2011年4月10日日曜日

語り伝えの忘却と街の「発展」

 被害が甚大だったと聞いた鹿折地区に行こうとした。    

 旧45号線を辿って行って、魚町三丁目のはずれの浮見堂の見晴台を越せば入れる。潰れた軒並みを進めば、道路は通行止めになっていた。歩いては行けるので行けるところまで行ってみたが、結局道路を塞いでいるのは数々の船であった。  

引き返してくるとき地元の老人に「どこから来たの」と呼び止められ話かけられた。表札をみれば三丁目の鈴木さんとおっしゃるらしい。「あの日は逃げなかったの。高台だから、逃げてくる人13人を預かったよ。昔は鹿折・高田に行く道はこっちだったの。」耳が遠いらしく、こちらは聞く一方になる。「レグズ」をみればわかる。先祖は農耕民族だから古町にいたの。気仙沼は魚がとれたから降りてきたの。私は「レグズ」という何か文献があるのかと思った。  

「レグズ」とは歴史のことだとしばらくして判った。

 鈴木さんの教授することを解釈していえば、気仙沼の町名の歴史と由来が想像できた。三陸では歴史的に何度かこのような大津波に襲われている。それが「貞観」以来の千年に一度のこのたびの大津波なのだったのだろう。年寄りも含めて、伝承と経験での知見は1896年の明治三陸地震、1933年の昭和三陸地震、そして1960年のチリ地震による津波だろう。とくにチリ地震が気仙沼では「波が“ちゃぷちゃぷ”程度だった(50cm)」という記憶が「津波」を甘くみた可能性が大きい。年寄りは異口同音にみなそういうことを言っていた。実際、志津川駅前にあるチリ津波のメモリアルの高さは1.9mである。それ自身でも甚大な被害を蒙ったのだが、今回はこの比ではなかった。街の中心にあった病院の4階をも越えている。    

おそらく、人間の民間伝承では忘れられただけのことであって歴史的に三陸は壊滅的な被害に幾度も遭っているものと考えられる。3月13日付の『河北新報』によれば「慶長三陸地震津浪」というのがあって、江戸時代初期に甚大な被害を蒙ったことが記録に残っている。  いつしか当地にはそういう地震津波による壊滅的な状態があって、中山間部から下りてきた農民たちは今の気仙沼駅の周辺に集落を構えたことが想像できる。もう少し海の方に進出していってここが「新町(あらまち)」となる。旧集落は「古町(ふるまち)」と呼ばれるようになった。当地は天然の良港だ、商業交易が盛んになる。市が立った「三日町」、「八日町」ができる。今の市役所あたりだ。そして魚が揚がる「魚町」が形成され、南に向かって「南町」ができる。魚町は魚で大いに栄え、繁華街となり大正・昭和の一等地であった。つれあいの祖父は行商から身を起こしこの一等地に店を構えた。      今回の3・11の大津波ではこの魚町、南町、八日町を壊滅させた。水は三日町にまで及んだ。古町までには水は及ばなかった。「レグズ」が確かに教えている。旧市街の南の平地に形成された新市街地も広く壊滅させた。気仙沼湾の奥、鹿折川に沿って奥深くまで津波は及んだ。船がごろごろ陸(おか)にあがっているという景観を呈している。

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