2010年3月31日水曜日

極限の


人を殺傷することが許されるはずはない。
3月29日のモスクワの地下鉄で起きた自爆テロ事件。
ロシア当局は北カフカス地方の組織の人物とみて捜査を絞り込み、報復に似たニュアンスで対応を表明している。イスラム系の女性の犯行で身元を割り出し中だという。監視カメラに映っているらしい。

テレビのニュースでは「女」と呼び捨てにされる。実行犯は二人だ。

誰が計画を立て命じたのだろうか、あるいは示唆、「志願」させたのだろうか。
いつか劇場を占拠したときに実行犯グループには女性もいて胴体に爆発物を巻いていた(モスクワ劇場占拠事件2002年10月23日~10月26日)。あの姿を連想する。当局は強硬手段に及び実行犯たちは全員殺された、人質も多数巻き込まれて。

今回は監視の網をくぐって、群集に紛れ込むために、爆弾を巻いた身体を外套か何かで包んでいたのだろうか。インディラ・ガンジーを暗殺した捨て身のテロ(91年)も想いだしてしまう。

自らも吹き飛び、周りの人を殺傷する。その覚悟のほどが、心理が、わかるようでわからぬ。私には考えることすら「極限」だ。

この自爆攻撃を計画し命じた者が確実にいる。そして実行者には女性が仕立て上げられる。弾圧や戦争(チェチェンでは苛烈な事実がある)で夫を失って絶望的になった未亡人だとまことしやかに言われる。

ロシア当局は「威信」にかけて犯人を割り出すかもしれない、組織をそして民族を急襲し十把ひとからげで報復を行うことだろう。それは虐殺と徹底した生活の破壊となるだろう。それで愛する人を、身内を失った‘女’がまたいつか無差別の自爆テロをくりかえす。

今週末、姉夫婦は熊本の嫁ぎ先の法要を兼ねて南九州を訪れる。義兄は知覧の特攻記念館に行きたいという。航空機による体当たり攻撃の戦死者(乗組員)5千数百人だ。17歳ぐらいの少年から数多の青年の命が使われ、志願という形をとった「戦法」だった。

記録映像で見たことのある、訓練したシェパードに爆弾を背負わせ敵陣に突入させたドイツ軍の「戦法」。同じように訓練したイルカに爆弾を背負わせ敵艦隊に突入させる戦法。

屈強な男ならよくて、知恵のある動物や女子どもならかわいそうでけしからんというのではない。ただ、戦法そのもの、とりわけ実行者の起用に、卑劣さ愚劣さを見せざるをえない、やりきれなさ。複雑な背景があること、負の連鎖であること、この手段に追い詰める大きな力があることも当然併せて顧慮しなければならない。

自爆攻撃という方法を、極限の手段という中身のことに私は想像をめぐらして、そしてその想像から逃げ出す。

2010年3月30日火曜日

どこに行った


 庶民の貯金の利子を取り上げられて久しい。これはもうひどいものだと言ってよい。さらに金利が引き下げられている。いくばくかの退職金が無事入ったとしても運用の仕様がない。
 澄み切った夜空に満月。外国で見るお月様は違うのだろうかといつも思っているが、いつもわからない。
 妻殿のおみやげはニャンの箸置き。ネコが心地よいときに発する鳴き方を真似て、喜びを表わす。たわいないひととき。

2010年3月29日月曜日

地デジ


 仕事で遅くなって帰るなんて久しぶり。駐輪場に着いて見上げれば怜悧な月明かり、満月に近い。真冬に後戻りのような冷え込みだ。この時期、茶畑にとって恐いのが遅霜だ。下にむかって扇風機がぶんぶんと唸っている。

 鍵を開け真っ暗な家を通り抜け干し物をそそくさと取り入れる。私は一晩だけのことだからいいが、「そうか君はいないのか」の今宵だ。妻殿はお泊りのお仕事。山田洋次さんも、内山節さんも、つれあいに先立たれた。一晩でも家に一人は、独りだ。

 昨日は朝からストーブを炊き、我が家の地デジ対応を話し合う。国策にのせられるのは阿保らしいことだけれども、買えといわんばかりに我が家のテレビは音声がときどき消える。たまたま買い換え時ではある。よく見ればご近所、団地には新しいUHFアンテナが林立してきたことに気付く。

 月末だか年度末だかエコポイントだかナンダカ知らないが、日に日に大版になって買い急ぎを煽るような家電チラシが連日のように入る。

 銀座の旅館「吉水」の女将の中川さんはテレビを見ないそうだ。旅館にもテレビを置いていない。「くつろぎ」をコンセプトのひとつにもしている。ラジオだ。ユニークで幅広い人脈と旺盛な活動があるのでラジオにも出演する。うちらも専らラジオにするか、この際テレビをみないという生活もいいなとは頭をよぎる。が、ちとできそうにない。で、何を観るために買い換えてまでも新しいテレビが必要かと考えれば、NHK・BSとETV、NHKだ。それと、BSハイビジョンを観てみたいと考えている。民放はめっきり見なくなった。

 アンテナかケーブルか、BSアンテナ、どんな受像機か、録画機か、パンフを見るがよくわからない。何を買えばいいのかわからない。急かされるのもいやで、また先送りしてしまった。

2010年3月28日日曜日

分散移転


 お店では3カップ、生協の宅配では4連カップなどで定番になった「味付けモズク」。日配か水産売り場の人気商品だ。これの原料の主な産地は沖縄である、製品にしているのは本土のメーカーさんだが。沖縄では天然ものもあるが、主には養殖生産を産業としてつくりあげてきた。沖縄から本土へ大量に出荷できて稼げる貴重な水産資源のひとつである。原料にして2万トンぐらいを生産できて、手ごろな価格で安定的に私たちの食卓にあがるようになった。浅瀬の清浄な海で育つ、浅いとはいっても栽培は潜水作業であるから従事する漁民には体力が要求される。体力の問題もあるが、稼げて生きていけるので漁協には若き後継者が育つそういう産業だ。藻(も)であるので、海が汚れれば生産できない。一度漁場を破壊されれば元には戻せない。陸上における「開発」や自然災害などによって、赤土の流出による被害の危機を幾度も乗り越えてきた。生産者たちは幾多の困難、そして話し合い、場合によっては闘いを経験してきた。30数年のなかでこつこつとつくりあげてきたのは山陰の小さな加工業者さんたちの商品化によってである。もともと日本海側にはすぐれたモズクが産出したが採れなくなってきた。そして養殖が軌道にのりはじめてきた沖縄と結びついていった。そして今では多くの大手の日配や水産メーカーが後から参入して、例によって「価格破壊」を始めている。

 モズクの養殖技術は鹿児島水産試験場(奄美)によって開発された。これをかつて沖縄の恩納村漁協の若き幹部たちが学び、実用化に成功しこの技術を県内に公開し、そしてひろく県内各地に広まった。東シナ海側の恩納村漁協を南下し太平洋側に出たうるま市の勝連漁協はモズクの一大生産地である。与勝半島から沖合の津堅島に向かっての海は、私という人間の目からみると広大な浅瀬であり海底は珊瑚の砂地である。モズク養殖の適作地であることがわかる。かつて沖縄にも戦国時代がありこの半島にある勝連城は歴史の舞台であったところだ。そのことは知っていたが、訪れたときここがモズク養殖の有力地になっていたのは初めて知った。漁協の周りにはいくつものモズクの問屋さんが割拠していた。

 沖縄のモズクは今、原料出荷だけではなく、製品加工にも挑戦している。付加価値がつくからだ。さらに雇用も増える。設備投資、技術も必要だが、原料からの混じり物・異物の除去が実はたいへんな作業だ。努力を重ねても完全にはなりきれない、そうするとその苦情への対応も体制が必要になってきて、課題はある。その途上にあって、いずれにせよモズクは沖縄にとっても、我々消費者にとっても食卓を一品豊かにしてくれて、健康維持にもありがたいと思われる商品だ。

 勝連漁協の港から沖合に出て本島の側を振り返りみれば、鉛色の巨大な軍事施設らしきものが陸上に見える。沖縄では目新しいことではないが、やはり本土でぬくぬくと暮らしている私の眼には穏やかには見えない。沖縄の人にあれは何だと訊くのも憚れる、本土の加工業者のひとから米軍の基地施設であることを教わる。それ以上は言わない。商売に政治的話題はそぐわない。

 そして民主党政府は今回、普天間基地移転の問題を「分散移転」などと称して「案」とやらを持ち出してきた。これはまず、生命に危害のおよぶ非常に危険な普天間基地の廃止にもならない、実質存続しながら「分散」させるなどという県民や国民を愚弄する案を出してきた。そのひとつが県内「うるま市の与勝半島沖」案である。それでなくとも、この沖合は「訓練水域」という米軍に提供された現状である。名護市の辺野古と同じで、うるま市もすでに基地を提供していますからさらに新軍事基地(滑走路)もつくってあげますよという姿勢だ。

 生きていくための仕事を「生業(なりわい)」という。それを、何十年もかけて、基地の訓練水域の合間にモズク養殖の産地をつくりあげてきた。海と海の安寧と自然のままが保てなければ、漁民は生きていけない。身近な話をすれば私たちの食卓にあがるモズクの半分近くの量が壊滅する。何回、メディアのインタビューを受けても名護市の稲嶺市長は「海も陸上もだめ」だ。うるま市にもすでに嘉手納基地のための燃料貯油施設をはじめ、原子力潜水艦など多数の米艦船が入港するホワイトビーチがある。うるま市の海は基地水域が広く占める。

 県民がなんども党派を超えて、せめて危険な普天間基地を廃止してほしい、たらいまわしにしないでほしい、と何度も意思を表明している。

2010年3月27日土曜日

澤地久枝さんの講演予定


 DVDで『戦争と人間』【第一部】運命の序曲(1970年 監督 山本薩夫/原作五味川純平)を観たら、最後に時代考証/澤地久枝という名前が出てきた。作家という肩書きしか知らなかったので、あれっ?と思った。

 「基地はいらない 沖縄のたたかいとの連帯集会in所沢」(4月8日18:30~)が予定されている。会場はミューズマーキーホール、参加費999円。沖縄からの報告、「いちゃりばーず」のアトラクションに続いて、澤地久枝さんの「一人からはじまる」と題して講演がある。

 案内ちらしにある澤地久枝さんの経歴をみたら五味川純平氏の資料助手をしていたのだ、それで納得。

 *画像は主催者の実行委員会のホームページよりお借りしました。

2010年3月26日金曜日

困ったもの


 確か何年か前にパスポートは10年ものをとっていたはずだ。誘われることがあっても、タマをとらなくなったネコみたいに横を向いてしまう。うつむく。機会があるのに見地を切り拓いていない。このひきこもり的性格は愛すべきなのか忌むべきなのか、…気取っている場合ではない。人生のこの億劫さは何なのだろう。自分のことになると先送りする。じたばたするくせに、運を天に任せている、成り行き任せ。それで、いつかなんとかなるとでも思っている。

 「5月までに決める」なんて啖呵。一種のペテンではないのかなぁ。期日の問題だけではない、米軍基地移設は。インフラはいいし、「おもいやり予算」というお金は使い放題、そりゃあアメリカ様の居心地はいいだろう。出て行ってくださいとは言わず、も一度どこにしましょうかでは、一度決めた通りにしてくださいと切り返されたら、そりゃ交渉にならないわねぇ。下地さんも、民主党さんもどういうつもりで先の総選挙の公約を出していたのでしょうか。

 *浦和を訪れたオバマさん(3月20日)/ザ・ニュースペーパーの松下アキラさん、よく似ていましたね。一方、福元ヒデさんは鳩山首相、麻生首相を演じて、これがまたそっくり。大受けでしたね。本質をズバリで痛快。

2010年3月25日木曜日

ハイハイハイハイッ


 ひっこめていた手袋とマフラーをひっぱりだす。チョッキも着る。昨夜の帰りは自転車のハンドルを握る手がかじかむようだった。

 日曜日に二男の友人たち三人が突然やってきてビデオレターを撮るという。お父さんお母さんのメッセージをと。披露宴の後の二次会でのサプライズ企画だそうだ。息子のためにありがたい。ただ、私は髪も髭もボサボサだった。
 二男カップルは土日のたびに式場とかけあっている。こんなに準備が大変だったっけ、こんな何もしない親もあるもんだ。彼女のご希望がどうだこうだと二男もまめにやっている。ったく、誰に似たんだか。ハネムーンは南の島の民宿を予約したらしい。
 妻殿は和装にするとかで、草履を誰かに借りることにした。実家に連絡したら、もうとっくの昔に古着屋さんに一式処分したらしい。それでご近所の友達にあたり借りることができた。

 妻殿は私の弱音や愚痴を受け止めて久しい。当然、鬱陶しいから、ずっと「ノイル・コイル」だ。ハイハイハイハイッ。好きにしていいよ、と。対話は私から一方的なことが多く、相手の言うことを聞いていなかったりするから怒られる。ジコチュー、シゴトチュー、ブログチュー、と。明日にして、なんて無神経なことをいうのが私だ。そしたら、心得ていてしっかり出勤前の朝食時に切り出される。たじたじとなる。

 磁石のようにピタッと“いつもご一緒に”いるのはこちらの方で、妻殿は昔から自立している。で、どうなんだと胸を突きつけるように言えば、一緒にいなければそりゃ寂しいよと言われる。鬱陶しいときもあるけども、と。

 若いときには使ったことがなかった湯たんぽを重宝している。ひっこめていた手袋とマフラー、それに湯たんぽが今日は暖かい。

2010年3月24日水曜日

なんだか


頭の中が身悶えしている。
心の中の吐露。
愚痴、弱音を吐きたい。誰かに聞いてもらいたい。ただそれだけ。
真夜中の独り言、つぶやきだ。

(ナニ言っているんだか、いつもそうじゃないか)

この世に私の話を聞いてくれる人がいればこんなにうれしいことはない。
この世に私に話し掛けてくれる人がいればこんなにありがたいことはない。
ただそれだけで幸せといえるだろうなぁ。
だから、夫婦や家庭や友人や仲間があるのだろうなぁ。
対話でも会話でもお互いを認め合っている。
言葉が交わせる。
こういうことなんだろうなぁ、ほっとしていられるのは。

若かったころ、下宿でとりとめのないことから真面目な話まで、ときには夜を徹して、友人たちと過ごしたのはやはり貴重なことだった。年を経ていつのまにか、立場ができて、人生の打算感情などもできてきたのだろうか、話がかみ合う人が少なくなってきた。

今を生きる。

2010年3月23日火曜日

噛みしめる、楽しむ


 血圧や中性脂肪がどうのということがあったので、体重も増えないようにとご飯茶碗とお弁当箱を小さくして久しい。もう慣れた。自分でつくれば?といつも言われるがガンとしてつくらない。このことに関して我が家に男女同権は無い。「つくる人」を押し付けている。職場周辺ではお弁当は500円が相場だ。お昼を外でとれば900円はする。と言えば、わかった、つくるからとつくっていただいている。早く出るときは6時前には起きてもらう。だから、弁当の中身がどうのと文句は言わない。そもそもおかずがどうのこうのというのはナントカの風上にも置けないという風に育ったので、(たまにしか)言わない。

 もっと咀嚼をすべきだと考えている。玄米食にしたときは覿面(てきめん)だ。消化していない。昼のお弁当もほぼ10分で食べているな。夕食だって早食いのようだ。食べ物という命をいただきながら、ほとんど身体を通過させている。感謝めいた殊勝なことを言っているが、いい加減だ。つくってくれた妻殿にも悪い。噛めば消化にもいいし、顎にもいい、なんといっても味わいがわかるし、人としての品が備わるはずだ。

 だめだ、犬食いだ。ときには片方の手も出さずに行儀も悪い。まるで追い立てられるように、しかもたくさん食べようとする。なにか、飢餓の遺伝子でもあるかのようだ。そのせいにしてはいけないのであって、自らの努力だ。ゆっくり噛みしめて談笑しながら。だめだ、そう思っていながら目がテレビの方向を観ている、ひとの話を聞いていないときもある。そいう意味では、順々に出してくれる懐石やコース料理はいいものだ。もっとも出されるやいなや、全部たいらげて「次はまだですか」という顔をしてはいるが。

 噛みしめる。そういう意味では人の話もそうだ。読書もそうだ。飲み込もうとしているから、結果的に消化していない。内容を覚えていない、自分のものになっていない。人生を変えなくてはと考える態度のひとつだ。人生と味をもっと楽しめるはずだ。でも、味は素材と「出し」だな。この前つくづくそう思った。

2010年3月22日月曜日

わかるの


「こつなぎ」の話になれば、義母も話がわかる。二戸だぁ、なんだかんだなんて米は食べられなかったと聞いていたの。女が山で木を切り倒す、それをまた切る、そして運ぶ。なんて生活は普通だったよぅ。南の私のところでお米は食べられたけれど、北はお米なんてお正月に食べられるぐらいだったのよぅ。死ぬ間際になって耳元でお米を横にゆすってザラザラという音を聞かせて「米はこんなにあるから安心して逝ってけらいん」と送ったらしい。岩手の北のひとは大変だったと思う、私たち南の方は、お米はあったけれど女の人が働くことはそんな風だったよう、おんなじ。男の人が寝てからおしめを洗っていたの。

こちらは山奥から出てきたのろまだったから、こっちの人は町のひとだもの。戦後で食べるものはないしね。お舅さんもお姑さんも穏やかな人だから救われた。そうでなかったら逃げていたかもね。おっとりした妻殿の母親は少しだけ気性の激しいところがあるようだ。田舎から出てきて長男の嫁になり「苦労したこと」をいまさらながら吐露できる。大変だったのだろう。

私がドキュメントを見て観念的に想像することと、同じ観念的ではあっても「こつなぎ」を実感で想像できるようだ。ひとつひとつ具体的になにがどうだったのか、ドキュメンタリィという映画はまた物語り、観たり聞いたりした人はまた語る。

とくに女の歴史はそうだ。都合のいいことだけが「歴史」ではないだろう。リアリティがあり、つまり迫力がある。圧迫を受けた側の証言はそうだ。

2010年3月21日日曜日

軍隊が平和を守る


暴風は苦手だ、いや嫌いだ。寝不足に加えて明け方は眠られず。春はこれだ。季節風の変形だ、西から吹く。地球自転の方向に。

誰だ「東風は西風を圧す」なんて言ったのは。毛沢東さんだった。1957年。このひとの晩年のスローガンにはどうも陰謀めいた政略があったようだ。

毛沢東さんとは違う意味で必要なんだ。ではどのような「東風」か。

圧倒的な軍事力をもつアメリカが安全か?アフガンでもイラクでも軍事的制圧をしていながら、何故怯えていなければならないのか。

日本の若者が何故、未来を語れないのか。アジアの人たちと交流しながらビジョンを言えるテーマがない。

「西風」、西欧の「文明」の名による「野蛮」の支配。過去500年ほど人類を支配してきた西欧諸国による奴隷制と植民地支配の歴史的清算(2001年ダーバン会議で討議された内容)。文明開化の名による日本の「西欧」への模倣・追随、東アジア・太平洋圏における植民地支配、侵略。人を踏みにじり暴力をふるったこの150年の歴史を清算できていない。過去を清算できないどころか、南京事件も従軍慰安婦もなかったことにしようという説がまかりとおる。世界で通用しないことが現実にまかりとおる。「日本孤立論」、国内では実感がないが、実はそう指摘されているらしい。

外国の軍隊が駐留する基地を新たにどこに設けるかで右往左往している。「万一」のために軍事力で「平和」を確保しようとしている。盾と矛を際限なく強くしようというお金(国家予算)の使い方。戦前と同じく軍事予算に対してモノ申さぬ不思議な風潮。

「東風」とは、「西欧中心の世界の克服」(超大国、G8、南北問題における北の諸国、による支配的優越的秩序の克服)。人権と平和の風のことだ。安全保障は何で築きあげられるのか、「信頼力」であるという。交流の中でお互いに変わって行く“まなざし”である、と。優先しなければならないことは、戦争を起こしてはならない、人を殺してはならない。

と、こういうことを立命館大学教授の徐勝(ソ・スン)さんの講演で聞いて、そう理解した。「あなたはよく寝ていましたよ」とは妻殿。3時に起きて片付けなどや、いろいろなものが飛ばぬようにもしていたらしい。誰とでも語り合おう、互いに変わっていこう、信頼とつながりをつくっていこう。それにしても春の強風は心臓に悪い。

2010年3月20日土曜日

檻の中


「これでおしまいにしましょうよ」は男女の間で使われたらつらいセリフ。だが、仕事の場合あってもいいのではないか。「今日はここまで」家で家族と飯を食おう、デートしよう。「ここまでしかわかりませんでした、ごめんなさい、気をつけます」区切りがあっていいのではないか。今、はびこっているのはPDCAサイクルによる目標管理だ。P=プラン、D=実行、C=点検、A=アクション、らせん状に目標に向かっていく。一見もっともらしい。実態はオリンピックではあるまいし、まるで人間の能力の限界に挑戦しているようだ。エンドレスを求めている。誰のためになっているのか、誰が喜ぶのか。一歩身を引いて見る。成果、結果責任論というトリックに怯え「明日がある」「なんとかなるさ」がない。竹中さん御手洗さんが旗を振って、くちびるの薄い啖呵上手の時の首相がこれを煽った。その不条理にうすうす感づいていながら、多くの職場がこの管理方式を採用して手直ししていない。目標のヒエラルキーができてしまえば、他の価値や進路は考えられない錯覚の檻の中に入り込む。追い詰められる、おかしいから体調をこわす、うつになる、切れる、排除されていく。教育の現場にもはびこっているらしい。

2010年3月19日金曜日

凍みこんにゃくづくし


 0時前だのに電車は若い人でいっぱいだ、金曜日。間に合うかな?

 素材がいい—だからいい料理がつくれるわけではない。
やっぱりすごいのだなと感じ入った、板長の腕。
その板長が朋友という人のことの無げ。
最後に出た澄まし汁なんてすごいものだ。
うまいものって、すごい料理ってあるものだ。

 凍みこんにゃくづくしの料理のお相伴に与った。
自分には卵とじ(パン粉)、南蛮漬け(天麩羅の衣)がいいと板長。(この素材は)歯が丈夫でないとだめ、揚げ過ぎぐらいがちょうどいい、とのコメント。

 我が社は年度末だった。派遣の人がお世話になりましたとあいさつにくる。別の人は居た形跡を全部消していきたいとも。退勤時間になって一応ご苦労様とみんなで送り出すのが精一杯。経営は詰まるところ「派遣切り」をした。おめでたいことに私はそれを知らなかった、いやうすうす感じていて何もしていない。15年務めた人からは契約更新をしませんでしたと聞いた。「経費節約」それは物件費から人件費に及ぶ。これはすさむなとカラダで感じる。重い気分で職場を早くでれば、会場には一番乗りだった。
 おいしいものに与った。職場の社会の苦さを味わった。複雑な一日。まえの夜はよく眠れなかった。でも少しだけ会話ができた。

2010年3月18日木曜日

捜し物はなんですか

夕方には巡り会えて「よかったぁ」と腹の底から言えた。

腹を据えて早朝に出勤した。幸いに電車で座れた。新書を読み始めて居眠りした。それはよかったネ、だ。どっと押されるように降りて階段を下りながらハタと気付いた。本がない。どこを探してもない。皆が下りるのを掻き分けて駆け上り、電車の座っていたあたりを探すがない。どこにもない。読み始めたばかり、しかも人様から借りた本だ。

日程が立て込む。配置の員数が多すぎたなどと部の目標管理とやらで、無神経にいつも吹き込まれる。「休暇をとってぼーっとしたい」ために忙しい思いをして働く。何か変だ。考えれば緊張する仕事だからこそ、ぼーっとする時間が余計ありがたく思えるのかもしれない。

帰りに場所を尋ねて「お忘れ物預かり所」というところに行く、ずいぶん駅の隅っこにあるものだ。これこれこういう本を今朝の電車で失くしたばかりでと訴える。係りの人がそれを聞いて探しに引っ込むがしばらく出てこない。そう簡単に出ては来ないよなぁと思う。と、そしたら、あった、ありましたぁ。出てきたの。

拾ってちゃんと届けてくれた人がいたんだぁ。感謝。世の中捨てたものではない。
本への執着。それはある。これから居眠りするときは本をリュックにちゃんとしまいましょうと反省しきり。

2010年3月17日水曜日

次の社会と明日の一苦労

 お日様が照っているのに粉雪が舞う。花嫁衣裳の狐は寒かろう。往く時は居眠りをしていたらしい。還りの送迎バスは一人きりで、ずいぶん坂道を降りて行く。やはり高原に居たのだった。平地に降りてきたら春の陽射しだ。畦できれいに仕切られた冬の田んぼが広がる。その先には里山が連なる。これから関東圏へ帰る。新幹線ならあっという間に着くが、またとことこと在来線にすることにした。

 高原から降りてきて広がる田んぼを見ながらふと思った。資本主義社会の真只中にいることを。お米を中心に食糧をつくっている農村の風景をながめながら、これから向かう東京を中心とした高層ビルと高架の道路網の都市の光景との落差を想い起こす。
 入会地、囲い込み、私的所有、富の偏在、働けど貧しくしかも困窮するに至ったひとびと、ソ連型社会や人民公社型農業の破綻、米国型の弱肉強食・軍事覇権、まるで王朝のような世襲、国家の在り方の変容、実態のない経済の破綻、浪費、・・・、どれもこれも教科書か古典文献で見て聞いたような典型をわずか50数年の生涯で目にすることになった。資本主義社会の本質を何か過ぎた歴史と錯覚していた。生身の同時代のことだ。

 資本主義社会もいつかその古い皮は腐食して新しい社会になるだろう。それを共同社会と構想するのか、協同社会、社会主義社会、新たな福祉型社会、とするのか描き方は違う。いずれしても、自立、自発、援け合う人間社会の在り方、人間と環境との関係、生産活動と消費のあり方、それぞれが問われる。組織とは難しいものだ。観念だけではよくならない、しかし観念なしにはもっとよくならないはずだ。ひとりひとりが社会を変えていく。

 帰る住処、我が家あるとはありがたいものだ。緊張と弛緩。ゆっくりと休むことができれば、明日への活力となるのが普通のひとだろう。ところが、ひとたび少し休むと仕事へ、東京へと行くのが一苦労になっている。気合をいれねば…。

2010年3月16日火曜日

くつろいで


黒磯まで来たら、どうやら「関東」は終わりのようだ。これから先はいよいよSUICAは使えませんとある。ちょっと雰囲気の違う4番、5番線へ出向く。2両編成の郡山行きワンマンカーに乗って出発を待つ。これから東北へ向かうのだな。空がどんよりとしている。もこもこと着込んだ服装が相応しくなる。黒から白に、黒磯、黒田原と続いて白坂、白河となるんだねと言う。

大規模リゾート開発されたのだろう。道の駅のトイレも豪華で、道路、温泉、ガーデンスパ、レストランどれもこれも大きくてりっぱだ。そのなかに、客はほとんど私たちだけだ。駐車場にあった大型バスには「東京大学・・・」とあったらしい。では昨夜、温泉やレストランにいた若者たちは東大の学生さんかという話になる。

義父母も義兄も思い切ってやってきた。身体の具合も少しよくなったみたいで、非日常に浸る。酒は大丈夫ですかと問えば、義兄は副作用で少し浮腫んでいるが、この日のために体調を整えてきましたとお代わりをする。この村は米作りが盛んだ。それで造り酒屋も多い、ではといって地酒をいただく。そして、今日は芋焼酎をいただいた。この義兄と親しく食事をするのは確か初めてだ。家族の話は尽きない。舅殿も90歳を越したが、元気だ。みんなで旅して会えるのはそろそろもう無くなるかなと思うと、じゃあ、うまいものを食べましょうと贅沢をする。温泉に浸る。互いに生きていればこそだ。

2010年3月15日月曜日

雑踏を逃れる


明け方をもって踏み込んでくるのだな。「履物も脱がずに上がりこんできた」つまり土足で急襲してくる。ドキュメンタリー映画「こつなぎ」を観ていて、森林法違反ぐらいのことでそういう仕打ちをする。つまり反対派にたいする弾圧だということがあからさまにわかる。これでまた、ながい裁判闘争が加わる。献身的な弁護士さんも支援する。

3・15事件の日だ。夜明けの急襲。戦前の大弾圧事件。ほぼ同時代に「一九三八・三・一五」を小林多喜二は描く。そして後年その拷問シーンのままに虐殺される。日本は戦争へと突き進む。

思い切って付いていくことにした。ついてくると文句いうでしょう。文句言いませんからと約束をした。「武士に二言」も三言もあるから信用してもらえない。行ってただぼーっとしているのよ。おお、望むところだ。ただ仕事を休めば自分の首をしめるか相棒に迷惑をかけるのだけれども。

義父母、義兄が珍しく来るという。妻殿の親子水入らずにしてあげてもいいのだけれども。もう家族だ、ムコもシュートもあるまい。義父母は高齢でもう動かないと言っていたし、義兄は難病がようやく和らいだようだ。タイムシェア方式のコテージでひたすら積もる話か世間話か、雪景色でぼーっとしているか、DVD持ち込んで観るか、温泉に浸るか、することにした。私がはいるとせわしなくなるのかもしれないが。

費用がもったいないから各駅を乗り継いで行くことにした。片道4時間。サンドイッチにしよう。

2010年3月14日日曜日

眠れない場合


 掛け布団は重くなければ眠れない。羽毛布団は恐怖だ。
家で飲めばすぐに酔う。酔えばすぐ眠たくなる。そのまま布団にもぐりこめればよいのだけれども、歯を磨き布団を敷く間に目がさえることがある。うまく寝つけても夜中に起きる。酔い覚めか。心にとげのようなものがひっかかっているときは始末が悪い。眠れないこと、これは恐怖だ。――と、騒ぐ。
「大丈夫よ、おとうさんは眠たいときに寝て、人の迷惑考えず起きたい時に起きているから」と、つれあい様は言う。
「赤ちゃんと同じ」とも。

 佳山さんの商店は暮橋を渡った国道沿いにひとりポツンと構えてありました。古物を扱っていたと思います。ここにも同級生の女の子がいて、すらっと背が高くおかっぱ頭でほっぺたには笑くぼがありました。小学のとき、時々クラスが一緒になりました。

 「高校無償化」の政策はよいことだと思います。しかしながら、寛容性のない社会をつくっていいのかと考えます。赤ちゃんが知事になったような大阪と東京の知事がそれぞれ我が意を得たような発言や対応をしています。伊健次(ユン・コォンチャ)さんの『もっと知ろう朝鮮』(岩波ジュニア新書2001年2月刊)を夜中にごそごそ読み進めました。

2010年3月13日土曜日

そこで共に生きている


北部薩摩の私の郷土だけの菓子かもしれません。南に行くとまた変わると思います。むっかん(蒸羹)これがし(高麗菓子)いこもち(煎餅)は何かあれば引き出物として使われたものでした。砂糖をたっぷり使う、美しくつくる、もちろんおいしい。これを請け負う地元のお菓子屋さんは慶弔どちらにしても注文主に恥をかかせてはなりませぬから切磋琢磨をしたものです。いわば名誉を体言していました。ですから当時はお菓子屋さんといえば町ではそれなりの規模の商売をしていました。

砂糖とは黒砂糖のことを言う場合が多く、いわゆる砂糖は白砂糖と言う場合が多かった。今はミネラルがどうのと黒砂糖を評価するが、昔は白砂糖をまっとうに使うというのが正当な評価だった。では砂糖はどこから来たか。奄美・琉球からである。他県にもましてそういう背景があると考えられる。食べ物の商品的価値で贅沢といえば、お酒とお菓子。文化だ。無くても生きてはいけるが、無くては寂しいもの。

その沖縄では石を投げれば“比嘉さん”に当たるほど一番のありふれた名前らしい、本土でいう”田中さん”だ。三つ巴にせずに、新たな基地をつくらせない、頼らない、暮らしを立て直すということで比嘉先生は念を押して降りた。稲嶺市長は辺野古の海岸に一本の杭も打たせなかった運動を引き継いでいる。なのに、行政域内でありながら立ち入ることのできぬキャンプシュワブの中ならいいではないかと基地がつくられようとしている。日本政府によってだ。卑怯なやり口とアメリカに慮り過ぎた姿勢は前の政権と変わりはない。今、しこりを超えて地元の市議会も県議会も一致して声を挙げている。日本の政府がこれを踏みにじろうとしている。これでいいのか。

今日は東京のお茶ノ水でドキュメンタリー映画「こつなぎ」(09年、2時間)を観た。監督の中村一夫さんとプロデューサーの菊池文代さんのあいさつに続き、シンポジウムを拝聴した。会場はすごい人の集まりだった。

♪東京へはもう何度も 行きましたね
 君の住む美し都

うまく歌えない。

2010年3月12日金曜日

リセット


「どうやったら前向きに生きられるか」という大学生の問いに雨宮処凛さんは事も無げに「横向きに生きたら」と言う。なるほどだ。そうしたら横やりにも応じられる。生き方の尺度がなんで前か後ろだけなのかという、上下も左右もあっていいではないかと。まして強要されるものではないと。

どう生まれ変わろうか。

鳥にはなれぬな。餌も住みかもなさそうだ。保護されたとてテンに襲われるタイプだ。
弁舌とろく詐欺師には向かぬ。
あこがれのスケコマシになれる玉でもない。
金儲けできる悪徳な医師か弁護士になるには勉強が嫌いだ。
くねるヘビやウナギになるには骨がない。
音感は鈍くて踊る仲間にも入れない。
気まぐれだが猫になるには身体が柔らかくない。
尻尾はふれないから忠犬にもなれそうにない。

あれにもなれぬこれにもなれぬでは
生まれ変われない

生まれ変わる準備をしようか、いきなり生まれ変わろうか。

花を愛で鳥の鳴き声に耳を傾け風に感じて月の光を友とする、といったことをしたことが無い。風雨のときには寝っ転がって本を読み、ときにぼーっとしていて、晴れれば小道に佇み、出来はどうかと畑の人に聞く。自転車を駆って次の坂道の向こう側には何があるのだろうかと行ってみる。せいぜいそんなものかな。これでは生まれ変わりではないな。

人生のリセットができるのに。

2010年3月11日木曜日

語り継ぐ


記憶が覚束ない。領家さんの家はクズ屋さんをしていた。廃品回収業だ。その近くに粉屋さんがあったと思う。製粉をしてくれる。そのお隣はかしわ屋さんだった。
お米を粉にしてもらうようおつかいに出された。領家さんちには同い年の女の子がいたからその辺には行きたくなかった。上には二人ぐらいお兄さんがいてみんな体格がよかった。なんといっても同じ町内じゃなかったから、領域ではなかった。

米の粉を煎って香ばしさをつけ、たっぷりの砂糖を混ぜていくども捏ねてつくったと思う。「いこ餅」という。郷土菓子だ。「煎り粉餅」が短くなったのだろう。ふるさとはなんでも短く言う、だいこんは「でこん」だ。どこのお菓子屋さんでもつくっていた。お菓子屋さんのつくるのはなめらかだった。それを競っていたように思う。プロの作品だ。私が小さいころ母はよくつくっていた。母のつくる生地はざらざらしていて私はそれが好みだった。“おふくろの味”として刷り込まれている。ある朝早くから額に汗するようにつくっていたのを覚えている。南国の女(おなご)だ、ふんふんと鼻歌で調子を整える。東京の大学に行っている長男、私の年の離れた兄の誕生日に間に合わせるために一生懸命につくっていた。私がお使いに行ったあの粉だ。出来上がりを私も楽しみにしていたが、私には端切れ、つくり損ないしかくれないで、出来上がりのほとんど全部を東京の兄の下宿へ小包で送ってしまった。家父長制と男尊女卑は日本の“本場”だったような薩摩だ。「母ちゃんいこ餅はどげんなったと?」「兄ちゃんに送りもした、おまんさあたちには無かよ」がっくりしたのを覚えている、げに食い物のうらみは恐ろしい。兄ちゃんなよかねぇ。今でも覚えていてこうやって文書になるな。3月10日は兄の誕生日。 「歳を重ねるごとに新しい自分を発見する。ぞくぞくすることです」とメッセージを送る。

そして東京下町大空襲の日だった。経験は無いわけだが、体験か経験のある人の話を聞いている。そして聞いたことも無い人たちに語り継がねばならない。遠慮はいらない。語る、伝える技術だし、気持ちだろう。新書と言っても論文調でちと難しい気がするけれども荒井信一さんの『空爆の歴史』(08年8月、岩波)に「なにがどうなって」ということが詳しい。

昨夜のあれは熱演だったな。きちんと本人にそう伝えられなくて悪いことをした、そもそもできないけれど。うまく言えないから断片を木の芽時風に妻殿に語る。不精してKANAさんにはまだ送っていない。

*鹿児島に行くことがあったら寿屋さんというところブランドの「いこ餅」(630円)が私のお奨め。私のイメージに近い。ちなみにかごしまの生協はこれをふるさとブランドにしている。ここで買えば同じものが398円、お買い得だ。「いこ餅粉」はなんといっても古城製粉のものがお薦め。

2010年3月10日水曜日

銀座線


いきなり雪が降ると寒い、雨になると長くて鬱陶しい、晴れると目がかゆく痛くなる。困ったもんだ、春は。

朝出るときに持って行かねばと肝に銘じていながら、駅まで来て忘れてきたのを思い出した、本を取りに引き返す。「人生に時間がない」などとカッコつけながら。

夕暮れてきた。銀座線に乗って銀座に行く。駅のいつもの柱のところでビッグイシューを買う。百円玉があればよかったのだが500円玉でおつりを200円もらう。手渡されるのはいつも礼儀正しい、こっちも律儀にぎこちなく挨拶をしてしまう。メトロの売店でグリコを買う120円。地下鉄は190円。会費(食事代込み)4,000円。このひとたちのなかにいるとほっとするようになっている。今日3月10日の開催に意味があって、通じるものがあってよかった。

帰りは反芻のように考え事をしていて日比谷に出た。それでちょうどよかった有楽町線。地下鉄190円。

2010年3月9日火曜日

工場見学


帰りは雪になって、駐輪場に着いたら自転車にすっかり積もっていた。

勉強会ということで久しぶりに提携先の工場にでかけた。製造業で24時間稼動2交代制だ。厳重な異物混入防止対策を施して製造工場内に入場する。通路の掲示板には、「生き残りをかけたV字回復」というスローガンが掲げてあって、不良品発生率など事細かいデータが掲示してある。防虫対策のために密封空間とし窓もない、まるで要塞に入ったようだ、いや、聞いたことのある艦隊勤務のようだ。つらい溶剤の臭い、機械の轟音と流れるラインの目にも留まらぬ速さ。通路の横に見えるトイレも事務机の様子も軍艦のなかのようだ。工場管理では平気で“躾”という用語が使われることがあるが、すれ違うたびに工員のひとが勢いよく挨拶をする。たまたま池上彰さんの『高校生からわかる「資本論」』(09年6月 集英社)を読んでいて何か臨場感を味わった錯覚に陥る。どこの現場もぎりぎりの働き方をしている。

あれよあれよという間に湿潤な雪が積もる。明日は気温が上がるという予報だ。

2010年3月8日月曜日

翼があっても


集金に来られたご婦人からこの木大きくなったわねと言われた。鳥がね、実を食べていたのよ。仰げば百日紅(さるすべり)の木だ。大きくなったかどうかの実感はない。枝を切るのに四苦八苦している。実といっても、全部落葉したてっぺんの細い枝の先にあるのかな。実が残っていることも知らなかった。

もとをただせばここら一帯はすべて雑木林で昭和30年代に開発された住宅地なのだろうが、それにしてもご近所の林や木がどんどんなくなっていく。こうも木が切り倒され、林が薙ぎ倒されては鳥も行き場がない。食べるものすら口にできない、住みかも失っている。それで貧弱な我が家の実すら食べにきているらしい。

少年のころ川辺にあったので、空を眺めていればトンビがくるりと輪を描いているのはごく普通だった。カラスだけが異様に多い。トキやコウノトリに限らず、日本の空から鳥がかなり減少しているのではないか。

自分が鳥であったらどうだったんだろうと考える。普通の鳥とてもいつ猛禽に襲われるかわからない。鷹やトンビだとしても、地上に餌になる小動物もいないとわかれば、空中を舞っていてどれほど絶望的になることだろう。

少年のころ「鳥であったら、翼があったら」と普通に夢想していたころとは様変わりしているなと考える。見上げる風景が異様だと感じている。

2010年3月7日日曜日

NHK「裁判員へ・免田栄の旅」


カラオケで歌う姿なんてそう見られるものではない。免田さんも菅谷さんも歌がうまいんだなと思った。布川さんもうまいらしい。観ていて個性の違いはわかった、だからそれぞれに合った歌い方だった。

処刑の恐怖と獄中で培った信念により人の無実を観抜き、冤罪事件をはらす支援の旅に出向く。
免田栄さんは年老いて年金を受け取れない。人生の若いときを無実の罪で獄中にあったからだ。そういう被害者でありながら生活していけない。自分のことだけではなく、同じ境遇に遭うかもしれない人のためにも解決を求めて立ち向かっている。

「人の喜ぶことはよかっでしょうが」と自分のつくった花をご近所に配る。川で魚を獲る、土をいじくっているのが好きな時だというご老人。

しっかりとした洞察と無実の罪を背負った人への貢献。強い意志。無念を晴らす。

見損なっていた番組を朝のBSアンコールで観ることができてよかった。
NHK ETV特集「裁判員へ・元死刑囚・免田栄の旅…誰もが裁きにかかわる可能性が」

「人類は、すべての人が幸せにならなければ結局、各人の幸せもないということをよく理解する必要がある。」(ジャック・アタリ 著書『反グローバリズム』01年12月彩流社刊 日本語版への序より)

人間にはやはり軸がなければいけないな、みためはへなへなでいいが。

時代を見抜く、なんて難しいことなんだろう。
続けて、同じくBSで「民衆が語る中国激動の時代・文化大革命を乗り越えて」(再放送)を4時間も観てしまった。中学を経て社会人になっていたあの10年間。日本では誰が何をどう言ったか覚えている。自分のないしは自分たちの頭で考えることの大切さ。私たちはモノでも手足でもない。

夕刻、 京都のKさんから連絡をいただいていたカニと鮭が届く。
二男カップルを招く。ずっと昔から我家の娘だったような彼女。

2010年3月6日土曜日

明るく、あかる~く


 BSで映画「ブレイブハート」(95年メル・ギブソン監督・主演)の壮大な戦闘シーンを観ていたので少し連想した。そういう戦闘シーンがあったわけではないが、横ヤリとはよく言ったものだ。正面からくるのは対処の仕様もあろうが、ふいの横ヤリには二重に始末が悪い。これで4度目だ、それで切れてしまった。
(ところで、あの映画で悪役のイングランド王がうそぶく「弓矢より安いアイルランド兵」の気持ちと、イングランド軍とスコットランド義勇軍が入り乱れて白兵戦を演じているところに弧を描く矢を射れと命じられたイングランド軍の数多くの射手たちに逡巡はなかったのだろうか、と妻殿と顔を見合わせた。矢は落ちてきて敵にも当たるが奮闘している味方の兵にも容赦なく、当たる。支配者であり征服者たる王はそんなこと平気。経団連の御手洗さんのような神経なんだな。)

 灯火管制下の電球のように拙ブログがだんだん暗くなってきた。それで元気かとコメントをいただいた。ハイ、元気です!とは言えないが、世の中明るくしなければいけない。電球も切れると真っ暗になる。切れる前に、奮発して4,000円近い今流行りのLED電球に取り替えてみようか。いや、皮相なECO政策に乗っかって軽々薄々に行動するのはいやなこったと旋毛(つむじ)を曲げようか。まっ、つまんないことを言っていないで明るくしよう。悪いことを考え始めれば脳は壊れていくんだよと、どこかから聞いてきた話を妻殿から教わる。なにしろ博学だ。そうだな、これ以上、頭が悪くなってはすこやかに生きていくことが適わない。ここはひとつ、よいことばかり考えよう。そうでなければ、やってられない。

 ところで日程のことで、義理と人情・食欲を秤にかけなくてはいけなくなった。どちらが重たいのだったっけ。

2010年3月5日金曜日

貝汁っていいましたね


 昔、九州では3月ぐらいになると町内会で潮干狩りに行きました。まだ水は冷たく西からの季節風は強かったのですが水面はきらきらと輝き空には鳶が輪を画いておりました。近年日本の各地から干潟が著しく減ってきたのは残念なことです。

 九州の食堂ではあさりをたっぷり使った味噌汁を少し大きな丼に盛った「貝汁定食」というメニューがあります。

 熊本県の有明海は、多くの河川が流れ込み、あさりの餌となるプランクトンが豊富に流れこんでいます。また干満の差が大きいなどの条件がそろい日本でも有数のあさりの産地となっています。しかし乱獲が続き、20世紀の末には最低の漁獲量にまで落ち込みました。もう一度あさりの海を取り戻すために「あさりの管理漁業」が開始され、回復の努力を続けています。「あさりを採り尽くさないでおくと、あさり自身が水質を浄化して自分で棲む環境をつくり、それがカニやアナゴなどほかの生物にとってもいい環境になる。そして、来年もまたあさりが採れる。だから私たちは今、海と相談しながらあさりの収量を決めるんです」・・・という話を3年前にもらい当時商品チラシにしました。

2010年3月4日木曜日

焼き


職場の複合コピー機の前でIDパスワードを一瞬、ど忘れする。これは恐怖だ。
パスワードがなければ、パソコンへも入れぬ。そうであれば仕事もできぬ。
そんなこと、逃げ出したいのだが…。

ど忘れはよく来る。
人の名前が出てこない、出てきた名前も自信がない。顔は十分認識しているのに。老化かなとも自覚し始めている。言いたい言葉が出てこない。「あれ、あれっ」と言うことになる。
つい今まで使っていたパスワードを忘れるなんて焼きが回ったかなとも思ったりもする。

パスワードで自分の行為が何事も記録されている。監視可能だなと、ふと思う。

「自分を殺す」か、逃げ出そうか。

2010年3月3日水曜日

森の住人の末裔

いつまでも人間ができていない。
今日は疲れたから寝る。仕事はこなしているから病気ではないようだ。ただ自分のこととなるとやる気が起きない。性癖なのか、気分なのか。やらなければいけないと思うことだけがある。春の気だるさのせいだろうか。人間の中味が入れ替わらなければいけないのだろうか。あれもこれもやらなければいけない、やりたい、たいしたことではないのだが。

2010年3月2日火曜日

下り坂上り坂


 私は達観、諦観これだ。「またこれだ、仕方がない、なるようになる」これでいっている。

 連れションになって思わず声をかけられた。「いつも助けていただいています」と。隣のセクションに配置された新人君。助けているなんてつもりはないから、面食らった。むしろ、この新人君のほうこそ一途に仕事をやっている姿に日ごろ感心していた。セクション集まっての協議のときには素直なみずみずしい問題提起をしていた。「あなたのほうにこそ助けられている」と素直に言葉を返せた。思えば下の息子と同年代だ。私の提起は恐らく「クセ」があるのだろう。達観、諦観これだ。桂馬の動きのように指摘する。

 入ったころはおれっちもああだった、一所懸命だった、な。こちとら、やがて仕事を終える。新人君はこれから数十年仕事人生が続くだろう。
 こんなところで声をかけられるなんて。坂道の向かう方向が違うところですれ違う。

2010年3月1日月曜日

1919年


 昨夜、うっかり乱暴な扱いをしてお気に入りのグラスを壊してしまった、なんてこったい。反省。

 今年は「韓国併合」100年にあたる。朝鮮半島の植民地支配でなにをしたのか、歴史を草の根の立場から言えば「お隣になんてことをしたんだ」ということだ。逆の立場だったらどうだったろう。今日は「万歳事件」3・1独立運動の日にあたる、1919年のことだ。韓国では記念日だ。Oさんたち一行はたまたま本日から韓国訪問に行った。

 今週末には地区労で関原先生を講師に学習会が開かれる。3月20日(土)には埼玉県弁護士会の主催で「9条から考える東北アジアの平和と安全―朝鮮半島の非核化を求めて―」と題して市民の集いが開かれる。基調講演は徐勝(ソスン)氏、コントショーでザ・ニュースペーパーが出演、対談は徐勝(ソスン)氏、菱木一美氏、大久保賢一弁護士 会場は埼玉会館小ホール、入場無料、時間は14:00~17:00、徐勝(ソスン)氏には『獄中19年-韓国政治犯のたたかい-』(岩波新書、94年刊)などの著作がある。