2011年4月21日木曜日

三陸海岸



 背骨があってあばら骨があるように三陸の漁港に行くには内陸にある東北本線(新幹線)沿いの駅から、ローカル線に乗り継いで東へ、つまり海側へ出ざるをえなかった。中山間部を這うように行くのだが、若かった私にはそれはひどく時間がかかるたいくつな出張の旅路に感じられた。北から山田線、釜石線、大船渡線である。もう四半世紀も前の話になる。

 三陸沿岸は世界でも有数の漁場に臨む。豊かな海の恵みがある。鮭があって、イクラがあって、イカがあって、サンマがあった。わかめなどは肉厚で一級品だった。九州生まれの私がサンマは刺身で食べられるものだというのを知って感激したのは釜石の居酒屋のカウンターで30代半ばだった。仕事で三陸を訪れる機会が幾度かあった。

 あるとき唐丹(とうに)の人に女川まで車で送って行ってもらったことがあった。
 そうでなければ、釜石から花巻まで列車で出て東北新幹線を仙台まで南下し、さらに乗り換えて仙石線を石巻まで出てそのまた先の女川まで行くのは難儀だと考えた。地図でみれば逆「コ」の字を行く行程で不合理に見え、この三陸海岸を真直ぐに南下しさえすれば、やがて女川に着くだろうにと思った。それで、車で送ってくれるというのをそう遠慮もせずに乗せてもらった。
 本来リアス式海岸の浦々は孤立している。陸路を行くとなれば、上り坂下り坂の曲がりくねる難所を経ねば隣の浦には行けない(奄美もそうだ)。昔は「九十九曲り」と呼ばれるような難所(綾里町)がいくらでもあったそうだ。その名残りがあって道は1本なのだが、決して真直ぐではなく、幾重にもくねくねと曲がる道が続いた。もともと車酔いする性質だったから、これには参った。後悔した。ようやく旧北上川の流れる平地に出てきてほっとした。そして遥か遠い道のりを送ってくれた人はこれをまた引き返さなければならない。初めから判っていたことだったが、これは軽々にもこのような遠いところを送ってもらって悪いことをしたという二重の後悔の念が湧いた。
 昔のことだが平時ですら、このような道筋である。それが南北につらなる国道45号線だ。そのときのことはほとんど忘れてしまったのだが、いちどあのころに北から南に縦断したことのある三陸の町々が、このたびの巨大な津波に呑まれてしまった。このような甚大な被災に遭い、復旧に時間がかかった地形や道路事情がこのときのわずかな体験でも少し理解できる。

 山下文男さんという名はどこかで聞いたことのある名前だとは思っていた。三陸生まれで津波に関する研究と著作がある。また、自らも少年期に昭和三陸津波を経験し、またしても今度の津波を体験し九死に一生を得た。その著作のひとつ『津波の恐怖―三陸津波伝承録―』(2005年3月、東北大学出版会)をもうすぐ読み終わる。

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