2010年11月29日月曜日

はたらきアリさん


 片道1時間半の通勤はいつしか苦でもなくなった。本も読めるし、座れれば居眠りもできる。しかし、トラブルによってダイヤが乱れるとつらい。数日続いて起こる。過密なダイヤを安全にしかも大量の輸送に従事する人々のご苦労はいかばかりかとも思う。

 何かこの巨大な都市生活の中にいることの不思議さを感じる。そしてどっぷりと浸かりこんでいる。諦念と慣れの成せる業なのだろうか。

 アリさんとアリさんがごっつんこするような人込みを難なく歩行でき、絶妙なタッチで時刻掲示板を見上げたまま人の顔も見ず瞬時に改札を通り抜けることができる。訓練された犬のように整列に並び、解き放たれた猛獣のように席をとる。席取りゲームに負けても人生の転落ではないから、何事もなかったかのように揺られながら一路、朝は職場、夜は我が家をめざす。すべてを黙々とこなしている。いくら羽目をはずして酩酊していても二、三度の乗り換えを難なくこなす帰巣本能をも身につけている。都心で放り出されても、ひとたび真夜中であることを認識すれば、迷わずタクシーに乗車し我が家に向かい命の危険から逃れる。もう若くはない。後部座席で寝込んだところを起されても、我が家への道案内を正確に示すことができる。万札が飛ぼうとも、悔いても詮無きことと考えることができる。

 そうやって初老を迎えた私が、望む田舎暮らしをできるだろうかという疑問にとらわれている…。

2010年11月28日日曜日

紅葉の小江戸


 「私は東京の丸の内でパンプスを履いて働きたかったのよ」ということを初めて聞いた。
 下の姉は高校を出て東京の企業に就職した。母校からは初めての就職先であったらしく、同じ高校からは三人がその企業に勤めパイオニアとなり、その後、後輩たちが続いたらしい。姉が言うには、そこは東京の郊外でまだ都市化が進んでおらず町育ちの姉にはとても不便なところであったらしい。聞けば、ゲゲゲの女房が結婚して「東京」に出てきた状況とまるで同じだ。専門力のあるその企業は今その業界では世界的企業になっている。そこのOBの同窓会があったといって上京し帰りに我が家に泊まっていった。かれこれ40年ぶりだったらしい。その興奮もあってか、もともとおしゃべりだったのかよく話した。何かこう久しぶりに実家に帰ったときの、長い一人暮らしの母親のよくしゃべる様子に似ているなと連想した。やはり母に似てきた。東京では三畳一間の共同流し共同便所のアパート暮らしで家賃3000円。すぐ横を電車が通りよく揺れるようなところだったらしい。製造工場で朝が早いという薄弱な理由でそこを辞め、執念で「丸の内」の職場を見つけたらしい。そうしているうちに、若者同志で企業を立ち上げるというので粋に感じそれに参画しそこで義兄に出遭ったという。高校のときは演劇部にいて、何かそういうこともしたかったらしくその方向も追い求めたがかなわなかった。10歳近くも離れた姉のことで知っているようで知らない。両親は上級の教育を受けさせたかったらしく、毎夜説得していたが、姉はとにかく東京に早く行きたかったのだろうか泣いて抵抗して、結局親が折れた。あのころの断片的な記憶がずっと頭の中にある。姉がいなくなって、兄姉が使った代々の勉強机とたたみ1畳ぐらいの「勉強部屋」を占有できるようになったときの、うれしいような寂しいような春のことを覚えている。

 我が家の今が盛りの紅葉とつれあいの手料理を堪能してもらい、今日は日柄もよく、小江戸見物と洒落込み、長男に紹介してもらったお店の懐石を三人で楽しんだ。私の姉だけあって歩くことを苦にしない。本日の歩数12,877歩。

 沖縄知事選では、伊波洋一さんは及ばなかった。日米安保条約を平和友好条約に転換させるという機会はひとたび足踏みすることになる。伊波さんは有徳の人材だ、幅広い支持層とともに淡々とこのことの追究を続けることだろう。勝てなくとも負けることはない。北朝鮮の無法な砲撃と原子力空母ジョージ・ワシントンが黄海に出動する事態は北朝鮮にも沖縄にも軍事的意味合いからの影響を及ぼした結果になった。

 NHKBS1では明日23:00からシリーズ「ベトナム戦争」が始まる。

2010年11月26日金曜日

ネオポリス国家志向


国家を牛耳る政府が「都市国家群」をめざそうとしているのではないかとさえ考えられます。そういう潜在意識があるのではないかと感じています。

それは、後期自民党、都市信心層に依存する宗教政党、そして政権交代を目的化してそれを果たした民主党にみられる本質或いは通底のものとみています。

捨象して言えば「田舎生活を捨てる、都市生活でよい」という流れの終着点です。

便利な生活、人工的快適さ、それでよいという国家の方向へどんどん突き進んでいるような気がします。

人口の圧倒的多数も都市生活者ですから、これを支えてもいます。

そこにスパーンと抜けているのが、人間および自然観です。いや、むしろ「神に選ばれた人間」、「自然から超然とした人間」という観念にとらわれているのではないかと考えられます。今がよければいい、人間はなんでもできる、と。

現状の成り行きは2つの危機と無責任に通じています。

 ひとつは、対外成り行き任せのTPP安請け合いの方針。農漁民が圧倒的に少ないという数字勘定だけで追い込まれた末の「判断」とみえます。これは間違いなく農業の破壊と国土荒廃を招きます。食の崩壊を促進します。格差の助長につながると直感しています。

 ふたつめは、普天間基地撤去と辺野古移転案への対応です。都市国家からみればあいかわらずの辺境のどっかそこらに軍事基地があればよいということで、都市本土に住む私たちはもののみごとに、今その関心を削がれています。沖縄の進路を決める県知事選挙が今闘われています。争点が隠されていますが、実は私たち自身にも降りかかってくることです。真正面から取り組みずっこけてしまった鳩山さんが辞めてから、菅さんもメディアも事実上知らぬふりですが、いつにも増して重要な選択と考えます。

2010年11月25日木曜日

ブラボー


 クミコさんが紅白に初出場することが決まった。昨日のNHKのニュース(自己の番組宣伝だ)でとりあげられていたけれど、彼女にはスポットがあてられなかった。若い出場者が多い中で、彼女だけが我々とほぼ同数のシワを顔に有していた。

 例にもれず、実力はあるがプロとして泣かず飛ばずの歌手生活をおくってきたらしい。シャンソン歌手であるから、銀座のお店に出演したら聴き手はたった一人だったという夜も経験したらしい。離婚のことすら明るくトークのネタにしていた。別れた亭主の苗字を捨てたと、それがただの「クミコ」の所以であると。ついこの間、紅白のことはかなわぬ夢のように冗談めいてとりあげていたが伏線だったのだろうか。

 「INORI~祈り」の出遭いのためだろう。これが幅広く共感を呼んだ。

 だけれども、彼女にはほぼ同年代かそれ以上の厚い主婦層のファンがいる。このファンの心をつかんで離さない人柄がある。

 私は俄かファンだが、あなたの歌とメッセージがどれほど多くの普通の人を照らし出してくれたことか!「ありがとう♪」(いきものがかり)だ。同世代のクミコさん、目尻のカラスの足跡はうちのつれあいと同じくらい美しい年輪さ、へぇい!おめでとう!

あら!?


 ブログもつくれず昨夜は倒れるように寝てしまった。どうも、睡眠時間が足りない。朝早く起きるからだ。

 久しぶりに書店で立ち読みをしていたら見つけた。「ちょっと前の日本の暮らし」が中川誼美さんからいつも出てくるスローガンみたいなフレーズだが、そのままの題名の本を中公新書ウクレで出版していた(『ちょっと前の日本の暮らし』2010年11月10日、777円)。彼女は築地本願寺「安穏朝市」(ちょっと前の日本にどこにでもあった「売る人」と「買う人」のやりとり)の提唱者で運営委員会メンバーでもある。「食」のネットワークと実行力は半端ではない。

以下はご本人のウエブからコピーしてお借りしたものです。 本の画像も。
 「ちょっと前の日本には、思い出すときりがないほど、現在にはない人々の暮らしの姿があり、懐かしいと思うだけでなく、何故なくなってしまったのかと考えずにはいられません。(中略)過去は良かった、と思い出だけに頼るわけにはいきません。ちょっと、ほんのちょっと前に日本に当たり前にあったさまざまな光景を、もう一度見直して、「今」の暮らしの中に取り入れる。それによって、温かい暮らしを取り戻したい。そう願って、私の思いを文章にいたしました。 (「はじめに」より)」

2010年11月23日火曜日

天空の一本道


 ビルの中から東の空が広く虹色がかっているのが見える。昼休みに外を歩けば明るい陽射しが刺すのに空からはいくらでも雨粒が落ちてくる。どうやら狐が嫁入りしている最中のようだが、見あげれば休日の東京の街を勢いよく行き交っているのはカラスだけだ。

 ひたむきに生きる人たちのことを知る。

 あらためて、私には何ができるのだろうと考えた。

 この夏、蝉が我が家で脱皮していたのだ。

2010年11月22日月曜日

マオ下巻


 どうしても読み進めなくなるところがある。それは、劉少奇氏がマオさんの指しがねでむごたらしく迫害を受けるあの一連の「文化大革命」と称する狡猾な復讐劇を綴ったページだ。劉さんはそれまでの人生でなんどもマオさんには屈したらしい、それでも最後には屈しなかったという。同じく迫害を受けた妻の王光美氏の支えもあった。もちろん作者の描き方によってどうにでも変わる。しかし、どうやら事実のようだ。

 周恩来氏の立ち回り。「銃口から権力が生まれる」という激しい暴力と恐怖と屈従。そして必ず出てくるお追従。洗脳のように入ってきた「走資派」批判キャンペーン。当時、あの個人崇拝への肌で感じた嫌悪、噴飯ものの作り話や落とし穴を嗅ぎとっていたつもりだが、それでもわからなかった。人がたくさん傷つき死んだ、同時代にあったあの事実。

2010年11月21日日曜日

賛歌


 本州一寒いところと聞いていたので、季節柄どれほどかと着込んで行ったが、好天で拍子抜けするほど穏やかな日和に恵まれた。

 私のような九州育ちには東北の人の話はもごもごとこもるように聞こえる。まして、小さな声であればなおさらよく聞き取れない。しまった、カメラを忘れた。

 しかしながら、いやぁ、いい話を聞いた。ずいぶん以前に案内をいただいていたので何のテーマだったか忘れていた。「山仕事賛歌」という発表会。

 九州でも2番目に大きい川の下流域に育ったので、音を立てて流れるような上流域の山間部、中山間部の暮らしを経験的に知らない。

 農業や山仕事を楽しくやっていきたいとの来賓あいさつに続いて、茨城県北部奥久慈から来られた「山方漆ソサエティ」の神長さん(1月に訪問して私もお会いしていた)、福島県西部の奥会津から来られた菅家(かんけ)さんの「三島町生活工芸運動のあゆみ」と題したお話、岩手県北部軽米町から来られた兼田さんの「山仕事を中心とした地域おこし(木炭)」と題したお話が続いた。みなさん人前で話すのは初めてとかおっしゃっていたが、内容は濃いもの。3地域とも7割から8割は森林という山間地そして高齢者がほとんど。そこで、それぞれ、「漆の里」づくり・地域づくり(地域の宝の再発見、交流)、昔から伝わってきた山からの資源を使っての生活工芸品づくり・楽しみながら生活のための道具を自由につくり地元に人を呼ぶ高齢者による地域活性化、硬くて火力があって火持ちのいい炭という軽米の木炭の需要の掘り起こしや普及をして里山を守っていこうという「軽米町白煙会」の活動などをうかがった。
 最後に主催地の「藪川開拓の歴史と今」と題しての佐藤さんの、戦後の開拓入植からのお話をうかがった。岩手県藪川というところは盛岡から車で1時間ほど行った中山間地である。三澤さんは藪川で20年になるそうだ。「イーハトーブ農場」を経営している。その三澤さんから佐藤さんの話に先立ち、入植して、こどもをつくり、教育をして、この村をつくり今日に至った佐藤さんの話を後世に伝えようと考えたという趣旨のことを紹介された。

 「日本の中山間地の地域の価値を高めて行くには、今どのような、技が残り、地域・人としての活動がされているのか」お願いしたと資料の「はじめに」にある。帰りの車の中で、あれは増田さんの人柄だよね、こんなところまで皆さん話にきてくれたの、と三澤さんが言う。みんなそうだよねと納得。私も二日と車の酔いに沈み込んでうなずくだけだったけども。

 菅家さんが紹介した「三島町生活工芸憲章」。
一 家族や隣人が車座を組んで
二 身近な材料を用い
三 祖父の代から伝わる技術を生かして
四 生活の用から生まれる
五 いつわりのない本当のもの
六 みんなの生活の中で使えるものを
七 生きる喜びの表現として
八 真心こめてつくる
九 それを生活の中で活用し
十 みずからの手で生活空間を構成する

 大切な人のためにつくったモノのことだ。
 実際にマタタビザル、ヤマブドウ細工、ヒロロ細工を見せてもらった。マタタビって、ヤマブドウって、ヒロロって、そして山のことについてもっと詳しく夕食会が終わったあとも私たちの部屋でお話されたそうだが、うかつにも先に布団も敷かずに私は寝てしまっていたらしい…。

2010年11月19日金曜日

沖縄の知事選挙


 行き詰まっている、どころか弛緩とアメリカの成り行きに相乗りの政権運営の観がある。

 劣化した自民党からまるで細胞分裂をするように年月を経てできてきた民主党は、結局は権力を引き継いだだけだ。先天的なDNAで繋がり、後天的に都市型消費型の乾いた形質をもつ。国民が「構造改革」路線で痛めつけられ、自公政権から政権獲得を託されたにもかかわらず、前政権の失政を是正していない。それどころか、継承しているようにも見える。後期高齢者医療制度、障害者自立支援法、労働者派遣法など解決の糸口すら見えない。そして、普天間基地撤去にしてもしかり、沖縄のひとびとの期待・依託を裏切った。TPPなどかつての自民党ならもっと後ろめたくやりそうなものを、あっけらかんと取り組みを表明している。農業を切り捨てることに、口とは裏腹にためらいはないようだ。昔、政権についた社会党のように国民から見放され、三たび自民党の系譜に政権が奪われるのではないかと考えられる。民主党が見放されるのは勝手だが、置き土産がひどいものだと考えられる。結局は、民主・自民とみえない糸でつながっていた大連立的なやりたい放題だったということになりかねない。

 そういう意味では民主党が独自候補もどっちにつくこともできなかった沖縄知事選挙の構図はこれからの日本の針路を占うことになる。アメリカ海兵隊基地の「辺野古移転問題」という当事者の名護市長の稲嶺さんはぶれていない。海兵隊基地の県外移設とくにグアム移設を求める県知事候補の伊波さんははっきりしている。現職候補の仲井真さんは普天間基地の県外移設を言い、謂わば争点をぼやかす抱きつき戦術をとっている。このことを大手メディアは「違いがない」などと言っているが、はっきりしている。政党の構図をみても、明確だ。共産、社民、社会大衆、そうぞう、国民新、新党日本VS自民、公明、みんな。民主がいなくてむしろすっきりした対決だ。

 地元の琉球新報によると「序盤情勢は、無所属現職の仲井真弘多氏(71)が一歩先行し、無所属新人で前宜野湾市長の伊波洋一氏(58)が追い上げる展開」となっているそうだ。

 伊波さんが勝てば、間違いなく日本の歴史を動かす糸口になる。軍事同盟、軍事対決、基地負担をなくす方策をさぐることの方が道筋だから。

2010年11月18日木曜日

ささやかな決心


 高校を出るまでは午後の9時を過ぎれば飲み食いをする習慣がなく、食べられなかった。胃が受け付けなかった。そんな体質だったのに、それが親元を離れてから崩れた。無茶な飲み食いをするようになった。しかも、食べたいだけ食べるという風になって、抑制が効かなくなった。就職してからは、帰宅が遅くなって不規則になり、夜の9時10時に食べるということもざらになった。昔は9時が過ぎたら食べられなかったのに、という意識がいつも頭の片隅にあった。だから、ふと、これを思い出した。夜の9時を過ぎたら飲み食いすまい、と。つれあいにも宣言した。夕食が9時を過ぎるようだったら、抜く。夜のティタイムも9時まで、以降はしない、と。そして、実践して3日目。見も心も消化器も夜には休みが必要だ。だから、9時を過ぎたら食べない、飲まない。

2010年11月17日水曜日

安心して食べられなくなること


 父は晩年胃を全部切り取っていたのでスタミナがなかった。栄養補給といってミルクキャラメルをいつも愛用していた。煙草も酒も嗜なまず、子どもの私からすればいい大人がそんなものをしゃぶっているのがおかしかった。というよりそのキャラメルが欲しかった。そんな訳で、文字通り親の敵のように私はキャラメルが好物だ。あと、餅と柿。

 本日、右上の奥歯もさんざんに削られた。左上の奥歯と併せて惨めになった。好物のせい、歳のせい、歯が破損していくのはつらいものだ。おせんにキャラメル、餅に柿、思いのままに食べられなくなるのはうらめしい…。歯は元には戻らない。

 と、そんな些細な問題どころではないぞ、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)。これは、えらいことだ。これほど安直で軽薄な選択と、ごく近い将来の深刻な打撃が想定される「政策」はない。国内の農業漁業という多面的な機能を売り渡す「政策」にほかならない。結局はアメリカの主導と輸出企業への政策だ。お金で済ます無機的な都市機能と景観だけが残り、水と緑と野山の田舎が加速度的に破壊される。そしてそれは必ず都市にはね返る。

 身近な食べ物、国産の農水産物、食べ物にまつわる文化も、田舎の景観も機能も、みんな打撃的になくなっていく可能性。すでに農業者が声をあげているが、よ~く考えてみたら消費者こそ他人事ではない。安心して食べられなくなることひとつとっても、とりかえしのつかない「喪失」と考える。今以上に格差も貧困も恐らく広がるだろう。

2010年11月16日火曜日

飯盛山


 薩長に攻められて少年隊士が自刃したのが白虎隊で有名な飯盛山(いいもりやま/会津)。今日登った山、こちらは「めしもりやま」と読む。ほとんど山梨県に近い長野県南佐久郡南牧村の標高1,643mの山。どちらも、ご飯を盛ったような山だからということらしい。全国にこの名の山はあるようだが、「めしもりやま」と読むのは珍しい。

 登山口の辺りの野辺山駅(JR小海線)は標高1,375mでJR鉄道最高地点。そしてこの辺りが分水嶺のひとつ。一方は千曲川に注ぎ千曲川は信濃川となって日本海に流れる、また一方はやがて太平洋に流れる(どの川だろう?笛吹川-富士川)。いずれにしても、ここだったんだ。

 リーダーで案内役の上原さんは短い歩幅でスタスタと歩く健脚だ。出発のあいさつで、「追いつこうと頑張らない、前に追いつくより後ろの人を置いていかない、お互い援け合い励ましあっていきましょう」と述べる。これって、今の世の中に言いたいフレーズだなぁと感心しつつ、装備を点検する。結局、たいした困難もなくハイキングの類ではあったけれども、山を愛する人柄のいい方だった。

 天気に恵まれた。周囲の山の近辺の雲を除けば、見上げる限りでは雲ひとつ見られなかった。この冬一番の寒さとのことで、道は霜柱、仰げばところどころ樹氷。あまり風もなく、寒さをそれほど体感しなかった。南アルプス、目の前には八ヶ岳、遠く浅間山、南には連なる山と雲の上に富士山、なるほど宣伝文句の通り360度のパノラマ。南牧村の方向を見下ろせば、なるほど村長さんが高原野菜と牧畜、農業で生きている村だと胸を張った景観が見渡せる。帰りには地元の野菜を少し買って帰った。

 歩いた歩数は17,148歩。

2010年11月15日月曜日

柿食えば


 天気予報の通り午後から雨が降った。冷え込む。明日は晴れるらしいが、師走並みの冷え込みとの予想。リュックの用意もできた。靴の点検も済んだ。足元が滑るのが一番苦手だ。目先の緻密さばかりで、職場はつまらない方向に進んでいく、自らの潮時を考える。明日は少し山に登る、久しぶりのトレッキング。朝は早いもう寝る。右腕、肩が痛む。放流時。

2010年11月14日日曜日

ご招待


 花を飾ればなにか心が豊かになった気がする。ただ、買えば高いのであまりしたことがない。

 果物を盛ればなかなか洒落た気になる、新潟のおけさ柿そして青森の林檎。
食器を凝って二人で相談して決めた。料理の盛り付けは妻殿任せ。
間接照明にして、とっておきの蝋燭を灯す。茶の葉を焙る。
ホットカーペットで足元を暖める。

 昨日、故郷のM君から初めて手紙が届いた。高校の同窓会の幹事になったらしい。人柄のいい友人だったことを思い出す、それが文面に漂う。高校のPTAの会長もしていたらしい。現住所の確認と他の人の住所を知っていたら知らせてほしいと卒業時のクラス全員の現住所の一覧表が同封してあった。個人情報がどうのというご時勢に、あっけらかんと名簿になっている。一瞬違和感があったが、級友が今どこにいるかということがわかった。1クラス51人もいたのだ。県立の進学校で成績順にクラスは編成されていた。同窓会には大学のときに出たっきりでご無沙汰している。進学一辺倒の高校時代だったので名前に覚えはあっても、個々の級友のことをよく覚えていない。そもそも誰が同じクラスだったのか、この名簿を見るまでよく覚えていなかった。同じ学年であった他のクラスの友人のことを混同していた。多くの女子は苗字が変わっていた。個々の一瞬の表情かしぐさが印象にある人の名前は思い出せた。還暦あたりになったら、みな集まるのだろうな。高校までは地縁だから、離れていても回帰志向というのか懐かしくもなるものだ。

 今朝、熊本のT君からお礼の電話。母のお悔やみをいただいていてついお返しが遅くなっていたものをようやく送っていたから。彼は理科系進学だったので3年生のときのクラスは違ったのだった、昨日の名簿でわかった。あれこれ身体を壊しているようだが、聞けばお子さんがいまちょうど大学生あたり。お金がかかるときだ。

 今日は長男のお嫁さんの両親と長男夫婦を招いて、妻殿の手作りの料理でご接待。あちらは我々よりもひとまわり上の年代。聞けば現役時代は猛烈社員だったようだ。今は悠々自適。ご夫婦それぞれの興味あるところを別々に楽しんでいらっしゃるご様子。それが、よく聞くパターンのようで、我が家のようにいつもほとんど何でも一緒にやろうと志向するのは少数派なのかな。そうでもなくなっているとは思うが。

 お向かいの御隠居さんから自分の畑で育てたというお花をたくさんいただいた。ありがたい。

 二男のところに届けものを持っていけば、ソータローはぐっすり睡眠中。こんどは、あちらのお母さんが12月初めに来られるそうだ。

2010年11月12日金曜日

病老死


 モニター画面でこうなってましたよと、金属の被せをとった奥歯を見せられる。なるほど、真っ黒だ。30分ほどウィーンと削られた。神経(歯髄)はとうの昔にとられていたので、治療中も痛くはないのだがのけぞる。その神経がなくなっていたのがよくなかった。歯の痛みは耐えられないものだが、ここまで虫歯が進んでいることを気付かなかった。この様子をつれあいに話ながら、ふと思った。癌の病巣もひょっとしたらああなのではないかと。

 腕が上がらないわけではないけれど、肩にこれまで以上の凝りと痛みがあって、肩がうまくまわせない。布団に入って掛け布団を上に持ち上げるのもままならない。コタツに入って立ち上がるのにも手をつけば痛みが走る、やや不自由だ。

 人間は平等なのだと住井すゑさんは言う。
何故ならばと。何故ならば、どんなに権威を持っていようとも、どれほど権勢を誇っていようとも、いかに権力を振り回していようとも、いずれ人は老い、病み、死に至る。誰も避けられない。だから人は平等なのである、と。人は生まれながらにして、畏き人、卑しき人なんていないんだと。明快である。

 古代中国の皇帝も不老不死の薬を求めて蓬莱の島へ使者を使わしたらしい。過剰な権力欲と性欲の実践者だったマオさんも、身辺警護と健康管理には小心な関心を払っていたらしい。幾多の人々を死に至らしめた現代の皇帝も病老死には勝てなかった。お隣の“国防部長”さんもそういうことで、ようやく三代目を指名したということなのだろう。

 人は何故生まれてきたのか、人はどうして病と老いと死から免れないのか、こういうことをお釈迦様は考えたらしい。詮無きことと思わないでもないが。「縁起」「無常」すべてのものはつながっている、関係している。変わらぬものはない。執着を捨てよと、それで救われると。

 老人ホームに居た母が、介護士さんに声をかける。認知症であることはみな知っている。ところが、落ち込んでいるときに何気なく声をかけてくれる母に、元気をもらったと、その男の介護士さんは通夜のときに語ってくれた。あの状態なのだなと、「悟り」とは、「アーナンダ」と思った。

 人に身分の格差や差別はない。

2010年11月11日木曜日

いつもの反省


 ううん!?と気付いたら見知らぬところ。駅の構内ではあるようだが、わからない。どうも、寝過ごしたらしいということがわかるのに時間がかかった。駅員さんに起こされたのだろうか。もうみんな降車して、改札階へ上がっていくところだ。乗り過ごしたのなら上りの電車に乗ればいいととっさに思い、ホームをみるがそれらしきものがない。なんで?そもそもここはどこだ。駅の照明が消えていく。あわててエレベーターを上り改札階へ行く、あきらめきれずに帰りの電車はないのかと訊ねると「終わりました」とそっけない。その代わり、「そっちではなくて右の方」だと、タクシー乗り場を教えてくれる。げっ、ここは終着駅ではないか。こちらの終着駅まで乗り越したのは初めてだ。さっさとタクシーに乗る、そういえば並んでいなかったな。酔ってはいるが気は確かだ。なんて我が家は遠いのだろう。行く道は運転したことがあったので、的確に行き先を案内するのだが無愛想な運転手さんで一言も口をきいてくれなかったな。あちらの終着駅で目が覚めたことはあったが、なんとこちらは初めてだったなどと、むなしい感激なんぞをして、大枚を払い最寄り駅の駐輪場まで送ってもらった。降りた途端に酔いがまわり、こみあげてくるものがある。トキ(りんごの新種)を食べましょうなんて明け方洒落ていたら、その夜トキに飲まれてしまった。うかつだった。久しぶりだったので、うれしかったのだけど。確かに最後の店では水みたいに飲んだ。振り返ってみればそういうことだ、分相応の飲み方ができない、この状態でいつも失敗している。こんな日記書かねばいいのにと思うが、書いて懺悔。同居人にたたみかけられる。もう二度とお酒は飲みません、しばらくは。

2010年11月9日火曜日

ひとには言えて、私にはできないこと

お礼のメールが来ていた。

①非常識で無神経な人間との付き合いができない。②人をうまく操れない。簡単に言うとそういう2つの悩みに聞こえます。普通、誰だって悩みます、当たり前のこと。気を楽に。①その人の言いたい事って何だろうと受けとめ復唱しできれば共鳴してあげる(相手を認めること、言い分ではない)、カリカリをやり過ごすこと。いちいち反発していたら、解決はありません。身ももちません。②とにかく人にやらせてみること。プロセスが自分にはないものが見えてきます。なるようになる、これでいく。結果を把握すればいい。褒め上手、振り方上手になること。

そう、助言して返した…。

きっと、うちのつれあいに表題のように言われる、しかもきつく。目に見えている(汗)。

他人を認めることのできる自分に変わっていくこと(成長かな)。できないなぁ。

2010年11月7日日曜日

二日間


 てっちゃんは上の姉の子で、だから甥っ子。小さいときから『科学』(雑誌)が好きで、長じて技術者になった。そしていろいろなマニアだ。例えば車のことも。うちの二男にもいろいろ助言をしてくれて、それで秋葉原に寄ったあとこちらにきた。実に久しぶりだったので、我が家の息子夫婦や娘も集まり夕食の鍋を囲んだ。話好きでその話がまたマニアックでおもしろい。

 上の姉の長女は私の通う私鉄の同じ沿線に住まいしている。てっちゃんの妹だ。今朝その姉から電話があって、娘の家に来ているから我が家に寄りたいと。それで姉と長女とその娘のミカちゃんと一緒に昼間に訪ねて来てくれた。久しぶりなのに、2日続けて重なるものだと苦笑する。急なことだったので、慌てて買い物に行き、今日も昼間から鍋にした。姉の長女は勉強が好きで、学業優秀だった。それで団塊ジュニアで就職氷河期の世代ながら、大手企業の総合職で出産後も頑張っている。立場は管理職の末端にあって悩みもストレスも抱えこんでいるようだ。一時期、肺炎を起こして即入院という事態もあったようだ。ミカちゃんは、前に来たときはまだハイハイをしていたが、2歳半になってすっかりおしゃべりができて、自分で靴下も履ける。ブランコの高いのも平気だ。ブランコを漕がせながら、仕事のことなどの話を聞く。私は「(ヒトのことを)受け止める」「やりすごす(技術)」「頑張らない」を説く。

 てっちゃんは40になった。まだシングルで今は母親と同居している。外出するのにいちいち行き先までは言わない。それで、姉は前夜てっちゃんが我が家に来たことは知らなかったらしい。

 2歳半のミカちゃんと生後3ヵ月のソータローとご対面した。新しい命、若い息子たち、中年に近づきつつある甥、姪っこ。ロッテ対中日の日本シリーズも2日続けてなかなかの熱戦ながら、我が家も思わぬ賑やかな2日間だった。さて、来週はチカさんの両親を招待している。

二度目の


 土曜日は娘が我が家でケーキをつくらせてほしいというので早めにやってきた。焼きあがったのはかぼちゃのチーズケーキ。それが義理の妹のシホさんの遅ればせながらのハッピーバースデーケーキになって、夕食のあと、またもサプライズのお祝いをした。それにしても、よく食べる我が家ではある。

2010年11月6日土曜日

納車

 大根っ葉の刻んだ炒めものが好きだ。そしてなんか得した気がする。

 二男が中古車を買った。それで本日、納車されたようだ。うきうきしている様子。

 私たちが結婚したてのころ、新居への引越しを手伝っていただいた職場の先輩にママゴトみたいな道具だなと言われた。当初冷蔵庫も持っていなかった。ただ、生活には邪魔なほど、本だけは多かった。息子たちの住まいに行くとあの当時の生活道具の殺風景を感じる。段々に揃えていくのは楽しいものだ。あのころは免許を持っていなかったので、車のことは念頭にはなかった。今では、モノの充足だけでは、むしろもの足りないことを感じ始めているのだけれども、若いときにはそんなことはわからない。

 車のことならプロで、甥っ子のT君が明日来ることになった。息子から知らせがあった。

2010年11月4日木曜日

天気晴朗なれど虫歯あり


 風呂から帰ってきて濡れたタオルを干す。ベランダから見上げれば今夜は星がきれいだ。きっと冷え込むことだろう。昨日、植物を室内に入れておいてよかった。

 妻殿は冷え性で、寝ていても足先が冷える、腰が冷たいというので、布団に装着して使える足温用電気毛布、電気あんか、上等の毛布などを買ってきてプレゼントした。ずっと以前のことだ。いつのまにか、そういうものが要らなくなって放っておいた。ところが、今度は私が突発的に寒気を感じることがあるようになって、足温用電気毛布などをひっぱりだして私に用意してくれるようになった。そのうちこれに湯たんぽが加わる。もう心頭滅却すればの気合だけではだめだ、相応に対処していかなくては。ただ、電気や灯油を過剰に使って部屋全体を暑くするような贅沢をする気はない。つましく対応する気ではある。

 奥歯に多少痛みを覚えるようになって、診て貰った。レントゲンの結果、なんとその歯よりも金属を被せてある別の奥歯の方がすっかり虫歯になっていたことが判明した。土台もなくなるほど蝕まれていたそうな。難解な治療になると脅された。

 星がきれいだといっては、まるでオオカミのように空に向かって感嘆し、河原をむやみやたらに走り出したのは、あれは10代のころ。霜が降りそうな冷たい真夜中でも平気だったのだけれども。星にとっては瞬く程度のわずかな時間だろうが、その間は人間にとっては40年という半生にも及ぶ。美しい星をもっとみていたいと思うのだけれども、それが煩悩にもなり意欲にもなる。

 さあ、今風に言うとメンテナンス、英語でいうとリペアして、健やかに生きながらえて愉快な仲間と大笑いしておいしいものを食べよん♪、あっ違った、食べよう!このパソコンの向こう側で夢中になって栗を食べている同居人がいる。この屋根の下、我が家は幸せなひとときが流れる。

2010年11月3日水曜日

へたな生き方


 昼までは晴れたが、夕方からは曇ってきた。朝のうちにリサイクル屋さんに行く。ガラクタをいくつか買い求める。印伝の小銭入れなんか気に入った。…。気を紛らしただけで、そういうことではないのだ。
 問題を先送りする。今日でもできることを明日以降に持ち越す。そして明日もやらない。次の日は考えなくなる。もう考えない。そうやってきたことがたくさんある。煩悩を捨てさえすれば済む話だが、並みの人間であってそれができない。

2010年11月2日火曜日

いかん、弛緩、考えない


 なにも割らない。なにも足さない。気張らない。欲張らない。なぁんにも考えない。明日は休みだ。

 下の息子にたのまれた「郷土かるた」(1982年/県教育委員会)がみつかった。ものもちはいい。

 右肩をひねり、のばし、ゆるめる。次はうさぎのポーズ。

 14日にすることで長男と決めた。なんにしましょう、とつれあいは考える。メニュー考えるのが楽しいと。でも、あしたにしましょう。

2010年11月1日月曜日

穏かな朔日

 2箇月めくりのカレンダーならあと1枚の11月になった。

 郵政公社になって外勤の職員の人は年賀状の販売に走らされているように聞こえてくる。せめてそれにお応えしようとそれで、お願いしていたのが3日に宅配されるはずだ。今年は喪中で出せなかったから、2年分の消息をしたためようと考えている。義理だけで出していて顔も覚えていないようなやりとりはこの際清算してスリム化しようと目論んでいる。2年分の我が家に起きて他人にお知らせするようなこと、そのためにそろそろ我が家の2010年の重大ニュースのノミネイトにとりかかる。昔はこれと前後してアルバムの整理にかかっていたのだけれども。

 歯の治療が必要かなとこのごろ感じる。やっかいだ。LADYGREYをすすりながら、そうだ“マオさん”のこの腹の立つような処世、だれかに似ているなと思っていたらあの“前原さん”だ、と連想する。

 借りてきたDVD『西部戦線異状なし』(1930年 アメリカ)をこれから鑑賞する