2010年1月31日日曜日

気がおけない


 人生の折り返し地点をとうに過ぎた。今まで生きてきた以上の年月を生きることは考えられません。死ぬ時にしか折り返し点はわかりません。それとても意識することはないでしょう。そのときは意味のないことですから。

 近所にてんぺい君という子がいて、長男より2つ年上でした。この息子たちがまだ学校にあがらぬころ、朝遊びに行けば昼飯だけ食べに帰ってきて日が暮れるまで遊びまわっておりました。住んでいたのは字(あざ)ナントカという集落の一角の民間アパートでした。長男たちから下に同じような年頃の子がたくさんいました。カナちゃんという子は長女よりひとつ年上の女の子でした。お母さんはしとやかに育てようとしていましたが、親分肌で女の子をよくまとめていました。てんぺい君は在所の子で広い庭と家があり、息子たちはよくお邪魔しているようでした。いりびたりだったのかもしれません。ときには男の子も女の子もなく遊んだりしているようで、てんぺい君がガキ大将格であったようです。長男にも長女にもそれぞれ同い年あるいは近い子たちがいてわいわいいと毎日遊んでおりました。私もうらやましいぐらいいい環境だったと思い出します。
 転勤をするときにこの子達みんなが、我が家の引越しを遠巻きに取り囲んでおりました。頭に浮かぶのは、ひとりひとりのあのころの幼い顔や仕草です。それが最後の思い出です。

  幼いときは地縁でした。歳を重ねて今は感性の縁によってでしょうか。何とはなくひきとめてもらえるもの、ひきつけられるものがあって、髪もなくなり肌も衰えましたが、また男の子もなく女の子もなくガキ大将のまわりに集まっているような気がします。そのうち夕焼け小焼けが幼いときよりも楽しくなってくるかもしれません。

2010年1月30日土曜日

ブルームーン


初めての練習を終え帰途に着いた妻殿から「大きな満月だよ」と途中駅からメール。今月は元日の満月に続き、30日の今宵も満月。ひと月に2回満月を迎える場合、2回目は「ブルームーン」と呼ばれるらしい。昨日ジムの先生が言っていた。何かこう不思議な力を感じるそうだ。ひと月に2回満月があるのは珍しいことで、この前は07年6月のことでそれ以来。暦の違いでとくに不思議なことでもないようには考えるが。

人を思いのままに操ることのできる権力や名声を手に入れると猜疑心が強くなるようだ。歴史上のことや本の中の世界の話ではない。人間を50年以上もやっているとそういうことに出くわす。実体験がある。くわばらクワバラ。

私は聞いたこと見たことを記憶できないのでノートや手帳に記す。今時の人であれば、小さくて軽いノートパソコンかケイタイを使うのだろうか。ノートや手帳はこれといった定番はなく、ときにはリサイクル屋さんの出物で、お買い得だが柄にもないノートを買って使う。形やサイズがマチマチで、背表紙もつくれないから時系列に整理できない。というより元来しない。どこになにがあるかわからない。たしかに雑多なことも心の想いも記すことがあるので手帳やノートを失くしたりするのはいやだ。ましてとりあげられるなんて。

討論会で「そうでおまんねんわ」という関西弁の口調が印象に残っている。ギロリと睨みつけながらのいかにも精力的で少し斜に構えた感じの往年の姿を思い出す。後年は顔面神経痛のように見受けられた。私には何か「忠実な僕(しもべ)」「政治的フロント」に見えていたからこそ、前任者のこともこの人のことも今は大変な境遇だなと思うばかりだ。

『「黒い手帳」裁判全記録』(矢野絢也さん著 09年7月/講談社)を一気に読み終わる。

閉塞の社会、陶酔の社会、一方方向だけの道。タブーのある社会がこわい。

ギョーザ事件から2年が経った。皮肉な処遇の発端になったあの日の夕方以降のことをよく覚えている。

2010年1月29日金曜日

北茨城行「凍みこんにゃく」

 「凍(し)みこんにゃく」という言葉が出てこない。ついつい「凍(し)みどうふ」と言ってしまう。そんな商品があることすら知らなかった。

 先週の土曜日、訪れた茨城県北部の山間部。「奥久慈」といわれるところは天気がよくポカポカとした陽気に感じられた。しかし聞けば朝は-10℃まで冷え込んだそうだ。確かに袋田あたりの川では陽の射さぬ水面は凍ったままだ。また、めったに雪は降らぬそうだ。この寒暖の差と、雪は降らないカラカラ天気、これが凍みこんにゃくづくりにはよいそうだ。

 増田さんの案内で生産者のひとり、栗田晋一さんのお話をみんなでうかがう機会を得た。
 「うちはもともと作っていたところではなく、売っていたところ」つくる人がいなくなって、山形県のお得意先にもう納入できないと相談したら「それは困る」と言われたそうだ。それで苦労の末、自分たちでつくるハメになった。そんな話から聞いた。山形庄内地方の伝統的料理にはなくてはならないもの。
 
 小売値で40枚4,000円。聞いただけで「そんな高額な!」見ただけで「これ、何?」。「凍みこんにゃく」とはこんにゃくの乾物。保存食で、もどして料理に使う加工食品。煮しめに似合いそうだ。生のこんにゃくとは似ても似つかぬ食感と味わいが出る。とは言ってもこんにゃく、ほとんど食物繊維だ。試食販売をすればいったん通り過ぎて「これなぁに?」と戻ってくるそうだ。実はこれこれこういう商品という営業になるらしい。
 なんでも、つくり方はその昔(18世紀の半ば過ぎ)上方(丹波地方?)から伝わったそうで、農閑期の仕事として、ここの気候に合うつくり方として盛んになったそうだ。乾物なので容易に搬送できる。
 仙台の奥座敷作並温泉をさらに西へ行くと県境を越し山形県に入れば有名な山寺がある。この門前には串に刺した玉こんにゃくが名物としてどの店頭でも売っている。山形県はこんにゃく消費ではダントツに日本一、なかでも庄内。この凍みこんにゃくもほとんどこの地域で使われる。この地の料理(「冷や汁」)には欠かせないもののようだ。
 常陸の国・奥久慈から庄内へのモノの流れがあった。モノづくりと庄内の郷土料理が結びついている。庄内は東日本にあっても丸い餅を用いる。凍みこんにゃくにしても何か上方の名残りがあるように思えるが、私たちの推測だ。

 凍みこんにゃくづくりは、いまの加工食品一般のつくり方から考えれば実に手間ひまがかかる。もとになる蒟蒻からして今私たちがなじんでいる蒟蒻とは違う。今の蒟蒻は一度原料のこんにゃく芋を粉にしたものからつくる。これは江戸時代にまさにこの奥久慈で発明された製法だ。いわば江戸時代のインスタント蒟蒻だが、今の蒟蒻は凍らせてしまえばそれで終わり。もどすことはできない。よく苦情・お問い合わせで寄せられる。凍みこんにゃくは昔ながらのこんにゃく芋(生芋)からつくらなければいけない。昔はあたり前のことだったのだろうが、今はまずこの蒟蒻のつくり方から手をつけなければならない。すると道具が違う。芋の皮を剥いて擦りおろし攪拌するのは「木のへら」(*)にこだわる。火からして違う。蒟蒻を煮る釜は竃の薪で炊く。薪が要る。竃の火はぱちぱちと見ている分には心地よい。こんにゃくは天日で干す。これには下に敷く稲藁が要る。冬の田んぼに敷く。すると田んぼをやらねばならない。稲はコンバインで刈り取るのではなく手で刈ることになる。型にはめてつくった蒟蒻は、焼き上げたパンのようだ。うす茶色をしている。これをスライスする。ほぼ葉書大サイズで、ちょうど普通の蒟蒻の一丁分だそうだ。これを冬の田んぼに敷き詰めた藁に一枚一枚並べて、天日に干し、夜間に凍らす、昼間の陽射しで溶ける、これに灰汁(あく)抜きのための水を撒く(昔は山の田んぼで水汲みからやったそうだが、今は水道だ)、また夜間に凍らす。この繰り返し。天日乾燥したら裏返す作業が必要だ。うまい方法はないそうで、手で裏返す。枚数の分だけ作業をせねばならず、気が遠くなるような手作業だ。聞いただけで腰も痛くなりそうだ。さらに天日干しをして、今度はムシロをひいた屋内で影干し。今はこのムシロも手に入らないだろう。完成までかれこれ1ヶ月を要す。「高いと思われるかもしれませんが、手間賃ですわ」と栗田社長。1枚がねぇ、ちょうど蒟蒻1枚分なんですよ。昔は山で干していたんです、今は目の前、水道もあるし、手袋だってある。ぽかぽか陽気かもしれないが凍ったこんにゃくは冷たい。「後継者?いないですね、おしまいですね」と40台半ばと思われる栗田さんはあっさり。「これはやりたくない、と思うような作業なんです」と。地元ではね、祖父の代までですね、お葬式とか、今では食べていないですね。
 
 昔、訪れた宮崎の「切干大根」のことを思い出す、寒風、よく晴れた冬日、山間部。こんにゃくの水分は97%。寒風と冬日にさらされた凍みこんにゃくは約十分の一の重さになる。土色を超して今度は白くなる、形も不ぞろいだがおおむね揃う。
 袋田の滝のみやげもの屋さんでは9枚で1,150~1,050円見当。生産者は二人だけ。
 
 さすが、イバラキを自慢する方のご紹介。「恐れ入りました」の逸品だと思う次第。庄内では欠かせない食材で大手スーパーのヨークベニマルですら扱っているようだが、その地域だけのことで稀少品。産地はどこを探してもここだけで、ほかでは手に入らない。

*品質管理(異物混入防止)の観点から腐食したり削れたりして混入の恐れがあるとして食品製造の現場ではよほどの事情が無い限り「木の道具」は使用させない傾向にある。すると、水産加工業の蛸を揉む木樽が消えていった。味噌醤油を仕込む木樽が消えていった。

追記;
 近世、常陸の国・奥久慈地方に上州から蒟蒻芋栽培が伝わり、痩せた土地柄の上州および常陸の山間部は蒟蒻の産地であったらしい。ところが産物の蒟蒻芋は重く、しかも日持ちがしない。18世紀の半ば過ぎ、藤右衛門さんという人が「粉こんにゃく」を発明した。これは保存がきき、しかも輸送効率はあがり、商品価値を高めた。功労者ということでこの人は水戸藩から苗字帯刀を許され、後世の人は神社に祭った。訪問当日は大子(だいご)にあるその神社に参って昼食をとった。ずいぶん待たされたけれど「しゃもの親子丼」はうまかった。
 こんにゃくは藩の専売品になったり「規制緩和」されたりして、大都市江戸はもちろん販路は奥州、北陸、上方にまでひろがったようだ。「袋田の滝」のみやげ物店の通りに「桜田門外の変」の映画の宣伝の幟が林立している。ああ、さすがに茨城だと思っていたら、それだけではない。実は幕末尊皇攘夷の水戸浪士の活動資金はこんにゃく商人から提供されていたらしい。そういう縁もあるようだ。
 
 私は、こんにゃくは黒いものだと思っていた。生まれ故郷ではそうだったから。これも餅の形と同様に西と東の違いがあるようだ。東日本の蒟蒻が白いのは、背景にはこの地で発明された「粉こんにゃく」(皮は剥いてつくられる)の普及があったのではないかと考えられる。黒いのはこんにゃく芋の皮のせいだそうで、西日本には長く粉こんにゃく原料を使う製法が及ばなかったのではないでろうか。今では粉こんにゃく原料からつくるのがほとんどで、わざわざ海藻(ひじき、あらめ、などの粉末)を配合して黒っぽくつくるそうだ。そう、私は黒っぽい蒟蒻のほうがありがたいような気がする育ちだ。

2010年1月28日木曜日

朝の点検

[ハンカチ、Pティッシュ、定期、財布、携帯、家の鍵、自転車の鍵、帽子、・・・]

生前の母、ケアハウスにいるころの話、外出に誘う、
とてもかわいらしいリュックを背負う。
何が入っているのかと思えば、
大きな鈴のついた部屋の鍵、タオル生地のハンカチ、ちり紙(ティッシュではない)。

今日は携帯を忘れた。たぶんコタツの辺りだ。
久しぶりにテレフォンカードを使う。残り度数2だった。

帰ってきて見つけたらなんのメールも来ていなかった、着信もなかった。
妻殿もそうだった…。なぁんだ…。

気合を入れなければ「葉書」が書けない。肩に力がはいっているよ、と。

2010年1月27日水曜日

映画「根の国」と「こつなぎ」のサワリ


5時半に目を覚ましながら早く出勤しなかった。早く帰宅するつもりでいながらそうできなかった。すっかり忘れていた。

岩手県小繋村での入会権を巡る50年の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「こつなぎ」上映会が3月13日に東京御茶ノ水で開催される。地元の岩手県では県生協連のなかに「上映運動をすすめる岩手の会」がある。

銀座吉水の女将中川誼美さんの「今年もコトをあらだてて生きていく」というあいさつでイベントが始まった。「こつなぎ」上映会に向けてのカウントダウン応援イベント。ドキュメンタリー映画「根の国」(土の中の植物と虫と微生物、その生命の共生の様を映像で描いた作品、カラー 24分、)と「こつなぎ」のサワリ(約5分)の上映会。ところが機器の具合が悪かったらしく上映が遅れる。そして、映画制作者の菊池文代さんを囲み、座談会。各自が自己紹介ということで始まる(どうもこういうのが苦手だが)。菊池文代さんによって映画「こつなぎ」の背景と内容について実に丁寧にお話しいただく。30人近く集まり盛会。それで帰りが遅くなった。

葉書も書かねばならない、構想はあるが書き出しにいかない。
早く寝なければならない。そう、眠かった。

2010年1月26日火曜日

「奥久慈漆」(茨城県)の復活

 昔話だ。新婚2年目の大晦日あたり団地の中にあるスーパーの処分品コーナーで三段重を見つけ、半額の1,500円で求めた。もちろん漆器のまがい物で生地はプラスチック製、塗りは樹脂製だった。外側は赤、中は黒に塗ってあったように思う。1歳になる長男が加わって初めての三人家族で迎えようとしている年の瀬、妻殿は本で学びながらお節をつくった。生協で保存料なしの仙崎かまぼこを求めた以外は、ほとんど手作りだった。お重は持ってはいなかったから、それに詰められただけでとても幸せだった。

 ベースは黒か朱そして金などデザインされた漆器は美しい。しかし輪島に行けばため息がでるほど高価で手が出ない。せめて手が出るのは箸程度だ。いくつかの年齢になれば漆器のお重がほしいと思っていた。

 私たちの業界で扱えたのは、価格が手ごろな会津塗り、山中塗りだったようだ。四半世紀も前の話だ。せいぜい、朱色が独特な味わいのある春慶塗りのお盆程度だった。お正月用の三段重15,800円これが扱える金額の限度のようだった。生地は木製だったと思うが主な塗り方は樹脂製だったと思う。存分に漆を使ったものは価格の次元が違った。日常の器、そのなかでハレの器、という意味では庶民の価格だったように思う。

 今でも覚えている。カタログづくりのラフ校正、初校、最終校の合間を縫って、初めて漆器の産地の岐阜県から富山県、福井県の山中をまわった。電話に追いかけられた。どこかの小さい駅の黄色い公衆電話で小銭と発車時間を気にしながら遠い九州の事務所の坂口さんに連絡をしたのを覚えている。そして山間部の町々で漆器づくりの分業のさまをみたときの驚きを想いだす。そういう山間の町はどこだか覚えていないが、りっぱなお堂があって木がそびえていた情景が心に残っている。そんな環境のなかで信仰の歴史の厚い地だとも思い、歴史で習った一向宗のことを想像したりもした。ひとつのお椀が実は大きな木から削られてできていることに驚いた。いくつもの工程を経るのだがこれがそれぞれ分業され幾人もの熟練の人の技で幾日もかけてできるものだと初めて知った。だから、これはすごいものだと理解した。いいものは修理ができるものだということも知った。「使い捨てではない」ということが心に響きながら、そこまでのもの(高額なものということになる)を扱うことはないなと封印をしてきた。

 昔、法事は自宅でやるものだった。それには汁椀や平皿など漆器具の数が必要だった。十六寸(とろくすん)と呼ぶ豆の甘煮は定番で、朱塗りの小さな平皿に盛った。旧家でも豊でもない我が家にはりっぱな(高価な)ものはなかった。お客様を呼ぶには数が必要で本家からお借りした。裕福な本家の漆器の器は多分りっぱなものだったのだろう。どうも母がぞんざいな手入れをしていたようで、本家の奥さんが我が家で受け取るとき実に丁寧に手入れをし直して木箱にしまっていた。嫌味のひとつも言われたのを子ども心に覚えている。

 漆器は英語で「JAPAN」というのに現在、肝心の国産の漆はほとんどない。成分・性状がよく似ている中国産のものが圧倒的だと今回あらためて確認した。ベトナムなど東南アジアでも産するようだが少し違うものらしい。国産の主要な産地は岩手県。そして昔は大きな産地であった茨城県の北部、旧山方町の神長さんのお宅を訪問して漆の勉強をする機会に恵まれた。町おこしのひとつとして地域のひとたちが「奥久慈漆」を復活させてきたらしい。今では産物として、漆塗りの産地へ供給しているらしい。そして皆で自らも漆塗りの教室を開いている。

 漆の木は根から分けて育てるらしい。今では苗木も出荷している。神長さんは木に爪をかけただけで樹液が出るのをみせてくれた。漆は10年育ててようやく漆がとれる。1本の木からとれる漆は200g、あとは切るそうだ。木のどこからでも漆になる樹液はでてくるのらしいが、木の5箇所ぐらいにキズをつけ、滲み出てくる樹液を「掻きとる」作業らしい。質問にもあったが、ゴムの木のように缶を仕掛けておいて樹液を集めるようなものではない。根気のいる仕事だ。希少なはずである。ちなみに、長方形のコタツ板ぐらいのサイズで使用する漆の量は400g。畑に木を植えてある。

 神長さんの奥さんが、教室でつくった漆器をもってきて触らせていただく。こういうふうに押さえてみて手のぬくもりが残るものが本物と教わる。

 こういう探求企画のお膳立てはありがたい。いや、よく考えればいつもお膳の前の人生を送ってきている。自分で切り拓いたものはない。あてがい扶持でないのは、人生のつれあいと一緒になったときだけかな。既製品に囲まれている。職に就いたのも、住んでいるところも、着ているものも、食べるものも。自分でつくったものは何にもないなとふと気付く。

 結婚8年目ぐらいにして、なにがしかの塗りものの三段重を手にいれた。お重は、母の時代には潮干狩りやお花見、運動会などなにか行事があればお重に詰めた。もっぱらお煮しめとか蒲鉾、そして巻き寿司だった。子育てのころもお花見や公園でのレジャーなどに使ったのかもしれないが、今ではお正月に使うだけになっている。大事にはしているが、考えてみればしまったっきり年に一度しか使わない。

 韓国明太をつくる釜山近郊の水産加工の社長さんに日本は「木の文化」で、我国は「金属の文化」だと言われた。例えば今でもお箸が違う。古代では新羅の国で、当時朝鮮半島では鉄の文化が花開いていた。王墓の遺跡からも当時最先端の金属加工の技術が窺える。日本列島では漆塗りの歴史は七千年も前の遺跡からも出てくるらしい。

 ここの生産組合および漆生産復活の様子は昨年6月のNHKお昼の「ふるさと一番」でも取り上げられ生中継された。今回たまたま案内されてその地を踏んだ。妻殿がその番組のことを記憶していた。

 以下、NHKホームページより引用
「地域の結束で復活 国産の漆  ~茨城県・常陸大宮市~  (09/06/22放送)
 中国や東南アジアから98%を輸入に頼る「漆」。品質日本一とも言われ、かつての大産地であった常陸大宮市で、国産の「漆」を復活させる試みが広がっている。中心となるのは漆工芸作家と市民たちだ。作家の本間と息子さんの親子は漆器の工房を作ると共に、消えつつある漆林を守り、樹脂を採取する「漆掻き」に取り組む。数百本の漆一本一本に傷をつけ、採取する作業は手間と時間がかかる地道な作業。漆掻きの名人・神長さんは「若い後継者が出来て嬉しい」と期待を寄せる。本間さん親子は作品制作の傍ら、市民たちに漆器作りを教えてきた。講座を通じて漆器に魅せられた市民たちも「山方(やまがた)漆ソサエティ」という団体を作り、漆の復活とその魅力を広める活動を始めている。漆の苗作りや植林から作品作りまでと、その内容は幅広い。漆に再び焦点を当て、市民が結束して地域興しに役立てようという活動を紹介する。

2010年1月24日日曜日

結果


稲嶺さんと言えば前の沖縄県の知事さんを思い出すが、辺野古沖の新基地建設受け容れの是非を問うことにもなった名護市長選で、容認しないということを公約にしていた稲嶺進さんが当選した。これまでに住民投票、市長選と紆余曲折があった。初志、公約、民意を忘れないでほしい。11月には沖縄県知事選が続く。

北茨城行


 あんこう鍋といえば今の季節。そして本場は茨城。お誘いを受けて二つ返事しかも夫婦で行きたいとお願いし、人様の運転で楽をし、本県出身の方の企画でご案内いただきました。ほうそんなことがあったのかとよい勉強をさせていただき、そしてあんこう鍋だけではなくいろんなおいしいものを食べることができました。

 通過したことはあったのかもしれないと思うのですが、訪れたのは初めての北茨城地方。天気に恵まれました、そこでのよい仕事をみせていただきましたから大変勉強になったわけです。

 茨城県の水戸と福島県の郡山を結ぶのがJR水郡線。水戸から北に伸びて、久慈川を遡っていく中山間部。栃木県と福島県の県境に近いところ。奥久慈というのだそうです。山間部ですがまだ険しいわけではなく日当たりのよいところのようで、冬の夜は冷え込むようですが、雪はあまり降らないとのことでした。ほぼありのままの岸辺の久慈川それに沿って伸びる水郡線からのんびりとした印象を受けました。商業的なお茶の栽培はここが北限の地であるらしいのですが、南の農産物の北限、北の農産物の南限のあたりであるそうでした。畑と林業が主な産業で、こんにゃくとお茶そして漆が名産であったそうです。
 北茨城の観光の定番‘袋田の滝’の先。大子(だいご)は「たいし」と読むのだと思っていました。この大子でわずかにつくられている「凍みこんにゃく」の見学。大子の街はさほどシャッター通りではなく何かほっとするものを感じました。山方(やまがた)は「山形」と書くのかと思ってしまいました。この山方で復活された「漆づくり」の見学。国産のものは岩手とここだけでもはや希少なものだと知りました。栃木県に近い美和というところでの原木椎茸、これらを販売している道の駅での繁盛ぶりを垣間見ました。ここの神社には実に大きな杉の木が祭られておりました。山、川、田に畑、日本にはいいところがあるものです。茨城自慢をそうかなるほどと少し見直したのでありました。

 太平洋に面した五浦海岸(「いづらかいがん)と読みます)の旅館で念願の鮟鱇(アンコウ)にありつきましたが、それだけでなく食卓はひらめの刺身、ホタテ、鮑など海の幸づくめでしたね。食べ物を残すのは信条ではないので、ほとんどたいらげました。寝る前に同室の社長さんたちと冗談の連発で久しぶりに大笑いをして腹の皮がよじれました。おかげで満腹の度を超えていたお腹もよく消化できたような気がしました。

 ちなみに、このあたりから太平洋戦争中アメリカに向けて「風船爆弾」が飛ばされたそうです。その「忘れじの碑」があるとのことでした。童謡詩人野口雨情の記念館も少し南にありました。

2010年1月23日土曜日

怒ると

毛色は黒と白。どういうわけか鼻のところが黒い。世の中にはそういうパターンのネコがいる。そんな見た目で愛猫を「チョビちゃん」と呼んでいた。中学・高校のときだ。
あまりにも蚤がいるので、あるときお湯を沸かし、たらいで愛猫をシャンプーして蚤を洗い落とそうとした。ニャロメが5本の指をめいっぱい開いたときのように、激しく抵抗された。布で拭いてあげても、首を斜めに振ってフンフンと鼻で息を切っていたので、相当怒っていたのだろう。こちらは蚤でつらかろうにと、思い余ってやったことだが…。
南国の家のせいだか、昔の家のせいだか、冬向きにはできていない。身を縮めて私の掛け布団の上で寝た。眠るまで喉をぐるぐると鳴らしていた。気まぐれに布団のなかにいれた。おならをしたらさすがにたまらなかったのだろう、クスンクスンと首を斜めに振って布団から出てきた。向こうをむいていた。怒っていたのかもしれない。
故郷を離れいつか不幸せな死に方をしたと聞いた。思い出すとつらい。

2010年1月22日金曜日

草の根の素朴な思い


アフガンやイラクに道理なき戦争を仕掛け多くの人々を殺傷し路頭に迷わせ政治的信用を失った。サブプライムローン問題で知っていながらインチキな証券を世界中にばらまき経済的信用を失った。そんなアメリカ合衆国と日米軍事同盟をいつまでも結んでいてよいのだろうか。

沖縄の世界的にも美しく貴重な自然を失わせてまで新たな軍事基地を提供する必要があるのだろうか。

提供しなければ本当に日米の国民にとって信頼関係は損なわれるのだろうか。新たなアメリカ海兵隊の軍事基地(辺野古の飛行場が想定されている)は日本を守る基地なのだろうか。そもそも海兵隊は防衛隊なのだろうか。

住民は基地があって豊かになったのだろうか。外国の軍隊がいて人々が幸せになることがあるのだろうか。

2010年1月21日木曜日

那覇の裏町の猫


昔、実家には愛猫がいた。当時は残飯を与えており栄養も何も考えなかった。家を締め切ったところで、猫は自由に出入りできた。初めて家に電気掃除機が来た(買った)とき、愛猫はとてもこの音を怖がった。

昼休みにネコを飼っている人に訊いてみた。彼は40を過ぎているが独身でお母さんを扶養して一緒に住んでいる。「ホントにかわいがるのなら、“家ねこ”にすることです。」とぴしゃりと言われた。外に出ると事故に遭う。病気をもらってくる。ノミやダニももらってくる。なるほど、ならば貴方の飼い猫はメス猫かと訊けば、そうだという。去勢をしてあげることです。トイレもいいものが今は売っています。

猫が車に轢かれて死んだ話はいくらでも見聞きした。車を運転していてもひやっとすることがある。言われてみればみな、猫を外にださないようにしている。妻殿の実家も今はそうだった。

那覇の裏街を歩けばそこここに猫がたむろしていたのが印象に深かったのは猫好きのためだけではない。1月にしては温暖だったのと、それに似合うように猫が外にいてのんびりしていたのが、近頃私の近所では見かけない風景だったからだろう。

かつての沖縄戦ではどこもそこも戦禍に見舞われた。平君の家は那覇の海辺の一等地にあったそうだが、戦のおかげで一家が離散した。じいさんもおじさんたちも死んだ。生き残ったおやじさんが帰ってきたときには他人が住んでいたそうだ。この辺だったんだと以前案内してくれた。当時の猫たちはどうやって生き延びたのだろうとも、ふと思った。掃除機の音をあれほど怖がったネコは、四基エンジンの大型爆撃機や戦闘ヘリの騒音をどう聞いているのだろう、とも。

2010年1月20日水曜日

新都心“おもろまち”

 北九州だから「おにぎり食べたい」とか言って孤独死しているのではないかと心配したりもしていたKANAさんからメールをいただいた。製造も流通業も経費を削減する。その対象になる業界だから厳しかろう。自虐めいて書いてあったが冗談とも思えない。誰しも食べて生きていかねばならないし、食べるだけでも生きてはいけない。
 今宵は那覇国際通りの地産地消市で買い求めた海ぶどうを賞味する。早く思い出していたらまた海ぶどうを送っていたかもしれない。

 たった一駅だ。乗換駅のひとつ手前の駅あたりからぐっすり寝込んでしまったようだ。ざわついた気配ではっと目覚める。危うく乗り過ごすところだった。一睡の夢に自分の全ての生涯を見てしまった故事のように眠り込んでしまったような気がした。今日は疲れた。終日、厄日というものがあればそのぐらいついていない日だった。

 沖縄県庁あたりから方向を見定めて、民家の裏を縫って新都心の“おもろまち”へ歩いた。「国際通り」という繁華街の裏には何か昔の街並みのようななつかしい雰囲気が漂う。対照的に新都心は大きなビル、大きな施設が立ち並び、広い道路が通る。ここの前身は返還された米軍施設跡だ。米軍将校の住宅地だったところだ。基地返還の跡地利用で「再開発」された。バスの中からは見たことは何度かあったが、一度この足で訪れてみたかった。米軍基地のあるところはどこも住民にとっては一等地だ。
 飛行場によって分断されたあちらとこちらを結ぶ道路を通して、公園、住宅、さまざまな施設のプランのパネルもあって、早くこれを語れるようになりたいと宜野湾市の市長は言っていた。

 以前に基地経済に頼ることなく民生利用で活性化できる事例を那覇新都心は示していると聞いていた。

 沖縄の街にはたんかんが出回っていた。沖縄に始まりこれから北上していく。奄美、屋久種、鹿児島と出荷が始まる。見た目はどうってことないが、おいしい。経験的には奄美が一番おいしく、適作地ではないかと思っている。また、「食べられる」という熟させたシークワーサーが出ていた。地元しか出回らないという。地産地消市をやっていて、幾つかここならではのものを買い求めた。

 日曜日は久しぶりに歩き回ったのに、愛用していた万歩計をなくしてしまったのに気が付いた。多分ホテルに置き忘れてきたのだろう。東京にいてくよくよしている。

2010年1月19日火曜日

ウチナーの三日月は

今宵は三日月がきれいだ。普通に暮らしていて歩いていて、頭上から何か落っこちてくるという意識は無い。普通に話しをしていたりテレビを見ていたりしてとても聞こえないほど騒音がやってくることはない。ところが沖縄の普天間基地の周辺にはこれがある。

東京を出るときはとても寒かったので着込んでいったが、沖縄北部の辺野古の海岸は穏やかで、やや強い日差しがあった。南国育ちで、このほんわかとした気候は身体が覚えているのだが、さすがに1月とは思えない。こんなにのんびりとした良いところが、今も訓練場や弾薬庫に使われているなんて、ましてここに2,800mもの滑走路が2本もつくられようとしているなんて。オスプレイと呼ばれるヘリコプターのように垂直に上昇できて、飛行機のように真直ぐに飛べる航空機を配備しようとしている。これは機能を欲張りすぎて故障が多く、よく落っこちるという定評がある。「未亡人製造機」とも‘あだ名’されるほど危険な兵器だ。

反対派の座り込みの画像は見ていたので、「ああここがそうなんだ」と今いるのが不思議に感じた。オーストラリア、フィリッピンとここにいるジュゴンの話を聞きながら、調査捕鯨船に先鋭的にアタックするシーシェパードのみなさんはここでこそ身体を張ってほしいなと、ふと、頭をよぎったりもした。東京の高校生たちが修学旅行に来ていて記念写真を撮っている。骨のある先生がいるのかなと、また頭をよぎる。「北部の人たちは基地のことを金の成る木と思っているのかもしれないが、実態はそんなものではない」「早く辺野古へ行ってほしいとは露ほども思っていない」という宜野湾市の伊波市長の言葉を反芻する。

名護市は選挙になった(1月17日公示、1月24日投票)。現職の基地容認のヨシカズ候補か、基地反対のススム候補かの一騎打ちの市長選が始まっている。普天間基地問題に絡む代替施設の行方、つまるところ沖縄に新たな米軍基地をつくって提供するかどうかの民意を測る選挙として新聞紙上では注目を浴びている。

私は草の根を思わざるをえない。

誰が好き好んで基地を認める人がいるだろうか。これを前提にして敢えて立場が分かれる。一方はそうは言ってもあしたからどうやって食っていくのだ。一方は子や孫の代まで悔いを残すような受け容れはできない。融和ではなく対立を日米安保が持ち込む。ヤマトの温度は低く、注目はしているが私のまわりは関心がうすい。

2010年1月18日月曜日

伊波洋一市長の熱弁


 パワーポイントが用意されていて、市長以下三名の方が前方に並んでいらっしゃったので、分担してあるいは担当の職員の方が説明されるのかと思っておりましたら、伊波洋一市長さん自らの一時間半に及ぶ熱心な説明を伺いました。質疑にも丁寧に応答してくださいました。最後に「実はこんなことより跡地利用のプランについて語りたかったのです、平和な街づくりをよろしく」とも、まだ語り足りなさそうでした。

 3時の予定が急に臨時市議会が入ったとのことで、約1時間遅れて私たちとの会見が始まりました。超多忙が見て取れたのですが、実に丁寧に誠実に応対していただいたと思います。現地に訪れ、首長の対応といえば私の経験では実に儀礼的なことが多かったものです。その誠意がこころにしみ、来た甲斐があったと感じました。基地問題に真摯に取り組み解決してみせるという信念と使命が満ち溢れていました。体力もいるだろうなとも思ったりもしました。

 沖縄県宜野湾市の嘉数高台(かかずたかだい)は日本軍司令部の防衛線として沖縄戦の激戦地になったところです。そしてここからは、宜野湾市が一望でき、その市街のど真ん中に米軍の普天間基地がみてとれるところです。

 普天間基地を抱える市の市長としてもっとも腐心していることが2つ。現状の基地の危険性をいかになくしていくか。そして返還をどう実現していくかということ。このために精力的に情報の収集をし、分析をし、あらゆる方面に訴えてきた。

 米軍普天間基地は国内法に照らし合わせても飛行場ではない「飛行場」。米国の基準に照らし合わせても要件を満たしておらず「危険そのものの代物」。基地の廃止・撤去しかない、もうこれは自明の理。それが13年も待たされている(放置されている)。「宜野湾市民にとってはたまったものではありません」と。

 当事者の米軍の資料を分析すれば普天間の海兵隊がグアム(ハワイを含む)へ移転するのは、米軍再編上は既定方針だという。それなのに代替施設をつくるという日米合意だけが存続して、いかにも代替施設がつくられなければ日米の関係が壊れるかのように言われている。米軍施設があっていいことは何もない。米軍はグアムへ移すと言っているのに、また新たな基地をつくる意味がないと。考えさせられました。

2010年1月17日日曜日

沖縄の桜とたんかん


 地元の中山、新垣両先生が皆さんを案内してくださいました。沖縄は桜の季節です。ヤマトの桜は白くて驚きました、沖縄は赤いのです、と。17℃で開花しますから沖縄の桜前線は北から始まるのです。嘉数高台の公園にはカンヒザクラが咲いておりました。
 翌朝、名護市のホテルで今出荷が始まったばかりの‘たんかん’がありましたので東北のAさんに送りました。
 今日、和紙にそのカンヒザクラが描いてあった素敵な絵葉書をたまたま買い求めました。
 「沖縄の辺野古に来ました。とてもすばらしい砂浜の海岸ですが、アメリカの海兵隊の演習場になっています。浜は海亀の産卵場で、海は数少ないジュゴンの棲んでいるところです。ジュゴンは鯨の仲間ですが海草を食べる種類で回遊をしないそうです。この美しい海をさらにつぶしてV字型の航空基地がつくられようとしています。それはとても悲しいことだと考えました。
こちらの‘たんかん’を送る手配をしました。見た目は悪いのですが、甘くておいしいです。沖縄にて。」
 空港の郵便局で認(したた)め、ゴーヤがデザインしてあるこの地限定の切手を買って投函しました。昼間は19℃あったらしく歩き回りましたら、汗をかいたのですが、東京に帰り着けば相変わらずの温度差。

 息子の新居に駆けつけ、引越しの応援に大分から来られたあちらのお母さんに始めましてのご挨拶。明日の一番で帰られるとのこと。

 *辺野古の海岸(剃刀の刃のようなものでできた鉄条網が張り巡らされていました。豊かな砂浜を含む広大な土地が海兵隊の演習場、訓練のときは戦車や水陸両艇で海岸も砂浜も踏みにじられているそうです)

2010年1月15日金曜日

電車に飛び乗ってやる

 妻殿はとんでもないドジ・ヘマをやらかすことがある。そうすると、落ち込む。時に深刻な表情で“私は生きている価値もないんだぁ、ぇぇぃ、電車に飛び乗って死んでやるウ”と口走ってしまう。
 そこ、電車に“飛び込む”じゃないのと訂正してあげなければいけない…。
 その妻殿に誘われて普天間と辺野古に行くことにした。

2010年1月14日木曜日

目覚ましをかけて


「まだ、生きてたよ」「今日も生きてたねぇ」というブログを覗いて、不思議な感じがする。毎日この調子で続いている。ときどき辛口の時事評論が入っている。
今年定年退職の親しい人の送別会の日程を打ち合わせる。
パソコンが怪しくなってきた。メールが開かない。
今日は寒い日だ、さて、機会あって暖かいところに行ってくる。
二男カップルの引越しには悪いが手伝えない。長男のお嫁さんがあれはスープの冷めない距離ですと言って苦笑していた。
今日は目覚ましをかけて寝よう。

2010年1月13日水曜日

小人生


 専用粉を買って、ボウルで捏ねて、叩いて生地を作るのはいちいち気合がいったから、生協のカタログでツインバードのホームベーカリーを注文してしまった。そしたら宅配便で届いた。むふふ。金で済まそうとする我が小人生。
 あの日は無事に帰ったのかとメールが届いていた。ご心配とご迷惑をおかけしましたと返信。今日は風が強く寒い日だった。日本海側、九州で雪になったそうだ。

2010年1月12日火曜日

鰻の稚魚漁の季節


 鮭は河川で生まれ海で育つのですが、鰻は逆に海で生まれ河川で育ちます。鮭は産卵のために海から帰ってきた親をつかまえて人工的に孵化をさせ増殖することができています。稚魚を河川に放流し増殖することができています。
 しかしながら、うなぎの場合はまだ卵から孵化して育てることはできていません。南の深海で生まれたうなぎの赤ちゃんが日本も含む東北アジアの各地の海岸にたどり着くのが冬から春にかけて。これを採捕して大切に育てるのがうなぎの養殖です。
 鰻の稚魚(シラスウナギといいます)は、資源保護のため養殖用として国より特別に許可を得て採捕します。各県により採捕期間は少し違いますが、鹿児島県の場合12月~3月までの期間に定められております。その期間に採れたシラスウナギを、養殖池に入れ大切に育て、大きくなった順に出荷していきます。国内の養殖池に入るシラスウナギは、日本より早く採捕が始まる台湾(11月~)のシラスウナギも利用して池入れがされます。
 シラスウナギの採捕は、闇夜の大潮を中心にした時期が最も良く、その時期に海から川へ上ってくるシラスウナギを網ですくいます。漁に出ても全く採れない日もあるとの事ですので、冬の寒い時期での作業は大変な作業です。
 シラスウナギを養殖の池に入れるときは、最初は塩水に入れ徐々に淡水に変えながら同時に水温を30℃位まで1週間位かけて上げていき、餌を与えられる池の状態へ変えていきます。シラスウナギは、弱い生き物なのでこの池入れのときが病気に移らないよう一番神経を使い大変な作業です。

2010年1月11日月曜日

「故郷」


 昼間に『三人でおくる新春コンサート』を楽しんだ。三人とは渡辺昌子さん、有馬理恵さん、金井信さんで、独唱、一人芝居、ピアノ独奏などである。最後に「故郷」(高野辰之作詞)を皆で合唱して終わる。
 ここのところ私にとっては「故郷」は昔の山田洋次さんの映画のことだったが、久しぶりの唱歌「故郷」。♪「いかにいます父母 恙(つつが)なしや友がき」そのつながりがあまり無くなってしまった、♪「山は青き故郷 水は清き故郷」を訪れることがなくなっていくなあと思った。
 約100年前(1914年)につくられた唱歌だが、この列島の人々にとって「故郷」が激しく変化したことを考えてしまう。郷愁を誘ういい歌には違いないが、高度経済成長期に育ってそもそもこの「詞」に謳われた内容が乖離しているようには思っていた。「うさぎ追いし」などという経験はなくなっていたと思うし(子ども心に「うさぎっておいしい」のだろうかと思っていた)、例えば私の故郷の河川は汚染されて水は決して清くなかった。水質汚染などはある程度回復はされたが、その後も景観や生態系は著しく変化して今にいたっている。人々も極度に都市に集中し誰が米をつくっているのかどなたが野菜をつくっているのかわからない消費者になった。私自身もそのひとりで、コンビニのない故郷は考えられないと子ども世代は言っている。この「故郷」の歌詞の内容がなんのことかさっぱりわからなくなっていくのかもしれない。生活の変化でわからなくなっていくことはやむをえないことだとしても、それに伴い一種の情念が無くなっていくあるいは断ち切ってきた、人と自然とのつながり、人への関心がうすらいでいくことを、気付けば自分自身にもあるし、社会全体にあるように思えて肌寒く感じている。

2010年1月10日日曜日

天栄村

聞いてみるとあのころの人は皆そうだったようだ。「カツ」と言えば、ほとんど「クジラカツ」のことだった。言うところの「昭和30年代」のことだ。近所の総菜屋さんに売っている1枚100円もする「トンカツ」を望んで買ってもらえるのは誕生日だけだった。

昼前に今日は来られない三男から「地酒という言葉の原点に回帰し、地元産の厳選された酒米・酵母・仕込み水から下野杜氏が醸した真の地酒でございます」と銘打った日本酒が届く。

二男カップルのお披露目、新年会、誕生会を全部兼ねて家族を招集した。娘はドタキャンだったが、久しぶりに皆で大鍋を囲む。石油ストーブをつけて大勢でいると少し息苦しい。妻殿がりんごを剥けば30を過ぎた長男がりんごに目が無かったことを思い出す。

姉からお祝いのメールが来る。私が生まれた時、一番年が近い姉は9歳だった。「それからは学校から帰るのが楽しみで寝ているあなたを起こして、よく叱られました」と。

二男たちは新居アパートへの引越しなどこれからなお忙しい。さて賑やかな一日が過ぎた。片付けを終わって、ほっとしてETV特集「よみがえれ里山の米作り」(22:00~)を観る。福島県天栄村、新潟県秋山郷、ゆかりの地が出てくる。

2010年1月9日土曜日

なるように、またなった


腕時計をはめる元気がない。二日酔いの朝は孤独だ。気力がなくて昨夜脱ぎ捨てたとおりにまた着る。マフラーは出てきた。自転車の鍵だけは所定の場所にあった、不思議だ。定期も出てきた。それはそうだ、電車で帰ってきたのだから。はっ、昨日おろしたばかりの靴が汚れている。人に迷惑をかけたのだろうと落ち込む。休日ダイヤの乗り換えで始発の電車に間に合うように家を出る。今日は座れなければ地獄のようだろう。座れはしたが、・・・。

昼休みにムカムカに効くという胃薬を買う。人には話せない。無理をしてまで出勤して来なくてもよかったような日だったが、結果論だ。

帰ってきたらサウナに行く。お粥にしてもらう。なんとか回復に向かう。

しかし、親しき人たちと大笑いしながら飲めばうまい。飲んでしまった。しかしだ、度を過ぎれば苦じい。しかもだ、なんども同じことを繰り返す。だから、同居人には同情してもらえない。自業自得と目が言っている。あのねぇ、貴方のそんなときには経験者として同情もし介抱もするでしょって言うのだけれども。そんなこと何度もないもんと言われる。サイテーだシカクがないとさらにののしられる。

2010年1月8日金曜日

つながりを切らせない


 インフル発症で出勤停止(年休を使う)をくらった息子。38度の熱が出ていたらしい。なにか支援物資でも持っていこうかと連絡するも、大丈夫、今日は生協の宅配がきたからと返事がきた。東京では買い物の手段はいくらでもあるが、それこそ地方では生協の配達がライフラインのひとつだ。そういえば東北では県下一円を走り回っているのはクロネコとCOOPだけが目立つという。お届けするのは食品だけではない灯油もだ。それにつけても、そういう全国の山間部から津々浦々までのライフラインをぶったぎった郵政民営化とはなんだったのだろう、何故あれほど多数の国民がこれに踊らされたのだろう。今でも「民活」を唱えるのはまるで「蛸が自らの足を食う」類のすり替え話のことではないのだろうか。

 そうこうしているうちにもう回復したようだ。彼女も帰ってきたらしい。「♪ふたりは若~い」だな。聞けば婚姻届を出しに行くそうだ。

2010年1月7日木曜日

想像

 食品は将来「宇宙食」化すると考えている。
 そう野暮な形ではなくてバーチャル化した発展を遂げるのではないだろうか。ミニマム化・省略化はされているがこんな感じの味、匂い、見た目が様々なバージョンで再現されるものと漠然と考えられる。「食べる」必要はなくなり、「摂取」するようになる。摂取排泄も既にそのころ人間の体は効率化している。レプリカされた形で食の伝統は「受け継がれ守られる」。そして製造現場は平準化、完璧化された「食品」を恐ろしく効率よくつくるようになっている。野菜も肉(家畜)も穀物も閉鎖空間の工場化されたファームで「生産」され、現在で敢えてイメージできるとすればドモホルンリンクル化粧品工場のような「宇宙食工場」に送られる。そのころ容器や食品の形状がどうなっているかまでは想像つかないが、二十四節季に合わせたパックがあって、味、匂い、見た目、摂取の雰囲気が頭脳の部位にきちんと伝わるような「食品」ができている。潤沢にお金さえあれば、いつでもどこでもどんな場面でも簡単便利に入手できる。

2010年1月6日水曜日

骨のある取材

 花伝社という出版社は果敢におもしろい本を出しています。日本の交通事故の死者は昨年5千人をようやく切りました、一方で自殺者は毎年3万人を超えています。それがずっと続いています。そして、そのうちの100人ぐらいが自衛隊員です。とくに97年以降増加しているということを『自衛隊員が死んでいく』(08年5月)という著書のなかで三宅勝久さんは取材を通じて述べています。「真空地帯」「人間の条件」「戦争と人間」などの映画(や原作)を通じてなど、旧軍の軍隊内における兵士にたいする陰惨な暴力・リンチが描かれていますが、このようなことが形を変えて自衛隊の中にも体質がつながっているのではないかと指摘しています。聖域化されている約5兆円もの予算を使い、25万人余りの武装組織で何が起きているのか。心身ともに鍛えられている建前の自衛隊員とは裏腹の、悲鳴にも似た氷山の一角であろう自衛隊員の姿、閉ざされた空間・密室で何が起きているのか。自殺へと追い詰められた隊員は「炭鉱のカナリヤ」ではないかと警鐘を鳴らしています。
 三宅勝久さんは元新聞記者で、「債権回収屋“G”――野放しのヤミ金融」で第12回『週刊金曜日』ルポルタージュ大賞優秀賞をとっています(ちなみに最新の第20回(09年9月)審査員特別賞は藤井孝良さんの 「マハラバの息吹―もうひとつの1960年代―」です)。骨のある取材を続けています。

2010年1月5日火曜日

現場から


 今年も明けて仕事2日目。トラブルを仕事にしているので心の休まる日はない。
 年を重ねることによって5年や10年が短く感じる。20年前なんてついこの間のことだ。
 もはや「総中流」意識を謳歌したのが牧歌的な時代に思える。あっという間に「総貧困」のスパイラルに向かいつつあるという危機感を感じている。家族を呼んでご馳走を食べていても、飲み会にいても、ストレッチをしていても、こころの片隅にある。切羽詰ってきているようにすら感じる。「貧困」とは単に生活の困窮だけではなく、たすけあい支えあう社会が壊れて行き、心の貧しい社会に向かうその息苦しさとつらさである。議会の政党政派だけでは解決しづらくなった。この目の前の事態に立ち向かったのが反貧困ネットワークをはじめとする草の根である。それでどの政党政派もこの問題は解決しなければいけないという立場には立っている。新政権になって一歩進んだが解決の道筋はみえない。
 一方で、ひとびとの生活が苦しいからといって、世はあげてモノの低価格志向につき進んでいる。製造者も流通もモノが売れない、シェアを維持していなければ「生き残れない」と悲壮感で臨んでいる。麒麟とサントリーが合併する、セイユーのKYのバックにはウォルマートがいる時代である。いつ潰されるか、併呑されるかわからない、気分はまるで欧米列強がアジアに押し迫ってきた帝国主義時代の様相だ。それで「坂の上の雲」「龍馬」なのだろうか。低価格志向につき進めば、安くつくるために人件費を削る。流通とて、どうあがいても売上は落ちる。現時点での勝ち組ユニクロ、ニトリのように常に拡大していなければならない。人権を削るような人件費の削り方はさすがに反撃をくらいつつあるから、中国など外国へ行く、ユニクロ、ニトリはとっくの昔に‘外国’を渡り歩いている。どうしようもないスパイラルに陥っている。
 外国に求めているのは恐ろしく低コストと細かい加工である。加工度を上げて、コストを安くする、これがチェーンストアの仕様書発注の真髄だが、そもそも矛盾することを求めていて無理がある。品質管理という名の、工程の細かい管理は人の管理でもある。システムは工程ラインの一部に人間を置く。したがって誰にでもできる仕事、取替え可能な部品然として人が据えられる。一次原料(農産物、水産物、林産物)は人手により見事なまでに加工されている。そのまま製品になるもの、加工素材になって原料としてさらに加工されるものがある。しかしながら、やはりトラブルが繰り返される。国内加工であったら恐らく避けられるであろうミスが発生する。そもそも製品にたいする感性が違う。日本人にとっては不具合であっても外国の人にはそうは映らない。そういうトラブルに日々接している。
既に空洞化を進めてしまっていて、外国に頼らざるをえない現状ではあるが、せめてというか、正当にというか食品加工はやはり国内加工を追求・再構築すべきではないかと考える。根本的に食糧生産、農業・漁業という私達の身近に生きる環境の問題も含めて立ち止まって考えなくてはいけない。そういうことを、もう多くの人が言っている。表には出ない日々のトラブルに接していれば、この思いは強まる一方だ。
 しかしながら、国内加工を再構築するとすれば製品価格は海外加工並みに安くはならない。今はいくら安くともいずれはいろいろな形でツケがまわってくる。低価格のスパイラルを突き詰めれば食品の安心・安全を保障できなくなる可能性を考える。

2010年1月4日月曜日

仕事始め


 本日より仕事始め。年頭にあたってのトップの話が10分で終った。例年なら30分はみっちり今年の展望と抱負やらが披瀝され、それに向かって「さあ頑張れ」のはずだが。もちろん短いのはいい。新年度の予算は攻めの姿勢で「これこれ」で組む、体制を少しいじくり幹部の世代交代をする、引き続き“仕事ダイエット”に取り組むというもの。成長路線が語れないからだろうか、実にあっさりとしたものだった。

 まんなかの息子が新型インフルエンザに罹患していると診断された。職場では約一週間の出勤停止となるらしい、ただし逐一症状を報告しなければいけない。重篤にならなければよいがと願う。また、不幸中の幸いでしばしの安息がとれればいいのだがとも思う。

 若いときにがむしゃらに働いたのは一緒だが、今はなにか悲惨だ。私らには頑張れば、「明日」というものがあったし、病に倒れたら職場の先輩や同僚が助けてくれた。今、がむしゃらに働いているのは、それを言っても酷だが、なにかから「這い上がる、のしあがる」ためのように見える。それが悪いといっているのではなく、連帯感が感じられない。残業もある程度抑制されるようにシフトが組まれているし、休みもとらされているが、決して働く側のペースではない。合間を縫って休む形をとるがシフトという連帯責任に縛られているように見え、結局は拘束され働かされ続けているようには見える。それでもまだましな方なのだろう。

 初出勤の帰路はまたも人身事故でダイヤが乱れる。通勤客はまだ少ないのでさほどの影響は出てはいなかった。新年の初日の現実が、今年もつらい人身事故から始まった。

2010年1月3日日曜日

正月休みの終了


 「やっと帰ったよ。息子夫婦と娘夫婦が来ていたんだけど。ぃやっ、タイヘンだった。ガキはいるし…。」ジムのお風呂で顔見知りの人が知り合いの人に新年のあいさつしながら言っていた。ジムには欠かさず通うような二人暮しでは、たとえ我が子でも家族で帰ってきて、ペースがかき乱されたのだろうと想像された。二人暮しがやがて一年になる私もわかる気がするようになった。「今年のカレンダーが悪いよ」という。たいがいの人は明日の月曜日からが初仕事のようだ。私もそうだ。 鳥が来て金柑をついばむ。

2010年1月2日土曜日

ふっ合理主義


 調子が悪い、ノートパソコンを買って6年過ぎた。5年経てば違うもの、次元が違っている、そもそも買い換えるべきだという。桁違いに容量が違っている。四の五の言ってもその通りだろう。とは言っても、5年おきに10万円前後もするパソコンを買い換えなければならない、買い続けなければいけないのか。たとえお金を払ったものとはいえ、人様に作っていただいたもの、自分ではつくれないものを、最後までいただく、着古す、履きつくす、使い尽くすというのは私の主義だが通用しないらしい。まだ使えるだろうに、捨てるには惜しい、新しい機能がないからといってポイ捨てとは何事云々、とかなんとかぐだぐだ言いたくはなるわいな、と。
 ヤマダ、K’s、コジマ、ベスト、ノジマ、PC DEPOT、どの初売りチラシを見てもどれを買っていいのかわからない。そもそも何を買いたいのかよくわからない。ノートパソコンを買っても結局持ち歩かなかった。デスク型?地デジも付いている…。
 使うのはほんのちょっとのメール。覚えやすいアドレスにしたのが禍した、迷惑メールがすごい。ちょこっと覗きたい他人のブログ。ひっそりつくっておきたい自分のブログ。記録しておきたい写真帳、これが容量を越すのか。年に一度の年賀状づくり。その程度の道具なのだけれども。だけれども、インターネット使わんがためのIDコードとパスワードは数知れず。ボケたらどうしよう。
 今年も不合理主義で這って行く。

2010年1月1日金曜日

初春や


関東は粉石けんでの洗濯日和でした。
息子は向こうの親とおばあちゃんにあいさつするために今朝旅立ったのですが、羽田に向かう途上見渡す限り青空、富士山がきれいだったそうです。そこまではよかったのですが、大晦日から熱が出ていた彼女、向こうについて医者に駆け込んだところ新型インフルエンザであったとのメール。これは大変だ!の元旦になりました。
昼間はよく晴れ渡り、夕方には大きな丸いお月様があがりました。
手抜きもしながら、なんとかこのつたない日記続けていこうと考えます。今年もよろしくお願いします。