2010年7月31日土曜日

先週の発表会

 暑い。すると夕食には、つい炭酸割りかビールをごくごくとやる。もぅだめで、寝るしかない。という、そんな悪循環に陥る。「うだるような暑さ、これが好きだ」と思っていたが、実は夏バテしている。去年も、おととしもそのようだ。ブログを入れるどころではなくダウンしている。

 声楽家の渡辺昌子さんたちに指導された7ヶ月の合唱の研修を終えて、妻殿たち14人は記念の発表会に臨んだ。メンバーは中学三年生や高校生から退職を機に参加した人、音大出の基礎のしっかりした人、年齢不詳の人まで多様だ。ハーモニーができる家庭をつくりたいと言っていた夢を私のせいでそうはならなかったので、コーラスをやってみたいというのを後押ししていた。たまたま会場が長男のお嫁さんの実家の近くで、長男夫婦とあちらの両親にも来てもらった。そして発表会のあと、初めてお嫁さんの実家を訪問しご馳走になった。あちらはお飲みにならないので、すっかり一人で酔ってしまった。先週の土曜日のことだ。

2010年7月30日金曜日

グッ・ナイ・ベイビー


 山手線に乗ってメールを見たら息子からメール。今日は茨城から出向で来ていたヤツの送別会。深夜0時を過ぎた最終電車の準急で帰る。3次会まで飲む。夕方には息子の子どもが生まれていたらしい。7月29日のこと。‘おばあさん’へ「今から帰る」とメールを打つ。「東京♪」(マイペース)と「グッナイベイビー♪」(ザ・キングトーンズ)を軽く口ずさむ。小雨降りの中、無事に帰り着く。

2010年7月27日火曜日

なんで北千住?


 先週金曜日の夜は‘東京の北千住’シアター1010で千住落語会 「東西“オレ流”競演」(出演:三遊亭円丈/昔昔亭桃太郎/春風亭昇太/桂かい枝/笑福亭たま/笑福亭笑助)を楽しんだ。トリを努めた円丈さんの「悲しみは埼玉に向けて」の演目で、“なんで北千住?”の思いは晴れた。苦笑から大笑いになった。

2010年7月22日木曜日

もうひとつの

 災害をもたらした集中豪雨ばりの梅雨がいきなり明けたら、今度は猛暑が続く。リビングのクーラーが動かない。年に数回、夏しか使わないから、いざとなればこのざまで役に立たない。扇風機で凌ぐ。昔のことを思えば屁でもないが、身体が贅沢になっている。

  「いのちに始まる」(住井すゑ著 大和書房1997年5月)を読み終わった。「もうひとつの太平洋戦争」(障害者の太平洋戦争を記録する会 編 /代表 仁木悦子 立風書房 1981年)、「張本勲もう一つの人生――被爆者として、人として」(張本勲著 新日本出版社 2010年5月)を読み始める。

2010年7月21日水曜日

うつろい


 道は峠を越して行く。以前は人とモノはこの街道を通っていった。その峠にある茶屋では清水で点(た)てた茶を出し、品数は少ないが行き交う人に一服の清涼を与えた。それで繁盛したのはついこの間までのこと。いつしか山を削ってりっぱなバイパスが通る。バイパス道路には急速展開を始めた大型繁盛店ができる。顧客のニーズにあって来客ひっきりなしだ。一方、峠の茶屋はもはや閑散としている。「旅人は通らなんだ、客は無かったのう。」もうすぐ孫が生まれる初老の夫婦は肩甲骨を伸ばして、耳を澄まし遠くを見やる。昔と変わらず鳥が鳴き、見上げる雲がゆったりと流れる。「えろう繁盛しておるように見えましたが、かあさん、いろいろなことが起きておるようじゃて。」「そげですか」「まあ、一休みしてまた立ちあがることじゃろうて」「そげですねぇ、頑張ってもらわにゃ」「そう、馬力が違うけんのう、ただ、からだと脳みそ壊さにゃいいがのう」「そいですねぇ。ところで、とうさん、明日はわたし、発表会前の特訓ですけん、街にいってきます、ひとりでご飯食べといてつかあさい」「そげですか・・・」

2010年7月20日火曜日

やはり


 故郷の川は九州では2番目に大きい。
 父の実家はもっと川の近くにあった。だから水には慣れ親しんだようで泳ぎは得意だった。我が地方の人々を「ガラッパ」と呼ぶ。河童のことだ、他郷の人は「足を引っ張る」という意味の悪口でも使う。
 私が育つころのこの川は工場の垂れ流し廃液で悪臭を放ち、色は常に赤茶けて澱んでいた。だから、泳ぐことはできなかった。釣りをするとかいうこともあまりできなかった。ミミズを餌にえび釣りはしたことがあるが、そんな川だったので食べることはなかった。
 
 三回忌は故郷(くに)でやろうよ、とは兄の方から言い出した。異存はない。
 やはり母を偲ぶには生まれ育った山と川が要る。

2010年7月19日月曜日

法要


 晴れ上がった日本列島を西へ向かい、六甲山の向こう側、有馬温泉に1泊し、兄がつくった遠いお墓に行き法要に参列してきました。兄はこの墓に、何年もの間、精魂を込めてきたようで、それを披露できて安堵したようでした。私には「今の不幸や困難は先祖の霊を正しく祭っていないからだ」という構図に見えるそれらの行為と墓への執着と考えるのですが、それを言ってもはじまらない。余命幾ばくも無い兄の安堵の方が大事になってきました。有馬温泉の金の湯、銀の湯はなかなかのものでした。初めての地、久しぶりの関西、ICOCA、PITPAの世界、兄弟の家族とのふれあいを深め、長男のお嫁さんから「お義父さん、帽子お似合いですよ」なんて言われて、暑い2日間でした。

2010年7月18日日曜日

夏鍋


 夏は鍋に限る。

 まるで落語に出てくる我慢大会のようだ。火をかければ扇風機はまわせない。クーラーをかけるような愚はしたくない。鍋でいいかと誘ったら、うちの子達は受けてたつ。ナスを素材にできる鍋の素があって、汗をかきつつ発泡酒、焼酎の炭酸割りをあおる。ナスはご近所からおすそ分けをいただいた。それで、かねて買いおきの「麻婆ナス鍋の素」を試す。

 今日も予報によれば34度ぐらいになるそうだ。さあ、パナマハットをかぶって出かけよう。

2010年7月17日土曜日

梅雨明ける


 陽射しが出たと思ったら、南の高気圧がすぽっと抜けたように「梅雨明け」宣言になった。

 関東では局地的雷雨を経験したが、西日本では集中豪雨による深刻な被害が出た。いずれも異常な現象に見えるが、根っこには国土の荒廃があるように考えられる。日本人の高齢化、都市への集中、とくに東京への一極化は、農業を見捨て、とくにこの列島に多い山間部の荒廃を招いたと言われる。被災地の報道画面にはりっぱな道路や建設中の高架や護岸、防壁があるのが見える。そういう人間の開発行為や小手先の防災工事には関係なく、唐突に見える被災地の姿がある。農業・林業という生産行為と自然との共生を放り出してしまった必然の結果が、集中豪雨を偶発的きっかけにして起きてしまったむごい災難というように見えてならない。梅雨が晴れた、さあ夏だ、という気分で迎えるには、つらいニュースが多すぎた。

 普天間・辺野古、宮崎、関心を持続しつつ、早起きでベランダの植物に思いっきり水遣りをした。私の不注意でストレスをかけた‘おおでまり’が少し元気になって葉が出てきた。苦瓜が繁茂するほどではないが育っている。バケツ稲はそこそこで、ボウフラは湧いていない。ハイビスカスが次から次に咲く。明日は新幹線に乗って法事に出向く。この暑さだから白ワイシャツに黒ネクタイで勘弁してもらおう。まだ意識のあった母に最後に面会したのは昨年の今頃だった。

2010年7月16日金曜日

ながい付き合い


 仕事のお付き合いから始まったが、九州どうしで、なんとなく馬が合い、仕事を離れてお付き合いしている。その二人が上京するタイミングが合うときにたまに飲む。

 Hさんは定年をあと2年残して辞めて、それから2年になる。営業をさせれば猪突猛進型。必ず成績をあげる。この人にきらいな商品、きらいな売り先はない。好き嫌いを出さない、新しいものはすべて吸収する。

 Sさんは老舗の会社の堅実な営業マン。じっと売り先に合わせる。石橋を叩くまではないが、木の橋か石橋かといえば石橋を渡るタイプ。好き嫌いを決して表には出さないが、好き嫌いはある。会社がモノづくり、地域に根ざしたいいものを社会におくりだしているから、私もふくめて三人ともそれぞれの商品には誇りをもっている。
 それで、半年ぶりに三人で飲んだ。Hさんは新しもの好きでiPadを使いこなしていた。700gらしい。タッチパネルで本をめくるようにするんだと扱ってみせる。二人でもの珍しげに見せてもらった。うちの血統はみんな70そこそこで死んでいる、それを考えれば今元気なうちにやれることをやっておきたいという。金をあの世に持っていけるわけではない。家は九州にあるが、東京にもマンションを持っていて娘さんが住んでいる。東京・大都会大好き人間で、便利だからと半分は東京に出てきて、東京を足場にしてあっちこっちに行っているらしい。Hさんはエネルギーを持て余している。

 Sさんからはあとからメールがきて、趣味なし人間なので定年後が不安だ、二人がうらやましいと。Sさんは会社の執行役員にまで引き上げられたがあと2年だ。

 仕事人間、積み上げた経験と能力、営業で培った人あたり、まだまだ役に立つ。

2010年7月15日木曜日

ここに来るひとたち


 インストラクターの先生が「本格的な夏になりますから、予防策を伝授しましょうか」と、みんなに訊いたら、ここに集まっている人たちは「夏バテしない、夏痩せしない、食欲不振に陥らない」みんな、そういうことらしい。この中では私は若い方だと思うけどさすがに驚いた。それで大笑いになった。よし、それでいこう。

2010年7月13日火曜日

しまり、けじめ


 遅く寝て早く目が覚めて起きる、早く出勤して緊張のときを過ごし帰宅し飯を食うとくらくらときている。こうしてときどき悪循環に陥る。どこかでぐっすり寝るかして断ち切るか、早く寝るなりけじめをつくるしかない。
 思えば菅さんも、テレビに出ていた仙石さんも枝野さんもはぐらかしをやっている。枝野さんの低姿勢でも死んだ振りでも聞いた振りでも、民主党幹部のお三方の、上から目線の違和感を見てしまって夏にもかかわらず寒い。田中美智子さんは発足当時から、内閣支持率いきなり60%のときから「菅短命内閣」と名指ししていたが、ホントになりそうだ。
 変えてくれ、生活第一に変えてほしいと多くの人は期待した。おぼっちゃまくんのような億万長者の鳩山さんのほうがずっと能天気とはいえ苦悩しているように見えた。菅さんも、仙石さんも枝野さんもおぼっちゃんではないので、頭の中でぐるぐる計算をしているように思えてならない。延命のために糊塗のために、とんでもないことをしでかしてくるような気がする。
 寝るしかない、起きたら明日はよくなっているのだろうか。変えるしかない・・・。

2010年7月12日月曜日

はげまし


 研修でスキルアップですか。頑張って腕前をあげてきてください。
 でも、私は「壁」に向き合ったり、悲しいことに立ち向かったり、想いをかけたりかけられたり、たすけあったりして皆と一緒に生きていけるような人生を「学ぶ」方が好きですが。

2010年7月11日日曜日

みんみん


 民・みん・自民が民(たみ)の声、投票結果となった。新自由主義は息の根を止められるどころか、おおいに息を吹き返す。民・みん・自民の根は一緒だと考えるが、今回は「振り子が右へ振れた(片山さつきさん)そうだ」。アメリカ依存、市場至上主義、世襲家殿様政治、人より企業、政党助成金温存、現場公務員削減(「ムダ削減」)、増税、競争と格差の温存の大連立という政治的流れに再び向かう。それを加速させないのが精一杯のように思える。貧困問題、浪費的環境破壊への抵抗、農業・食糧などへの取り組みは地を這うことになる。一見、主張が似ている共社はいつまで背を向け合って泡沫化しているのだろう。民(たみ)の油揚げは「みんな」さらわれた。

2010年7月10日土曜日

むかしむかし


 父は話し上手だった、場を盛り上げた、それでもてた、という話を聞くが、そういう父を知らない。むしろ、信じられない。病弱だったせいか神経質だったという印象しかない。

 『米原万里を語る』(井上ユリ、小森陽一編著 09年5月 かもがわ出版)を読んでいて思い出した。

 父も気まぐれに幼い私に昔話をしてくれた。それも、まともではない昔話。父のアレンジした話。今考えればパロディ化したもの。
「よかか、モモタローは鬼が島から帰ってどげんなったとか?」「知らんど」「よかか、・・・」
「ウラシマタローはじいさんになってどげんしたとか、知っとうか?」「知らん」「よかか、聞け・・・」そん次はどげんなっと?「こん次じゃ、もう寝れ」と言われたような気がする。寝つきのいい方ではなかった。父は私を寝かせねばならない事情があったのかな。
 中味は覚えていないが、「ほんのこっ?」(本当の事)と訊き返すような奇想天外、独創的な話だったように覚えている。文字通りお伽噺だった。

 いま、私の頭の中にはほとんど昔話がない。忘れてしまったのかあまり知らないのだろう。水木しげるさんも米原万里さんも‘ばあ’や父親から昔話を豊富に聞いて育ったようだ。口承伝承だ。私は父親を真似て少ししたことはあるが、基本的には「むかしむかし、あるところに・・・」と子ども達に語った記憶がない。テレビの「日本昔話」やアニメに任せてしまっていた気がする。

 これから少し、昔話を身につけてみたいなと考えている。

2010年7月9日金曜日

パナマハット


 ある集会でさる労働組合から民衆交易のエクアドル産パナマハットを1,500円で買った。ふつう、民衆交易品の方が高いはずだが、JR東日本の通信販売だと6,000円だ。グレードがいろいろあるのだろう。モデルが着用していると格好いい。この夏はこのハットを被ってどこに行こうか、そうだ、とりあえずは有馬温泉と三田(さんだ)に行こう。兄は声もかすれ、文字もよれよれだ。自分でも長くないと言っている。父母のお墓をつくったことと祭ることに全身全霊とお金をかけているようにも見える。私はそのことには批判的だが、言ってもはじまらない。兄弟みんなで語ろう。
 あと、お誘いをようやく受けて藪川にも行くことにしているが、雨に降られなければいいのだけれども。列島の西へ、東へパナマハットをかぶっていこう。伴侶から斜(はす)にかぶれと忠告される、お前のかぶりかたは幼稚園児のそれだと、なるほど。

2010年7月8日木曜日

昨夜のこと

  「人類の母性は人以上の人を生まず 人以下の人を生まず」 (住井すゑさん)

 昼間までにぐっすり寝て、夕方出かける前にこの本読んだらと渡しておいた。『母 住井すゑ』(増田れい子さん、1998年1月 海竜社)。それで、帰ってきたらもう読み終わるところだった。「へぇ、早いこと」「だって、難しくないし、字も大きいし、おもしろいんだもん」それより、住井すゑさんのこと(母親としての素顔)知らなかった。そうでしょ、世の中のことずばっと言うし、こわい人だと思っていた。食べ物つくるところ、おいしそうでしょ。それに昔の人は歩いたんだねぇ。お袋より10歳上だけどそういうところは一緒だ。牛久から8kmほどの藤代ってどういう方向だっけ、と地図を取り出す。
 
 で、今宵の集いどうだったの?と訊かれた。ん、3月10日、7月7日って流れがあるみたい(『きなり歳時記2007~2008』/増田レアさん 2009年 マハラバ文庫/の朗読会の開催日)。おもしろかったよ。「戦争責任」って前にも口にしていたし、彼女には何かの思いがあるんだよ。メッセージが。
 んで、何食べたの?「健康食・・・、で、あなたは?」「納豆と昆布煮たの」それだけ?そう。お互い健康食だね。

2010年7月7日水曜日

記念写真


 久しぶりに会った、またいつ会うかわからない。以前の私だったら間違いなく揃って記念写真を撮っていただろうに、それをしなかった。邦雄さんご夫婦。おんちゃん夫婦といとこ。
 人が入らぬ写真を撮ったことはめったになかった、それがブログを始めて、逆転した。写真は人と自分の出会いか自分や家族の記録のためにしか撮っていなかったから。
 また、会いに行くしかないのかな。

 疲れを少し感じて休みをとる。朝寝ができた。溜ったこともしなければ。

2010年7月6日火曜日

サン・ファン館見学


 駅に行ったら本数の少ない便にたまたま間に合ってとび乗った。最寄駅まで行けばタクシー代もそうかからない。駅からのタクシーの運転手さんが、以前はここも船大工だったの、ここもと教えてくれる。小さな造船所らしきあとが海に向かって並んでいる。三陸海岸には「たくさんの船大工がいた」と過去形になりつつある。東北中の船大工さんたちと木を集めて、400年前に太平洋を渡った帆船の復元をしたらしい。伊達正宗が送った慶長遣欧使節の木造西洋式帆船バウティスタ号のこと。1613年月浦(現宮城県石巻市)から出航する。西洋人の設計と航海術があったとはいえ、当時の世界でも最新式の帆船を自力で建造し、使節の送り迎えで太平洋を2往復したというのは驚きだ。

 はるか昔、たしか長崎県の主催だったと思うが、招待を受けて特産物の展示会を観に行ったそのコースにハウステンボス見学が入っていた。同じように当時の南蛮船が復元されていて内部を見てまわり思いを中世の大航海に馳せたものだった。ちなみに平日だったこともあるが大きな施設にあって閑散としていたが、案の定、後日経営破たんした。そのことを思い出した。ここ宮城県のミュージアムも広くしかもりっぱな施設だ。

 支倉常長およびビスカイノ船長の部屋の木製ベッドを見て目が丸くなった。幅60cm、長さ150cmぐらいしかない。最初、常長って当時の人は背が低かったのかなと思ったが、西洋人のベッドも同じだ。身体を折り曲げて使ったらしい。この二人だけが特権で、乗組員180人の残りの人は寝るのに横になることもできなかったらしい。練る時は膝を抱いて寝たそうだ。ただでさえ命がけに加えて決して快適ではないこの条件によく耐えられたものだと感心する。梅雨の合間にここをあわただしく見学して、ローカル線に乗り三陸海岸へと向かった。三陸の駅で降りたら、やはり別の組のいとこ夫婦に出遭った。前の前の、日曜日のこと。

2010年7月5日月曜日

「老婆の休日」


 貸していたETCカードを、息子が返しにきたので夕食を一緒にした。土曜日なのでくつろげるらしい、ビールと焼酎を飲む。この息子はいけるくちで、普段の日は勤務に差し支えるという理由で深酒はしない、これは感心するほど徹底している。
 よい機会なので、この間大枚はたいて買ってきた桂文珍のDVDの外装を初めて解く。「桂文珍10夜連続独演会」(2008年4月4日から13日までの独演会をハイビジョンで撮影、5.1chサラウンドで収録)だ。その『第1夜』をいっしょに鑑賞。演目は「老婆の休日」と「らくだ」。迫真の演技。この前の公演のときも同じような間合いだったが、なんだか歳とともに貫禄が出てきているような気がする、年齢的には当然だけれども。この人は若々しいほうがいいな。

郵政民営化?


 日通と一緒になった‘ゆうパック’が著しい荷物の滞留を惹き起こしたという日曜日の朝刊のトップ記事を見てよくわからないけど郵政民営化の弊害かと思っていたら、他人事ではなくて、どうも私が手配していたお中元がひっかかったのではないかと考えられた。そういえば、昨日届くはずで、律儀な人はその日の内にお礼の連絡を寄越すが、来ていない。生ものではなくてよかったが…。

2010年7月4日日曜日

西武戦線異状なし


 この前のいとこ会のスナップや記念写真をプリントしましょうということで久しぶりにキャノンのプリンターを起動した。そうしたら3色ともインクが切れている。インクを補充するタイプのものを以前に買っていたのでこれで装填したらうまく色が出ない。しかも、筋が出る。これでプリンターがだめ。どっかの店頭でSDカードもって行って写真やいてもらいましょうとなった次第。実はそれやったことがない。

 今月の発表会は、最後は白いパンツと水色のTシャツでおそろいにしましょうということになったらしい。それでユニクロに行きたいというので、車を出そうとしたらエンジンがかからない。また、これだ。バッテリーだろうと思う。買った車屋さんに連絡をとる。とりあえず、車で行くのはやめて、自転車で一緒に行く。ユニクロもいいけど西友も同じようなマーチャンダイジングをやっているから見てみようと足をのばす、いい運動にもなるし。低価格で色とサイズとデザインとの品揃えはアメリカ仕込みだ。ウォールマート西友で買った。ところで、車は結局、バッテリーだった。「いやぁ、この車種はもう手に入りませんからね、しかもこのテリー伊藤のデザインなんてもう垂涎の的ですよ」なんて、当時売ってくれた営業マンはしきりにおべんちゃらを言う。「きれいに使っていらっしゃるから」ときた。冗談じゃない、車を洗ったことなんかないし、現に滅多に乗らないから窓なんて土ぼこりだらけ、愛車には悪いけれど。

 蒸し暑く、夕方には激しい雨が通り過ぎた。この前の局地的な雷雨でクーラーがいかれたところがあったらしい。それで、うちもかけてみたらリビングのクーラーがかからない。あのときのせいかどうかわからない。とにかくクーラーは滅多に使わないから。

 今日はこんなことで出費と、落ち込むことと。しかし、こう書き連ねるとやっぱしエコをやっているのだけれども、じゃあなんで使いもしない、使いたがらないプリンターやクーラーや車をもっているのかということに行き着いた次第。はて、さて。

 貴重な休日が過ぎてゆく。西武戦線異状なし。バケツ稲は順調、草取りの必要もなし…。

2010年7月3日土曜日

志津川のおんちゃん


 見たことのある妻殿のおじいさんの写真があった。それはそうだ叔父さんの家なのだから。舅殿を、ふたまわりほど恰幅よくしたような人だ。豪快に笑う。

 名勝の神割崎を見物して、志津川の駅まで車で送ってもらって窓口を覗いた。そうしたら、次の列車は二時間半後だ。いくらなんでも一時間に一本ぐらいはあるだろうと思っていたのが甘かった。前の列車は一時間前だったから昼間は三時間半に一本ということになる。町のパンフレットがあって地図もあったから町の見物でもして時間をつぶそうということになった。

 この町は1960年のチリ大津波のときに大きな被害にあっている三陸の漁港だ。湾ではホヤ、ワカメ、そして銀鮭の養殖が盛んだ。何か町起しにも取り組んでいるらしい。

 「志津川のおんちゃん」という叔父さんの家があることを知ってはいた。妻殿は小さいときに来たきりだから場所は覚えていないという。それで私が先導して、あてずっぽうに町へ進んだら一発で見つけてしまった。妻殿の実家と同じ屋号で同業を営んでいる。見ればりっぱな構えで往年の繁盛振りが窺える。ほかの従姉妹もいて、ぶらりと来ていきなり訪ねて行くのはいかがなものかと思えたのだが、妻殿は迷った末、決心してあいさつだけしていくということになった。恐縮していたら、「毎日が日曜日ですから」と叔母さんにも言われ歓待されてしまった。妻殿は父方の従弟にも再会して昔話に花が咲いた、二つほど年下らしい。息子四人で娘のいなかった叔父は姪っ子の妻殿をずいぶんかわいがっていたように思える。情の厚い叔父のようだ。当然妻殿の実家の話になって兄貴は92になるという。舅殿より四歳下であるらしい。かくしゃくとはしていたが、大病を患ったと聞いていた。

 この妻殿の叔父さんは私達の結婚当初、遠い九州の片隅で「どこの馬の骨」ともわからぬヤツと結婚したかわいい姪御が心配だという趣旨の長い手紙を毛筆で書き連ねて寄越した。そのことがとても印象に残っている。その後、慶弔などで会うことはあったが、このたび初めて自宅を訪れた。なにか、肩の荷が下りた気がした。

 ぶらり訪問の手ぶらで行ってお土産までもらってきた。帰ってきてから手紙を添えて「今治のタオル」をお礼に送った。

2010年7月2日金曜日

再会初対面


 「嵐の気仙沼」というNHK仙台放送局がつくった番組を録画して観た。題名からして、いったいどんな中味なのだろうかと思った。大型台風が襲来して三陸沖に操業していた各地の漁船が一斉に気仙沼港に避難してくる。漁師たちの一日を追った重層的なドキュメンタリー。放送文化基金賞を受賞した番組、なるほど秀作だった。小学校のころ「さんまの水揚げ日本一」と習った。それは往年の話で、すっかりさびれているが「嵐の気仙沼」の一日だけはまるで往時の入港の賑わいであるという。
 そのさんま水揚げの地位をおびやかし追い抜いたのがずっと南に位置する女川港である。その漁港の仲買の邦雄さんとはもう20年来の付き合いだ。電話や手紙を通じてのみだけれども、家族ぐるみの交流みたいなものをしていたが、私以外は会ったことがなかった。妻どうしは初対面で、私もご無沙汰して久しい。

 邦夫さんは自分のところの、魚の目利きや加工については自信をもっている。実際に消費地市場では名誉あるブランドを保っている。そうして、漁船を買い支えている。邦夫さんが送ってくれるさんまはとにかくおいしい。刺身で食べる。一箱単位なのでいろんなものにして食べる。ほかでは買えなくなるほどの確かなものをいただく。ただし、鮮度・脂ののりに合わせるので何時送ってくるかわからない。来ると大慌てになる。最近は小箱にしてほしいとそれとなく伝えざるを得なくなった。以前は10kg箱だったが、時代の流れで5kg箱もできるようになった。大きなサイズを送っていただくから、10kg箱で40尾ぐらい入っている。

 猫島の帰りに泊りがけで訪ねて行き夫婦どうしで初めて会った。ずっと以前にこの日を予約していたのだが、夫婦で行くよというのがピンときていなかったようだ。邦夫さんは舌が肥えている。ご夫婦でやっている構えはなんでもない居酒屋さんで、とてもおいしい魚をいただいた。本当においしいもの、これに出遭うと人生の楽しみが増える。もちろん、おいしくいただける相手がいることが大事なことだけれども。楽しみにしていた夜が過ぎた。

2010年7月1日木曜日

通称‘猫島’


 石森章太郎のキャラクターが画いてある列車に乗って着いた。着いたら時間が無いはずだから、鮎川行きのバスに訪ねた。港に行くかと。どこの港かと聞き返すから、「あみぢしま」だと言うと「ああ、網地島(あぢしま)ね、行くよ」と。

 旧北上川の河口近くに網地島ラインのフェリー乗り場があった。窓口でキップを買おうとすると船の中で買うのだそうだ。売店かなにかあるかと思っていたら何もなかった。昼飯は抜きだな。12時に出航、牡鹿半島に沿って一時間、料金1200円、目的は田代島。「猫の島」として売り出していて、猫がのんびりしているらしいということで初めて訪れた。漁業を生業とした小さな島で大泊と仁戸田という集落があるだけだ。主に猫がいるのは仁戸田であるらしい。「散策マップ」に添って島の北の大泊港におりて歩いた。島はほとんど山だ。中間の小高いところに小学校と中学校があったらしい。廃校になって「生涯教育センター」になっていた。そこを過ぎて仁戸田の集落に降りてきた最初の民家で猫たちに出遭った。こちらのことは構っていない。もっぱら観光客の人間のほうが構っている。そこに子猫をみつけた。なにも気付かず走ってくるところをこちらに気付き、止まったままこちらを見つめている。生後1ヶ月ぐらいかな。野良猫なのか人にまだ慣れていないようだ、警戒したままじっと見ていて、うしろから近づいた別の猫に気付かなかったのか驚いて毛を逆立て飛び跳ねる。結局この子だけだったな、かわいいと思ったのは。