2010年9月30日木曜日

傘が「ある」♪


 全天雲に蔽われたものの見事な雨の日だった。季節の変わり目の秋雨だろう。

 父の日にと息子が気合を入れて贈ってくれた蝙蝠傘を差す。小さい頃の話だが、あのころはまだ普通に蛇の目傘が使われていた。厚い油紙製で開けば油の酸化したような独特の匂いがあった。それよりも丈夫で高価なという区別の意味あいもあって、布製の傘を殊更に蝙蝠傘と呼んでいた。70年代初めの健さんのやくざ映画ぐらいにはまだ使われていたが、蛇の目傘はすっかり廃れてしまった。

 さて、件の傘は、手づくりだ。骨格がしっかりしていていかにも丈夫そうだ。ひとまわり大きくて雨から身体を守ってくれる。傘とは、ついうっかり置き忘れたりするものだ。気楽には持てない、失くしてはならじと緊張する。なぜなら職人さんが丁寧につくってくれた優れモノで高価なモノだと思うからでもあるし、もし、うかつにも失くしてしまったらそれを贈ってくれた子どもたちにすまないと思うからだ。だからと言って、千円や五百円ぐらいで買った傘を粗末にもしない。モノとはいずれにしても人がつくったものだからだ。それを思えば私はモノを大事にするし、おいそれとは捨てない。ヨーロッパやアメリカのマーチャンダイジングとは、仕様書を設計し、かつては南アジア、東南アジア、昔の香港の片隅で劣悪な取引条件でつくらせて発達したものだった。今、マーチャンダイジングによる仕様書発注は普及し、先に経済発展をした国が世界の安価な人件費を追い求めている。そうして世界のどこかで低廉なモノがつくられ、さらに果てしなき市場を求めている。ただこうしてマニュアルに沿って大量に安くつくったモノであろうが、丹精込めて職人が一つひとつつくった高価なモノであろうが、モノは人がつくったものである。

 それにしても荘重なというか、持ちごたえのある傘でさすがになんとも言えず心地がいい。りっぱな蝙蝠傘というにふさわしい。

 この傘を差していれば「貴き人」然という豊かな気分にもなるが、しかし、失くしてはならじと緊張しているのは「卑しき人」とでも言うべき落ち着かぬ心境にもなる。正直、あまりにいい傘も困ったものだ。なかなか、まだ不似合いのようだ。でも、世の中にはこんないい傘があったんだ。

 雨、雨、降れ降れ、もっと降れ♪だ、いい人、つれて来い♪だ。

2010年9月29日水曜日

貴い人


 「今日を生きる私は私らしく」(櫛田ふきさん)とそうしたいとうなずくのだが、その“私らしさ”が問題だ。

 身閑なり、すなわち貴なり(からだひまなり、すなわちとうときなり)

 「立居振舞いがいかにも閑雅で、ゆったりしていて、落ち着いていて、急がず、いらだたず、こせこせせず、その一瞬を大切にする余裕のある人」が「貴い人」であると、白居易の詞を解釈して、辰濃和男さんは『ぼんやりの時間』(岩波新書、2010年3月)で紹介している。

  まったく遠いな、私にはそういうものがない、というより真逆だ。それが今の私らしさなので、私らしく生きるわけにもいかないな。すなわち修行が要るな。

2010年9月28日火曜日

お幸せに


 一年ちょっとでした、今日で最後になりました、来週もつい来てしまいそうになりますと挨拶があって始まり、そしてソフトヨガの教室が終了した。

 私がよく肩がこる、肩をもんでくれだの言っていたので、肩こりにいいよと誘われて最初に引きずりこまれたのが、ボクササイズだった。インストラクターは数少ない日本の女子ボクサーの一人で、そういう人はとくに女性に人気があった。その人も結婚して去っていった、もう何年にもなる。次が、あれやこれやで、夜にヨガやっているよ、今度の先生若くてかわいい人よと言われて、ちょっと顔を出した。先生が若くてかわいいから出たのではないと言い聞かせながら。初心者向けだったが、ヨガはヨガ。ポーズを決める段になると、身体の硬い私には難行苦行だった。無理はしない、気持ちのいいところでとめる、呼吸が大事、そこに意識をもっていく、緊張と弛緩、ふぅーと力を抜く。力を抜くことです。なかなか教え方のうまい人で、終わってみればファンがそれなりにいたようで、そのみなさんでささやかな贈り物をしてしめくくった。結婚して幸せになってねと言って。

 さて、ゴーヤ、げげげの女房、ソフトヨガとなくなって、次のささやかな張り合いをどうしよう。ふわぁーとちからを抜いていこう。

2010年9月27日月曜日

冷たい雨


 長袖シャツに背広を着込んだだけでは間に合わない。大急ぎでクリーニングのタグをはずしてレインコートを羽織る。傘立てにある傘がどれもこれも壊れていて、買い置きの新しいのにする。冷たい雨になった。

 寝ているときに寝汗をかいて起きる、着替えて二度寝したらまた寝汗をかいていた。なんだろう、飲みすぎ、労咳(龍馬の見過ぎか、高杉晋作の)、単なる疲れ、…。

 広瀬隆、原発、地球温暖化、祝島、辺野古、岩手の生協、八木沢商店、河野社長、杉本英子さん、…、松元ヒロさんがあげたネタを繋げると、とてもお笑いとは思えないシリアスだ。次回のソロライブは立川で10年目、11月26日(土)19:00、11月27日(日)14:00だ。

 久しぶりに仕事で遅くなる、10年も前は普通に私もいたのだけれども、夜7時ごろの職場はなにかキツネの住みかみたいに私の目には見えた。黒澤明が描くような錯覚が見えた。焼が回っているな。潮時か。

2010年9月26日日曜日

アメ横のトロ

 昼過ぎまではきれいに晴れた。気温も湿度も快適だ。
 朝、チャイムが鳴って「国勢調査」だというのでお上がりくださいと応じる。すると、一斉学力テストのときのようなマークシートと調査資料一式を渡されただけだった。「国勢調査」といえばお上の御用で正直にありのままに応じなければいけないと、大昔のことだけれども調査員の方が上がり口に腰を掛けて母親が面談でそれに応対していたような記憶があったのでそういうことかと思っていた。いったい何時のハナシか、あなたはそのぐらい家(うち)のことをしたことがないから、と妻殿から言われてしまった。
 洗えそうなものを家中から無理やり集めてきて粉石けんで三回に分けて洗濯をする、これは私が妻殿には任せない数少ない家事。いい天気にベランダで干すのは気分がいい。そして取り込むときの風合いが粉せっけんでやるといい。子どもたちにも勧めるのだが面倒くさがる。なんだか液体洗剤を使っているなぁ。

 うちの妻殿は迷っている。楽しみにしていたあのホテルの夕食にするか、仲間のみなさんと一緒にどこかで夕食するか。誘われたものを無碍には断れないし、みんなでわいわい食べるのは楽しかろう、だからと言って、そう行く機会もないあの島の品のいいホテルの夕食も捨てきれない。3ヵ月も前から計画していた。すると、迷いに迷って、もう「検察発表」に任せますとか言ってお前が決めろとこちらに丸投げしてくる、後で「政治的判断」はしていないという魂胆で、結果責任をなすり付けてくるはずだ。そしたら「改竄するぞ」とこちらも応酬する(ナンノコッチャ)。

 毎年のことだが三陸から秋刀魚が届いてから、いつも後になって大分からカボスが届く。今年はお嫁さんが大分の人でカボスを持っていてうまい具合に組み合わさった。それで、二男のところに今度のカボスを分ける。そして邦男さん夫婦のところに、画像入り礼状を大急ぎでつくって、カボスのおすそ分けの中に入れて宅急便の受付に持ち込む。

 昨日、アメ横で衝動買いしたトロは案の定、筋が多い代物だったがトロには違いない。ちょうどよく解凍できたので、みんなを呼ぶことにした。携帯電話に出た息子は職場のソフトボール大会トーナメント戦会場へ向かう車中だった。小中高と野球をやっていて腕には覚えがあるので、チームの中心人物をかってでているようだが、チーム名に自分の息子の名を入れたらしい。ちと親バカが過ぎる。一方、娘は近郊のアウトレットが大セールをやっているとの情報を得てそちらにいる様子だった。吊り広告には弱い。

 それで、夕食はみんなで手巻きにした。さすがにめったに食べない「トロ」。うちの若い者たちはパクパク食べた。久しぶりに5合の酢飯もみるみる減っていく。それにしても孫のソータローはよく寝るし、ご機嫌なこと。だから、みんなでちやほやだ。

 箸が転げた程度で笑わなくなって久しいが、「げげげの女房」が昨日で終わったので張り合いがひとつなくなった。反動でこの次の「てっぱん」はかわいそうかも、とはうちの娘たちの言。

2010年9月25日土曜日

「鶴」


 午後からきれいに晴れた。昼間、上野駅の公園口を出て、動物園の入り口のアーチを見て随分久しぶりであることを思い出した。
 
 ご近所のKさんから行けなくなったのでと、合唱団白樺の定期演奏会の券を譲っていただいていた。創立60周年だそうで、観客でいっぱいの大ホールの4階で鑑賞した。哀愁のある、風がそよぐような高い歌声、踊り出すような演奏、バラライカを中心とした大合奏、国立アカデミーロシア合唱団のアカペラ、ロシア民謡、ロシア音楽の3時間だった。でかいバラライカもあるものだ。
 
 せっかく来たのだからと帰りに暗くなったアメ横に寄ったら、うちのつれあい様は、そこは初めてとのことでこちらの方こそ、へぇと驚いた。もう店じまいだ、大トロをおおまけするからと後姿に声をかけられ、振り返ってついつい買ってしまった。持ち帰っても、まだ凍っていたのでまだ食べていない。そんなもの買ったことない上に、あまりに安くて大丈夫かいなと今いちど振り返れってみればドキドキだ。

2010年9月24日金曜日

縮こまり


 ニュースでは中国からレアアースが止められたと言って我が産業社会は動揺しているが、これを「食糧」に置き換えればその方がもっと深刻だと考えられるけれども、そういう発想の報道には至らない。

 いきなり涼しさを通り越して肌寒い。今年の初夏は寒く、梅雨が明けた途端猛暑が長く続き、今度はこれだ。極端から極端に振れているようだ。

 ご近所や団地の様子を見るともなしに見ていると、夜になれば雨戸やシャッターをぴたりと閉めるお宅が多いのに気付く。うちは同居するつれあいが閉所恐怖症なので台風でも来ない限りしたことがない。障子やカーテンを閉めるのならばわかるが、あれでは密室になるように思われる。それではそもそも息苦しいと我が家は感じる。しかし、その方が落ち着くという感性もあるだろうし、防犯もあるとは考えられるが、なにかこう閉鎖的な感じがして私らにはなじめない。密室にしたところで空調をかければ「快適」なのだろうけれども、まるで「この家の限り、あとは知らない」と言っているような気がしてならない。それも詮無きことかもしれない。「縮こまった社会」(清水真砂子さんの表現)若い人たちだけがそうなっているのではなくて、上の世代からもうかなりこういう社会が浸透しているような気がする。そのなかで、今度の我が自治会の会長さんなどは、意欲的に自治を活用しようとよく頑張っているし、夜回り、オオタカの森の保全活動など、ボランティアに参加する人たちもあって奮闘している。

2010年9月23日木曜日

ライブ「ひとり立ち」


 暑いと愚痴っていたら、一転して雨が降って肌寒い。休日の都会のビジネスエリアは静かだ。カリカリカリとパソコンに向かっていて、12時になったらモニターから離れるが、カリカリぐらいの余韻が残っている。モダンタイムスの今日版だとときどき思うことがある。

 仕事を終えてかねてより予約していた松元ヒロさんのライブ「ひとり立ち」を観に紀伊國屋ホールに行く。気分転換だ。初日で何か得したような2時間みっちりで、いい話盛りだくさんの熱演だった。しかし、すごいなぁ、これはテレビなんかでは見られない。夏は岩手でライブをしてきたそうだ。生協関係に招かれたらしい「生協って知ってぃる?知ってぃるよね、ほら、いい食品をつくって、自分たちだけで食べてぃるところ」ときて爆笑。なるほどだ…。

2010年9月22日水曜日

もう髷が結えない


 夏休みは10月にずらしてとることにしたので、夏の間はまとまった休みをとらなかった。そのせいで気分転換ができず、併せて記録的な猛暑のせいで体力を温存できず、ここのところ少々夏バテぎみだ。追い討ちをかけるように今日の昼間も暑かった。今、ぐっすり眠りたいのと、ボーっとしていたいと考えるのだが、夜更かし、早起きを繰り返す。

 鶴ヶ峰は郷土出身の力士で小学校時代ずっと応援していた。関脇までいったと思うけれど、幕内を長くつとめた。30代後半まで現役を続け、最高齢力士だった。辞める時のセリフがよかった。「もう髷が結えなくなった」と。後年のタコ坊主頭の井筒親方である。人気力士だった寺尾の父親だ。偉大な横綱千代の富士の現役引退の言葉も印象的だった「体力、気力の限界…、」涙で言葉をつまらせた。

 職場の目標面接とは、全てを数値で置き換えようとする。さあ、何件、何日以内、何%、と。経験豊富で給与が高い分だけ応分の働きをしてもらおう、とくる。一面もっともではあるが、中身の質はなかなか数値や期限や乗除には置き換えられない。結論ありき、トップダウンならば、「はい」か「Yes」か「はいはい」しかない。それを面接と称してあたかも申告という形をとろうとするのは、無理がある。もう、髪もないし体力も減退した。一兵卒として「割り当て」「ノルマ」に邁進するには気力において詰まりつつある。人が余っていると、職場の部長は上からの経費削減の方針にそう応えている。

 「成長戦略」、国際競争に負ける、職場に人が余っている重複している削減しよう、どういう幸せな社会ができていくのだろう。成果を達成せんとする「青年将校」や、屁理屈づくりの「参謀本部」に、また、兵卒たちが振り回され、果ては犠牲になるのだろうか。しかし、一時的な成果の戦争に熱狂し支持したのも、小泉さんの構造改革を盲目的熱狂的に支持したのもふつうの庶民だった。新内閣の支持率だってそうだ。中身が考えられていないで、自分の首をみんなで絞めている。

 冷凍していた秋刀魚の蒲焼用切身で、蒲焼丼にしてもらって「秋刀魚尽くし」が終わった。本当の美味しいものを手作りで味わえた。これらを編集して邦男さん夫婦に礼状をつくろう。

 『なぜ友は死に俺は生きたのか 戦中派たちが歩んだ戦後』(堀切和雅著、2010年7月、新潮社)をもう少しでうちのつれあいは読み終わる。

  さっ、明日も気合だ、仕事だ。げつげつかすいもっきんきんの潮時に迷う。

2010年9月21日火曜日

秋刀魚の開き


 昼間は真夏のようだった。

 大きく鼻から吸って口で吐く、肩の力を抜く、肩が上がっているようでしたら落とす、目を閉じない、モニター画面を見ていてください。いいですねと、前の人の看護士さんが言う心得がよく聞こえて、得心した。私についた看護士さんの説明は通り一遍だったな。一番の最初にやったときの、ジタバタしたのがトラウマになって胃カメラ受診は毎度気が重い。

 では、塩分を控えなさい。この数値でしたら動脈硬化云々…。はい…。有酸素運動も。はい…。

 手作り天日干しの秋刀魚の開き、ちょっとしょっぱかったなぁ。しかし、魚がいいからうまかった。市中では手に入らない。

 満月に近くなってきた。「はなつまんだだんご」食べたくなった。おいしい粒あんにつけて。こし餡だったっけ。昔ながらの食の風習、私らの代で途切れさせているんだなぁ。

2010年9月20日月曜日

「我が家東京物語」


 18日(土)の夜は姉たちのお呼ばれにあずかり、都内の親戚Oさん宅の広い庭でバーベキューを御馳走になる。手土産は前日予約しておいた「田代さんの焼きだんご」25本にした。私は仕事を終えて遅くなったが、息子たちもそれぞれ招待されていて、我が家ではなくこちらで久しぶりに一家顔を揃えることになった。姪のTさんたち夫婦が九州に急遽転勤になったそうだ。二男夫婦は出産のお祝いに昼間都内で長男夫婦からベビーカーを買ってもらってご機嫌だった。私たちは長男夫婦に早くベビーカーを買ってあげたいのだけれども。

 邦男さんの秋刀魚は確かなものだ。品質と鮮度がいい加減では浜の男のプライドが許さない、だからいつ送って来るかわからない。納得できるものがあったら送る、予告なしはそういう証だ。それが、19日(日)に届いた、たまたま在宅していたからよかった。例年なら月初めだ、不漁を反映している。昔の10kg箱や5kg箱よりも小さくなったとはいえ、4kg箱に24尾。三男が前日から泊まっていてよかった。さあ、それで子どもたちに召集をかけるが、来られたのは二男夫婦のみ。18時開演のEarth-beの公演を観に行く予約を急遽翌日に変更してもらう。それで、前夜に続いて今度は“秋刀魚宴会”を催す。長男夫婦は予定が入っていて来られず。

 オギャーオギャーとは赤ん坊の居る証拠のようだが、孫のソータローはほとんど泣かない。で、ぐずるのを聞いたことがない。母乳を良く飲み、よく眠る、起きていてもぐずらない。なんと手のかからない子だろう、お嫁さんの赤ちゃん時代がそうだったらしいとあちらのお母さんから聞いていた。久しぶりに赤ん坊を腕に抱いていて昔の感触が蘇ってきた。

 さんまは刺身、塩焼き、手毬寿司、さつまあげ、開きの一夜干し、で2日かけて堪能した(蒲焼用は冷凍した)。邦男さんの秋刀魚は、刺身はもちろん加工しても元がいいから美味しくいただける。今日(祝日)の昼間はEarth-beの公演を観に行く。“ダンス見物”とでもいうか。40数名の鍛えられた肉体による表現「われわれはどこへ行くのかLa Terra」。石橋寿恵子先生がゴーギャンの絵画に素材とモチーフを求めたもの。自然と人間の一体感、群舞による表現。ミュージカルとも違うダンス。会場は満員でした。

 「うまい!」と言えば「うますぎるっ」と反応するのは我が県在住の人、東京や他県の人にはわからない。このローカルテレビに流れるCMを知ってはいるが、一度も買ったことも食べたこともない。芸術劇場の前に「十万石」のお店があったので、買って東京育ちの長男のお嫁さんに食べさせてあげようとひょいと思いつき、長男に連絡。劇場からの帰り道で足を延ばして久しぶりに長男宅を訪問。別に一昨日バーベキューで会ったばかりだったが、「十万石饅頭」でしばし歓談。この前の返礼に、紅葉のころあちらのご両親を招待したい旨伝えた。饅頭はたしかに美味い。でも「十万石饅頭」のお店は県内でも私たちの住んでいるあたりにはない。ところで秋刀魚着いたらまた誘うからと、昨日の秋刀魚の画像見せる。去年はいただきましたという話になる。結婚してもうすぐ4年目になるようだ。そのお祝いもしていなかったので、何がよいかと切り出す。前に食器棚でもと話を積んでいたが、見渡せば、なるほど置き場所がないようだ。それでドラム型の洗濯機に話が及び、それがいいねということになった。ただ、これも置き場所がいかがなものか、要するに狭いのだけれども。あかちゃんできないのかな、これを切り出すわけにはいかなかった。

 夜の7時を過ぎたらお礼の電話がきた。配偶者の両親が健在だ。戦争中、義父は中国・インドシナに長く兵隊にとられていた。母親の死に目に会えなかった。「くよくよ考えない、よく眠る、これで生き残れたの、この人は」とは、戦後見合い結婚した義母のいつも言う表現。その辺は今週で終わる「げげげの女房」の水木しげるさんと共通している。敬老の日にと「くらづくり本舗」のお菓子の詰め合わせを送っていたのだが、みんなでお茶菓子に食べたありがとうと。人生が長ければ、モノはもう不要のはずだから贈り物は食べて無くなるものにした。私的にはここの最中が好きだ。さて、そのうちに、私たちが敬老の対象になりかねないな、もはやジジババでもあるし。

 明日は胃カメラ。手作りで揚げたての秋刀魚のさつまあげでいっぱいやりたかったが、我慢した。夜8時までに飲み食いを終え、歯磨きをした。ちと、疲れたけれども思わぬ三日間の「我が家東京物語」になった。うちの実の娘さんだけがへそ曲がりで物語に出てこなかった。

2010年9月17日金曜日

おニュー


 今でも覚えているけれども、母親が私のために広い生地とカクイの綿を使って敷布団をつくってくれた。綿を拡げたり置いたりするのを手伝わされて見ていたけれど、実に器用につくりあげたものだ。布団って買うものだとばかり思っていたから意外だった。昔ながらのごつい布団袋に入れて数少ない引越し荷物のひとつにして故郷を離れた。そして、結婚していつか使い古してそれを捨てる時は、母にすまないような気がした。いつのことかもう覚えていない。映画『サンダカン八番娼館』でおサキさん(田中絹代さんが熱演)の身の上話にも確かそんなお母さんがつくってくれた布団の話があったような気がする。
 
 これまでの生涯、ずっとせんべい布団に寝てきた。あんまり買い換えてもこなかった。
 それが今度、生協のチラシでお揃いの敷布団を買った。通常品は高さが6cmぐらいだが、その商品は倍の12cmあるという謳い文句。中芯にはウレタンフォームを使ってあり、中ワタはウールで、日本製だ。そういうことで決めた。それで、使い始めて驚いた。大袈裟に言うと、まるでベッドに横たわったように高い感覚。サイズが100×200cmというのは広い。三つ折りにはできるのだが、一間の押入れに並べて収納できない。それはそうだ、一間180cmの押入れには2つで200cmの布団を並べて入れられない。チラシを見たら皆このサイズだ。それで、最近買う敷きカバーが前の布団ではサイズが余っていた訳がわかった。

 人間贅沢をしているようではろくな人間にはならないと、普段使いの布団もそう簡単にはおNewにしてこなかったのだけれども、取り残されていたのかな。その心地よさには世界観が変わったぐらいの思いもあるが、買ったばかりの靴のように、まだよく慣れていない。さっ、今日も寝よう。世間の三連休を尻目にあしたも仕事。

2010年9月16日木曜日

余命幾ばく、煩悩

 モノゴトに終わりがあるように、ヒトには別れがある。
 
 とうさんの歳(62)はとうに超したのだから(いいじゃないか)、かあさんの歳(97)はとても超せそうにないし(あきらめろ)と、それはそうだとしか言いようのない慰め方をつい兄にしてしまう。
 
 寿命はあとこれだけと言われたら人間どうなるのだろう。

 今日健常にしていても、明日事故に遭うか、癌を発症したりしていつ果てるともしれない。まして加齢とともにこの世の別れのリスクは高まっている。ヒトゴトでもない。

 それで、人間身辺整理がそろそろ必要だと考え始めている。

 思うに女性問題(残念ながら)とか、借金の類はない。そのことで人様に迷惑をかけることはない。あるのは、モノとクズと後悔の山だ。きれいにこざっぱりしていたいとは考えるが、考えるだけでそれができない。だから、いつ死んでもいいとは言い難い。さらには、好きなだけ寝て食べて物見遊山してと、未練が多い。小さいころにただ雲を見てぼんやりと過ごしていたアレも、やろうと思っている。“糧を得るためだけになってしまった仕事”を終えたら。いや、ところが「ぼんやりと過ごす」ようになったら、今度はどうなるのだろうという不安や迷いさえ、頭をもたげてきている。
 
 覚悟したらとは、面と向かってはいえない、それを言ったらお終いだし、それではなんの趣きもない。かける言葉がみつからない。

2010年9月15日水曜日

♪あ・と・でぇ


 一緒に行こうよと誘っても生返事。ウンとは言わずううんと言っている。どうも損得勘定しているようだ。その交通費があったらとか。大きい葛篭(つづら)か小さい葛篭かと訊けば、大きい葛篭と言う人だ。それで後からあれは面白かった、これがうまかったと言えば、何でもっと強く誘わなかったのかと言う人だ。モノゴトには当たり外れというものがある。大きい葛篭はハズレというのが昔からの言い語りなのだけれども。

2010年9月14日火曜日

巡り来る終わり


 準備5分、実行3分、あとかたづけ15分で散髪を終えたのが日曜日。あっというまに終わるようになっていく。髪と人生のたそがれは並行しているような気がしてならない。

 モノゴトには終わりがある。別れは惜しい。今月いっぱいでソフトヨガの教室を終了するとのこと、理由は結婚。それで夜の教室は受け持てなくなったとの由。おめでたいことだし、それはそうだろう。しかし、残念だ。「形にこだわらず、イメージすること」「無理をしないで」という柔軟な指導で、硬い体にもかかわらずなんとかついてこれた。ほかの人も言っているが、話し方や声の質がはっきりとしていてなおかつやわらかい、そんな資質のある先生で癒され、冷や汗をかきつつも出る張り合いがあったのだが。次の先生は若くてきれいな方ですからとか案内されていたが、そういう問題ではない。でも、そうなのか。

 外国軍基地の駐留にはいつか終わりがあるだろう。ただ悠長なことではすまない。このたび終わりのなかった菅さんには、民意に応えてほしい。表面的とは言え、その点の感度と態度は小沢さんの方がましで、多少の違いがあったと考える。このままでは自公政権と変わりがないまま、突き進みそうだ。

2010年9月13日月曜日

猫の尻尾


 NHKの番組「猫のしっぽ カエルの手〜京都大原 ベニシアの手づくり暮らし」をよく観る、縁側陽だまりに猫はよく似合う。ネコは尻尾に感情が表れるようだ。気持ちを隠せない。

 昔、箪笥から跳び下りて着地を失敗したところを偶然見てしまった。妻殿の実家の飼い猫は、長い尻尾を畳に、ぱあ~ん、ぱん、ぱん、ぱんっと、そう打ち付けてくやしがっていたように見えた。括弧悪いところを見られて、猫心にもバツの悪さを感じたのだろうか…。

 今、どいつもこいつもと、気分が絶不調な私には尻尾がなくてよかった。

 新潟の畑でつくってきた小玉のスイカをいただいた。少し熟れていた。週末の遠隔のひとりの畑作業はどうなんだろう。

2010年9月12日日曜日

麻痺の緩衝


 来週後半から涼しくなるらしいよなんて、希望的観測の会話があちこちで聞こえていた。久しぶりの休みで土日はほぼ寝て暮らした。残暑なんてもんではない、昼間は酷い暑さが続く。しかし、めっきり日が短くなってきた。朝晩はもう凌げる。
 「9・11」以降、‘人類史上’サイテーのアメリカ合衆国大統領の野蛮で露骨な行為とお追従の総理大臣のもとに暮らしてきた、鬱屈した数年間。トンネルを抜けたらまたトンネルだったような政権交代のその後。代表選挙がどちらだろうが埒外ではあるけれど、誰を利するのか「小沢は悪者」のマスコミの操作を感じる今日この頃。どちらに転んでも民意そっちのけのパワーゲームによる「大連立」に向かうような胡散臭さ。はずみか本音かとんでもない施策が出てきそうな気配。衆愚による民主主義の蹂躙、自殺行為。来るのは道理の切捨て。みんな猛暑のあまり、肌寒さを感じないのかもしれない。よくなるかもしれない、誰だってそう思いたいのかもしれない・・・。

2010年9月10日金曜日

目の中


 昨夜ジムの帰りのついでに、ジジババ二人で自転車を漕いで赤ん坊に会いに行った。生後1ヶ月余りだ。起きていたから目の中にいれてみようとしたが、入らなかった。だから、痛いか痛くないかわからなかった。

2010年9月8日水曜日

「俘虜記」の遺したもの


 傘をさしていても濡れるほどの雨が久しぶりに降る。台風9号の影響らしい。雨曇りの弱々しい光に秋がきていたことを思い起こす。

 考えるのだけれども、
抵抗する力が無くては生きていけない。
力が無くとも気持ちが無くてはいけない。

 大岡昇平の「俘虜記」(或いは「捉まるまで」)より、
「私は祖国をこんな絶望的な戦に引きずりこんだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼らによって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。」「いざ輸送船に乗ってしまうと、単なる「死」がどっかりと私の前に腰を下して動かないのに閉口した。」

 高校3年の現代国語の教師はクラス担任でもあった。いつも県都側からみる(一般的な)桜島には違和感があると語っていた。先生は国分の出身で、北側から見るのが桜島らしい姿だと言っているのが印象に残っている。そして、もうひとつは授業のひとコマで、教科書に載っていた「俘虜記」。若い米兵の描写と心の動きが延々と繰り返される一節。そのことの持つ微妙を教授された。その文章と授業がいかにも長々と感じられた。もともと授業は受験勉強然としていて、事実、大岡昇平の文章も入試にはよく取り上げられていた。しかし、それを通り越して、先生の授業は力が入っていたように思う。私は浅慮短絡で、機微や状況のわからぬ生徒だったように思う。引き金をひけばいいではないかと思っていたから。辟易した一方で、米兵の頬が赤く少年のようだったなどのような描写がずっと心に残っていた。
 50代にして、大岡昇平にようやく還り、辿り着いてきた。
いや、まだ遠い。ついつい手にとっては遠ざけようとしてしまう。

『俘虜記』(新潮文庫 85年)、『靴の話』(集英社文庫 96年)
『なぜ友は死に俺は生きてきたのか』(堀切和雅 新潮社 2010年7月)も併せて読み始める。

 列島では泰平に見えるこの社会に、とくに難もなく生きて、平凡な道を歩んでいる。きな臭い、胡散臭い匂いを嗅ぎ分けなければならない。

2010年9月7日火曜日

aiの成立


 私は音感がよくない。曲も大概うろ覚えだ。何か口ずさんでいると途中から違う曲になっている。歌詞だって同じで勝手につくり変えて歌っている。そうすると、音感もよく曲もよく知っているつれあいは、そのことを褒める。天才だと。決して皮肉っている様子ではない。だから、私たち二人は続いている。相手のよいところが見える。つれあいが楽しいことは自分にも楽しいことだから。相手が機嫌のいいことは自分でもご機嫌だ。もちろんサイテェーのところも見えていて何かの拍子にエンリョエシャクもなくののしりあうが。

2010年9月6日月曜日

さんまの憂い


 かば焼き缶と同じ形態で「サンマの塩焼缶」なるものが発売されてそこそこ好評であるようなことを、いつか隣の人が読んでいる夕刊紙を覗き見て知った。なるほどと。
 冷凍食品とは簡単便利を信条とし、今どきの人の食生活ではもう切り離せない。もはや電子レンジは調理器具の主流である。レンジアップしてもそれなりにうまい冷凍食品の「サンマの塩焼き」製品が出てきても不思議ではないなと連想した次第。

 さて、5年も前のことだが、7月に北海道の野付や根室でサンマの刺身をご馳走になった。まだ魚体は小さくサヨリみたいなサンマだったが、脂がのっていて驚いた。初めて食べておいしかったが、内心、何も7月からさんまを獲らなくてもとは思った。漁船の規模ごとに漁獲開始時期の規制はあるものの、競い合うことが高じて、北洋の遠くまで出かけてより早く獲るようになっていた。それでもサンマは食べきれないほどの漁獲量があって国民のお腹を満たしていた。獲り過ぎたものはすぐに冷凍加工に回されサンマの開きや缶詰などの2次加工用に、そして漁や養殖魚の餌に利用される。もう何年も前から中国に搬入されて加工されて逆輸入もされている。秋サケも同じような構造だ。ところが、今年はサンマの漁がさっぱりのようだ。今日のニュースによれば秋サケも同じようなことらしい。三陸沖のイワシ、サバの“バカ獲れ”がぴたっとなくなって20年になる。過剰漁獲、乱獲、魚種交替、水温上昇、さまざまな要因があるだろうけれど、魚種交替以外は人のせいである。邦夫さんの商売もあがったりではないかと心配している。

2010年9月5日日曜日

ご対面


 3ヵ月ぶりに二男のお嫁さんが実家の大分から帰ってきました。新幹線で小倉から品川までたった4時間半だったそうです。今の新幹線は授乳室もあって快適だったとのこと。母乳だから荷物もかさ張らないようでした。あちらのお母さんも一緒で、初めてでしたので我が家にご招待し、歓迎とお祝いの夕食、そうして、ようやく生後1ヶ月のソータローくんとの初対面に及びました。おっぱいをたくさん飲んですやすやとよく眠るそうで、育てやすいと言っていました。たしかに泣きもせず、ときには笑い顔を見せたり、じぃと人の顔を見ていたりしていました。お母さんによれば、お嫁さんが赤ちゃんの時もそうだったそうです。さて、どちらに似ているのだろうと二男が生まれたころのアルバムを持ち出して見てみると、あの時は3番目の子で、私の母やお姑さんに順繰りに応援にきてもらっていて、みんなの若いこと。あのころは夢中でしたねぇ。その子がお父さんになるなんて。と、同じことを私らも当時親から思われていたのでしょうね。「お盛んですこと」とは、お姑さんユニークな語録のひとつです。そして、ときはめぐり、私らがジジババになる順に至りました。結局、二男にもお嫁さんにも似ておりました、まっ、当然のことですが。

2010年9月4日土曜日

もう帰ろうよ


 疲れたと言える相手がいて心丈夫だ。でも、頻繁に口にするので「はいはい、はい」と言う風に相手にされる。フンとに疲れているんだと訴えれば、ゆっくり休んでとも言われる。が、時には好きな映画観てブログ入れて好きな時に寝たらどうかとも言われる。敵もさるものだ。いや、こいつは猿に等しい。

 もう辞めたいとこぼせる相手がいる。「何を言ってるの、生活どうなるのよ」と切り替えされていたらホントに辞めていたかもしれないが、「そうしたら」と言われ続けてきたので、むしろこちらこそ暮らしのことが気にかかってぐっと言葉を飲み込んできた。今ではもっとリアルに「ほんとにそうしたら」と、目を覗き込んでそう言われる。

 言いたくなかったようだが、親戚の子の告白を聞いた。堰を切ったように話の内容はただ羅列で相談になっていない。聞けば、夫によるDVもあるようだし、心も通っていないみたいだ。子ども達二人の夕食までの世話をして、夫が勤めから帰ってくるころには部屋に閉じこもるか、実家に帰っているそうだ。そういう生活を数年続けているらしい。別れる気は双方にある、それでも踏ん切りがつかない。経済的事情かと問えばそれも不安だが、子どもが学校を出るまではと言う。ただ、その内容はいい学校(私立の中高)に出したい、子ども達もそう育てられてその気になっているという価値観だ。困ったな、言えば説教になるし押し付けになる。そんな価値観捨ててしまえと。破綻している、典型的な仮面家族、そういう人たちをいくらでも見て相談にのってきたとつれあいは言う。

私はこのつれあいによって「克服」されてきたので「今」がある。
“かあちゃん、もう帰ろうよ”ッポン。

 *松鶴家千代若・千代菊(しょかくや ちよわか・ちよきく)さん。

2010年9月3日金曜日

飯でも


 帰宅時の日暮れの早さから秋は感じるのだが、昼間の暑さったらない、いつまでも。どうやらこの列島の歴史的な暑さの中に今私たちは生きているらしい。

 いっしょに飯でも食べないか、親しいということは一緒に食事(飲み食い)ができることなのかなと考えるようになった。私はなんちゅうか、閑中閑。なにしろ相手は多忙、引く手数多。忙中の間隙を縫うようにして申し入れるしかない。なあにどうせ人の子、忙中閑はあるべし。会って何をするか、積もる話があるわけでもない、企てをする話もない、すると飯でも食おうかということしかない。親しさみたいなものには目的も理屈もないものだろう。かまけていたが、ようやく階段を上り下りするようにした。

2010年9月2日木曜日

“でりけぇ~と”な


 何年か前のこと。妻のいとこ会に初めて出席したのだったが、姑さんが親戚の初対面のみなさんに私のことを、こうこうこういう人で最後に付け加えて「この人は“でりけぇ~と”なヒトだから」とえらく強調して紹介された。おいおいと私は妻殿の方を向いて苦笑してしまった。

 どうも月曜日あたりからお腹の具合が悪い。普段と違う。土曜日に確かにお肉を食べすぎたというのは思い当たるがここまでは引きずらないだろう。新鮮な野菜をたっぷり食べている。土曜日に確かに飲みすぎたというのはあるが、その後迎え酒ぐらいでアルコールはあまり飲んでいない。

 考えられることはある。私がいなかった土曜日に我が家ではバルサンを焚いた。職場では日曜日に害虫駆除のため、薬剤散布が実施された。私はそれらの影響を疑っている。
  私は敏感でデリーケートな人である。

2010年9月1日水曜日

9月1日


 小学校にあがったときの初めての担任の先生は谷山先生といった。いかにも子ども好きといったベテランの男先生だった。いっしょにみんなで撮った遠足の時の写真では、先生は帽子を斜めに被りいたずらっぽく笑っている。

 夏休み明けの初めての朝、教室の前方に父の姿があった。みんなの前で、なにやら谷山先生と話をして帰っていったのを印象深く覚えている。

 町の中心地のメインストリートを少し引っ込んだところに関小児科はあった。関先生によって私は小児性リューマチ熱と診断されたらしい。私は言われてもよくわからない歳だったのに母はそう言い聞かせた。それで友達が遊びに誘いにきても病気だと断り、家の中でごろごろしていた。初めての夏休みの宿題もしなかった、その楽ちんと後ろめたさは両方あった。そういう事情を父は担任に伝えにきたらしい。それで宿題の提出を免除されたと思う。

 みなが皆、真っ黒な顔と体で揃ったところに、私だけが日焼けもせず青白い姿をしていたのだろう。皆と同じように真っ黒に日焼けした姿になれなかった、野山を駆け海水浴に興じたであろう夏休みを過ごせなかったのは、実はとても負い目になった。たかが小学一年で人生をつまずいた気になった。そのとき病気をして苦しかったという記憶はない、忘れたのだろう。ごろごろしていた覚えはあるから、だるかったのだろう。なんとも表現のしようのない疼痛に悩まされ続けたのは、むしろその後の方だった。

 谷山先生には文字通り「あいうえお」から教わったわけだが、先生の黒板にチョークで書く字はとてもきれいだった。誰にでもやさしかったと思うが、とくにかわいがられたようになつかしく想い出す。

 遠い日の今日、9月1日には、そんなひとコマのような思い出がある。