようになった。母方は岩手南部の中山間部の農家の出で、このいとこさんたちは、私に言わせれば、東北のいかにも大人しい人たちで宴会と言ってもどんちゃんやるでもなく大酒を飲むでもなかった。それに加わった私を含む「むこさん」が大酒を飲むので途中から少し雰囲気が変わった観もあった。基本的には静かな、せいぜい旅館の備え付けのカラオケをやる程度だった。幹事は輪番制で、うちに回ってきた。三陸海岸である志津川の旅館にも、掘って温泉が出たというので、そこで開催した。宴会のお開きにあたり、10年の節目になった、それと年老いたので一端ここで区切りにしよう。あとはお前たちいとこどうしでやってほしいと、母がいわば「宣言」をした。それも無理もないというか、自然な流れだった。

志津川を通るのは気仙沼線だ。叔父の軽自動車で駅まで送ってもらって時刻表をみてびっくりした。昼の12時過ぎまで上りの列車がない。2時間半ほどある。駅前にはチリ地震による三陸大津波のときの高さが示してあった。人の背に加えて腕をのばしたほどの高さだった。すごかったのだなという実感と、スマトラ沖大津波の1年後に見たヤシの木の高さまできたという光景を思い出した。ちなみに、チリ地震の大津波のとき、つれあいの気仙沼の実家は港のすぐ近くであったにもかかわらず、「ちゃぷちゃぷ」と浸った程度であったらしい。

あまりにも時間があるのでどう過ごすかということになり、ならば叔父さんの家に行こうと提案した。ところが、つれあいはその場所を知らないという。志津川にみんなで泊まって、いらぬ気を使わせるからと両親もとくに叔父には「あいさつ」を通していなかった。それで、実家に住所や電話番号を聞くわけにもいかなかった。私は幼い時から感が強い側面がある。商売をして、かつてはそこそこ成功したというから、街の中にある、海の側に繁華街らしきものがあるようだから行けばわかると考えた。駅から適当に歩いて、道に迷うこともなく叔父の店をみつけたのには、自分自身驚いた。チリ津波でエライ目にあった経験から家を3階建てにしていたのと屋号から叔父の店に違いないと考えられた。外から様子をみるだけにしようと言っていたつれあいだったのに、店の前に佇み、意を決して店内に入り声を掛けた。

叔父の家は男の子4人だったので、姪っ子のつれあいが叔父には可愛かったらしい。私たちが結婚した時、九州のどこの馬の骨と結婚したのかと切々とお祝いの手紙がしたためられてあったのが印象に残っている。とにかく遊びに来いと。慶弔のときに会って挨拶をしたことはあったが、訪ねて行くことはしていなかった。その不義理が少し気になっていた。

店の応対に出てきたのは従兄弟だった。店を継いでいるわけではない三男だった。あとで聞いたのだが、教師をしていて病になり親元に帰ってきていたらしい。あらためて玄関に通されて、叔父叔母に歓待されたひとときを過ごした。叔父は学徒動員の士官として戦争にも行き、若い時は柔道をやっていたらしく巨躯だったが、すでにペースメーカーをいれて健康がすぐれないようだった。私はいつもは記念に写真を撮るのだが、このときは何故か遠慮してしなかった。昼食に出前のお蕎麦までご馳走になり、従兄弟には駅まで車で送ってもらった。六月のことである。

年が明けて一月、JR「大人の休日クラブ」の東北乗り放題の切符を利用して、どこかの温泉と実家の両親を訪ねることにした。私は母を失っていたので、つれあいの両親に孝行をしたかった。去年会ったばかりだからといって遠慮するつれあいを少し「無理矢理」に誘った。雪の中の山形の白布温泉の西屋に一泊した。福島に引き返し新幹線で一関に向かうはずだったのが、下りが不通だった。新幹線は今どこにいるのかと駅に尋ねたら上野に止まっているという。思わぬ足止めをくらい、まあ県庁所在地だから見物でもして行こうと駅前に出た。なにか郷土料理でも食べさせる店はないかと彷徨い歩いたが、驚いた。どこにでもあるようなチェーン店の食べ物屋さんしかない。デパートに入ったが、ここも食品売り場は大手スーパーの商品を導入したどこにでもあるようなところだった。仕方なくチェーン店の牛丼でも食べたように記憶している。

気仙沼にようやく着いたのはすっかり夕方になっていた。実家の並びにある「福よし」という魚料理のお店につれて行ってもらい皆で夕食をとった。JRの広報誌などでよく紹介されていた店だ。父、兄夫婦、姪っこ夫婦にこうちゃんが一緒だった。姪っこの夫がブログをやっていると聞いた。

母親が敷いた寝床に並んで寝た。そうそう「どんぷく」ってこういうふうに寝るときに使うのってつれあいは懐かしがっていた。その丹前みたいな「どんぷく」の中に身体を入れて東北らしく寝た。家の風呂に入れと勧められたが、熱い温泉に朝も入ってきたから、遠慮した。あとで聞いた話だが12月に改装したばかりのジェット式浴槽だったそうだ。

店はほぼたたみ、店のなかにプレハブのような応接室をつくりストーブを炊き老夫婦はいつも二人でいるそうだ。そしてご近所の自称「三羽烏」の溜まり場、社交場にしているそうだ。午前中少し二人で港を散歩して光景を写真に収めた。

義母は背が縮んでおりました最後の写真
ひ孫のこうちゃんがかわいい盛りで、四世代家族みな息災のないことに安心してシャッター通り、市の観光案内では「大正ロマン通り」なのだが、をあとにすべく別れを告げた。いや、その前に恒例だからと両親とつれあいそろって写真を撮った。

帰りの大船渡線の車中で「父も母も元気だったしね、いいよそんなに来なくたって」とつれあいはつぶやく。なにしろ、遠いところではある。「そうかなぁ」と私もつぶやいた。

私には多少霊感があるのではないかと、結果を思えばそうこじつけたくなる。
3月11日の大津波がなにもかも奪ってしまった。あれもこれも最後になった。一万数千人の犠牲者のなかの二人と五人。


2012年3月10日土曜日

雀の母さんそれ見てた


私は釣りを好まない。どうもだめだ。あれは「殺生」だと思っているからだ。
だからと言って、魚も食べれば、活き作りだって食べる。まして、鮮魚でこそなかったが水産の仕入を10年も経験した。だから、「殺生」だと思うなんて「偽善」だとも言えるが、やっぱり「釣り」はできない。きゃっと飛び上がるようにいやがるのを、めめしいと言われのもいやなもんで釣りはやらない。

「金子みすゞの詩を歌う」出演者のみなさん
「いわしの大漁が、海の中では弔い」、「鯨法会で鳴る鐘をききながら、沖で鯨の子がひとり、死んだ父さま、母さまをこいしこいしと泣いてます」「雀をとらえた子の無邪気、それをみる母親、雀の母さんそれ見てた」という。

金子みすゞが服毒して亡くなったのが3月10日。
昨年の3月11日まさにその時刻この場所でメモリアルコンサート「金子みすゞの詩を歌う」の初演の最中だったらしい。収益金の一部を被災地支援にという趣旨も加味して11月に再演を始めた、そして3月9日の公演に及んだ。詩の朗読を担当する湯川あきさんのお誘いで鑑賞させていただいた。

3月10日は記録上のこと。当事者であれば感覚的には3月9日の深夜、9日を過ぎた午前0時過ぎから数時間、東京下町の大空襲から67年目。その後も数次にわたり空襲を受ける。よく計算しつくされた火の海地獄。日本の軍事産業は家内制的分業に支えられる、したがって庶民の住居を破壊するのは軍事目標をたたくことであると机上の屁理屈。一線を越えて割り切り狂気に突き進むか、いわしの遺族、鯨の遺子、雀の母さん…になるか、二つにひとつ、いざとなればもがき苦しむしかない。いくさ(戦)とか、たくらみ(企み)とか、どうも向いていないように思う。

以前、都知事選挙に出ていた小池晃さんが、昨日こうつぶやいていた(以下、引用)。「東京大空襲を指揮したカーティス・ルメイは江戸時代の大火が3月上旬に集中していることを調べこの時期を選んだ。325機のB29はまず正方形と2本の対角線のライン上に焼夷弾を落とし火の壁で住民の退路を断った上で1㎡当たり3発、総重量2700トンの焼夷弾を市民の頭上にばらまいた。」「このカーティス・ルメイに対して、日本国政府は1964年、「航空自衛隊の育成に貢献した」との理由で勲一等旭日章を授与した。」確か、ずっと以前に「農と島のありんくりん」さんもそういうことをブログで書いていたナ。

戦前の3月10日は陸軍記念日、75年前のこの日、母は初産で双子の男の子を産んだらしい。一人は助からなかったのだろう、双子で生んだことは生前一言も言わなかった。一人は虚弱児で育てるのに相当苦労したらしい。「りく」ちゃんと名付けられた兄は、いま再発したガンとのつらい闘病生活にある。
めぐりめぐって、私の孫に双子が生まれた。ひと月を過ぎ順調に育っている。

明日はつれあいの両親そして叔父の一家の津波に呑まれた命日になる。

2012年3月8日木曜日

ドキュメンタリー映画『大津波のあとに』と『槌音』


津波に呑まれた小学校の校長先生が昨年の卒業式で卒業生に最後の宿題を課した。
「みんなが二十歳になったら、必ず集まろう。県外にいようが、国外に居ようが。
日時は3月11日、午後2時46分。」
映画では、この場面が印象に残った。


被災者の「山の上からみるな、被災地を歩け」という吐き捨てるような声。

ぜひ、観てほしい~


私のつれあいの家族、親せきが被災してもすぐには行くことができなかった。幸いにも義兄の竹馬の友や内陸部にいる親戚が救援にあたった。叔母さんからまだ来るべき条件が整っていないから、待てと言われた。通行止めを避けて、親戚は山道を伝って沿岸部の避難所に駆け付けた。ガソリンを入手するのに苦難しつつ。
高速道路が復旧し都内から内陸部に行く深夜バスが通じた。そして、大船渡線が気仙沼まで通じたことは出発間際にわかった。帰りは、当初秋田空港まで行って空路帰るように手配したが、直前になって新花巻空港からの帰路が確保できた。被災後20日経っていた。遺体の発見が早くて火葬ができ、それに間に合った。

なんども息を呑んだ。あの空間にいかなければ、実感は確かにはわからない。

帰ってきて伝えたかったけれども、同情はしてくれたが詳細は聞いてもらえなかった。写真も用意したが見てはもらえなかった。あけすけに言えば、「被災」のことが「食傷気味」になって、潮が引くように目を背けていく様子を実感した。もう忘れたいようだった。
悲惨な様子を繰り返し見せられ、全体的につらくなっているようだった。
「槌音」の大久保監督と「大津波のあとに」の森元監督



~しかし、あらためてみてほしい。

監督の二人が舞台挨拶した。そして、自分たちには宣伝費がないのでみなさんにぜひ伝えてほしいと訴えていた。

2011年度の日本映画復興奨励賞を受賞した『大津波のあとに』と『槌音』。
東京での上映は10日(土)から16日(金)まで。連日18:001回上映。
場所は「オーディトリウム渋谷」 http://a-shibuya.jp/archives/2680
映画のホームページ http://fartheron.soragoto.net/comment.html

2012年3月7日水曜日

一周忌


つれあいは夜行バスで出発した。両親の一周忌になる。
私は職業訓練学校の入学手続き日と重なって行けなかった。ごく身内でやりますからと言われた。

あとから考えれば予兆となる大きな地震が前々日の9日にあった。翌日の朝、つれあいが母親に電話で安否を尋ねた。「大丈夫だったから…」と聞いたのが最後の会話になった。いつもの調子だったらしい。「逃げるんだよ」と念を押したのだけれども。

その前々月の一月に二人で訪れた。元気だった。帰るとき、自宅の前で写真を撮ったのが今生の別れになった。

あの日、私鉄は動き出したそうだが、大混乱だという話で身動きがとれず職場に留まった。情報はパソコンしかなかった。画像はなにもみなかったように思う。上の階でテレビをみることができるそうだと聞きつけて、相棒たち幾人かと一緒に階をあがった。それが、23時ごろだったと思う。スイッチをいれれば、いきなり気仙沼が火の海だという上空から中継される夜の映像が流れ続けた。息を呑んだのはいうまでもない。そして偶然というか、それまで通じなかった携帯電話が通じた。つれあいからの半狂乱状態になった電話だった。

午前一時過ぎぐらいだった。同じ沿線に住む職場の同僚一人と一緒に歩いて西武新宿駅に向かった。沿道には意外にも地震による被害は見られなかった。最初は人のあまり通らないところを通ったが、明治通りに近づくにつれ、黙々と歩く人々の群れのなかにいた。もう混んではいなかったので、みな速足だった。駅に着いたら身動きがとれないほどぎっしりだったが、みな黙々と並んで改札に入れる順番を待っていた。駅員や警官の誘導のままに整然と行動をし、電車を待った。同僚と何か会話をしながら帰宅の途についたが、全体が黙々としたような記憶が残っている。異様な体験への興奮と疲れが入り混じっていた。帰り着いたのは3時過ぎだったと思う。次の日は土曜日だったが、当番だったので律儀に出勤した。JRが遅れていて出勤に3時間ほどかかった。物流は止まり、あまり仕事にはならなかった。職場からみると、なにか息を呑んでいるような一瞬真空状態になったようだった。

安否がわからなかったつれあいの兄から初めて連絡がきたのは最初の月曜日だった。両親の遺体が見つかったというショックな報せだった。自宅が津波に襲われたらしいというのは、同居している孫娘の夫のブログで伝わっていた。当日、被災直後のブログへの書き込みだった。まさかと思っていたことが現実になった。そして、他の家族はかろうじて生き残り近所の人と一緒に避難所にいるということがやっとわかった。一刻も早く救援に行きたかったが、身動きがとれなかった。

つれあいは、一周忌を終え、再び深夜便のバスで帰ってくる。年老いた両親もこの便を使って我が家に来たことがあった、その体力に驚いたものだ。そうだったので、あまりに突然の不幸がうそのようだった。多くの犠牲者、被災者の人々と一緒の3・11がやってくる。

2012年3月2日金曜日

つくり方講習会

お豆腐工場の方のお手本の手さばきです

今朝は小雨、天気予報の通り午後からは本格的な雨になりそうだ。
中央公民館で豆腐づくり、あと市役所、銀行に行かなければいけない。電車代は惜しいし、駅から歩いても距離がある。やっぱり、自転車で行くことにした。リュックにゴアテックス製のカバーをはめて、山登り用の帽子(これもゴアテックス製)に、レインコートを着て出かけた。

公民館の出先窓口で市役所の用件は足りた。

なるほど、固形分15%ぐらいの濃度の豆乳を75℃ぐらいに温めて、にがり(豆乳にたいしてマグネシウム濃度0・3%ぐらい)を添加してすばやくそして軽く混ぜると固まる。15分ほど待って濾し布をした型にはめ、重しをしてさらに15分ほど経ったら、水につけてそっと型からはずす。木綿豆腐のできあがりだ。型にはめる前の豆腐を食べたら、寄せ豆腐だ、出来たてはうまい。みんな茶碗蒸しを食べているようだと言っていた。

講師のお豆腐工場の人は国産大豆とにがりのみ使用、消泡剤を使わない、価格も配慮する、そういう条件で製品をつくり始めたことを穏やかに語っていた。苦労したんだろうな。


「”にがり”を使う、たいへん難しい。けれども失敗があるからおもしろい」
講師の方のうんちくのある言葉。

同じ調理台に座った人からお子さんはおいくつぐらいですかと訊かれた。隣のママさんは娘さんが2歳ぐらいらしい。このママさんが私の「お子さん」の歳ぐらいになるわけだから、もう孫がいますよと答えた。童顔なのでいつも若くみられる。主催した委員とおぼしき人から男性の参加は珍しいのでこれからも来てくださいなと誘われた。

こういう講習会の開催の持ち方が大変参考になった。また、豆腐もつくったことがなかったので、新しい楽しみが増えた。いつか食卓に上げなければ、ストレスをしょいこんで帰ってくるつれあいのために。ふふ、ふ。

帰りは銀行に寄ったあと、びしょぬれになって自転車をとばした。ハックション大魔王

2012年3月1日木曜日

「恋愛小説家」


野上弥生子の実家の原酒、夏に佐渡で買ってきたヤリイカ
つれあいが横で観ていたものだから、ジャック・ニコルソン主演の映画「恋愛小説家」(1997年)を仕事しながらついつい半分観てしまった(27日NHK BS)。ハリウッド映画には底の浅さがあってあんまり好みではないが、ジャック・ニコルソンの演技の魅力もある。いや、ヘレン・ハントのセミ・ヌードが目に入ったからかなぁ。

完璧な人間はいない。いや、少なからずなんらかの欠点というか欠陥というか、もっと言うと心の病に近いものを持っていることがある。自覚していたり自覚していなかったりするのだろう。他人に揉まれてわかる人もいれば、それでもわからない人もいる。もちろん私もそうだろう。どこかに病的なものを潜ませている。世の中には天真爛漫な人がいてバランスのよくとれた人もいて、そんな人にはずいぶん助けられてもいるが。

ずいぶん昔に一度観たことがあったが、つれあいが観たことがないというので誘った。昨夜のNHK BS「セント・オブ・ウーマン 夢の香り」(1992年)アル・パチーノ演じる盲目の退役軍人の痛快さが印象に残っていたから。

好きな映画を二人で観て、欠陥人間の私も少しは気が晴れた。

積雪の翌日


天気予報は当たります。今朝は前日の雪がうそのように日差しが入ります。
書類を記入し整え、やっぱり自転車で行くことにしました。クロスバイクの車輪の幅はやや狭く、路面凍結がこわいのですが、注意して行くことにしました。いつもの林道はやめました。

朝の9時ごろに出発しましたから、やや溶けだしていましたし主要な道路からは雪は排除されておりました。それでも路肩や狭い歩道には雪が残り水たまりができていたりしました。

途中からお尻が冷たいなとは感じておりました。10分ほど遅れてハローワークに着きましたら、なんと撥ねた泥雪で私の後ろ姿と愛車はずいぶん汚れておりました。それでお尻も濡れていたのです。愛車とリュックが台無しになっていました。そうなることは、あとから考えればわかりそうなものでしたが、考え及びませんでしたね。

それでも、少し憂鬱な気分がクロスバイクに乗ることによって晴れました。ATMと郵便局と図書館に寄っていきました。航空公園の展示場でなつかしいミヤタのプラモ(戦闘機とか戦艦とか)の展示をやっているのを知りました。図書館で「犠牲のシステム 福島・沖縄」(高橋哲哉著)を予約して帰りました。安全神話と抑止論によって誰かを犠牲にしなければいけない「戦後日本の国家システム」を告発しています。