2011年5月24日火曜日

COLD

 いくらなんでもと思って、日曜日の午前中の陽気で冬ものは仕舞った。そしたらこの冷え込みだ。ついこの間まで、ついこの間といっても10年前のことだけれども、暑さ寒さは平気だったのに、いつのまにか寒さには耐えられなくなってきた。気合が入っているときはいいのだけれども、のほほんと油断してしまったときの寒さはこたえるものだ。

 うすら寒さは、なぐさめもなく日の丸バックでがんばれニッポンの有言無言の圧力や、ここまでしてきた原発推進勢力の空っとぼけや、原発危機に極東まですっ飛んできたサルコジジィや原子力姉御たちなんだけれども・・・。

 スリーマイル島もチェルノブイリもあったのに経験がないようでピンとこず、また五感にもわからぬのでなすがままに過ごしている。海や大地に蓄積され長く無くなることはない。芯からの寒気をそのうち感じるのだろうか。この代物のことで、ただただ、子や孫たちに申し訳ないそう思い始めている。

 夏風邪をこじらせた人もいるらしい、気の毒だ。

2011年5月22日日曜日

身近な恐怖

 つれあいは今、松江に行っている。ぶらりと出発した新婚旅行先の一つだった。思い出の地だ。できたばかりの国民宿舎を前日の旅先から予約して泊まり、どこか歩いて行って確か夕食にはおでんを食べた記憶がある。つれあいは何も覚えていないという。いいところだけれども、再訪して思い出すものはなにもないと言ってきた。その県庁所在地である松江にも島根原子力発電所がある。

 1995年1月の阪神淡路大地震で兄は財産に甚大な被害を蒙った。阪急電車の高架がひん曲がっったように人生も狂った。家族の命に別状があったわけではなかったが、その後義姉がうつ状態になったりした。あれほどの激甚な地震に遭遇したら恐怖は忘れられないだろう。ところがその2年後。1997年の3月と5月に今度は故郷で大きな地震が起きた。鹿児島県北西部地震(川内地震)という。実家は戦後まもなく建てた家で、母が独り暮らしだった。兄に続いて母までもかと思った、えらいことになったと心配した。しかし、周辺では相当の被害があったにもかかわらず、実家も母も大事にはいたらなかった。震源がもう少し南にずれていれば危ないところだった。そしてそれは川内原発にも言えた。しかし、九電は原発を止めなかった。印象には残ったが、月日が経つにつれ記憶が薄らいでいった。

 うかつだった。これほどのことが身近に起こっていながら、これまで地震のことも原発のことも無意識に考えからはずそうとしていたように思える。一過性のことのように。そうではなくて連関しており、現実にこの列島は「大地の激動期」が始まっていた。そしてついに、このたびの東日本大震災でつれあいの家族に犠牲者がでた。1月に会ったのが最後になるとは夢にも思っていなかった。併せて原発にも危機が迫っていた。どこで今回の「フクシマ」が起きても不思議ではなかったのだった。どこに行こうとも、逃げようがない日本列島になっていた。
 どれをどう考えても原発はやめたほうがよい。もちろん核兵器は言うに及ばず。

2011年5月21日土曜日

義兄からの依頼



 おもしろいことを頼まれた。叔父叔母などに促され来月両親の葬儀をやることになった。それで、つれあいを介して義兄から依頼された、義父母の生い立ちを描いてくれと。私なら義父母から話をよく聞いていたのではないかと。儀式はキリスト教式だ、私には想像がつかない。牧師さんにあらかじめ両親の略歴を伝えておかねばならないという。おいおい、冗談じゃないよと。実の子であって、生まれてこのかた義兄(にい)さんは両親と同居もしてほとんど身を寄り添って暮らしてきたではないかと。
 津波で様々なものが流出したのかも知れない。まあ事情が事情だし、私が詳細や歳月の機微を知る由もないのだが、知る限りで、私の視角からの「生い立ちと略歴」を書いてみた。画像をいれてちょうどA4版2枚にまとまった。本日郵送した。

秀雄・陽子さんの生い立ちと略歴



 秀雄さんは、岩手県南部の内陸部の町にて父茂七(23歳)、母たまき(21歳)の長男として大正8(1919)年9月28日に生れました。父親の茂七さんはその後も子宝に恵まれ、秀雄さんにはたくさんの弟妹たちがいました。また、茂七さんは勤勉で且つ商才もあったらしく、金物商として行商から身を起こし港町気仙沼にお店を構えます。それは昭和12(1937)年2月のことであったと考えられます。ちなみに、昭和三陸津波が起きたのはその4年前の昭和8(1933)年3月のことでした。
 秀雄さんは長男であったために跡継ぎとして処遇されます。晩年、秀雄さん自身が語っていました。高等小学校を出て塩釜で5年間修業のために働いたこと(15~20歳)。そして徴兵検査の歳になり甲種合格、昭和14(1939年)年12月に入隊(20歳)します。泥沼化した日中戦争の最中でした。金沢で即席の初年兵教育を受け「北支」(中国戦線)に1年半、さらに「南方」と呼ぶ今のベトナムに派遣(「佛印進駐」)され、結局、太平洋戦争を経て終戦までそこにいました。6年半ずっと軍隊にいて、兵隊のままで終わったらしいのですが、その戦友も床屋さんの小野寺さんと二人だけになったと寂しそうでした(2009年聞き取り)。昭和13(1938)年に実母が亡くなりましたが、ほぼ13年間、事実上、実家に帰ることはなかったといいます。
 商家の長男で丁稚奉公、大正生れで兵士としての長い戦争体験。戦前は歴史に翻弄された半生でした。おもしろおかしく陽子さんが脚色するところによれば、いつでもどこでも「快食快眠快ウン」。そして粘り強さと持ち前の数値に明るい能力で生き残ることができたと考えられました。戦闘中、九死に一生を得たこともいくつかあり、徹底して叩き込まれたのでしょうか聞けば「軍隊用語」がいくらでもでてきました。死人の臭いはすごかったこと、馬を曳いていたらロッキード(P-38?)が襲ってきてさっと散ったら、馬がやられたことなどむごい体験をしたようです。中隊の三分の二がビルマ作戦に行って生き残っていない、きっとあの悪名高い「インパール作戦」だったと考えられますが、運良くその部隊には配属されなかったようです。


 陽子さんは、その年の暮れに昭和になった大正15年(1926)の5月15日生れでした。父の名は等、母はテルコ、岩手県南部の村の農家に3人姉妹の真ん中として生れ育ちます。父親が肺病で伏し早くに亡くなったため、男手のない女だけの農家で苦労したそうです。5月のよい陽気に生れたせいでしょうか、その名のとおり快活な女性でした。身長が165cmほどあって、当時としては「大柄な女」でした。「このひと若いときいじめられたの、からだが大きいから」と陽子さんのことをさして、背格好も顔も少しも似ていない妹である芳子叔母さんが言っていました。あの時代、背が高いことは肩身が狭くいやだったようです。このたび、遺品を整理していて見つけた昔の先生からの便りに「あなたは金子みすずのような詩人になれると思っていた」と記してありました。陽子さんは文学少女であったことが窺えました。きっと夢見る少女のはずだったのですが・・・、夢多きはずの乙女時代は戦争一色の世の中でした。軍事教練で教官にどれほどいじめられていたかということをよく恨んでいました。ですから実感からも陽子さんは「戦争が嫌い」でした。

 復員してきた秀雄さんは父親の茂七さんのもとで、お店で一緒に身を粉にして働きます。戦後復興のなかの金物商という商いの内容と立地の良さでお店は繁盛していきます。広く唐桑や大島にも得意先があったといいます。内陸部の農家育ちの陽子さんも「街へ」出て行きたかったのではないでしょうか。気仙沼の町の、商家の大家族のもとへ嫁いできたのは陽子さんが21歳のときでした。お見合い結婚で昭和22年(1947)のことでした。秀雄さんは28歳。秀雄さんは背が低く感情の起伏の少ない性格で実直な人柄、陽子さんは大柄で社交的な性格でした。知らない人から、あまりにおとなしい秀雄さんは「お婿さんか」とよく間違われたそうです。蚤の夫婦そのままで外を一緒に歩くとき陽子さんは気を使ったそうですが秀雄さんは無頓着だったそうです。そして一男二女に恵まれます。子供たちにはキリスト教に帰依した祖父の茂七さんが聖書からとって名付けたそうです。やがて、二代目として父親からお店を任され、歳の離れた弟妹の面倒もみながら我が子達を育てあげました。

 そうして幾星霜、9人の孫たち、さらには3人のひ孫たちにも恵まれました。長男夫婦・孫夫婦とともに四世代が同居同様に住まいし、健やかで幸せな晩年をおくろうとしておりました。秀雄さんはオルガン弾きや菜園いじりを、陽子さんはご近所のご隠居「三羽烏」とのサロンを日々楽しんでおりました。家は商いをしていましたので職住が同じで、いつも一緒の仲睦まじいおしどり夫婦でした。そうではありましたが、このたびの不慮の大津波に遭遇し、あっという間に旅立ってしまいましたのも、ふたり仲良く一緒でありました。

芸に秀でず生きる

男には一芸に秀でた人と何の芸もない人とゲイの人がいる、ことをご存知か。

幸か不幸か地位も名声も得てはいぬ。芸もないので今がある。

ずっと右腕、右肩が凝る、痛む。どこかがゆがんでいるに相違ないと考え込んでいる。

泳げない、わけではない。

本式でもなく器用でもないのだな、無理に泳げばどこか自分を痛める。

せかせかとしたのに、むしろのんびり生きてきたものだ。それで今がある。

自慢じゃないが芸はおろか能もない。人徳までもない、謙遜ではなく。

だから人柄のいい人と付き合うときだけ気持ちがいい。それで今を生きている。

マイ・サマータイム

政府や他人にとやかく言われなくてもサマータイムをやっている。
2時3時にはたと目が覚める。朝5時には起きて洗濯物があれば済ませる。二人暮らしだから、さほど頻繁にもない。当駅始発という準急に接続できるよう早い時間に勤めに出る、いつもじゃないが。肉体労働でこそないが、神経をすり減らしクリックの繰り返しで右腕の腱を痛めている。夕食をとればくたくたになってダウンするように就寝し、夜中にゴソゴソし、朝5時にはまた起き出している。
なんだ、行動が老人性になっただけだと言えばそれまでだが、夜の9時か10時に眠られなかったときにはへとへとが倍になる。夜更かしは癖になりやすい。早起きは好むと好まざるとそういう体質になってしまった。

故郷のらっきょうの企画があったから生協で頼んでおいた。届いた日すぐやらねばと思いつつ、当日の夜は疲れていた。早起きなので翌日の朝からやるのだが、根気のいる手仕事だ。やむをえず出勤を遅らす。手指がくさい。

あれからも国策そのものはおろか、原発震災の対処や放射能情報までもうさんくさい。

広瀬隆さんの「福島原発メルトダウン」(朝日新書2011年5月30日)を一気に読み終わる。次に吉井英勝さんの「原発抜き・地球再生の温暖化対策へ」(新日本出版2010年10月)を読み始める。

2011年5月17日火曜日

誇りある島Ⅲ

 郷土の地理を習ったのは小学校4年のときだ。この授業が気に入って、鹿児島県の白地図は何も見ずに描けるほどになった。県には複雑な海岸線と島がいっぱいあるので変化に富む。

 種子島は大隅半島の東南に平坦なひょうたんのように描き、屋久島はその西南にまあるく書く。奄美大島は三角に、加計呂麻島は三角形の底辺の下に長四角に描く。

 種子島のちょこっと横にちび丸く入れるのが馬毛島(まげじま)だ。だから、このころから認識があった。

 同じ県内にもかかわらず、初めて種子島を訪れたのは昨年の12月。仲間のみなさんと本場の本物シリーズ「沖ヶ浜田の黒糖」づくりを観に行く機会があってのことだ。早朝羽田を発ち鹿児島経由で空路種子島に入った。


 うわさには聞いていたが、眼下に見る島の姿に度肝を抜かれた。これは島ではない。緑豊かな島らしい島の姿がない。十字にできた滑走路のようなものが見え、まるで不沈空母のようだ。砂茶色の地肌がむき出しになった十字路は明日にでも軍事基地に転用できると直感できた。これがまぎれもない噂に聞いた馬毛島だ。米軍の艦載機の離発着訓練地(NLPnight landing practice 夜間発着訓練)の候補地に、そして鳩山さんのときの普天間の代替地として徳之島に次いで候補地ではないかと取り上げられた島だ。

 ここまで無残な姿になった南の島の姿に腹の底から怒りがこみあげてきた。

 あれから、ずっと先のことだと思っていた再訪のときが近づいてきた。

 その矢先に昨日次のようなニュースが配信された。
『<米軍再編>鹿児島・馬毛島で艦載機訓練 政府調整/毎日新聞 5月16日(月)2時30分配信

 政府は15日、在日米軍再編で米軍厚木基地(神奈川県)から米軍岩国基地 (山口県)への空母艦載機部隊の移転に伴い、陸上空母離着陸訓練(FCLP) を鹿児島県・馬毛島(まげしま)(西之表市)で行う方向で調整に入った。将来的には、米軍嘉手納基地(沖縄県嘉手納町など)の航空機の訓練の一部を同島に移転することも視野に入れている。

 6月下旬にも開く外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)での確認を目指す。ただ、「関係自治体との交渉はまったくできていない」(防衛省幹部)のが実情で、地元から反発が出る可能性が強い。

 米軍は現在、FCLPを東京・硫黄島で行っている。06年の「再編実施のための日米ロードマップ」は、FCLPの実施場所を「09年7月またはその後のできるだけ早い時期に選定する」とし、馬毛島や広島県・大黒神島が検討されたが、深刻な騒音被害をもたらす夜間発着訓練(NLP)を含むため、地元の反対で頓挫していた。

 防衛省関係者によると、今回の提案では自衛隊が施設を管理し米軍と共同使用する。地元の窓口を自衛隊にすることで、反発を緩和できないか検討している。

 馬毛島は鹿児島県・種子島の西約12キロにある無人島。鳩山前政権では、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の訓練移設先候補になった。同島のほぼ全域を所有する開発会社の社長が昨年11月、法人税法違反(脱税)の罪で起訴されている。』


 「悲しみを乗り越えて、未来と希望」天の為す災害にこそそれは思うが、私は人の為す乱暴な自然の破壊にそれを思えない。それはこみあげてくる怒りだ。軍事基地、原発、最たるものだ。こんなものに幸はない。たちはだかる「国策」に人は口をつむぐ。奔流に呑み込まれまいとする。ならば、飛び上がりぶんぶんとみつばちのように羽音をあげよう。

2011年5月16日月曜日

オモニ

 姜尚中さんの『オモニ』を一気に読み終わったところだったので私の頭の中は九州弁でいっぱいになった。つい九州弁を発するところだった。東京のど真ん中丸の内の日曜日の夕方からの飲み会。

 私にとって熊本弁は博多弁とそう変わらないように聞こえる。もちろん特有の言い回しは判る。義理の兄は熊本の人だし、ついこの間まで職場にいた親友の先輩も熊本の人だったから。

かつて熊本駅の近辺の景観というか様子をみれば、取り残された雰囲気、差別的空間というのが肌で感じ取られた。他郷の人間で、姜さんより少し後の時代の私にでも理解ができた。あのころのチョーセン人の立場や生業(なりわい)は熊本のずっと南の私の町でもほぼ同様だったと思う。

 ずいぶん昔「朝まで生テレビ」に出てきたころの“慌てず騒がず”、右でも左でもないようなナゾの東洋人。国士気取りのシンタローのような人種からは嫌悪された。教養豊かそうな姜さんからは、この小説に使われる圧倒的な熊本弁が想像しにくい。これまで、まわりくどい言い方で、専門用語が散りばめられ、引用の多い文章は得意ではなかった、というか多少辟易するところがあった。内容はほぼ『在日』に沿ったものであったように感じた。心情の骨格は既にそこに描いてあったが、『オモニ』は姜さんの初めての小説というように素直に読むことができた。

 『オモニ』の子である我が年代は、今、親を失いつつあり、老いの入り口に近づきつつある。親の世代の失ったものがほんの少しわかってきたような気がしつつある。そしてそれもまた違う。姜さんはそれを描くことができた。

2011年5月15日日曜日

85回目の

 取次店の老女将は我々の顔と名前を記憶している、もっと若いときは電話番号すら諳んじた。年に2度ぐらいしか出さない季節のクリーニング品を出しに行きながらふと考えた。

 これを五月晴れというのだろうか。たしかそれで姉の長女は「晴美」と名付けられたと記憶している。日差しが強い、紫外線は真夏並みだと昨日の予報で注意があった。
 これをいい陽気というのだろう。今日はつれあいの母の誕生日だという。それで「陽子」という命名をしてもらったのだろうかなどと思ったりもした。

 義兄からつれあいが聞いたところによると、陽子さんは飼い猫と一緒に亡くなっていたそうだ。目と口をしっかりつむっていたらしい、であれば荼毘に付す前に対面した表情とは違う。父の日はつい省いてしまうことがあっても、母の日は、そして誕生日も近かったのでまとめて毎年、何がしかを贈っていた。それが今年は途絶えた。

 今までに義捐金の分配があっただけで、行政からは見舞金も一時金もなにも入ってきていないらしい。当該の被災地の人々はみなそういうことであろうから、困っているだろうと考えられる。いったい、何がどうしてこうなっているのだろう。義兄にはそれ以外にも不安や心配事がいっぱいだ。

 新しい口座を聞いてきていたから月曜、火曜と振り込むことにした。それにしても銀行もまともに営業できていない、基本業務は内陸部の近隣の支店で処理するので時間がかかるらしい。それで銀行の前は行列になっているとのことだ。

 窓を思いっきり開け放つのが好きだ。好きだった。いい陽気になった。晴れ渡る。しかし、あの日以来、開け放つ気にもなれない。が、そうしていてもしょうがないので布団を干す。あの日以来のあの爆発あの溶融(今頃になってそうだと認識された)で危機は迫っている。だからといってどうこうしているわけではない。多かれ少なかれ(それが問題だろうが)人工的放射能の環境下に棲息せざるをえない状態になっている。海などはとくにとりかえしのつかないことになっていっていると考えられる。多くの思考停止と思い直しを繰り返しながら、漠然と「日頃の生活」をおくろうとしている。YOGA、今だけのことを静かに考える。

 被災後生き残ったもろみで絞られた地酒「伏見男山」の一升瓶を持ってこれから飲み会の東京の会場に行こうと思う。皆に予告しておいた。かろうじて作られたわずか320本のうちの数本、そのうちの1本だ。その男山本店は大島航路に面した海沿いにあった。ここは魚町という。その名のとおり昔は魚市場があって賑わいの一等地だった。そこに構えたお店は大正年間につくられたモダンな建物だった。津波に呑まれ崩落し上階部だけが残った。そして実家との間の家はみな流された。「全壊」に等しいが実家の並びの一角は建物が残った。だから、実家から男山本店の痕跡たる上階部が目の前に見える。工場は実家の裏手を少し上ったところで、正門前まで水は押し寄せたがそこで止まったらしい。実家からはすぐそこだという感覚だ、あの日、四の五の言わずに何故逃げなかったのか。義父母だけがそうだったわけではない。生き残ったつれあいの友人や義兄も、家に2階があって、いやその先の物干し場があって、いや3階、4階があって、それもなにも建物がながされなくって一命をとりとめている。一瞬に近いことは紙一重で運命を分けた。逃げ遅れた人、家屋に居て一緒に流された人、逃げたが道路に出た人、様々なひとが犠牲者25,000人近くのひとりひとりになっている。

 百日目ぐらいにあたるからと摺沢の叔母の音頭もあって来月下旬に葬儀と、千厩の従兄弟が発起人になってくれて「偲ぶ会」を催すことになった。それに行く準備を始める。長男も行くと決めた。

2011年5月14日土曜日

復興の地酒



 つれあいが気仙沼の地酒「伏見男山」(銘柄は「蒼天伝」)を買い求めてきました。
 実家と同じ町内にある酒造元「男山本店」は観光桟橋という海に面したところにあり、大正時代につくられた建物は市の歴史的建造物に指定されておりました。このたびの津波の直撃を受け、上階部分を残して崩落しました。しかしながら、工場は少し山手にあり不幸中の幸いで被災を免れました。まさしく、津波は門の手前まで来たそうです。実家のほんの裏手のところです。もろみを仕込んで仕上がりを待つばかりであったそうですが、発酵させたもろみを絞るタイミングに電気が復旧しないために設備を動かせず半分あきらめるところだったそうです。「頑張って造れば、気仙沼の復興の兆しになる」との励ましと建設会社からの発電機の提供を受け、困難な中、泊まり込みでお酒の製造にこぎつけたというものです。当時の被災者には過酷な雪の降るような気温が、もろみには幸いして製品化に間に合いました。このことは報道もされ、知る人ぞ知るシンボルのお酒になりました。地元のお酒、漁師のお酒として親しまれてきたそうです。同社の得意先の多くは地元のお酒屋さんと飲食店だったそうで、その皆さんが壊滅的打撃を受けました。復興のお酒として支援のお客様があるときはいいが、一過性ではなくリピートの顧客を開拓しなければいけない課題と、やはり地元に密着した営業で地元に貢献するかたちでともに復興したい課題を抱えているそうです。

2011年5月12日木曜日

昨夜はまぐろの刺身

 被災地のサンダーさんからまぐろの柵がどっさり届いた。ご主人の実家が魚屋さんだったそうだ、今回の津波ですべて流された。だが、負けてはいない。つてを頼って内陸部の千厩というところでお店を立ち上げられたという。それでまぐろのいいのがあったら送っておいてと依頼していたそうだ。食べきれないほどあったので、息子を呼んで夕食にした。息子が仕事から帰ってきたのは10時前で駅まで迎えに行った、現場は大変だ。我が家ではまぐろは贅沢だということであまり買ったことがない、稀に買うことがあればいつも口の中に筋がのこるような程度のものしか口にしたことがない。まぐろってこんなになめらかだったっけ。御礼のメールをつれあいが送れば「どんなものかわからないけど…」と謙遜した返信だったけれど、まことにおいしいものをいただいてしまった。この間はお見舞いのお礼にと「ひとめぼれ」を送っていただいたばかりだったのに。

2011年5月10日火曜日

安らかに

 自分がもし死ぬことになったら恐らく未練がましいと思う。
 もっとおいしいものを食べたかったとか、いろんなところに行きたかったとか、見苦しく、みっともなく…だ。可能性がある。
 しかし、他人事なら「人間いつかは死ぬ」のだから仕方のないことだと思っている。だいたい60年も生きられたらいいではないかと思っているふしがある。まだあの歳で亡くなって可哀そうだと言うこと自体、意味がないではないかと思ってしまう。「充分生きた」と他人事なら思っている。

 叔母さんは世間体を気にしてか帰って来ていたことを母にも言わなかった。悦ちゃんは私が小学校にあがったとき6年生だったから60を幾つか過ぎていた。写真の学校を出て、結婚もせず定職に就いたようにもなく、放浪の末、母親のいる実家に転がり込んでいた。いつか、兄と一緒に叔母のところに前触れなしに挨拶に行って鉢合わせしたことがあった。一昨年母の臨終と葬儀のときには足腰弱って呆けた叔母さんを送り迎えしていた。態度はあくまでも控えめだった。

 その従兄弟の悦ちゃんが亡くなったと土曜日に姉から連絡があった。

 私達兄弟で花輪と香典を送った、葬儀は日曜日のことだった。

 悦ちゃんは双子だったから二男だったのか三男だったのかは知らない。ふるさとにただ一人いた従兄弟だった。

快速かな

いつもとは違う時間帯に遅く我が家を出た。

乗り換えたのは最終目的地ではないところに行く快速だった。幸い一駅で座れた。
だから、どこかで乗り換えなくてはいけないと思いながら、岩波新書「大地動乱の時代」を読みつつ、ついうとうととしてしまった。はっと気付いたら向こうのホームに併走して走る電車が止まっている。隣の人も向かいの人も乗り換える。乗り換えだと思い込んでしまい、そして周りにつられてしまい乗り換えた。そうしたら運のいいことにまた座れた。何も考えずに再び眠り込もうとする。ただ走っていてどうしても様子が違う。どう考えても止まる駅の数が多い。もう着いてもいいころなのになかなか着かない。そうしているうちに準急の止まる駅に着いた。そこでおかしいと気が付けばよかったのに、なにがどうなっているのかぐずぐず考えているうちに準急は行ってしまった。これは最終駅までずっと止まり続ける各駅停車だとようやく自覚する。そして最終駅まであと一駅だというところでも停車しもう一本準急に追い抜かれてしまった。
 不思議な日だった。それでいつもより30分は遅れてようやく職場についた。

 結局私の生き方はそういうことなのだろうと、変に納得してしまった。遅かれ早かれ、多かろうと少なかろうと、そうなのかもしれない。

 有料の特急、快速急行、急行、通勤急行、快速、通勤準急、準急、各駅停車、複雑な運行が日々営まれる。次のなにがしかの電車までひっきりなしに電車は入ってくる。
 しかし、「計画停電」のとき、実施された準急と各駅停車だけの間引き運行は体験してみれば日常の急行に乗るときよりさほど遅くもなく、そして混むこともなく通勤できた。シンプルな方がよほど快適なのではないかと思った次第。

 過剰な電気、取り返しのつかない未来とこれからの安全、原発は要らない。そう思っている。