2011年8月31日水曜日

育児(育ジ)中、しっ、静かに

 孫のソータローが水ボーソーに罹っているのが判明したのは先週の金曜日ごろ。1週間から10日は保育園も禁止。さて、途方にくれたのが母親のシホさん。というのも、約1年半ぶりの出産と育児の休暇を明けての職場復帰が8月31日の今日から。そこはそれ、祖父母の私たちがついている。水曜日つれあいはもともと休み、さらに遅い夏休みを金曜日からに繰り上げて今日と明後日預かることにした。それで、昨夜のうちにおもちゃ、着替え、おむつを持ち込んでもらった。シホさんはしっかりしていて1日の育児の日程やポイントを1枚のメモにして寄越した。

 今朝は7時半から預かり、その足でシホさんは久方の出勤。それなりに緊張のご様子。子育てが大事なのだから、開き直って頑張れと励まして、カンカンと火打石を打つマネをして送り出す。

 アパートに比べれば広い我が家にソータローはきょとんから始まる。母親がいなくなったといってとくに泣かなかった。つかまり立ち、2、3歩歩きで遊びだす。とにかく目の高さのものに何でも興味を示す。獲物をつかんだら、なめたりしてあとは放り出したり、投げ出したりするのが好きだ。おいおいジジが投げ出す人だからといってそんなマネをしてはいけない。気仙沼のじじばばの遺影を見つけては、それをめざしてハイハイで迫る。もう慣れたが手の届くものは全部避難させる。

 育児の合間に、かねて実施しようと思っていたLANケーブルの配線固定を二人で取り組んだ。テレビからルーターまで約15m、不器用な私がステップルを要所に打ち込みなんとかこなせたのは、昨日の配線工事のお兄さんを観察してよい参考になったからだ。

 ソータローはベンチいすの上に重ねていた新聞を見つけてこれを放り出すことを始めた、まあそれなら実害はないので放っておいた。そうしたら新聞の山の中でいつのまにかうつ伏せ寝。半年に一辺新聞整理をして疲れ果てているワタクシのように。これがよかったみたいで、1時間半後、起きるのも自然でご機嫌よし。オムツを換え、薬を塗る。朝は口内炎か何かでよく食べなかったというが、お昼はよく食べた。もう、離乳食なのだ。いっちょう前に食べた。今度はプラスチックの分別ごみ箱をみつけ、たまたま中味は仕事時代の商品の包材のヤマ。それもきれいなものだったので好きなだけ放り投げて遊ばせる。そのうち、あくびをして眠たそうになる。今度は寝室に連れていった。二つの布団で川の字になるが、見慣れぬ場所で落ち着かないのか、廊下に出て行ってきょとんとしている。本人がどうしていいかわからなくなったころ、絵本でつって布団につれこむ。しばらくしたら、寝た。いちころ。

 長男が共済に入るとのことで、我が家で二男と落ち合うことになっている。「母の手料理」を用意する手筈。長崎の湯がき大根、高野豆腐、ひじきに大豆、干し椎茸、乾物という素材はいいものだ…。

 夏の終わりを告げる蝉が鳴きわたる。蒸し暑い。息子夫婦は外勤で汗水流しているころだろう。安心せよと二人に写メールを送る。

2011年8月30日火曜日

BSアンテナ新調

 6時前には起きる。7時には朝食にしている。いつものとおりだ。日曜日が遠い昔のような錯覚。昨日は、働きにも出ず家に居るのが罪悪感を覚えた、これはまずい。

 本日、晴耕雨読には絶好の日和。しかし、畑もなければ耕し方も知らない。お父さんこのままだとボケるよと忠告される。まっ、そのうち何とか…。通勤時間の読書がぱたっとなくなり、かといって時間はあるのに読書をしていない。雨読を怠り、晴耕は今のところ手段をもたない。食後の歯磨きに努める。手持無沙汰に腹もすいていないのに何かをほおばってしまうだらしなさを回避したいため。

 我が家で一番居心地の良いのは寝室にしている和室。日当たりと風通しがよい。今日はBS・CSのアンテナ工事に来てもらった。リビングや居間には引いていたが、寝室にはBSアンテナの線を引いていなかったので、この際アンテナを新調してついでに分配と配線の工事をしてもらった。これで、寝っころがりながらBSが観られる。寝ながらテレビを点けっぱなしにしがちだ。つれあいはこれを強く指摘する。そのとおりなので気をつけようと思うが、読書もテレビも見ながらうとうととくれば眠ればよし。これぞ、楽隠居の醍醐味。

 が、しかし、運動不足の可能性がもたげてくる。これまではなんだかんだといっても、よく歩き回っていたし、ビルの階段も昇り降りしていた。昼休みになれば縄張りを散歩する雄猫のように、なじみの本屋、電器屋、図書館を巡回していた。今日は歩いていない。引きこもっているから。やばい。

 あれこれ忙しくはしない。当面、骨休め(ずっとそうなる可能性もあるけれど、考えない)。とは言っても生活は律しよう。

2011年8月29日月曜日

慣れず

 ゆったりと時間はある。しかし、やはりあせる。せわしくなければならないと考えている節があって、居心地のよいものではない、今のところは。


 二男の誕生日。遅番で夜の8時半帰宅(それでも抜け出して帰って来たのだと云う、いつもはもっと遅い)。それからシャワーだというので、9時過ぎに長居はしない乾杯だけということで焼酎黒五代をプレゼントに持ってアパートを訪ねる。我が家のハッピーバスデーのオルゴールも持参する。我が家ではこれを使うのが恒例だ。孫が寝つけず起きてしまったので、オルゴールは使うことができて♪ハッピーバスデー トゥ ユーを唱和する。27年経った。1児のパパ。

2011年8月28日日曜日

今日は日曜日

 朝一番に公民館に行って、地元の登山サークルが主催する至仏山企画に応募する。マイクロバス2台分の参加者になった。

 今日は日曜日だ。休みの今日までに何やかやしておかねばという感覚がまだある。朝刊のテレビ番組欄を見てBSの映画『毎日が夏休み』を観ようかなとふとつぶやいたら、昨日から我が家に泊まっているTさんにくすっと笑われる。ゆっくり過ごしてもらって駅まで送る。昨夜はあれこれの話に明け暮れた。とっておきの気仙沼の日本酒を容器にこだわり冷酒でふるまった。あいかわらず強い。ただ、コップ酒でなければペースがわからないと。思い起こせば昔から”器“が違った。彼は成るべくして、トップに成った。

 お昼を済ませて、あわてるようにこの町のリフォーム屋さんに行く。トイレのリフォームをすることにした。つれあいに、お父さんはこれから「サンデー毎日」ですからと言われる。これからは我が家で至高のひとときを過ごせる施設と空間にしたいから。

 長男夫婦に陣中見舞に行く連絡をつけたら、チカさんは寝込みがちで、息子が四苦八苦の様子。手みやげよりも手料理がほしいとのことで、タッパーに惣菜や食材、まぐろの柵を詰めてそそくさと出かける。それならそうともっと早くに言ってくれたらいいのにと思いつつ長男の家に電車で向かう。あいにく、今日から定期が切れていた。チカさんは少し痩せたように見えた。もともと細めの身体なのだがもうお腹が目立ち始めていた。お祝いをのべて、つれあいの手作り料理で夕食を囲む。そして、私のことに触れた。

2011年8月27日土曜日

初日…

今日から、

襟なしシャツに半ズボン、サンダルに帽子。

それでおしまい・・・。

・・・ところが、思っていたよりずっと涼しくなった。

たまたま、泊まりがけで訪ねて来てくれたTさんの接待に明け暮れる。

2011年8月26日金曜日

今日でお別れ



今朝は奇妙なことに寝ている間にくしゃみが出て早くに目が覚めた。

定期に財布、ハンカチにティッシュ、自転車の鍵に家の鍵、お弁当に携帯電話、帽子。ときには、どれかを忘れることがあった。

玄関を出るところ、自転車に乗って出発するところを2枚写真に撮ってもらった。

今週の金曜日の朝は生ごみバケツを出す以外に何もない平凡な朝である。日が射して蒸し暑くなる。

いつもの電車にいつも通りに乗って最後の勤めに出かけた。

いつものとおりの仕事をこなしつつ身辺整理を急ぎ、みなさんに謝意とお別れを告げ、貸与されていたIDカードと認め印を総務に返却し、午後からの雨の中をいつもより少し早めに帰って来た。

玄関で長い間ほんとうにおつかれさまでしたとつれあいにねぎらわれる。奇しくも菅さんの退陣表明と同じ日になった。

2011年8月25日木曜日

臆するなかれ

 都内の山手線沿線と郊外の自宅をただ往復して四半世紀。
 実は東京のことなどほとんど知らない。赤坂のどこそこと言われてもほとんど臆してしまう。ここはどこなんだ。お尻が落ち着かない。だいたいこんな大きなビルなんて地震かなにかあったらどうなるんだ。

 帰りは溜池山王駅にもぐって丸の内線をめざすのだが、なかなかたどり着かない。途中でMさんに出遭う。レースのような緑色の衣裳がなかなか素敵なのだけれどもそのお愛想も言えず、追い越していく。なんだか複雑に進んで、千代田線をつっきるらしい。ホームで遠目にNさんに似た人もいるものだと思って通り過ぎようとしたら本人だった。ちょっと会話を交わし過ぎ去る。多少酔ってはいたが、まるで雨月物語のようだ。あっ、お米のお礼を言い忘れた。種子島の新米だ、多分初めてだと思う。ようやくたどり着いた丸の内線は国会議事堂前というらしい。

 明日のお茶の売り込みうまくいけばいいと思う。松下さんの矜持は聞いた。射場さん串間さんみんな大挙して東京に出てきた。営業はたいへんだ、臆するなかれ。

根本的に

寝てしまうことが解決策のひとつだと考えている。
これまで身のまわりのちまちましたことはそれで済んでいた。

しかし、貧困と戦争と放射能は違う。

2011年8月24日水曜日

酔った、寝る

 酔って帰ってきた。よくぞ乗り過ごさずに帰ってきた、いや危ない場面が二度ほどあった
今日のメンバーの中に思いがけず久しぶりにOさんに会った。職場に居たころとはずいぶん違う。あれ、こんな素敵な女性だったっけ。今度はなんの商売するのですかと訊かれた。ベルギー人とフランス人が友達だと言って連れてきた。もうすぐ明日、さあ、寝よう。
 そういえば、Yさんから丁重な心からの惜別のメールをいただいた。まだ、私からみれば若いだけに彼女の悩みや迷いが気にかかる。さて、寝よう。

 

2011年8月23日火曜日

めぐる

 母に「女が産むときの苦しみに比べればたいしたことはなか」と言われたことがある。
 休んだ次の日の出勤はときどき気が重い。それもあと3日。それでおしまい。チカさんは初めての懐妊に加えて二人も授かったことの不安を覚えたそうだ、それはそうだろう。

 今日から、できることを始める。ことにする。夕食に味噌汁はつくった。ゆで卵をかねて買い置きの「電気ゆでたまご器」でつくった。そして、後片付け(茶碗洗い)をした。

 兄が戸籍を調べたときに自分が双子であったことを知った。母も初産に双子が授かったのだった。難産だったようで兄だけが助かったらしい。母は結局死ぬまでそのことは一切話さなかった。兄もそういう生い立ちのせいか幼少のころは弱かったそうだ。学校にあがるのが3年も遅れた。

 息子の祖父母が不慮の死を遂げ、そして今度は息子の二人の子供が今宿る。
一方、シホさんはいよいよ来週から職場復帰。私は遅い夏休みに入る、ただし終わりはなくなった。

 めぐり巡るのだろう、今日は母の命日。

門出だ

♪そんな時代があったねと、いつか話せる日がくるわ
♪まわるまわるよ 時代はまわる

 二人は30をいくつか過ぎ始めていたから、結婚して何年か経てもいて、そろそろ心配になっていた。話題にできなかった。いや、一度もしなかった。それが、ようやく長男夫婦に懐妊の朗報。向こうの両親は私たちよりも一回り年上で初孫だからどれほど喜んでいることだろう。

 シホさんの育児休暇が終わり来週から職場復帰。それに合わせてソータローの本格保育園生活開始、いわば人生初の社会参加みたいなものだ。

 そして、私の卒業。最近は「おめでとう」と言われている。

 家族でお互い、お祝いをしなきゃ。
 でも、私の門出のことは子どもたちには言いそびれている。

2011年8月22日月曜日

梨とボールペン

 同僚のO君に先週末になって別れの挨拶をしたら、どうしても送別会をしてくれるというが日程が空けられなかった。そうしたら、今朝、私のフロアにあがってきて、餞別にパーカーのボールペンをくれた。必需品なので実にありがたい。パンフのことは冗談で今度は餞別にとは言ってはいたけれども、それも金はいらないと寄越された。くそがつくほど、まじめな人で下積みばかりだが、職場でも労組でも声をあげる努力を怠らない。頭がさがる。私には足りないひたむきさ。

 夕食をとっていたら、宅急便。チカさんの両親の里の富山から梨が届いた。なにか、この涼やかな気温といい早い日暮れといい、秋のような錯覚におちいる。梨は好物なのでこれもありがたい。ここ数年定番でいただいている。早速つれあいが御礼の電話をかけて、おめでたの話をお互いに喜び合う。同じタイミングでこの朗報を聞いたそうだが、お母さんは早速娘のところに行ってきたそうだ。

 桃も食べといてよかった。小市民的幸福。その日がくればいばらきのあんこう鍋も食べられるらしい。
 明日は母の命日、休みをとる。暑さがぶりかえすらしい。

 録画しておいたNHK「日本人の戦争・後編1944-1945」を半分観終わる。

2011年8月21日日曜日

重さ

 金曜日から雨模様になりすっかり涼しくなった。昨夜、BSで映画「人間の条件」全6部を観終わった。興奮冷めやらない。これほどの大作だったのだ。

 小雨模様の中、チェーン店の古本屋さんに本を二箱分持って行ったが、ほとんど買ってもらえなかった。買ってもらえた本代45円也。最近はトイレットペーパーと交換できることもありますと言われ、それもそうだと素直に引き取るが、朝から気分が悪い。評価を待っている間に見つけた新書『吐噶喇列島』(斉藤潤 2008年)は300円也、買い求める。下重暁子さんの『不良老年のすすめ』(2000年)もあったが、この次にしよう。『持たない暮らし』(2008年)は最近読んで、よかった。

 つれあいは先週、初めて遠近両用の眼鏡を発注した。それが仕上がったのでそのお店に立ち寄る。しばらくは2時間ほどにして慣れるまでかけ続けないでくださいとのこと。私は以前そうしなかったから、遠近両用に否定的になったのかな、使いづらかったので今のタイプにしている。古い話だが、昔のNHKの「事件記者」という連続番組の誰かが確かレンズがはねあがるタイプの眼鏡をかけていたと記憶している。あのタイプにして具合がいいのだけれども裸眼の視力も少しあやしくなってきた。

 家電量販店に行く、結局2度通った。カーナビの実物とパンフをみる。小さい画面ではだめだと実感。LANケーブルを買う、この前購入したテレビはブロードバンドがみられるからだ。早速繋いだら見られた。チラシ売り出し掲載のBS・CSアンテナと分配工事のことを聞き、発注した。他に「ビデオキャプチャー」を購入。昔の8mmビデオを、パソコンを介してDVDに焼き付けられるという謳い文句につられて。さて、どうなるやら。えこひいき国策「エコ・ポイント」で取り替えた商品券を使う。

 さて、人生の半ばを折り返しほんの僅かばかりの苦労もして、あらためて鑑賞して“人間の条件”とはそういうことだったのかとこれもまた、ほんの少しばかりわかったような気がしてきた。40年近く前にこの映画を観ている。そして、幾星霜、自分が「梶」のような人生をこれっぽっちも経てこなかった“小人生”であったことも…よくわかった。近道を求め逃げ回りの道を歩んで生きながらえてきたのだから。

 昨日録画しておいたNHK「日本人の戦争・前編1937-1944」を夕食後観る。・・・。「後編1944-1945」は明日以降にする。700人の証言集、重い発言、ときに号泣、・・・
 戦争、(貧困)、そして直面してこなかった「原子力ムラ」、大連立、をあらためて思う。

 3時間を2本録画、合計6時間。心配がある、私自身が家族である次の世代に引き継いでいるのだろうかと。我が子たちと一緒にこの録画を観ることを提案してみようと考え、つれあいと話し合う。

2011年8月20日土曜日

4人で大事なお食事 余話

♪鈴のなるときゃ
なんというてでましょ 
ヨーオーホイ
駒に水くりょと
いうてでましょヨー


 相手は少し遅れるというので、しばらく食事処のお店で待っている間、カーナビの話を持ちかけた。

 私の軽カーに装着したいからだ。ワゴン車から軽カーに買い替えてから一度も遠出をしたことがない。家族でどこかへ出かけることもなくなったことと、カーナビ無しで出かけるのは難儀で億劫だと思うようになったからである。

 それで技術者である甥っ子の哲ちゃんに尋ねてみたら、待っていましたとばかりに、諳んじてくれる。P社がいいと。品番まで言える。アキバで買えば愛想なくて事務的だけど安いと。

 ならば、任せるから、ひとつ買ってきてくれて、おまけに装着してくれないかと持ちかけた。彼の工場は今、節電シフトで土日ではなく水木が休みらしい。いつにします、というから叔父さんこれから(いつでも)ダイジョウブだからとはぐらかす。
 
 哲ちゃん得意のフィールドの話をしたから、目に見えない緊張もほぐれたようだ。アルコールもいけるようになっていたっけ。

 酔って帰って、どうでしたと訊くから、休みが水木だってとつれあいに話したら、あら知らなかったのときた。自動車メーカーも関連会社も皆水木が週末ですよ、とっくの昔。それで、どうだったのときた。私はいつも世間に疎い。これからもっと疎くなりそうだ。

 それはそうと、カーナビが装着できれば・・・。むふっ。

2011年8月19日金曜日

双子?!

今夜、映画『人間の条件』第5部をみましょ、という直前に家電が鳴った。
つれあいが電話を受けた。
長男かららしい、・・・ん、
・・・子どもが授かったらしい。ようやくだが、それが二人も!えっ?。
4カ月だとのこと。
まだ、先のことだがこれはいっぺんに賑やかになりそうだ。

要するに、いきなりの朗報だ!った。よかっこつ!!

甥っ子の哲ちゃん

♪庭のさんしゅうの木に
なる鈴かけて 
ヨーオーホイ 
鈴のなるときゃ
でておじゃれヨー


 昨日は録画しておいてもらった。今夜は10時からだ。

 映画『人間の条件』は学生時代、繁華街である新京極のどこぞの映画館のオールナイトで一気に観たのだと思う。記憶が一致しているから、彼女(今のつれあい)と観た。仲代達矢さんの余りの熱演に、それ以来仲代さんを「先生」と呼ぶことにして久しい。
それで、今般NHKBSで再度観ているのだが、さっぱり覚えておらず、初々しく鑑賞できる。

 身内といえども甥っ子のことは断片的にしか知らない。機械いじりが好きで、本人によれば「いじり」ではなくて「改造」らしいが、就職先も好きな道を選んだ。ほとんどマイナーなメーカーに入った。そこがつぶれたが、幸い次のメーカーに再就職できた。工場が私の通勤沿線にあったので、アパートを一緒に探し、隣の町に住んだ。ところがそのメーカーも業績不振で人員整理、甥っ子が失職したのは30代半ばを過ぎていた。さすがに私も慌てた。しかし、さすが甥っ子、技術職として腕に覚えがあったので、再就職活動は順調に進んだ。さる大手メーカーと町工場みたいなメーカーに合格した。町工場の社長からは将来工場を任すとまで言われたそうだが、さすがに二度の失職に凝りていて本人も私たち周りも自ずと「安定」の方を望んだ。 

 私の母は少し封建的な考えの持ち主で、男児には立身出世を願い、娘は手元に置いておきたいと考えていた。なにしろ士族の出で明治生まれである。下の姉は猛反発し、上の学校に上げてやるという両親の説得を蹴って、東京に自分で就職先を探し高校を出るや否や家を出て上京した。その後、その就職先には後輩たちも続いて入ってきたらしく、自分がそのパイオニアであることを少し誇らしく思っている。この姉は結婚相手も自分で決めた。
 一方、上の姉は母に従い、当時流行の服飾専門学校を出て地元のデパートに勤め両親の元で暮らした。そして、言い寄る相手もあったと思うがいつのまにか婚期を逃した。母は必死になって相手を探し、ついには東京でさる企業の副社長をしている弟に頼み込んだ。この叔父の骨折りで、自分の会社の社員との見合い結婚にこぎつけた。それは、宮城県松島の人で、結局は故郷を離れることになって、父も亡くなっていたから母と私だけが残された。亡き母の思い出話になったとき、上の姉こそ東京に出たいと心から望んでいたそうだ。それで妹のことがうらやましくてならなかったそうだ。姉は結婚して転勤で各地をまわって一男二女に恵まれた。

 その第一子が、この話題の主人公甥っ子の哲ちゃんである。
 人のいい子でまじめなのだが、なぜか浮いた話も聞こえてこなかった。母の葬式で皆が集まったとき話題になって、女の従兄弟の目からみても「いい人なんだけれどもねぇ…」という感じだった。兄の子で同じ歳の裕くんは少し蔭りがあって、あれならもてるかもという評価とは対照的だった。

 たまに姉に会えば「いい人がいたら世話して…」と言われるのが鬱陶しかった。結婚相手は自分でゲットするもの、私がそうだったので「本人の問題」と突っぱねていたから。とはいいながら、心にひっかかっていた。私の叔父のとりもつ縁で生まれた甥っ子、巡り巡って私自身が叔父としてできる範囲でならとは思っていた。

 あとは本人たちの問題。ひょうひょうとしている、哲ちゃんに飾るところはない。いつもあんな感じだ。それでいいという人、性格のいい人と一緒になってくれればいいと思う。それだけが価値のすべてだとは思わないけれど、できれば家庭を持ってほしい。家族をつくってほしい。まっ、「赤い糸」で結ばれていなかったらそれはそれで無理をすることはない、哲ちゃん自身がわかっていることだろう。独りも生き方だ。

 昨夜はそういうことで映画『人間の条件』第四部を観ることができなかった。

2011年8月16日火曜日

こころの時代

二人で桃を食べている。
桃は高いからと逡巡し、そうしてほとんど毎年季節を逃してきた。
とはいってもたまには買い求めた。なんだか駅頭に停められた軽トラのアーク灯の下で怪しげなものを買ったこともあったかなぁ。安物買いの銭失い。
それでもたまには家族6人じゃんけんで順番に食べたのがなつかしい。

朝は早く起きている。
午前五時なんて、もうどうっていうことはない。それで14日日曜日も起きた。それなのに、どういうわけかその日に限って二度寝をしてしまった。
つれあいは頑張ってNHKEテレの「こころの時代 フクシマを歩いて」を観た。
そして、すごくよかった、よかったと私に語りかける。ついにはNHKに連絡して、ぜひ再放送をと働きかけた。そしたら返事が来た。

来る8月20日土曜日の13時~14時に再放送(NHKEテレ)されるらしい(但し、高校野球の関係で変更になる場合もある)。もともと再放送されることになっているらしいが。

在日2世の作家ソ・キョンシク(徐京植)さんが被災地フクシマを歩き考える、という内容らしい。各地を訪ね、南相馬の地に残る学者の佐々木孝さんらと語らう。その中味がよかったと言う。 心地よい対話だという。

これからは食べ損なうまい、観損なうまいね。

NHKのホームページより(8月14日(日)午前5時00分~6時00分)
こころの時代~宗教・人生~ シリーズ 私にとっての“3.11”
在日朝鮮人の作家・徐京植(ソキョンシク)さんは、原発事故以降、韓国の知人に避難して来るよう言われたが、動かなかった。なぜ、日本にとどまったのか?徐さんは、その理由を探して福島を訪ねた。耕作禁止の田で働く人、周囲が自主避難するなかで動こうとしなかった人、朝鮮学校の子どもとの出会いから、アウシュビッツや広島の破局を見た人の警句を想起し、原発事故が社会の何をさらけ出し人間の何が問われているか考える。

2011年8月15日月曜日

何を食べ急ぐ

 結局いつもがつがつと食っている。食べ物がなかった時代に育ったわけでもない、兄弟が多かったわけでもない。
 昼の弁当なんか、まるでリスさんのように両の頬に詰め込んで、しばらくするとごっくんと呑み込んでいる。たいした咀嚼もしていない。10分だ。食べているという行為ではない。
 私だけかと言うと同年代の友人、知人にもいる。
 せっかくつくってもらった弁当も早食いで食べてしまって、だから何をしたいわけでもない。散歩(ウォーキング)がてら、本屋さんには行くけれど…。
 夕食だってこの調子。それにビールをごくごくと飲んでしまいながら、つれあいが汗水たらして調理してくれた手料理もペロッとたいらげて、ケロッとしている。20分もかけていない。
 それでクラクラときた(酔った)といって横になったりするものだから、ちょっと失礼じゃないのかと、あとでみっちりやられる。ぐうの音も出ない。

予定は決めない、だから時間はたっぷり。
何にも縛られない、何者からも指図されない。
66回目の終戦の日
 何を食べ急ぐ…。

2011年8月14日日曜日

斃れて小骨を残す

 魚にはつくづく骨があるものだとあらためて思う。
 人間は夏バテを克服するためだと手前勝手なことを言って、うなぎを生きたままかっ割き蒲焼きにして多量に食べている。ウナギにしてみれば幼少のみぎり、さあこれから川に上ろうというところを拉致され、狭き池に鮨詰め同様に入れられた上、果ては年端もいかぬ月齢で身を裂かれ、蒸し攻めタレ攻めの火あぶりにされて食べられる。たまったものではない。我々も環境問題がどうのこうのと言いながら、絶滅を促進するほどうなぎを売ってもいる。
 そして、大事な命を奪って食べておきながら、今度は「骨が多い、喉に刺さった」などの苦情がそれこそうなぎ上りだ。どれほど加工の手を加えても、骨無しにすることはできない。そりゃあ、喉に骨が刺されば一大事であることはよくわかるし、気の毒だ。私にも経験がる。しかし、どうしたって魚には骨があるし少しは残る。痛い目にあって経験を積む。そのことを当たり前として、人間は魚に合わせて食べ方を考えてきたはずだった。気をつけるように伝承してきたはずだったが、それが今ではすっかり魚や魚を売った側が悪いことになっている。魚がなんたるや知りもせず魚が悪いと騒ぎ立てたとて、ひと昔前は相手にもされなかったものだが…。

 魚には骨があり、ときには刺さりもする。何事も起こりえず思うようになると思うことのおかしさよ。

2011年8月11日木曜日

赤い糸

 多かれ少なかれ人にはナルシズム(自己愛)というものがあるらしい。それをモチーフにアンデルセンは童話を描いた、「赤い靴」のように。

 では、なんの脈略もないが「赤い糸」というものはあるのだろうか。私たちにはあるような気がしたのだけれども、自分らのことは主観なのでなんとも言えない。

 その「赤い糸」がありそうだ。手繰り寄せようとしているように見える。ひとのことはほほえましい。

 そうしていたら、つい話のはずみに、いやかねてから考えていたことだったけれども、40を1個過ぎた甥っ子(姉の子)を彼女に紹介することになった。歳も似合いだし何と言っても性格がいい。二人にそれぞれ話したら、拍子抜けするほど会ってもいいですよという話になった。善は急げ、いや私の定期があるうちに都内で引き合わせることにした。

 絆や赤い糸で結ばれる社会がいい。自分を大切にすることにもつながる。

2011年8月9日火曜日

いいのかな

 「飲む打つ買う」で、お調子者でよく飲む(吐く)、いそいそと買い物は好きだ、いや依存症ぎみで小銭入れには1円玉。それが、鬱ならあるが「打つ」ことはないなぁ、虎穴に入ったことはなかった。四児は得たが虎児は得ず。
 そうして波平さんのサラリーマン人生が終わる。「東条英機」のようでもあるのに。

 私の家から遥か南は都内だ。その方向の空が真っ暗になって、昨夕(7日)は電車を数時間も止めるほどの局地的雷雨となった。昨日もその大気の不安定が報じられる中で、洗濯物を外に干して出勤した。今日の洗濯物を外に干していくかいかないかぐらいの賭けはできる。

 帰宅途中の乗換駅で東日本大震災復興宝くじの発売が明日(9日)までだと聞いて慌てて買った、おかげで乗り換え電車に乗り損ねるところだった。職場で話題になっていて知っていた。日頃宝くじには何の興味もないし、政治がやらずして宝くじで資金をねん出しようということには異議があるが、それはそれとしてそのぐらいの賭けなら買おうと思った。

 ちょっと賭けるか。言ったほうも賭けだぞ。

2011年8月7日日曜日

万感の思い

 昨日8月6日の原爆忌は万感の思いで黙とうを捧げた。
 「万感の思い」とは何かというと言い表せない。「万感」なのでたくさんあると思うが、ひとつは悔しさだろう。被爆者は原子爆弾・核兵器によって無残な殺され方をし、生き残っても苦しみと恐怖と「自責」と差別を受けた、そういう二重の残酷さへの悔しさの思い。そして、とうとう「フクシマ」原発の人災が惹き起こされた。原発によって撒き散らかされた放射性物質について、日を追うごとに「『被害者』が被害者を追い詰めている理不尽さ」が募っていると考える。

 今朝の新聞をみて、つれあいは涙を流した。
 津波被害にあった陸前高田の「高田松原の松」でつくった復興への思いをつづった薪を京都大文字焼で燃やそうとしていた計画を、放射能は大丈夫かと琵琶湖の水が汚染されるとの不安の声で、中止になったと報じられていた。初期の「ほうれん草誤出荷」事件以来、ずっと喉のあたりにひっかかっていることにも通底する。

 どこに線引きがされてどうであれば安心かということもさることながら、放射能汚染は3月のメルトダウンが起きた時点で既に本質的に深刻な事態である。ほぼみな被害者になった。消費者が食品に残留放射能を避けたいそのことに異論はないし、市民が環境に放射性物質を避けたいそう主張することにもそれはそうだと思う。内部被ばくなど新たに「被害者」にはなりたくない、そう考えるのは自然なことだし、その「被害者」をつくらないことは重要なことだ。

 だけれども、農業者や漁業者、被災地の住民が第一義的に被害者そのものではないのか。被災地で農作物や畜産物をつくった、ようやく沿岸で漁獲したものを流通させた。或いは被災地のものを流通させた。放射性物質の検出によって、あるいは検出の如何にかかわらず、それが何故、まるで「加害者」であるかのごとき扱いになっていくのか。「過失」を犯したかのようになっていくのか。もちろん、加害者であるとか過失であるとか誰も言ってはいない。買って食べるだけの「消費者」や、原発からたまたま遠いところに居住しているだけの住民の心無き仕打ち、無情さ。制御できない放射能が人を引き裂いている残酷さ。

 「万感の思い」とはそういうことに直面することになった現実への漠たる悔しさなのかもしれない。そう思えばこそ、コトの本質、「脱原発」は正当な主張だと考える。その「脱原発」をブログで言った若いタレントさんが翌日には「謝罪」をして撤回をしたらしい。原発への主張は「やらせ」どころか強制があるらしい。戦争反対を言えば激しい弾圧を加えられ、破滅への道を歩んだことと同じことが未だに横行している。ぶんぶん、ブンブン。

2011年8月4日木曜日

さて、ソータロー

 私がこの世に生を受けた時、父方の祖父母はこの世にいなかったが、母方の祖父母は健在だった。しかし、その祖父母の膝の上に抱かれてかわいがられたという記憶は私にはない。同居していたわけではなく、あくまでも母の実家の祖父母で私は外孫だった。私自身が子供らしく無邪気に祖父母の胸に飛び込んでいくタイプでもなかったし、祖父母も孫だからと言って猫っかわいがりする人たちでもなかった。祖父は母からお祖父さんにきちんとお辞儀をしなさいとしつけられた畏まった対象ではあっても、甘えていいよという感じは微塵もなかったように覚えている。

 そんな私自身がいつしか4人の子の親となりそれをまがりなりにも育て上げ(つれあいには失格者の烙印を押されるが)、果ては祖父になったことも何か不思議な気がしている。そして、そういう生い立ちのせいか、孫だからといって私も孫を猫っかわいがりはしていない。おんぶだって抱っこだってするし、こっそりおもちゃだって買ってはいるが、べたべたはしていない。

 ソータローはよく言えば活発で、悪く言えば今のところ乱暴者のようだ。息子にはそういうところがなかったので誰に似たのだろう。そのソータローも8月に入っていよいよ保育園に通うことになった。月末から母親のシホさんが職場復帰するからだ。近所の保育園に入れたのはよかったが、シホさんもカルチャーショックを受けている。先に入園している同年代の子供たちが自分でご飯も食べられるしいろんなことができるそうだから。しかし、一番はソータローかもしれない、小さな人生の転機になっているから。第1子の子育てはいつも大変だ、いつもうちの長男のことを想いだす。

 その8月も四日目が過ぎた。さて、私はなにをしたかったのか。

2011年8月3日水曜日

「時間はあなたのもの」

最寄駅に帰り着いたらどしゃぶりに見舞われる。今度の新潟福島の豪雨はこの比ではなかったのだろうが。駅のスーパーでその場しのぎにいつも買う傘は簡単に壊れて実質役に立たない。これに懲りて、倍はしたけれども、かねて生協の企画で買い求めていた傘はさすがに丈夫だ。それでも、帰り着いたらすっかり濡れてしまっていた。
今年の夏は梅雨明けが早かった分、今になって梅雨のような天候が続く。気温が極端に高くならないだけましだが。

私のことは職場の電子掲示板で月曜日に公表された。声をかけてくれるのは「おめでとう、いいなぁ、夢でもあんの?」という派と、心配して「定年までもう少しなんだろ、なに我慢できなかったんだ?」という派に分かれた。

失うことを考えていたら滅入ってくる、それでなんのためにふんぎりつけたのか、得るもののことを考えることにした。そうしたら「時間はたっぷりあなたのものです」というフレーズを思い出した。

それにしても、細かいこと(手続きや判断)が必要なんだなぁ。大事なことで自分のことなのだけれども、大あくびが出る。苦手なのでつれあいに読み込んでもらう。

2011年8月1日月曜日

7月最後の日曜日

日曜日の真夜中はガタガタと揺れる音がして目が覚め、それっきりになってしまった。福島県沖で震度5であった由。余震なのだろうが、時間の長さとは小さな人間の感覚では測り知れないことを実感している。

午前中のうちに幼なじみのN君より中元が届く。好物のさつま揚げだ。地元のデパートなので本場らしく甘い。盆暮れのあいさつは途切れ途切れになっていた。進物の類は虚礼だからといってつれあいは関わり合わない。午前中のうちは、つれあいが手筈の北東北あたりの温泉行きの作戦を互いに点検する。少々高くてもいいではないかと結論づける。私が無収入になる不安が、私の心のなかに少々もたげ始めている。これまでは幾ら使っても稼ぎがあると気にしなかったのだから。なるように、する。

午後夕方近くになってから投票も兼ねて、お返しの中元の手配に生協のお店に走る。あいにく雨脚が強くなり独り車で出かける。この時間帯に買い物に出かけるのはまずいと思ったが、案の定ラッシュに見舞われる。ホームセンターでセンサーライトを買う。なんでもありのアイリスオーヤマブランドだ。

食あたり気味で腹を下す。正露丸を服用して早くに伏す。

大震災に超人災、なにが起きようとも、イシハラさんや、こんどはウエダさんみたいな首長候補者に百万票余が投じられる。低投票率。本質は弱きをくじく冷酷な為政者なのに、見た目の頼もしさ口のうまさに庶民自身が運命を託す構図。そして、嘆く、政治が冷たいと。尊大で弱者にどれほどの仕打ちをしているか、彼らに寄り添い知っていれば、ヒトとしてすら許せないと考えられるのに。この限りにおいては、幾度も絶望的になるのだが…。

月めくりのカレンダーをはがす。