2011年9月30日金曜日

明日は山へ

 昨日今日と暖かかった。それが明日は寒気が降りてくるらしい。明日は山に登る。途中までマイクロバスで行くとは言え相手は2,000mを超える山だ。何を着て行こうかと迷う。早朝4:50の集合だと連絡があった。

 今日は哲ちゃんにわざわざ来てもらって、ETCと先日秋葉原で買い求めていたカーナビを装着してもらった。車の中の装着はずすことができるものだと初めて知った。そうして、美しくあれこれと配線をやってくれた。一日かかった。カーナビは勧められて小型の5インチにしたけれど、いざ使ってみればやはり老眼でやや見えにくい。肝心なことで少し後悔しているが、哲ちゃんにそれを今更言うわけにはいかない。
 今のところ、カーナビを使って行くところは考えていないけれども、先日、ひょんなことで再会したTuさんのところにでも行こうかなと考えた。秩父の山(城峰山)を越えれば、旧神泉村だ。

  そのうちリュックもいいものを買おうかな。つれあいが明日の朝食用のおにぎりを握る。

2011年9月20日火曜日

あの日の催し物

 現役時代スケジュールは手帳に書き込んだ。仕事なら仮に忘れていても職場の中で思い出さざるをえない。プライベートなことなら、たとえ手帳に記入していてもうっかり失念することがある。それで、トイレのカレンダーに書き込んでいたり、冷蔵庫にメモを磁石で張り付けていたりした。その催し物はチラシがあって見栄えもよかったので居間の鴨居にクリップではさんでおいた。

 あの日何もなければ、定時より少し遅れて職場を出て浦和に向かったかもしれなかった。

 元プロ野球選手張本勲さんの「もう一つの人生――被爆者として人として」と題する講演会が午後7時から予定されていたからだ。

 14時46分からの激しく長い揺れは職場のビルの中(9階)で体験した。
 そうして、この列島社会が一変した。私自身も人生への思いと人生が変わった。

 あの日あの催し物はどうなったのだろうと思ったりもしたのだが、当日開催できる状態ではなかった。張本さんも印象に残ったに違いない。3・11をとにかく忘れないために、張本さんの顔写真入りのカラーチラシはずっと、今でも鴨居に挟んだままだ。

 何もなければ、この世から核兵器と差別をなくしたいという思いの話に耳を傾けていたかもしれなかった。もう取り止めになったのかなと思っていた。それがこのたび、お知らせが舞い込んできて10月7日(金)同じ題目で開催されることが判った。

 心の封印を解いて被爆体験を語り始めたという、あの日その思いを伝えたいということだった。
 核と差別と戦争、そして3・11 張本さん、あらためてどういう思いで話すのだろう。

 <埼玉革新懇 文化講演会>「張本勲 もう一つの人生--被爆者として、人として」
 日時:2011年10月7日(金)開場18:00 開演19:00
 会場:埼玉会館大ホール(JR浦和駅西口)
 チケット代:<全席自由> 一般 1999円、高校生以下 1000円

2011年9月19日月曜日

アデュー原発

 会場がぎっしり埋まっていったのでうれしくなりました。パレード(デモ)に加わり会場の明治公園を出たら、会場に入りきれない人たちがいっぱいいたのを見てさらに感激しました。この「9・19さようなら原発 5万人集会」には集会最後に主催者側から6万人の人たちが集まったと発表がありました。大成功だったと思います。

 しかし、相変わらずマスコミは小さな扱いです。家に帰り着いたのが午後6時ちょっと過ぎで、その6時のNHKニュースでは報道されたようですが、7時のニュースでは報道されませんでした。むすめはラジオで聴いて「大江健三郎さんの呼びかけの集会」ということを知っていたそうです。

 朝は丸ノ内線の後楽園で降りて神保町の「阻止ネット」集会(日本教育会館/「六ヶ所再処理工場」に反対し放射能汚染を阻止する全国ネットワーク)に急ぎましたが、30分ほど遅れてしまいました。原子力資料情報室の澤井正子さんの「脱原子力社会への道すじ」という講演を途中から聴くことになりましたが、とてもわかりやすい内容で惜しいことをしました。また、講演の内容も少し時間が足りなかったようです。いわゆる「原子力村」の数々の構造は明らかになってきましたが、この原発の推進体制を社会の無関心が支えたこと、この指摘がわたくし自身の実感でもありました。終了後、「さようなら原発 5万人集会」に合流しようという日程になっておりました。いったん解散し集合場所に集まりましたら、高田さんをはじめ幾人か昔の出向先の懐かしい顔に出遭いました。お昼ご飯は食べ損なってしまいました。集合場所は、全国から駆け付けた団体のバスの駐車場に近く、福島の各地から「怒 浜通り隊」「怒 中通り隊」などの幟旗をみつけました。「迷子にならないように、4時までにはここに帰ってきてくださいね」と福島弁で念押されていましたね。そのみなさんは、集会の前の方に大挙して陣取っていました。

 檀上を見たいと考え少し前の方に行きましたら、そのうち人であふれて行くも帰るもできなくなってしまいその場に座り込み参加する形になりました。檀上からの発言で冒頭の鎌田慧さんはさようならには人と別れるときのまたねという「さようなら」もあるが、原発には二度とごめんだよという意味の「さようなら=アデュー」がふさわしいと言っていました。「アデュー」(スペイン語だったかな)懐かしい言葉で、同感です。署名は現在100万人、あと900万人を達成しましょう、来年の3月24日には報告集会を開こうと檄を飛ばしていましたね。大江健三郎さん、内橋克人さん、落合恵子さん、澤地久枝さん、ドイツからのゲスト フーベルト・ヴァイガーさん(FoEドイツ代表/逐次通訳)、山本太郎さん 武藤類子さん(ハイロアクション福島原発40年実行委員会)が次々と発言しました。ここに集まったみなさんの、これから生まれてくるであろう子孫たちの感謝の言葉は「ありがとうございます」(内橋さん)、反戦、反差別、反核は一緒、慣れません、あきらめません、歩きましょう(落合さん)、澤地さんは骨折をしていたそうですが、立ち上がり立って参加しようと思ったとの発言どおり、落合さんたちの介助を断りシャキンとしてこの国は原発を持ってはいけなかったはずの国だと訴えておりました。フーベルトさんはドイツの脱原発の道程を紹介し、できるかできないかではなく政治的にやるかやらないかということだと示唆しておりました。山本太郎さんは檀上におらずず司会者からも未到着だとありましたが、間に合い劇的な登場となりました。黒服帽子にリュック姿「すごい人(の集まり)だ」との一声から始まり、命がかかっていると元気いっぱい訴えておりました。圧巻は福島の武藤類子さんの涙ながらの訴えでした。福島の山は青く水は清らか、その風景に放射能が降り注ぎ被曝になった。ただちに行われた安全キャンペーンのもとで毎日の決断、否応なく選択を迫られている。外に出るべきか出ないべきか、食べ物を食べるべきか食べないべきか、洗濯物を干す干さない、もの申すかだまるか、・・・。福島を離れるもの離れないもの。ばかにするな、命を奪うな、子どもたちを守ろう、「静かに怒りを燃やす東北の鬼」であると。つながってほしい、アクションに注目してください、福島を忘れないで。誰かが決めたことに生きるのではなく、自分の頭で考え、決断し行動する。原発を推進するものが垂直な高い壁なら、私たちは横に広くつながろうと。

 先頭が目的地に着いたとき後続はまだ会場を出発していないなんてそんなデモはいったい何年振りでしょうか。最近のデモはショぼくって「お嘆きの諸兄」には久しぶりの充実感です。集会が終わりパレードの隊に加わるべく先を急いだのですがなにしろ押すな押すなの大盛況で、前に進めません。確かCコースの先頭あたりだったと思います。会場を出るとき主催者の人から紙のプラカードをもらいました。「大地を守る会」の幟旗があって、なにしろ私はれっきとした個人参加ですから、知らぬ団体でもないしご一緒させていただきました。気が付けば太鼓などの打楽器を打ち鳴らすにぎやかな隊列で約1時間半、みなさん意地か頑張りかリズムよく叩き通しで汗だくでした。「原発はいらない!」「エネルギー政策転換を!」の紙のプラカードを高く掲げ(結構疲れます)、朝から飲まず食わずで歩き通しましたが心地よいものでした。

 さっ、ほんとだよ、原発やめようよ。いのちが大事。

2011年9月18日日曜日

安穏朝市で買い出し

 よりによって今朝起きたのは午前2時だ。「政府もNHKも新聞も本当のことは言わない」という趣旨の夢をみて夢の中でくやしがって目が覚めた(マジメなニンゲンだ)。だから、6時ごろにはへとへとになっていた。開催時間の8時までには到着する心積りでいたが、1時間ほど遅れた。何の気まぐれか、つれあい殿も行くということになり二人でリュック背負って行ってきた。

 行先は「安穏朝市」という。中川誼美さんの提唱と鳴り物入りでコトの起こりから聞いてはいたものの、休みをとってまで(最初は毎月親鸞さんの命日の16日)あるいは休みをつぶしてまで(その後毎月第3日曜日)遠く築地本願寺まで行く気が起こらず、不義理をしていた。

 空は天高く、富士山は夏山姿で朝はくっきりと見えすがすがしい。

 到着すれば、さっそくお仲間のみなさんをみつけ、ほうこういうところでこういうものをこういう方法で販売していたのかと、これまでの思い描いていたこととすり合わせふむふむとすぐに納得する。

 一巡するほどもなく、すぐ見てまわれる。岩手県軽米町のりっぱなりんごと“ふくみみとうがらし”とお花(りんどう)を買い、今治ブランドのタオルマフラーを迷わず買い、新潟のみょうが、なすを求める。有機無農薬だというオクラと梨を買い、隅のテントに中川誼美さんの姿をみつける、コーヒーを販売中。コーヒーは買わずにフィルターペーパーを買う。大豆を販売するところを覗く、300種類も在来の大豆があるとのこと。黒い豆はお米に入れて豆ご飯が炊けるというので求める。浸し豆にできる緑の大豆とともに。煎り大豆も求める、妊娠中のチカさんの栄養補給にとお土産にしたら喜ばれた。最後にウワサの棕櫚のたわしを求める。
 帰りしな、なにか荷物が重いなと思ったらどうもりんごのせいだった。せっかく東京に出てきたので、長男夫婦のところに立ち寄りおすそ分けをする。エコーの画像写真をみせてもらう。まぎれもなく二人(双子)だ。

 帰路、意外にも棕櫚の箒は買わなくてよかったのとつれあいから言われる。

 夕食には、7月に佐渡で買ってきたイカと本日買い出しの野菜で、器を使いこなして楽しむ。晩酌を2日続けて嗜む。

本当に怖い話と向き合うこと

 政府もNHKも新聞も本当のこと(核心)は言わない。

 最初のころの「10年、20年は住めないな」発言、そして最近の「死の街」発言。住民当事者の心情を考えれば忍びないことだが、何をどう糊塗したとしても事態をありのままにとらえれば決して間違いではない。

 むしろ「死の街」とは、住民自身が県外の人に伝えてほしいと願ったことだとも聞く。

 核燃料のメルトダウン状態。

 今、何がどうなっているのか。みることはできない。しかし、どういうことになっているのか、仔細はともかくおよそわかっているはずだ。わずか半年の月日が過ぎて、まるで収束に向かっているように思い込ませられているが、目をそらされているだけだ。

 人類史的な深刻な状態である。危険な事態であることにさほど違いはない。

 来年あたりを目標に家に帰ることができるようにするという地元自治体のことが報道されているが、仮に自治体関係者にわかっていない人があったとしても、専門的に追及している報道関係者や専門家にはその無理(危険性)がわかっているはずだ。

 生命や身体に及ぶ被害を与えておいて、その本当の危険性を知らせない。それどころか事故を過小評価し被害を矮小化する。幻想をすら抱かせ責任と義務をはぐらかす。

 これは「本当にあったどこかの怖い話」ではなくて、現在進行形の身近の「本当に怖い話」のことである。

 政府もNHKも新聞もそんな報道はしていないわけだし、収束にむかっているようだし、まっ、電気がなくなって不便になるのもなんだから、点検が終わったら原発も再稼働させたらいいんじゃないと思っている人たちが多い。その人たちとの溝ができている。

 現実に福島の人たちには影響がでている。子どもたちをどうすればいいか。
 それなのに福島の人にしてみれば、見捨てられているような気がするという状態。あたかも県境に「柵」を感じ、そこからでるなという感覚があるという。そして、さまざまなジレンマで声もあげられず、悶々と苦しんでいる実情。

 だから、まずは事実を認識しフクシマを思い描くことでつながり、私たちがまだまだ変わらなければいけないと鎌仲ひとみさんはいう。

 私は名もなき個人、さっ、明日も東京さ出かけよう。さわやかな弁舌も何の影響力も持ちわせぬが、自分の声をあげよう、そして歩こう。原子力ムラの者どものために、今と未来永劫をも支配される不条理を変えて行こう。

2011年9月16日金曜日

朝湯が大好きで、それで

 朝寝朝酒はまだしていない。

 朝は4時か5時には覚める、6時前後には起きているからだ。あこがれの「何も気にせずに朝遅くまでぐっすり眠る」というわけにはいかないものだ。また、働いていないせいか、顕著なストレスが避けられているせいか知らないが酒も飲む気がしない。あれほど好きだった晩酌もしていない。

 金曜日は朝一番にナツネさんのYOGA教室があるので3週目にして初めて行ってきた。パチンコ屋さんの開店時間のように常連さんが列をなして並んでいる、年配の人たちだ。満杯らしいと聞いていたがその通りだ。男性は私以外に一人しかいないのだが、入った以上はもう私も臆さない。ナツネさんの教室は夜遅い時間にあってそれの常連だ、勝手知ったる手順なので気持ち良く身体をほぐす。

 ロッカールームでは「プールですかスタジオですか」、「いや“ニューヨーク”ですよ」との軽い会話が耳に入って来る。朝湯に入ってきた、気持ちのいいものだ。

 そぅれで身上つぶすわけにはいかないから、第3日曜日の18日には「安穏朝市」とやらに行って来ようと考えている。社主様ともういちど打ち合わせしなければ。
 「さようなら原発集会」(19日13:00~)にも行って来ようと考えている。その前に一ツ橋ホール 阻止ネット「ストップ再処理2011 脱原発宣言」(10:00~)もあるらしい。あいにく、ソータローを預かるから、二人では行けない。

 大分からカボスが届いた。保険証もとどいたらしい、不在票が入っていた。

1)ストップ再処理2011 脱原発宣言(パルシステム ホームページより引用)
開催日時 : 2011年9月19日(月)午前10:00~11:45
会場 : 日本教育会館一ツ橋ホール(東京都千代田区一ツ橋2-6-2、地下鉄神保町駅徒歩5分)
内容 : 講演「脱原発社会への道すじ」(NPO法人原子力資料情報室 澤井正子さん)リレートーク(高橋英雄・高橋徳治商店社長、パルシステム千葉、畜産生産者など)「脱原発宣言」採択


2)以下は「さようなら原発1000万人アクション 脱原発・持続可能で平和な社会をめざして」HPからの引用。
◎名称  さようなら原発 5万人集会
◎日時  9月19日(月・敬老の日)13:00~ライブ  13:30~集会  14:15~パレード
◎会場  明治公園(東京都新宿区霞ヶ丘町6)
◎参加費 無料
◆内容
◎オープニングライブ  寿 (全国から~脱原発ポスター紹介)
◎発言   落合恵子さん 大江健三郎さん 内橋克人さん 鎌田慧さん
澤地久枝さん 山本太郎さん 武藤類子さん(ハイロアクション福島原発40年実行委員会)
ドイツからのゲスト フーベルト・ヴァイガーさん(FoEドイツ代表/逐次通訳)
◎送り出しライブ  ランキン・タクシー、ナラカズヲ、制服向上委員会
※手話通訳あり。
パレードコース ※アルファベットの順番を変更しました。
A.明治公園→青山通りを渋谷方向→宮益坂を右折→宮下公園→勤労福祉会館前→代々木公園/NHK側で解散
B.明治公園→千駄ヶ谷小学校前→竹下通り入口→原宿駅→五輪橋→代々木公園/第1体育館側で解散
C.明治公園→外苑西通りを北→新宿通りを西→新宿駅南口→代々木第3児童遊園地(代々木2-13-3)で解散
◆その他
◎当日はたくさんの人が来ます。そこで会場中を大きく、①個人参加者・市民団体、②労働組合・民主団体、③政党・各種団体等に区分けします。当日配布するプログラムに、それぞれの場所を記載します。
◎パレードは、3コースに分かれて行います。パレードも、上記の区分でコースを振り分けます。
◎手製のプラカード、楽器の演奏、仮装など大歓迎です。工夫を凝らして、街行く人たちにアピールしましょう。

◆主催  「さようなら原発」一千万人署名市民の会
連絡先 〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台3-2-11 総評会館1F
原水爆禁止日本国民会議

2011年9月15日木曜日

お日様の匂い

 深窓に居る。昼間はどこにもいかない。
 垢を落とすように身辺整理をしている。それで一日置きに私の学習机(長男のおさがり)の表面が現れる。何事も現役時代に全部頭に入れて整理されていたらよかったものを、「積ん読」でとっておけば気が済んだから、今がある。それでも、ひとつひとつ見ないでは捨てられない。だから効率が悪い。相変わらずだ。それでも過去を消し去るように捨てていく。いつもの反省だが、あらためて今必要なものは何がどこにあるかわかるようにしようと思う。

 ずっと放っておいて埃をかぶったセパレーツタイプのCDラジカセを作動させてみた、CDは回らないがカセットは動く。ラジオも聴ける。捨ててもいいのだけれども、カセットを流している。70年代のものだ。

 書類が揃ってきたのでハローワークに行こうと思うが気が重い。
 病人は爪がのびると聞いたが、爪もだが鼻毛も伸びれば垢も出る、不思議だ。

 畳三畳分ぐらいの庭が生まれたころの生家にはあった。茶の間兼寝室の四畳半一間には縁側があった。庭には高い塀があったから日当たりがよかったかどうか知らないが、物干しがあって母親が夕方に布団を取り込めば、体当たりのように身体ごとのめり込むのが好きだった。お日様の匂いがして気持ちよかった。今、その生家よりはずっと広い家に住んでいる。ベランダから取り込んだ布団に同じように身体を預け、しばしお日様のふかふかを楽しむ、サザエさんのような髪型をしていたころの母親を懐かしむ。

 夕方になれば、ごはんを炊いてつれあいを待ち受ける。今日は何をしていたのと尋ねられる。家の中が顕著に整理された形跡はまだ見えない。
 しばし、深窓に居る。

2011年9月14日水曜日

蜂さんの無事

 我が家のリビングは大きな窓だらけにしています。それが気に入っています。その窓の角から羽音が聞こえ、蜂が迷い込みもがいているのをみつけました。それがやや大きな蜂で、万一刺されでもしたら困るので追い出そうにも簡単には手がつけられません。やぶ蚊がいるので窓を長時間開け放しておくこともできません。たまに飛翔性の虫がそうやって迷い込み、窓にぶつかるだけで出られずにいつしか窓辺で果てているのがいつものことです。蜂には申し訳ないことですが、放っておきました。その後、羽音も聞こえず忘れておりました。

 ところが、まる二日後の昼間のことです。件の蜂が部屋の真ん中の天井間際にとまるように、そして力なく飛んでいるではありませんか。まずは生きておりましたので、驚きました。それで窓を開け放ち誘導しようとするのですが、なかなか窓の方には行きません。やはりだめかなと考え、ほかのことをしておりましたら、窓の壁の方に行っておりましたことに気づきました。大丈夫と思い、窓の外へ誘導するのですが、今度は窓の端に束ねてあるレースのカーテンにさえぎられて外側の世界が認識できないようです。そのカーテンをぐいとより端に寄せ、はたきを持ち出し思いっきりたたき出すように追い出しました。そしたらようやく、蜂は外側に出ました。そう、ちょうど栄養失調でふらふらするように窓のすぐ外側におりましたが、しばらくしないうちにすぅっと外の世界へ飛んでいきました。

 蜂を1匹死なせずにすんだので、私もなにかほっとしました。なにかよいことをしたような。ここのところちょうど家の片づけや掃除をしておるようなことが日課のひとつで、ちょうど出窓の隅から虫のひからびた屍骸やミイラ化した赤ちゃんのヤモリをみつけたりしておりました。

 金曜日には自転車を駆ってドキュメンタリー映画『ミツバチの羽音と地球の回転』を観に行くことにしました。

2011年9月13日火曜日

おうちでもあいさつ

朝起きてきたらつれあいから「おはよう」と言われた。おはようって言おうねと言われた。あいさつしようねと(していなかったっけ…)。

『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ監督、2010年)
以前、地元であった上映会をなにかのことで見逃していた。案内をいただいた。
1)と き: 2011年9月16日(金)、ところ:所沢MUSEキューブホール(埼玉県)
じかん: ①10:30 ②14:00 ③18:00、
※2・3回目の上映で監督トークあり 全席自由、大人¥1,000、学生¥800
2)と き: 2011年 9月29日(木)、ところ: 埼玉会館 小ホール、
じかん: ①10:30 ②14:00 ③18:30

額、眉、両目、鼻、口をぎゅっと真ん中に寄せる。すっぱい顔。
思いっきり口、顎、鼻の下、眉、両目、額をひろげる。びっちゃげた顔。今から睡眠。。。@@@

2011年9月12日月曜日

発熱さわぎ、『ひとり立ち』

 土曜日の明け方、つれあいがごそごそしている。熱があるという、38度。
 これは一大事と、朝から参鶏湯を食べ、汗を流す。つくったのではなく、二男夫婦の夏休みの韓国土産でレトルトパックだ。表示どおりちゃんと肉も入っていて優れものだった。この間の旅の途中の盛岡駅の薬屋さんで買った熱ピタを張りと風邪薬を服用する。そのかいあってまもなく熱はさがり、つれあいはジムにも行き、夕方は私とともに外出もした。治ったと思っていた。
 日曜日の明け方、つれあいがごそごそしている。また、熱があるという、38度。確かに身体が熱い。それでたまげて、再び、熱ピタを張りと保冷剤を応用して頭を冷ます。風邪薬を服用し、一日安静にしていた。
 しかし、どうしたということだろう。先週からソータロー、私、息子、ソータロー、つれあいという順に発熱が続いてしまった。
 養生したので今朝にはすっかり軽快し、つれあいは勤めに出て行った。

 ところで、昨日から携帯電話がみつからない。やっと、探し出した。開いてみても、別になんのメールも着信も入ってはいなかった。…。
 ヒロさんの公演『ひとり立ち』も終わったことだ。さて、今日からいくつかの手続きに入らねば。昨日そういうことをつれあいから指南してもらう手筈だったのだけれども。

 展示場で景品にいただいた鉢を植え替えようと思い腰をあげようとしたが、こんな時間に表に出て行くのに気が引ける。これから試そう楽隠居、…なんて。

2011年9月11日日曜日

名実ともに

本日より失職した。
収入を得るようなどこにも属さない。

名実ともに“はぐれもん”。
さて、有給休暇は終わった。

藪川の痛恨事

 約束通りジャズバンド「ハートツゥハート」のリーダーの方からつれあい宛てにDVDが送ってきた。ハプニングか仕掛けか知らないが、いきなりつれあいが生演奏の舞台で歌を唄ったからだ、ちょうど1週間前のこと。

 何が不幸せって、おいしいものを食べられないこと。原因は腹痛。おまけにみんなの輪の中に一緒にいることもできないこと。原因は発熱によるダウン。そのときに限って。いったい何がどうなっていたのだろう。

 朝から胃痛がした。それで朝食後いつものように服用しようとした胃薬の用法をちらっと見たら「食間または空腹時」と書いてあった。え~、ずっと知らなかった、食後の服用とばかし思っていて、長い間そうしていた。それで、ちょっと痛みを我慢して新幹線の中で飲むことにした。指定席に座ってずいぶん冷房が効いているものだと思った。つれあいはそんなことはないという。つれあいは暑がりだからだからそんなことを言うのだと思った。胃薬を飲んでしばし目を閉じてじっとしている。冷房が効きすぎていると思えたから念のためにもってきた長袖を着用する。

 腹痛の原因を思えば、前日のさんまの食べ過ぎだろうか。ひときわ大きく且つ脂ものっていた。これを刺身で1尾分、塩焼きで2尾も食べてしまった。そのほかに、留守をするのでとっておけない食材などの盛りだくさんの食卓になった。それらもたいらげ、ビールもごまんと飲んだ。そんでころりと寝た。これがいけなかったのだろう、「食べ過ぎ」。なんてこったい、藪川そばも食べる気にならない。でも、それはなんとかなると思った。

 ボーカルの中心のお兄さんは確か去年は眼鏡をかけていたように記憶していたから、当初今年はきていないのかなと思った。生演奏が始まってボーカルの3人が揃っているのを確認した、昨年初めて参加してうまい人たちだと感心してつれあいを誘ってきた。そのつれあいがいきなりご指名に近い形で舞台に引っ張り出され「川の流れに」を唄う。楽譜があるのかと思っていたら歌詞だけでなかったらしい。そこまではよかった。ビールやつまみの差し入れをごまんといただくが胃痛がして食欲がない、ジャズフェスティバルの演奏を聴いているうちに、ふらふらとしてきた。なにをいちゃいちゃしているのと、上野さんに後ろから茶々を入れられるのだが、つれあいに額の熱を診てもらっただけのこと。熱があるよということになって、大事をとって泊まりの部屋に独り行き横になる。寒気があって毛布も含めて布団にはいる。

 振り返れば若きつれあいをゲットした青春のとき以外にあまり熱をあげたことのない人生だったが、幼い我が子の病気がうつって高熱を発症して以来、熱があがったこともなかった。なんでこの日に限って。

 ジャズフェスティバルの案内をいただき、いの一番に手を挙げ、その日を心待ちにしていたものを。「ああ、それなのに それなのに♪」当日、腹痛とまさかの発熱でダウン。胃痛が続き食欲もなく、熱も夜には38度まであがった二重苦。それでも、同行の人にそれぞれいただいた冷えピタと風邪薬のおかげで、夜中に発汗し朝方にはなんとか軽快した。しかしながら、地元のさんさ踊りや太鼓演技も観られず、夕食のBQを囲んでの痛飲もできず、朗読も聞けず、山小屋での歓談にも加われず、まさしく「新幹線使って何しに来たの」状態で痛恨の極み。

とほほの人生ここに極まれり。いやはや、いやはや。これに懲り、「養生」肝に銘ず。

2011年9月10日土曜日

思いが同じ孤高の芸人

 予定では1時間45分の案内でしたが、松元ヒロさんは2時間5分も演じていました。「3・11」を越しての1年ぶりの「ひとり立ち」公演。3回目らしいですが、新宿の明治安田生命ホールでの初日公演、満席でした。7月のうちに真っ先にチケットを確保しておいたので前の席で観ることができました。あまりにもよかったので今年はつれあいを誘いました。開演前にうしろの席を見渡しましたら、永六輔さんや小池晃さんと思しき顔をみかけましたね。昨夜のことです。

 この人から昨年、祝島の運動の話や核や原発、広瀬隆さんの話を聞いておりました。また、昨年は岩手の生協の人たちに招かれてものづくり(大船渡の醸造屋さんなど)のひとたちの話も聞いておりました。今年はその原発の話が2題(ドキュメント映画『100,000年後の安全』を紹介)、紳助さんの話にひっかけて暴力団との付き合いの実体験が1題(組との付き合いに巻き込まれた一度の経験を紹介して、今では「組」ではなくて「組合」ばっかしという落ち)、そして全国の公演のなかで香月泰男さんの記念館で観た心の動いた感想話が1題、故郷の話が1題。アンコールはその日のラジオニュースに合わせたパントマイムの熱演です。

 下劣なテレビには出られない、出ないお笑い「芸人」ですので、題目になんの遠慮もありません、婉曲ながらものごとの本質には辛辣です。爆笑の渦なのですが、ペーソスと共感を覚えるのです。難しいことをやさしくそしておかしく、ホントに誰でも難しいことはそのまま有耶無耶にありのままに表現してくれます。思いと目線が同じなのです。そういうことを、公の場で代弁してくれる快感です。そのことを「3,300円払って地下(会場は明治安田生命の地下)に集まって聞いてくれる人たち」とヒロさんはファンたちのことを揶揄します。それが本質と実態をついていてまた爆笑。

 山口県長門市の香月泰男さんの絵画「私のシベリアシリーズ」に描かれた抑留兵士たちに命令を聞く顔、死ぬ前の顔、死んだ後の顔を見てとります。表情がない、ということ。私は長い間の職場にそれを感じ始めていたことを想起しました、おそらく私自身も。半径500m以内に香月泰男さんはいくらでもモチーフを見出せたそうです。なんでもないことに。そのことの紹介にはっと勇気づけられました。

 公演のアンケートにろくなことをかけませんでした。でも、思いが一緒である人がいて、そのことを表現してくれる人がいる、そのうれしさをそのまま書きました。明日まで公演しています。岩手のようにこんな人を生協でも呼べたらいいなと考えていますが、大きくなったところって、無表情になっていくのかな…。

イタリアン

 今日まで子どもたちに言いそびれておりました。それで今朝がたみんなにメールで告げました。それで、今日が最後の出勤だったのかとリアクションがありました。そうではないのだけれども、今日まで黙っていてすまなかったと返信しました。今日は長い休暇の終わり。

 私たちの住む私鉄の最寄駅から200円も払えば終着駅ですが、関東圏は大都会でありますのでここは同時に始発駅でもあります。そこから歩いて20分、トイレのショールームがあるというので駅からはるばる歩いて行ってきました。そこで改めて違う業者さんに見積もりをいただきました。価格が違うものです。

 それはついでだったのですが、今日は職業人生最後の日ということであらかじめつれあいが予約をとっておいてくれたイタリアンレストランで「お疲れさま」の食事を二人でいたしました。

 JRの駅前にはいくらでも見栄えのいいお店があるのですが、全国どこにでもあるお店です。それらを通り越し、娘がかつて母親に紹介してくれたその小さなお店は看板すらありません。だけれどもいつも予約でいっぱいです。

 ご夫婦でやっているらしく、16人ぐらいも入ればもういっぱいです。メニューは日毎にたくさんあって、デイナーのコースをたのんでも二人3,900円でお得です。奥さんが給仕をやっていて愛想がいいわけでも悪いわけでもありません。だんなのシェフは一人でやっていますから、注文の料理は前菜から始まり、いくらか時間をかけて出てきます。食べることにいくらせっかちな私でもゆっくりと食べざるをえません。もちろん、感心するほど味と内容がいいわけです。

 奥さんにはどことなく生活に疲れたような雰囲気がありましたが、帰りしな、シェフのありがとうございましたという微笑に目と目があいました。私も笑顔を返しました。私には似合いのお店に思えました。なんの飾り気もプレゼンもなく、さりげない心配りと内実の行き届いたこういうお店が、私は心の底から好きです。このように、こころの記念にお祝いの食事をつれあいからおごってもらいました。うれしかった。

 往くときの道のりは遠く感じるものですが、ワインを一本空けて還るときはそうでもありません。月夜の下でついつい、あの夫婦の経営や収入はあれで成り立つのだろうかと二人で計算しておりましたね。今日はなんでもない土曜日、ちと蒸し暑い日でありました。長男からはまた、「まだまだ長い人生を楽しめ」とメールが入っておりました。

2011年9月7日水曜日

硫黄匂の余韻

 手を顔に近づけると爪の間から硫黄の匂いがする。ワイルドな湯を堪能した。

 地上に降りてきた実感で、新幹線の車中でよだれが出るほどぐっすり眠りこけた。もう往きのときのような、体調不良による寒気は感じなかった。

 気温は10℃、標高1400m山小屋と錯覚するような温泉宿に投宿した。今朝は天候不良で、車を走らせれば数メートル先の視界も見えぬ。全国的には快晴とのことだったが、どうも私には雲の上とか頂上とかいうところには似合わないようだ。

 数日間のドライブを終えてみれば八幡平国立公園の秋田と岩手を一周して帰ってきた。あいにく天候には恵まれず、すばらしい眺望も星空もご来光にも巡り会えなかった。音を立てて降る夜の雨と、考えてもみなかった寒気に見舞われた。しかしながら、降る調子がくるくる変わる山の雨の中、野性的なあるいは個性的な露天風呂のある温泉を梯子し堪能できた。訪れた先ごとの湯の中に右足の古傷、傷めている右肩右腕にギンギンとくる効能を感じた。しばし命の洗濯を楽しみ下界に帰ってきた。

2011年9月2日金曜日

分かち合いの秋刀魚

 笑い話で済んだからいいものの、あの日邦雄さんが市場にいたら命はなかった。

 邦雄さんはプロだから、魚の鮮度と品質にあわせて送ってくる。こちらの都合なんか聞かない。今回も危なかった、今日はいたからいいものの、明日からだったら居なくて受け取れなかった。初さんまだ、大きい。ご近所と息子夫婦におすそ分けする。

 女川では市場から遠く離れて少し奥まったところにあって、普段は一番不利な邦雄さんの工場だけがあの巨大津波から助かった。だから、これから女川の町に水揚げされるさんまはすべて邦雄さんの工場で仕立てて、各々の仲買仲間の名前でそれぞれのお客さんに出荷する。いわば分かち合いだ。そういうことがこの前のNHKの朝のニュース(8月26日)で紹介されていた。たまたまそれをみていたら、邦雄さんもテレビに映っていた。「見たよ、感心ですね」という趣旨の電話をその日にいれたら、そうしなければ生きていけないからと照れていた。

 蚊取り線香を炊いて、朝早くから床の拭き掃除。ズボンまで汗ぐっしょりになった。ソータローのご出勤に間に合う。今日は心おきなくハイハイさせられた。生ごみバケツとビン缶のごみを出す。午前中20数年ぶりに赤ちゃんをお風呂に入れる。4人も入れていたのに忘れるもんだ。私とつながっている小さな命を抱きしめる。

 リフォーム屋さんに来てもらい、トイレをシャワートイレにして内装も一新することにした。お金が消えていくが、至福の空間をつくるつもりだ。

 あれから1週間が過ぎた、もうずっと昔のことのような錯覚。

 さて、あすから岩手・秋田。
みんなにあってまたおバカさん言って、大酒飲もうかな。温泉入って肩直そう。

 今日の食卓は初さんま。刺身と塩焼き。大きくて脂がのっている。瓶ビールと器は冷やしてある。台風もきて断続的な雨と風。虫の音が響きわたる。秋を楽しむこころができている。
なにが幸せって、こういうことなんだろうなぁ。

おシュウトメさまと夏休み

 共稼ぎにもかかわらず、私が主たる生計費維持者ということをいいことに、食事の準備・後片付けはしてこなかった。その論理から言えば、このたび私は純然たる扶養家族になって立場が逆転した、もう大きな顔はできない。せめてもの、ということで食事の後片付け(食器洗い)に努めている。

 あのね、食器はこう立てかけて並べておくの、そうでないと水が切れないでしょ。昨日は何時にあらったの、まとめて?都度洗わないとね…。布巾はぎゅっと絞って、そうでなければ吊るして…。台所の初めの一歩、科学を指南されている。え~ん、姑さんといるようだ。

 夕暮れの赤い灯、青い灯。ビルの8階から久しぶりに巨大都市トウキョウを臨む。別に「久しぶり」ではないけれど。ここと、決別したのだ。昨日のこと、お昼の後ウトウトとして、起きたのは4時過ぎ。いけない、朝ならともかく、夕方の5時半に人に会う約束だ。キッチンを覗けば、流しに食器の山。朝と昼の分だ。前日につくりおきしてもらった惣菜の分もあって食器が多い。放って出ていけば「まかしんしゃい」と言っている手前、沽券に係わる。時間は迫っている。大急ぎで洗うが、今日の台所用液体せっけんはやけにすべる、ような気がする。何とか、洗い物の山を後にして、駅に向かえば、向こうからくる踏み切りの音。走る。休養をとっているせいか、走れてすべりこみセーフ。幸い、乗り継ぎがよくて間に合った。

 断続的な雨。今朝は5時前から二人して起きている。 床の拭き掃除から始めよう。今日からつれあいも遅い夏休み。

2011年9月1日木曜日

けなげ

 30年以上も前のこと。当局の無認可という不当な扱いに屈しもせず、専務と事務局一人っきりという職場を若きつれあいは担っていた。我々は第一子をもうけ、勤務先がお互いに逆方向だったので、長男の面倒はつれあいの負担になった。保育園に預け、ときには職場に連れて行き売店のパン箱に入れながらあやし、病気のときには伝手を頼って同じ団地の人のご好意に甘えて預けたりした。息子はきょとんとしてもいたが、泣き虫だった。私はその苦労を担っていないので、何かあれば生涯このことを引き合いに出される。

 母がお産の手伝いができるようになったのは、私たちの第三子の二男が産まれたときだった。10日間ほど応援に来てくれて、つれあいの母親と交代した。宗像郡の駅から博多駅に送っていった。車中、荒れた手をさすりながら、ふと、実の娘たちのお産の手伝いをできなくて申し訳なかったと、母は大粒の涙をこぼした。姉たちからも責められたことを知っている。ついこの間が誕生日だったから27年前のことだ。

 上の姉が第三子を産むとき私は学生だった。姉から長男の哲ちゃんを関西の兄夫婦のところへ預けるから行き帰り連れてってほしいとたのまれ引き受けた。兄のところにはひとつ上の娘と同じ歳の男の子がいた。新幹線で連れて行き、数週間後再び兄のところから平塚に連れて帰った。よく言い聞かされていたのだろう、哲ちゃんは思いっきりいい子をしていたが、様子を見に行ったら急に吐いたりお腹を壊したりしていた。医者にもみせ兄たちもずいぶん心配していたが、時が来て連れ帰った哲ちゃんは家に帰るや否やそういう症状はケロッと治った。

 明日もソータローを預かることになっている。お母さんは仕事モードになると子どものことも忘れるらしい、夫よりも企業戦士の素質があるようだ。昨日は朝の七時半から預かった。お母さんがいないからと泣くこともなく、よく遊び、よく寝てくれた。言葉こそ話さないが、何か話しかけてくるような言葉を発する。もうミルクではなく食べられる。夕方も六時ごろのこと、ピンポーンとチャイムがなった。集金だ、そそくさとつれあいが玄関に走った。そのときだ、ソータローの顔色が変わったのは。つれあいが一瞬消えたことではっと不安になったのだろうか。私があやすものだから、必死にこらえているのが見て取れる。ときどきつれあいにしっかと抱きつき、預けられた幼子は今の「保護者」が私たちであることを本能的にわかっていたのだろう。

 ジムに行く時間で我が家を出たところで、シホさんと鉢合わせ。定期買ったりしていましたと少し遅くなったらしい。ようやく母親が迎えに来た様子を察するや否や、わっと泣き出した。泣き止まなかったそうだ。つれあいもギリギリの時間だったので、今夜のお惣菜と一緒に、ソータローを渡した。後ろ髪をひかれながらも我が家を後にしたらしい。

 哲ちゃんも、息子も、もういいおっさんになった。しかし、そういうことを想うとき、哲ちゃんも、我が子も、ソータローもぎゅっと抱きしめたくなるような衝動にかられる。