2011年8月14日日曜日

斃れて小骨を残す

 魚にはつくづく骨があるものだとあらためて思う。
 人間は夏バテを克服するためだと手前勝手なことを言って、うなぎを生きたままかっ割き蒲焼きにして多量に食べている。ウナギにしてみれば幼少のみぎり、さあこれから川に上ろうというところを拉致され、狭き池に鮨詰め同様に入れられた上、果ては年端もいかぬ月齢で身を裂かれ、蒸し攻めタレ攻めの火あぶりにされて食べられる。たまったものではない。我々も環境問題がどうのこうのと言いながら、絶滅を促進するほどうなぎを売ってもいる。
 そして、大事な命を奪って食べておきながら、今度は「骨が多い、喉に刺さった」などの苦情がそれこそうなぎ上りだ。どれほど加工の手を加えても、骨無しにすることはできない。そりゃあ、喉に骨が刺されば一大事であることはよくわかるし、気の毒だ。私にも経験がる。しかし、どうしたって魚には骨があるし少しは残る。痛い目にあって経験を積む。そのことを当たり前として、人間は魚に合わせて食べ方を考えてきたはずだった。気をつけるように伝承してきたはずだったが、それが今ではすっかり魚や魚を売った側が悪いことになっている。魚がなんたるや知りもせず魚が悪いと騒ぎ立てたとて、ひと昔前は相手にもされなかったものだが…。

 魚には骨があり、ときには刺さりもする。何事も起こりえず思うようになると思うことのおかしさよ。

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