2011年7月5日火曜日

初水揚げ

 先週の金曜日(7月1日)の夕方だった。勤務中、携帯が鳴った。「明日家にいる?かつおと魚送ったから、あっ今、大丈夫?」と邦雄さんからのいきなりの連絡だった。

 うれしかった。

 6月24日(金曜日)から訪れた三陸はどこでも葬儀ばかりだった。電柱に葬儀の日時と場所の案内が掲げてある。地元紙には、葬儀広告が多数掲載してあるのが特異だ。近日に亡くなった人もそうだが、あの3月11日に被災して亡くなり、ようやく葬儀に至った人たちの広告で、葬儀者は複数人であることが特徴的だった。つれあいの両親の葬儀もそういう中のひとつとして25日に教会で執り行われた。我が家も息子たちの車2台に分乗して訪れた。無理のある日程だったが、帰途は子供たちの同意も得て女川の邦雄さんのところに立ち寄ることができた。

 渋滞なく被災地のひとつである女川に行くことが目的だったので、息子たちがカーナビで設定したルートは石巻を通ったものの、惨状を目にすることはほとんどなかった。途中に偶然立ち寄ったみやぎ生協蛇田店で6月11日にクミコさん達のコンサートが行われたことを深夜のNNN‘11ドキュメント「祈りの歌声」で後から知った。

 石巻から小さな山越えで女川に通じる万石浦の道路に入った。浦宿の駅まで行かずに途中のガソリンスタンドで待つように言われていた。予定より早く着いた。邦雄さんも仕事関係で石巻の葬儀に参列しているようでまだ帰りついていなかった。

 それで、奥さんが車で出迎えに来てくれた。「女川見てみますか」というので付いて行くことにした。何気なく、事もなく言われたので付いてきてみたが、ゆるやかな坂を超えて市街地に入るあたりから息を呑んだ。市街に入り海辺に車を止めた。車中から見る光景、そして降り立って一望して見る女川の光景は衝撃的だった。唖然とした。大津波の爪痕は気仙沼で3月のうちに生々しい姿を見ていたから、ざっとそんなものだろうと思っていた。あのときは、畳の山や生々しい瓦礫や建物の倒壊・破損、陸に上がったおびただしい船舶、ひっくり返ったり電柱にぶらさがったりしたような車両をみていたから、さほどの衝撃はないものと思っていたが、いや、そんなものではなかった。

 津波の高さというか規模が違ったのだろう。海が外にU字型に広がった小さな港町だったせいか、「壊滅」これを目の当たりにした。船舶車両瓦礫の類は持ち去られたのかもしれないが、あるべき街の姿がない! 4、5階建ての鉄筋コンクリート製のビルがおもちゃの家のように倒壊し、骨組みだけが残っている。

 あちこちにそのような大きな建物の残骸がひっくりかえっているのである。どれほどの規模の大津波が襲いかかり、また、引き波で持ち去ったのか、しばし想像を超えた。見上げる丘の上の町立病院の1階にも達していた。なんども想像してみたが、思いが付かず小さいときに考えたゴジラのことまで想像してしまった。

 以前の町の様子はご存知ですよねと、案内してくれた奥さんは淡々と見回しながら紹介してくれる。あの辺が駅のあったところ、あの土台の支柱から横倒しになっているのが警察と。海辺の向こうをみれば何やら屋根が残っている。あれは市場、残ったんですと。確かに市場の方角だ。水揚げできますよ、とこともなげだ。女川市街の海沿いは土を入れてあったけれども、陥没が進行中だった。

 津波は川をのぼり、道路の坂道を駆け上がり、建物をなぎ倒し、邦雄さんたちの工場の間際まで来て止まった。万石浦という海は目の前だけれども、万石浦と外海とのつながり口は、津波が押し寄せてきた方向とは垂直の位置にあったので、大きな押し寄せとはならなかったようだ。

 あの日市場にいたら死んでたね。みんな高台に逃げたけどね。ようやく再会できた邦雄さんはあっけらかんとしている。震災後三陸を巡ったそうだが、陸前高田がもっともひどいという。

 7月1日に震災後初めての水揚げが女川にあった。底引き網船とかつお船が入港した。お昼のニュースでも報道されたらしい。翌2日の土曜日にお見舞いへの丁重なお礼の手紙とともに新鮮な魚が届いた。邦雄さんの見立てに狂いはない。それで子供たち皆に報せ、夜は記念すべき初かつおと吉次を堪能した。魚はつれあいと息子のつれあいが協働してさばいた。息子のつれあいは初めてなのに臆せずさばき「ひぃやあ、肝が新鮮!」とか言っていたそうである。私は仕事から帰り着き、女川三陸の復興と邦雄さんたちの活躍を祈念して乾杯をした。実にうれしかったな。

 翌日の日曜日には姉と姪の親子三代三人が訪ねてくる日だった。とっておいてもまだ新鮮だったので吉次の煮つけをつくってだした。姪っ子は大手流通業で働いている。育児休暇後の復帰にもかかわらず、異動と中間管理職登用の激務に悲鳴にも似た仕事上の悩みの相談に預かった。真面目すぎるんでしょうかと。

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