2010年2月12日金曜日

みかん


南国育ちであれば長くりんごの木を見たことが無かった。みかんは普通にそこらにあった。

背骨のように大きな川が流れ、それに注ぎこむ小さな支流がいくつもあった。山肌合いの斜面を縫って支流はある。ふるさとの山間はみかんのよい産地になった。みかんをつくれば潤った。それは1960年代までだったのだろう。藤川天神のあたりの農家の人は誰も彼もみかんを植えたと母は話していた。菅公様(菅原道真公)が大宰府ではなく実はここ薩摩まで暗殺を逃れてきてここで余生をおくったという伝説のあるところ。中学で年上の美人の先輩の出たところ。
10kg箱でどっさり、炬燵の上にてんこ盛りで置いてあるのが普通。食べ過ぎで指先が黄色くなるよと言われた。

「たそがれの、みかんをむきし爪先の 黄なるかおりに 母をおもえり」 土岐善麿(1885~1980)

70年代末に九州に帰って来たときにはもう過剰生産になっていたのを目の当たりに見た。缶詰、ビンや缶の飲料に加工しても消費が追いつかなかった。九州はどの県も生産地で、どの県でも農協系を通じて「愛飲運動」を進めていた。生産者が納めたみかんを自ら製品で引き取らざるをえなかった。農家にいけば縁側の片隅にみかんジュースが山と積まれていた。ケースごと好きなだけ持っていっていいよとまで言われた。お金のある果実連は莫大な設備投資になる日持ちのする紙容器(メーカー名で言えばテトラパックのこと)を導入し競争に差をつけたのがこのころだ。

80年代から貿易摩擦のとばっちりでオレンジや輸入果汁が自由化になっていった。バレンシア果汁が甘いのおいしいのどうのと、はたまた安いのといって入ってきた。我が社も、莫大な投資をしてしまった農協系の飲料工場も、競争だからといってとびついた。そのあたりからおかしくなった。

急速にみかん畑が消えていった。

10kg箱が5kg箱になり、3kg箱、2.5kg箱も出るようになった。家族が減った背景もあるだろう。

しかしながら、この列島に住む人たちがみかんを食べなくなった。

それでもいまごろの季節、私のふるさとに行けば様々な柑橘類が出ている。はるみ、ぽんかん、たんかん、あと何だったっけ。
 
 *画像は生食用の沖縄のシークワーサー

1 件のコメント:

余情 半 さんのコメント...

サワーポメロでした。うまいぞ。