2010年5月2日日曜日

変化と在り方


 メーデーには学生時代も大手を振って参加した。人が多くて楽しかった。就職したころはメーデーには職場ぐるみで参加していた。メーデーの日は職場が開店休業的な状態であることが、社会的にはまだ許された。もちろん、当時でもメーデーに出てはいられない職場はいくらでもあった。今から考えれば牧歌的だった。それが、私の職場も、社会もすっかり変わった。少しもよいことだとは思わない。

 魅力や必要がなければ時間(休暇をとってまで、今年の場合は休暇)をつぶしてまで自主的にはメーデーや労働組合に参加しないだろう。せっかく継承されてきたが、正規職員中心の労働組合や、さまざまな運動や活動、そしてお祭りとはいえメーデーもなにか「既成のもの」になってしまい、今の若者にマッチしていないものを感じる。参加者の構成が高齢化して、少数化している。なにかずれているのはその若者たちが当事者を構成しなくなっているからでもある。

 組合運動は支え合いだ。社会全体(というか企業)が、これを否定する競争原理的思考に影響されていて脱出できない。そのド真ん中に若者たちがさらされている。時代を逆行させているこの新自由主義的風潮を皆がいやだなと思い始めているのに、まともに圧迫を受けているのは若者たちだ。その若者たちの二極化も著しい。就職競争に勝ち抜いてきた正規の若い職員は企業からも企業内労組からも大事にされる一方で、多くの非正規労働者の若者はこき使われる構造になっている。
  教育や労働条件の著しい後退は98年あたりから始まっている。リタイアしたかつての「闘う労働者」にはひどいことだと観念的にはわかっても、実感がない。そこに乖離がある。若者には生活や生き方に直結していることである。茨の道であったとはいえ、かつては勇敢であれば闘える仲間がいて労働組合もできたのだが、今は企業に労働組合があってもむしろ闘いづらいのではないだろうか。そこが問題だ。

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