2010年4月30日金曜日

つらくとも


 つらいころ、ヨガをすすめられた。

 当時そんなことだから是非いっしょに行ってくれと妻殿を拝み倒して、ジムの教室に出た。それと、ご婦人がほとんどで気後れもするのと、この私にヨガはどう考えても似合わないからだ。様子をみていつでも逃げられるようにして通うようになったのが、数年前である。

 そうこうしているうちに、妻殿からピラティスもいいよ、今度のソフトヨガは若い先生よ、ストレッチ教室もきっとできるよ、免疫リンパナントカも「おりゃぁ!」とかおもしろいよ、とかなんとか誘われて出るようになった。仕事を終えてぎりぎりで間に合う時間帯だ。

 続けているのはご利益(りやく)があるからだ。当時悩んでいた高血圧気味の状態が軽快してきた。常用薬をやめて一年にはなる。酒もうまい。圧倒的な数のご婦人のなかに男性はひとにぎり、ときには一人のときもあるが、もう平気だ。一週間がこれでまわる。

 しかしながら、屈折や足を真直ぐに伸ばすことなどはほとんど苦行である。「心地よいところで力を抜いてリラックス、さらに息をながぁく吐いて伸ばします。」なんて、その最中は、伸ばそうとする私の足はぶるぶるしている。骨盤を起点に上半身など沈んでいかない。苦痛そのものの時間で、快感なんかついぞない。第一、みんなが折りたたみ式の携帯電話のように屈曲しているときにまるで伸び行くスカイツリーのようにひとりつっ立った状態でちょっと傾いた程度、だ。見渡せる。インストラクターの「1ミリ1ミリ伸びていくことをイメージするのが大切です。いつかはやわらかくなります。」と聞こえてくる。私のことをフォローしているのかな。

 達成感はないが、つらくともなにか、からだの中の循環がよくなったような気がしている。恵まれた日々をおくっている。

2010年4月29日木曜日

昭和の矜持


 ゴミだしに出るお隣の奥さんに出遭って、行って参りますのあいさつをしてペダルを踏み出す。ネクタイをしていないのは休日に出勤するからバツが悪くてしなかったのではなく、のんびりしていて時間がなくなったからだ。ポケットには突っ込んでいる。都内の練習試合にでも行くのだろうか、朝早いのに電車内には部活の生徒たちが多い。普段の日に比べるとずっと早く職場にたどり着く。

 昭和ヒトケタ生まれ(1933年)で多感な時期に戦争があったアキヒトさんはパパ上と違い、何か矜持があるように私は思っている。そのへんは森達也さんの感じるところ、記すところに共鳴するものがある。サイパンやオキナワ、百済とのゆかり、・・・。だから、この人のお誕生日には「固いこと」は言わずに休む。しかし、なにかこう、このパパ上の誕生日には休む気はしない。そも“人は人の上にひとをつくらず”の原理主義もあるし、アラヒトガミとしてもヒトとしても責任や悲惨について思い及ばなかったのかなという不信もある。

 映画のことで、しかも同年代ということもあるが川西玲子さんの『映画で見る昭和の日本』(ランダムハウス講談社、08年8月刊)をおもしろく読んだ。感性がほぼ、ぴったしで、私の生きてきた、あるいは影響を受けてきた過去のことを振り返るのにはまり込んでしまった。

 苗字はないけれど生活と仕事はこのうえなく保障されているのに、お孫さんのことやお嫁さんのことなどを聞くにつれ、あのご一家ですら生きにくいのかなあと考える。よくはわからないけれど。

 周りでも昭和ヒトケタの人たちが亡くなっていくのを経験しつつある。姉に言わせれば成長期に食べ物がなかったからなどと言う。元号を歴史の尺度にはしないが、いつか、「昭和も遠くなる」のだろう。

 今朝は新聞を取りに行って郵便ポストの上にカタツムリがいた。目と目があったような気がしてお互いにびっくりする。どうやら数年前からこの辺に棲みついたみたいだ。のんびりのように見えるけど、カタツムリの慌てたところもおもしろい。角出し槍出し、目玉を出して威嚇していたのかな。ごめんな。その気概や、よし!

2010年4月28日水曜日

眠り


若いときはよく寝ていた。というより起きられなかった。それで、新婚のころはパートナーに呆れ果てられた。

寝つきが悪くなり、しかも夜中に目が覚める。日々おもしろいと思っているわけではないけれど、別に悩みがあるわけではない。人生ときどきこういうときがめぐってくる。まだ明けやらぬときから枕灯を点けてじたばたして、出勤時にはもうへとへとになっている。悪循環に陥る。

あきらめて早朝出勤する。冬なら真っ暗で駅に人も少ないのだが、この春の時期は早くからごった返す。5月を過ぎると減っていく。

デスクワークなので肉体的疲労はない。その点では現場に立つ人たちには申し訳ない。しかし、仕事の案件はまるでベルトコンベアが動くように次から次へとあるのでこなさなければならない。目と頭は覚醒している。手を抜けない緊張が続く。退社時間のころにはまた、へとへとになっている。帰宅し一息ついて一杯やりながら夕食をとって満腹になると、すぐに眠たくなる。だが、床につくと一瞬冴える。寝つきが悪く夜中に覚める。繰り返し。

刺激やストレッサー、これがなければ生きる励みにならない。そうできているらしい。逃げ出したくもなる。最近、休日の昼間居眠りをするようになった。収支はとれているのだろう。

職場はほとんど皆、穏やかな人たちである。それなのに、ひょんなことで、「上から目線をいやがっている」ということを定例のミーティングで感じた。おとなしくひたすら従順な人たちのように見えていたが、少しほっとした。

定員削減の対象になっているらしい。もしくは効率アップだ。ひらめ目線のミドル君たちがスタッフという参謀たちと蠢動(しゅんどう)している。

「いる」社会から「する」社会へ、不安に向かって確実に動いているように見える。カスミを食っては生きていけませんというのが目の前の本音。カタログとアイテムは膨大な量になっていく。

2010年4月27日火曜日

過剰


 実はあまり不便な暮らしをしたことがない。

 昨日のNHK「ゲゲゲの女房」を観た。東京に出てきて初めて買い物に行く。商店街が遠く、その買い物に行くのが大変だった、そもそも買い物籠もなかったというシーンだ。そういえば、小学生のときよく考えた末に母の日のプレゼントを買い物籠にしたのを想いだした。

“「生きる意味」を見失わせる「すること」の過剰”
 というカタログ(「Kinari」3月5回号)を横目で見ながら、おいおい、そしたらこのカタログ群の分厚さから実践したらどうだい、と思っている。今週はゴールデンウィーク(G.W)2週分ということでまたドサッとある。買い物依存症気味の私は律儀に目を通す。このカタログをつくっている人たちのことを思えば、新聞折込みチラシのように右から左へドサッと放り捨てることができない。一種の敬意を払って一応目を通す。それでも結局、ドサッと捨てる(回収にまわす)ことにはなる。

 家庭用品、キッチン用品に妻殿にも目を通してもらう。消耗品でなければ買えば家に溜まる。まあ毎週毎週こんなにたくさん商品もあるものね、ふんふんと真面目に目を通してから、つき返される。妻殿は賢い消費者、動じない。

 「あなた、この人の書いているとおりよ」「(あなたは)何事も多すぎるの。モノに囲まれているの」「それに気付いて」と。映画『こつなぎ』のパネルディスカッションで進行役をした辻信一さんを、あのときの人と身近に思い起こしながら、矛先がこちらに向けられる。私にも自覚がある。

  「言うこととやることが違うわよ」とくる、「ここだって」とカタログを見やる。

2010年4月26日月曜日

民意


 今日はコートを着ていかなかった。明日は要るらしい。毎日天候のことを記さなければならないほど不順が続く。

 さて、昨日の沖縄の県民集会には9万人が集まったらしい。そもそも普天間基地はアメリカ国内であれば違法な基地だ、あってはならない危険な基地・滑走路だ。辺野古の海を(自然を)壊したくないという鳩山首相の言うのはもっともだ。

 基地は被害と犯罪をもたらした、そして住民が二分されると。「県外」にも行く先がない。
沖縄の地元の放送局のアナウンサーはそれでも抑えた口調で伝える。

 東京のキィー局の言い方は安保ありき、米軍基地ありきで伝えようとするから、沖縄で起きていること、人々が言おうとしていることを伝えることができない。

 ゴミ焼却場をどこにしましょうか、という話ではない。これは、なんとか折り合いをつけなくてはいけない。一方、この問題は米軍基地をどこに置きましょうか、という話だ。「要らない」で済むことではないのか、その選択肢に迫ろうとしているのだ。

 基地を国内のどこに移設しましょうかではなく、撤去という選択肢を素直に伝えればよい。沖縄の人々はお墓参りの季節の大事な日曜日をおして、県民集会に各地から駆けつけた。
 圧倒的な民意だ。

 1945年8月15日澄み切った青空だったらしい。阿刀田高さんも山田洋次さんもともに、その後の日本国憲法に「人を殺さないでいい世の中」、「軍隊を持たなくていいんだ」という選択肢があったんだということを実感したという(昨日のNHK「さようなら井上ひさしさん」16:25~17:15)。

 東京のキィー局、「全国紙」はありのままに、正確に事態を伝えない。

 沖縄のアメリカ海兵隊の基地は国外でしか行き先はない。
グアムは米軍の戦略にとってもよいポジションだと米軍自ら言っている。

 日本に外国の軍隊をいつまで置いていたってなんの解決にもならない。アジアに向き合うことにはならない。

 いつまでも、すかっと晴れず、また寒々としてくる。いつまでたってもお天道様は照らさない。

2010年4月25日日曜日

「黄色い布」を


 朝からインドネシアのチャイコーヒーを飲む。次はどくだみ入り神農茶をがぶ飲みする。

 昨日は上の姉の夫、義兄の13回忌。昼間から紹興酒を、これが10年ものから始めてしまったのでおいしい、あとは3年ものにしたものの姪っ子の婿さんたちを相手にあおってしまった。聞けば、みんな働きもの、子煩悩でよかった。私は、見た目はしっかりしている。帰りは初めて姪っ子の家にお邪魔してまたあおってしまった。それでこの始末。

  しゃきっと姿勢を正し、今日は家中の「黄色い布」を玄関と物干しに掲げる。外から目立つように。沖縄の集会の成功を祈って。外国の軍事基地の即時撤去を願って。

2010年4月23日金曜日

忘れぬ方法


今日はマフラーをしていった。

三男は我が家で唯一理科系に進んだ。さらにその方面に進んだが、どんな仕事をしているのか知らない。話してもくれないのだが聞いてもわからないだろう。万事慎重な性格である、両方の祖父に似たのではないかと思われる。

金曜日は週刊誌の発刊日でもあるが、我が町内では生ごみバケツを出す日だ。定曜日制だ。中島紀一先生は意味がないとおっしゃるけれど、しないよりはした方がましと、我が家では分別に励んでいる。少しでも循環型に近づければと考えている。

忘れるとまた一週間後なので、妻殿はこれを必ず出さなければと思っている。そして出勤のときに出しましょうと玄関の真中に置いている。事前に白いポリバケツのフタをはめ、置いておく。こうすれば、忘れるはずはないからだ。

しかるに、いざ出勤に及んで妻殿はこれを乗り越えて出て行ってしまったらしい。人生の艱難辛苦を乗り越えたのではない、バケツを乗り越えてしまったので、自分がいやになったと嘆く。さもありなん。それ以来、自信をなくしてしまった。そうはいうものの、日々の生活は続く。それで、金曜日の朝は私がそれを出すことにしている。そもそもゴミ出しは数少ない私の役目だ。金曜日は隔週でびん缶のゴミだ。出すところが違う。出勤前はバタバタだ。

鉄道職員がやっている「指差し確認」を我が家ではよりいっそう励行することにした。それをやっていたのにこの始末なのだが。

夕方、このバケツを引き取りにいくのをときどき忘れかける。いつも、ひとりポツンと我が家のバケツだけが取り残されている。だからこの生ゴミバケツのことを幼いときの長男の愛称で呼んでいる。2歳のころ保育園に預けていた。連れて帰るのはいつも最後、ひとりぽつんと母親の迎えを保母さんと一緒に待っていたからだ。この思い出は、いつも二人で胸がキュンとなる。

三男は、明日忘れてはならないことを大きくメモに書き、明日履いて行く靴の中に立てるように置いている。これはなかなかのアイデアで間違いはない。

2010年4月22日木曜日

生きる道


アジア社会を考えるとき、日米軍事同盟の道では解決がつかない。

果てしない資本主義の欲望の道であり、激しい浪費そして私たちの生きていくべき環境と心の破壊である、と考えるようになってきた。
民主主義や自由主義はアメリカやましてブッシュさんのような人たちに押し付けられるものではない。

これを前提とする有象無象のいかなる新党が出てこようと、沈む船から逃げ出す鼠のようなだけで、方向は事大(大きなアメリカ、資本主義の枠組み)への依存、意思の画一化、社会の一元化、生き方のマニュアル化の世界へ導くものだ。強いものへ従えと。

決してついては行かない。
「人間もまた自然の一部である」ただこれだけの真実。

『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』(岩波書店 2010年2月刊)を読み終わる。澤地久枝さんが中村哲さんとの対談で聞きだすという形をとった著書。知らなかったのはあなただけよと言われる。

中村さんの「人の役に立つ人間」であることへのゆるがぬ意志(澤地)。アフガンの庶民は家族が仲良く、自分の故郷で暮らせること、一緒におれること、三度のご飯に事欠かないこと、これ以上の望みをもつ人はごく稀ですよ(中村)。
貧しい者、病める者に生きていく具体的な答をもたらそうと(中村さんの)医療活動は井戸掘りへ、さらに水路建設へと、現実に対応しながら変化し、しかしゆるがずにきた(澤地)。
「アフガンには、アジア世界の抱える凡ての矛盾と苦悩がある」と。

2010年4月21日水曜日

もしそう思うのなら


 晴れて気温があがりましたね。本当なら今頃はこのぐらいの陽射しなのだなぁと思う陽気。明日は雨になってまた寒くなるらしい、そしてバケツ稲用の苗がくる手筈。バケツの‘田んぼ’の代掻きをする。なにごとも真似事ですが。こんなことさえ、去年はきちんとしなかった。

 処分するだけだからとホットカーペットをいただきにあがった。今日行ってきたのでと人形焼のお裾分けも。ご近所のTさんはお独り住まいだったが、いよいよ息子さんご夫婦と同居するために引っ越される。何事につけ積極的な人だったらしい。

 何もしない。これがいけません、集会の日を忘れかけていました。25日は黄色い旗を掲げたい。布地はどこかにあったはずです。ベンチの下か、風呂敷仕舞ったところか。探さなくては。波を起こそう。今度の日曜日は沖縄で県民集会が開かれます。私たちに穏やかにでもできること、この日は家のどこかに、いや外に向けて黄色い連帯の、つながりの色の旗を、布地を掲げてみてはどうでしょうか。軍事基地は要らないと考えていただける人は。

2010年4月20日火曜日

痛い出来事


 日曜日の昼間、うちのキッチンでケーキを作りに来た娘。とんだヘマをやらかした。帰りにお隣の門扉に車をぶつけたらしい。それに気付かず行ってしまった。車輪のアルミホイールが残っていた。なんとか、呼び返して直ちにお詫びに伺う。すぐに修理してほしいと要求される。当然だ。

 夜はみんなと談笑していたけれど、ホントは落ち込んでいたのだよねと、見送ったあとで妻殿と言葉を交わす。私も心にチクッと痛い出来事だった。

 朝一番で保険屋さんにお願いしたらしい。業者さんはすぐに対応してくれた。娘は勤めの帰りが遅い。昨夜あらためて菓子折り持ってお詫びに行った。そして一緒に遅い夕食をとった。

狭山茶あたりの焼き団子


 お店閉めるところだったんじゃ?「いや、いいですよ」じゃ7本。
 もう何年になりますか。「4年半です。8月で5年。よくつぶれずにきました。」いや、買い支えようとは思うのですが、たまにしか買えなくて・・・。ここのはおいしいから。ちょうど息子たちが来るので、通りがかりにふと買いたいなと思ったもので。

 これ、上新粉からつくるのでしょ。「そう、餅と違ってね米の粉だから、粘りを出すのに熱いお湯で練るの。」誰に教わったのですか。「ばあちゃんだよ。うちは東村山だから小さい時よく手伝わされてさ、それで知ってんだよ。」リタイヤされてから始めたんですか。「ふつうのサラリーマンしてたんだけど、土日はヒマでね、女房が始めるっていうから、私もはじめちゃったってわけ」

 「朝は早く起きるから、熱いお湯の中で練ってね、団子にするの。そしたら粘り気が出る。そうさ自分で串刺す、全部自分でつくっているよ。保健所さんね、あそこから見るとこれはお菓子なのよ。串が刺さらないようにしてください、って注意されてもねぇ。そんなところかな。」「水稲がとれなくてね。みんな陸稲(おかぼ)なの。ぼそぼそでまずいの。だから、こうやって焼き団子にするとおいしいのさ」「みんな団子というとお菓子の餡子のついた柔らかい団子と思うけれど、この辺は焼き団子さ」「誰に聞いたんだか、遠くからも買いに来てくれてね。お客さんに支えられているよ。」

 ここのはおいしいからですよ(良心的だし)。ホントにいつも買いたいとは思うのだけれども。「いやいや、そういつも食べるものではないし、年に2、3回買いにきてくれたらいいよ」

 8本焼いているので、注文を言い間違えたのかなと思ったら1本はおまけしてくれた。7本の御代で560円也。

 お父さんが焼き団子を買ってくるなんて計算外だったわ、さっ冷めないうちに食べよう。と、竹の皮を開けると、う~んお醤油のいい香り。でも、おなかいっぱいで女性陣にはあまり食べてもらえなかったなぁ。

2010年4月19日月曜日

サプライズだよ


とっても喜んでもらえた

南の島から帰ってきた二人は疲れた様子だった。長男の車に駅でひろって我が家に直行してきた。あんまり食欲が進まないと言う。向こうでは民宿もホテルも正解だった。しかし、晴れ間を見られたのは束の間。星空も見られなかった。食べ過ぎもあるらしい。つわりかな。こちらの寒さのことを聞けば、行っていてよかったと。愉快な食事を終え、それじゃあと、やおら大きなカバンからお土産をひとつひとつ出してみせる。基本的には郵送したというが、生のものや瓶のものは手に持ってきた。私たちには生の島らっきょう、オオタニワタリという野菜、限定販売・薀蓄の多い泡盛「請福」、兄夫婦にはバジル入り島とうがらし、八重山ソーキそばセット、ホテル特製のモズクドレッシング、姉には泡盛「請福」。ラー油はあまりにブーム過ぎて買ってこなかったという。たった数年のことで沖縄の物産も深化するものだ。センスが先を行っている。

――― と、一段落して、そして私達の義理の娘・長男のお嫁さんの後ろから差し出しましたる「手作りのイチゴケーキ」。サプライズ企画のつもり。娘が義姉のためにつくったもので、スポンジがちょっと傾いているのがご愛嬌。娘はちと不器用で自信がないので‘ちかちゃん、おめでとう’は母親がチョコペンで書いた。もう30を過ぎているのでローソクは5本にしておいた。みんなで“プレ誕生日おめでとう”をこだます(ホントは明日だから)。虚をつかれびっくりして、それだけにとっても喜んでもらえた。携帯で画像をとり、こっちむいて写真を撮られ、少女のようにローソクを吹き消す。我が家にむすめが増えたかな。娘がもうひとつ作っていたマーブルケーキ、そして素敵な瓶の容器にはいった珍しい入浴剤をプレゼンとする。私たちからも紀伊国屋の包装紙に包んだプレゼント。開けてみてもいいですか、どうぞ。『夕凪の街 桜の国』(こうの史代さん、双葉社)、『ゲゲゲの女房』(武良布枝さん、実業之日本社刊)、『勇気ってなんだろう』( 江川 紹子さん 岩波ジュニア新書)。ケーキは別腹、紅茶をして楽しむ。

さっ、あすから二男夫婦も仕事だ。営業、営業、拡大、拡大。早めに解散。BSで「龍馬伝」を観る。日曜日の夜が過ぎた。

2010年4月18日日曜日

外国軍の基地


 奄美の加計呂間島から船を出してもらい海峡の西の端に来た時大きく見えた島、それが徳之島だ。行ったことはない。若いときは町を二分した激しい選挙戦の闘われるところというイメージが強く、実際、奄美本島の人は「あそこはハブも人も気性が激しい」と言う。

 「県外」とはどうやらここが本命らしい。種子島の西の沖合にある小島馬毛島(まげじま)も候補にあがっているようで驚いた。指宿から大隈の佐多岬を越して目と鼻の先だ。こうなると私も身近に迫った実感として受け取れる。

 海兵隊は殴りこみ部隊であって防衛部隊ではない、その抑止力をことさら言うが逆で、そんなもの日本にあるから日本の平和力を信用されない。日米関係は軍事同盟であるべきか?民主党のみなさんはそこから少しも脱却できないから、自民党政権の置き土産の地雷を踏んだまま身動きできないでいる。勝連沖に行こうが、名護の海に行こうが陸に行こうが、200km先の徳之島に行こうが、地雷を踏んでいるから「爆発」するしかない。沖縄県民、国民の「怒りの爆発」だ。

 対等平等の日米関係に腹を据えていれば、せっかく政権が変わったのに発足当時から「日米同盟が要(かなめ)」などと外交の手の内を言う必要はなかった。つきつめるところ戦争に負けていったいなにをどう握られたのだ。どんな弱みや急所を握られたら、60余年も領海、領土、領空に外国の軍隊が我が物顔に出入りできて、広大な基地を占領し広い空域を占有しているのか。しかもこちら側から維持費を事実上無尽蔵に提供し続けなくてはならないのか。守っていただいているのかなぁ?そうかなぁ?我が領土と生活を踏み台にして古くはベトナム、今はアフガン、イラクなどへ出撃しているだけではないか。

 沖縄の基地のある町は60%以上もの土地を占有されている、しかも一番いいところを。その爆音は耐えられるものではない。目の前で大型ダンプのクラクションを鳴らされ続けているようなものだと聞いた。軍隊はひとの命を奪うべく訓練されている、まして侵略、謀略を任務とする部隊はすさまじい。基地を出た路上で人を轢いても屁とも思わない、そんな感覚だ。市民はそんな環境の、すぐその隣で日常の生活を営まなければならない。一旦、危険や恐怖を横において今日と明日の‘食う寝る’をしなければならないのが実情だ。

 国外に出て行ってほしい、御国に帰ってほしい、この願いとも、要求ともいうべきことが何故、現実的ではないのか。現実的ではないと思い込んでしまっているだけではないのだろうか。外交努力の基本が間違っていないだろうか。私たちにも「沖縄の、基地のある痛みを我が痛み」とできていない「他人事」という根性がある。それが温度差だ。我が身の足の先を針で突付かれたら死ぬほど痛いのに、人の身を剣で突付いてもなんの痛みもわからない状態だ。原発の例ではないけれど、東京湾、そうお台場あたりを埋め立てて2000m級滑走路の米軍基地をつくるなんて言い出したらどうなるのだろう、「首都圏防衛」とかお題目はできるが。

 速報によれば徳之島ではどうやら1万人以上もの人々が集まり、米軍基地の移設をやめてくれという集会、「断固反対」という意思を示したようだ。島民の半分が集まったそうだ。東京都で換算したら500万人余という人々が集会に出て意思を表明したことになる、そう想像したらいい。

 「日米同盟ありき」では解決の仕様なく、平和で友好的な日米関係をつくるべきときだろう。対等で平等な。

 名護の具志堅さんは沖縄からのうねりを日本各地へそして最終的にはワシントンまで届く波を起こそうと考えている。

 花が散り新緑が芽吹いてきた、今日はまっとうに暖かくなった。チューリップの花が咲きそうだ。夜は子どもたちを集めて二男夫婦の新婚旅行のみやげ話を聞く予定。

2010年4月17日土曜日

おくる


 昨夜は職場から早めに帰ってきた。冷たい雨の中、自転車を漕いで斎場へ急いだ。今朝はこの時期に冗談かと思っていた雪が残っていた。

 茨城県牛久沼のほとりに住井すゑさん(~95年)の主宰する塾「抱僕舎」があったそうだが、まだ小学生だった二男も連れて妻殿たちは訪ねて行ったことがある。その仲間に斎藤さんもいた。ご近所の朗らかな人で20数年お付き合いしてお互いに歳を重ねた。住井すゑさんの、人間の価値や尊厳を大事にすることへの歯切れはすこぶるよい。権力も‘東大’もギャフンだ。

 荘厳な音楽と黙祷で始まり、喪主である斎藤さんは淡々と挨拶をなさった。私は実は無宗教で行う葬儀の参列は初めてだった。棺の上に大きな望遠レンズのついたカメラがある。誰かカメラマンの人でも置いているのだろうかと入ってきたときは思ったのだが、故人は写真とクラッシックが好きだったそうで合点がいった。両側に故郷の新潟の風景と住まいの界隈を撮った写真が飾ってあった。私は故人にはお会いしていないような気がする。いつも斎藤さんの話を、妻殿を通して聞いていた。故人がアルコール依存症になって難儀なさって長かった話を聞いている。飾ってある遺影は斎藤さんがデジカメで撮ったそうだ、ご主人はいやがったそうだがついにっこりとしたところがうまく写っていた。あらためて、心根の優しい人だったのではないかと想像した。

  あのとき牛久の住井すゑさんのお宅を訪ねるときの息子のスナップを撮って載せてくれたのは誰だったのだろう。

2010年4月16日金曜日

思案

 若いとき、荒神橋の喫茶シアンクレールは人気のお店だった。高野悦子さんで有名になった。

 昨日よりずっと寒くなった。なんだこの寒さは。雪も降るらしい。

 もうひとりの私達のむすめ、長男のお嫁さんの誕生日を知ることになった。もうすぐだ。

 なにがよかろうかと思案する。私は『この世界の片隅に』三部作がいいと思うのだが、あのストーリーは子どもになかなか恵まれない話の部分があるので、ちょっと・・・と妻殿がためらう。よく考えてみれば、長男の嫁とはいえ、さて、どんな嗜好なのかよく知らない。お部屋を「北欧風にしてみたい」とか言っている以外に。長男は学生時代からの長い交際のようだが、私たちは付き合いがまだ浅い。いつもにこにこと食事をしている場面しかないなぁ。
 
 何か気の利いたものはないものか。これまで、父の日だ、母の日だともらいっぱなしだったから、なにか心の通じるものをあげたいのだけれども・・・。

2010年4月15日木曜日

十文半


 外に出していた観葉植物をひっこめる。昨夜のうちにしておけばよかったのだけれども。マフラーをして出かける。3月上旬並みの気温だという。朝になっても茶畑の扇風機がぶんぶんとうなっている。遅霜はお茶にとっては大きな打撃だ。電車に乗ればみんなコートを着ていた。

 十文半(とうもんはん)、昔はそんなサイズの女性用の靴はなかった。十文(とうもん/24.0cm)止まりだったろう。

 実家では私が一番大きかった、この私が、だ。あの棚のものを取ってと言われたって、踏み台が必要だった。“背の高い女性と一緒になりたい、子どもには苦労させたくない”というのが潜在意識になったのかもしれない。私の母がなにを気に入ったかというと、彼女の背の高さだっただろう。今ではどうということはない背丈だが、同年代では高かった。彼女の母親も同じ背丈なので戦前・戦後当時は文字通り肩身の狭い思いをしたらしい。

 それで、NHKの連載小説「ゲゲゲの女房」を観たくて苦労している。朝2回(7:45、8:00)、昼1回(12:45)、夜1回(19:30)と土曜日まとめて(午前)機会があるが、なかなか観られない。絵がきれいだし、そういうストーリーと時代背景が興味深い。水木しげるさんの「コミック昭和史」は超一級の証言だと沢地久枝さんもこの前の講演で述べていたが、ちくま文庫に収められている漫画の著作も戦場体験をしたひとのリアルさで描かれている。

 妻殿から録画機能付きのテレビを買おうよ、合理的に暮らそうよと提起されている。億劫で買ってはいない。それでも、なんとかこの番組は観たい。

2010年4月14日水曜日

あくまでも愉快に


 いよいよ事業計画では定員削減を明言してきた。人件費とつぎに定員を削減する、世の中の流れだ。ほかに策はないのだろう。みな収入が減り、失業と隣り合わせの生活をしている。だから、ますます「低価格」は輝き(?)を増す。事業の突破口はここに見出している、勝つか負けるか。20年前にも踊らされた「座して死を待つよりも」と。職場に蔓延する閉塞した雰囲気、あのときは誰か行けだった、今回は皆で行くということだ。

 月曜日の朝、ラジオの話し手は内橋克人さんだった。井上ひさしさんをしのぶ内容。ラジオはテレビでははっきり言えないことを伝えることができる。人が人として生きられる世の中をつくるために、たまたま居住するところが一緒で「鎌倉9条の会」を医師のなだいなださんも含めて3人で立ち上げた仲だったそうだ(05年2月)。心にぽっかり穴があいた心境と井上さんの常に真摯でユーモアたっぷりな生き方を紹介された。「難しいことはやさしく、やさしいことは深く、深いことは面白く、面白いことは真面目に、真面目なことは愉快に、ゆかいなことはあくまでもゆかいに」

 土曜日の夜、兄を泊めた。肺にまた癌がみつかってね。「死ぬのもひと苦労だよ」私には言葉がない。「人間いつかは死ぬから」などと注(つ)いで出てくるが、まるで私でない人間が言葉を発しているようだ。兄の話はいつもおおげさなところがあって真意をつかみにくい。しかし、癌、余命とくると、これまでの経験からいうとその通りになっている。翌日曜日の朝には井上ひさしさんの訃報が流れてきて、肺がんで75歳だったという。兄の年齢に近い。なんとバツの悪いことになって、慌てて八朔を剥いてすすめる。妻殿は着付けがあって早くに出かけた。披露宴のあと、どこかで茶でも飲もうと身内だけのといっても18人の大勢だったが、そのテーブルにも参加した。新幹線の時間があるからとみんなに挨拶して先に帰っていった。

 兄も義兄もまるで自分の足跡を東京で振り返っているようだった、またほんのひとときの自由をたのしんでいるようだった。まじめにはたらくことしかなく、がむしゃらにはたらいた。資格をもっている兄は今も現役だ。そして二人とも病だけではない悩みをもっていて解決がつかない。兄からは「楽しかった」とメールを夜にもらった。

 そんなことが過ぎて、水曜日になった。今度の日曜日には二男夫婦が帰ってくる。よし、長男夫婦、むすめを呼んで夕食会兼「あれはなんだった反省会」をやることにした。私たちにはむすめが増えたのだから。どんちゃん騒ぎなら二男の彼女はできそうだなぁ。

2010年4月13日火曜日

球根


 妻の兄、義兄が帰って行った。昨日は小雨で寒かった、中学を出て働いたことのある思い出の場所を訪ねたらしい。初日は一日コースのはとバスに乗ったと聞いた。私たちも訪ねたことのないところだ。難病を患い、小康状態になって体調を整えたと言って、上京して披露宴に出てもらった。

 うちは花だらけになって、華やかになった。散り始めたが花桃が満開で、球根で植えていたチューリップが咲きはじめ、息子の披露宴でもらった花束が花瓶にある。いいものだ、こころまで豊かになったような気がする。

 二男たちは今朝、旅立った。再婚すれば別だが二度とないはずの新婚旅行だ。のんびりしてこいとCメールを送る。止めるのを忘れて、留守宅にほっぺたんの宅配が来たので引き取りに行った。帰って来たら、夕食を準備しておくからみやげ話をもって来るように言っておいた。

 夜、留守電が入っていて、ご近所の斉藤さんのご主人が亡くなられた。真面目な人だった。アルコール依存症を患い禁酒道場に通うなど苦労なさっていたことなどは聞いていた。癌で手術をされたことも聞いていたのだが…。

2010年4月12日月曜日

ひとつひとつから


世間体、あるいは企業の管理職の自己保全につきあっていたら実は大変な事態になる。

DV(ドメスティック・バイオレンス)、あるいはモラルハラスメントだ。じわじわと進んでいるのが実態だろう。

まだまだ、反撃が足りない。泣き寝入りどころではない、いまだに自分が悪いと逆に追い詰められている。それが実態だ。簡単に言うと暴力と暴言、いじめ。被害なのに自分が悪いと思いこまされている。「思っている」というのがせいいっぱいだろう。

まず、家族すなわち身内が気付く、周りが話に乗る(受け止める)、そして対処をしない限り、被害を受けている人間に危害が及ぶ、ひいては最悪の事態にもなりかねない。DVは形(あざとか骨折とか)で残りまだ対処ができるが、モラハラは客観的証明が難しい、また加害の方にも自覚、後ろめたさがない。それでコトナカレで対処されるのが現段階だ。「受け止める側がハラスメントと言えば、ハラスメントだ」と消極的に対応され、「弱い人だ、おおげさな受け止め方」だとかわされる。これが一般的だ。実は違う。病んでいるのだ、加害の側が。こちらを見ていない。能力がある、必要悪、うまく表現できないなどと擁護され、じつは利用している。

光と闇なんていっている場合ではなく、ひとつひとつのことに気付き対処をしていかなければならないと考える。家庭や或いは企業内で起きていることだ。その根底にある社会のこと、仕組みのことにも言及しなければいけないが。まずは、まわりを見まわす必要があるだろう。「闇」ではなく「病み」のことだ。照らさなくてはならない。奇麗事ではない。キレイごとで援けあいの社会なんてできやしない。

2010年4月11日日曜日

新米夫婦


二男夫婦が誕生した。

列席の皆さんの前で結婚の誓いをして、みなさんにそれを承認してもらうという人前結婚式を執り行った。そして直ちに「結婚記者会見」に臨み、駆けつけた朝日新聞、埼玉新聞、大分合同新聞、広島新聞、はては韓国KBSの各記者から矢継ぎ早の情け容赦ない質問が飛び交った。既に入籍しているのでは、ご懐妊とのうわさがありますが、どうしたら早く赤ちゃんをつくれるのですか、何人まで増やしたいのですか、などと…。それぞれの記者たちがホントに各報道機関に所属するのかどうかは定かでない。

型は破った、さすがわたいの息子カップルが自ら企画しただけのことがある、おもろい披露宴だった。そして素直にお互いを愛することを誓う旨公言した。

その上、サプライズは新郎の母自身が祝辞に登場し、二つのメッセージを贈り、出し物を披露したことだ。「妻にやさしい本当の強い男になれ」と檄をとばした。
ひとつ、努力して、できるだけ家族全員で食卓を囲んでください。
ふたつ、いつまでも会話ができる夫婦でいてください。
そしてMATSUNOBU先生からつくっていただいたこの日のための曲を歌った。 世界にふたつと無いオリジナルだ。
話し方もうまかったのだが、会場が一瞬シーンとなった、反応は上々でやんやの喝采を浴びた。私は最後に新郎の父の挨拶をそつなくこなすのが精一杯だった。

世のためひとのため、協同の社会の一員となり、人の幸せとともに自らの幸せもつかめるカップルに成長してほしいと思う。

帰宅して、式場で配られた手づくりの模擬新聞などをみて大笑いし、ひとりひとりの顔を浮かべながらつくったであろうメッセージに感心し、焼き上げて配ったクッキーの出来栄えを楽しんでいる。

うちは祝い事だったが、朝刊に井上ひさしさんの訃報を見て大変残念に思った。

2010年4月10日土曜日

花桃


穏やかな日だった。家の中を片付ける。掃除する。

兄と妻の兄を新宿で接待する。やたらと学生さんが多い、新入学の初めての週末だ。長男夫婦も引き合わせる。兄を迎えに下りたら板長さんが板場に立っていて、この前のことも含めて挨拶をしたら、会食中におめでたいことでと差し入れをいただいてしまった、恐縮。新宿にこんな静かなところがあるなんて、とか、それぞれの話に花が咲く。

甥っ子は再婚できたそうだ、再婚なのでとくに知らせてはくれなかった。兄は肺にまた癌がみつかって再びその治療をしなければいけないという。数年前に余命5年と言われたらしい。じゃあ差し引けばあと何年もないではないかと、そういうことだねぇと。癌よりも抗癌剤の副作用がつらい、発疹もでるしとワイシャツの腕をめくってみせる。家に帰ってきて二人きりになってそういうことを淡々と話す。そのうちに、風呂が沸いたので入ってもらう。

兄の青春を過ごした東京、昔の八王子も日野も知っているらしい、今日は友人にも会えたと。明日はよろしくお願いします、と言って就寝してもらった。
明日の朝は我が家の花桃を見せよう。

2010年4月9日金曜日

密約


 見かけたの、西武特急を所沢で降りて、お一人だったけど、うまく乗り換えられたのかしらと聞いた。私は開場にようやく間に合った。
 昨夜の「基地はいらない!沖縄と連帯する集会in所沢」

 今日4月9日の東京地裁の判決を澤地久枝さんは注目するように昨夜の講演で訴えていた。 よくとおる声で、すこしまくしたてられるような印象だった。
 「政府は密約を結び、しかも平気でウソをついた」、あのとき「“沖縄密約”を見事にすりかえられた」と。
 私も、情報の取得過程をスキャンダルにして ‘西山事件’とされ、国家的背信をすりかえたあのときの社会の雰囲気とインチキさを覚えている。週刊新潮が走狗となった。「毎日新聞」自身が屈した、ことも。
 沖縄「返還」後も米軍基地は変わらず、しかも経済的負担は日本が負った。今に続いている。米軍が長く居て、それも駐留と言っているが実質は占領状態である、自衛隊が強くなって、日本国憲法9条がないがしろにされている。 沖縄への重い負担、米軍への巨大な経済的負担。戦後史にたいする「悲しみ」という。
 講演は「一人からはじまる」という題の気迫のこもった内容だった。
 最後に、絶望からは何もうまれてこない、何も行動しないことからも生まれてこない、と。小さな人間(小田実)、自覚した市民、行動に出る市民、一人の力、一人の自覚した力、「私は(高齢で)デモにもいけない、話もへただ、それで私は本をつくった。」「新しい日米関係をつくれるときではないか。真の友好と対等に基づく。」

*近著に『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る――アフガンとの約束』岩波書店 (2010/2/25刊)がある。講演の「一人の力」という例で中村哲さんの今もつづく行動を紹介された。

 そして、本日まっとうな判決が出た。「沖縄返還文書訴訟:日米密約認め、国に開示命令 東京地裁」 by『毎日』、 岡田外相は控訴する構えのようだが・・・。

 いちゃりば、ちょうでぇ、(居合わせたら、兄弟) 基地はいらねぇ byいちゃりばーず(豊岡マッシーをリーダーとする音楽グループ)

 「興南高校が春の甲子園で優勝」がでかでかと掲載された琉球新報と沖縄タイムスの号外を掲げて紹介してくれた名護市議の具志堅さんが駆けつけた、4月25日の県民集会はすごいことになりそうだ。どこかの下地さんだけがへそを曲げて出てこないそうだ。

2010年4月8日木曜日

今日から


まるで梅雨の晴れ間のようだ。向かいのおじさんが今日から黄色い帽子でなくなったんだなと孫たちを冷やかしながら送り出している。ゴミ出しから還ってきたらその集団登校に出くわす。駐輪場もいっぱいだ。

兄と義兄、長男夫婦の接待の準備ができた。

遠い昔のことならよく覚えているが、今瞬間のことを忘れてしまう。亡くなった母に見ていたことが自分に現れる。ヤバイ。朝からそんなことで大騒ぎする。今あったのに、あれがなくなったと。自分でしまっていた。先が思いやられると嘆かれる。

夜は澤地久枝さんの講演を聴く。

2010年4月7日水曜日

冴えない


小学校の桜が満開で畑の菜の花も咲いたのに、冴えない。晴れないからだ。気温も低い。野菜も不作らしい。

十幾つも年上の兄が上京するので週末の食事どころの手配をする。あと何回さくらを観られるかねぇ、だ。

私は生き抜くことができるだろうかと、やや難しいことを考える。できる可能性が高い、思考をスパッと止めてしまうからだ。濁流に巻き込まれているときに、筏を見つけそれにつかまり這い上がって乗ったときのように、濁流の中でのこと、濁流の行く先を考えない。ただ、ときどき不安に襲われる。

最近、寝つきが早いですよと言われる。それは上辺で少しも寝付いていないんだ、悶えているんだと訴える。ええ、明け方もすやすやとお寝むしていますよ、とくる。げに凡人はつらい。

2010年4月6日火曜日

くつろぎ



愛車(自転車のこと)、愛妻弁当ときて、何が不足なのだろう。愛ネコかな。

そのイベントには瓦屋さんやタイル屋さん、畳屋さんの組合が出店していた。それでたまたまタイル屋さんではタイルの鍋敷きを、畳屋さんではコースターとミニ畳敷きを買い求めた。これが我が家に置いてみるとなかなかいい。
このニャンも、このガオもくつろいでいるように見えてくる。

はてさて、今日いちにち引き裂かれたこころとからだと呼吸を整える。

2010年4月5日月曜日

仕事ってのはね


 安い商品を探し出して、あるいはつくりだして売り出すことに血道をあげる。収入が伸びなくなった勤労者、消費者の生活を支えなくてはならない。これが使命だ。

 ところがそうすると、今度は商売をしている個々の職場の売上げが伸びず、利益がうすくなるから、定期昇給もおぼつかない。それはまやかしなのだけれども、それが仕組みだ。みんながそうだから、なにを言っても始まらない。年度替りで職場からいなくなった人たち、彼女らが派遣職員だった。「経費は削減された」。

 さっ、みなさん自ら考えて、この目標に到達するためにはどうしたらいいかご提起ください。もちろんそれは評価の対象になります、と。援けあって遅れている人の仕事もこなしましょう。それは週報かメールで申告してください。評価の対象になります。

「そうよ、仕事ってのはね 何しても 楽なものは ないんだよ、うん。」
~男はつらいよ第5作 望郷編~
  『人生に、寅さんを。―男はつらいよ名言集』08年10月キネマ旬報社 より

2010年4月4日日曜日

大きな公園でお花見

 朝からお弁当をつくって久しぶりにお重に詰める、木の器はいいな。二男カップルを誘って有名な公園にお花見に行った。晴れることはなかったけれども、桜は満開。イベントも開催されており、ボランンティアの案内人は13万人の人出だと言っていた。気温が上がらずほぼ真冬の恰好。七輪で鍋を囲んでいるグループもいた。帰りしなに大道芸を見て楽しんだ、なかなかの芸と口上におひねりをはずんだ。

 来週診てもらっていよいよ性別を聞くらしい。8月6日が予定日だそうだ、覚えやすい。韓国人のユゴォンさんの母親からあちらの国の赤ちゃん着をお祝いにいただくそうだ。

 思えば私たちが結婚したとき、それぞれの親からお祝い金をもらった。手切れ金かと思うほどの、当時の私たちにとっては大金だった。郵便局に預ける暇がなかったので、洗濯機の下に隠して新婚旅行に出かけた、二人して留守中に火事にでもなったらどうしようと思った。そんなことを覚えている。そのお金は簡単に使う気にはなれなかった。ほかに貯めたお金と一緒になっても、何か違う大切なお金だった。あのとき親からもらったお金はありがたかった。

 式場は前払いらしいから現金がいるだろうと思って、息子カップルのところへお祝い金を届けた。明日の朝、コンビにのATMに預け入れるそうだ。

 人生はめぐりめぐってくるものだ。

2010年4月3日土曜日

新しいのがいい


土曜日も思いっきり仕事だ、今日も手加減せず働いた。夕食を終えたら眠気に襲われる。手を抜くどころか、ホントは足を抜きたい。

それでも私の陽気がいいのは「タイヤ」のせいだ。
「かあさんがいなくなったらどうしよう」「女房と畳は新しいのがいいのよ」 うん、それもいいかなとは思うが 現実的ではない。この世間の常套句を我が家では「タイヤと畳は新しいのがいい」に変えよう。

今日もお弁当をつくってもらう。冷凍食品でちょちょいでいいからと言うと、ちょちょいならあなたでもつくれますよとくる。それはやらないからいけない。あなたがつくるからいいんだよなどと言って出かける。自転車を漕いで行ける。乗れなかったのはたった一日だけのことだったけど。

今日は南九州に出かけている姉一家が開聞岳を見に行っている。風通しをお願いした。

目が覚めてNHK「無縁社会」の“悲鳴”を見始める。見ていてつらい。

2010年4月2日金曜日

点描

 湾に近くない東京は谷があって坂が多い。谷があるということは山があるのだろうが、東京ではビルが林立していてよくわからない。それでも、神社と鎮守の森らしきところがあれば、そこは山の上か中腹であったであろうことが想像できる。そのナントカ坂、カントカ坂にはたいがい桜が植えてあって名所になっているところがある。こんな排気ガスだらけのところでなどと東京に来たころは思っていたが、慣れてきた。渋谷はその名のとおり谷である。コンクリートに固められてはいるが谷川もある。その名のとおりの桜坂、商店街で雪洞(ぼんぼり)を飾る。桜の季節だ。職場の有志が花見を計画していたが風雨の予報で順延した。千葉や茨城のみなさんはほうほうの体で出勤してきた。

 私は自転車が好きなんだな。

 昨日の朝、後輪の空気が抜けていたのに気付いて慌てて空気を入れて出勤した。帰ってきて駐輪場でみればまた空気が抜けていたので、これはパンクだと気付いた。自転車屋さんの猪俣さんのお店は7時までだ。20分以上はかかる。いま、6時半だ。引っ張っていくのだが、ひょっとしたら定休日ではなかったかとも、記憶がよぎる。辿り着いてみればやっぱりそうだった。汗をかいている。ここまで来てまたひきずって行くのはちと大変だなと判断したから、ご近所の吉田さんところにあずけようと考えた。インターホンを押せば幼いお孫さんが出る。仕方ないから、一応無断で置いてきた。後から電話でお願いすることにした、それぐらい親しい。それで今日も早く帰ってきて、吉田さんところから引き取り、猪俣さんところでやっと修理をお願いできた。後輪のタイヤが磨り減っており、取り替えてもらった。なんか、よかった。修理をずっとみていた、器用なものだ。

 なんでもなく健常である。とりあえず病気はしていない。ともかくもつれあいがいる。ともあれ正規職員である。胸式だろうが腹式だろうが空気を吸えている。蛇口をひねれば水が出る、スイッチを入れれば明かりが灯る。インターネットがつながる。まだ、アナログでテレビが見られる。etc.

 そして普通に自転車に乗れる。私は実は、たっぷりと幸せなんだ。なぁあんだ。

 日曜日は晴れるらしい。じゃ、妻殿が大好きなお花見をしようと思う。以前のように容れものはお重がいいな。花粉も和らいだような感じ。花の下で“来し方、行く末”を考えてみよう。

2010年4月1日木曜日

今日の嘘


 東京の桜は咲いた。月めくりのカレンダーをめくる。冬水田んぼが一気に菜の花畑になる。んな馬鹿なことはないのだけれども、カレンダーの世界では真実だ。

 大人の頭の重さはだいたいスイカ1個分と聞いている。虐待で死なされた子は5歳で6kgだった。この子の身体全体の重さが、肩こりで右に傾けたり、上に仰いだりしている私の頭ひとつ分もなかったなんて…。ウソだぁと信じたい現実。

 あなたはいつも美しいと言うと、ウソだよと言われる。ホントのことだよと言い返す。

 山田洋次監督の言う「映画の嘘」を新田匡央さんは著書『山田洋次 なぜ家族を描き続けるのか』(2010年1月刊、ダイヤモンド社)の第3章で紹介する。「より真実を描くための‘嘘’」、映画「おとうと」でのセリフの内容に私もへぇ~と思った印象的なシーン。ヒロイン小春の幼なじみで大工の亨が洗面所のドアを直しにきて言うセリフ。

「ドアは本来垂直につけなきゃいけないんだけど、重みで傾くことを計算して、吊り元を二ミリか三ミリ傾けておくんだ。これを大工の嘘と言ってね」
「たとえば天井があるだろう。この部屋の広さだとセンターをほんの一センチ二ミリか三ミリ上にそらしておく。そのことで初めて水平に見えるんだ。そういう嘘をあちこちでつく。これが大工の極意。なんちゃって」(引用)

 私は美しい幻想を見たい。幻想を見たらよい嘘が書ける。山田洋次さんに倣いたい。なんてこったい、ノートに幻と書こうとすると幼となる、私の実体が反映するのだろうな。

 あなたはいつも美しい、こころが。ホントのことだもんなぁ。

 身を守るための虚言を弄することはあっても、ひとのためになる「嘘をつく」ことができない。一途にリアルを追究してリアリズムを超える。芸術の域。

 今日はどんなウソをつけばよかったのだろう。
 *このニャンは妻殿のおみやげの箸置き。作者先生から買ってきたという。