2010年2月28日日曜日

芯をつくってあとはへなへな


 疲れをとるのには寝るのが一番だ。テレビで繰り返すニュースをかけっ放しにしてうつらうつらしてしまった。海のない県に住んでいる。

 昨日のチリの大地震の一報を聞いたときこうなるとは思っていた。前回のチリ地震津波のとき、妻殿は幼稚園の遠足の日だった、お母さんがお弁当をつくっていて中止になったことを覚えているそうだ。三陸の港に行くと、どこにも津波を防ぐ大きな堤がある。リアス式海岸の地形は被害を受けやすい。

 その妻殿、今日は岩舟のミュージカル観劇にみなさんとお出かけ。一日中大津波警報が出ているのを知ったのはお出かけ先だった。実家に電話する。なんともないとの返事。

 人間、軸が必要なんです。フィギアの3回転、3回転半、あれも軸ですね。しかもぶれない。真ん中あたり、下腹。しっかりとした軸があればあとは軟弱の方がいいんです。軸をしっかりしてあとはへなへなしましょう、むしろその方がよいと教わって練習をする。ちからをぬいて、抜いて。

 2月末の今日は亡き母の生まれた日、今年から「死んだ親の歳を数える」ことになった、親の歳に追いついていく。2月は酔っ払って歯磨きせずに寝てしまうことはあっても、このブログをアップしない日はなかった。おっと、続いているなと意識し始めたら、これが意地にもなりプレッシャーにもなった。中味はともかく、2月は全部日記をつけた、それがどうしただが、どんなもんだ。
 2月は逃げて3月は去るで光陰矢のごとしだろうから、うまいものを愉快に食べてみよう、人の話を聞いてみよう。本も少し頭に入るように読まなければいけないのだけれど。さて、気楽にいこう、弱い人間だ。

2010年2月27日土曜日

屈託


 「屈託のない」としか使ったことがなかったから、映画の中の大塚欽三弁護士の抱く「屈託」そのものの言葉の意味がよくわからなかった。

 DVD「霧の旗」(1965年 松竹)を観る。上熊本駅を出発するシーンから始まる。上熊本駅はお城に近く路面電車の終点でもあったと思う、懐かしい駅だ。若い倍賞千恵子演じる主人公桐子の大塚弁護士(滝沢修)への復讐劇は、「言いがかり、逆恨み」の類にも感じたが、とてもひきつけられる映画だ。

 当時監督を務めた山田洋次さんは老齢になって今『おとうと』を発表している。常につきない人間への興味このことを前向きに描く。「人間は変わっていかなければ――。新しい価値観を獲得する。成長とはそういうことではないか」と最近述べている。

 永久保存版松本清張傑作映画ベスト10第5巻『霧の旗』が小学館から発売(2010/02/08)されている[映画全編収録:111分 解説本:32ページ]。

 「屈託」とは、大辞泉によれば、「ある一つのことばかりが気にかかって他のことが手につかないこと。くよくよすること。」らしい。
 *画像は小学館のホームページより引用

2010年2月26日金曜日

あっ?うん!


悔し涙の銀と達成感いっぱいの5位8位とどちらがよかったのだろう。

二人っきりだから決めるのは早い。
婦夫唱夫婦随。愛言葉はダイエット。あっ違った、合言葉。i-kotobaかな?
ときどき手づくり、世界に二つとないメニュー。
ときどき冷凍食品、生産ロットは恐らく50,000食。
いつも家にいておいしいものをつくってほしいと密かに思っていたが、三つ指ついて帰りを待つ男尊女卑家庭をつくろうと策謀していたが、そうは問屋が卸さなかった。
足のサイズは一緒、運動靴もTシャツも互換性があって合理的。肩を組めば負ける。

「すこやかに生まれ、すこやかに育ち、すこやかに老いる」(『生活保障 排除しない社会へ』宮本太郎さん著、09年11月20日刊、岩波新書)
子どもたちのときにもそう思ったし、姪御の子たちにも、生まれ来る孫にもそう思う。
すこやかに老いたい、自分自身にも思うようになってきた。

二月は逃げる、もうすぐひな祭り、猿三月だ。

2010年2月25日木曜日

わたくし

鼻毛をいじって抜けば、大ハクションを巻き起こす。
昼間に灯した行灯をひっくり返せば大燃焼を惹き起こしかねない。

風さえ吹かなければ、アレルギーさえなければ春の陽気は心地よいのだけれど。
いずれ季節は変わる。

電車を一本乗り遅れると15分待つ。それが不便だと思っている都市型人間になった。
取り戻せや、自分。

人は見た目である。そう思う。
人間、味がなければ飽きられる。
夕食時には帰宅しているし、貧乏臭くもなければ、金持ち趣味でもない。
譬えて言えば波平さんのところだろう。風貌も似たようなものだ。
ただし、波平さんの歳は越した。
凡庸にして、飛ぶ鳥になっていたらどうなっていただろうと妄想する春の青空。

次には「考える力」を残せばいい。

2010年2月24日水曜日

春の陽気


「三寒」のゆるんだ「四温」になって外は暖かい。午後から用事があったから、いっそのこと休んでしまった。春が来ている。こんなときには父とのことを思い出す。

小学校までの道順は国道沿いをひたすら真っすぐ(北へ)行けばよかった。そして文房具屋さん駄菓子屋さんのお店を折れて行けばやがて学校はあった。だから、とくに迷うことはないと心得ていた。幹線道路で車が多いといっても、基本的には歩道があって危険だとは思わなかった。ただ、途中に小川があって古くて小さな橋があった。「暮橋(くれはし)」と呼んでいたが、車が通るたびにガタガタと上下に揺れた。道路のネックになっていてこの橋と前後には歩道がなかった、思えば危険な箇所だったといえる。

義務か気まぐれか気晴らしかしらないが、学校にあがる前の私を父が小学校までの道順を案内してくれるということになった。それは単に国道沿いの表の道を行くのではなく、人の家の横を通ったり、少し国道をはずれればそこは一面田んぼだったから、あぜ道を行ったりする裏道だった。田んぼにはスミレ、小川にはミズスマシやメダカ、水はちょろちょろと音を立てて流れていた。小川を越すにはどれかの橋を渡る。だから国道沿いの橋ではなかった。「よかか、こげん行っ方もあっど、覚えちょけ」決して近道にはならずいわば迂回路だったろう。こう行った方が安全で楽しいとでも言いたかったのだろうか。我家は校区でははずれにあったので子どもの足では遠くて、たいくつだったから。

今日のこんな陽気につられて、父とのこのひとコマを思い出すことがある。
父の子のせいか私は人がみんな普通に通った道をあまり好まない。

ところで、つながりの大切さ、ひととのつながりのために自分は何ができるのだろうか。

2010年2月23日火曜日

思えば遠くへ来たもんだ


言われるままに自署をした、あと日付も、と。平成って今何年だっけ?

ほら、その時の設計書…。

右も左もわからなかったので、結婚するために引っ越したのは職場の先輩の薦めもあって、その近所にした。ある時、そのご近所に住む職場の先輩の奥さん二人が揃って、あらたまって訪ねてこられた。保険の外交を始められたらしい。それで勧誘され、何の関心もなかったが、断るわけにはいかずに入った。設計書にお二人の名前が残っていた。応接した炬燵台の上に差し出した印鑑が勢いよく転がってしまった。あとから態度悪いよと妻殿から咎められた。確かにしぶしぶ入ったのは事実だが、転がったのは偶然だった。そのことが印象深く残っている。なつかしいお名前。元気にしていらっしゃるのだろうか。

満期を迎えるらしい。あの当時もうすぐ二児のパパだった。死んだら1,000万円。満期で100万円。配当は206万円と試算してあったが、全然実現しなかった。

受け取りの手続きをした。よく死なずにここまで生きてきたものだ。

じゃ、生きているうちに、ほな、ICOCA。その板前さんのところに。

2010年2月22日月曜日

黒豆には凍みこんにゃく


 子どもをおんぶして抱っこして手をひいている若いお母さんを見かけました。しかも手を引かれた子は泣いていました。途方に暮れていたような。帰宅途中の乗換駅でのこと。胸がキュンとなりました。うちもああだったので。

 お正月用品の在庫処分(売れ残り)だったのでしょう。お店に丹波黒豆が4割引で置いてありましたので買い求めておりました。正価ではちょっと手がでません。たまたま、NHK『きょうの料理』06年12月号「基本のおせち」の黒豆のページに何ともなしに「凍りこんにゃく」を素材に使うレシピが載っておりました。黒豆が指でつぶれるくらいまで柔らかくなったら戻した凍りこんにゃくを加えるそうです。それでホーロー鍋でコトコトと煮てできあがりました。 もちろん私がつくったわけではありません。

 豆も凍みこんにゃくもおいしいのです。両方の素材の由来を知っているからありがたくもあるのですが。絶妙ですね。

 私はこの杯に盛った分だけは食べたのですが、はて残りはどうなったのだろう?と聞いてみました。「黒豆イノチ」の人がいますものですから・・・。芋焼酎「薩摩の大地」(濱田酒造)の‘あて’にしようと思ったわけです。

2010年2月21日日曜日

「恐怖のイモリ」


 家にテレビがあったかなかったかのころ、2年生のころだ。クラスの仲間うちではいつもテレビ番組の「恐怖のミイラ」の話題でもちきりだった。確か火曜日の次の日ではなかったか。テレビを観たヤツはこれをいかに恐ろしく伝えるか身振り手振り、聞いた側はそれをいかにも恐ろしく受け取るかで真剣だった。これにとりつかれたら、夜一人っきりでいることや、薄暗いところに行くのが心底恐かった。包帯をぐるぐる巻きのミイラは神出鬼没だったから。

 実は同じぐらいイモリが恐かった。

 髪が天然パーマの鉄郎君はクラス仲間で腕っ節が一番強かった。ずいぶん遠いところに住んでいてたまに遊びに行った。訪ねて行くには、家とは逆方向の小学校の向こう側、線路を越えてずっと田舎に行ったところにはうっそうとした林が続いていた。少し林の中を上がっていったところに沼があった。誰かが釣り遊びをしていると、時々、魚ではなくイモリがかかってくる。腹が真っ赤で、毒々しい色にぞっとした。あの沼には近づいてはいけない、その沼は皆が底無し沼だと言っていた。ひとたび、はまればじたばたすればするほど沈んでいくという、アメリカ映画によくあったアレ。そして何よりも不気味だったのがこの林の中腹に火葬場があったことである。沼からは赤い腹のイモリが襲ってき、林の中では包帯巻きのミイラに遭遇するのではないかと想像しては恐怖していた。

 我が街には近年、新幹線が開通した。乗れば無愛想な景色しかない、トンネルと林。

 昨夏、母の葬儀をした斎場からマイクロバスに乗って火葬場に行ったがそんなに遠いところではないことがわかった。新幹線の高架をくぐり、途中に造成された公園があって整備されたような池があった。はたと思い出した。火葬場の往復で位置関係などの記憶をたどってみたら、そこはあのころ林の中を奥深く進み、あれほど恐いと思っていたあの‘底無し沼’だろうと考えられた。開けたというのか、開発されたというのか、ふるさとはここまで市街化されたのかと感慨深かった。

 そして、そのイモリ(「アカハライモリ」というらしい)が絶滅の危機にあるという。なんということなんだろう。

2010年2月20日土曜日

あたり前田の歩き方


 若いときはガニ股でいいかと思っていた。すっかりO脚だ。筋骨たくましいガニ股ではなく、単なるO脚だ。人生でなんの矯正の努力もして来んかった。
 実はここにきて、これがストレッチや骨盤調整とやらには具合が悪い。

 ちょっと調べてみんければわからんが、右手右足、左手左足を同時に出して歩くのが江戸時代あたりまでの日本人の姿だったらしい。今の右手と左足その逆のように交互に手足を出して歩くのは西洋人の歩き方なんだそうだ。この西洋式は身体をひねって歩く方式で足の外側に力が入ると。言われてみればそうだ、確かに私の靴の踵は外側が擦り減る。

 右手と右足、左手と左足を同時に出して歩くのを「ナンバ歩き」というのだそうだ。表彰式の壇上で「あがって」しまいぎこちない歩き方をしてしまうことがある。お芝居なんかでよく笑いをとるところで使われる、あれだ。ところがこれは「変な歩き方」や「可笑しな歩き方」ではなく日本人の伝統の歩き方であるらしい。たとえば相撲の摺り足、歌舞伎の六方、宮中にもあったような気がする。どんな字を充てるのだろうと検索すればどうやら「難場」と書くらしい。この歩き方によって山伏が例えば危険で狭隘な峡谷をも移動することができたのだという。

 ところで、足の指が開かない。私は人間がたくましく生きていけたころの形質を失いつつある過程のようだ。ミュータントに、より進化しつつあるような気がしている。どうりでひ弱だ。足指を閉じては五本指をかっ!と開く鍛錬が必要だ。

 それで、力を外側ではなく、親指と中指あたり、つまり足の内側に力を向ける生活をしたらどうかと紹介があった。つまり下駄履きの要領。そういえば、息子から昨年の父の日にもらったっきりしまっておいた。鼻緒をぎゅっと挟んで歩いていたころの日本人。私にはそれもできなくなっている。やっぱり「もやし型未来人」に向かいつつある。

 初めて「ナンバ歩き」を練習する。前にも後ろにも腰をまっすぐにして歩く。
 温故知新がありそうだ。

 以下、「ナンバ式骨体操」ホームページより引用
「ナンバ歩き」の「ナンバ」を漢字で書くと「難場=むつかしい場」と書きます。すなわち難所を歩く時の歩法でもあったわけです。江戸時代には、飛脚や山伏のような特殊な状況、あるいは条件で、長距離を歩かなくてはならない、いわば歩きの専門家がいました。飛脚はものすごい長距離を、山伏は険しい山道を歩かなくてはならないわけですから、体力やパワーをロスしない歩き方をしなければならなかった訳です。そのような状況では西洋式の身体を捻った歩き方ではなく、「捻らない」「うねらない」「踏ん張らない」歩き方である「ナンバ歩き」が不可欠だったのです。

2010年2月19日金曜日

てなもんやネクタイ


 積年の凝り固まりが背と肩にあるのだろう、ひと一倍。努力して肩甲骨を寄せる。

 たとえ話のなかで「毎朝、迷わないか?」と当時の中年の所属長に言われて、若い我々は顔を見合わせた。数本しか持っていなかったから、とっかえひっかえすればよかっただけのことで、そんな迷うような実感はなかった。

 ところが、さすがに背広の俸給生活者を長くやっていると、いっぱい持っているようになった。要するに溜まったのだが、あいかわらず物欲、所有欲は強いから捨てない。

 初めて買ったのは赤いニットのネクタイ。おのぼりさんで来たときに池袋のデパートで求めた。売り子さんが制服ではなく私服だったのに、まずたまげた。初めて買うJUNの紺のスーツに合わせて見立ててもらった。デパートというところはどうしても臆する。まして初めての東京だ。「逃げる」か「言われるままに買う」かのどちらかにひとつの田舎モノだった。今、考えれば堤清二さん率いるところの70年代半ばの西武デパートでのことだ。

 幾星霜、大島紬、久米島紬、ミンサー織、伊予がすり、ナントカカントカ横文字ブランド、珍しいものでは屋久杉染めなど、段々に高いものを買い揃えてきて今にいたる。たしかに何十本かになるので迷うようにはなった。お気に入りはあるが、あのときの所長の例え話がよくわかる。

 自分では決して選ばないであろうと思う趣味のネクタイをひとからプレゼントされる。包装を開けて見ただけではちょっと後ずさりすることがある。ところが、これをしめてみると存外似合っていることがあるものだ。自分の意外な面を発見することがある。

 自分の好みだけにこだわっていては、実は自分のことがわかっていない。違う自分の姿があるかもしれない…そう驚かされることがある。何事も凝り固まっていてはいけないなと気付く。案外、自分で自分の首をしめてはいけないものだ。

 数は少ないが贈ってくれた人は私自身の知らない側面を観ていてくれたような気がする。

2010年2月18日木曜日

目安


モノをつくっていない。だからお金だけが頼りだ。

それで無収入になったら、どれだけ生きていけるか我家の財務省に諮問する。

何しろ、いつものチェックは厳しい。ムダなものを買う、モノに囲まれて生きていると普段から手厳しく指弾されている。自覚があるからこの牽制はありがたい。こまめに且つこまやかにパソコンで家計簿ソフトをつけている姿をみて信頼している。

ん~ん、だから、収入はどれだけあって、支出の概要はどうなっているのか、赤字か黒字か。子どもの扶養がなくなった分、最近はお付き合いを伸び伸びとやっている傾向にあるはずだ。ざっとで、いいからと訊ねるが、あれ?…でてこない。口をつぐむ。

全体像がつかまれていなかった。

レシート、クレジット明細、生協利用明細など細かくチェックしてもらい、できるだけ洩らさず入力してもらっているし、家計上の代替払い分も実際こまめに精算してもらっていた。が、それだけだった。給与明細から何から渡していたのに抜けていたらしい。

パソコンソフトの家計簿は集計も瞬時にできるし、仕訳けも選択すればいいだけだ。しかし、現金とカードと生協引き落としの支出の明細だけを血眼になってインプットしていただけで、他のことは入れていなかったらしい。家計簿ソフトの画面は確かに局面だけで、全体を見るのがとらえにくい。画面を出たり入ったりしなければいけない。わかりにくいのよね、それが言い訳になった。

私の諮問に即座に答えられなかった我が財務省はコトの本質に気付き、直ちに改善に取り組むと思いきや、すっかりやる気を無くしてしまった。落ち込んでしまう。電車に「飛び乗られた」ら困る。

たまたま、「家計簿」が今の時期にもかかわらず企画されていた。「いつからでも始められる」というやつだ。生協の雑貨のカタログで早速注文した。

我が家に今のところ破綻はない、今は平和である。

2010年2月17日水曜日

謀商議


 悔やむことがある。じゃあ、行けばよかったと。

 目がこっちを向いていなかったから、話半分に聞いていた。だから、頭になかったが、「今日来てください」と突然言われて、はて何だったかと考えて、多分あれだとは思い出した。「予定が入っていて」と返事すれば「無理なら結構です」ときた。そう言われてしまえば断固天邪鬼がもたげてきてしまったのだが、さすがに予定は変えられない。失礼しますとて、遠心力で帰った、一目散。電車が動き出してから「無理して出てもよかったな」とくよくよする。
 ストレスはふくらはぎにたまります、第二の心臓と言われますとも。そう言って、ジムの先生はそこを見た目で‘ししゃも’と呼ぶ。うまいことをいう。下から上へ絞りましょう。折りたたみ式の携帯電話のように皆が前屈をしている間、独りおなかの大きいネコのように四苦八苦の冷や汗で屈折の苦痛に耐えながら、ふと「やっぱし行った方がよかったかな」とか頭をよぎる。申し込みが成って「謀議に巻き込まれそうに」とか連絡がきて、「なんだ、じゃあ、出ればよかった」とまた考えた次第。

 定式の仕事の囲いモノにとっては、謀議ハカリゴトのほうがどんなにおもしろそうだったか。まっ、いいか。そのうち、また誘われるだろう。中途半端もいいものだ。なるようになる、これも主義だ。

 『山田洋次 なぜ家族を描き続けるのか』(新田匡央さん、2010年1月刊、ダイヤモンド社)を見つけた。タカラブネのロールケーキを買ってきて焼酎のお湯割りと一緒にいただく、両刀使い。多少、ほんの少しなら太ってもいいと二人で覚悟しながら。顔のシャープさがなくなるよ。なるようになる、あとで悔やむ、これが実態で主義だ。

2010年2月16日火曜日

気を取り直す必要


 見上げれば暗雲としていてむしろリアルだ。予報では雪になるらしい。

 こうもあけすけに「しがみついて」生きていこうという態度に唖然とした。晴れて人生のリセットができると思えるのに。これからをどう生きていこうということが何も語られなかった。いや、逆にどうやって生きていこうと不安を語ってもらってもよかったのだが。人の勝手だが、再雇用制度で職場にただ残る。節目だから思い出を語るのはいいが、その昔話の些細なことにどこまでものめりこんでいく。いつまでたっても、さあ、これからどうするんだという出口に至らない。それで、これからの抱負はと水をむけても話がそらされる。小沢がどうの、鳩山の小遣いがどうのと自分ではどうすることもできないことならいくらでも話がはずむ。何が貧困だ、今の若いもんは選り好みばっかりして、農業でも林業でもなんでもやって生きていこうという気概がないんだ、と絵に描いたような展開、現状認識の欠如。まるで山科けいすけ描く「飲み屋の鳩首談義」。

―――結局は、他人のことを言えない。鏡をみているようですっかり落ち込んでしまった。

 夢も希望もモノをつくることも語らない、どうも私はそういう環境に長く居過ぎたようだ。


 昼休みから帰ってきたら、電話がありましたよと。それで私への直通の電話はないのかと聞かれたとも。あたたた、た。奄美のFさんらしい、いつも大仰だ。どうやって私の職場の番号を知ったのだろう。代表電話に掛けたのだろうなぁ。土曜日に送ったのだが、着いたらしい。Fさんは私から言わせれば“自由人”だ。気を取り直した。

  『お金とモノから解放されるイギリスの知恵』(井形慶子さん、01年12月刊、大和書房)を読み始める。西丸震哉さんは骨折をしたらしい。

2010年2月15日月曜日

遠心力


住所書きをもっていなかった、Tくんもがんばって生きている
この次、最中でも送ろう

メモがない、くつしたがない、暗闇だ

ひかれものはつまらんと考える

はみ出てみたくなるところがあるようだ

はぐれてしまう

ひとりでもどうにもならんのに

ひとが安らかなるのに覚めてしまっている
ひとがつらかろうのになにもできない

方角がわからない

朝日がのぼればわかる、のは、若いときだった

明日はどっちだ

はぐれどん

2010年2月14日日曜日

「41歳寿命説」とか


 たった3,4日、雨みぞれになっただけで晴れた今日の日差しがいとおしい。その光をいれようと朝から窓を開け放つ。おもいっきり洗濯物を干す。ベランダは気持ちいい。
 さあ、今日から締めよう、粗食になろうとするが、生協の注文をついつい余分にいれてしまう。20%増量、今回限り、豊作応援、…、おっと情けは無用だ。西丸震哉さんなんて一日二食で十分だというお説を読んでそうしようかと思ったばかりだ。

 その装丁からして怪しげだと思った、表題もいけない、副題もひけた、目次をめくってもアブナイ。煽られてナンボの本かと思ってしまった。だめだ、読めば「うん、そうだ」と納得している。そうだ、こういうことを私も言いたかったんだということを、あけすけに書いてある。文体、体裁はどうしても暴露本、煽り本に見えるが。実感はある。
 「ん~ん、なんともねぇ」と妻殿は首をかしげる、口直しに田中優子さんの本を読み直すワ、説得力が違うと。

 1923年生まれ。関東大震災の当日に生まれたので震哉さんであるらしい。知見、経験、探究心が深く、どんな秘境にも好んで行ったという実践・実行力に裏打ちされた話だ。銀座の旅館「吉水」で話が聞けるらしい。それではこわいもの見たさに首を突っ込んでみようと考えた。
 *最新刊は「壊れゆく日本へ」(08年4月 山と渓谷社)かな

2010年2月13日土曜日

きずな

 湯たんぽにお湯をいれて用意ができる、ひとつ年上だからお先にと譲られる。

 父母兄弟の愛があってこの世に育った、幼ななじみ、友人、先達たちのおかげで今がある。それにも増して、このひとを射とめ家庭を築かなかったら味気ない半生になっていたかもしれない、ひとはそれぞれだが、少なくとも私はそのことによって幸せというものを感じている。

 やっぱり「絆」だよなぁとしみじみ思った。今日は特別の日なので朝一番で隣町に映画を二人で観に行った。駅の西友は24時間営業だ、立ち寄って明治アーモンドチョコを2箱買う。狭っ苦しくない映画館でよかった。昨秋「人間ってなんておもしろいんでしょう」という山田洋次さんの人間への尽きない興味と自らの生い立ちの話をきいたばかりだった。この人は作品の中に必ず日本の四季をいれる。そして愛すべき地域という姿を描く、「通天閣に月」それすら美しい。なんていい人たちはいい人たちなんだろう。
 施設からの弟の危篤の知らせに吉永小百合さん演じる姉が「とうとう死ぬときがきたのね」と言う。映画「それでもボクはやっていない」で冷たい判決を読み上げて判事を演じた小日向文世さんが、今度は民間ホスピス<みどりの家>の暖かい所長の役を演じていた。石田ゆり子さん演じるヘルパーさんが、私の母の最期のときを一緒に看取ってくださった人たちの姿に重なる。ちょうどおんなじ感じのこころ暖かいひとだった。ひとの最後を「居てくれて楽しかった」「よくがんばったね、お疲れさま」と安らかにおくってくれる、そういうひとびとの働きも描いてあった。つながりだ、きずなだ、地域だ、と理屈をいくら捏ねてはみても、こうやって描くことは難しい。芸術ってすばらしいことだなと考えた。映画『おとうと』山田監督の映画がまた深化した。観るべし。

 今日はぜいたくをしてほしい日なので、頻繁に行くわけではないが贔屓にしている天麩羅屋さんでお昼ご飯。互いに見合えば、泣き過ぎたようで目のまわりが紅潮して少し腫れぼったい。最近若い息子さんに代替わりしていたが、今日は先代が揚げていてよかった。カウンターに座り、目の前で揚げてくれるのを順繰りにいただく、これがまたいい。

 「活舌」これを女優の有馬理恵さんから、今日は学んできたらしい。最初だから「いえあおう」ってあれ。合唱のお勉強は楽しい、帰りには「ハッピー バースディ トゥユー」を唄ってもらったらしい。

 夜は息子も駆けつけ、「自然食」を謳うビュッフェ方式の今流行りのレストランに行き誕生日を祝う。この人が幸せに思うことが「幸せ」であるとかみしめている。
 楽しかった一日が過ぎる。
  *この小さな鏡台は35年前の「愛情の形」

2010年2月12日金曜日

みかん


南国育ちであれば長くりんごの木を見たことが無かった。みかんは普通にそこらにあった。

背骨のように大きな川が流れ、それに注ぎこむ小さな支流がいくつもあった。山肌合いの斜面を縫って支流はある。ふるさとの山間はみかんのよい産地になった。みかんをつくれば潤った。それは1960年代までだったのだろう。藤川天神のあたりの農家の人は誰も彼もみかんを植えたと母は話していた。菅公様(菅原道真公)が大宰府ではなく実はここ薩摩まで暗殺を逃れてきてここで余生をおくったという伝説のあるところ。中学で年上の美人の先輩の出たところ。
10kg箱でどっさり、炬燵の上にてんこ盛りで置いてあるのが普通。食べ過ぎで指先が黄色くなるよと言われた。

「たそがれの、みかんをむきし爪先の 黄なるかおりに 母をおもえり」 土岐善麿(1885~1980)

70年代末に九州に帰って来たときにはもう過剰生産になっていたのを目の当たりに見た。缶詰、ビンや缶の飲料に加工しても消費が追いつかなかった。九州はどの県も生産地で、どの県でも農協系を通じて「愛飲運動」を進めていた。生産者が納めたみかんを自ら製品で引き取らざるをえなかった。農家にいけば縁側の片隅にみかんジュースが山と積まれていた。ケースごと好きなだけ持っていっていいよとまで言われた。お金のある果実連は莫大な設備投資になる日持ちのする紙容器(メーカー名で言えばテトラパックのこと)を導入し競争に差をつけたのがこのころだ。

80年代から貿易摩擦のとばっちりでオレンジや輸入果汁が自由化になっていった。バレンシア果汁が甘いのおいしいのどうのと、はたまた安いのといって入ってきた。我が社も、莫大な投資をしてしまった農協系の飲料工場も、競争だからといってとびついた。そのあたりからおかしくなった。

急速にみかん畑が消えていった。

10kg箱が5kg箱になり、3kg箱、2.5kg箱も出るようになった。家族が減った背景もあるだろう。

しかしながら、この列島に住む人たちがみかんを食べなくなった。

それでもいまごろの季節、私のふるさとに行けば様々な柑橘類が出ている。はるみ、ぽんかん、たんかん、あと何だったっけ。
 
 *画像は生食用の沖縄のシークワーサー

2010年2月11日木曜日

不承認


久しぶりに駅から事務所までの約100mを走る。なかなか走れるものではない。

あの日も今日のようなうす寒い曇天の日だった。四条河原町の辻角。若かったとき。

束を渡されたので、列を離れて繁華街の人混みの歩道に入ってビラを撒いた。
「これはなんですか」とふいに声をかけられ、「これは――」と顔を向けてハッと思った、詰襟にS大拳法部のバッジをみた。とたんにガーンと眉間に一発くらった。蹴りもきたのだろうが、鼻骨への打撃が大きくよく覚えていない。倒れこんだが、誰も気付かない。その学生も姿をくらました。単独だったようでそれ以上のことはなかった。

絶対不可侵の天皇制に恐怖を覚える。幸徳秋水を死刑台におくり、小林多喜二を逆さ吊りにして五寸釘のような錐を刺しこむむごたらしい殺し方をした。数多(あまた)の兵士を十字砲火のなかに突進させ、「志願兵」を飛行機に乗せ爆弾を抱かせて突入させた。あの狂気をおそろしいと考えている。電柱に貼ってあった「不屈の五十年」これをこっそり見に行って勇敢なひとたちがいたのだと感じ入った。

30代だったかな、我社で初級の英会話サークルに出ていたとき、講師のカナダ人女性が日本は天国だと言っていた。なぜなら日本は祝日が多い、カナダにはこんなにはないと。

紀元節に由来する。これを「建国記念の日」にすることは間違いなく無理があって根拠がない。戦前の紀元節は近隣諸国への侵略の節目になっていた。これを戦後社会にあらためて「建国記念の日」として復活させたのは、政治的布石でしかない。

ただの祝日のひとつとして過ごしているうちに「今日は何の日かわかっているのか!」とか言われて目を三角にした忠節たくましい人々に追い立てられてはたまらない。

わたしは2月11日を休まないことを主義としている。屈したくない。

あの日も私たちは丸山公園に向かい「不承認」の集会を開いた。目と鼻の先の祇園神社では「奉祝」の会が開かれた。

お昼は年配のご夫婦がやっている長崎ちゃんぽんを一人で食べる。
街宣車を1台だけ見かけた。
どんよりとしたうす寒い一日、冷たい雨になる、また雪が降りそうだ。

2010年2月10日水曜日

居た形跡


どの時点かで、うちの同居人はここにいた。
その足跡(そくせき)が、立体的に見て取れる。
ポンペイの遺跡よりリアルだ。
器用なお方がこの世にいる。

2010年2月9日火曜日

平々凡々


雑誌「平凡パンチ」に対抗して「週刊プレイボーイ」が発刊されたのは中学に入ったあたりだった。大変だった。同志的仲間内の順番かジャンケンで買いに行った。まるで「兄さんのおつかい」で買いにきたふりをして。

生き方を変えようと心うちで思っているが、それができない。

ふっと、駅へまっしぐらの自転車の方角を変えてみたくなることがある。
変えてみたら、そのときは病気だった。
―――と、あきらめて埼京線に乗り換えて、天気の良い都会のビルと青空を仰いでいる。
始業時間に間に合わせなければ、と。


最初のころは「おおっ」と唸らせるものがあった、非凡なものをみたよ、と言われる。
けれど、最近はねぇ…とも。

「精彩に欠ける、」ということだ。放(はな)っていたのだろうか。

諸事質素倹約の母のもとで育ったので、新しいパンツにはきかえると身が引き締まる。はて、どうやって生き方を変えようか。

2010年2月8日月曜日

記念品

 首が左に曲がらない。首が左にまわらなければ通勤の自転車から富士山がよく見えない。

 おでんにした。息子の友人のユゴン君が来たのは1年以上も前のことだ。みやげにくれたミニチュア瓶の朝鮮焼酎を3本飲んだ。それで酔っぱらって寝て、寝違えたのだろうか。月曜日の出勤は下腹に気合をいれなければ出て行けない。

 定年退職後も「シニアパートナー制」とかで残るらしい。やめておけ、ほかにもっとやることがあるだろうと煽るが、詰まるところ居心地がいいのだろう。思えばヒトのことは言えない。農業をやれ、食い物をつくれとあまりに言うものだから、いや、あなたとしばらく同じ職場にいてやるんだときた。記念品は何を所望かと率直に訊いた。前の人には『5年日記』を差し上げた。一緒に買いに行った。それを慣例にしようかと思っていたら、あのとき後から自分の分も買ったらしい。それで日記をつける洒落たボールペンでも、と出た。それなら宙に浮くボールペンでも買おうかと思案していたら、翌朝買ったかと訊かれたから、まだだと言うと、考え直した「私からの本」が欲しいという。そんなことを言われても何百冊にも及ぶと応じた。はて、考えあぐねた。なにしろ嗜好の問題でもある。一冊で表現できない。これからの人生をどうするんだとさんざんハッパをかけてきたから、ならば推薦本をくれときたようだ。そのつもりだろう。
 それで送別会の出席メンバーにも銘々で自分のあげたいと思う本をプレゼントしようとメールを打った。今朝早速、みんなから、いくらぐらいのどんな本にすればいいのかと返信がきた。「お手数をかけてすみません。本と言われて、はたと困ったのですが、本は好みですのでみんなの総意というわけにはいかず、それぞれで贈ったらいかがと考えた次第です。負担にならない程度の金額のものか新書あたりでいかがでしょうか。ちなみに私にとっては職場の先輩ですので、この前買ってもらった本と湯浅誠(派遣村元村長)さんの本を贈ろうと勝手に考えています。気持ちの問題ですので、彼の好きなジャンルというよりむしろ、ご自身がいいなと思った本でよいのではないでしょうか。違うジャンルをもちあい、違う世界を開いてもらいたいなと考えていますから。」

 ヒトには言ったが、何がいいかと迷うものだ。年末、人に薦めたとき、で、その本はどこの本屋に置いてあるのかときたから、多分置いてないと思う今度会ったときにオレから買えと言った。そうだあれはレア本だ、そう簡単には手にはいらない。思い立ってギフトラップをしてほしいと特注をかけた。どこの埠頭で取引しようか。

2010年2月7日日曜日

やんちゃもん


 年が明けると沖縄から始まって奄美、屋久種子、本土と「たんかん」の出荷が続く。甘みという意味では洒落ではなくて奄美あたりが適作地ではなかろうか。
 その奄美ではさとうきびの収穫が終わり、搾汁液から酢作りが始まる。砂浜を模した静置場の甕に仕込む。自然発酵法だ。シュワーと酢酸発酵が始まり1週間ほど続く。不思議な世界だ。3年間も静かに寝かせた後、出荷される。封建搾取の極貧のなかで命をつなぎ、命を存えた酢だ。
 日光も強すぎればストレスだ、そのストレスに立ち向かうように伸びてゆくサトウキビは生命のエネルギーを貯めこむのだと教わったことがある。
 今年の奄美のたんかんはおいしい。人間にはやんちゃな人がいる。周りからどう責められようとやりたいことをやる人がいる。そのやりたいことが本音において間違っているとは思えないが、人間のルールがこれを縛っている。

2010年2月6日土曜日

抱きしめる

北風に向かって進む。光は春だ。

生まれたとき、祖父母はとうにいなかった。
祖父だけが鴨居の額縁のなかにいた。
母方の祖父が逝った。
父が亡くなった。
いつか病室で寝ていた私の手を、仕事を終えてきた兄はぎゅっと握り締めた。 がんばれと。
母方の祖母とお別れをした。

出遭いがあって一緒になり、四人の子どもに恵まれた。
小さなこたつを囲んで六人で肩をたたき合った、ろくにん、ろくにん、と。
みなが出て行った。

たらちねの母を看取った。

やがて孫が生まれるだろう。
兄姉たちも孫がいて、それはおめでとうと言われた。

鎖のように命がつながっている。
いつの日か、私の鎖も朽ち果てる。

寝顔を覗く。
何かにそっと話しかける。
明け方の夜をぎゅっと抱きしめる。

2010年2月5日金曜日

歩け歩け


 昔、地元のワコールのことを「おんなのふんどし屋」と喝破した、もとは江戸っ子で口の悪い大物政治家がいた。

 若い息子夫婦から中年の私にとっては思いもかけぬものをもらうことがある。自分では買う機会もなければ、発想もない。

 ハーフタイツみたいなもの、「五街道」という万歩計と併せてプレゼントしてくれた。「クロスウォーカー」というワコール製を着用する。初めてはいた。「はいて歩けば、お腹ひきしまる」という謳い文句、なるほど。太ももと腰に負荷がかかるようだ、変な感じ。大袈裟に言えば「星飛雄馬の大リーガー養成ギブス」を連想する。太ももにクロス構造が組み込まれ、これが歩くたびに筋肉に適度なテンションを与え、歩幅が自然に広がるという解説だ。優れものが世に出ているものだ。今週からはき始め、確かに何かが違う。私はモノに頼り且つブランドに弱い。少ししっかり歩かねばいけない。よし!

2010年2月4日木曜日

痛さ


 あまりに寒いこと熱いことを故郷(くに)の言葉で“痛い”と表現する。早朝出勤すれば耳がちぎれそうだった。「痛い」そんなことを思い出した。口に指先を突っ込んで暖める。

 「痛みに耐えて」「痛みを分かち合い」に騙されて人々は「甘い汁」を吸われた。変えた政権が危険極まりない普天間基地の撤去、労働者派遣法の撤廃、後期高齢者医療制度の廃止にいつまでも手をつけない。「いのちを守る」施策はこのことをいつまでも「先送りにはできぬこと」のはずだ。
 『心をつなぐ左翼の言葉』(09年10月刊辻井喬さん、浅尾大輔さん)を読み終わる。
「日々の暮らしのなかで生きて働いている。生きて働いている人々の姿をほんとうの姿として描こうとする文学であるということが第一条件じゃなくちゃいけないと思うんです」「人間の肯定的な要素をどうやって描くことができるのか」(辻井喬さん)
「未来に目を放つ人」(浅尾大輔さん)、痛いほど素敵な言葉。

2010年2月3日水曜日

鬼は寝たか


 もう子どももいないのに外に向かって“鬼は外”ってやったらおかしいと思われるかしらなどと妻殿が言う。全然おかしくないよと返事する。では家長が窓を開けて言えと言うから、誰が家長だよと言う。今日はどの番組でもやっていたからつくりたくなったと言って妻殿が“恵方巻き”もどきをつくってくれた。あり合せの材料でよくできるものだ、西南西の方向を向いて願い事を無言でしながら食べるのよと教えられる。「おたるナイヤガラ生葡萄酒」を買ってきて飲む、ずいぶん香りもよくフルーティだ。それで酔ったみたいだ。一昨日雪が降ったせいか、今日本海側で激しく雪が降っているせいだろうか、やけに冷え込む。外では雪が舞う。ピラティスをやってティラミスも買ってきたのだけれどな…。酔って炬燵でお寝む寝む。さて、「布団に入ってさっさと寝ろとたたき起こすべき」か、やさしく起こして紅茶に誘うべきか。
 日程の打診をしていた姪っ子甥っ子たちから出席しますよと返信が来る。
 定年を迎える人の送別会をごく親しい人どうしでやることにした。その幹事を引き受け飲み屋さんを予約した。さて記念品を何にしよう。

2010年2月2日火曜日

奥久慈凍みこんにゃく


 で、どんな味かというと味はありません。食感でしょう。蜂の巣のような小さな孔がある繊維質で噛むと独特の食感を楽しむものかなと考えます。知らないで食べると、あれっ肉を食べたのかなと錯覚することもあります。いろいろな調理に使ってみることができるようです。
生産者の栗田さんの奥さんは甘い味付けの揚げ物(かき揚げ)で試食提供してくださいました。後日、企画の主催者さんは砂糖漬けのようなものをつくってまわしてくださいました(ちょっと文旦漬けに似た感じ)。
こんにゃくそのものには味がないので思わぬ使いみちがあるものです。
 伝統的素材として使用しているらしい山形の料理を食べてみたいとアンケートには記しました。
 乾物だから水で戻せば少しは増えるかと思っていたらそうではないね、と妻殿の感想。
 我家では早速、味噌汁の具、きゃべつとハムとのコールスローサラダの具、肉じゃがに加えた具、そして後日お煮しめにしてみました。形状も大小短冊にしたり、三角形にしたり、半分の大きさで使ったり、なにしろ食感が楽しめると思ったものですから、どういうのが好適かなと。
 それで、話は逸れるのですが「お煮しめ」の妻殿のつくるイメージと私のもっている、つまり母のつくっていたイメージと違うということがわかりました。ここにも西と東の違いがあったりもするのかなと考えたしだいです。
 とにもかくにも、ここまでしてつくってこういうものを食べていたんだねぇと感慨深いものを感じました。 
 食文化がすたれていくのは御先祖さまに申し訳ないなと思いながらインスタント麺を掻きこんでいる今日この頃です。

2010年2月1日月曜日

関東の初雪


連絡があって飲み会を急遽断って帰ってきた。帰宅する時にちょうどみぞれから雪混じりになった。続いて息子カップルが来訪したときには玄関の中まで雪を運んできた。ささやかな披露宴をする準備で大変だ、こちらの親戚のリストアップをする。夕食を一緒にする。昨日買い置きの国産牛肉があってよかった。牛丼。これが「凍みこんにゃく」。そう簡単には手に入らないものだよと能書きを垂れて、有難く食事を済ませる。我家は続けて二次会に突入する。「こんせん純生クリームロールケーキ」でお茶をした、我家は紅茶。よく見たら8時間の解凍時間が必要と書いてあったが、一括表示の「そのままお召し上がりください」を鵜呑みにしてほぼ凍ったままナイフを入れて食べてしまった。紛らわしい…、とか言いながら。送って行こうと玄関を開けたらナント積もっているではないか。なんのこれしき、降ったばかりだからと車で送って行ったが、さすがにハンドルをとられる。帰りはセカンドにしてそろりそろりと帰ってきた。明朝の足元がおっかないと思われる。