2010年8月31日火曜日

町育ちのボン


 宿泊者の皆で準備した朝餉のテーブル。まるで刻んだ白菜の漬物のように盛り付けてあったので、そうかと訊いたら、これは昨夜のバーベキューのキャベツの残り物を炒めたもの。キャベツと白菜の区別もつかぬかと針小棒大、その場の大笑いのハナシのたねになってしまった。このネタはしばらく使われそうだ。午前中はこういう加工場であると、こういう農場である、かような農機具や機器を修理したり再利用したりして使用していると案内される。真夏の様相で暑くはあるが、目に緑、空の青さ、トンボの舞う風の漂いは心地よい。が、私には作物や植物の見分けがさっぱりつかぬ。ここに植わっているのは何だ、周りの人はみんな知っているようで訊くのも臆する。さすがに木の実はこれが何だと教えてもらえる、だがさっぱり名前を覚えられない。ただ、食べてみたらその味覚は残る。コンクリートの森に、人工の便利空間に違和感を覚えつつ安住棲息している。緑の名前も知らぬ、花の区別もつかない。キャベツと白菜は知っているのだが。

2010年8月30日月曜日

ナス


 三日間のフリーパスで本当は足を伸ばしてどこかの温泉にでも行っていたかもしれなかった。けれどもコンクールが日程に入って、一緒には行けなかった。コンクールは落っこちたそうだ。すこしもしょげていない。休みだけはとっていたので、今日はのんびりした。というよりも、暑さでのびていた。てきぱきとは動けない、緩慢な自分を感じる。  

 昨夜ナスを食べきれないからといただいた。あとインゲンにゴーヤも。ご近所のTさんは新潟に農家を買ったらしい。さる大企業の技術者だ。それで、一年目は作物がまったくできなかったそうだが、そこは一流の技術者おそらく猛勉強したのだろう、二年目にしてプロがつくるような作物だ。土日にひとりで通ったらしい、奥さんはといえば、田舎はきらいだそうだ。この間、お向かいからもいただき、藪川からも買ってきて、生協からも届いていたから、野菜がいっぱいになった。休みは手料理のおいしいものを食べられてご機嫌だ。もう、寝る。

2010年8月29日日曜日

岩洞湖ライブ


 新幹線の改札口を出たところが集合場所だ。私に向かって軽く会釈をする年配のご婦人がいる。見覚えのある人だがとっさに思い出せない。そうこうしているうちに、集合場所にいるらしい人たちの中に見覚えがあって、ようやく思い出した。銀座のあのお店の人たちだ。どうもお店の全員がいるようで、全員の顔を覚えていた。私も私で、ほとんどめろんめろんに酔っ払って2次会に連れて行ってもらっただけのお店なのによく覚えていたものだ。強烈な印象があったのだろう。オールディーズをライブで聞かせる迫力のことを。

 昨日はこの人たちともう一つのバンドの人たちの野外ライブだった。見事な演奏と歌を楽しんだ。バンドは、ボーカルが若い三人で地元の盛岡の人たちらしい。うわさには聞いていたが、今年で8回目らしい。案内をいただいて初めて参加した。ライブ終了後の炭火焼きのバーベキューでは肉はもちろん、すごい量の食材で、宮古港から取り寄せたというさんまを今年初めて食べた。生ビールも飲み放題状態で、ついつい飲んでしまった。とうもろこしといんげんがすごくおいしかった。それで今朝、売店に並んでいたので、お土産に買って帰った。用事ができて参加できなかったつれあいは、とうもろこしが大の好物だ。おいしい、正解だった。

 トイレに起きて、よく見れば10人分ぐらい布団が敷いてある大部屋に4人しか寝ていない。しかも5時だというのに皆起きて出かけた。間違いなく飲みすぎ食べすぎ、胃薬を飲む。水が冷たくておいしい。外を見れば湖(川を堰き止めた人造湖)のほとりの、赤松と白樺が美しい。この「活性化センター」という施設は一流ホテル並みの立地だ。設備も整っている、Oさん曰く「典型的なハコモノ」。涼しい、クーラーなど不要。冬は寒くなるところらしい。昨夜は夜空をみることもなく、倒れるように寝てしまったようだ。

2010年8月27日金曜日

退治、対峙


 はっと見ると鎮座するテレビの横の畳にゴキブリ、りっぱなクロゴキブリだ。かねて常備のはえたたきをそっと手元にもってきて、ねらいを定めてパシッとやったが見事に逃す。心のどこかに「逃げてくれ」という“本心”があったと妻殿は言い訳する。この間(あいだ)、壁を伝うヤツを一発でしとめた私クラスに言わせれば“邪念”に過ぎない。とまれ、出没するようになった。敵は幾万ありそうな様相。粘着式シートやはえたたきでは間に合わないようだ。外壁に見かけるヤモリさんにはいってもらうわけにも、ちといかない。「こちらにも考えがある」とまるで菅総理のような追い詰められた立場。この際、手段は問わない。これが食品工場であったらこんなものではすまない。でもどこにでもいるし、侵入するのが実態。人間が自分だけの環境を考えていたとて、ゴキブリはあちらから共存してくるたくましい生き物。さて、

 この暑さ、水遣りを済ませて、明日は気合でウコンとジャワコーヒーを飲んで出かけよう。朝食にはホットケーキをお願いした。

2010年8月26日木曜日

俘虜記・野火


ほるぷ出版の「日本の文学」78はこの歳になると字が大きくていい。
早飲み込みで、短慮の私が大岡昇平の本を手に取ることにした。

心を少し入れ替えて、歩くことにした。階段も使うことにしたが、止まってしばらくすると汗が吹き出る。へその下10cmぐらいのところに力をいれる。背筋を伸ばす。

昼休み帰る途中、路上のお弁当屋さんが「しょうが焼きのお弁当しかありません」と言っていたが、「しょうが焼きのお弁当があります」と言うのと、どちらがいいのだろうと通り過ぎながら考えてしまった。

2010年8月24日火曜日

きはいだぁ、気合だはあ


 筋肉痛がようやく和らいだ。激しい運動をしてすぐに筋肉痛に襲われたから、体がさほど老化はしていないと解釈したのだが、回復するのに4日もかかるなんてやっぱり老化しているとしょげる。7時になるともう暗い、今日はまんまるお月様だ。秋に近づいていることはわかるが、昼間の暑さったらない。エコ設定とはいえ、職場にいればクーラーの中だ。1日せめて8,000歩と考えているが、ちょっと外には出られない。階段の上り下りもいつのまにか避けている。体重はたいして変わってはいないけれど、体形が重力に負けた姿になっている。腹なんぞボテッとしてきた。喉が渇く、すると職場にある自動販売機で炭酸飲料をついつい買う。炭酸はコーラしかない。これじゃ、アメリカ人だ。5年前にアメリカで見た右も左もメタボの人で目を丸くしたのを想い出す。食欲は問題ない。梅酢をサワーにして飲めばなぜか、アルコールを飲みたい欲求を抑制できる。クーラーにたよらずなんとか眠るようにはしているが、暑さに目が覚める。亡き母親が起こしたわけではないようだ。

 『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』(澤地久枝/佐高信 2009年6月 岩波書店)を読みながら、本だけは読まなければと自らを奮い立たす。バテバテで、生きているとしても。お向かいさんから、ゴーヤをいただいた。つれあいもコンクールにむけて練習に励んでいる。
 クミコさんがNHKでINORI~祈り~を歌った。

2010年8月23日月曜日

命日


 一年経てば曜日が一日ずれる。あの日は土曜日から日曜日にかけてだった。

 危篤状態で駆けつけたが、母親は酸素マスクをつけて胸を上下する呼吸をしているだけの姿だった。小康状態を保つような、長丁場になるかもしれないと考えて、一旦、旅館へ引き揚げた。姉も疲れている様子だった。風呂に入り食堂で食事をとり、部屋でテレビをつければ思い出のメロディをやっている。一休みしたところに携帯電話が鳴る。施設から、こうこうこういう症状だからと連絡。婉曲に言われるが、要するに小康状態どころではないらしい。ということで、準備をしてすぐに施設に向かう。

 全部暗くなった土曜の夜の施設の中で、母親の部屋だけが煌々と明かりが点いていたことが印象に深い。つい夕刻のときよりも、手足の紫斑が進んでいた。呼吸が止まり初めて緊張する。「さちこさん、さちこさん」と介護士さんが必死で呼びかける。呼びかけながら手足をさする。それを真似て私たちも冷たくなっていく母親の手足をさする。すると呼吸が戻ってくる。何度目かの呼吸が止まったときに、それっきり呼吸をしなくなった。

 看護士さんに死亡を確認してもらい、かねてから母親自身が友の会に入って手配していた葬儀屋さんに連絡をとってもらう。真夜中だったが母を斎場に搬送することにした。この施設にはここにこういう出口があったのかと妙に感心した。真っ暗な中でそこだけが明るく灯が灯り、夜勤の皆さんがみんなで見送ってくださった。その情景が心に残った。

 この一日がものすごく長く、疲労したことを想い出す。また、今日と同じく猛暑だった。

 今日で一年が過ぎた。もっと美化した母を描こうと考えていたら、とんでもない夢をみて不思議な体験をしたものだ。

起きたこと


 パソコンがだめで、電気屋さんに行ったが決心がつかない。昨夜は疲れとほろ酔いで、ブログも入れずに早く寝た。

 私は霊魂を信じない。

 それが心に重荷があるときのように真夜中に起きる。まだ1時すぎではないか。台所に行って麦茶を飲む。寝所に帰ってハッと気付く。そして少し鳥肌が立つ。母が亡くなった時間だった。偶然にしては…。しかも、よく考えてみれば直前まで母親の夢をみていた。母親が変な容器に食品を詰めていて、それが弁当だという。うなされるようにして起きたのだった。でも、そんなことはすぐに忘れて、ただ目が覚めただけのことと思ったのだけれども、直前にそんな夢をみていた。母親の亡くなった時間にぴったし一致する。まったく無意識だった。偶然だろうけれども、驚くこともあるものだ。

 今日が母親の命日であるのは、かねてから意識はしていた。穏やかに過ごそうとは考えていたのだが。

筋肉痛


 土曜日のことだ。仕事を終えてへとへとだったが、気持ちいいよ、スカッとするよと誘われた。

 上半身を防御し、さらに攻撃するためには両手の拳を頬の高さにあげて常に構えていなければならない。激しい音響とリズムに合わせて、ジャブ・ジャブ・ストレート・フック、下がってダッキング、ストレート・フック・ストレート、ストレート・フック・ストレート、ダッキング、ジャブ、ジャブ、ストレート、顎があがる、息が切れる、心臓がバクバクする、もうパンチもなにもかも順番がめちゃくちゃになる。単純な繰り返しなのだけれども、ついていけない。一時間が永遠に続くような気が遠くなるようだった。もう、風呂に入っても何もする気にならない。疲労困憊。直ちに筋肉痛。

 5年ぶりぐらいの、いきなりのボクササイズ。私を誘ったつれあいは不思議そうな顔をしている、スカッとしなかったぁ、と。いまだに筋肉痛が続き、動きがままならない。とほほ。

2010年8月20日金曜日

うちの苦瓜


 ゴーヤが収穫できるようになった。もっと大きくなるかなと思っていたらすぐ黄色く熟してしまったりする。あんまり大きくはならない。それが調理するとすごく苦い。そういえばこれが本来の味だ。苦瓜だ。今売られているものはどこの産地のものもそう苦くない。
 全国区になったよねと妻殿と話す。私も福岡に住んで初めて知ったもの、と。30年以上も前の話だ。
 朝夕せっせと水をやる。今朝の出勤時は久しぶりに猛暑が和らいだ。

2010年8月17日火曜日

命名


 我が家には代々とかげの家族が棲みついている。子どものとかげが出てきた。この子は近づいてカメラを向けても動じない。鈍感なのかオオモノなのか。

 妻殿によれば、うちの長男が初めて発した言葉は「ヨイショ」だったらしい。姉のところの一人王子様の初孫は、今「ドージョ(どうぞ)」という言葉を発し始めた。さて、まだ見ぬうちのソータローくんは、なんて発するのだろうかね、とうちのバーバと朝一に起きがけの言葉を交わす。

2010年8月16日月曜日

たまらんわい


 もっと歳をとって、もしお金もなくクーラーもなかったら、熱中症で倒れて死んでしまいそうだなと思えるような、燃える様な暑さだ。この県は不思議なことにそういうことで亡くなる方が多くてニュースになる。インドネシアのブラックティーを新たに開けて、熱いお茶をがぶがぶ飲む。頭頂と頭側(とうそく)と、手の甲と腕から玉のような汗が噴出す。タオルが濡れタオルのようになる。ベランダに行けばまるで熱風乾燥室のようだ、干した布団が熱い。夜、この布団に倒れこむと気持ち良いが、また寝ている間に汗が吸い込まれるように吹き出てぐっしょりとなる。

 陽射しと日陰がネガとポジのようだった生まれ故郷の南国育ちの私が、ちとまいっている。う~ん、歳とったかな。

 夜遅く仕事を終えて訪ねてくる息子のためにゴーヤを収穫し、ビールを余計に冷やしておく、風呂掃除をする。ゴーヤは干し桜海老と一緒にかき揚げを試そう。そうだ、モズクも。

明けやらぬ闇に


 あまりの暑さに夜中の1時と4時に目が覚める。どこかの駅のプラットホームにいる夢を見ていた。すっくと立ち上がり、起きていようかとも思うけれども、昼間にダウンするからと考え直す。横にはなるがもう眠れない。

 生きた証、生きている証を求めたいのだろうか、過去とモノをとっておきたがる。きれいさっぱり捨てられればいいのだけれども、こだわってしまうと憂鬱になる。つまらぬことと考えつつも、こだわりに付きまとわされる。生まれ変わる器用さはない。身のまわりと頭の中を空っぽにする修行がたりない。

 暑さのせいにできないことはないけれども、日曜日にやろうと思っていたことを何もしなかった。「無為に過ごす」これをやってしまった。私の人生のようでときどき落ち込む、俺ってなんだろうと。

 払暁の闇に、蝉の音が聞こえる。頭の中の世界に生きている。あきまへんな。

2010年8月15日日曜日

美と醜


 政治向きのことに触れると、何だか声高に叫んでいるようで空しくなってくる。ただ、これだけは言える、戦争は醜悪であると。

 ひと目見て何か違うな。いつもと違う、ただようもの。もともと妖艶な雰囲気があるつくりの人だけれども、きれいだ。モノを物販する媒体ではあるけれども、きれいだ。「KINARI」の8月1回のカタログ。自宅なのだろうか、いつもこういう背景でインタビューに応じるようだ。「あの日 昭和20年の記憶」8月9日の証言(NHK2005年)も。
 美輪明宏さんは人生の大先輩だが、みかけとは違って私はこの人に“九州男児”を感じる。その九州男児とは何かと問われれば窮するのだけれども、敢えて言えばシャープな潔さ、暖かさだ。醜いモノ、汚いコトにたいしてはっきりしている、きらいだと。若い人たちがこの人のコンサートを聴きにきているらしい(「週刊金曜日」2010年8月6日号)。

2010年8月14日土曜日

あの夏の思い出


 東京の一流のデパートで金にいとめをつけずに買ってあげたいと思うことがある。それも老舗のデパートで。ゆったりとした靴売り場を横目に見てふとそう思った。ただ、つれあいにはいやだと言われるだろうとも思った、デパートの値札では落ち着かないから。
 昨日の昼休みにぶらりと訪ねて行ったら催事場で古本市をやっていた。随分と揃っている。常日頃、本のリサイクルショップで流行り本だけに良い値がつき、良書が二束三文同然で扱われるのを快く思っていなかった。古本屋さんの本は大切に扱われているようでほっとする。好事家の、マニアの、学術のどの本も、作品集も全集も尊重されるように流通してほしい。堅くて真面目な本を読まなくなったのだろう、刊行されて久しい貴重な本が二束三文になっているのが嘆かわしい。

 マイカーのワンボックスカーを運転して、家族揃って夏休み旅行の九十九里から帰る、その途上のラジオのニュースで知ったと思う。渥美清さんが亡くなっていたことを。96年8月のことだった。何を買うまでもなく、偶然目に入った古本のアサヒグラフを買い求める。前の持ち主もファンだったのだろう「お別れする会」の新聞切り抜きが挟まっていた。8月13日のことだったらしい。

 何の因果かお盆は休むことができない。それで忙しい。「ボクはモーレツとヤスウリはやめましたぁ」と心で叫んでいても詮無きこと。

2010年8月13日金曜日

生かされる


 人は心の中に何かの風景あるいは情景を持っている。心象風景であったり強烈に刻まれた人生体験であったりする。それを何かに画き留めておきたい、吐露しておきたい衝動にかられることがある。それでどうなるわけでもないけれど、ひとに頷いてもらいたいことがある。ただ、聞いてもらう、目に留めてもらうだけでいい。無意識にずっとそう思っているというか、意識の底流にあるものがある。

 小走(こばしり)さんから自著『夢かなう』(2009年11月)をいただいた。題は人につけてもらったそうだ。昨年、米寿を迎えられて人生を振り返られたようだ。はずかしがっていらっしゃったけれど、催促をしてわざわざ送っていただいた。子どものころはじゅうぶんにわんぱくだったらしい。連帯保証人による親の破産、それで丁稚奉公を始めざるをえなくなった10代の青春と、軍国青年としての満州行、そして兵役とシベリア抑留。シベリア帰りという身から一家を支えるべく行商から始めたこと。ひとを助けたいという動機を持ちつづけて商いを始め、そしてひょんなことから製造事業へ。事業主として中小企業組合の活動と運動。そのトップとして常にいろいろな立場にある組合員を支えてこられた。そうして「身を起された」と私は考えている。
 仕事駆け出しのころ私は飛び込みでこの人と出遭った。企業名を書かれた紙を胸に持って駅に待っておられた初対面のことを昨日のことのように覚えている。当時の小走さんは、今の私の歳だった。その人柄と凛とした風格に、私も歳をとったらこんな風になりたい、なれるのだろうかという強烈な印象をもった。人生ずっとそのことがある。残念ながら現在の私自身のことは恥ずかしい限りだ。お付き合いを重ねるにつけ、小走さんは私の印象に違わぬ人格を身に付けてこられてきた方だった。歳月のなかでそのことがわかっていった。折につけ、身の上話は聞いていたが、どうしても断片的で、一度もっとじっくり聞きたいと考えていたが、この冊子をいただいてうれしかった。お子さんに恵まれず、ようやく遠縁の若い人に事業を継承できたと電話の向こうではうれしそうだった。
 私の第一子、長男の名をつけるとき、この人の名前からもイメージして、一字をいただいて、そうした。

 沖縄では数年前から始まっていることであるが、人々の戦争体験が語られ始めている。NHKをはじめ、その秀作を観るのに今は忙しい。人は戦争のような悲しいこと、あまりにもむごいことは思い出したくなかったのだけれども、封印それではくやしい、やりきれないそういう話がリアルだ。人生りっぱなことだけではない、えらいめにあったこともある、悔いもある、戦争体験には筆舌に尽くせない極限のことがある、だから、聞きたい。

 ひとのことを自分のことのように思える、そんな社会ができたらいい。私は生かされているのだから。人は心の中に何かの風景あるいは情景を持っている。先週の生協のカタログ「KINARI」の2ページ目を目で追った…。

乳酸菌飲料

 猛暑が続くので、買い物好きの私にカルピスを買っといてとたのまれていた。それが刷り込まれていたので、タイミングよく事情のある同じような用途の濃縮タイプの「乳酸菌飲料」を買い求めた。それですぐに届いた、ケース単位で。カルピスが欲しいとは言ったが、12本もたのんだ覚えはないと言われた。「義を見てせざるは・・・」だ、と言い聞かす。こういうとき交友のある人を面識もあって知っていてもらうのは役に立つ。ほら、あの人からたのまれたことだ、と。脳裏に顔が浮かぶ。仕事柄、在庫を負ったときの苦労をよく知っている。こんなことで役に立つのならお安い御用ではないか、しかも廉価でおいしいものが手に入る。
 そういえば昔、我が方にはそういうプライベートブランドがあった、なつかしい。なつかしいが、お世話になった中小の企業はつぶれてしまった。事情はどうあれ、共存できていない側面があって、我が身の生き残りだけを考えているように見えて、このことが今ではつらい。
 
 我が家ではカルピスタイプの飲料をこの夏、大急ぎでがぶがぶ飲むことにしている、天候よ、暑くなりたければなれ、だ。

2010年8月12日木曜日

25年目の灯篭流し


 母の初盆を迎える。昔の郷里のことであれば、親戚縁者から雪洞や盆提灯を贈られ仏壇を花で飾らねばならない。もうそういうことをやらないけれども、灯篭流し(精霊流し)というものをやってみたいものだと考える。

 彼一流の表現で「サイタマのチベットと言われている」とかなんとか言われて、夜から泊りがけで学者先生と一緒に職場の幹部である彼の運転で連れて行ってもらったのが、旧神泉村だ。美しい三波石峡や首都圏の水がめのひとつである下久保ダムのあるところで、そこを流れるのが神無川(かんながわ)だった。源流は上野村で、誘われてその村にも哲学者の先生のシンポジウムに皆で行った。さる労組の企画で『沈まぬ太陽』(山﨑豊子1999年)の主人公恩地元のモデルになった小倉寛太郎(おぐらひろたろう/1930年 ~2002年)さんのお話を拝聴する機会にも恵まれた。当時、九州にいて、いったい、どこら辺かもわからなかったことを考えれば、こちらに出てきてこういう縁があるとは想像もしていなかった。

 あの日のときのことをよく覚えていない。ジャンボ機が消息を絶ったというニュースで、お腹の大きな伴侶がはらはらしていたのに、それがどうしたみたいな反応をしていたので、それ以来ずっとこのことを責められている。お前はそんなヤツだと。たしかにそういう側面がある。暑くて、仕事を家に持ち帰る「猛烈社員」で、それどころではないぐらいの了見だったのだろう。事故のひとつやふたつではないことが、徐々にわかってきたのはその日から間もなくだった。10月には三男が生まれたのでこの子の歳と同じ歳月が過ぎた。

 以前はカラオケで「見上げてごらん」をへたなりに絶唱していたが、もともと無い声量がもっと無くなって段々唄えなくなってきた。

2010年8月10日火曜日

うちの緑たち


うかつだった。バケツ稲にボウフラがわいていた。カレンダーによると産地では出穂の時期だ。ゴーヤに水をやる。小さいけれども収穫ができるようになった。‘おおでまり’の苗は繊細な神経の持ち主のようだ。葉が枯れ損なったり蘇ったりしている。

2010年8月9日月曜日

愚・チャカ・パァー

 仕事中で、本日の黙祷をすべき11:02を逸してしまった。

 武器はいつでも脅威だ。怖いもの。身を守るといいながら武器を持っていることは、相手にとっては威嚇になる。その筋のひとがチャカやドスをひけらかして脅しをかけているのと変わらない、それを国家レベルでやっている「愚」である。

 「2発の原爆によって平和が訪れた。」「核兵器は抑止力であって平和に貢献している。」「核の傘の下にあって安全だ」と言う。あべこべだろう。核兵器を使用したあるいは保有したことによって、人類はより恐怖の世界に突入した。ありのままに見つめればそれがヒロシマ・ナガサキの実相だろう。あの悲惨が平和への貢献であるはずがない。感じないようにしているが、65年ものあいだ、そしてこれからも人類が保有する核兵器の、核の傘のもとでの恐怖の体系の中にいる。それで安全だと思い込んでいる。果てしない軍事予算。常に使えぬ矛となり、役に立たない盾となる。だれのためになっているのか。軍事および軍需産業そのもののためだろう。武器や核兵器で平和を保つというのはまったく倒錯した考えだろう。

 政権交代までした被爆当事国の総理が核抑止力に拘泥されているとは、真摯な人類の知恵と今の機運をないがしろにするものだ。平和宣言の希望に、動き出している核廃絶への期待に、ここに至っても背を向ける愚かさだ。据わった腹がないようだ。

2010年8月8日日曜日

ワインレッドの心


 沖縄の南あたりで台風が発生するそうだ。夜になったら雨になった。

 昼間はプールで、オリンピックで銀メダルを獲得した藤井来夏さんのRAIKA ENTERTAINMENT(ライカエンターテインメント)のシンクロナイズドスイミングのショーを観た。見事なものだ。

 速報によれば、「長野県知事選は8日投開票され、民主・社民・国民新3党の推薦を受けた新人の元副知事、阿部守一氏(49)が、自民・公明両党が事実上支援した前副知事、腰原愛正(63)▽前安曇野ちひろ美術館長、松本猛(59)の新人2氏を破り、初当選した。参院選後初めての大型地方選挙で、民主推薦候補が事実上の「政党対決」を制した。」(ヤフーニュース)

 11月の沖縄県知事選に米軍普天間飛行場の県内移設に反対する共産、社民、沖縄社会大衆の3党が伊波洋一(現宜野湾市長/58)さんを擁立する。伊波さんは、誠実に対応し、「本当は基地撤去だけの話ではなくて、撤去したあとのことを話したかったのです」というプランを紹介されたのが印象的だった。
 現職の仲井真弘多知事(70)も後援会幹部の会合で続投に意欲を示しているそうだ、こちらは自公かな。 「朝日」によれば、民主は3党からの協議の呼びかけには応じず、態度を留保しているらしい。また、国民新の下地幹郎幹事長に近い県議らを中心に、第3の候補者擁立を模索する動きもあるらしい(8月4日)。
 民主や公明がまた何をしでかすかわからないけど、共産、社民、沖縄社会大衆の結束、しかも明確な主張のある伊波さんだ、これだ、これがいい。先の参議院選挙ではトンビに油揚げをさらわれたようだった。再び米軍基地問題と沖縄の生きていく道が争点になるだろう、自公と変わらぬ民主では「だめさぁ」ということが問われる。「2大政党づくり」なるものでは、舵取りができぬことに直面しているから。

2010年8月6日金曜日

今年の原爆忌


 予定では、出産は今日だった。厳粛な日だと思っているから、今日なら今日でよかったとは考えていた。でも、先週無事に生まれた。それはそれでよかった。

 今朝は出勤を遅らせて、広島市長の平和宣言を聞いてから家をあとにした。旧社会党の系譜ならば、秋葉さんのようであってほしいと考えている。なにはともあれ、被爆者援護と核兵器廃絶は人類の急務だ、思えば今に始まったことではない。国連の潘事務総長、米国のルース駐日大使が初めて広島の平和記念式典に出席した、ようやくの観があるが、一歩進み出していることになるのだろう。菅さんは、平和宣言を聞いても核抑止力は必要だと水をさす。昨夏の政権交代の熱気はなく、旧態依然。失望と閉塞、何も変わらず小泉さんと実質的に同じことを言っている‘みんなの党’に引きずられる観すらある。短命政権はなにをしでかすかわからない。

 いつも会っていたいと思っていた。労組でヒロシマまで来たそうだ、新幹線ですぐそこだったが会いにはいけなかった、私はこちらの労組でナガサキに派遣された。それから30数年が過ぎた。めぐりめぐって、今はいつも二人でいる、そして今日の日のことを互いに考えている。言葉を交わす。

 風が強ければ夏でも茶畑の間から富士山が見える。猛暑であったそうだが、今日は職場から出でなかったので体感はない。こんな日の65年前に初めて核兵器が使用された。科学は知的探求やひとびとの幸福のために発展してほしいと思うものだが、近年の金融工学など悪知恵としか思えぬ発達をすることがある。人間は科学を人間のために役立たせることができるはずだ。

 クミココンサートの予約券を持っていて、ずっと先なのだけれども楽しみにしている。きっと『祈り』を聞くことができるだろう。

2010年8月5日木曜日

『街角花だより』


 本当は昼間のBSで録画しておいた山本薩夫監督の作品「箱根風雲録」、「真空地帯」、「荷車の歌」「氷点」、明日は「忍びの者」、「続 忍びの者」を楽しむ予定だったが、国会中継で延期になってしまった。別に録画しておいた「逆境を力に変えた熱血監督 ~山本薩夫生誕100年~」(BS2 8月2日放送)を今晩観て、なおさら早く観たいなと考えている。録り損なわないようにしておかなければ。
 また、あれこれ“戦争と平和”を考えさせられる番組があって楽しみだ。あの15年戦争は私にとっては伝聞であって経験や体験ではない。‘語り継がれて’おきたいと考えるが、さて我が子たちに、若い後輩たちにそれをまたバトンタッチできるのか、ちと不安がある。

 本日も暑かった。昼休みは外に出ることにしている。まるで決死隊のようにビル街に出て行く。本屋さんかCD屋さんだ。地下の魚屋さんも楽しい。クーラーがよく効いている。「便乗刊行した」と帯に書いてある、山科けいすけさんの『サカモト』(新潮文庫2010年3月)を、便乗買いしてしまった。吊り広告につられて神野直彦さんの『「わかちあい」の経済学』(岩波新書 2010年4月)を手に取ったら買った。本当はこうの史代さんの『街角花だより』(2007年 双葉社)だけを買い揃えるつもりだったのだけれども。
 74mmの茶漉し網(日本製)を台所屋雑貨店で買った、あのすっぱい「ハイビスカスティ」をガラスのポットでおしゃれに飲むためだ。暑さに負けぬためには、奄美のうこんと麦芽飲料をこんせんくんの牛乳で割ったものか、ハイビスカスティ、あるいはインドネシアのチャイコーヒーのいずれかを朝、余裕をもって喫食するようにしようと思う。

 さて、いよいよパソコンの作動が鈍くなってきた。

2010年8月3日火曜日

万歳


 外国の軍事基地がなければ安心して暮らしていけないのだろうか。消費税率を上げれば財政が健全になり社会福祉が充実するのだろうか。基地は撤去できない、そして消費税率アップしかないと思っているのが国会での多数の政党政派であるようだ。国民の多くもなんとなくそう思い込まされている。
 では実際の民意はどうなのだろう。圧倒的に米軍基地を抱える沖縄の住民はたまらないと考えている。これを多くの人々が我がこととしてとらえるのにはまだ時間がかかるのだろうか。今度の選挙によってもそうだが、消費税はこれ以上、上げないでほしいというのも本音だ。政党政派の議席数と民意のバランスがおかしい。小選挙区制という制度はやはり歪んでいると言われる所以だ。

 この人は年々話がうまくなるなと感じた。最後に万歳でしめくくる所作も板についてきた。

2010年8月2日月曜日

あばよ


 製品の異臭発生の原因の検討で帰りがずいぶん遅くなった。

 それで、楽しみにしていたNHKのBSシネマ「金環蝕」(山本薩夫監督1975年)を途中からみるはめになった。四条河原町近辺の封切館で観てから35年ぶりだ。当時これがデートだったから硬派の方だった。

 舵をとる、ハンドルを握るとは、思いのままにできるという意味でいいかもしれない。
 現代人にとって身近な組織とは会社などさまざまあるが、もっとも大きな組織といえば国家だろう。私たちはその国家に属している。国家のハンドルを握ろうという大きな志も結構なことだとは思う。思いのままにできるかもしれない、さように権力とは想像を超えるほどのものかなとは、やはり考えた。あの時の、あの未練がましい涙をみたとき、じゃあ普天間の基地撤去という依って立つ基盤(主張)はどうするの、と考えた。加えて選挙前には消費税増税もタブーにしないと公言していた。消費税増税は菅さんだけが言い出したわけではなかった。仙石さんもこのひともアドバルーンをあげていた。通底するもの流れとしては、このたびの離党は自然のことだったように思える。失礼だが、昔の政権党や野党第一党のオヤジたちにあったあの体臭(胡散臭さ)を残念ながら感じざるをえない。

ちあきなおみさんのカヴァー曲「あばよ」(中島みゆき)を聴く

2010年8月1日日曜日


 出産休暇をとり新妻のところから帰って来た息子の出産立会いのリアルな話を聞く。この人は四人もいてそんなの無しでその時は寝ていたからと、今更妻殿からなじられる。赤ちゃん特有の匂いがすると息子がいうと、私も長男が赤ちゃんのときのあの匂いを想い出す。息子の話には新しい命の匂いがするようだ。突然、「ぶたじる」か「とんじる」か、と訊く。「ぶたじる」だよ、といえば九州ではそうだという。「とんじる」は関東の言い方だとかねて思っていた。

 そして一週間前のはなし。先ほど兄さんから電話があったけどと、姉から電話。そしてその兄から電話。両方の肺に癌が転移していて、一度手術しているからもうできない。あと半年と言われた。それでこの前会ったときは抗癌治療をしないと言っていたけれど、やっぱりすることにした、と。動揺しているのは無理もないことで「カウントダウンだね」と言うのが精一杯だった。寝付かれなかった。