2011年5月16日月曜日

オモニ

 姜尚中さんの『オモニ』を一気に読み終わったところだったので私の頭の中は九州弁でいっぱいになった。つい九州弁を発するところだった。東京のど真ん中丸の内の日曜日の夕方からの飲み会。

 私にとって熊本弁は博多弁とそう変わらないように聞こえる。もちろん特有の言い回しは判る。義理の兄は熊本の人だし、ついこの間まで職場にいた親友の先輩も熊本の人だったから。

かつて熊本駅の近辺の景観というか様子をみれば、取り残された雰囲気、差別的空間というのが肌で感じ取られた。他郷の人間で、姜さんより少し後の時代の私にでも理解ができた。あのころのチョーセン人の立場や生業(なりわい)は熊本のずっと南の私の町でもほぼ同様だったと思う。

 ずいぶん昔「朝まで生テレビ」に出てきたころの“慌てず騒がず”、右でも左でもないようなナゾの東洋人。国士気取りのシンタローのような人種からは嫌悪された。教養豊かそうな姜さんからは、この小説に使われる圧倒的な熊本弁が想像しにくい。これまで、まわりくどい言い方で、専門用語が散りばめられ、引用の多い文章は得意ではなかった、というか多少辟易するところがあった。内容はほぼ『在日』に沿ったものであったように感じた。心情の骨格は既にそこに描いてあったが、『オモニ』は姜さんの初めての小説というように素直に読むことができた。

 『オモニ』の子である我が年代は、今、親を失いつつあり、老いの入り口に近づきつつある。親の世代の失ったものがほんの少しわかってきたような気がしつつある。そしてそれもまた違う。姜さんはそれを描くことができた。

0 件のコメント: