2010年10月31日日曜日

土曜日の台風

 粛々と仕事をする。ノルマを凌駕する。そういうときには目がテンになっている。やっかいな案件をひとつ片付けると、登り道の曲がり角の先に出たような気がする。違う展望があるはずだと心はずむ。が、しかしそこはさらなる登り道だったりすることは往々にしてある。単なる登り道になんの見晴らしもない。凌駕するのは量だが、出来もなかなかだ。経験も蓄積をすれば質もあがる。ただ、量の計測では質は記録されない。報われなくともいいが、誰かの役には立っているのだろうと考える。

 風雨吹きすさぶ様子の街を見下ろし、昼休みにその街にでれば、あの何かによく似ている。映画『台風クラブ』(1985年 監督相米慎二)のシーンが頭を巡る。台風と一緒に変化が訪れるという期待の、あの雰囲気を想い出す。

 手作り製のりっぱな傘を手から離さずに、予約しておいた切符をエキネットで引き出す。窓口は混んでいたが自動券売機には誰もいない。うまく操作できた、というより簡単だった。案外ということだ。特急指定席料金が御褒美のように正規料金より多少割引になっている。これで盛岡までは行ける。「おめでとう」とメールがくる。

 湘南新宿線は止まった。風雨のなか無事に走る通勤電車の中で、ちょっと分厚い本だがユン・チアンの『マオ(上巻)』(2005年 講談社)を読み始める。個人崇拝されたあの「英雄」のことをとりあげている。私が中学時代に起きたあの動乱。繰り返し「リュウショウキ」という人がどれほど悪人であるか、ラジオをつければ鮮明に入ってきたあの放送。晩年は同時代に生きていた人だ。政治的に敵視する人、建国の父・人民解放の英雄として崇拝する人、しかもそれを押し付ける人、冷静に批判する人、若いときはこの人物の同時代的評価を通して「ものの見方、立場」を学んだ、一方で彭徳懐の生き方も知った。洗脳される危うさも知った。時代を遡り実証主義的でおもしろい本だ。

 帰り着くころは拍子抜けするほどひどい風雨も収まった。傘も丈夫だ。おいしい手料理が待っていていっぱいやった。しばらく風邪で控えていたので、久しぶりですぐに酔いがまわる。

 台風が近づき、そして去っていった土曜日のことだ。

2010年10月29日金曜日

恐怖の体験


 昨夜床に付こうとした瞬間のことだ。ぶるっときて全身に寒気が走り、身体が硬直して震えが止まらなくなった。どうしようもなくなった。以前にもあったことだ。寝ている最中にも起きたことがある。心筋梗塞とか脳梗塞とか異常事態はこういう風に襲って来るのではないかと想像された。昨夜はさすがに命の危険を感じ、つれあいに訴え、さすってもらったりしてなんとかおさめた。「♪もうわか~くないさと、言い訳していたねぇ」だな。寒さが心構えよりも早くきているのか、気よりも先に身体が老いているのか。しまっていたパネルヒーターを早速とりだして使うことにした。定期健診のたんびに梗塞で倒れたら家族に迷惑かけますよと医者に言われている。休みの日にストーブも出そう。肩もつらい、2度目の五十肩かなぁ。暑さ寒さにうまく付き合っていかなければ、しなやかに。

2010年10月28日木曜日

ささやかな

 昔、まだ福岡に住んでいた時、母の誕生日に合わせて実家に帰ることがあったので、妻殿にたのんでケーキを焼いてもらった。電車とバスに乗って、飛行機に乗って、またバスに乗って注意して持ち運んだつもりだったが、無理があった。開けてみたら丸いケーキがつぶれていた。それでも、母はケーキなんかつくったこともなかったから、感心して嫁の手作りのケーキだといって喜んでもらった。二人で食べた。そんなことをふと想い出した。

 今日は二男のお嫁さんの誕生日だったので、帰りにちょっとデパートに寄った。その売り場にはバースデープレートとローソクサービスをするというPOPがあったので、「今だけの限定販売」とかいうリンゴタルトというのを買って帰った。雨降りを自転車で帰らなければいけない。普通のケーキならつぶれそうな気がしたのでそれでよかった。それで二人でジムの帰りに彼女にはサプライズで立ち寄った。蝋燭を5本立て♪ハッピバースデートゥユーで、ささやかなお祝いをした。それを携帯で撮影したのに保存せずに閉じてしまっていた、あれれ。

 息子も早く帰宅していて、二人の今晩のメニューはエビフライとステーキだったそうな。

2010年10月26日火曜日

晴れない


 多少、ムラッ気のある私にはこの天候は得意でない気分だ。暗くなるのが早いのも重い。

 朝、公民館でトレッキングの説明会と申し込み受付があり、本人でないとだめだというので、この際休んだ。疲れてもいる。見渡すと皆さんリタイアされた方ばかりで私たちが一番若い。いつものことだ。仕事も大事ではあるが、一生にしなければいけない仕事でもない。本番のトレッキングではもう一度休まなければいけない。昼からは晴れるという予報を信じて洗濯物を干す。10時にお茶を飲み、昼は主婦めし、すなわち残りもので済ます。口が寂しいので、甘いものを頬張る、つい、とことん口にする。証拠は隠滅しなければいけないドジな検察幹部とは違う。3時過ぎにお茶。洗濯物をとりいれるも、乾いておらず、爽快感なし。台所の洗いものを終え、慌てて部屋の片付けにとりかかる。子育てを終えた私たちは単なる共同生活だ。茶の間を自分のものにするな、パソコンも資料も本も新聞もいつもその都度片付けろと厳命されていた。炬燵布団もセットしなければ、明日から寒くなるらしい。3年分の雑誌を捨てる。玄関に積む。結婚以来ずっとアルバムを作り続けていたが、デジカメになって止めていた、その最後のアルバムが出てきた。2006年1月2日で終わっていた。さて、夕食当番だが、どうしよう。ブログどころではないのだが。

 リタイアしたら、きっと太るな、そして矢のように時間が過ぎていきそうだ。うむ。
 *画像のクッキーはみんなが集まったとき娘が焼いてくれたもの、今日食べたものではない。念のため。

2010年10月24日日曜日

曇りのち雨


 花壇の花を植え替える。こんなところにナメクジが潜んでいたんだ。曇り空。昼間はホットカーペットの上で毛布を被ってうつらうつらする。薬の服用によって咳がおさまる。昼過ぎに二男宅へうちで不要になった2畳用のホットカーペットを届けた。広げて使用したらちょうどよい、そして暖かい。ソータローは日々成長している。早めの夕食をとり隣町へ映画『いのちの山河』を観に行く。出かけようとしたらあいにく雨になったので電車で行くのをやめて車で行った。帰ってきてから地図帳を開けて岩手県(旧)沢内村の場所を確認する。つれあいはポケットに入れていた定期をどこかで(たぶん会場)で紛失してしまったようだ。落ち込んでいる。本日は曇りのち雨、映画のおかげで私の気分は青空。つれあいは失くし物のせいで天気と同じ。

2010年10月23日土曜日

ホットカーペット


 米の値段が暴落している、加えてこの夏の猛暑で米のランクが落ちて生産者の収入が一段と減る、というニュースが報じられる。

 ご近所のTさんは独り暮らしだったが、息子さん夫婦のところで同居するというのでこの春引っ越された。それでどうせ捨てるものだからと、三畳用のホットカーペットをいただいていた。それを敷いてみた。りっぱなもので、ほかほかとして電機を入れなくとも今のところ暖かい。歳を重ねるにつれ、暖かいものはありがたい。朝晩の冷え込みに、この夏はそんなに暑かったっけなどとついつい思ってしまう。

 大学に入るために家を出て以来、私は母親と暮らすことは一度もなかった。

 ろくに親の面倒もみず、お米や野菜をつくる生産者の苦労も知らぬいい加減な私にバチがあたった。右肩イタタ。ゲホゲホ、ズルズル。「早く寝ろ」と言われる。

2010年10月22日金曜日

イガイガドン


 「うちの‘正岡子規さん’はゲホゲホと咳をしています」と言われてしまった。

 じぃ~っとしていると、スーっと鼻水が垂れてくる。数日前から喉がイガイガしていた。今朝起きたらそれがひどくなっていた。風邪薬を服用する。そのせいか仕事中もふらふらする。トローチをなめる、人はなめちゃいないナンテしゃれが出てくる余裕はある。

 原因は薄着と夜更かし。ISO風に言うと「気温変化への不適合」。夜更かしは、なんとか毎日欠かさずブログを入れようと頑張ったせい。言葉や文章が泉のようにでてくるときはいい、そうでないときは書き出しだけでつまずく。そうしている内に、日付変更が迫る。紀行は日が遠のくにつれ記憶や感動が薄れていくから、それが暖かいうちに記そうと思う。それと裏腹に身体を冷やしてしまったのだろう。これで豚インフルだか鳥インフルだかに襲われたらイチコロだな、ナンテ『見通す力』(池上彰/生活人新書/2009年10月)の書き出しを脈絡もなく思い出す。「報告会」のときにはきっと全部忘れている。脳がそうできている。

 広い読者が待っていて記録的連載を続ける『農と島のありんくりん』もあれも大変だなとか、引き受けた原稿を入れなきゃいけない連載も難儀やなとか、3ヵ月ぶりのブログもありかなとかいろんなことを考えつつ、今日もつたない日記を自分のためにつけている。

 さて、ご飯はよく噛んで食べよん♪もう、寝よん♪。明日は休んでやる。「正岡子規と高杉晋作」が乗りうつった夢をみませんように。

2010年10月21日木曜日

そうして、やらない…


冷たい雨だ。奄美では昨日来大変な豪雨で被害。
近所のゴミ集積所にイガ栗が1個落ちていた。きれいな形をしていたので一瞬拾おうとも思ったが、出勤で急いでいたので、そうしなかった。玄関に飾ればよかった。

あの夜、帰る息子たちに秋刀魚のおすそ分けをした。そうしたら嫁のシホさんはその夜のうちに卸したらしい。翌日、棒寿司にして、「今宵の晩御飯だよ」と仕事で遅く帰宅する夫に写メールを送った。夫はそれを母親に転送してきた、「どうだ」と。

その日のうちにできることを明日に延ばす。
私はそのタイプらしい。それは余計に面倒になり、かえって労力がかかってしまうと勝間和代さんはエメットの法則を引き合いに出して言う。逆に辻信一さんは著書『しないこと』の中で、明日できることは明日やればいいと説く、追われるなと。

私は引っ込み思案の性格と先延ばしの行動が合わさって、ままよと、成るがままに生きてきたようなところがある。

その日のうちにやろう
明日できることは明日に
両方のバランスをとれればよいのだが

人生、なんてこったい、ということが多い

あの栗拾っておけばよかった
秋刀魚の棒寿司、来年は御馳走になろう

今日できることを明日に延ばしては、いつかやると思っている。
そうしてやらない。私がついついやってしまうこと。
モノゴトを熟成させたり、腐らせてほかしたり、たいしたこともせずに生きているのかな。

2010年10月20日水曜日

竹富島の種子取祭は


 唄い手にちょうど大工哲弘さんによく似た声の質のひとがいて、心地よい。竹富島の種子取祭で奉納される芸能はまる2日間たっぷり演じられる。いわば沖縄の芸能の‘てんこ盛り’だ。しかも目の前で、生で見聞きすることができる。舞台の祝い幕の裏で三線、太鼓、鉦、が奏でられ、唄われる。演目の内容や話の筋が理解できる訳ではないけれど、美しい衣装、所作、そして南国情緒、しぐさを楽しめる。高尚さもあり、ひょうきんさもある。休む間もなく観疲れて、暑くて、こっくりすることもあるけれど、ぜいたくな時間。お重に御馳走を詰めて家族・ご近所揃って出かけていった昔、昔の運動会、学芸会の場のよう。むつかしいことはともかく、ただ居るだけで、それでいいではないかという、時空。ほんとうにもったいないぐらいの時間をすごす。
 *来年は10月2日・3日或いは12月1日・2日であるらしい。

2010年10月19日火曜日

南島紀行(その1)



 いよいよ待ちに待った出発の日、いつもの通勤時間帯と同じ電車で向かう。レジャーへ行くぞという思いっきり怪しい格好をしているから万が一にも職場の人間と鉢合わせしたくはないなと願いつつ、職場への最寄り駅を通り過ごし、羽田空港へ向かう。空港では、二人とも大の好みの崎陽軒のチャーハン弁当がすぐにみつかってよかった。これは安くて旨い。定刻の1時間半も前に着いたのは、Hさんからもらっていたラウンジ券を使うためだ。飛行機に乗るなんて滅多になくなった。初めてそういうところに腰を落ち着け、いや落ち着きもせずフリーのビールとおつまみをいただく。ただなら、朝から飲むという‘貧乏人根性’が確かにある。

 2000円を奮発してJクラスを取っていた。3ヵ月も前から手配していた甲斐があって窓際だ。これで思いっきり、南の島々を空から眺めようと目論んでいたが、羽田を飛び立ってすぐに曇り空であることがわかった。昔みつけたあの濃緑の奄美の島をもう一度上空から見たかったがかなわなかった。那覇空港を経由して石垣島に着く。空港から200円バスに乗って波止場に向かう。そこのターミナルで「竹富島文庫1 種子取祭」をみつけ買い求める。KAさんYさんを見つける。西表島に行っていたとの由。民宿ののはら荘に泊まるそうだ。竹富島港につけば、広い駐車場には何匹か猫がのんびりとしている。石巻の先の猫島のネコよりかわいいのがごろごろしている。高那旅館の出迎えの軽が2台。ほかの泊り客と一緒に宿へ向かう。宿では、宿帳を書いて、着いたみんなの客に種子取祭の2日間の食事の時間と祭の説明会の案内がなされる。

 部屋は道の向かいのアパートのような別館2階。洋間で風呂トイレ付きだ。夕食まで時間があるので早速散歩に出かける。夕暮れ前で曇り空の下なので、あの白砂の村の道が少しも明るくない。フェリーでわずか10分余りだが海の色も鉛色でこれでは石巻の海と変わらないと話を交わした。エメラルドの海、白砂のまぶしい道、映えるような赤瓦の先の青空を期待していたのだが、そういう天候ではなかった。二人で前に来た時の記憶を手繰り寄せつつ、前に泊まった民宿の前を通ったり、中学校と併設している小学校を訪ねたり。学校にいたネコを撮ろうとして、りっぱなカメラを提げた老紳士二人と挨拶を交わす。すると、港近くの「ゆがふ館」で自分の作品の写真展をやっているから滞在中ぜひ観ていってほしいと紹介される。そのときは観に行きますと応えたのだが、とうとう行かずじまいで島を離れた。

 宿の食事は食堂だ。ここでKさんご一行とお会いする。夜は、宿の座敷でみなさんと一緒にミーティング。宿のおかみさんから島バナナの差し入れ。これが、皆旨いという感想。それでKさんたちが聞いてきた明日からの種子取祭の観覧の作法などをうかがう。Kさんのおつれあいと初めて親しく言葉を交わす。なるほど、トキさんがおもしろおかしく言っていた通りの、奥ゆかしいだんなさんだ。ああでもないこうでもないとお話をして、明日は神事の最初から観るために、午前5時に旅館の前に集合しましょうという話になって解散した。それが10時過ぎぐらいだったか。

 さすがに暑い。目が覚めたのが4時50分。あわててうちの相棒を起こし、ただ着替えただけで、降りていく。5時にみんなで出発、まだ暗い。御嶽(ウタキ)に行くも、まだ誰もいない。神事の儀式を見学するにせよ、場所取りにせよどうも早すぎたようだ。そのうちに、ヘッドライトをつけた他の観光客といってもカメラマンのような人たちから集まりはじめた。6時から神事の儀式が始まる。宿の朝食は7時からなので一旦引き上げる。昨夜は早くに寝ていたMさんのご主人と初対面のあいさつを交わす。素敵な御夫妻だ。

 再び会場に向かい8時半からロープの線に座り込み、一番前で「庭の芸能」観るべく待機する。曇りの予報のはずなのに晴れる。大きな帽子は要らないと思ったから旅館に置いてきた。ここに来るまで結構邪魔だったのに、なんのためにかぶってきたのだろう。1時間ほど待っていよいよ庭の芸能が始まる。これを観たかった。「さーさ」「はーは」「ちっち、ちっち」南国のリズムはいい。首を真横に振り振りがユーモラスで明るい。旅館の女将さんも演じている。かぶりつきで観ているので目と目があって会釈される。11時過ぎから「舞台の芸能」に移る。こちらは観づらい場所に陣取ってしまいちょっと疲れる。また、とても暑く、荘重な舞踊のときにはついこっくりとくる。朝の早いのがこたえた。演目は次の通り。『長者、弥勒、スー踊、鍛冶工、赤馬節、八重山上り口説、組頭、ササラ銭太鼓、仲良田、世持、元タラクジ、大浦越路、竹富育ち、世曳き、揚口説、海晒、祝種取節、みやくらび、伏山敵討、胡蝶、赤また節、鳩間節、繁昌節、竹富口説、ペーク漫遊記、しきた盆、…』ここまでがおよそ5時、旅館の夕食が6時だそうでその前にシャワーも浴びたかったので退出する。これらの演目を仮に説明しろと言われてもよく覚えていない。「竹富島文庫1 種子取祭」と照らし合わせてああそういうことなのかとやっとわかる程度。本島生まれの比嘉さんにも竹富弁はわからないと。 ただ、比嘉さんは何回か観ていそうで解説ができる。

 全部観て帰って来た他の客の話によると、演目は6時40分ぐらいまであったらしい。食事の後、少し休み、ユークイ(世乞い)が始まっているはずなので南の集落(仲筋村)へ行く。そこが意外に早く終わって戻って来たら、こちらはまだどこかでやっている。そうして10時半過ぎにこの旅館へもやってきた。ユークイ(世乞い)のてぬぐいが会場にて千円で販売されており、「祭りの歌」という冊子が付いていた。その冊子には歌謡の現代語訳と解説が載っておりそれでようやく中味を知ることができる。 旅行2日目の夜が更けていく、「竹富の芸能尽くし」で軽い疲れ。明日も晴れてくれ。

2010年10月18日月曜日

南島紀行(その2)

 芸能2日目の夜中のはずだ、水が流れるような音がして目が覚める。何だと思ったら雨ではないか。そして朝早く起きたころには雷雨だった。天気予報を見ると、日本列島今日は西からくずれるとのこと。ここは日本の西のはずれだ、「もうくずれているよ」とつぶやく。

 帰りは宿の人に軽ワゴンで港まで送ってもらった。若い彼女は旅館の縁者の人だろうか。繁忙するこの祭りの日のために応援に来た人だろうか、小柄な女性だ。宿でお世話になったお礼を重々申しあげて、まるでターミナルみたいな港の建物に入って行こうとしてもういちど車の方に目をやれば、彼女は運転席からまだこちらを向いていて笑顔で会釈を返される。ああ、こういうところに来てよかったなと思う瞬間を味わう。

 3ヵ月ぐらい前のこと。高那旅館を8人分予約したから先着順だ、何日までに返事をという案内が急で、ぐずぐずしていたら締め切りをとっくに過ぎてしまった。何年も前のことだけれども、次に行くことがあったらこの旅館にしようと思っていたから、試しに直接電話をいれてみた。洋室なら1部屋2人分空いているという、竹富島の種子取祭奉納芸能の日(10月7日、8日)の2泊がとれるというのなら迷わずおさえた。それで、あとでわかったことだが、Kさんがおさえた8人分は結局埋まらなかったそうで、事前の会合の集まり具合からすると意外だった、それでこちらは抜け駆けをしたみたいでKさんには恐縮してしまわざるをえなかった。

 Kさんたち一行と定刻の7時に朝食をともにする。みなさんは2日目の奉納の芸能はもう観ないで、増田昭子先生が企画した石垣島の各所を訪ねるという。平久保あたり(石垣島の最北部)の開拓農民を訪ねたり、食事をしたり、夕方からは生産者のみなさんと交流をするという意義のあるもののようだ。案内をいただき迷ったけれども、私たちは2日目の芸能まで全部観るつもりでいたのでそれに合流しなかった。8時半に宿で皆さんを見送る。せっかくのお誘いをお断りして申し訳ないと増田先生に申しあげれば、「いいえ、貴方たちの方こそお気の毒だと思うんですよ」とのご返事。自信ありげだった。

 高那旅館の道を隔てたところは竹富郵便局。ここの消印はここの窓口で出さなければ押してもらえないと聞いていたから、9時の開店と同時に絵葉書を持ち込む。邦男さんへも出しておいた、秋刀魚の希望日を書いて。宿の支払いを済ませ、荷物を置かせてもらい、傘を借りて、会場の嶽(ウタキ)へと急ぐ。濡れた砂の道を歩けばざっくざっくと音がする。まるで昔の運動会の日のように遠くから拡声器の声が聞こえてくる、しかも法螺貝の音まで聞こえてくるのは、庭の芸能の最初の演目「棒」が始まっているからだ。

 前日の教訓で、先に舞台の芸能を観られる場所を確保する。やや小降りの中で前日と同じ庭の芸能が奉納される。やがて、舞台の芸能に移り、昨日に続いて公民館長のあいさつ。竹富島の種子取祭は600年の歴史のなかで、昭和19年の‘いくさのゆ(戦の世)’だけ途切れたことがある。それが、夜半からの雷雨で、今日で途切れるのではないかと心配した。それこそ神懸り的に雨があがった。やはりミルク(弥勒)様がついている。1977年にこの祭は国の重要無形文化財に指定された。竹富島の人口は347名、18年前に比べて約100人増えた。そういう趣旨のことが聞き取れた。あいさつは、皆、「竹富言葉」である。司馬遼太郎が1974年に訪れた「街道を行く6 沖縄・先島への道」によれば、島の人口は当時336人と記してある。そして高那旅館に逗留している。

 以前に私達が来たのは2002年のことであったらしい。勤続25年の休暇がとれて、初めて八重山を訪れた。いつも地図を眺めていて、この群島はそれぞれが遠い離島になっているのだとイメージしていたら、石垣島を中心の西南の方角にあれこれ目に見えるように位置していた。それで「八重山」というのだそうだ。当時竹富島で泊まったのが、民宿の松竹荘。そこの女将さんが、種子取祭の芸能に貢献した一人として舞台にあがり晴れ着姿で表彰されていた。喜寿になったそうだ。なつかしい顔とあのときのグルクンの唐揚げを思い出した。

 幾度か雨も降ったりはしたが、大降りにはならずやがてあがった。演目が延々と続く。石垣島の港で前日に買い求めた「竹富島文庫1 種子取祭」(狩俣恵一著、遺産管理型NPO法人 たきどぅん発行 2004年)と照らし合わせながら観る。なにしろ何もかも「竹富言葉」であるらしい、琉球言葉であるかないかも区別はつかないが、さっぱしわからない。以下、演じられた順番に『奉納、シドワリャニ、かぎやで風、揚作田節、天人、たのりゃー、世果報花、蔵ぬ花節、竹富節、種子蒔、夜雨節、揚古見の浦、父子忠臣、扇子舞、夏花、畑屋ぬ願い、かたみ節、盛山ぬドッケマー、する掬い、仲筋ぬヌベー、武ぬ舞い、古見ぬ浦節、仲良田節、まるまぼんさん節、長刀の舞い』、それにあと4つ演目があったのだが、つれあいにハプニングがあり、石垣島の歯医者さんに行かねばならなくて、最後まで観ることができなかった。これが4時半のこと。宿に帰って、荷物を引き取り港まで送っていただく。おめでたい祭だからと奉納の泡盛をいただく。

2010年10月17日日曜日

再びの秋刀魚尽くし


 金曜日のことだ。ラジオ体操をしようとして腕をあげた途端、まるで右肩か右腕の血管が切れたたようなビシっという一瞬の激痛が走る。それ以来、右腕がつらい、五十肩に似た症状。この日に限ってリュックの中には5冊の本。帰りの通勤電車の網棚にこれを上げられず。昨夜から湿布を始める。

 今日の午前中は公民館に「認知症・脳梗塞とその予防について」(地元自治会と公民館の共催)の講演を聞くに行く。脳神経外科が専門のE先生のお話。昨年に続き2回目で、公民館始まって以来の大勢の参加者で150人を超えたらしい。福島県出身のE医師はどういうわけか、このような町に異色の専門分野で3年ほど前にこの近所に開業された。開かれた地域医療をということでボランティアを引き受けているらしい。聴講者では私が一番若い方だと思われ年配の方々ばかりだった。たまたま、先月職場で受けた検診の結果と講演の話を照合すれば脳梗塞予備軍であることが十分あてはまる。また、十分な睡眠をとらぬこともいけないらしい。先生は「認知症・脳梗塞を知り、自分の状態を把握すれば、百戦危うからず」と孫子をもじって説く。向き合っていくべしと。途中休憩の合間に会場で久しぶりにNさんと会う。「子供(孫)ができたんだって」とさすが地獄耳。

 昼間は居眠り。邦男さんにお願いしていた秋刀魚が届き、また、子どもたちを呼んで秋刀魚尽くしの夕餉に皆で舌鼓。子どもたちの送迎もあってアルコールは飲まず。飲む気にならなかったというべきか。赤ん坊はまだ2ヶ月半なのにずいぶん大きくなった実感。

2010年10月15日金曜日

飾り


 抗癌治療に入っている兄から久しぶりにメール。元気そうに記してあるが、心痛、いかばかりか測りかねる。死ぬのはこわい。あのとき満天の星を見ながら、遊泳する己れを想像したけれども、いつかはすべて「無」になる。誰とも話すこともない、何も見ることもない、・・・。わたしたちは特別の存在ではなくて、自然の一部だ。そう考えれば、そうなのだけれども。

 こちらで義兄の会社の会長さんの法事があるとのことで、姉が泊まりに来る。子どもたちも集まる。先週の今日だったと、つれあいが言う。玄関の飾りを種子取祭バージョンにした。

 片付けをしていたら、昔の母からの手紙が出てきた。父が胃癌の手術をしたのは54歳のときであったらしい。
 今、無事に生きていることへの感謝。

2010年10月14日木曜日

立ち往生


 竹富島の種子取祭は全部観ようというつもりでしたのでほぼそうしました。昔、オールナイトを観て映画館を出てきたときのような感じ。気だるい疲労感と、観たいものをたっぷり観た満足感。

 遅い夏休みをとりましたので、あとはレジャーに興じました。
 とは言っても、引っ込み思案、消極的なところのある私です。
 うちのつれあいは、この際、クーポン使って何もかも使って、やったことのないのを全部やろうと臨みました。「できないと思うからいけないのよ」などと引きづられて、この歳になって生まれて初めてのことをしました。

 石垣島の宮良川の河口近くはマングローブになっています。潮の干満の影響を強く受けるところです。かねて手配の、ここでカヌーというものを初めて経験しました。二人乗りで「みーぎ、ひだりっ」と漕いだわけです。普段から思っていたのですが、やはり息が合いません。気は合うのですがねぇ。ガイドさんに従って低く這っているヒルギの枝の下を通るのですが、進めなくなったり立ち往生したり冷や汗ものでした。小休止したところは鍾乳洞みたいになっていて、よ~く観察すればハゼの仲間がいます。水の中では生きていけない魚だそうです。さらに目を凝らせば天井には小さな蝙蝠がたくさんいました。帰り着いてカヌーをつけた岸辺にはシオマネキがいました。そう、有明の干潟にいるような共通の生き物たちでした。植物も生き物もすべて国の天然記念物なんだそうで、傷つけることも取ったりすることもしてはいけません、気を使いました。

 これが、最初でそれから次々とチャレンジとあいなりました。
 ビーチでは、カヤックこれはカヌーをまがりなりにもやったばかりでしたので、すぐ慣れましたね。それで次はシュノーケル。つれあいが、インストラクターからレッスンを受けてきて、それを私が習いました。水槽で観るような熱帯魚が、手が届くようなところにいました。しかし、ウミヘビを足元に見たのにはあわてましたね。
 極め付きはウィンドサーフィンでした。勢いでレッスン受けてしまいました。それがバリ島から来た人でほとんど英語です。それにもともと飲み込みが悪いので四苦八苦しました。はい、やってみてと言われて、今習ったことをもう忘れているのです。手は右だっけ、左だっけ、どっち向くんだか。スローリー、スイング、スイング。なんとか、へっぴり腰で乗れるようにはなりましたが、方向転換ができず往生しました。文字通り立ち往生でしたね。
 
 50代の手習い、くふふふっ。ふ~。

2010年10月13日水曜日

肩が


 肩があがらなくなって、重くなって、また、五十肩がきたのかなと思いました。でも、単なる筋肉痛かなあ。ようやく、その筋肉痛が治まったような感じです。引っ込み思案の私が、「今より若い時はない」と言うつれあい様のおかげでいろんなことにチャレンジできたからでしょうか。かなり及び腰だったのですが。

2010年10月12日火曜日

ただいま


 とうとうサンセットは一度も見られなかったが、昨夜はようやく星空を見られた。誰もいない真っ暗な砂浜で横になって仰ぎ見る星々、これを見たかった、それが実現した。

 帰る日になって、晴れてエメラルドグリーンの海が広がる。帰るしかなくて名残惜しい。基本的には曇り空が続いたが、山の天気では聞いたことがあったけれど、島の天気も変わりやすかった。

 台風がすごいので、島にはもう赤瓦の家はなく、ほとんど鉄筋コンクリートばかりの味気ない家ばかりだけれども、そこは南の島の風景で華やかだ。それが羽田の上空にくれば、鉄筋コンクリートで現代的なビルと道路で、人工的な‘美しさ’の都市の景観だ。この中に私の日常がある。鉄道を乗り継ぎ我が家に帰り着くが、やけに人の服装もホームも階段も色彩が黒っぽく灰色っぽく感じる。

 つれあいは旅の記念になど自らは買わぬ人だが、空港の「結」(ゆい/身体障害者の人の施設らしい)という売店にあったシーサーがピピンときて、買い求めた。理由は私らのようだから、と。

 私は運動もしたのに、恐れていたとおり3kgも太っていた。食べすぎ、飲みすぎ、…。楽しすぎ…。

2010年10月6日水曜日

ほぐし


 末っ子が今月半ばで25歳になる。それで、昨日、プレゼントにパソコン用リュックを送った。中にレトルトや缶詰なんかも入れておいた。
 赤ん坊はからだがやわらかい。私にもそんなときがあったのだろうか。

 つれあいが開口いちばん、今度の先生セクシーだってよ、などという。また、そう言われては鼻の下を引き締めざるを得ない。会えば、確かに若い、末の息子と同い歳だ。それにこう言っては何だが、胸が大きい。前の先生もそうだった。まず、「骨盤ヨガ」というから男も出ていいのかと訊いた。今日から初めての教室なので馴染みの常連さんもいるが、新たに若い人も来ている。ご婦人達ばかりがずらりと先に来ていた。

 ヨガは身体をみつめ、心を結びつけるもの。今は「手」というが元は足だ。骨盤は背骨を通して肩甲骨と対になっている。骨盤だけでなくバランスをとることだという。恐らく、今度の先生は前の先生とは流派が違うのだろう。教え方の定番のフレーズが異なるようだ。まずは、スタジオがいっぱいになってよかった、そして緊張したことだろうが、初々しかった。このジムはチェーン店にはない、アットホームの雰囲気がある、きっと慣れて上手になっていくことだろう。私も、少しでも硬い体と頭をほぐしていこう。

 あれから2年経つのかな、その後そういう心身をほぐすようなことをして血圧が落ち着いた。荷造りも終わった、航空チケットの方式も変わった、忘れずに持っていこう。おっと、夜更かしをしてしまう。

2010年10月5日火曜日

今日は夕食当番


 今日から遅い夏休みをとった。つれあいは今日まで勤めで、私は家にいたから、夕食の当番をした。滅多にないことだ。

 それで、メニューはこうした。「せいきょうの納豆」、さんまみそ醤油干し、生協から来たキャベツ、久米島産天然味付けもずく、いかの塩辛、カニカマ、飲み物は茎茶。デザートは冷凍食品の大学いも。ご飯がすすむメニューだと考えられたので2合炊いた。

 「せいきょうの納豆」は経木に包んだ、中味も大粒の国産大豆を使った、商品の雰囲気といい昔ながらの味だ。80gもあって食べごたえもあって、納豆のホントのぜいたくを実感する。「さんまみそ醤油干し」が、これがまた旨い。このメーカーさんは銚子にあって、さんまのさまざまな加工品を次々と開発している。さんまを開いて「骨無し」に加工することを早くから開発してきた(そしてさんまを台無しにしていない)。みそ醤油干はへたをすると焦げやすいから焼くのに注意しなければいけない。みそ醤油干などという微妙なおいしさをつくりあげている。家内工業に近い規模なので営業はほとんどできない、口コミで各地の生協でとりあげられている(ただ生協の商品部はこのメーカーさんが営業にこないから良さを知っていない、大きなメーカーの営業に頼っているように見える)。キャベツはざっくりカットして電子レンジでチン。大分のカボスをぜいたくに絞ってふりかける。これも大分は臼杵でつくっている「香味だし醤油」をかける、ほんの少しでいい(ふふふ、うまい)。あっ、この醤油はタレの付いていない「せいきょうの納豆」にもいい。「久米島産天然味付けもずく」はパックを開けるだけだが、これは加工食品として絶妙に美味しい。沖縄本島の西にある久米島。古代の中国の人が、仙人が住んでいると思った島。その東海岸の絶景の瀬に自然の藻場が広がる。数少なくなってきた天然モズクの漁場。それを、境港の加工屋さんが仕入れて、自分の工場で土佐酢を炊いて味付けしている。素朴な太モズクが活かされている。いかの塩辛とカニカマは生協のお店で98円均一で買ってきた。仕事柄、一応、私はつくってくださるところの「顔」を知っている。

つれあいの好物を揃えた。2合のご飯は二人で平らげたからお腹一杯だ。だけど、さんま干しを焼いた以外調理をしていない、手作りはない、ありていに言えば手抜きだけれども、夕食の準備と後片付けをしたという到達度評価をしてもらう。

 昨夜、NHKのクローズアップ現代で「妻に先立たれた男たち悲嘆は」を観た。どっちの順番かは知らぬがいずれは来る事態だ。後悔せぬように生きていかねばと考えた次第。先立たれたら、悲嘆にくれるであろうこともそうだが、お金のありか、食べることなど、生活ができそうにない、やばい。「そうか、君はもういないのか」は想像するだにつらい。表題のような甘えたことは金輪際言えなくなる。

 日曜日に玄関に入って来た子どものヤモリくん、追い出したのだけれども(上の画像)、翌日いつのまにか茶の間の土壁に張り付いていた。

 虫が鳴いている。明日は南へと出発する。つらいことや、いやなことはひとまずここに置いて行こう。たまたまなのだけれども、辻信一さんの『しないこと』(2009年12月、ポプラ社)を途中まで読んだ。

2010年10月3日日曜日

クミコさんのコンサート


 小さな体のクミコさんが歌えば、会場がすべてクミコさんの歌で包まれる。どこからあんな声量がうまれるのだろう。そしてきれいな歌声が出てくるのだろう。小さく歌えば引き込まれ、大きく歌えば迫られる。

 それにクミコさんはTALKが上手だ。そして身近だ。フランクだ、なによりもマインドがいい。それは、後で余韻を楽しみながら飲んで語り合ったみんなも言っていた。そのTALKの中で、この会場は2年ぶりであることを、あんまりりっぱではない楽屋の様子で思い出したという。そう2年前だ。ご近所の妻殿の友達のMさんが隣町に来たこのクミコさんのコンサートに妻殿を誘った。そして、妻殿がとっても興奮冷めやらぬ思いで帰ってきて、どんなに楽しかったかと話してくれたのを、私も想い出す。私にそのクミコさんのCDを買ってきて聞かせてくれた。妻殿が、CDを買うなんて滅多にない。

 会場はほぼ同年代のご婦人が圧倒的だ。10年前に出会った人に言われて、別れた亭主の苗字をあっさり捨てた、それで名前だけにしたと、しかもカタカナで。そういう自己紹介めいたことからTALKは始まり、彼女はこれから歌う歌詞に込められた意味と自分の思いを2曲ごとに紹介する。例えば、紹介は遠慮がちではあるけれど、彼女は彼女なりのそして彼女らしい歌詞を選ぶ。だから、「百万本のバラ」も「マイウエイ」も聞き知っているものとは違う。「マイウエイ」なんかよくカラオケで滔々と歌う人生の成功者が我が道を振り返るような歌い方と歌詞とはまるで違う、優しい歌い方と歌詞だ。埋もれた人生、ミニマムなひたむきに生きた人生、ささやかな人生をいとおしむ「マイウエイ」で、「マイウエイ」でジ~ンときたのは初めてだ。妻殿も同じ感想をもらす。

 クミコさんはシャンソン歌手だ。そしてシャの字にも、フランスのフの字にもひっかからないようなそんなシャンソンが歌える。時代にかかわる歌が好きだという。思いをとげられなかった無名のひとたち、そこに通じる気持ちを歌うのが使命だという。夢は何ですかと訊かれると、ちょっと人をたすけることと答えると。愛を知らずに育つこどもをひとりでもいいからたすけたいという思いを述べる。

 この夜ピアノを弾いた女性は同じ年代だそうで、親しみを込めて“ジュンちゃん”と紹介する。30年来の音楽友達で、華奢に見えるが若いときはナナハンを乗り回していたと、そしてアタシと違って亭主を変えたとフランクに紹介する。ジュンちゃんのピアノに向かっている背中が恐縮する。一緒に仕事をするのは、このたびのコンサートが久しぶりだという。そのピアノ、そしてバイオリン(二胡も)、ベース、ドラムのバックもよかった。「五月の空」あたりでは会場からすすり泣きも聞こえてきた。これに再び誘ってくれたMさんなんか目を真っ赤にしていた。

 クミコさんは一期一会、どのコンサートもどれも違うという、去年ミュージカルを演じた妻殿もそう実感している。最初の時はちょっと大人しかった会場の拍手も最後は鳴り止まぬ感動の拍手に、そして再び幕が開き「INORI~祈り~」を歌う。

 平和はあちらからは歩いてこないと考えているという。10月25日はサダコちゃんの命日だと教えてもらった。歌手として女性としていくつもの苦労をしてきていても、素直な正当な気持ちをさらりと表現できるクミコさん。例えて言えば、横にいた同級生が、実はすごく歌がうまくて素敵な人だったのだと気付いたようなそんな共感で、ファンが広がる。そんな感じがした。だから、同年代あるいは少し年配のご婦人のファンが多い。

 最後にロビーでサインとツーショットをゲット。

2010年10月2日土曜日

目に飛び込む


 仕事を終えて早めに家に辿り着く。そして隣町まで自転車をこいでいく。茶畑の農道を突っ切れば途中で虫が目に飛び込む。ジタバタすれば収集がつかなくなるからじっと我慢する。かねて予約の「クミコ コンサート INORI~祈り~」に間に合った。目からとれたのは鱗ではなくて、ほんとうに小さな虫だった。買いたかったから最初に「INORI~祈り~」買って、感動したから他のCD1枚買った。そして、ご一緒したMさんたちと駅裏で飲んで今帰った。もう、寝る。

2010年10月1日金曜日

余韻


 ひょんなことで長男のお嫁さんの誕生日がわかって、プレゼントに贈ったひとつが『ゲゲゲの女房』の本だ。それを逆輸入のように貸してもらった。妻殿の次に読んでいる。それで、連続テレビ小説が終わった余韻をなぞっている。一気に読める。その次は二男のお嫁さんにまわすことになっている。

 邦男さんに礼状を送ったら、連絡があって、脂があるうちにまた送るよいつがいいときた。ただ、休漁があったりしてやはり厳しいようだ。来週はいないから、もしいいのがあれば再来週の週末ぐらいを希望した。姉も来るし、子どもたちを招集しよう。旅のみやげ話もできる。