2011年7月30日土曜日

1歳のお誕生祝い

 越後会津では大変な豪雨による災害を蒙っているようだ。そんな不安定な雨空を抜けるようにして、息子のアパートに向かう。

 昨日が息子の赤ちゃんの1歳の誕生日だった。つまり、初孫が1歳になった。しかしながら、昨日はみなが仕事で遅かったので、かねての手筈通り本日の土曜日、息子のアパートでお祝いをした。

 私たちジジババからは、以前から約束していた「子供二人乗せ自転車」をプレゼントした。来週から、孫のソータローは保育園に預けられ、馴らし保育から始まる。シホさんが来月末から産休育児休暇明けで職場復帰するからだ。早速その送り迎えに役立つようにと、使ってもらう。ソータローのヘルメットも購入したが、本人は着装が嫌いらしい。

 その母親のシホさんは器用なことに、市販のパック餅から丸い一升餅(といっても、実際には1.5kgほどの餅を使ったそうだが)を作った。それを背負わせる儀式を執り行ったが、案に反して孫のソータローは難なくこれを背負ってつかまり立ちをして食卓のまわりをまわった。

 来週のいつ来るかわからないけれども、みんなで邦雄さんのイカをいただこうということにもなった。放射能のことは深刻だが、誤った国策や原発に負けるわけにはいかない。

つらさ

 イカ釣り船がそろそろ入って来るから来週は家に居るかという邦雄さんからの今日の電話だった。

 社交辞令的な話がひと段落して、やはり本音は参っているという話だった。

 「風評被害」と邦雄さんは表現するが、要は放射能被害だ。かつおも来るし定置網もあがるという、それが宮城県というだけで“風評被害”にあっていて不安だという。「牛一頭の話で」と今の農民が蒙っている事態を表現して、自らにも降りかかる魚の不安の話を邦雄さんは話し出すが、ほとんど悲鳴にも似た話だ。仕事が成り立たないという。私にはこの事態は3月のあの福島原発の事故の時点から予測しえたことだ、それで6月の末に会ったときこのことを言おうと思っていたが、面と向かっては言いそびれた。その時は、遠からず直面しうることの覚悟を助言しようと考えていた。言えることは心構えにしか過ぎないけれども。最悪、当地では水産加工業が成り立たない可能性さえも考えられる。が、あの地震と大津波の震災を生き残り、水産女川の再興に寄与しようとしている邦雄さんには言えなかった。当時も今も言えるのは、少なくとも残留放射検査を厳密にやることの忠告しかできない。しかし、あのとき、言えなかったことを邦雄さんの方から切り出してきたので、ありのままに思うことを話した。気休めでも話して、気分よく電話に応じればよかったものの、邦雄さんの不安に輪をかけてしまった結末になった。よく考えてみれば、彼は経営者だ、人の雇用にもかかわる立場にある。なんの解決策の助言にもならず、悪いことを言ってしまったような気がした。

 最後にそれで、「送ってもいいか」と言うので、何をいっているのだ、ありがたいことでもちろん楽しみにしていると答えた。

 農業者のことも漁業者のことも、さまざまにやりきれない話がとびかっている。

2011年7月28日木曜日

夢路恋路

 「いつもご一緒で」と言われることがある。
 からかわれているのだか、うらやましがられているのだか、珍しがられているのだか、よくわからない。いつも一緒にいたくて夫婦になったのだから、いつまでたっても自然なことだと私らは思っているのだが、どうも世間ではそうでもないらしい。夫と一緒だなんて、女房と一緒なんて考えられないと言われれば、口をつぐんでいるよりほかにない。カップルはそれぞれだから。じゃ、なんで一緒になったのだろうと思わないでもないが。

 学生時代、いつもべたべたくっついていたものだからから、あるとき口の悪い仲間に「このクソ暑いのにお前ら、離れろ!」と言われたことがあった。確かにまわりは暑苦しかったのかもしれない。悪いことをしたもんだ。

 嗜好や興味がほぼ一致する。一致しなくともお互い誘ってみれば、案外一緒にできる。それで、いつも一緒にいるようになる。

 それで、この歳ぐらいになると手こそ繋がないのだろうけれども、遅咲きながらそんな感じのある人の恋路をみるのは楽しいねと二人で語り合っている。

2011年7月27日水曜日

存在感

本日、生涯最後になるかもしれない「定期」を「継続」で1か月分買った。最初に買ったのが今はもう無くなった筑肥線の鳥飼駅から博多駅間だった。34年と6か月前。

昔、下宿で毎晩語り明かした学友も、出向で来て机を並べて仕事をした同僚も、なんだか知らないが心が通じたような得意先の人も、偶然同時にみな「理事長」になった。理事長とは我が業界では(我が業界でなくとも)トップだ。自慢ではないが交友関係の著しく狭いわたくしであるのに、よく考えてみれば元理事長やNPOの理事長さんも含めて、コレクションになるほど「理事長さん」が増えた。目線の高さがそう違わないのでありがたい。

松元ヒロさんの「ひとりだち」公演の予約を2席とった。今度は前の席をとれた。楽しみにしている。
www.sunrisetokyo.com/schedule/details.php?id=877

NHK・SONGS「クミコ・自分を信じて歌い続けた日々」を先ほど見終わった。浪曲師のようなトークの声だけれども、内容も歌もすごい。

そうだ、みな真摯に生きていて今があるんだな。存在感これが違う。

2011年7月26日火曜日

みな美しい

思わぬ縁で3年ぶりに再会したAさんも、秀麿さんのつれあい様も、棚田も、中島さんの深い説明も、太夫の唄いも、民謡の囃子も、

ただ、海を見ると、あれがゴジラのようにみえてくる

伝言ゲームのように、みな鉄砲伝来の地から来たことになっちゃった(むふっ)

・・・みな美しい

何でと問われても
話せば長く、語れば短い
長く話せばしどろもどろになり、短く語れば誤解を生じる
かくかように相成りましたとしか言いようがない、とそれも素っ気なき言い様

みな美しい

2011年7月24日日曜日

過ぎてしまえば

買ってきた笹団子を食べながら書いている。

ついつい食べ過ぎる。いや、飲みすぎた。仕方がない、新鮮なイカやアワビ、サザエがあれば食も酒もすすむ。苦手な日本酒もいい酒であれば、二日酔いには及ばないらしい。いや、気持ちのいい相手たちと飲んでいるからだろう。しかし、例によってというべきか、食べ疲れ、飲み疲れた。

知らなかった。調べもしたのにすっかり思い込んでしまっていた。後から考えればおかしいことだったのに、うかつだった。大宮の新幹線乗り場に来て、乗り場案内の掲示板に乗車予定の「MAXとき」がない。それで駅員に訊く。駅員は駅員で調べてくれるのだが、みあたらない。すぐに気付いてもらえればよかったのだが、しばらくしてその「とき」号は東京発ノンストップの新潟行きだとわかった。大宮に止まらない新幹線があるなんて思ってもいなかった。

団体で指定席をとってある切符は東京からだったので、私たちは大宮から乗りますと連絡しておいた。「了解しました」との返信をもらっていたので疑いもしなかった。ホームに立っていれば乗るはずだったその新幹線が目の前を通過していく。皆で行く二度目の佐渡訪問はのっけからこんな波瀾で始まった。

2011年7月22日金曜日

草木もなびくよ

 日本列島に住んでいる以上、多かれ少なかれ「島国根性」というものはあるのだろう。
しかし、わけても「おらが島は、」と講釈を垂れたり、自慢したりするのは島国の中のそのまた島に住んでいる(或いは出身の)幸せな人々である。
 ものの本によれば、日本の島の数は6,852あるそうである。
面積が大きい順に、佐渡島(人口3位)・奄美大島・対馬・淡路島・天草下島・屋久島・種子島(人口9位)・福江島・西表島ということらしい。

 偶然かもしれない。台風に見舞われる、今回はその恐れはなくなったが。

 今年5月の末に種子島を訪れた。台風2号も一緒に訪れた。こだわりのさつま黒豚専門店だという。そこで買い求め、夜の数ある食事のメニューに黒豚のしゃぶしゃぶがセットされた。それなのに、本人は食べない。肉は食べない主義だという。ん!?それって誰かもそうだった。

仕切りたがる
今は独り者である
とっぴなことを話題にする
”困難“がむしろ好きであるらしい
村上春樹を熟読しているらしい

 「おらが島」というから、「たねがしま」とか「さどがしま」とか言うのだろうか。ほかの島が「やくしま」とか「あわじしま」とか言うのに、である。
 住人たちは我が強いのだろうか、城ケ島、青ヶ島などほかにないわけではないが、島の名を「○○がしま」と呼ぶのは種子島と佐渡島以外にはあまり知らない。架空の鬼が島ならあるのだが…。

 その佐渡島に彼女はわざわざ時間をつくって、はるばる種子島から我々と一緒に訪れるそうだ。「遠距離だ」。私たちも微笑みながら、その日を楽しみにしてきた。

行ってきます。さて、準備をしなければ、夕べ飲まなければよかった…。
「反省ならサルでもできます、それはおサルさんにたいして失礼だ、ふにゃふにゃ」

2011年7月21日木曜日

盆から先きゃおらんど

19日は休んだ。

いっぺんでびしょ濡れになる。
ベランダの物干しを引っ込めておいてくれとたのまれ、はいはいと返事しておきながら、忘れていた。雨脚が強くなってわざわざそのときにひっこめたからだ。これから台風の雨になっていくところだった。

珍しい人からメールがくる。私のような「すっぽん」からみたら、今では彼は「月」になった。あさって飲もうと。偶然にしてはいいタイミングなのであいさつをしておかなければならない。「すっぽん」をやめたと。

台風も関東は逸れていくようだ。明日は佐渡に行くので、飲み過ぎには気をつけないと。

おどまぼんぎり、ぼんぎり

 一週間が過ぎようとしている、7月15日のことだ。

 右か左の内ポケットにひそませて、おもむろに取り出し、差し出すものだと勝手にイメージしていた。あるいは、たたきつけたり…と。

 職場には電子掲示板に「届け」という書式があって、ワードの形式で必要部分を埋め合わせすればいいだけだった。それで上司という人に休憩室でそっと差し出した。私も初めてのことなのでと、受け取ってもらった。1分で済んだ。

 いずれ、時間の問題だった。ようやく踏ん切りをつけた。
「ひとはモノじゃない」私はあのポスターの文言がそのとおりだと思っていた。
人生なにごとも思うようになるものではない。「人減らし」の玉突きの玉にはなりたくない。予定外ではあったがつまらないことでけじめをつけることになった。

 ただいま「退職届け」を出しましたということをつれあいにメールを送った。
即座に「長いことお疲れ様でした」と返信をもらった。

 仕事の相棒にはこれから迷惑をかけることになりかねない。その日は初めて飲みに誘った。よく飲める相手なので、酔った。そして、電車を乗り過ごした。

 飲んで帰るとつれあいには連絡していたが、つれあいは私の歴史的な日だったからと緊張して待っていたようだ。しかしながら、疲れて先に寝てしまった。私もよく酔ってしまっていた。忘れられない日になるはずの人生の日。拍子抜けをやってしまう。

2011年7月20日水曜日

母の三回忌

 出発の7月10日、日曜日の朝は早く起きた。たまたま、なでしこジャパン丸山さんの見事なシュートを見た。強豪のドイツ戦だった。思わず早朝ながら声をあげた。それから、羽田に向かった。

ふるさとの温泉に浸る。
二年ぶりだ。
アルカリ泉のぬるぬるした触感で、まるで化粧水を使ったように肌がつるつるする。
私のふるさとの周辺の温泉はこれに優れている。
他郷の温泉でこれほどの泉質にまだ出遭ったことがない。

豊かな湯、のんびりした空間、ゆったり流れる時間
母の三回忌をなじみの寺で終えて
兄弟みなでいつものこの旅館に泊まる

 お寺の息子さんたちは三兄弟だったことを想いだした。
長男さんは私よりひとつ上で、下の弟たちは私より下だった。お経をあげてくれたのは一番下の弟さんだった。真中の人は赤穂のお寺に縁あって養子に行ったそうだ。
 お母さんが若くて美人だったので、ここの兄弟はみな、今でいうイケメンだった。町内会と学年が違ったのであまり遊んだ覚えはないが、三兄弟だったことを想いだした。今になればそれほど歳は変わらないのだけれども。

 お墓や戒名に兄は既に大金を使った。母のお金だ。お経をあげてもらうことひとつにも必要以上にお金を使う。何を信仰しているのか知らないが、俗な葬式仏教のおまじないのような形式にこだわる。ここのお寺はそのようなことは強要していない。なにか通俗的な宗教を有難がり、あるいは盲信し、お金を投じ形をつくることで母への供養だと信じ自ら満足しようとしているように思えてならない。

 故郷を喪失した感じもあり、また、母を慕う気持ちはかわらないのに心の通わぬことへの寂しさが募る。詮無きことだ。

2011年7月19日火曜日

永い夏休み

 日程を人に譲り、ぐずぐずしていたら夏休みをとれなくなった。
 「第9回岩洞湖ライブのご案内」をいただき、今年は夫婦で参加する旨表明していた。ただ盛岡を往復するのももったいないと考えたので、地図をみてどこか近隣の温泉巡りでもしようと考えた。それで、9月の第2週を遅い夏休みとすることにしていた。

 ところが、いくら「藪川」とはいえ、“藪から棒”の異動だ。藪川にはなんの罪もないし、シャレにもならない。日頃話しかけもしない室長くんが、突然用事があるという。派遣店員よろしく、得意先の職場に1、2週間以内に着任せよとのことだ。得意先からは、我が社商品をほとんど扱っているのだから、一体化するとの美名のもとに、業務を丸投げされた。そのために、新年度から人を駐在させ「分室」とやらを設置した。本質は得意先の「人減らし」コスト削減が目的だ。3名が派遣され、案の定、向こうの職場では玉突きで異動になった人が1名、結果的に退職に追い込まれた。室長くんの職場ダイエット課題の役員への面接目標、面目躍如なのではないだろうか。ところがだ、なにも条件整備されないまま駐在させられた人たちと向こうの職場では齟齬が日常茶飯に起きる。それで一人が参ってしまったらしい、出勤拒否だ。その交代で行けという。なでしこジャパンがスウェーデンに快勝し、早朝の興奮も冷めやらぬ日の帰り間際のことだった。一日の気分が台無しになる。

 好きにしていいよ、今まで頑張ってきたのだから、なんとかなるよ。つれあいはそう言う。

 岩手県北および秋田にかけて、温泉があるようだ。「九州の男じゃけん」どこに何市があるかどんな温泉があるか、まったく土地勘がない。つれあいは東北出身なので、常識的な範囲で知っている、というか聞いたことがあるらしい。調べていけば、有名過ぎたり、田舎っぽかったり、湯治場としては歴史の積み重ねがあったり、高原の一軒宿だったり、それぞれ特徴があるようだ。それに、どうも北東北は主要な露天風呂が混浴であるらしい。それが…、とつれあいは躊躇する。秋田新幹線というから、何本もあるかと思っていたら驚いた、移動するのに何本もない。バス路線を調べる。荷物をもって列車やバスでのんびりと行ったものか、あるいは待ち時間のことも気にせずにレンタカーを借りてさっさと移動してその限りでのんびりとしたものか迷ってしまった。

 「決してあきらめない」きっと多くの人がこのことに心を動かしこれを学んだことだろう。俄かなでしこファンの私もそうだ。決勝戦の時間になんとか起きて観戦した。いよいよ日米決戦だ、などと大時代的についとらえてしまう。初戦を圧倒され1点を先制されてしまったあとに、一瞬うとうとしてしまう。だめかもしれない、これが頭によぎったからだ。延長戦の澤のあのシュート。同じく延長戦で見せたドイツ戦の丸山のあのシュート。積み重ねてきた底力に執念、つまり決してあきらめないそのものの神髄。何度も何回もこれらのシーンをニュースやワイドショウで見る。それで溜飲を下げる。私もシンプルな人間だから。その点ではついつい真珠湾攻撃に歓喜した当時の国民を少し連想してしまう(あぶない)。

 感動しながら、学びながら、私は対局にある。いつもあきらめてしまう。もはや、これまでと。

 決勝戦観戦そのあとのニュース、ワイドショウを一通り見終わったあと、二人でパソコンを開き、遅い夏休みの「北東北温泉巡り」の作戦を練る。せっかくだから、あそこも行きたいここも行きたい、で、どうやって行くのだ、温泉巡りどころか堂々巡りに陥る。あとで振り返れば、計画の段階が一番楽しいのだけれども。

 外は台風の影響で風が吹くようだ。台風のことを「へなちょこ」という長野さんが来るからだろうか。久しぶりにメールを開けてみて、また、驚いた。見落としていたのだけれども、藪川にも行くらしい。「いよいよ」かな、と二人で微笑む。前の日はうちに泊まったらいいのにとつれあいは言う。

 財布と体力との相談があるからたいして長くはない北東北旅行の夏休みを企てた。もはや、冬休みとも境目のない夏休みにすることにしたのだけれども。

2011年7月5日火曜日

初水揚げ

 先週の金曜日(7月1日)の夕方だった。勤務中、携帯が鳴った。「明日家にいる?かつおと魚送ったから、あっ今、大丈夫?」と邦雄さんからのいきなりの連絡だった。

 うれしかった。

 6月24日(金曜日)から訪れた三陸はどこでも葬儀ばかりだった。電柱に葬儀の日時と場所の案内が掲げてある。地元紙には、葬儀広告が多数掲載してあるのが特異だ。近日に亡くなった人もそうだが、あの3月11日に被災して亡くなり、ようやく葬儀に至った人たちの広告で、葬儀者は複数人であることが特徴的だった。つれあいの両親の葬儀もそういう中のひとつとして25日に教会で執り行われた。我が家も息子たちの車2台に分乗して訪れた。無理のある日程だったが、帰途は子供たちの同意も得て女川の邦雄さんのところに立ち寄ることができた。

 渋滞なく被災地のひとつである女川に行くことが目的だったので、息子たちがカーナビで設定したルートは石巻を通ったものの、惨状を目にすることはほとんどなかった。途中に偶然立ち寄ったみやぎ生協蛇田店で6月11日にクミコさん達のコンサートが行われたことを深夜のNNN‘11ドキュメント「祈りの歌声」で後から知った。

 石巻から小さな山越えで女川に通じる万石浦の道路に入った。浦宿の駅まで行かずに途中のガソリンスタンドで待つように言われていた。予定より早く着いた。邦雄さんも仕事関係で石巻の葬儀に参列しているようでまだ帰りついていなかった。

 それで、奥さんが車で出迎えに来てくれた。「女川見てみますか」というので付いて行くことにした。何気なく、事もなく言われたので付いてきてみたが、ゆるやかな坂を超えて市街地に入るあたりから息を呑んだ。市街に入り海辺に車を止めた。車中から見る光景、そして降り立って一望して見る女川の光景は衝撃的だった。唖然とした。大津波の爪痕は気仙沼で3月のうちに生々しい姿を見ていたから、ざっとそんなものだろうと思っていた。あのときは、畳の山や生々しい瓦礫や建物の倒壊・破損、陸に上がったおびただしい船舶、ひっくり返ったり電柱にぶらさがったりしたような車両をみていたから、さほどの衝撃はないものと思っていたが、いや、そんなものではなかった。

 津波の高さというか規模が違ったのだろう。海が外にU字型に広がった小さな港町だったせいか、「壊滅」これを目の当たりにした。船舶車両瓦礫の類は持ち去られたのかもしれないが、あるべき街の姿がない! 4、5階建ての鉄筋コンクリート製のビルがおもちゃの家のように倒壊し、骨組みだけが残っている。

 あちこちにそのような大きな建物の残骸がひっくりかえっているのである。どれほどの規模の大津波が襲いかかり、また、引き波で持ち去ったのか、しばし想像を超えた。見上げる丘の上の町立病院の1階にも達していた。なんども想像してみたが、思いが付かず小さいときに考えたゴジラのことまで想像してしまった。

 以前の町の様子はご存知ですよねと、案内してくれた奥さんは淡々と見回しながら紹介してくれる。あの辺が駅のあったところ、あの土台の支柱から横倒しになっているのが警察と。海辺の向こうをみれば何やら屋根が残っている。あれは市場、残ったんですと。確かに市場の方角だ。水揚げできますよ、とこともなげだ。女川市街の海沿いは土を入れてあったけれども、陥没が進行中だった。

 津波は川をのぼり、道路の坂道を駆け上がり、建物をなぎ倒し、邦雄さんたちの工場の間際まで来て止まった。万石浦という海は目の前だけれども、万石浦と外海とのつながり口は、津波が押し寄せてきた方向とは垂直の位置にあったので、大きな押し寄せとはならなかったようだ。

 あの日市場にいたら死んでたね。みんな高台に逃げたけどね。ようやく再会できた邦雄さんはあっけらかんとしている。震災後三陸を巡ったそうだが、陸前高田がもっともひどいという。

 7月1日に震災後初めての水揚げが女川にあった。底引き網船とかつお船が入港した。お昼のニュースでも報道されたらしい。翌2日の土曜日にお見舞いへの丁重なお礼の手紙とともに新鮮な魚が届いた。邦雄さんの見立てに狂いはない。それで子供たち皆に報せ、夜は記念すべき初かつおと吉次を堪能した。魚はつれあいと息子のつれあいが協働してさばいた。息子のつれあいは初めてなのに臆せずさばき「ひぃやあ、肝が新鮮!」とか言っていたそうである。私は仕事から帰り着き、女川三陸の復興と邦雄さんたちの活躍を祈念して乾杯をした。実にうれしかったな。

 翌日の日曜日には姉と姪の親子三代三人が訪ねてくる日だった。とっておいてもまだ新鮮だったので吉次の煮つけをつくってだした。姪っ子は大手流通業で働いている。育児休暇後の復帰にもかかわらず、異動と中間管理職登用の激務に悲鳴にも似た仕事上の悩みの相談に預かった。真面目すぎるんでしょうかと。

山路こえて 

 被災したとはいえ、地域の絆・気風なのだろう、
 岩手の親戚たち義兄の親友たちが支えてくれて6月25日(土曜日)の葬儀にようやくこぎつけた。私には無理をしているようには思えたけれども、条件にあるところはみな葬儀をあげていた。それが100日目あたりの区切りだったのだろうか。

「山路こえて ひとりゆけど
主の手にすがれる 身はやすけし (讃美歌404番)」

 つれあいの両親は、洗礼は受けていなかったけれども、讃美歌には親しんでいたそんな大家族だったそうだ。祖父がクリスチャンであった。

 葬儀で牧師さんが語る。
 戦前、軍国主義の時代に、侵略戦争にみなが加担せざるをえなかった時代に、皇国史観でみながしばられ、教会は敵性宗教として迫害を受けた。そんなときに、牧師とともに礼拝を守り続けたのは、気仙沼ではたった4家族であった。礼拝には常に刑事がいて、「やめ、止まれ」を命ぜられた。2家族はつれあいの祖父の家族であり、祖父のいとこの家族であった。つれあいの実家の大切な歴史というものを説かれた。牧師さんの家族とも信仰において祖父の代はとくに親しかったらしい。

 つれあいの友人たちも被災者だが、広告をみて参列してくださった。
 東京近辺の遠方に住まいしながらも、つれあいの従兄弟の家族までも駆け付けていただいた。

 告別式のときには、孫のかおりさんと晴子さんがそれぞれ「お別れの言葉」を贈った。幼いころ二人とも忙しかった親に代わってほとんど陽子さんの背中に負ぶわれ育った。可愛がっていたネコ二匹と一緒だったね、幸せな日々がつづくと思っていたのにね、と。

 結婚式用の商業的教会の儀式には心ならずも付き合ったことはあったが、まっとうな教会の葬儀というものは初めて経験した。そうして両親は「昇天」した。そして、きっと陽子さんが愛唱していたように気ままな“千の風”になれたことだろう。縁あってお付き合いして30数年の月日を重ねた。私の両親もこの義理の両親も今は私のこころのなかにある。

2011年7月4日月曜日

さてさて

日記をつけられなくなってしまった。
朝早く目が覚め起きてしまう。そんなことで、夜になるとへとへとだ。それで、つい日記もつけずに寝てしまう。手を抜く、それが楽だ。それを繰り返している。
では、へとへとになるほどまっとうに生きているのかといえば、そんな実感はない。他人様の艱難辛苦に比べれば、何ほどでもないことをして暮らしている。それでも、何かずっと重いものを感じ、自分のことが浅薄に感じられてならない。
記しておきたいことはいくらでもあるのに。