2011年2月27日日曜日

名著にすくむ

 沖縄戦で家族を失わなかった人はあまりいない。平君のじいさんもおじさんも殺された。それと同じように戦場になった沖縄でいくさの前から残っている草木や光景は珍しい。

 首里城の裏影にそのいくさの前から残っているという木や祠を案内してもらった。首里城を東シナ海側に降りていくところに社長の家はあり、そのまた下ったところにある食事処で琉球料理の夕餉を皆と共にした。その道すがら向こうに見える丘を上る大きな道路は、いくさの前はこちら側に繋がっていたという。こちらの丘陵から臨む海には、あたり一面アメリカ艦船で埋まっていたらしい。社長は私よりずっと年下だから見たわけではない。あの道はちょうど丘の裏側だったので「カンポー」があたらなかったのですね、カンポーってわかりますか。ええ、艦砲射撃のことですね。

 種子島訪問の初日は、各所の見学を終えたあと西之表市街を越えて東シナ海が一望できる丘に案内していただいた。あの西の方向に特攻出撃をした戦艦大和が沈められたという。天気がよければ夕日も見えるところだ。市の観光案内によれば「夕睴が丘」というところで、「市街地を展望できるポイント。この場所から真西約280kmの地点に戦艦「大和」が没している。春分の日、秋分の日には、夕日がその地点まで導いてくれる。とある。

 大和を率いる艦隊の伊藤長官は友軍機の掩護もなく、出撃日程すら東京の地下防空壕奥深くにある連合艦隊司令部から操作される不条理を嘆きつつも、命令を遂行せざるをえなかった。そして3,000名以上の艦員が肉片となり海の藻屑と消え、沖縄では11万人余の軍民が命を奪われた。ヤマト世(ゆ)のいくさでむごたらしい屍となった。

 NHKで伊波普猷(いはふゆう)の足跡を、TBSで若泉敬のドラマを、そして金曜日はNHKハイビジョンで「笑う沖縄!百年の物語」を観た。
危険な普天間基地は放置のままで、菅さんは辺野古移転を高言する。
思えば、沖縄差別はついこの間まであった、よく覚えている。
いっそ沖縄はあのとき、独立すればよかったのにとすら考えた。

 私の中のいろいろなことが脳裏をよぎる。黒羽清隆さんの「太平洋戦争の歴史」(講談社文庫)。
誰もが名著と言う「戦艦大和ノ最後」(吉田満著)のページを、息を飲むがごとくめくる。これほどに臨場迫真に著せるものか、…。「小説琉球処分」(大城立裕著)に続く。

 ところで、生きていたら明日で99だ。そしたら義兄と共催で白寿の祝いを盛大にやろうと意気投合していた。義兄とはいえ人の親を祝ってくれるというのがうれしかった。母には生きる意欲は充分にあったが、大腸癌に斃れ、成就できなかった。その明日はまた、南の島を再訪しようという謀議を名目に食事会だ。ついこの間までは楽しみはあとに取って置くという人生を歩んできたような気がするのだけれども、最近は「今しよう、すぐしよう」(Yさん)というように人生に臨んでいるような感じがする。ま、そういうことだ。

 種子島から買ってきた飛び魚の開き(冷凍)、いつだったかこれもうまかった。

2011年2月23日水曜日

波に揉まれて


 もうあのときの彼のお嬢ちゃんは高校生になったらしい。出会ってから10年を超える。

 少しは落ち着いた老紳士を演じようと思っていたのだが、Tさんに再会した途端、ボルテージがあがってしまい、いつも以上に饒舌になっていく自分に内心驚いた。対面に座っている九州の友人SさんとHさんが、今日はいやなことがあったんだろうと笑いながら聞いている。長野のTさんとは2、3年ぶりかな、長く会っていなかった。浦和に来てこの春で出向が4年目に入るという。もちろん単身赴任だ。食事はどうしているのかと聞いたら、毎日職場の人と一杯やって済ませているらしい。

 当時の我が社の営業本部長くんの指針に従い、担当を任された長野の得意先には特急のあずさ、あるいは高速バスに乗って毎週2、3回は通った。まだ携帯もモバイルパソコンも持たされていない時代である。ほとんど入り浸りなのと、得意先とはいっても身内みたいな親近感があって、そのうちに空いている机と電話を自由に使わせてもらえるぐらいになった。そこの幹部も若いときは友人同様に付き合った人たちだった。そのときの商談窓口が中堅幹部のTさんだった。馬が合った。あたりがソフトで人柄もよく、そして仕事ができた。だから誰からも好かれていた。

 今の仕事の話になっても感ずるところがほぼ一致した。なんでこうもお追従が多いのだろうと。しかも幹部の気が変われば、みんなが変わるのよと。よくも悪しくもちょっとテンでバラバラだった彼の元の職場からみれば、違和感があるのだろう。私は慣れて諦めてしまっているのだけれども、あらためてそう聞けば新鮮な違和感だ。

 時の経つのも忘れ2本目にいれた焼酎のボトルがずいぶん減っていた。今度はTさんまでもが饒舌になっていた。当時、私の印象がよほど強かったらしい。我が社らしくないという意味で、親近感を以って。どうも私のタイプは我が社にはいなかったらしい。他の得意先でもよく言われた。貴方はそっちではなくて、こっち向きだと。だからこっちに来いと。その手の機会が2度ほどあったけれども、自ら逃した。彼によれば、こうだ。分析と現状認識から説き、違う観点から突いてきたと。どうも褒められ過ぎとは思うが、へえ、そんな風に捉えてもらっていたのかと内心悪い気はしなかった。確かに私の拙案をよく受け容れてもらい、またその企画もよく当たった。そのころは、まだ業績もよいころで運もよかった。一人、思い出話の中でどうも私のことを褒めているらしいのだが、私も酔いがまわって聞き逃した。その方がいい、私はなんちゃあならんヤツだから。

 80年代には先駆けて海外加工を少し手掛けた経験から、むしろ国内加工の確かさを実感していた。国内資源の良さを知っていたし、その方向に向く方が我がグループの使命であるし事業的にも成り立つと信じるようになっていた。また切干大根のような農産加工品の産地調査を通じて、仕入れという観点からも日本農業と地方の疲弊を肌で感じるようになっていた。だから、地元をやろう、国産をやろう、土作りからできた加工品をやろう、タイムセービングもとりいれながらたとえ加工品でも手を抜かないメニュー提案をやろうと訴えた。

 いやあ、この人の声おおきくてねとTさんは言う。周りの人にみんな聞こえているのよ。私のテンションの高い声はよく通るらしい。人によっては耳障りに聞こえるはずだ。

 佐賀と北海道の生のたまねぎをホントに涙を流しながら刻んでつくるドレッシング、宮崎の切干大根、山川の本枯れ節(かつお節)など、一緒に産地にも行ってみた。私はあのとき初めて霧島山を裏側から見た。霧島降ろしという季節風のことを知った。あのとき気にも留めなかった新燃岳が今は爆発しその霧島降ろしに載って火山灰が甚大な被害をもたらしている。

 あの当時、人をよく観るべきだった、今考えれば毛沢東のようなパワハラ幹部と生意気にも無鉄砲にも真っ向からぶつかた。そして粉砕され挫折した挙句、ようやく傷心を立ち直らせているころだった。

 幾星霜、人員整理に閉店が続く。相見積もり、価格競争、品目拡大が続いている。日常は渦中にいて、波に揉まれているらしい。

2011年2月22日火曜日

維持できにくいこと


 まるで発掘作業のようだった。
 長男が使用していた学習机を今は私の机にしている。ただし、ここで本を読んだり、書き物をしたりしたことはない。ただここに日々の資料や本などを置いて積んでおくだけだ。引き出しも詰まっている。近づくことさえ恐ろしいところだった。捨てることをしないので大事なもの(と思っている)は全てここにあるはずだ。いや、ホントに大切なものは茶の間の周辺にまで置くようになっていたので、とにかく片付けろと日々、毎日つれあいに抗議されていた。

 いつかの土曜休みの日に、一念発起、朝から晩までかかって、整理し分類し必要なものはファイルした。いろいろな案内は“賞味期限”がとうに過ぎていた。どこに行ったのかと気になっていた資料はここにあった。半分ぐらいはゴミの山で分別回収にまわした。日曜日の朝は女子リトルリーグの資源回収の日だったから。お向かいの若夫婦が父兄としてやっている。

 私は積ん読、とっとく方だ。それでホッとしている。一番大事なことは、頭に入れて理解して、そして行動がとれることだと、頭ではわかっているのだけれども、それができない。それで、何でも捨てないでとっておいて安心している。

 つくづくダメなやつだと自覚している。

2011年2月21日月曜日

今年の贈り物

 あれから一週間以上が過ぎた。

 北関東に赴任している三男からは“いちごワイン”というものが、朝のうちに、日にち指定で届いた。すっかり地元県民になりきっているようだ。

 カオルさんとユゴンくんの歓迎の宴をやっていて、はたと思い出した。その日は、つれあい殿の五十ん回目の生誕日でもあった。それで、あらためて皆で乾杯をした。韓国語では「ゴンベイ」と言うらしい。お開き近くになって、カオルさんとユゴンくんからお土産をいただいた。いつも使うオルゴールをとりだす。我が家ではHAPPY BIRTHDAYを唱和するのが恒例だ。ここで、娘の手作りのケーキが登場するはずだったが、つくるのに失敗して出てこなかった。ローソク吹きはできなかったが、息子夫婦からプレゼントを贈呈された。今はやりのタジン鍋だ。

 シホさんからは明日はバレンタインですからと手作りのガトーショコラもいただいた。

 皆を見送って、あれがそうだったのと訊かれて、いや私からのは別にあると応えた。皆のいる前では出しそびれたのか、…出し忘れた。

 へ~ぇ、という。でも、これってあなたが欲しかったものでは、と問い返される。いや、いや台所を楽しくしたいと思ったのだ。

 不思議なことにピアノやオルゴールを扱うお店の店頭に置いてあったので、目に付いて買い求めた。 なにしろ渋谷から運んできたものだ。

 分別ゴミに使用しているペールの蓋がイカレていたので、まるでホーローのような質感のそれで台所が明るくなると思ったのだけれども。

 今度の週末は留守したが、あれ以来重宝してもらっている。

2011年2月20日日曜日

何の人生

 孝道さんは目鼻立ちの濃い人だ。
 明るくなった。目覚めて布団の中から窓の方を振り向いて一瞬ビクッとした。目と目が合ってしまったからだ。睫のくるっとした大きな瞳でこちらを見つめていたらしい。それだけでお互いに朝から大笑いだ。

 気をつけなさいよ。降った雪はいいけれど中の雪は凍っていて滑るから。

 南国の種子島にさえも降雪があった大晦日、関東以外の全国各地に大雪が降った。それで、盛岡市郊外で高原の藪川外川地区にも従来にはない重い雪が降ったと上野(うわの)さんは教えてくれた。ここは、本来豪雪地帯ではないので、寒さには強いが雪の重みには耐えられないという白樺のような木があちこちで折れ曲がり倒れていたのは異様な光景だった。

 歩きながらはたと思った。早朝の散歩に出たのはよいが、一面真っ白だ、帰りの道に迷ったらどうしようと。昨日の朝、Yさんを見送ったバス停が見えてきた。たいして歩いていないのだけれども引き返す。そうしたら、自分の足跡が雪道についている。万一迷ったらこの跡を辿って帰ればいいと。それにしても足跡はガニマタだ。

 先人の努力の末、とうの昔に電気も通じ、快適な道路も今では通っている。ここは、その昔、米はおろか作物もできかねる開拓地の寒村であったところだ。

 知れば知るほど伊藤勇雄さん(1898~1975年)はすごい人だったのだねと孝道さんは心から言う。まだ3度目の訪問だったけれども、なんだ「開拓の碑」を見たことがなかったのかと帰る日に案内してもらった。雪の積もった旧開拓村の中心部というところにあった。「夢無くして 何の人生ぞ」と伊藤勇雄の遺した言葉が記してあった。

 53歳で藪川へ入植した伊藤勇雄はさらに69歳で南米に移住する。弟登喜男に贈った色紙には、「君の夢が大きければ大きい程それは君の偉大さを示す」ともある。

苦労話


 私のは“岡本太郎”だ。稀に爆発する。

 毎朝もよおすのだけれども、他人様と一緒に人様の家に泊まれば、やや憚れる。

 意を決して、少し時間を置いて入ったつもりだけれども、こもっている。息を止めるが長くは続かない。外はまばゆいばかりの美しい雪景色。それなのに誰だ、こんなのをしたのはと思うのだけれども、ここは“はばかり”であってやむをえない。そういえば、お腹が張っていると言っていた。

 洋式で一応水洗式のようにはなっているが、かなり簡易なそれで、申し訳程度にしか水は流れない。決して文句は言えない。まっすぐに落ちればよいが、爆発したヒには、こびりついてうろたえる。第一はずかしいし、迷惑もかける。

 お付き合いを重ねるうちにYさんは大酒飲みだと判ってきた。そのせいか、そのせいでないか彼はいつでもどこでも訪問先でそれをする。いや、職場でもそうだった。森の動物のどこぞのオスがまるで勢力範囲のシルシをつけているようで、なんだか可笑しく思うようになった。そんな芸当はできないのだけれども。定期便だ、健やかな印、まして食べ過ぎている。アウトプットは自然なことだ。

 はばかりながら、今朝はかなり真っすぐに落ちるように心掛けた、ふゥー。

2011年2月17日木曜日

炎の魅了


 叱られた方は覚えているものだ。

 実家には五右衛門風呂があった。煙突がオンボロで先っぽから火の粉が出たりしていた。あるとき、煙がひどくて近所から苦情が出て、それ以来使えなくなったと記憶している。中学に入った年、家の増改築をした。そのときに取り壊したが、使えなくなったのは、ずっとそれ以前のことだった。

 だから、小学校の低学年だったのではないだろうか、その出来事は。

 日ごろ父親のやることを見ていたので見よう見まねで、あるとき私は一人で火をくべお風呂を炊いた。私も家事の手伝いができたと思っていた。
 ところが、恐らく仕事から帰宅したのだったろうか、これを見た父は火のごとく怒った、それもいきなりだ。褒めてこそもらえ、頭ごなしに怒られるなんて心外だった。私も腹立てたはずだ。
 小さい子どもが火を扱うなんてとんでもないことだということだったのだろう。もし、火事でも起こせばという心配が、諭すということもなくいきなり叱り付けるという行為になったのだろう。そういう人だった。

 こういう非教育的態度は、後年私にも多々あって親父さんと同じようなことをしていると内心嘆いている。叱った方の私はそのことをあまり覚えていないが、きっと子どもたちの心の奥にはあるはずだ。私自信の子ども心にあるように。

 それ以来2度と風呂を炊くことはなかった。
 それはともかく、なんというのだろう、あの「火遊び」が妙に魅力的だったことが心の奥に残っている。なにもかも忘れて夢中になったことを。

 あのときもそうだった。
 武田さんのところの山小屋はだるまストーブで暖と灯りを取る。ほかに何もない。この山小屋の持ち主はその熱で器用に料理をつくる。あの炎が、くすべる火が、魅了した。

 今宵、月の光が我が家の寝室に差し込む。
 明日も、凛とした空気のなかに北国の星空と雪景色を見られたらいいと思うのだけれども。

2011年2月15日火曜日

ユゴンくんのこと


 月曜日の朝は慌ただしかった。

 その前日は晴れてよかったが、シホさんのママと韓国のユゴン君が訪ねてきた。前から予定していたことだ。それで家の中を小奇麗に片づけていた。いつもは雑然としたなかに「あるものはある」。それが、今朝は靴からして靴箱から出さなければいけなかった。何もかも引出にしまったりしていたので、あれやこれやホントにあるのか不安だった。

 ユゴン君は二男が韓国に語学留学をしていたときに知り合った友人で、いくつも年上なのだけれども馬が合うみたいで親友のようにしている。どうやら大会社の息子さんというのは本当らしい。日本語ができて、日本が好きなようで、私たちも行ったことのないところを旅している。本人は医者であるらしいが、そういうそぶりは全然みえない。そもそも職業を持つ若い人間が、なんで2週間も日本に滞在できるのかよくわからない。

 息子も学生のときはずっと付き合っていたのだけれども、さすがに今は土日しか相手できない。親しさを測るものかどうかは知らないけれども、ユゴンさんはホテルをとらず、親しい日本人の家に泊まる。それで昔は我が家にも何泊もした。鍵を預けて我が家の住人も出勤あるいは通学に出かけた。今回は、平日は息子の親友のアパートに、土日は息子のところに転がり込んだらしい。

 昨年の息子の結婚式に来てくれて以来の再会だったが、我が家を訪ねてくれたのは3~4年ぶりぐらいだっただろうか。懐かしいから昔泊まった部屋(二男が使っていた部屋)を見せてくれと言われたが、今は物置然として使っているので慌てた。

 腰が軽くて愛想がいいので、中年おばさん殺しのようだ。韓流にはまっているシホさんのママも、ご近所のMさんも、私の姉も「ユゴンくん、ユゴンさん」と言って慕っている。

 もうすぐ同じぐらいの年の人と結婚するらしい。大会社の子息だからさぞかし大仰な結婚式をやるのかと訊いたら、ごく身内でやると言っていた。

 不思議な韓国人ユゴンさんは昨夜の7時のフライトで羽田から帰国すると言っていた。

2011年2月14日月曜日

ラニ先生


 どうも二人分の仕事をしているように考えられる。仕事で帰りが遅くなった。そしたら、雪だ。積もっている。あっという間のことのようだ。自転車のハンドルにまで積もっている。

 天気予報では先週の金曜日から日曜日にかけては雪が積もるほどの天候とのことだったが、金曜、土曜に降るには降ったが道路に積もるほどのことはなく、まして日曜日は晴れてしまった。それが、ずれてこうなったのかな。

 伊藤ラニさんは、このたび中学の息子さんをアメリカの学校に入れるので保護者として付いていくことにしたらしい。それで、ジムにしばらく休業させてほしいと申し入れた。そうしたら、復帰はまた一から始めなくてはいけないということで事実上の解雇になった。経緯(いきさつ)は知らないが、以前からジムの経営者とはそりが合わなかったようだ。信念が強いのか、ラニさんもペコペコする人ではない。

 夫とは離婚して、今はひとりで二人の息子さんを育てているようだ。風貌からして東南アジア出身の人だとは思うが、頑張って生きていている。だから、いくつもジムを掛け持ち、そのひとつのジムでレッスンの数を幾つ獲得できるかは働く効率上、死活問題のようだ。

 ラニさんは教え上手でしかも熱心だ。言葉もほとんど完璧で支障はない。それなのに、そのような事情でラニさんの教室は今月末でクローズになる。

 私は身体が固くておまけに五十肩をやっているのでダメ生徒なのだけれども、教え方が丁寧なので、ファンであり都合のつく限り出席していた。

 お宅のパパ手を挙げていたねと、Yさんから言われたらしい。ラニさんはヨガとピラティスをDVDに残して行くという。「購入するヒト?」と言われて、真っ先に手を挙げた。先週の水曜日のことだ。そも、かねてから、欲しいと思っていた。

 諸行無常。人と出遭って、人と別れていく。

 何か送別の贈り物を考えようか。

2011年2月10日木曜日

逆風、足踏み

 4時に目が覚めてしまったので、いつもより早く行こうと起きた。幸い昨夜の残り物があって朝食もすぐとれた。新聞に目も通してお茶でも飲んでいたら、なんといつもの時間になってしまった。玄関を出たら北風ではないか。向かい風にペダルを踏むがなかなか進まない。ここのところの人生、逆風に立ち向かってこなかった。そのつけがまわってきたのかなとちらっと思う。駐輪場につけば既に電車が向かってくる側の踏切の鐘が鳴っているではないか。久しぶりに走る。すべらないように気をつけながら走る、走る。胸が高鳴る。駆け込み寸前ですべり込む。鼓動がおさまらない。へたに足を止めると青くなる。しばらく足踏みをする。そういえば、こんな足踏みの人生を続けている。

2011年2月9日水曜日

新刊『麹のレシピ』とイトコの兵庫さん

 夜の10時を過ぎればホームの急行に向かう列もさすがに殺気立つ。7時からずっと飲み続けていた。ただ、うまいものを食べていたのでさほど飲み過ぎた感はない。それで、あっという間に翌朝だ。漢方胃腸薬とウコンを飲んでいたので昨夜のことは何とかなった。Yさんはあと二年だ、二年でなんとかしたいという、私はあいかわらず“役に立たない”などというそぶりで逃げている。

 今朝、東京は、「すわっ吹雪か」と思えるような横殴りの雪になったのに、結局お湿り程度で済んだ。吹雪くより早く出勤していたのでビルの中からその雪を見ていた。

 樋口さんの手作りの味噌は独特の風味を感じられて、今夜も味噌汁にして、いつまでもうまい。人柄がお味噌に出るのだろうか、なんともいえない贅沢を感じる。

 私とは従兄弟筋にあたる“兵庫”さんという人は本家の長男だったのに、家業の焼酎屋は次男の喬さんが継いだ。兵庫さんは父より一つ年上だったが、父は叔父であったので「こらっ、ひょうご」と呼び捨てにした。兵庫さんの兄弟は多く、ガソリンスタンドを経営した人、在所で荒物屋さんをした人などがいて、一番下の七次さんは医者になった。九州帝国大学医学部を出て医局にいたころ、父の胃癌の手術を担当して執刀した。

 その兵庫さんだが、往時わが町の繁華街に店を構えて麹を商いしていたらしい。その話をいつも聞いて、当時私には麹屋さんというものがどのような商売なのか、どうやってそれが成り立ったのか、想像がつかなかった。ただ、焼酎屋から麹屋という関連は理解できた。なくてはならないものだから。私がものごころついたころには、兵庫さんは亡くなっており、そのお店を見ることもなかった。本家の兄弟の中で、兵庫さんが一番父に似ていたらしい。兄や姉の記憶にはある。さて、その麹および麹屋さんという商売だが、未だにわからない。

 うちの姪っ子が今度本をだしたので、よかったら一度読んでほしいと案内を受けていた。気に留めながらも半分忘れかけていたとき、二瓶さんがメールで、書店で見つけて買いましたよという報せに刺激を受け、このたびようやく紀伊国屋書店で見つけ出し買い求めた。2冊あった。めくれば「麹って何」と思う私のココロをそのままに、「まえがき」には記してある。

 私が赤子のときには会ったのであろう従兄弟のヒョウゴさんのことを思いながら、この本に向き合おうと考える。著者の“おのみさ”さんはイラストレーターでもあるらしい。楽しそうな装丁だ。その昔、私の故郷の町には私の親戚縁者が営む麹屋さんという商いがあって、これを用いてそういう食の材料をつくる生活が家庭にあったことを想像しながら。

『麹のレシピ』著者;おのみさ、池田書店、2010年11月25日刊、1260円。

2011年2月6日日曜日

電気毛布に胃腸薬


 土曜日の明け方5時だ。悪寒がすると言う。布団をなんとかしてもう一枚掛けてくれと。そしてみかんを食べたい。水分が欲しい。体温を測りたいとも。えらいこっちゃ。
 とりあえず私の布団を掛ける。水銀柱の体温計しかない、振って下げて渡す。みかんとコップ1杯の水を持ってくる。測れば38度の高熱だ。すわっ、インフルエンザか!とりあえず、風邪薬を飲ます。

 原因はわからないが、結局、つれあいは病院には行かず寝て治した。突発性の熱だったようだ。

 あらためて、いくつもある体温計を点検した。水銀計以外に1個は電池式の使えるものが出てきたので買わないことにした。あとは電池を換えなくてはいけないものが2本ある。風邪薬は切れた。今日チラシをチェックして買い物に行った。電気敷き毛布を処分価格980円で買った。一番シンプルなタイプでもともと安い(1980円)。有線のマウスを買った500円、前のパソコンのものがこれまた壊れた。42インチのデジタルテレビの値段を聞いた。2画面が同時に観られるタイプ。12万円なにがし。もう少し値下がりしそうだが、3月末でエコポイントが終わる。そもそも買うべきかどうか。
 風邪薬と漢方胃腸薬を買った。胃腸薬は食間に飲む、タイミングが面倒だが、飲めばすっきりする、効いているような気がする。

 昔むかし若いとき、使う必要もないのに電気敷毛布を持ってはいたが、とうとう使わずじまいでバザーに出した。そのときのごわごわしたものと違って、今のものはなんと薄くスマートなものか。早速使い始めたら、暖かいこと。

 気合だけで、克てなくなってきたのかな。

2011年2月5日土曜日

優勝の夜、宿の夜


 前の日は夜中の2時に寝て5時に起きて出てきた。

 ヒラメの刺身を大皿で。アワビは刺身がよかった。ホタテはやたら肉厚だった。ウニはこれがまたうまかった。好物のポテトサラダかと思ったら海鮮物の和え物だった。こりこりしたアンコウの皮身がいい。鮟胆は絶品だ。・・・。あれっ、今年もアンコウの鍋までたどり着くのかなと思うほどたらふく食べた。
 お酒はこれがいけない。主催者様の差し入れで宮城県の上等の日本酒だ。飲めば酔うのだけれども、当たり前だが、また飲んでしまった。

 枯れた芝生の庭で星も見たし、さあ、寝ましょと布団にもぐり込んだ。暖かい毛布。掛布団は二つもあって眠りやすい。部屋の相棒たちはいびきもかかない。Mさんはとっくに寝ていた。ゆっくり睡眠と思っていた。

 夜中だ。ガラッとふすまを開けてトイレに行く人がいる。ふすまを閉めて行ってくれないから、北茨城の冷たい風が入ってくる。ここで起きてしまってはおしまいだ、我慢をする。帰って来た様子で布団に座っているらしい気配。

 何やらごそごそとした途端に、パッと部屋の明かりを点ける。何だ、何事だ。テレビを点ける。あっという間に音量を上げる。「ナニやってんだい、おきるんだぁ」という類のことを確か叫んだ。アジアカップの決勝戦。これが始まるらしい。そうだった、…ということはまだ12時前だ。夜中ではなかった。寝入りばなではないか。なんだ、なんだ。

 隣に寝ていたYさんは「なんだ、なんだ」と声に出して起き上がる。私はふにゃふにゃと布団を頭まで被る。誰がサッカーの俄かファンになれるものか、こちとら眠たいと。

 ところがだ、「どうも、どうも」と入ってくる人がいる。「奥さん、こちらへ」と招かれ向こう側の炬燵に入ったらしい。なんと、我がつれあい殿ではないか。もはや、これまで。

 そうでなくとも、なかなか点をとれない我がチームにたいして、「何やってんだい、このタコ!」とMさんの声援はすさまじい。昼間でも大声だと思うぐらいだ。酔えば人が変わる。怒りながら笑っている。「タコ!ばか!」「この審判がいけないよな、きっとねオーストからね牛肉一年分もらっているんだよ」とくる。「しかし、川島はいいよね」「あっ、オーストのやつ川島をどついているよな、審判何故言わないんだよ、牛肉二年分もらってやがるな」Mさんは元気いっぱいだ。それにしても我がチームに向かってタコ、タコの連発は応援しているんだか、罵倒しているんだか。会場の応援席にいたら、身内で乱闘だよねと笑う。
 ゴールキーパーの川島がよく止める。「早く点を入れてやれ、このタコ」で、同点引き分け、延長戦の前半も点が入らない。しばしトイレに行って帰ってきたらもう後半戦が始まっている。5分を過ぎたあたり、長友がゴール前にあげた球を李が鮮やかにボレーシュートを決めた。教科書に出てくるようなものの見事さ。もうおおはしゃぎだ。途中から投入されていたのが李だった。しかし残りあと10分近くある。選手たちも疲れ果てている。「攻めろ、攻めろ、タコ、こらっヨシダ」酔って人格が変わったMさんに容赦はない。「卑怯だよな、あいつら、川島にぶつかってやがる。もう牛肉なんか絶対買わないぞ」とくる。確かに韓国戦の前例もある。ハラハラドキドキ、ロスタイムも過ごして、日本チームはようやく勝利を手にした。ヨシ!

 やった、やったの大騒ぎだ。恐らく旅館中に聞こえているはずだ。真夜中の2時過ぎの小さな宿の。

 しばしめでたし、めでたしで、それではとつれあいも部屋に戻った。布団にもぐりこむと、炬燵の方から何やっているのときた。えっ、と仰向けにのけぞって声のする方を見やれば、勝利の美酒を仰がないのかと。ええい、こうなりゃヤケだ、クソだ。宴会場からもってきた徳利に上等の酒を注いで、カンパイの嵐。それでYさんが「勝つとわかっているから、何度観てもいい」と言ってテレビのチャンネルをまわすが、そんなにすぐにやっているところはない。BSNHKニュースの冒頭でやったぐらいで、あとはどうでもいい深夜番組だ。よっしゃとようやく床に就いたのが3時前ではなかっただろうか。MさんもYさんも興奮して大騒ぎしていた割には寝つきがいい。

 ん!?何やら寒い風と気付いたらMさんがトイレに行った様子。帰ってきてそれっきり起きていたようだ。時計を見れば午前5時、またしても2時間しか寝ていない。6時になればいつまで寝ているのですかと、今度は正気のMさんにまたも起こされてしまった。ふにゃぁふにゃあと伸びをして起きる。

 あれから一週間が過ぎた。そんなこんな忘れられない一夜になった。

2011年2月4日金曜日

カレンダー


 兄は幼少のころ弱くて、そのせいで小学校にあがるのが3年も遅れた。それで背格好も小さい。

 5年ほど前だが、姪っ子の結婚式があったときに久しぶりに兄弟四人揃った。それでみんなで式が終わったあと、箱根に足を伸ばして一泊した。そのとき、つれあいが四人を撮ってくれた写真の出来がよくてみな気に入っていた。

 それを使って年末に今年のカレンダーをつくった。姉達には叔父の法事で手渡した。

 抗癌治療をしている兄に絹のパジャマをお見舞いに送ろうと思ったが、絹のコーナーにはSのサイズがない。仕方なく紳士服売場に行って数少ないSサイズの中からやはりパジャマを選んで、カレンダーを添えて送ってもらった。カレンダーのサイズは大きかったが、デパートは難なく対応してくれた。

 兄からお礼の電話がきて、兄弟みんなで揃ったあの写真が気に入っていたのでうれしいと言ってきた。パジャマは奥さんに袖を詰めてもらうらしい。ひどい吐き気はおさまったけれど、眉毛がなくなったよと言っていた。

 来年もカレンダーをつくるよとは言いそびれた。

 そのやりとりの1月がもう過ぎた。4日遅れで別の月めくりのカレンダーをめくった。今年もめくるめく時が過ぎてゆく。

2011年2月3日木曜日

我甘味を欲す


 仕事からの帰宅でもうすぐ我が家というとき、いつもは気にしない暗くなった子どもクリニックの方から何やら声が聞こえる。そうか、今日は節分だ。そうだった。

 一日中、気の休まることのない文章をつくり続けている。メールも倍に増えた。4時半ぐらいになると少し頭がボーっとしてくる。そうだ、三人減らされたのだ。当然、負荷が増えた。もう、まるでエネルギーが切れかかってきたアトムのようだ。脳に栄養を送らねばと、自然に身体が甘いものを欲するようになるって本当だ。

 ジムの帰りに閉店前のスーパーをのぞいたら、売れ残りの恵方巻きが処分価格だ。よっしゃで二本買った。音更産の大豆で豆撒きやった。カフェラテ飲んだ。明日はどうなる雀さん。

2011年2月2日水曜日

お見舞い


 つれあいはしっかりしている。
 ように見えるらしい。得な外観だ。週末に泊まった五浦海岸の旅館から親切にも、つれあいがうっかり忘れてきたマフラーが送られて来た。明日お礼に川越の最中を送るつもりだ。

 ところでシホさんのブログによるとソータローは寝返りを打ち始めたそうだが、彼女自身は風邪をひいてしまったらしい。昼間、今日は休みのつれあいに連絡をとって様子を見に行ってくれるようにたのんだ。仕事を終えて電話をいれたら、行ってきたらしい。ヤオコーのおはぎをお見舞いに持って行ったそうだ。つれあいにしては気が利くこと。シホさんの好物だ。大事には至っていなかったようだ。

 息子はノルマがきつくて帰りが毎晩遅いらしい。せめて9時までには帰ってきてくれたらいいのだけれども、と。夜、ジムの帰りにヤオコーに寄って私からのお見舞いにと韓国のゆず茶を求めた。予告なしに訪ねて行ったものだから、お風呂だったので玄関で顔だけ見てお見舞いを渡して帰ってきた。子育て中のシホさんを孤立無援にしてはならない。
 中旬には里のお母さんが訪ねてくるそうだ。

百姓が育てた苺


 ツアーの主催者は「竹村くん」と呼ぶ。中学時代の同級生だからだ。
 きちんと刈り上げたその坊主頭の風貌が何とかという落語の師匠に似ているなという印象だ。

 まだ学校に通っている子供がいるけれど、皆さんが食べる分ぐらいはいいよと言って、ハウスの中のイチゴをもいで試食してみることを勧められた。柄の部分まで完熟していて、どうせなら大きいのをと狙って食べてみて驚いた。甘い!それもすごく甘い。たまたまかなと思って、遠慮がちなそぶりで容赦なく次のをもいで食べた。同じだ。その丹念なご苦労の程を聞いた。さすがだ。こういうつくりをしている、ああいうやり方をしていると色々うかがったが、それだけのことのある作物だ。実際に商品としてパックしたものを見ても充分に完熟しているものを出荷しているようだ。丹精さが違う。

 私は農業という生産活動をしたこともなく、まして有機栽培のことも知らないので、それに関わる用語も初耳だ。チョ・ハンギョ(趙漢珪)先生、てんけいりょくじゅう(天恵緑汁)。見たり聞いたりしているうちに、まるで不老長寿の薬を調合している仙人のように見えてくる。なにしろ、やっていることがアンチョコではない。手間暇かけて、丹精込めてという農法であるということがわかる。

 帰りしな、うちのつれあいが訊いた。何かと思ったら、ところで主催者さんは中学時代アイドルでしたか、と。私たちはそう踏んでいるのだが。返事がよく聞こえなかった。

 竹村さんは真理さんという奥さんと連名でいちごパックを出荷している。添える案内書もそうしている。

 筑波山腹から来て、再び、今度は参拝のために筑波神社へと向かった。

2011年2月1日火曜日

筑波のふくれみかん


 いつのことか近所の公民館主催のトレッキングで筑波山には登ったことがあった。それ以来親しみが湧いた。登り口の筑波神社には旅館やホテル、おみやげ屋さんが並んでいる。遠くから赤い鳥居が見えてその様子がわかる。明治の以前にはお寺があって門前、町を成していたらしい。山の中腹なので、今の車道と違い階段もある急な坂道だ。「新しい道」は家光さんのころ。古い参道は将門さんのころらしい。「筑波福来みかん保存会」会長の鈴木さんはそう表現する。世が世なら門前町で栄えたのだろう。斜面にある鈴木さんのお宅は門といい、石垣といい、棟上げといい、土蔵といいりっぱな構えだ。玄関に入ると土間があり応接セットがある。その昔はなんらかの商いをしていたのかもしれない。この筑波神社門前の山の中腹の村からは、眼下にその辺一帯の田園や村々を眺望できる。
ここらは気流の関係で平地よりも2~3℃気温が高いらしい。そう話してくださるのは保存会副会長の広瀬さん(77歳)だ。お話をおうかがいしている場所は、使わなくなった昔の郵便局で、地域で保存しているところらしい。昔のものの展示物や観光案内が置いてある。広瀬さんは昭和14年から50年までここで郵便局長をされていたらしい。

 何もさえぎるものもない。南に面した傾斜地で、麓よりも逆転気流というもののおかげでここは温かいところである。それでここには蜜柑が育つ。潮来生まれの金城さんに言わせれば「つくばみかん」といって昔はいくらでも食べていたという。

 どうも蜜柑の北限であるらしい。「イバラキで何でミカンだっぺ?」という疑問がようやくとけた。少なくとも100年あたりの昔からあったという。
 小さなみかんで桜島小みかんよりもやや小さい。だから相当小さい。食べごろになると実と皮の間が離れるように膨れてくるので「ふくれみかん」と言うのではないかとのこと。それで「福来(ふくれ)」という漢字を充てたのではないかとも。どうも固有の種であるらしい。万葉の昔、ここいらには橘があったという。
 実は甘くおいしいらしいが、それ以上に皮に芳香があってこれに価値があるようだ。陳皮のように用いられる。手で皮むきして、一週間ほどかけて乾かして、焙煎して、粉にして味をつけ地元では七味とうがらしに利用する。手間ひまのかかるものだ。黄色くて美しくなんと言っても独特の香りだ。この固有の芳香は柚子では強すぎ、ちょうど香りのバランスがいいという。
 昔からある木は高い。百年ほども経っているからだ。高齢化もあって所有者も木に登れない。まず、収穫が難しい。収穫するまでもなく多くは鳥の食べるままにしていたらしい。鳥もよく知っていて中の甘い果実だけをついばみ皮は形のままに残している。だからといってこの皮では使えない。
地域活性化の補助金の制度も導入して、この伝来のみかんを残し景観を復活させようと「筑波福来みかん保存会」が立ち上げられたらしい。それで一昨年あたりからみかんの木を植えだした。私たちを案内してくださった区長の斎藤さんが50年後のみかんが育った景観を語る。地域のために孫子のために残したいと。斎藤さんは鈴木会長や広瀬副会長よりもひとまわり若く見える。両先輩にたいして控え目だ。既存の木は枯れだしてきた。みかんの花が咲きやがて青い実が成る。これが黄金色に色づく。その景観をいう。

 皮は七味に加工する。さらにその七味や陳皮を利用して、地域の製造業のみなさんと組んで新たな商品づくりを試みる。地元のお菓子屋さん、日本酒の醸造元と取り組んでいるらしい。皮をとるために実は利用していなかったそうだが、ジャムをつくったそうだ。保存している冷凍した実を会長さんのお宅で見せてもらった。

 筑波神社へのお参りの帰りに、おみやげ屋さんでそのジャムと七味をみつけた。ラスクもあった。ふくれみかんを見に来たんだと言うと、店主は陽気なおばさんでそうかいそうかいとお茶を飲んでいけと奥に通された。軽妙なやりとりを楽しみつつ、ついつい買ってしまった。
 店頭には「NHKでとりあげられました」と手書きの宣伝がしてあった。行政の補助金は“事業仕分け”で打ち切られるハメになっているそうだ。