2011年1月8日土曜日

種子島紀行Ⅲ

緑提灯で夕食会
 種子島といえば魚がうまいだろうということは想像できた。

 「そこの地域を訪ねて、地元の人が料理したものを、地域の人と食べるのが本当の郷土料理の食べ方」(かごしまよかとこ100選『食彩の旅』)で、そして「愉快な仲間たちと一緒に」わいわいと食事ができること。これも楽しみのひとつだろう。

 そこでとれるもの、そこに伝わるもの、訪れる者にとっては珍しいもの、そしてなんといっても自分で育てたとか、栽培したものなどを素材にしたものをいただき堪能した。これらは「美味しいもの」に通じる。私らは好き嫌いをしたり食べ物を残したりするような人はいないからそれでよかったけれども、それにしても品数も多いなと思っていた。

 事前の打ち合わせの食事会をしたときに、みんなで北茨城のあんこう鍋企画のときの旅館での食事の話をした。会食場のドアを開けてみたら、テーブルの上にお目当てのあんこう鍋だけではなく、他の料理もいかにてんこ盛りで並べられていたか、いかに目を見張ったかの類の話をした。実は、若くて実直な二瓶さんと迎え入れる側の長野広美さんにはこの話がプレッシャーになったらしい。必要以上に気を使わせてしまったようだ、それで合点がいった。我がメンバーには「月に一度ぐらいの暴飲暴食をする主義」の人もいるらしいのだが、私らの年代(仲間)は概して大食いの傾向にある。このように愉快に食べることは楽しいからだけれども。

 それで「食」については「うるさい」(&大食い)と思われたのか、どの食事も質もさることながら、量もそこそこあったなと途中で感じた。

 この島にはよい漁場がある。農業もさかんなようである。自給自足も不思議ではないような気がした。それで案内されたのは「地産池消」の緑提灯のあるお店。地元の産物を堪能することになる。

 最初の夜は西之表の港。海峡に面していて、昔からの玄関口だ。そういう緑提灯を掲げてある居酒屋の座敷。店内はお客さんでいっぱいになっていく。刺身の大皿を目の前に、他のものも次つぎに出てくる。刺身にはこちらのさばや、はがつお、きびなご、水イカ、カンパチ、地だこ等が並ぶが、あとの種類はよくわからない。いずれにしても南方系の魚だ。醤油は地元の甘い醤油とそうでない醤油が置いてある。さすが本場だ、飛魚のスリミの団子が味噌汁に入っているし、飛魚の卵の煮物も出る。地元の醸造元の若い専務さんも歓迎の宴に参加し、自慢の4つ銘柄の焼酎を直々に「試飲」させていただく。地元では100年続くなじみのブランドと、あらたに売り出した種子島むらさき芋や安納芋を使用したブランドだ。痛飲する。さらには途中から地元の飴屋さんの若いご婦人も加わった。二代目らしい。提供していただいた「ラッキョウ飴」は不思議な飴だ。パリパリと食べられる。私は飴・キャンデーの類は齧るタチなのでこれは好みだ。形がらっきょうに似ているのでそういう品名だが、野菜のらっきょうとはなんの関係もない。それがまた話題になる。島中のあちこちのお店に並んでいた。こうして、初日の夕食をご一緒させていただいた地元の側の中に松下さんがいた。

種子島茶
 予め勉強をしていけば本番でも相当理解が深まるものだが、そういうことをしない。いつもぶっつけ本番だ。

 鹿児島でお茶といえばそう珍しいものではない。茶畑もあって当たり前の感覚だ。それで種子島でも茶園と生産組合に案内された。3月から4月に新茶がとれる。日本で一番早い。地理的にそれはそうだろうとわかるのだが、驚いたのはここの生産者(16名)の人たちが100年前に静岡から移住してきて何代目かの人たちということだ。てっきり鹿児島の延長線上で南にあるだけのことかと思ってしまっていた。しかし、事前にいただいた案内書にはちゃんとそう書いてあった。

 長野さんは地元の人でもここのことはあまり知らないのだという。2日目の最初に訪ねた番屋峰という地区。地形が一番高い所で282mだという種子島の細長い地形にあって、ここは島の背骨にあたるところ。比較的起伏のある場所だ。種子島は移住の島。数多くの人々を受け容れてきたらしい。前夜の食事に出た刺身の種類や地元の人たちの言葉や雰囲気に、私はなにか甑島にいる錯覚を覚えたばっかりだった。1886年ごろ東シナ海に浮かぶ甑島は台風の被害に遭い2年間に600戸ほどの人々がこの島に渡ってきた歴史があったそうだ。私の印象もあながちはずれてはいなかった。そして番屋峰集落は1909年に静岡県掛川あたりから数戸の人たちが移住してきたらしい。種子島・屋久島あたりのことを行政的には熊毛郡というが、当時の熊毛郡の郡長が静岡のひとであったらしくその縁で当時これほど遠方への移住が実現したらしい。静岡といえば清水次郎長に「茶の香り」。まさしくそのお茶の栽培をやっている。移住して100年を超えた。その記念碑のあるところで自己紹介を受ける。種子島茶生産組合の人たちを訪ねたのだ。組合員16名、その代表の松下さんが昨夜は参加していた。3代目4代目であるらしい。
 
 案内された園圃はまるで隠し田のような感じで、お茶畑が拡がる。どんどんいけば高台の茶畑の農道から海峡が見える。飛行機から見たあの馬毛島が手にとるように望める。そうなんですよ、あの島はとんでもないことになっているんです。そのことについて私たち本を出したんですよと長野さんが言う。どうも聞いていると長野さんは私たちと同じ立場のようだ。ぜひその本を読みたいというと、「南方新社」から出版したらしい。南方新社から出したというならば、もう間違いはない。鹿児島にある出版社で実に骨のある本を出すので、私は鹿児島に帰るたびにここの出版物を物色するのが常だ。

 鹿児島でお茶といえば産業だ。茶畑ぐらいどこにでもあるように錯覚している。知覧や頴娃の茶畑は美田ならぬ美畑だ。幕末の開国後お茶は輸出品になって鹿児島でも茶業が盛んになったらしい。今は霧島も開墾されて茶畑がひろがる。
 ところが、種子島のお茶はそれらの系統とはまったく違うということを初めて知った。静岡の直の系統だ。温暖な気候で3月に初摘みができるから、日本で一番早い新茶を出荷できる。ただ、悩みも語られる。この3月から4月にかけての40日間の新茶だけが頼りで、ブランド力がない。「知覧」に比べればそうだ。頴娃ですらそうだから、種子島と言ってもたしかにピンとこない。静岡からの在来種、実生を持ってきてその茶を繋いで、あたらしい茶を育成してきたらしい。早生種などあわせて15品種を持っている。種子島みどりというお茶の統一ブランドに「松寿(しょうじゅ)」という品名のブランドを売り出している。松寿院と呼ばれた島津家の出身で種子島家に嫁ぎ、幕末に善政を行ったと伝えられる女性で、篤姫の伯母にあたる。この人から付けた商品名だ。このお茶の製法は浅い蒸し方のようらしい。甘味があって味がよい。地元では730円で売っていた。
 いま、我が家ではそれを嗜んでいるところだ。

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