2009年11月30日月曜日

カーテンコール


鴎外なら舞姫、ドガなら踊り子、三浦浩一、村下孝蔵も踊子、川端康成、JR伊豆特急もそうだ。知り合いのコイズミさん流にいえば「ミュウジカル・スタア」。

燃え尽きたのではと言われるが、違う。みなぎったのだ。

やってみればぁ。否、やれやれ! ん、やってみるかぁ、で参加した。土日つぶれるけど?なんの問題もない、気にしないで。生協で冷凍食品たのむから。後半は生協でたのんだ白菜の鍋にしたけれど。

緞帳(どんちょう)と呼ばれる荘厳な幕が開(あ)く。光があたり、ライトのなかにおかあさんを見つける、きゃあ!なんてことを「夢みていた」。それは別の世界のことで、才能と機会に恵まれた人のやること、そう思っていた。違うどこかの世界。

一念発起、やるだけやってみる。最初の方は十分参加できなかったのでおたおたした。やめるとは言わなかったから、続けるしかないのでは、で腹を決めた。夏の練習に、部活帰りの女子中学生のように帰ってきた。山田洋次さんがきてプレ企画が催されて、パフォーマンスをみた、あれなんていうの?「でい、でい、でい(泥、泥、泥)」これは楽しそうなミュージカルになると直感した。

見せてあげたかった。元気な時の私の母親。そのかわり姉たちが見てくれた。上の姉はコーラスに毛が生えたぐらいのものと思っていたふしがある。そして、小林和恵先生。生きていたら下の姉と同じ歳だ。「採用します」の電話を私が受けたことを今でも覚えている。妻殿にとっては人生の画期になった。わずかの歳月しかご一緒できなかったがすごい影響を受けた。今の私たちよりずっと若くして、癌のためにあっという間にお亡くなりになった。生きていれば、きっと自分のことのように喜んでくださったことだろう。その息子さんも一回目は実行委員長として、三回目の今回は事務局長として獅子奮迅の働きを見せた。ひとのこころをつかむ、その影響力はやはり小林先生のDNAなのだろうか、器が並ではない。

あれほど大きな舞台。市民会館はハコモノでりっぱなもの、文字通り「おおぶたい」を踏んだ。みんなに観に来てもらい、晴れ舞台を飾った。光と音楽、舞で、‘非日常世界’に誘(いざな)った。「楽しかったよぅ」と感想をもらった。ミュージカルは「先ずは水門を開けること・海流は左に渦を巻く・その流れに」「森からの真水が有明に流れ込む、・・・必ずやまた干潟は蘇る」などのメッセージを送った。「考えさせられました」を生協の飲み友達からもいただいた、仲間だ。

びしっ、ばしっと後姿から聞こえていた堤さんを紹介していただいた。裏方の立役者のひとり。ミュージカルは成功させなければいけないの信念を実務で体言したひと、子どもの出演者のおかあさんだと聞いた。

昨夜はその日のうちに帰りつけなかった。観に来てくれた長男夫婦を誘って立川の和楽にまた足を運んだ。日曜日の9時だというのに店内は満員だ。ボクシングの世界戦を中継していた。内藤の顔がぼこぼこで勝負の行方がわかった。

来てくれたのかなと会場を見回していたら、なんと一番前の席から立ち上がったのがコイズミさんだった。来てくだっさったのだ、なんてこったカブリツキに陣取っていた。声もかかったらしい。昼は二階席まで満席にし、夜は一階席を満席にした。ライブのミュージカルは反応までもみな違うらしい。5会場6公演都合6000名ぐらいの人がこのミュージカルを観てくださり万雷の拍手をいただいた。そして終わった。

次につながる、人につながる希望を演じたのだと私は思う。燃え尽きたのではなく、みなぎったのだと考える。すごい体験を妻殿はした。それを応援できた。ひととのつながりがひろがった。

2009年11月28日土曜日

最後の稽古


我家の紅葉は今ぐらいがピークのようだ。枯れ葉の掃除が一段と大変になる。
最後の稽古と宣伝を終えて帰ってきたうちの「ミュウジカル・スタア」は白菜鍋を食べ焼酎を一緒に飲んで今しがた寝た。明日は2回公演。カラダを張る。この時点で夜の公演が埋まっていない、スタッフも必死だ。券を買ってもらってご来場いただいていない人がいる、「もったいない」の一心で手分けして一声かける。どの会場のことも映画「同胞(はらから)」を地でいく必死さだ。気にしないわけにはいかない。

HIGATA(干潟) 歌詞・曲:Matsunobu

普賢岳のたなびく煙 海は満ちては引いて
河が運ぶ森の恵み 時を刻み土を洗う

海は子宮 地球の肺
子を孕み 呼吸する 命のゆりかご

GATA HIGATA 満ち潮
GATA HIGATA 引き潮

---で、ミュージカルが始まる。明日が千秋楽。
私から券を買って観てくれた人ですら正直に言った「たかが素人の、と思っていたらびっくりした、本格的でした、すばらしかった」と。私から券を買ってくれた人たちに明日も楽しんでもらいたい、明日は天候が厳しいようだ。息子のお嫁さんの御両親にも挨拶せねば。

『ルポ諫早の叫び』(長尾俊彦著、岩波書店、05年6月刊)、『有明海の自然と再生』(宇野木早苗、築地書館、06年4月)、『宝の海を取り戻せ』(松橋隆司、新日本出版社、08年4月)で勉強する

佐渡で人口繁殖されたトキが放鳥され(9月)、また一部のトキが本日中国に還されたそうだ。「自然を復元する」という努力が続けられている。サドのトキさんたちの仲間も頑張っている。ただその一方で、干潟が潰されているし(沖縄)、諫早・有明では干潟と宝の海がつぶされたままだ。トキもコウノトリもツル(鹿児島県出水)も干潟の野鳥も、共に生きていけなければやがて人間にとてつもない不幸が覆いかぶさってくるということに気付いているのに。

満ちゃん


 人懐っこい性格でみんなから「満ちゃん」と呼ばれた。外語大でドイツ語を習得し、「モーやん」(西郷輝彦が主役で演じた70年代の関西の人気テレビドラマ。猛烈に働いて立身出世する浪花の商人の物語。)のような働きをもとめる商社にはいり、世界を股にかけて活躍した。言語学を学んだ教養から人類の歴史にも詳しかった。南米出身のご婦人と恋に落ちスペイン語も習得した。小さくてかわいい白人の奥さんだった。仕事は熱心なうえに誠実で同い年だったので仲良くなり、あるとき我家にも泊りがけできてもらった。欧米人のマナーで会話にはいつもジョークを欠かさなかった。そして、誰にでもどんなときにも「なんの問題もありまへん、気にしないで」が口癖だった。「ノン・プロブレム、ネバー・マイインド」と首をふりながら繰り返すのが常だった。ただ満ちゃんは京都人だったから真に受けていいのかいつも迷った。
 有名商社マンだったから収入はすごかったと思うが、忙しすぎた。奥さんの事情で、いつか商社を辞めて大西洋上のラス・パルマスにいると聞いた。いちど国際電話をかけたことがあったけれどつながらなかった。満ちゃんはいま、どうしているのだろう。

2009年11月27日金曜日

あと3日


 大先輩のコイズミさんは若い、そして積極的だ。息子さんに片方の腎臓も提供した。気に入ればみんなに吹聴する。「このひと、ミュウジカル・スタアなのよ」招待券を渡してでも最初の公演を観て貰えばよかった。思い切ってお誘いしたらしい、そしたらまだ観てもいないのに、みんなに宣伝してくれる。「これはケンポーなんだってよ、そりゃぁ、ベンキョーしなくっちゃね」口を開けば話題にして人に勧めてくださる。それで何枚か売れた。

 熊本を過ぎて北上すればやがて左車窓に普賢岳が見えた。地図で見れば有明海はお腹にいる赤ちゃんの姿のような形にもみえる。福岡から鹿児島に行く飛行機のなかからは天気がよければ干潟の泥の色をみることができる。

 幕があがり、映像とナレーションが続いたあと、高い音程「フゲンダケのたなびくケムリ♪」で踊りが始まる。

 最後の公演、夜の部がまだ埋まっていないと檄がとぶ。泣いても笑ってもあと3日。
「立川、夜へ」誘(いざなえ)え、と。

2009年11月26日木曜日

◎一歩前へ

明治大学の校舎(と言うにはあまりにもりっぱな高層ビルだが)では「一歩前へ」と書いてある。鹿児島空港では「◎」が記してある。きれいに使うのは公共心だ。で、このユーモラスが自覚を促す。ご婦人には少しわからない実例。

2009年11月25日水曜日

芽が出る


種も球根もいつか芽が出る。
めきめきと芽が出て育ってきた。ただ、季節が早いような気がする。

商品を通じて環境を守り雇用を促進する、提携が成ったようだ。ただ、ここの干潟のことも忘れずに触れてほしい。もずくの芽はここで育てる。いわば海の苗床。猪突のごとく明日の成果を追うばかりではなかろう。足元をみながらと思うのだが。
 *Hさん、Sさん、Oさん、で会う。

2009年11月24日火曜日

協同してあたる

大手の圧倒的なシェアのもとで、菊水堂のポテトチップスはどこで買えるのか?
普通の消費者は知らない。ところが、何気なく付き合っていた私も知らなかった。どうしても灯台の下は暗い。

なかなか黒字を出せない状況では気心のしれない企業に仲間になってくれというのは忍びないというK理事長の深謀遠慮があった。

規模の小さな企業は大企業の傘下に入るかさもなくば系列化で支配されるかの情勢のなかで、独立と独自性を保ち、なおかつ品質管理や商品開発の社会的期待に沿うには協同してあたろうと志した。とはいってもそう甘くはない環境だ。まして納入先の創業第一世代が去れば規模が小さかった時から共に歩んできたという庇護はなくなる。 切って捨てられる可能性すらある。

態勢を整えたとしたら、事業を構築するにあたって商品開発は、今その同志的身内にこそ求めるべきではないか、これが第一点(これは顧問のYさんが言ったこと、同感)。優れた開発力もしくは技術力をもつ中小規模の企業をこそ共に商品開発をして仲間にいれるべきではないかこの二点。いわば撃って出ること。「アドバイザー」なのだからと急に振られて、ついそう言ってしまった。名ばかりだったのに。

この論議と戦略的選択。これをすぐやろう、ということになった。はて。

あられは嗜好品です、おいしいものを追究していったら、この道にたどりつきましたという精華堂あられ本舗の三代目社長の話を聴き、懇親した。少人数の発表会でも求められればこの話をして、やっていることを伝える、これを積み重ねることの方が確実とも。

それが真骨頂だろうなと実感している。

大量宣伝、大量生産、大量販売したところでいったい何が残る。忙しさ、食い散らかし、どこまでも満たされなさ、資源と心のすさみ。…かもしれない。

*画像右:精華堂の「柿の種」のタネ、左:精華堂の「柿の種」製品、 もちを手でのして、それを静置して自らの重さで三日月型になったものをカットして「柿の種」のタネにする方式の作り方。百社百様のつくり方があるらしい。

2009年11月23日月曜日

花束


今日は武蔵野公演

昨日から泊り込みで来ている姉から朝一番に「花束」はどうやって渡せばいいのかとのメール。専用のレセプションがあるよと知らせる。終了後のキャスト全員による送り出しのときに直接手渡しの方法もあるよ、と。○○番のナニガシさん、花束が届いております。行ったことはないがキャバレーの控え室を連想する。うちは大部屋キャストで、トウは立っているが今年入った駆け出しもん。届けば大喜びする類(たぐい)。

根が九州もんで某理科系有名大学の元少林寺拳法部キャプテンのUさんは今日のミュージカルに一番に並んだらしい。それで携帯に開幕二時間以上も前にメールがきた。熱しやすく冷めやすい、好き嫌いのはっきりした“肥後もっこす”を薩摩人は不用意に敵にはまわせない。次々と並ぶ人たちとわいわいやっているらしい、いい人たちばっかしだと知らせてくる、まるで今放映中のNHK5回連続ドラマ「48時間」だ。どうもUさんまで花束を用意していただいた様子だ。「よっ、○○屋!」とか声をかけるわけにはいかないけれど、どうしたら?とか言ってくる。私は冷静に「タイミングのよい拍手と最後のスタンディングオーベーション」をリクエストする。

今日の公演は、ご近所お誘い合わせ組、いとこ・はとこ、飲み友達、私の一族、私の職場の仲間、がそれぞれ押し寄せた。ありがたい。初冬の合間をぬって公演は天候に恵まれる、「満員札止め」にした。

私の当番の仕事は、まっ、仕方がないか。誰かがやらなければいけない。

本日芝公園での催し

 ターミナルでなければ休日の都心にはウソのように人気(ひとけ)がない。1時までに帰らなければいけない(過ぎているのだけれども…)。シンデレラの気分でした。かぼちゃになってしまう。かぼちゃになったら魔法はとけない。

 精神の路頭に迷うことは稀にありますが、今日に限って時間がないのに道に迷いました。後ろめたい人生は歩んでこなかったつもりですが、今日は道をはずしました。地下鉄の出口を出て、通りを1本間違えたようでした。芝、増上寺のあたりは幕府の庇護を受け関連するお寺がいくつもあって迷いこんでしまい東京タワーに出てしまったので違う方向だとわかりました。

 行ったらすぐ帰ってこなければいけない。昼休みにJRと地下鉄に乗れば行ける。

 東京の芝公園4号地で「派遣村村民同窓会・有志の会『フレンドシップ』」の主催の集いが本日(11月23日(月)祝日11:30~15:30)行われるというご案内を昨夜遅く‘bianca様’からいただきました。以下はその内容(昨日のコメントから)

 『フレンドシップ』の構成メンバーは、「年越し・派遣村」に救いを求め集まった元村民で構成しています。「派遣村実行委員会」が6月に解散し、その後実行委員会、元村民、ボランティアで「派遣村村民同窓会」が結成され、さらに「派遣村村民同窓会」内の有志で結成したのが『フレンドシップ』です。
 元村民は、昨年末の大不況によるいわゆる「派遣切り」で雇用と生活を奪われ、生きる元気を失っていた時に「年越し・派遣村」で救われました。現在、元村民の大半は「生活保護」の受給を受け、住居を確保し、現在就職先を安心して探す活動をしていますが、なかなか次のステップ(就職など)へとは繋がっていない状況です。仲間と語り合いながら、助け合いながら「寄り合い的」な場所として『フレップ』は活動しています。
 私たちは「派遣村」での助け合いの気持ちに感動と勇気を頂きました。私たちの身近には助けを必要とする方たちが大勢います。そこで「自分たちも何か出来ないか?」と話し合い、下記のイベントを開催することになりました。内容は以下の通りです。
開催(企画)内容
1)食事配布 11:30~
2)集会イベント 13:00~ (1時間予定)
〈内容〉 ・主催者あいさつ 
     ・各界からのあいさつ 国会議員・地方議員・市民団体
     ・「緊急雇用対策」のお知らせ ※コントあり
     ・ミニライブ
     ・当事者の声など
3)テントブース 医療、生活、就労各窓口 等
 それで国会議員の皆さんにも集会への出席を要請されたようです。会場でいただいた資料のなかには鈴木宗男さんからのメッセージがありました。

弱者の声を政治に届けよう!
「緊急雇用対策」の目玉!! 第2のセーフティーネット
『ワンストップサービスを使いたおそう!』の集い

 昼休みに行って帰っただけでした。せめてイベント開始の冒頭には居ようと考えましたが、段取りが少し遅れているらしく「ふかしいも」の配布が始まったらイベントを始めるとのことで引き返さざるをえませんでした。
 バンダナにPALのエプロンの方とお見受けしました、お名前も書いてありましたので。生来の人見知りなのでお声はおかけしませんでした。すみませんでした。集会の様子をまた投稿いただければありがたいと考えます。

2009年11月22日日曜日

日曜日

起きたら8時半だった。久しぶりに妻殿がいる。練習も公演もない中日(なかび)だから。

間食をやめていたが、久しぶりに紅茶といっしょに、昨夜買った百円のスナック菓子をボリボリと頬張る

あれ、あれ。あれ持ってきて。どれ、どれのこと。あれだよ、あれ。という関係になった。寒い日だからどっかと座り込めば、おいそれとは立ち上がれない。どっちが取りにいくかは、じゃんけんか「こけし独楽」で決める。男尊女卑がなかなかできない。

立ち上がるときは「よっこらしょと、どっこいしょ」と声を出していいんだよとジムの先生は言う。“枯れススキ”にはまだ早い。

今日は語呂合わせで「いい夫婦」の日だとかニュースで言っていた。おおきなくしゃみをする。

で、どうだった?


 お客さんがとってもあったたかったの。
 公演が終わってお客様を送り出すときに、客席から舞台に熱気伝わりました?と言われた人がいたのね。 開場前からもうたくさんの人々が並んでいた。金曜日の地元紙にも取り上げられた、それには会場になる飯能市在住の出演者の名前が紹介してあった。少し「有名人」になった(?)。 花束がどっさりきた。 埼玉で以前に10年間もやっていたのでもう一度観てみたいという要望と地元の実行委員会のなにか手作りな感じと熱気が実を結んだ結果になった。 満席で埋められた。 ミュージカルに出られるだけでも何か秀でたものがあると思われるのに、加えて達筆な人がいた、飯能版「立看(たてかん)」を手作りして盛り上げた。

 市民会館の会場は3月に確保した。抽選ではなくて先着順だ。徹夜で並んだ、それを事務局長の善(zen)さんは公演が始まる前の緊張のなかで思い出した。苦労が報われた。そのことを話した。

 親子で出演する‘あいるのかーち’さんが親子ふたりで司会をした。‘あいる’ちゃんがとてもかわいかったのよ。まず、それで会場が温かくなった。 西武池袋線の終点で、秩父線の起点の飯能の四分の三は森だ。「森と海、干潟」自然とともに生きていこうという、通じるもの。これに触れた飯能の実行委員長の方のあいさつがこころに響いた。そして演技中キメルところで客席からひとつひとつ拍手がくる。

 市民のミュージカルは客席と一体になること。演出の田中暢さんはずっと強調していた。 今そこで演じる生身の人間と、音楽と光、歌と踊りと表現を感じてもらう今日来たお客さんとその場で今つくりあげる関係のことだ。演目は同じものでもひとつひとつが違う。それはライブの妙というものだ。

 そうだ、自然と人間の営みの関係、人間の事業と生き方、生き方と自然との関係。そういうメッセージをもっている。今の憲法は戦力に頼らずして平和に生きること、そして皆と(国民として、世界の市民として)幸せを求めて生きること、それを最低限社会(国)が保障すること、そのための「生き方」を提起している。その「生き方」から「自然との関わり方」を潟、干潟、生き物、生きる人を通してミュージカルは提起していると考えられる。そのことを発散するように、稽古を積んだ市民100人が演じられる。こころの粋だ。

 手話通訳をする3名の方たちは歌をもう覚えていて演技者以上の通訳をした、すばらしいものだった。

――ということを迎えから帰る車のなかで次々と聞いて、そして手にとるように私にも熱く伝わった。
あさっての武蔵野会場、札止めになったの。
 私の一族郎党、友人知人がいちばん集中した日だ。みんなにメールを飛ばす、当日は早めにお越しくださいと。私はあいにく仕事の当番で駆けつけられない。
 次は最終日の最後の公演埋めなくちゃ、と考える。

 限定純米酒「ゆめところ」でとりあえずの祝杯をあげる。所沢の米で造った酒だ。醸造は「天覧山」という銘柄をつくる飯能の酒造元だ。ここいら辺一体は狭山丘陵と呼ばれるところで水田はほとんど見当たらない。有名な茶所で茶畑ならいくらでもある。これはかつてあった所沢の地酒を復活させたいという願いと農家の頑張りでできた酒。今日の祝杯にふさわしい。日付がかわっていた。

2009年11月21日土曜日

お出迎え


 朝から晴れ渡る。

 さあスポーツをしようなどというアウトドア派ではない。農作業をしようという機会ももっていない。
 洗濯をしたくなる。粉石けんを溶かしてふんわりと仕上げてみたいと思う。スイッチを押せば全自動でやってくれるから、たいしたことではないし、好きでやっている。家事を分担していることになっている。晴れ渡った日の物干しは楽しい。そういうときは家にいたい、細切れのぶつ切りの仕事なんか辞めたくなる。
 さて落ち葉をどうしよう。さるすべりを刈り上げてもいい、ローマ遺跡のポツンと立つ石柱のように。しかしそうするには伸び放題にしてしまった。梯子と高枝切りをもってきて、へっぴり腰で真上を仰ぎながら、高枝を鋏み落とす。お向かいの若旦那から「大変ですね」と声をかけられても真上を向いたまま応える。少しゆらゆらしながら、ぐっしょり背中に汗をかいた。いつもこういうときは、バチカンの天井画を描いたミケランジェロたちのような絵描きの苦労を連想する。もみじが上から紅葉してきた。姉にみせてやりたい。

 「満席でした」そして飯能駅を出たというCメール。最寄駅まで車で迎えに行かなければいけないから、一風呂浴びたがアルコールは飲まないで待機していた。ちあきなおみさんをBSで聴くのを中断して、行かなければならない。

 今宵の公演で折り返しを過ぎた、あと2会場3公演。ミュージカルはライブでなくちゃ。彼女がふろを浴びたら、もう遅いが飲もう、戻りかつおで一杯。

2009年11月20日金曜日

泣かない子


ワンセグが欲しかったらしい、よく計算をして、あまりお金のかからない方法で最新式に取り替えた。いちにちふつかは操作に手間取ったようだが落ち着いた。機嫌がいい。私にはそういう新しいものに挑もうという気がないからいつも見習う。

「武蔵野夫人」(1950年、大岡昇平)の舞台となったところあたりを、あっちへ行きこっちへ行くことになった。玉川上水に出たり国分寺へ出たりしている。不案内だから、新宿から中央線を辿ってくるとどの辺になるのか地理的感覚を実感して、遠方より訪ねて来る人にも案内しなければならない。

悔いが残らないようにと配信メールで檄が飛ぶ。その様子をブログにどんどん書き込めばいいのにと思う。どこそこで駅頭パフォーマンス(宣伝)といえば、観に行こうかどうかと迷っている人にも参考になるし、無論知らない人にも目に留まる。公演月はあっという間に過ぎるというのが経験者の実感だったらしい。行ってくるからとメールを残して行った。私はラップをしてレンジアップすることを覚えた。

「泥の精」が抱く赤子は、泣かない子だ、不思議だ。

2009年11月19日木曜日

やめる


崩れた空模様が雪になっても不思議ではないほど冷え込む。

森永卓郎さんの『やめる』を新書版(09年6月刊)でもう一度パラパラと読む。実はいつでも「やめてやる」を胸に秘めている、いや「やめたい」の弱気の方だろうか。

「トリイステーション」は昨年の沖縄訪問のコースに入っていた。これは米軍基地のひとつである。秘密諜報組織(つまりスパイ組織)と謀略部隊であるグリーンベレーが駐留しているらしい。米軍および軍属による様々な傍若無人の所業を沖縄の人たちから聞いていた。印象によく残っている。そして、ここに所属する兵士が県民をひき逃げした。激しいスピードで跳ね飛ばし救助もせずに逃げたとしか思えない。そして「日米地位協定」に守られている。欧米列強による19世紀の不平等条約のことや植民地支配を想起する。そんな日米関係ならやめていいのではないか、もういいかげんに。

デフレに陥っているのを職業で実感している。流通業にとって「今を耐えればなんとかなる」という展望はない。トップは来年になれば、再来年になればなんとかなるだろうということはないと自覚している。とにかく売れなくなったから価格訴求に突き進む、つまり安売り合戦だ。そうでなければ競争に負ける、倒産すれば元も子もない、ともに路頭には迷えない。製造者も悲鳴を上げる。価格の引き下げ、協賛金の「自主的」アップを迫られているらしい。製造装置を稼動させなければならないから「売れないよりマシ」というジレンマに陥り値下げに応じる。流通業も製造者も今度はなにを削るか、人件費だ。物件費はもう鼻血もでないほどにカイゼンが進んでいる。人件費を削るから人々はまた家計の節約をせねばならず購買力は一層後退する。限られた次元・空間のなかでみんな一生懸命なのだけれども、つくり続け、売り続け、買い続けなければ経済が成り立たないという。恐慌がずっと続いている状態で資本主義が立ち行かなくなっている。
「やめる」「たちきる」のうねりが必要なのだけれども、共同社会、価値の転換、未来社会がさまざまに描かれつつある。

2009年11月18日水曜日

観に来て


村に住んでいるわけではない。もうこうなれば同胞(はらから)だ。
乗り過ごした、いったいどこで寝たのだろう。今日は2枚売れた。Aさんが帰り際に2,500円寄こすから、義理で買うのではないよね、必ず観に来てくれるよねと言って、売った。雨が降ったようだが、星がきれいに見られた。帰って来たのは真夜中だ。ぜったい、つながり。

2009年11月16日月曜日

手応え


Yさんのお兄さんは知る人ぞ知るヒトだ。で、それがどうしたと言うぐらい普段は苦虫をかみつぶし、とくに喜怒も哀楽も出さず、もうこれ以上俺の人生ほど面白くないものはないといった顔をして仕事をしている。で、その彼に営業した。関心を示すようでもないので、渾身のお手紙、いやメールを送った。根負けという感じで、お義理で1枚買ってくれた。実は夫婦で観に来て欲しかった。快活な奥さんも知っている、そしてその世界では有名なお兄さんにも。きっと気に入ってもらえると思うし、気に入ってくれれば吹聴してくれるだろうと。

お世辞はおろか愛想のひとつもくれぬそのYさんから朝一番にメールがきた。ミュージカル良かったと、で奥さんはどの役やっていたのと。やったね。いや、ウチのはその他大勢ですから、ほら手をカマキリのようにして舞台上手(かみて)に迫る踊りが始まったときの一番端にいた熟女、あれ。と答える。

昼休みにはUさんに市民がつくるミュージカルのこと、有明の海のこと私たちの故郷につらなる干潟のこと、メッセージのこと、歴史のこと、諫早の地元の民主党のこと、そしてあらすじを話した。夫婦で観に行ってくれる。

3枚お願いしますとKちゃんからメールが入った。手紙は出していたけど反応はなかった。階段ですれ違って、またお勧めし、じゃメールくださいということでご案内のメールを送っていた。で、また返事がなかったので無理を言ったかなとあきらめかけていた。飛んでいって前売り券3枚お渡しし代金をいただいた。家族でいってくれる。

ものごとには手応えがあるとうれしいものだ。

2009年11月15日日曜日

第2回目多摩公演終了


 「いい天気になりました」今日の会場の実行委員長のご婦人の挨拶はこの言葉で始まった。
 玉川上水、場合によってはここに住んでいたかもしれなかった。ここから初めてモノレールに乗り南下、終点へと向かう。富嶽とはよく言ったものだ実にきれいに見える。

 同じ武蔵野でも地域性がある、客席からの反応の仕方が違うらしい。今日は“ポンポコリンの山”だったはずの多摩が会場だった。昭島の会場の反応はおとなしかったらしい。だからといって不評だったのかというとまったく逆でアンケートは「よかった、泣けた」のオンパレードだった。昨年の福生(ふっさ)もそうだったらしい。

 前の方に座ったから耳でしか会場の反応と入りがわからなかったが、フィナーレになれば拍手は鳴り止まなかった、会場が明るくなり思いっきり後ろを振り向けばなんと埋まっていた。やった!よかった。

 生きとし生ける生命を絶ち、干潟を破壊し、海で生業(なりわい)をする漁民の生活を狂わせた、なにを以ってあの水門293枚を閉めたのかと、あのころにかえろうというメッセージ性をもった構成のミュージカルである。あのころとは。
 素人がやるからといってお稽古の発表会でもなければ、メッセージがあるからといってお説教でもない、格調高い見事なミュージカルに完成されていると思われる。玄人裸足だ。だから、たとえ義理と人情、半信半疑でお付き合いで観に来たとしても、帰るまでには、おおっとこころが動き、泣き上戸は泣き、皆が自ずと拍手の手拍子に加わり、それが鳴り止まぬ。提起された「在り方」、生き方は、私たちの憲法にまつわることだという。自分の頭で考えてみたい。キャストには諫早の泥を見に行った人もいたそうだ。そうして見事な役を演ずる。皆が同じ生き物どうしに成りきる。
 常設の練習場を持つわけでもなく、毎度借りた稽古場を渡り歩き、いつも空調があったわけでもなく、交通費もなにもかも全てが自前で、仕事の合間の土日をつぶし、今日(こんにち)までに至った。出演者には幾度も参加し経験した人もいるだろうが、初めての参加者には全てが新鮮である。

 導入の荘厳な音楽が私のイメージには江戸の時代が想起される。博多の西南に背振山(せぶりやま)がある、これを越せば向こう側は佐賀。その山中で聞いた九州弁は濃すぎて同じ九州もんの私でもわからなかった。はるか見渡せば瑞穂豊かな佐賀平野がある。クリークが縦横に走る、元を辿れば海だったところだ。封建の昔、米の生産が経済の本位であったころは田畑を増やすことは国を富ますことであった。有明の干拓は今に始まったことではない。しかしその歩みは徐々に行われ、干拓ができるころには彼方に新しい干潟が形成されていた。佐賀の平野は分をわきまえつつ徐々に増えていった。
 しかるにだ、「何が起きたのだ」生き物からみたらそういうことになったのだろう。だからセリフは擬人化して「何をしたんだ!」になっている。人間のしたことについて、繋がる海と生命を断ち切ったこと(死)への怒りだ。なにをしたのか、1997年4月14日以降のこと。人がしたことは人がやめられる。人として関わりと希望を捨てない。

 いずれ腕に覚えのある人たちとはいえ、普通の市民がこれほどのことを演じられるものか、見事なものだ、自然な態の“成り切り”も素敵だ。Rちゃんもきれいだ。今、公演中のミュージカル・ムツゴロウラプソディ。

 握手をくださった作・演出の田中暢さん(黒い服装)の手のひらは温かくやわらかかった。

以下は好評のうちに終了
 2009年11月 7日(土)  昭島市民会館      
 2009年11月15日(日)  パルテノン多摩
    

以下が次の公演。気取らずに表現すれば「もう、観なきゃ損!」
2009年11月21日(土)  飯能市市民会館 開場17:00 開演18:00  
2009年11月23日(祝)  武蔵野市民文化会館  開場15:00 開演16:00  
2009年11月29日(日)  立川市市民会館        
 【昼公演】開場14:00 開演15:00 、【夜公演】開場17:30 開演18:30

2009年11月14日土曜日

喝采


 BS歌伝説「ちあきなおみの世界」を見終わる。この番組自体が再放送で構成される。客席は暗くよく見えない。アンコールの拍手が鳴り止まぬ。
 
 最初から泣いてどうする。そう、あと4会場5公演もある。真ん中の“あんこ”が大事。なんたって初心の緊張が弛緩してはいけない、ヨガではない。

 買ってくれそうな人から始まって、買ってくれそうもない人への営業になる。そうすると返事もくれない。そう、営業というのは頭を下げてくいさがるもの。お金をいただく以上は不具合な商品や作品、サービスを売るわけにはいかない。その点、商品部(仕入れ)、製造工場へは念を押す。「顧客満足」というものに粗相があってはならない。

 すれちがいざま、あの件でと話しかける。生返事なのであとからメールをいれる。しつこいかなと思うが、チケット買ってくれるまでは。ひとには好き嫌い、関心無関心、都合不都合というものがある。読まねばならぬ、斟酌しなければならない。食わず嫌いがあるかもしれないとも思う、難しい。

 TさんWさんにも重ねて話をしたところ、わざわざ事情を示してくれて観劇できないと断ってきた。無理を言ったと悟る。今日はロッカーが隣同士になったのでMさんに勧めてみた。Hさんから1枚とメールをいただいていた、もっと宣伝してあげるとも。地域的に可能性のある他のブログにも掲載をお願いし取り上げていただいた。

 話は変わる。「ちくわと納豆です」と言うのが可笑しい。そうだ、この本、言葉を生業(なりわい)にするあの人に贈ってあげようと思った。Tさんからも本は買うよと返事をもらった、義理ではない。

 話は戻る。ちょっとしつこく見てみたら4月24日が初発のようだ、募集のことを一般論として触れた。6月6日にチャレンジ・応募したことに触れ、たしかにその後、折りにつれて触れている。つれあいが新しいことに挑んだ、その新しいこと、つながりのできたこと、わくわくどきどきすること、自分にはたいしたことできないけれど日記に書かずにはおれない。公開日記だから人様に気持ちをすこし伝えられる。息を吸い、できるだけ背筋を伸ばすように生きているから。

 明日は2回目の公演。お願いをして来ていただいた人たちから喝采を浴びて欲しい。

 *石橋先生のお宅のこけし

2009年11月13日金曜日

友好


 車体から身をのりだした連中がゴリラに見えた。シークレットサービスの車が通り過ぎる。そのあとを、どれがどれだかわからぬ黒塗りの車があっという間に通り過ぎた。御所を出た丸太町通りで待ち構えていたところに出くわした。米国大統領のフォード氏を「帰れ」コールで迎えたときのことを思い出す。30数年前のことになった。

 たとえ一部といえども国土が占領されカーキ色または鉛色の軍事基地となり、滞在中であろうがなかろうがクーラーも照明も24時間365日点けっぱなし。「思いやり」という快適な住居を与え続け、目が潤むような濃い緑の山林ヤンバルや、晴れやかなエメラルドグリーンの珊瑚の海を蹂躙され続けている。基地の事故と犯罪でいったいどれほどの市民が手ひどい目にあったことだろう。不当を情に訴えれば、こういうことだ。

 この不当性を正常にしてくれ、これを対等にしてくれと言うのを「反米」とは言わぬはずだ。真の日米友好とは何かそれを掛け合ってもいいと考える。

2009年11月12日木曜日

警戒の首都


これはいけない。紀伊国屋書店に立つとあれもこれも買いたくなる。破産する。
で、買ってしまった、湯浅誠さんの本。『岩盤を穿つ』文芸春秋社09年11月刊。出たばっかし。

東京で街に出れば、何があったんですかと言いたいぐらい警官の小集団が行き交う、幾集団もだ。しかも警棒を手に持ったままだ。電車に乗ろうとすれば警官が幾人も見回っていたり、台に乗って見回したりしている。首都圏が制圧されている状態だ。在位20周年行事のせいなのだろうか。日の丸、提灯。明仁さんはホントに「楽しいヒトトキ」だったのだろうか。オバマさんが訪日するからだろうか。個人としてはオバマさんに何かあってはならないと思うが、武装権力にこうも威圧感でこられるのはかなわない。

2009年11月11日水曜日

人は向上するものだ


 「キャッツ横浜へ!」というニュースやCMが入る、スポーツニュースではフィギアスケート。妻殿の視点が変わった。ひとつはお化粧。もうひとつは動作のメリハリ。

 ミュージカルの出演者の皆さんは録画を観て初めて、稽古のとき先生から雷が落とされた理由がわかった。指導のままには動くが、いまひとつ腑に落ちなかったらしい。ナルホドこういうことだったのかと。

 みんな本気だ、意気込みが違う。それを垣間見た。もっといい演技をしたい、もっとよく観てもらいたい、と。

2009年11月10日火曜日

みなさんがあって

秀麿さんのブログはおもしろい、何がおもしろいかというと「ほんわか」として釣れた魚や行事が画像で楽しめる。もちろん、一度行ったことがあるから親近感があるのだけれども。
http://wind.ap.teacup.com/applet/noura/200911/archive
ときどき覗く、「ほんわか」を楽しむ。佐渡は魚がおいしいと長いこと思っていた、それを裏付ける。
と、そこにいきなり私のブログが紹介してあるのに気付く。おっと、もっとよそ行きに書いておればよかったと思う次第。どうもそのときの表題が間違っていたような気もする。恐縮。

いま、奥さんのことで大変だからと、着くや否や言われてドギマギする。と、気を取り直して、ええ大変ですと開き直る、実は・・・、と披瀝する。導入、どうもありがとうございました。

ミュージカルネタはもうやめてと当の本人の妻殿に言われる。いよいよ風邪で寝込んでしまった。と、それを言ってきそうなハマタヌさんが、これがまたていねいな対応をしている。私だったら農薬撒いてそれで終わり、あとは振り向かない。
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/
面と向かって立ち向かうから、友達がまた増えていくのだろうなぁ。そこが違う。私は逃げ出したいと考えているから、増えないのだろうなぁ。ヘモグロビンも。貧血気味だと30数年ぶりに結果が出た。

2009年11月9日月曜日

評判


今朝の出勤もターミナル駅には電車が遅れて到着する。そして駅には随所に警察官が配置されている異様な雰囲気。今度はJRが動いていない。この前の教訓でさっさと地下鉄の駅に向かう。20万人に影響、私の故郷の枕崎線ならばせいぜい200人か。帰ってくればその直後にまた踏切事故があった由。異常だ。

咳のひどい妻殿の声は、昨日の中村玉緒状態から今日は大原麗子状態、ハスキーボイスでとぎれとぎれ。そして、げほげほ。

確か私もほとんどの作品を観たはずだが、贔屓目ではなく今年の出来が一番いいように思える。初演をみてくださった人たちのアンケートの評価も高い。キャストたちがもらった感想のメールも、泣けた、夫婦で観て食事をしながら話がはずんだ、出演者たちの目がキラキラして見えた、子どもたちも楽しめたというもの。おべんちゃらだけとは思えない。プロが撮った写真、録画を観てもあらためてそのことを裏付けている。

さて、次は15日もっと大きな会場だ、またなんとしても埋めたい。一憂そして一喜にしたいと、スタッフもキャストも支援者も考えている。今度は訴訟を闘う漁民の人たちも舞台に駆けつける。

2009年11月8日日曜日

今日も宣伝

 出演者のみなさんは、帰ってきてお風呂に入ったままついうとうとしてしまうことが何度もあったそうだ。猛練習だったのだろう。出演にまでこぎつけるとは思っていなかったのでお姑さんに言ってはおらず土日を空けたので、途中から打ち明けるのに苦労した女性もいたそうだ。家で練習をしていたら旦那のほうが飲み込み早くて、ならば一緒に出ようよというのに絶対出ないと言うそうだ。幼い子どものグループでは風邪をひいてしまって当日出られない子が2、3人いて、その子たちの分のセリフも急遽覚えて初日公演を乗り切ったそうだ。

 昨日の今日だけれども、3番目の会場になる街の団地と街頭で観劇お誘いの宣伝を行った。街ではこの会場の実行委員のみなさんと一緒になった。振付演出の石橋寿恵子先生はここの住人だ。先生が中心になって、この地方に住む出演者たちが集まった。団地は自治会のフェスタ、街は山車がいくつも繰り出す祭囃子で大賑わい、そんな中にとびこんだ。途中、先生のお宅でフェスタの出店で買ってきたものを持ち寄りお昼にする。芸術家ご夫婦の先生宅は素敵なつくりだ。

 私は総仕上げの稽古に立ち会ったので全体の出来を観ていたが、当の出演者たちは当然みていない。先生のお宅で初演の録画を見せてもらう。みなさんは演じているだけあって、感じるものが違う。さすが出演者、そのうちに画面と一緒に歌いだす。さっきまで隣にいたその辺の女の子、お兄さん、おばさんが歌手になりハーモニーになる。
 
 宣伝はできる範囲で、無理をしないで集まった、でも気合があるから頑張る。
 
 今日は東京の集会に出るつもりが、ひきずりこまれてしまった一日。

2009年11月7日土曜日

出演者たち


障害をもつRちゃんはアンケートに「出てみたい」と答えてスカウトされた。少しセリフをもらった。それを大勢の前で言えた。
若いSさんはムツゴロウ役になり損ねた。だからといって熟女軍団の中に入れられた。それはそれでいやだったらしい、もっともだ。ところが大事なところのセリフをもらった。とても感動的なシーンだ。見事に演じられるSさんに自信というものが湧いてきている。
ほとんど主役のTさんはアトピーだ。それを人に見られるのがいやだったが、ふっきれた。プロをめざしている。
Tさんが誰か、Sちゃんが誰か、Rちゃんが誰かミュージカルを観ればわかる。
Uさんは背が高くてスタイルのよいお嬢さん、昨年まで出ていて応援に来てくれた。この人もプロをめざしているらしい、オーラが出ているからすぐわかる。
諫早から漁師さんたちが駆けつける日があるらしい。最終日には大阪で5月に先行公演した仲間たちが来て舞台で一緒に歌うことになっているらしい。
お年寄りもいる、舞台から降りてくればその辺のおばさん、おじさんもいる、プロを目指す人、何度も出ている人、初めて挑戦した人、障害をもつ人、みんないる、市井の人がつくりあげたミュージカルが始まった。

出演者たちを支える文字通り縁の下のスタッフたちがいる。

2009年11月6日金曜日

明日から開演、最後の仕上げ

都心から1時間以上もかかるのに立川も昭島も私には大都会だ。なんだこの巨大商業施設は、ここはアメリカか。ディズニーショップもある。

昭島市民会館の入り口にはもう様々な大漁旗が飾ってある。この大きなホールを埋めるのだ、文字通り大舞台で演技をする。

大詰め、今宵はゲネプロ(《ドイツ語のGeneralprobeから》演劇・オペラ・バレエなどで、初日の前日に本番どおりに行う総げいこのことby大辞泉)だ。緞帳が上がれば、いよいよ有明海諫早湾に誘(いざな)われる、休憩なしの1時間40分の舞台だ。もうすぐ干潟の海がひろがり、渡り鳥がやってくる。段取りが続く。いろいろな人の声がとぶ。本ベルが入る、さあ緊張の一瞬だ、暗くなる。

干満の差は8メートル。諫早湾の生き物の賑わいは渋谷のスクランブル交差点よりも勝る。満潮に至るシーンの表現はリアルだ。あさりを子どもたちが演じる。あさりは菜の花のころだ、そうだ故郷を思い出す。老いも若きも幼きも100人が踊り歌う。

よくもここまで仕上げたものだ。めっけ!私の目も鋭い、居たいた。まぁ、すごいメーキャップをしたものだ。これだ、ブーワン軍団のシーン、人間を捨てたおばさん演者たち。ここは拍手するところだ。一方、ムツゴロー役はかっこいい。

閉門のシーンは渇くような赤色のライト、黙示録は白だ、骨の色。鉄板293枚のスイッチは11人の手で押された、黒だ。熟女軍団だけで歌い踊ると声もやや低めで、沈痛さが効果的に演出される。

この世に生を受けたものは土に還る、ここから土に還らないものはつくらない方がいい。「私は干潟」年齢は35億歳、単なる泥、でも生きとし生けるものはここから誕生した。母の胎内でも引き潮満ち潮を記憶しているからだ、命の揺りかご。Rちゃんにも短いが台詞があった。

点数、売上、GDP、・・・、数ばかり数える。数えられないものがある、本当のことはかぞえられないのでは、空気の味、水の味、海の色、風、潮、こころ、・・・。

開けましょう、潮がきたぞう、ああ、この衣装だったのだ。風の音を聞こう、風が駆け抜けた、あのころに帰ろう。

あすの席は900を超えた、プラス1、いやプラス5、キャストから声がかかる。今、この舞台を観たら空席をだしたらもったいない!声が詰まる(男)、泣くにはまだ早い!(女) 声を詰まらせたのは昭島の実行委員会の責任者の若い弁護士さんだ。

さあ、本番だ!描くのは生きる希望だ!声をかけよう、そう空席にするのはもったいない、うるる

2009年11月5日木曜日

「ムツゴロウ・ラプソディー」CM完成!

実行委員“めぐりん”さんの力作です。
ムツゴロウ・ラプソディCMはYoutubeからどうぞ 
 http://www.youtube.com/watch?v=_U7_DOPf7s4

ムツゴロウ・ラプソディーブログの
“あいるのかーち”さんの投稿より、
以下勝手に引用させていただきます。

『キャストも、疲れた身体をさらに、稽古の帰りに駅で一人一人にチラシまき、歌をうたって~
スタッフも、弁護士も、地域の実行委員会の方々も、風邪や、インフルエンザにたたかいながら、
設備、規模は、劇団四季におとらないもの!
スポンサーもなくて、手弁当、赤字覚悟、でやってるから、
キャッツのお金で
家族みんなで観られる~♪
時間をかけて、身体をはった、愛と情熱のミュージカルは、今の世の中、ほかにはありましぇん!!
(絶対と言う言葉はなかなか使わないけど)、絶対、損はさせません~
人生の思い出になれる、ミュージカル!
100人以上のエネルギーをキャスト100人が、思いを一つにして、演じます\(^o^)/ 』

七つの祝い


 かつて九州では長いこと百円札(板垣退助さん)が流通していました。義兄によれば五十円札(高橋是清さん)もあったらしいです。祝儀袋に収まったこの高額で無いお札は義理の儀礼に使うのに重宝でした。百円玉ではそうはいきません。五百円札(岩倉具視さん)ではちと多すぎます。
 数えで七つ、小学校に上がる前のころのことでした。七五三、七つのお祝いにとご近所、それも広範囲のご近所から御祝儀袋が届けられました。その様子を記憶しています。
 見ず知らずというかあまり縁のない遠いご近所の方まで訪ねて来てそれを置いていきました。その家庭に七つになる子がいれば、当たり前に持っていく慣わしか何かが普通にあったのだろうと思いますし、わざわざ伝え聞いてまで持ってくるというのはそういう行為が何か御利益(ごりやく)があると考えられていたのではと思います。中味は百円札一枚でした。贈る方ももらう方も負担になるものではありません。七つになる子がいればお互い様、地域あげてよく育ったねとお祝いしてあげていた名残りだったのでしょうか。
 瞬く間に百円札がたまりました。そのたびにそのお客さんにお会いしてご挨拶をさせられました。「半ちゃんに」と言って、もってこられましたので、てっきり私のものだと思っていました。人見知りだった私が我慢して表に立ったのはそのせいでしたのに、とうとう母からは百円札一枚ももらえませんでした。一日五円が小遣いでしたので百円札一枚は大金でした。そのせいで覚えているのでしょう、私にはどこか執念深いところがあるようです。
 
 田中優子さんの著書『カムイ伝講義』「子どもとはなにか?」にあります「七歳前後まで育つことがめでたいことであり、ありがたいことであった社会があった」の記述でふと思い出したのです。

 皆がどこそこには七つのお祝いの子がいることを知っていました、知ろうとしていたように思います。無関心ではありませんでした。地域が子どもを支援していたように考えます。

2009年11月4日水曜日

安くなければ売れないから


 売り場では各社値下げ競争が止まらない。生き残りのため。食うか食われるかの段階を「競争」という、競合段階を通り過ぎた概念だ。値下げをしなければ売れない、と思っている、いや実態が確認されている、きれいごとではない。可処分所得が少ないからだ。そのことの働く人々の運動や農業などの生産となんらつながりはない。ただひたすら「安さ」、「買いやすい安さ」を何とか演出して買ってもらおうとしている。一刻も早く売上を回復したいと考えている。
 するとこういうことが起きている。我が国の小売の最大手はI社。安くするためには、I社をスタンダードとして、それより品質(と味)を下げさえしなければ、安くするための手段は問われない。何をしてもよい。それでI社の品質とほとんど横並びとなり、価格を高くするような要因例えば国産原料だとかこれだけはという素材を放り出しつつある。安くするためにトレードオフという手段があって本来は無駄な機能を排除するという手法だが、商品哲学までも無駄という理屈がまかり通るような「安さ」への追求となってきている。おそらく拠って立つ基盤を自ら壊しつつあると考えられる。集団催眠にかかったようにみなが皆その方向に進んでいる。会議は事務的に進む。そして書類の不備、記載の不備の枝葉末節だけが目を皿にするように見つけ出されて「検討」「点検」が終わる。
 安くなければ売れない…。そうして当面売れればよいか。売れなければ安さが不足していたという見直し。忙しいだけの仕事なのだけれども。

2009年11月3日火曜日

遅くまで稽古


思ったとおり四谷から新宿駅までは歩いてすぐだった。それにしてもなんて大都会なんだろう。建物、お店、歩道もきれいでりっぱだ。そして人があふれている。

いつかの稽古の後、何かの拍子でRちゃんは迷子になり午前2時までみつからないという騒動があった。昨年たまたまミュージカルを観たRちゃん親子は心が動くことがあってもう一度観たそうだ。車椅子の人が出演していた。私も観たがそれは不思議な光景だった、車椅子の出演者が縦横無尽に動いて誰もぶつからない、それは見事だった印象が残っている。腕の不自由な人もいた。障害の有る人もそうで無い人もそれぞれがそれぞれを引き立てているというのをお母さんは感じたという。Rちゃんもダウン症の子だ。アンケートに「自分も出てみたい」と書いて、実際、今年初めて出演することになった。車椅子の人は、今年は出ていないが、Rちゃんが頑張っている。初演まであと4日、昨日は音楽監督から雷が落ちたそうだが、今日はそんなことはなかったが遅くまで練習になった。いよいよゲネプロ、そして初演を迎える。

佐渡「文楽人形」東京上演会


伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ♪でおめでたい「春駒(はりこま)」でまずは演目が始まる。双葉座の代表の方によると彼らの集落では伝統芸能を継承することにした、だから村の若者も自分たちも全員「春駒」が演じられるようになったという。

「(佐渡の)どこの出だ?」と聞かれる。会場になった四谷の東京おもちゃ美術館の入り口で開場まで訪れる人たちの誘導案内をした。1時間半もしていたからほとんど全員と対面したことになるだろう、そうしているうちに佐渡人であるかないか区別がつくようになってきた。一緒にいたOさんがどうしてわかるのかと聞いても説明できない、なんとなくわかるようになった。これは琉球舞踊の会場で琉球人が、奄美民謡で奄美人が、物産展で薩摩人が集まってくるときの雰囲気と共通するものがあるからだ。大半は在京の佐渡野浦の人々がこの催しに駆けつけたようだ。入り口では同窓会のような会話がはずむのが聞こえてくる。

文楽人形上演の双葉座は結成30周年になった。佐渡の野浦集落から来た上演者12名みなが皆百姓であると、有機農業にとりくみトキが再び舞う里作りに励んでいる、そして伝わる芸能を守り継承するという紹介というか決意が展開される。実行委員会による“よみがえれ!トキ 佐渡「文楽人形」上演会”は朝から用意した椅子の数を超えた、見事に盛況だった。

2009年11月2日月曜日

聞いてない


来る日も来る日も鉄砲玉が飛んでくる前線にいる。塹壕にいるがいつも突撃命令がでる。もうたまらない。援護射撃は無い。補充も無い。「西部戦線異状なし」(レマルク原作1929年)かカーク・ダグラス主演の映画「突撃」(スタンリー・キューブリック監督)だ。っと、いきなり後方の部隊から敵味方も吹き飛ばすような砲撃をくらったようだった。「地獄の黙示録」のワンシーンの絵図。

材質までは調べられた。現物があるから形状は明確だ。それが何なのか、入る可能性はないのか、絶対に無いといえるのか。ここで半信だった。では、誤って入っていた場合加熱の影響を受けるのかどうか、透過式検出装置で検知排除できるのか。検証の結果、製造工程の加熱をされても影響を受けない、検出器にも反応しない、つまり入っていなかったとは証明できなかった。ここでも半疑だったようだ。矢面に立つ当事者としてかかわって、正直苦労した。ときには人格までこきおろされる。結局は「特定不能」と回答し不興を買った、ただそういうことはいくらでもある。それから幾日も過ぎた。ところがどっこい、新たに2件目が出て急転直下、よく調べてみたら製造工程から出てきたといっていきなり社告、自主回収ときた(それはそれでいいが)。しかも我家でとっている新聞には載っておらず、机上に配ってあった新聞のコピーを週明け出勤して見せられて初めて知った。商品部や品質保証部には直前の連絡もあったのだろうが、矢面にたって何日も責められ、調査を再三再四工場に依頼しつつ、つらい思いをした現場にはなんの連絡もフォローもない。あるのは上から下りてきた発表文書のみ。
トップがこれからは大事な仕事だといっていた美辞麗句とはほど遠く、部署や置かれた者のステイタスはやはり低いことを思い知る。たんなる猫撫でにすぎなかった。これでは声やご指摘をホントに活かす体質が構築できるとは思えない。最近では過剰配置だったと悔やんでいるようにも思える。
ただ、粘って食いついていたからこそ布石となって、2件目が出た時、工場側がさすがにピンときたという緊張感を保たせていたことになったと自負してはいる。が、今一歩踏み込む権能があったらと考える。限界があるとはいえ後味が悪い。いつも映画「シンドラーのリスト」の最後のシーンを思い起こす。 ああしておけばよかった、こうしておけばよかったと。

今日は「聞いてない」ということばっかりか。案内も連絡もなくて面子には入っていると直前に言われても、さて困ったものだ。さっ、明日は早朝出発、ボランティア、よし人足だ。ブーワンだ(人間も捨て、なんでも呑み込むぞという、流行らせたい余情流造語)!

2009年11月1日日曜日

ブーワン


 少し風邪気味のように感じた。頭痛がする、くしゃみが出る。だが、暖かくてなんとかなった。報道されるニュースの冒頭はインフルエンザが広まっている件だ。
 遅くに妻殿は帰ってきた。白菜鍋で迎える。初日を埋めたい、だがそうは運んでいないようだ。私たちの息子の世代である事務局長の小林弁護士のことは学生のときから知っているが、とてもすばらしい人格に成長したと何かにつれそう思っていた。彼もみんなに心配をかけまいとしていても、思うようにはならない。
 それでせめてなんとかしようと、かねて観に来てくれると言っていた姪御に連絡をしてみる、彼女も風邪気味だった。聞けば最終日を予定してくれているそうだ、初日というわけではなかったがそれはそれでありがたい。
 舞台では髪を後ろで結い、化粧をするそうだ、3日の稽古を最後に7日の本番を迎える。出演者である妻殿たち自身も皆が観に来てくれるように頑張っている、そして今日までにみんなの協力をいただいた。私は明日も、初日に行ってくれる人はいないか職場で訊いてみようと思う。
 芸術としてミュージカルを構成すること、そして企画として喜んでもらえる市民ミュージカルを成功させること、さあ大変だ。熟女軍団として妻殿は、ブーワンという諫早湾にいた貪欲な貝(アカニシ貝)さんを演じる。成り切るらしい。先日、諫早に行き“とも食い”までしてきた。そう役柄を食ってきた。
 やりがいを見出せて身体にもいい効果がでてきた、だいぶ、ひきしまってきたようにみえる。このブーワンとかいう貝から、ひとつの曲が生まれたのは今年の一月、げに、創作、芸術とはすばらしい。