2010年5月31日月曜日

「ちひろを語る」


 共産党といえば「とんでもない」という人にたくさん出くわす。はなっから、論外という。亡くなった母もそういう一人だった。そういう母が松本善明さんのファンだった。昔のNHKは昼間の国会中継を律儀に流していた。予算委員会のような重要な審議の中味だったと記憶している。東大出であること、「医者か弁護士」かの弁護士であること、当時若くて甘いマスク。そして、政府を詰めているその理屈と心情にいちいちうなずいていた。それなのにこの人があのコワイキョウサントーの代議士であることが不思議でならなかったらしい。初当選は40歳のとき(1967年)だったという。

 往年のオールバックの髪がさすがに真っ白になっていたが、その松本善明さんが84歳でお元気で、まさか身近にお話を聞くことになろうとは思わなかった。画家のいわさきちひろさん(1918~1974)が前のご伴侶だったことは有名だ。「平和を願い子どもを愛したちひろの絵と生涯」と題する講演を聞く機会に恵まれた。

 墨絵の技法、能の表現(世阿弥を愛読していたらしい)、必要でないものはすべて取る――「引き算の芸術」、最小限で表現、伝統的な芸術を引き継いで、しかも和画ではない。貧しくても多くのひとに絵を手にとってもらえるように印刷芸術、印刷工場まで行きこだわった、絵の心を印刷するとまで、言っていたようだ。

 ちひろさんが好きだったアンデルセンに性格が似ているのではないかと松本さんはいう。悲しくむごたらしい話を美しく描くところなどは共通しているのではと。

 ちひろさんの絵(「ロンドン橋がおちる」落ち葉と子どもが遊んでいる)が好きだと言う松井秀喜さんの「野球は楽しむもの、守備もバッターもやりたい」という野球観が記録を追求するイチロー選手と違うのではという松本さんの観察眼も紹介された。

 ちひろさんの絵本を眺めたり、本を読んだりしたことはあったが漠然としていて、伴侶として沿うて同じ人生を歩んだ人から一通り体系的にエピソードにも触れながら紹介してもらうことによって、より深い興味がわいてきた。

 日曜日の朝は寒くて灯油も残っていたのでストーブを引っ張り出して暖をとった。

2010年5月29日土曜日

私の大切な


大切なものが段々にわかるようになってきた。

確かにお金かもしれない。
いや、お気に入りの肥後象嵌のカフスかもしれない。
いつも愛用の朱泥の急須かな、なんてことはないものなんだけれども。
執着心が強いから大島紬の幾何学文様のネクタイかな。

大切なものはわかっている。

いつも“ご一緒”に居たがるのだけれども、別々のことをやっていることも多い。
畳み掛けるように話しかけるのだけれども、噛みあわない、上の空のときもあるのだけれども。それで気が済んでいるときもあるけれど。パソコンの方を向いていたりするのだけれども。

今日から33年目だ。

今宵は「スパッと産みますケン」と言う彼女の歓送会を家族集めてやることにした。家族が多いのもいいな。みんなでキッチンにいて準備している。今日は鍋にすることにした。買い物に行けば、どこのお店も判で押したように「初夏の」テーマ。枠にはまった企画を天候があざ笑うような肌寒さ。

球根で植えた百合が咲いた!

2010年5月28日金曜日

今日という日

だから、おいしいものが食べられる企画があると、ハイと元気に手を挙げてしまう。こういうことには前向きだ。

 トラブルがあって早朝出勤する。富士山がきれいだ。向かい風は北風、何か秋ではないかと錯覚する。駅頭では民主党の旗を掲げた人からビラを受け取る。どういう気なんだと訊きたくもあったが、時間もなくて電車に駆け込む。結局トラブルには立ち向かった方が早い。案ずるよりも産むが易しだ。

 夜、私たちがいない間に冷蔵庫の中にケーキの箱があった。娘が入れて置いたらしい。あれっ、これいつ食べるの。お父さん、そげですよ。今日は遅くまで待っていたのですよ。
あっ、~~あ――あ。すると、ん~と32年、よくも別れずにやってきたものだ、我慢にガマンを重ねて…。
それはこちらのセリフですけん(「ゲゲゲの女房」風)

 んなうちらのことは正直忘れていたけれど、なんてこったい!
辺野古、徳之島明記の「日米合意」の日になるとは!みんなの「悲しい」というメールが飛び交う。「これは差別だ」と沖縄の人は言う。
 「離婚より簡単な日米安保だ」(離婚は双方の合意が必要だが、安保は一方が破棄を通告すれば一年後に失効する)。もう一度、考えてみようよ、日本の軍事同盟と平和と安全、将来。1960年あのときのことを「安保騒動」と呼ぶか「安保闘争」と呼ぶかで立場が判るが、多くの人々が真摯に将来のことを考えてみたのではないだろうか、声無き声の民草も。

2010年5月27日木曜日

あれ?


結婚しますと言うてきた息子カップルにあらたまって、問い質したことがある、人生の目的を。そうしたら、「おいしいものを食べること」ときた。小さい子どもが答えるような内容に聞こえて、その時は夫婦でずっこけた。だが、最近、詰まるところそういうことかな…、と考えるようになってきた。今晩の献立や如何などと、Cメールで訊いてしまう。世のため人のために生きるという何らかの内容ではなかった…。ん?

2010年5月25日火曜日

雨上がる

二日間も雨がよく降った。朝は元気なナメクジたちとのバトル。夢に見そうだ。
電車が毎朝微妙に遅れる。
夕食時なのにジェット戦闘機が十数機も飛び上がってもうすぐ満月の東の空に飛んで行った。
二男のところのシホさんが家の鍵を家の中に忘れてきたので帰宅したのに入れない。息子の帰りは遅い。それで救急出動。営業の仕事でセンターに帰り着くのは9時過ぎ。家路の電車に乗るのは10時過ぎ。これでは食事がつらいな。それなのに一時金は減っている。
鳩のポーズなんかできやしない。

2010年5月24日月曜日

ひとり寝で


 試しにそちらの赤飯を食べてみてとメールした。三沢は寒いよとメールがきた。東北出身のくせに夏の服装であわてて飛び出して行ったのが昨日の早朝のことだった。完璧な夏の服装だったな。先のことや向こうのことは考えていない。ほとんど荷物も持っていなかった。あの難しい本の著者の「講演よかったよ」と電話もかかってきた。ところで何故「赤飯?」、甘い赤飯らしいよ。そう言えば、ばあちゃんところの田舎の赤飯もそうだったって。
 こちらも雨が降り続き、早朝の出勤時は寒い。昨夜炊いたご飯の残りを温め、しらす干しをかけて食べる。今夜も残りを温めるつもりだ。げに、一人暮らしになったら寂しかろうなと考える。若いとき住処に帰って来て蛍光灯をつけると青白いまぶしい光がやけに惨めに感じたから、一緒に居れる人をみつけて早くに結婚した。だから、人生のなかで今のところ、一人暮らしの期間は短い。結婚して、まもなく子宝に恵まれ、子育ての期間を終え、二人暮しに入った。子育ての間のことはもう頭の中では走馬灯のようになっている。今や我が家の部屋数は、子どもらどもの夢の跡で物置同然だ。
 そういえば末っ子の私が家を出て母は長く独り暮らしだった。話し相手の猫も亡くなり、まるで民話に出てくるお婆さんのように、たまに家に寄った人をつかまえて長話をするのだった。そうして寂しさを紛らわすのが精一杯だったと思う。そういうことを、わかっていながらほったらかしにした。仕事があるから、遠いからと言い訳けして、親不孝をしたものだ。
 モノを失ったり、ヒトが亡くなったりしたときの「喪失感」を少し覚えるようになった。ありのままには受け容れるようにならなければいけないが、少し老化現象が忍び寄っているのかなとも考える、笑われるかもしれないけれど。
 遅くに帰ってくるらしい、我が家の同居人。どっさりと資料を持って。

2010年5月23日日曜日

こむらがえり


 夜中に足がつる。それで妻殿を起こし訴えて親指をひっぱってもらう。その時は寝ぼけていた同居人はそれっきり眠れなかったらしい。私は二度寝したらしいのだが。

 米軍基地の居座りどころか新しい基地建設をやるぞという国の方針をあらためて聞かされた沖縄の人々の憤慨の声。そして口蹄疫の対応で宮崎の人々と動物の無念と悲痛の声。そんなときに、私はこむら返りをやっている。ふくらはぎがいつまでも痛む。なんか、間が抜けているのだけれども、そんな声が心に聞こえるようで胸も痛むが、ふくらはぎまでとは。

☆私の5月17日「はずれ、スカ」にコメント(5月21日)をいただいたハマタヌさんへ~敬意を込めて~

口蹄疫の事件、とにかく実感、経験、見通しを含めてすばやく知見を貴ブログはアップされ警鐘を鳴らされたのは的確なことだったと敬意を表します。中味は具体的でありました。決して他人事とはしてはいないその立場に信頼感があるわけです。みんながコメントを寄せるようになって情報の交流の場にさえなりました。しかしながら、専門的局面かつ臨場的場面ですので私にはコメントができません。
また、こういうときの感情移入は当然の成り行きです。だから人間として繋がりを感じるのであって、これに冷笑をあびせるネット・オタクなんぞもありましたが、もはや付け入るところはありません。心があるから響くのです。どうぞ負けないでタフでいてください。言わなくともタフかな(…)。

ウィルスのことも大きく言えば、これまでの人間の為せることへの自然のしっぺ返しではあると考えます。が、今はそういう評論をしている場合ではなく、軽々しく言えません。根源的にはこの問題だと考えますが、後日、この辺も噛み砕いて論を展開していただければ興味深いものです。

基地のことは今の人間のなせる業なので運動を継続していくことだと考えます。道理が通らないのであれば非暴力であるけれど、ありとあらゆる形での「抵抗」をするのみです。そして、平和と生活はどうあるべきか攻めが必要です。兵器と基地で、平和と安全と生活はつくれないし、守れない。守れるのは軍と軍需産業と投資家の国家だけです。友好関係とは軍事同盟ではない、ということだと考えます。他人事のような空気があったとしても、おかしいなという声を多数にしていくことができると思います。難しいことをわかりやすく、我が身に置き換えて…。

参照;ブログ『農と島のありんくりん』
こちら⇒http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/

2010年5月22日土曜日

姪の家族の来訪


 神奈川にいる姪御が家族で初めて訪ねて来てくれた。急なことだった。うちの二男夫婦に赤ちゃん用品を譲ってくれるためである。軽自動車にいっぱい詰め込んで持ってきてくれた。その二男夫婦はあいにく温泉の一泊旅行に行ってしまった。子どもができたら二人でのんびり旅行なんかできないだろうとかねてから予定していたので会えなかった。姪御のつれあいも決まった続きの休みがとれず、また幼い子どもたちの体調もあるので行けるときに来たらしい。うちに寄って彼の実家に泊まりに行くという。

 彼はコンビニの弁当をつくっている工場で働いている。24時間稼動だ。近い上司からもお前たち労働組合をつくってくれと言われているらしい。年休はあるけどとれない。使わなければなくなるだけらしい。年休は風邪をひいたときしか、つまり病気理由しかとれない。じゃあ、風邪をひくしかない。ええ、そうしています、会社への申告はつれあいの姪御にさせるらしい。本人が電話をするといろいろな理由をつけて出て行かざるを得ないらしい。3日続けての休みをとるのは至難のことだという。じゃあそれだけ働かされてそれほどの報酬があるかというと、あと5万円ほしいですよという。十分ハングリーで労働組合をつくるりっぱな理由だ。男33歳、4歳と2歳の子どもの子煩悩な父親で、伴侶である姪御と一緒に家族をつくっていきたいと頑張っている。
 写真を撮ってあげようとするとマナちゃんはポーズをとる、下のシュンくんも走って寄って来た、姉の孫たちだ、私の遠い親戚になるのかな。

 家族同然に育ててきた牛を一瞬にして「そんなむごいことができるか」という宮崎の畜産農家の人の言葉は重い。ワクチンを接種して「処分」する、10万数千頭だ。

 名護市辺野古沖への新基地建設。日米で決めたことだからと。これは目の前で進んでいること「同時代」の琉球「処分」ではないか。先日は「朝日新聞」に「普天間基地撤去、海兵隊撤退」の意見広告が出ていた。また、6月に「琉球新報」と「沖縄タイムス」に意見広告を出そうという別の賛同よびかけがあった。手続きをする。

 塩漬けにしたらっきょうが順調だ。今年は少し丁寧にやったのでゴーヤが育ってきた。今後、我が家のどこにおいてネットを張るか考えなければ。明日はバケツ稲の田植えをしよう。ていねいにやっていかなければ。生きることもそうだ。諦観や達観では生きていけない。遅ればせながら私も人間が育ってきた、みんなのおかげだ。

 夜は娘が来て焼酎を飲む。明日我が伴侶は三沢へ出発だ。

2010年5月21日金曜日

言葉もない


 帰宅してテレビをつけると、なんとたまたまNHKで「中国ハルピン」をやっている。今頃、みんなもハルピンだ。行けばよかったなとここの景色をみて思うが、いつも後悔でこの調子。

 また、拾う神に助けられた。おととい失くした万歩計が出てきた。検食をしたときのテーブルの下に落としていたらしい。「落とした人はいないか」と一斉メールがとんできて、「それっ」てわけで還ってきた。

 だが、落とした命は還らない。このような形で家畜の殺処分、今世話をしている命を残らず死に至らしめる。やりきれなかろうと思う。築き上げたものの喪失、そしてどうやってこの後収入を得ていけばとの心労を思えば、そのこともどのことにも言葉がない。

2010年5月20日木曜日


 おとといの夜はジムから帰ってきたら鼻息がうるさかったねと伴侶から言われた。なるほど、それでこのポーズは詰まった鼻の通りがよくなる効果がありますと先生が途中で言っていたのか。しばらく、乾燥した空気が続いていて鼻の詰まっていた自覚があった。しかも強くかみすぎて鼻血もでたりしていた。昨日から雨になって、今日の昼休みはよく降りつづける中をTOKYU HANDSまで行ってきた。万歩計を買うためだ。ポケットの中でもOKというタイプにした。倍の値段だったけれども。それと、今度はいちいちフタを開けてみないでもいいのにしたかったから。
 生活に充実感がない。このままで世の中も自分自身もこれでいいのかいと自問する。目が壁を見ているのだろう。

2010年5月19日水曜日

万歩計紛失


 万歩計を失くしてしまった。帰宅してすぐに気付いた。
またやってしまった。今度はどこかに落としてしまったみたいだ。気も落ち込む。
日に12,000歩を目標にしている。万歩計を振り返るのが習慣化されて、歩数を覗くたびに愛着が湧いていたから。

 よく考えてみたら、ずっと5月末までにということを期日目標にしていたのはあの鳩山さんと一緒で、しかも空想的であったことも似通っている。歩く目標ではない、ある人生のけじめの目標だった。ずるずると生きていくのかな。優柔不断、先送り、先延ばしの足跡の残らない歩み。「ただ、日にちが過ぎて行くだけだよね」と妻殿から言われる。

 たまたま、『「ゆっくり」でいいんだよ』(辻信一さん 06年9月 ちくまプリマー新書)を読んでいる。

 二男の伴侶が6月に入ればお産で実家に帰るから、今月末歓送会をすることにして、みんなを招集した。当日は我が家の伴侶が終日外出だ。私が少し豪華な冷凍食品を揃えてチンすることを考えている。

2010年5月18日火曜日

国民投票法


3年前に安倍内閣のもとで成立し憲法改正手続きを定めた国民投票法が今日から施行された。「美しい国」路線で教育基本法を変え、防衛庁を省にし、憲法改悪の国民投票案を成立させた。その‘つけ’がいよいよ国民の前にやってきた。07年当時、この道に歯止めをかけたのは夏の参議院選挙の結果だった。同年9月12日幼児の言うような理由で政権を投げ出した。しかし、この人の右旋回への「置き土産」は大きい。守るも攻めるも平和の憲法を活かしていかなければいけないと考える。

6月24日(木)に「松元ヒロの憲法君がやってきた」の公演があることを知った。

2010年5月17日月曜日

はずれ、スカ


 沖縄が「復帰」して、当事者の佐藤首相が退陣した。そのときの記者会見で、佐藤さんは新聞記者を追い出してひとりテレビカメラに向かってあいさつをした。晴れやかなはずの長期政権の最後を異様な光景にした。記者たちも今よりは骨があった。
 その沖縄復帰が1972年5月15日で、こんにち密約が事実であったことが判明してきた。そして昨日の5月16日には普天間基地を囲む「人間の鎖」ができあがった。雨に打たれながらの人々の映像をみた。前後して平野内閣官房長官は徳之島の“受け容れ派”という住民と接触を始めた。わかっていたこととは言え、政権交代の中味が不十分であること、自民政権と相似型の立場と手法をとることに呆れを通り越して悲しみを覚える。普天間基地の国外、少なくとも県外へという公約は票をとるための「膏薬」に過ぎなかった。方便だったということが判明してきて県民の期待を裏切る。

 民主党の赤松さんはとうとう農水省のお大臣になった。45歳にして当時どんどん右旋回していた社会党の書記長になり政権党に妙におもねった事大主義的態度が印象に残っている。今回の口蹄疫事件については、いちはやくブログ「農業ありんくりん」の濱田さんをはじめ、脅威を知るひとびとが迫真の声をあげていた。すごい事態と思うほか、無力な私には言葉もなかった。民主党が都市型政党であるという私の実感、農村・農業・農民に依拠していないことの本質的なものを感じる。票の取り方の手法、選挙上手を持っているだけだ。政党の幹部であることは赤松さんなりの能力なのだろうが、国の行政の責任者としてはふさわしくないおダイジンであると考えられる。
 もっとも、前のような自公政権に還ってほしいとは少しも思わないが。

2010年5月15日土曜日

今夜はおやすみ


蜂蜜を何度溶かしても結晶する。そのぐらい朝晩が冷え込む。とうとう今夜は豚キムチ鍋にすることにした。それで正解だった。息子夫婦を呼び、鍋を囲む。お腹が目立ってきた。かねての計画通りにカラオケに行く。うちと息子の伴侶が行きたがっていたから、意気投合していた。初めてのお店。息子の彼女は宝塚歌。発散。うまくは歌えぬのだけれども、ぴったし「グッド・ナイト・ベイビー」で終わった。

2010年5月14日金曜日

渡れぬ世


 職場のなかで別に筋を通してきたわけでもない。パフォーマンスや自己主張をしてもこなかった。

 変わり身の早さ。そのときにおもねっていたものにたいし、手のひらを返して次へおもねる。このくらいの歳になると、そういう芸当の輩が職場の幹部になるのをいくらでも見てしまった。それも能力のうちなのだろうが、苦笑してしまう。目が泳いでいるか、瀕死だ。それが世の中だ。そんなことを、ある程度納得するまで時間がかかった。お天道様はあまねくは見てはいない。

 目が泳ぐのは2通りあると思っている。「権力の糸にひっかかろうと(上昇のチャンスをつかもう)」(住井すゑさんの表現)とキョロキョロした目。一方は、はにかんでいて気後れした茶目っ気のあるオロオロした目。前者と後者ではエライ違いだ。でも、両方の場合もある。上昇したくて機会を窺っているが、その卑屈さに後ろめたさを覚えている場合だ。ところが、そういう者も地位に着くと、その後ろめたさが尊大さに変わる。そんな幾つもの「目」を悲しく可笑しく見てきた。歳を重ねてしまった。

 小説家の火野葦平さん(『麦と兵隊』など著作多数)もそういうものを横目で見てきて、戦後、詰まるところ自死に及んだらしい(60年1月)。「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために」と書き遺して。その甥っ子が中村哲さんだと本で知った。腹を据えた人たちだ。

 体力のあるうちに、あまりストレスを溜め込まないうちにリタイアしようと心に決めていた。どうもずるずるといきていくようだ。

2010年5月13日木曜日

うとましきこと


 さきの総選挙で“生活が一番”というスローガンを掲げた民主党が“軍事”を優先させる。沖縄の基地の対応のことはそういうことだと考えます。平和や安全を軍事同盟ありきでしか考えられない、従来のままの思考と方向で壁にぶちあたっています。

 で、鳩山さんが勉強してみて海兵隊は抑止力であって平和に寄与すると考えるようになったというのなら、その理解の根拠を是非国民に示してもらいたいものです。
 
 沖縄の普天間基地の負担軽減を全国で、と徳之島の一部の町議さんや麻生全国知事会長に言うのなら、そう全国のひとに提案してもらいたいものです。例えば関東なら埼玉の入間基地でも、新規開店休業のような茨城空港でも百里基地でも、拡張著しい羽田空港でも、どこでも全国各地に分散負担する提案をしてもらいたいものです。逆説的ですが、大阪の橋下知事の言うことにも一理あるわけです。そうしますと、幸か不幸かみんなが他人事(沖縄のこと)ではなく、もう少し真剣に日米軍事同盟のことを考えるようになるのでしょうか。蜂の巣をつついてみたほうが、根本的な解決の方向が出てきそうな気がします。
 まず、普天間はあってはならない危険な基地です。そして治外法権に等しく、しかも国民の税金がじゃぶじゃぶ使われる米軍基地は、沖縄以外のひとびとにも日常の生活とは両立しないと目と耳と肌で間近にわかることになります。
 前の自公政権は同じ沖縄の辺野古に基地を押し付けようとしていたわけですから、せめてその方が政権を交代しただけのことがあるように考えられます。

 「うとましきはたたかひ(戦い)也」(樋口一葉1872~1896)

らっきょう


 暑い日も少しはあったから、朝夕に冷たい風が吹くとまるで秋が来たような錯覚に陥る。晴れている。天気図は西高東低だ。大陸から冷たい空気がやってきているらしい。茶畑の主が扇風機の始動を試していた。これは作物には大変な事態になるかもしれない。

 故郷の海に面したところは砂地でスイカやラッキョウの産地であると以前にこのブログで紹介したことがある。唐浜(からはま)という海岸に向かう一帯だ。水田にも、ろくな畑にもならぬから自給自足の時代には住むにはつらいところだったかもしれない。恐らくそこの産であろうラッキョウが生協で届いた。うれしい。それで早速、説明書通りに洗って薄皮を剥いて干して塩漬けにまでした。注文だけして、なにやかやと逃げていつも妻殿に押し付ける私にしてはさっさとやった。郷土愛が強いのねと言われかねないが、天気が良くて気分がよかったからかもしれない。気分屋だ。

2010年5月12日水曜日

としおちゃん


 たけちゃんの上の兄ちゃんのとしおちゃんは幼いときに熱病を患ったらしい。知的障害者だった。いくつも年上だったけれど幼い私たちと遊んだ。あるときどういうきっかけかみんながとしおちゃんをはやしたてるという‘事件’が起きた。腹かいた(怒った)としおちゃんはしばらくして家から包丁を持ち出し自転車に乗ってやってきた。皆が遠巻きにして見守っているうちに、おばちゃんが青い顔をして間に入ってきた。私たちに怒っているような懇願しているような、そしてたまらずに泣きじゃくった。いつものおばちゃんではないおばちゃんだった。
 おじさんもやがておばさんも亡くなり、たけちゃんの下の兄ちゃんのかずちゃんがとしおちゃんの面倒をみていたが、いつか施設にあずけたと母から聞いたのは、もうずっと昔の話だ。

2010年5月11日火曜日

良い酔い


 折り畳み傘をうまく畳めないのでいつも我が家の伴侶にたのむ。今日は帽子とバーバリーの冬物レインコートを着て行ったので傘はとうとう開かなかった。それで済ませた。

 日曜日の早朝は1時間ほどかけてたのまれたことを、汗をかいてやり遂げた。ついでにドブ掃除をした。それでなんだか胸をはって朝食をとれた。土曜日に我が伴侶がつくったくるみパンだ。昼間は暑くなったのでこたつ布団をようやく片付けた。お茶の間が毛を刈られたあとの羊のようになった。今年の春は寒かった、もうよかろうと夏のスーツを出した。
 そうしたら朝晩はよく冷える。すっかり夏の格好なので芯から冷える。なにを食べてきたのかと言われて、ぎょうじゃにんにくだと、それも貴重なつぼみの花だったらしいとこたえる。そういう臭いは苦手なのでああそうですかと、逃げられてしまった。ちと、冷える。

 『ゼロからわかる核密約』(石井修さん 2010年4月刊 柏書房)に目を通す。

2010年5月10日月曜日

そして

迷子になった。行く先の駅名がわからない。車内にもホームにも路線図が見当たらない。ここがどこかもわからない。まごまごとしている自分がいた。
今朝はほんのわずかの睡眠でそんな夢をみた。
映画『白バラは死なず』(1982年西独)を観たときもそうだった。
若い主人公たちが真夜中に反ナチのポスターを貼っていく非合法活動のシーンに肝が冷えた。覚めていながら悪夢をみる。あれは名画だと今でも思っている。
きっと演劇『組曲虐殺』のその場面に感情移入してしまったのだと思う。戦前の非合法活動の切迫と恐怖という観念。
私には情感があって胆力がないのだろう。

深々と頭を下げたお詫び会見の報道写真の姿から彼だとわかった。
こういうときのためのトップだとは他の職場でも聞いていたが、心労を察して「ひとつ踏ん張って」とメッセージを送った。初めての経験だったらしい。バッシングもすごいが、淡々とありのままに出して組織を正していくという。若いときからこういうときには腹が据わっていた。

真夜中

BS2プレミアムシアター(演劇) 舞台「組曲虐殺」(0:40~3:55)を観終わった。えらいこっちゃ。

NHKの解説よりそのまま引用
4月9日に急逝した井上ひさし最後の舞台「組曲虐殺」。小説「蟹工船」の作者・小林多喜二の生涯を描いた井上戯曲の真髄とも言うべき「昭和の世界」をお楽しみいただく。
1929年に書かれた小説「蟹工船」の作者・小林多喜二の生涯を描いた井上ひさしの音楽評伝劇。多喜二を演じるのはミュージカル界のプリンス、井上芳雄。ヒロインに石原さとみ。ほかに高畑淳子らが井上戯曲の神髄ともいうべき「昭和の世界」に挑む。演出は栗山民也。音楽は世界的ジャズピアニストの小曽根真が作曲し、生演奏で初参加。4月9日に急逝した井上さんの足跡を振り返る解説と併せ、その最後の舞台をお楽しみいただく。
出演
【出演】井上芳雄,高畑淳子,石原さとみ,神野三鈴,山本龍二,山崎一,ピアニスト…小曽根真
スタッフ
【作】井上ひさし 【演出】栗山民也

2010年5月8日土曜日

「母の日」イヴ


 息子が予約を5人で入れていて早く着いた。久しぶりの焼き鳥「一兆」さんは小さなお店で狭い。土曜日で混んでいて予約の席にしばらく待った。夏の陽気になったからインドネシア製バテイックのシャツを普通に着ていったつもりだが、その筋の人かと思ったと息子たちに言われた。混雑の中に悠然と空けられた席に一人こういう風体の私が待っていたものだから。

 御夫婦二人でやっていらっしゃる団地の近くの「一兆」さんの焼き鳥は本物で、値段は二十数年来変わっていない。手づくりだ。奥さんの提供するメニューも多く、チェーン店に慣れているうちの子どもたちも、ここのメニューの目新しさと手作り感が好きだ。二男のお嫁さんもリーズナブルの値段が気にいったようだ。

 Tシャツにも合うというストールのプレゼントを妻殿はもらい、子どもたちから御馳走になった。

2010年5月7日金曜日

冷凍野菜


 冷凍野菜というと、安い中国産凍菜で普及したと考える。1980年代は中国の人件費といえばただみたいに安かった。土や泥洗い、下ごしらえ、剥き、カットどれもこれも手間ひまのかかる作業で、なかなか機械化ができず、問屋制家内工業的な(昭和の内職のような)、農家の大変な手間とひどく安い賃金で下処理がされ、それが集荷され冷凍加工場に持ち込まれ「冷凍野菜」としてパックされることから始まった。当時、野菜はまだ家庭の台所で調理するのが当たり前で、すぐに普及とはいかなかったが、「下ごしらえ要らず」「生ゴミが出ない」ということが利点となり、徐々に普及し今ではすっかり食品売場の主力商品となっている。供給する中国でも一大食品産業として成長した。集約型圃場での農産物生産を背景に、大規模で集約的な冷凍加工場で生産されるようになった。
 今では冷凍食品としての適性のある、ほうれん草、小松菜、さといも、かぼちゃ、ポテト、コーン、いんげん、えだまめなどがひろく普及した。アイテムはもっと拡大しつつある。「あれば便利」だったことから「なくてはならない」食品になりつつある。そして、農作物としての出来不出来や個体差、野菜としての特性(どくとくの匂いや味)も忘れ去られ、また野菜を目利きしたり下処理を経験したりすることもなくなって、まるで工業製品のような画一的品質が求められるようになった。生鮮野菜を知っていれば常識であることや些細なことが、パックに入った冷凍野菜の世界では通用しなくなり「苦情」「不安」の山となりつつある。
 さて、一時期、中国製品の残留農薬検出や毒物事件などの不祥事や不信感があって、一挙に冷凍野菜のマーケットが国産農産物原料に殺到し、原料価格が高騰した。国産原料コストではそれが適正な価格だったが、冷凍食品としての製品価格の“値ごろ”に適合せず、あれほど足りなかった原料の在庫がだぶつき始めた。そうして、ついには大幅な値下げを量販店から求められるようになった。国産の冷凍野菜を支えているのは北海道と九州である。なんとか「国産」を頑張って生産し私達の食卓に供給しているのは、主にはそういうところである。
 この夏、市場原理が作用して国産は値下げあるいは特売競争にさらされる。

2010年5月6日木曜日

「議員を減らせ」とは

 今ごろにも落葉がこんなにあるとは思わなかった、やたら落ちている。常緑樹といっても、夏に向かって猫の毛が生え変わるようだ。ご近所に迷惑をかけるので朝晩の掃除をまめにする。

 議員を減らせ、報酬を半減せよという動きが顕著になってきた。
行政の暴走を食いとめる、チェックをする、多様な民意を政策に反映させるために、今の日本社会は議会という方法をもっている。選挙を通じての代議制をつくりあげてきた。そのために政党が結成され政策を切磋琢磨している。だから政治的制度は行政と議会という二元制をとってきた。

 彼らの主張の本質は議会の骨抜きだ。懲りることのない新自由主義的主張である。彼らがやりたいようにやる「効率」を求めた場合、議会や議員は邪魔だ。「成果」は民意のすりかえだ。だから、ごまかしであり危険である。

 違う意見があるからこそ、それを反映させるからこそ社会が治まる。それを排除しようとしている。その先にくるものはなにか。対立と荒廃、そして新しい形のファシズム。一元的社会。

 公務員攻撃と同じ手法だ。ひとびとがこれを喝采する。あいつらは安泰だ、楽をしている。だから懲らしめろ、減らせ。これが、議会と議員に向けられている。手を汚さずに煽動して目的を達する。「金さえあれば」の野獣が野に放たれる。やがて、政治屋の刃はこちらに向かってくる。

 「選挙民が塗炭の苦しみに喘いでいるときに議員は多額の報酬を貪っている」こう主張する。では、その塗炭の苦しみに追い込んだのは誰だったのか。私たちはかずかずのいんちきな手法およびすり替えを観てきたはずだ。

 民主党は衆議院の比例代表議席80削減を昨年の総選挙のマニュフェストに掲げた。そして来る参議院選挙では参議院の議席40削減を掲げる。

 鹿児島県阿久根市の航空自衛官出身の市長は批判を意にも介せずやりたい放題だ。マスコミは興味本位のみの「ニュース」にし、勇ましい公務員・議員攻撃に腰がひけている。
 元民主党代議士でテレビタレントばりの河村名古屋市長は「減税日本」という政治団体を立ち上げ議会への攻撃を始めた(スケールも時代背景も違うが毛沢東の文化大革命の“砲撃”にも似ている手法だ、あまりにも胡散臭い)。
 元民主党代議士で統制的国家観、教育政策観をもつ埼玉県上田清二知事は「上田塾」を始めた。この人の県政は土屋前知事とはまた形を変えた私的人脈で政治を牛耳る手法だ。
 どこかの国家予算にも匹敵する膨大な都税を浪費する石原慎太郎さんも後援する「たちあがれ日本」。元民主党代議士で前の横浜市長の中田宏さんや山田さんの「日本創新党」。宮崎県知事の椅子が腰掛けであることがありありの東国原さんもちょろちょろ動いている。
 テレビ出演でちやほやされ弁護士でありながら人権感覚の乏しい橋下大阪府知事も「大阪維新の会」を立ち上げ、人気にあやかろうとする市議県議を集めている。なにやら「大阪都制」構想で浪速のひとびとを幻惑しようとして野心を遂げようとしている。
 舛添要一さんのお化粧直し「新党改革」。

 通底する本質は新自由主義的主張、猫の毛の生え変わり、常緑樹の生え変わりのタグイではあるが、より過激に煽動するように湧いてくるようで始末が悪い。さかのぼれば、1976年の「新自由クラブ」発生以来、なんどもなんども繰り返される「新党」だ。

 手練手管を弄する政治屋をこそ見破り、排除されるべきは弱者ではなく、インチキなすり替えの主張と考える。

2010年5月5日水曜日

三年目


 就寝前の歯磨きで鏡を覗き込んでいるところで、はたと思いだした。まる2年が過ぎた。ブログを始めてから、だ。最近ではすっかり習慣化した、つまり日記化した。何度も挫折して、もはや考えもしなかった日記を、2年間も続けたとは我ながらたいしたもんだ。ひょんなことで百文字(ぐらいの)表現に目覚めてしまった。中身は語感のとおり四畳半程度のスケールしかなく、最近はツイッターというものもあるそうだが、つぶやき程度しかない。ブログという公開する性格のものには日々汗顔ものだが、続けることによって自身のこと、周りのことをみていこうと考える。そして少しは人間ができていけばよいのだが。実態ははずかしいかぎりだ。

2010年5月4日火曜日

罪つくり

 ちょっと待ってくれと言いたい。
 あそこで捕まったテンさんがトキを殺害した犯人かどうかはわからないはずだ。映像からテンではあるのだろうが、個体までは特定できまい。つまり冤罪の可能性がある。そもそもヒトは日本列島のトキを絶滅させておいて、自然の摂理である獲物をハンティングしたテンをあたかも罪人扱いのようにするとは何事だろう。それこそテンに唾する行為だ。たまたま逮捕されたテンさんが気丈夫ならいいが、またウツになるかもしれないぞ(?)。あれから随分過ぎたが、あのテンさんはどうなったのだろう。

━━━━━━
「イベントのお知らせ」をそのまま伝えます。

『参議院選挙目前! どこまでできたか?貧困対策!』
チラシPDFはこちら↓
http://www.k5.dion.ne.jp/~hinky/event/100609senkyomae.pdf

「歴史的な政権交代」から9ヶ月余、
みなさんはこの間の社会の変化をどう感じているでしょうか?
私たちを取り巻く生活環境はどのように変わり、
また、変わりつつあるのでしょうか?

私たちは今後、何をどのように求めていくべきでしょうか?
貧困対策の推進を求める市民の立場から考えていきたいと思います。
どうぞご参集ください。

【日時】
6月9日(水)
18:00~開場 18:30~開演
20:30終了予定

【集会内容】
●各政党アピール(予定)
与野党の参議院選挙に向けた意気込みを語っていただきます。
●当事者発言
労働・雇用、社会保障、女性・DV分野から。私たちの生活はどう変わり、どう変えていくべきなのか。当事者の視点から問題提起していただきます。
●政党討論会(予定)
当事者発言を受け、各テーマにつき、討論していただきます。
●「反貧困政策集」進捗状況評価発表
300を超える項目につき、各分野の現場からの意見を参考に、昨年来の進捗状況を○△×で評価します。
*手話通訳・要約筆記あり

【場所】
星陵会館 〒100-0014 東京都千代田区永田町2丁目16-2
Tel. 03-3581-5650

【 アクセス】
■地下鉄有楽町線・半蔵門線 永田町駅下車6番出口 徒歩3分
■地下鉄千代田線 国会議事堂前駅下車5番出口 徒歩5分
■地下鉄南北線 溜池山王下駅下車(国会議事堂前駅5番出口) 徒歩5分
■地下鉄銀座線、丸の内線 赤坂見附駅下車 徒歩7分

【主催・問合せ先】
反貧困ネットワーク(代表:弁護士 宇都宮健児)
〒162-0814 東京都新宿区新小川町7-7
NKBアゼリアビル202
Tel: 03-6431-0390 Fax:03-5579-8540
Mail: hanhinkon.net@gmail.com
Web: http://www.k5.dion.ne.jp/~hinky/

なにパンにしようか


 ホームベーカリーを買ったので我が家でパンができる。私の発案で妻殿に「ウコンと雑穀のきなこを併せて使用したパン」をつくってもらった。これには、ややむせた。しかも苦い。手づくりいちごジャムと一緒に食べるとバランスがとれる。朝食に食べると結構目が覚める。責任をとって食べている。
 続けて妻殿の発案による「バナナパン」これはやや失敗、日曜日の朝は私の提案の「抹茶ソフトパン」まできた、これは香りがよい。しかも皮の食感がよい。
 これからは、凍みこんにゃくの戻したものを刻んで練りこんだパン(?)、カレーパン、ココアパン、黒糖パンなどはどうかと口先だけで提案している。妻殿は暦通り連休を休めるので、つくってもらうようにお願いしている。
 ところでようやく、ムツゴロウ・ラブソディのDVDができたそうだが、まだ手に入らない。

2010年5月3日月曜日

『憲法の力』


 「ブッシュの暗黒の8年」を抜けて、ニューヨークでは核兵器のない世界へ向けて歩み始めた。そして戦争のない世界へと。NPTに自費で行ったあのひとたちは積極的にいろいろな見聞きをしていることだろう。

 戦争をしない、軍隊を持たない。そのことを先駆けて日本国憲法は規定している。

 ゴールデンウイークだからといって人並みに全部休めるわけではないが、今日は休めた。田中優子さんや伊藤真さんが出るという日比谷の憲法集会、銀座パレードに出たいと思いながら、家にいた。家にいたから外に買い物にいって、野菜用のプランターを買ってきた。量販店の電気屋さんに行ったら思いのほかガラガラだった。テレビとパソコンをみて、各社のパンフレットをもらってきただけ。SDカードだけ買ってきた。ゴーヤを植えてみることにした。お向かいのだんなさんが出てきていろいろ指南してもらう。自転車の鍵がいかれたのでとりはずす。ロック錠にすることにした。今日も実に静かだ。

 ずっと気になっていた『ディープ・ブルー』(2003年)をBSで観る。これだったら電気屋さんでみた大画面で観たいと思った次第。

 難しいことをやさしく、やさしいことを真面目に、あらゆる疑問に応える伊藤真さんの著作はわかりやすい。『憲法の力』(07年7月刊、集英社新書)を読む。

 突然、戦争がやってくるわけではない。始まるわけではない。芽がある。それをひとつひとつ潰さなければと、多感な時期に戦争を経験した半藤一利さんはNHK「昭和20年の記憶」の中で言う。

  近藤典彦さんは石川啄木の『一握の砂』そして『時代閉塞の現状』を読むべしと言う。

2010年5月2日日曜日

変化と在り方


 メーデーには学生時代も大手を振って参加した。人が多くて楽しかった。就職したころはメーデーには職場ぐるみで参加していた。メーデーの日は職場が開店休業的な状態であることが、社会的にはまだ許された。もちろん、当時でもメーデーに出てはいられない職場はいくらでもあった。今から考えれば牧歌的だった。それが、私の職場も、社会もすっかり変わった。少しもよいことだとは思わない。

 魅力や必要がなければ時間(休暇をとってまで、今年の場合は休暇)をつぶしてまで自主的にはメーデーや労働組合に参加しないだろう。せっかく継承されてきたが、正規職員中心の労働組合や、さまざまな運動や活動、そしてお祭りとはいえメーデーもなにか「既成のもの」になってしまい、今の若者にマッチしていないものを感じる。参加者の構成が高齢化して、少数化している。なにかずれているのはその若者たちが当事者を構成しなくなっているからでもある。

 組合運動は支え合いだ。社会全体(というか企業)が、これを否定する競争原理的思考に影響されていて脱出できない。そのド真ん中に若者たちがさらされている。時代を逆行させているこの新自由主義的風潮を皆がいやだなと思い始めているのに、まともに圧迫を受けているのは若者たちだ。その若者たちの二極化も著しい。就職競争に勝ち抜いてきた正規の若い職員は企業からも企業内労組からも大事にされる一方で、多くの非正規労働者の若者はこき使われる構造になっている。
  教育や労働条件の著しい後退は98年あたりから始まっている。リタイアしたかつての「闘う労働者」にはひどいことだと観念的にはわかっても、実感がない。そこに乖離がある。若者には生活や生き方に直結していることである。茨の道であったとはいえ、かつては勇敢であれば闘える仲間がいて労働組合もできたのだが、今は企業に労働組合があってもむしろ闘いづらいのではないだろうか。そこが問題だ。

2010年5月1日土曜日

第81回


 「メーデーって何だという若者がいるんだよなぁ」「おとといじゃなかったんですかって言われたよ、鳩山さんも出ていたし、福島さんも」

 お~い、シュプレヒコールに「普天間基地の即時撤廃」を言ってくれよ。とそんなプラカードを持ってきた人がぼやく。

 今年は土曜日で当番の日だったが、代休をとって参加した。うちの息子も休みだから誘ったが「5月1日はメーデーでしたか…」でそれで終わり、買い物に行ったようだ。うちの子にしてしかりだ。8時間労働制の確立をめざして起ち上がった日と言っても、なんだか我が子にすら継承できそうにない。働くものにとって、まるでメーデーに起ち上がったときのようにひどく悪い労働条件になっているのだけれど。

 高校の現役の教師で反貧困ネットワークでも活躍している白鳥先生のミニ講演があった。「できないものはできないままで結構、100人に1人でもできる子をひきあげればいい、競争で国は活発化する」、「あとの99人は実直に働く精神だけを養えばよい」という教育政策のもとで多くの絶望する若者が育った。半分は非正規雇用である、非正規とは半分失業状態だということと同じだ。「人間のもっとも醜い制度をつくった」それが新自由主義だ。孤立しろ、手段は問わない、助け合わない、何でも(医療でも福祉でも介護でも)利益を出せ、つまるところ競争と自己責任、君たちは競争に負けた、自己責任が足りない、不満があれば日本を出て行きなさいと。そうして埼玉では困難校をどんどん廃校にしていった。教育の現場で、そして生徒と親たちに起きた厳しい現状を、新自由主義的教育政策のもたらしたものを厳しく告発し、そして現場で闘っている。

 大型連休になると私の住む団地はずいぶん静かになる。