2009年9月30日水曜日

その通り

息咳切って電車に駆け込む。余裕をもって家を出たつもりが、ゴミ出し、ポスト投函を計算に入れていなかった。

駅までは歩けば遠いので自転車を使う。帰途、普段の通勤路でない順路を行くことがある。気まぐれである。

そこを勝手に“ネコ通り”と呼んでいる。我が住まいの団地の中にある。どこぞの家ネコとおぼしき者どもが天下の公道に寝そべっている。しかも堂々としている。こちらは自転車で通りかかる。ベルを鳴らしてもどく気配はない。さらさら無い。どの子も屁とも思っていない。なまいきだ、とんでもないヤツラだと思いながら、通勤路でもないこの通りをつい通ってしまう。

そうだ、この団地に越してきた時は、ところどころに魚屋さん、八百屋さん、本屋さん、薬局があった。そして地元の小さなスーパーもあった。それが魚屋さん、八百屋さん、薬局、スーパーという順番に、そして本屋さんが消えていった。クリーニング屋さんと蒲団屋さんと化粧品&小間物屋さんが残っているのかな。団地の人々は高齢化した。若い人があまりいない。

そう言えば、我家からも若者が消えた。

2009年9月29日火曜日

思いめぐらしてみよう

 この列島の人たちは朝鮮半島伝いに大陸からやってきて、島伝いに南からもやって来たと考えられています。大王(おおきみ)と呼ばれる近畿の王権が有力になって、豪族を取り込み、支配体制を整えました。有史上の話ではその版図に入らぬものを征伐、征討しました。東北のエゾ(蝦夷)、九州のクマソ(熊襲)、ハヤト(隼人)が、そうらしい。名目上とはいえ征夷大将軍の体制は江戸幕府が閉じるまで続きました。

 ところが、そういう版図や有史の範疇にも入らぬ歴史があるらしいのです。歴史学その他の学問や報道の発達によって解明されつつあります。学校で受験のために習った歴史よりも、もっと壮大で豊な営みの積み上げとその世界があることが知られつつあります。

 リューキュー(琉球)やアマミ(奄美)の海洋に踊り出た人々の形跡。歴史の何層もの下に埋められたエゾ、クマソ、ハヤトの人々の抵抗、服従、支配の形跡。大きく東アジアを見れば北方のエゾ、アイヌには環オホーツクの交流の形跡があります。そして列島全体には環日本海の交流の歴史があると考えられます。

 固定概念、つくられた歴史、国家の制度に縛られることなく、人々の歴史を観ようとしたら楽しくなります。人と歴史と地理を違う観点から観ることでおもしろくなるかもしれないし、今の私達自身の生き方にも参考になるかなと考えられます。例えば環日本海世界を想像してみれば、また隣人との暮らし方について再認識させられます。

2009年9月28日月曜日

熊本の男は泣かん


俳優の笠智衆さんは「熊本の男は泣かん」と言ったそうだ。そこで脚本家の山田太一さんはひざ詰めでお願いしたそうだ。そうしてドラマ「冬構え」(85年NHK)ではそのシーンが実現する。そのことがよかったのかどうかと、24年経った今、老山田さんは振り返る。

その話を熊本出身のUさんにした。大笑いである。この県の人には笠智衆さんのようなところがある。ひとことでいえば「肥後もっこす」。なんともそういう県民性がある。そしてときには手も焼くが、ほほえましいところもある。「冬構え」のあらすじを話してあげる。このドラマに出ていた今は亡き名優たちのことも。

そのUさんがしばらく休むという。何事かと思えば、娘さんの彼氏のフランス人の両親が弟もつれて来日するそうだ。その接待で有休を使うらしい。

ところで、今日は券が2枚売れた。
もう買ってくれないのかなと思って声をかけたらあっさりと買ってもらえた。

昨日千秋楽の朝青龍白鵬戦を観たが、すごかったなぁ。本割の白鵬のすごい立ち合いと投げ、朝青龍をひっくり返して投げ捨てた(勝負そのものは立ち合いの勢いで朝青龍が足をだして「よりきり」で負け)。そして決定戦では今度は朝青龍が厳しい立ち合いの末、白鵬をくだした。久しぶりのすごい迫力。よく考えればふたりともモンゴルの人だ。そして夜はETVで“蒙古襲来”を観る、二人のあんな顔とか勢いで攻めてきたのだろうなぁとヘンな想像をする。Uさんにそういう話もした。

2009年9月27日日曜日

交流

元気なうちに死ぬ。それができない。
昨日NHKアーカイブスでドラマ「冬構え」(山田太一脚本、主演 笠智衆 85年)を観る。名優のみなさんが名を連ねる。このところレンタルで笠智衆さんの出てくる映画(「東京物語」、「故郷」、「家族」)づくしで、また味わいのある名作だった。

やはり環日本海世界があった。
そして、真夜中に再放送のETV特集「日本と朝鮮半島の2千年」“⑤日本海の道”を観る。
ボーヘ(渤海国)だ。日本海に海の道があり、渤海国内に首都から日本への道(日本道)があった。日本海は秋になれば北西の風が吹き、春から夏にかけて南から風が吹く。教科書で習った遣唐使よりもはるかに高い頻度で実は交流があった。遣唐使は20年に1度ぐらいの割合だが、渤海からは2年に1度ぐらいの頻度で使節が訪れていたらしい。
米子から韓国、ロシアへの航路が開かれた。今はどう交流していいかわからないところだが昔に学びたいと。

今夜は⑥“蒙古襲来”だ。

昼間は、昨年一緒に行ったエビの産地訪問「確認会」のメンバーで集まって同窓会のような昼食会。渋谷のインドネシア料理店。あのとき工場側で撮影していた画像がDVDになっていて鑑賞。マスターに記念写真の撮影をお願いした。

2009年9月26日土曜日

訓練未熟


人の話を聞いて、いい話だと思うがあとで覚えていない。だからメモをとることを人生の随分以前からやっている。ただメモをとることだけですましていて、やはり覚えていない。

だから、人の話を正確に理解できたり、覚えたりしているわけではない。だが、文章にまとめるようにしたら反復できるようになった。ただし、私流の解釈になるから、核心を捉えているか自信は無い。これではいけない。

文章の訓練を積まねばならない。永井荷風「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)」(17年~59年)。『私的小説のすすめ』(小谷野敦さん09年7月)ん~ん。

人生の折り返し点をとうに過ぎた。  
今日は娘を呼んで鍋と焼酎を振舞う。

2009年9月25日金曜日

安全と信頼


JALに一番欲しいのは「安全」だと思った、そう信頼だ。
ずっと以前に再建策を打ち出したときのことだ。ファーストクラスの追加充実ではないだろうと。

交通事故より確立は低いと言われる。現金なもので客離れがおきて空いているから逆に乗るのに便利で利用することが多くなった。パックツアーにしてもダンピング率が高いようにも考える。

『沈まぬ太陽』(原作山崎豊子さん)の映画がいよいよ10月に封切られる。モデルの小倉寛太郎さんとは少しイメージが違う。かんらとお笑いになるあっけらかんとしたお人の印象があった、どこに小説のようなエネルギーがあったのだろうかと思える感じだった。結局はアフリカが好きで入り浸りだったようだが、風が通り過ぎるように早くにお亡くなりになった(02年)。岩波ブックレットにサインをいただいたのが昨日のようだ。

いずれにしても、半官半民、国策会社を当時の政権党やそれにおもねる面々および郎党が、子会社やトンネル会社、関連会社をつくって好き放題さんざん食い物にしていたことに不振の源流がある。モノ言う良識を排除閉じ込めてしまった巨大組織だった。「労働組合」さえも。小説『沈まぬ太陽』はそれをモチーフにしていると理解している。

体質はあとになって“不祥事”として会社に大きな穴をあけ、且つ信頼を損なう、それはまた手抜きとなって一番恐い安全に跳ね返る、その構図がみてとれた。JALに乗るのは「危ない」と。客離れだ。

西松遥社長は自らの年収を07年度に960万円にし、都営バスで通勤、社員食堂で並んで食事をとるなど率先垂範の様が賞賛を浴びた(08年12月byCNN)。

万策尽きたのか1000億円の資金繰りに窮してSOS状態だ。6,800人のリストラを行うという。いよいよ生首が切られる。

元はと言えば国民の財産が身売り同然の事態だ。

本業の基本に立ち返ることしかない。安全第一、信頼回復、心地よく正確に人とモノを運ぶことだろう。JALに一番欲しいのは「安全」だと思っている。

2009年9月24日木曜日

へたに連休なんか


 あれもしなければいけない、これもしなければいけない、そうだこの連休にしよう、とそう思っていた連休が終わりました。私には変則的な連休でしたが、とくに何もしませんでした。疲れをとるのが関の山、最後は「ぼーっ」としていました。

 開けて本日。
 へたに連休なんか無い方がいいと叫びたくなるような忙しい日でした。 普通の製造業は流れが止まるのですが、事実上、年中無休の流通業は止まらず懸案が滞留するばかりです。どうすることもできないことを責められました。
 便利さ快適さ、はけ口というものは、結局は何かに誰かに大きくしわ寄せがあって成り立つようなものだと感じます。

 成果主義的目標面接、機械的に行われます。詰まるところ、ああそうですかと「イエス」か「はい」しかないわけで、これでは活力が失われるのではないかと考えます。数値に表わす虚偽の成果を求めていますから、形の上の繁栄で空洞な組織になっていきかねません。それをまた繕うような仕事が巡り巡ってきます。モダンタイムスを連想せざるをえません。

 愚痴になったのかな。

 長男夫婦が訪ねてきていました。ミュージカルはあちらのご両親も観劇していただくことで券を買ってもらいました。

2009年9月23日水曜日

猪俣さんのトンボ


 ベトナム人を妻にした人は言われるそうだ、日本人の夫の稼ぎはいいけれど、家では自転車の修理ひとつできないと。確かにそう思う。

 家を出ようとしたら自転車の前輪がへこんでいる。空気を入れてもスースー抜ける、それで慌てて閉店間際の自転車屋さんに行く。車体はホームセンターで買っているからこういうときだけ駆け込むのは悪い気がする。しかもいざ修理というときにそう遠くはないところにあるから助かる。よく考えたら遠ければお手上げだ。シャッターは半分閉じかけていた。ご主人が出かけていて待たせてもらう。お店で通りに面しているから、通るたびに走る車の風が当たり揺れる感じがする、お店の商売というのは大変だ。パンクではなくて空気を入れるところが磨耗していたらしくそこから空気がもれるようになっていたみたいだ。

 竹細工らしいとんぼがいくつも飾ってあるので売り物かと訊けば、う~んとか言う。よく見せてくれて、ただの飾りかと思ったら、頭のところの一点でバランスをとっている優れもの。尻尾のところを薄く削り取って、つくるのにのべ24時間はかかったものだと。胴のところは一本の竹でつくっているらしい。誰かに手ほどきを受けたのかと訊くと自己流だそうだ、気に入った。わけてもらえるかというと、ん千円ならという。手を打ってこれを求めた。

2009年9月22日火曜日

仕事後、お留守番


そうかぁ、君はもう今日はいないのか(城山三郎風)。

都心はガラガラ
仕事を終えて帰るにも妻殿は今日からお泊り、合宿での猛練習だ。つくり貯めしてもらったカレーが晩ご飯。 座ってしまえば口をあんぐりと上に開けて寝る、うっかり乗り過ごすところだった。

ゴールデンもシルバーもなく働く息子のことを考えれば、私はまだ当番出勤のたぐい。どうってことはない。この列島の人はこき使ったりこき使われたりしていないと、落ち着かない。

姉たちがわざわざ遠方から来てくれると券を4枚も買ってくれた。妻殿は恐縮。

もう台本なしで、唄わなければいけないらしい。

肝心の長男を除く息子や娘たちが買ってくれるのか買ってくれないのか、まっ、わからない。

斉藤さんがみんなに言ったげる、チラシも少しちょうだいとお申し出いただく。さすがご近所の底力だ。

Uさんにも真っ先に家族分4枚買っていただいた。娘さんにベイビーが誕生したばかり。彼氏はフランス人、その彼も観に来てくれる。よし、ハポン・ミュージカレ(musicale)ここにありだ。

2009年9月21日月曜日

敬老の日


 この古い団地はお正月やG.Wと同じく静かになった。ところが、夜、古本市場があるモールに行くと車と人がごった返している。85年初めてアメリカの研修旅行にいったときを一瞬思い出す。早く帰って「おくりびと」を観なければ。

 姉夫婦が来ていた。故郷の親友からもらったという塩らっきょうのお裾分けいっぱいとうまそうな焼酎を手みやげにもらった。姉は我が家の大きい出窓のレイアウトがひと目で気にいってくれた。やっぱり血がつながっている。

 何年ぶりだろう、ずっと放ったらかしていたビデオカメラで撮った昔の映像を一緒に見る。姉夫婦は初めて見る。姉の子とうちの子たちが母のところで遊んでいた映像、二人だけで来ていた姉の子たちが帰るのでカメラに向かって母が姉夫婦に挨拶を送る、私の‘やらせ’なのだが。21年ぶりにメッセージが届いた形だ。上の姉夫婦とうちの親子で姉の家に集まったお正月の11年前の画像、「大丈夫、だいじょうぶ」と自ら言っていた上の義兄はその4ヶ月後に亡くなった。最後のお別れに来ていたのだと私は思っている。

 長い休みだが、ついつい何の祝日だったか忘れている。
姉に言った、今度から敬老される番になったね、と。

 これ欲しいと姉が言うから、そのうちDVDに焼き直しして渡すと約束する。
門のところでうちの“儀式”の記念写真を撮って姉たちを駅まで送っていった。

 古着屋さんへ行く。5点買えば半額というので勧められて買う、無理して5点の感じがあって私は帽子をつきあう、頭は寂しいから。

 遅い昼食をとりながら『家族』(70年、山田洋次監督)を「可哀想か」とか言いながら見終わった。最後に根釧原野の画像。あっ、ひょっとしたら、この人たちは「こんせんくん」をつくっている生産者たちになったのかもしれない…とか思ったりもした。

 テレビで「おくりびと」もいいが、CMの多いこと。内容にはついこの間のことなので実感がある。
 昨日は暑いのに鍋でもてなしたが、今日は少しぞくっとする。

2009年9月20日日曜日

感慨深いお片づけ


 伯母さんが来るから、ご飯食べにおいでと二男にCメールで知らせる。みなさんシルバーウィークですかと返信、お勤めです、同志ですねとすぐ返事、いや火曜日だけですとまた返す、「そうですか」ときた…。休めぬ業種、職種がある。息子たちの間でも格差がある。それがかわいそうだと妻殿が言う。

 とうとう二年分の新聞を捨てるはめになった。この連休をはずせばやばい。右から左にやればよいがそれができない。今、政権交代、新しい施策へという結果がわかっているからタイムカプセルを開いているようだ。人は忘れるものだ、ホントは宝の山なのだけれども左から右に捨てることにする。

 秋葉原無差別殺傷事件(08年5月)が起きた時、とんでもない我がまま野郎だ、親はどんな育て方をしたのだ、罪が親にまで及ぶがごとき論調だった。「自分だけ勝手に死ね」とも思った。K容疑者が「人と社会を否定」した蛮行だった。このこと自体が許されるはずはない。しかしながら「自分をも否定せざるをえなかった追い詰められ方と背景」にすぐには考え方が及ばなかった(香山リカさん)。

 わずか一年前には、まさかこの国で、モノが溢れているこの社会で、餓死をする人がいる、寝る家もないなんて人がいるということが信じられなかったはずだ。地下通路や路上や川辺の公園で寝泊りしている人がいても、いないがごとく目には入らなかった。まるで歌舞伎の黒子のように、いてもいないとみなしていた。明日から硬いアスファルトの上で寝なければいけない、飢えで死に掛けている人がいるということを告発する、社会の仕組みが壊れているということを主張するのは‘ことさら’社会不安を煽る分子とみなされた。安倍晋三さんや石原慎太郎さんはもっと貧しいアフリカを見なさいと逆に説教していた。麻生さんにいたっては「ホンキで仕事を探す気があるのか、選り好みしているのでは」とうそぶいていた(08年9月)。

 この社会にいくらでもチャンスはあるのに、路上生活をするはめになったなんて、生活設計考えていたの、蓄えしたの、好きなことやって離婚して、やる気と能力が無くてぶらぶらしているだけではないの、と。

 昨年の今頃は麻生政権になって、総選挙をいつ打つか、定額給付金をどういう出し方をするか、創価学会が関西の六選挙区に大動員をかけたの、どうのと、もっぱら政局をにらんでいて国民生活に手を差し伸べた形跡は無い。麻生さんが毎夜高級料亭を梯子しホテルのバーで飲みながら、件の発言をして顰蹙を買っているときだった。

 リーマンショックを経てこの時期から12月にかけていよいよ派遣切りが深刻になっていく。職場と住処を放り出される数多くの人たちがいる、その様は使い捨てそのもの、扱いは使用済みのゴミのようだった。そういう情勢、御手洗さんたちの大企業の仕打ち、大分でも青森でもどこでもかしこでも。史上空前の利益と配当をあげていた輸出産業のやったことが日々の新聞に踊る。

 政局といえば、解散総選挙に早く追い込むために民主党は与党が優先する政策「テロ対策法案」のようなものを実質審議無しに通したかと思えば、年末になって派遣切りの問題ではやたらと今度は対決姿勢に持ち込み、目の前で起きている事態にたいして実効的な救いの手すら差し伸べられないという政治の失態を演じていた。いくらなんでも政治的主張の立場の違いを超えてとにかく話し合ってできる手を打とうと涙交じりに訴えていたのは議席の少ない小池晃さんのところだった、今でも覚えている。この様は多くの国民の心を傷つけていた。

 湯浅誠さんたち支援者活動家たちがどれほど切歯扼腕したことか。窮余の策が国会議事堂を目の前にした日比谷公園での年末年始の「派遣村」となる。それでもまるで昔の新左翼の手段のようだとうそぶく自民党政務官がいた。

 それに先立つこと10月19日に、明治公園で反貧困ネットワークが呼びかけた「反貧困世直しイッキ!大集会」が開かれていた。この模様が大きな写真つきで報道されている、異例の扱いだ。そのときの集会宣言に言う。以下、引用。

『私たちは、今日ここに「世直し」のために集まりました。

 どんな世を直すのか。
 それは、人が人らしく生きられない、人間がモノ扱いされる、命よりもお金や効率が優先される、貧困が広がる、そんな世を直すためです。

 どうやって直すのか。
 それは、一人一人が声を上げ、場所を作り、それによって仲間を増やし、守られる空間をつくり、一人じゃないことを確認し、そして相互に垣根を越えてつながっていくことで直します。

 私たちの社会は今、間違った方向に進んでいます。私たちはそれを直したい。それが、私たちの責任です。「自己責任」などは、決して私たちが取るべき責任ではない。私たちには私たちの、市民には市民の、責任の取り方がある。


 いま、日本社会は大きな岐路に立っています。

 労働者をいじめ続けるのか、人間らしい労働を可能にしていくのか、

 社会保障を削り続けるのか、人々の命と暮らしを支える社会にするのか、

 お金持ちを優遇し続けるのか、経済的に苦しい人たちへの再分配を図るのか、
 生存権を壊すのか、守るのか。

 私たちの選択は決まっている。私たちは、人間らしい生活と労働の実現を求める。

 選挙が近い、と言われています。

 政権選択の選挙だと、言われています。

 しかし、私たちが求めているのは単なる政権交代ではない。日本社会に広がる貧困を直視し、貧困の削減目標を立て、それに向けて政策を総動員する政治こそ、私たちは求める。

 そのためにはまず、労働者派遣法の抜本的改正が必要である。また、社会保障費2200億円削減の撤廃が必要である。

 しかし、それだけでは足りない。雇用保険、就労支援、年金、医療・介護、障害者支援、児童手当・児童扶養手当、教育費・住宅費・子ども支援、生活保護、あらゆる施策の充実が必要である。この国ではそれらが、貧しすぎた。政治は、政策の貧困という自己責任こそ、自覚すべきだ。道路を作るだけでは、人々の暮らしは豊かにはならない。

 そしてその上で、国内の貧困の削減目標を立てるべきだ。貧困を解消させる第一の責任は、政治にある。

 私たちが「もうガマンできない!」と声を上げてから一年半。私たちは着実に、仲間を増やしてきました。私たちの仲間はすでに全国各地に存在し、分野を越え、立場を越え、垣根を越えたつながりを作り始めている。

 小さな違いにこだわって、負け続けるのはもうたくさんだ。敷居を下げ、弱さを認め、弱さの自覚の上に、強い絆を作る。それが、私たちの運動であり、私たちの世直しだ。

 声をあげよう。
 居場所を作ろう。
 仲間を増やそう。
 一人一人が、もう一歩を踏み出そう。
 そして、社会を変えよう。政治を変えよう。

 もう一度言う。

 私たちは、垣根を越えたつながりを作ろう。
 労働者派遣法を抜本的に改正させ、社会保障費2200億円削減を撤回させよう。
 貧困の削減目標を立てさせよう。

 そして、誰もが生きやすい社会を作ろう。

 それが、私たちの権利であり責任だ。

 以上、宣言する。2008年10月19日、反貧困世直しイッキ大集会参加者一同。』


 さらにこれに先立つ7月、『社会を覆う貧困の広がり。そうした「不当な迫害」に頭を下げない、傍観もしない、不屈にたたかって新しい日本をめざす、そういう生き方にこそ、現代においても最も価値ある人間的な生き方がある』とも聞いていた。

 感慨を踏まえつつ生活空間を取り戻し、妻殿の悲鳴をやわらげるために新聞を左から右に古新聞にしよう。いつかトイレでもう一度感慨にふけよう。気持ちは水には流さない。―――と、かっこつけている場合ではない。お客さんの寝るところがないんだった。

2009年9月19日土曜日

キップパイロール


人間、度量、胆力が必要と考えられるが、それはない。

自転車に乗っていて電柱にぶつかりそうになり指をこすってしまった。ヒリヒリすると感じていたら、皮がめくれている。いつかも指にそんなことがあった。そのときはしみるので絆創膏を張るはめになった。

お金があるにこしたことはない。
しかしお金がほしいとなると心が乱れる。
疑心暗鬼となる。心に潜んでいたかもしれない鬼が現れてくる。
お金がなければ生きてはいけない。
お金なんかなくたって、という人には不思議にお金がある。
生き方や道徳を説く人にはついていかない。
さて、乱れた心をどうしよう。お金はなかったことにすればよいのだが。
話をきいてみよう、鬼は吐き出せばよいが、鬼は次々と現れてくるかもしれない。

『故郷』(72年 山田洋次監督)を観終わった。DVDできれいな画像だ。特典の予告編数編でまたほかのを借りたくなる。

鬼はどこから出てきたのだろう。
指を知らぬ間にこすらぬようにしなければ。

この連休中に姉を招待している。

それにしてもキップパイロールは手から放せない。

2009年9月18日金曜日

あらためて生きていく術


シルバーウィークとか言うらしい
胃が痛む仕事にひきずられ、早く帰れず帰宅ラッシュにぶつかる。今宵のターミナル駅は人の足を踏んづけてしまいそうなほどごったがえしている。

この夏、本土でいちばん南を走る2両編成の列車には私たち二人しか乗っていなかった。一駅乗って大山駅で降りたら誰も乗っていないディーゼルカーは闇の中に消えていった。闇の向こうには聳える開聞岳があるはずだ。

皆どこに行くのだろう。混雑するターミナル駅は、人が湧いて出てきたようだ。人が多過ぎる、多過ぎてポツンだ。満員の急行の扉の中に駆け込む。

道には明かりもなかった。少し小高いところに信号が赤く点滅しているのが見える。あそこまで歩いて行かねばならない。人は誰もいない、自転車も通らない。ときたま眩しく照らすヘッドライトが行き過ぎる。

田舎のことは頭でわかっていたつもりだが、身体で理解していない。

このまま胃が痛むようであれば、都会の仕事も長くは続かないのかなとも考えたり、そんなこともなかろうとも考える。

お金が入らなくなって、知る人もいなくて生きていく術を知らない。

2009年9月17日木曜日

やった


途方に暮れた、誰かにお願いしようとしたがあてがなかった。
とうとう自分でやると決めた、裁縫箱とミシンをひっぱりだした。
稽古が終わった後、少しコツを教わった。
やや夜なべに近いこともした。
それでほぼ完成したらしい。
夜中に着て見せてくれた、たのみもしないのに。
寝ぼけながら、よし、やった!と言った記憶がある。

あんたのも何かつくってあげようか、などと言われた。
気合、根性、やればできた。

舞台で使う衣装。
裾の仕上げを蝋燭で少し焦がしてしまった、まっいいわね、とか。

2009年9月16日水曜日

新政権

 4年前の自民党圧勝の後の、タイゾーさんが「リョウテー行きてぇ」と口走ったとき、国民の多くは「あっ」と思ったのではないか。詐欺にかかった、と。

 宇宙から降りてきたような鳩山さんも神妙だ。未知との遭遇かも知れないという。まるで中学に上がったばかりの女子学生のようだ。政権交代は雰囲気が違うな。今回は、一言で言えば真摯だ。4年前は‘してやったり’だった。やられたぁと思ったが、自らの不幸を国民は気付くのが遅すぎた。

 前原、原口さんみたいな超国家主義的な人も入閣した。偽メールだって強弁、白を切った人だ。さて、この辺あたりが地雷だろう。 旧社会党を裏切った人もいる。まっ、それはさて置く。誰だって立身出世もしたかろう。お好きに、だ。「よっ、燕尾が似合いますよ、だんな」なんて。

 いずれにしても前の総選挙後の4年間はとてもつらかった。長く生きた人、派遣や偽装請負にされた労働者、子どもができた夫婦、障害をもって懸命に生きている本人と家族、そんな様々な人たちにとって、日本國の伝統を守ると称する自民党や信心深い公明党の政治がどれほど過酷で冷たかったことか。

 鳩山さんたちの緊張振りが続いて欲しい。鳩山さんは「家計を刺激する」という。ホントに重しを取り払うのか、庶民の息を吹きかえさせるのか、とみんながみている。 例えば、月2万円の家計負担増でさえ生きていけないというのがNHKですら報道する“障害者自立支援”家族の悲鳴だった。

 フクシマさん、がんばってぇ。自分の言葉と貴方の信念でぇ。 期待の星だ。

 奄美民謡(藩政時代の黒糖地獄のときの唄)(「文庫版日誌」とかいうところの開店休業は寂しいな、)
『かしゅてぃ しゃんてぃん 誰が為どなりゅみ
大和んしゅぎりやが 為どなりゅる
うすくがじゅまる石だちど太る
掟・黍見舞(おきて・きびみめ)島抱ちど太る』

訳;いっしょけんめいはたらいても誰のためになる
大和(薩摩)の人のためにしかならない
うすくガジュマルは石を抱いて太くなる、掟や黍見舞などの島役人は島を抱いて太る

2009年9月15日火曜日

新政権前夜

 ちょろチョロという話から前立腺炎か、前立腺癌ではないか、どうのこうのと話が及ぶ。予防するためには、膀胱からだろうが‘たま’からだろうが、出すものはだしていなきゃだめなんだと際どい冗談に及ぶ。久しぶりに出席したH理事のせいだ。男、50、60も過ぎればこういう話になって悲哀のこもった大笑いが飛び交う。

 自公政権下では厚い重しの下に居た気がした。幻想かもしれない、ある種の解放感。少しの希望。大企業偏重、輸出一辺倒から中小企業にも光が…。という話になる。

 米原万里さんは駆けるように生きて亡くなった(06年)。その豪胆さ、本質のつかみ方は佐高信さんが絶賛、惜しむことしきりである。「ガセネッタ&シモネッタ」(00年12月刊、文芸春秋)など著書や講演が多数。「魔女の1ダース」(96年8月刊、読売新聞社)もおもしろい。
 それ、そして宇宙人・鳩山由紀夫氏がいよいよ明日内閣総理大臣に指名される。

 稽古場では民主党政権になって諫早湾の門も開けられるのかな、と話題になったらしい。

 労働者派遣法の抜本的改正が渇望されている。
生活保護の母子加算の復活も、後期高齢者医療保険制度廃止、障害者自立支援方廃止などかずかずの弱い者いじめの撤回が強く望まれている。

 ゆがんだ社会を健全に是正したいと考えている

 「パンツの面目ふんどしの沽券」(米原万里/ちくま文庫08年4月)だ。

以下、湯浅誠さんからのお知らせ。

 鳩山代表は、民主党マニフェスト前文に「暮らしのための政治を」というタイトルを掲げ、「母子家庭で、修学旅行にも高校にも行けない子どもたちがいる。病気になっても、病院に行けないお年寄りがいる。全国で毎日、自らの命を絶つ方が100人以上もいる。この現実を放置して、コンクリートの建物には巨額の税金を注ぎ込む。一体、この国のどこに政治があるのでしょうか」と言い切りました。それは、私たちの言葉でもありました。

 この言葉どおりの政治を実行してもらいたい。
もし、そのことを早速忘れている議員がいるのならば、ぜひとも思い出してもらいたい。

■1
9月17日(木)12~13時@参議院議員会館第2・3会議室
早くしてよ!母子加算復活 ~他にもあるよ。児童扶養手当、老齢加算、通院移送費~
■2
9月17日(木)18~20:30@星陵会館ホール(東京都千代田区)
徹底検証!新たなセーフティネット ~本当に使える制度にしよう~
■3
9月19日(土)10~16時@田町交通ビル大ホール
「派遣切り」「期間工切り」にカウンターパンチ! ~自動車会社の非正規労働者は大集合
■4
10月3日(土)13:30~17:00@TKP大阪淀屋橋ビジネスセンター ホールA
生活保護問題対策全国会議 大阪集会 「働きたいのに仕事がない!~急増する生活保護。今こそ「寄り添う支援」を~」
■5
10月17日(土)13:00~16:00@芝公園4号地
反貧困ネットワーク主催「反貧困世直し大集会2009 ~ちゃんとやるよね!?新政権~ 日本の貧困・世界の貧困」(詳細は別途お知らせします)
■6
10月20日(火)14:00~16:30@四谷の上智大学図書館内L911室
日仏ホームレス支援シンポジウム


*****
■1
<緊急院内集会>
早くしてよ!母子加算復活~他にもあるよ。児童扶養手当、老齢加算、通院移送費…~

いよいよ新政権が発足。私たちは、選挙公約であった生活保護の母子加算復活が一刻も早く実現することを強く望みます。
しかし、私たちは、それだけでは納得しません。それは、旧政権下の社会保障費2200億円削減方針のもと、切り縮められてきた諸制度を、「まずは元に戻す」ことの第一歩にすぎないからです。母子加算と同様に削減方針(但し凍結中)が示された児童扶養手当、母子加算に先立って廃止された生活保護の老齢加算、原則不支給とされた生活保護の通院交通
費…。諸課題は目白押しです。そのためにも、まずは、「早くしてよ!母子加算の復活」。

【日時】2009年9月17日(木)12時~13時
【場所】参議院議員会館第2・3会議室(100名定員)
【主催】しんぐる・まざあずふぉーらむ、反貧困ネットワーク、生活保護問題対策全国会議、全国生活保護裁判連絡会
【内容(予定)】
  <司会>赤石千衣子(しんぐる・まざあずふぉーらむ理事)
   ○集会の趣旨説明・湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)
   ○母子加算を削減された当事者の発言
   ○児童扶養手当を受給している当事者の発言
   ○老齢加算を削減された当事者の発言
   ○通院移送費不支給の被害にあった当事者の発言
   ○生存権訴訟弁護団・竹下義樹弁護士の発言
   ○集会アピール採択(終了後、会場で取材可能)

(連絡先)〒530-0047 大阪市北区西天満3-14-16
西天満パークビル3号館7階℡06-6363-3310 FAX 06-6363-3320
生活保護問題対策全国会議 事務局長 弁護士 小久保 哲郎


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■2

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             <反貧困全国キャンペーン2009企画>
「徹底検証!新たなセーフティネット ~本当に使える制度にしよう!」 9.17集会
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 雇用保険と生活保護の間をつなぐ「新たなセーフティネット」が10月から本格的に動き出します。雇用と住居を失った人たち対して、職業訓練期間中の訓練・生活支援給付をはじめ、住宅手当、総合支援融資(生活福祉資金の再編拡充)、つなぎ資金融資などが創設されます。 こうした支援策は私たちの要望が反映したものであり、どんどん活用していきたものです。しかし、この制度は、国(ハローワーク)-自治体(福祉事務所)-社会福祉協議会などが複雑に絡みあい窓口も権限も分散しています。利用者が「たらい回し」になることはないのでしょうか? また、迅速に支給できる体制になっているのでしょうか? 制度の本格スタートを前に、その使い勝手を現場からシミュレーションし、利用者にとって本当に使いやすい制度として機能し定着させるためにどうするか、考えてみませんか?
【日時】 9月17日(木) 18:00 ~ 20:30
【会場】 星陵会館 ホール
千代田区永田町2-16-2  TEL 03(3581)5650
〔ホームページ〕 http://www.seiryokai.org/kaikan.html
 〔アクセス〕 
 ○地下鉄有楽町線,半蔵門線,南北線,永田町駅下車6番出口 徒歩3分
 ○地下鉄千代田線 国会議事堂前駅下車5番出口 徒歩5分
 ○地下鉄南北線 溜池山王駅下車(国会議事堂前駅5番出口)徒歩5分
 ○地下鉄銀座線、丸の内線  赤坂見附駅下車 徒歩7分

【主催】 人間らしい労働と生活を求める連絡会議(生活底上げ会議)
【共催】 生活保護問題対策全国会議
     労働者福祉中央協議会(中央労福協)
     セーフティネット貸付実現全国会議
【後援】 反貧困ネットワーク
【参加費】 無料
【プログラム】
○開会・主催者あいさつ 宇都宮健児 弁護士(生活底上げ会議代表)
○特別報告
 「住居を失った離職者を支援する新たなセーフティネットの構築」
  厚生労働省 政策統括官付労働政策担当参事官室企画官 中井雅之 氏
○コント 「本当に使えるの? 新たなセーフティネット」
   出演  杉 笑太郎さん(演出家)ほか
○当事者からの発言
○各党からの挨拶 
○パネルディスカッション
「使いやすいセーフティネット制度にするために」
 〔コーディネーター〕
  新里宏二 弁護士(セーフティネット貸付実現全国会議代表幹事)
 〔パネラー〕
・中井雅之 氏 厚生労働省 政策統括官付労働政策担当参事官室 企画官 
  ・秋野純一 氏 自治労社会福祉評議会 事務局長
  ・河村直樹 氏 全労働省労働組合 副委員長
  ・鹿島健次 氏 労金協会 企画担当部長
  ・尾藤廣喜 氏 生活保護問題対策全国会議代表幹事、弁護士
○集会宣言
○閉会あいさつ 笹森 清 中央労福協会長

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■3
昨年末から全国各地の自動車工場でたくさんの期間工が雇い止め解雇されましたが、トヨタ、日産、ホンダ、日野自動車、三菱ふそうなどで不当解雇取消しを求めるたたかいが続いています。今年6月には、これら争議団、ユニオンが共同で申し入れ行動にとりくみました。その行動の成功を土台に、来る9月19日に集会を開くことになりました。各争議団・ユニオンが情報交換と交流を強め、自動車メーカーの雇用責任追及のたたかいを力を合わせてすすめることを社会的にアピールすることが目的です。なお、集会に先立って、これまで製造業派遣の現状は派遣切りの実態を描いた、NHKなどのドキュメンタリー番組を、内部学習のために3本続けて上映します。作品の名前は聞いたことがあるが見るチャンスがなかったという方も多いと思います。希望されるはこの機会に一緒にご覧下さい。
なお、開催要綱は以下の通りです。多くのみなさまのご参加をお待ちしています。
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「派遣切り」「期間工切り」にカウンターパンチ!~自動車会社の非正規労働者は大集合
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日時 9月19日(土)10:00~16:00
第1部 ドキュメンタリー上映(10:05~12:25)
(1)『フリーター漂流』(05年/NHKスペシャル)
(2)『追跡・秋葉原殺傷事件』(08年/NHKスペシャル)
(3)『「派遣切り」がはじまった』(08年/NHK名古屋)
第2部 たたかいの報告(13:30~16:00)
・三木陵一さん(JMIU書記長)
・記録ビデオ「自動車会社の社長さんに会いたいツアー」
・笹山尚人弁護士「派遣切り・期間工切り裁判の意義と派遣法抜本改正」
・当事者からのアピール
・小谷野毅さん(全日建書記長)
・アピール文採択
会場 田町交通ビル大ホール 港区芝浦3-2-22 JR田町駅芝浦口から徒歩3分

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■4
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 生活保護問題対策全国会議 大阪集会
 「働きたいのに仕事がない! ~急増する生活保護。今こそ「寄り添う支援」を~」
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7月の完全失業率は過去最悪の5.7%。仕事を失い、生活保護を利用する人が急増しています。なのに、「探せば仕事はあるはず」という幻想のもと、窓口で保護を断られたり、保護を受給できても成果のない求職活動に駆り立てられるという実態があります。生活保護が「最後のセーフティネット」としてきちんと機能し、制度利用者が真に「自立」するためには何が必要か?支援の理念と、それを実現するための人的物的条件や制度のあり方を併せて考えたいと思います。
【日時】 2009年10月3日(土) 午後1時30分~5時(開場午後1時)
【場所】 TKP大阪淀屋橋ビジネスセンター ホールA
(〒530-0005大阪市北区中之島2-2-2大阪中之島ビルB1階電話06-4767-6610)
http://tkpyodo.net/access/index.shtml
 ※行き方
   御堂筋線「淀屋橋」、四つ橋線「肥後橋」駅よりそれぞれ徒歩3分
  京阪中之島線「大江橋」駅より徒歩20秒
  JR「大阪」駅より徒歩10分
【参加費】
  弁護士・司法書士2,000円 一般1,000円(生活保護利用中の方は無料)
【プログラム】
 当事者の声
 基調講演
  「生活保護『急増期』の諸課題~ドイツの経験に何を学ぶか~」
    布川日佐史氏(静岡大学教授、元・生活保護の在り方専門委員会委員)
 特別報告
  1)大阪市における生活保護の急増とケースワーカーの職場状況
  2)衆議院選候補者アンケートの結果報告 
 パネルディスカッション
   尾藤廣喜氏(弁護士、生活保護問題対策全国会議代表幹事)
   奥村健氏(ホームレス自立支援センターおおよど施設長) 
   奥森祥陽氏(京都府生活保護ケースワーカー)
   布川日佐史氏(静岡大学教授)
【主催】生活保護問題対策全国会議
問合先 〒530-0047 大阪市北区西天満3-14-16西天満パークビル3号館7階
      あかり法律事務所弁護士 小久保 哲郎(事務局長)
    TEL 06(6363)3310 FAX 06(6363)3320 

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■6
 路上生活者への医療・福祉サービスや社会復帰支援を24時間態勢で行う「サミュ・ソシアル」は、フランスで生まれ、世界各地に拠点がある有力なNPOです。その経験や日仏比較などを通して、路上生活者の支援を考えるシンポジウムを開きます。
パネリストはサミュ・ソシアルのグザビエ・エマニュエリ会長、岩田正美・日本女子大教授、湯浅誠・自立生活サポートセンター・もやい事務局長、東京都庁社会福祉局・芦田真吾氏。進行役は竹信三恵子・朝日新聞編集委員。
 ◇10月20日(火)午後2時~4時30分、東京・四谷の上智大学図書館内L911室。日仏語同時通訳付き。申し込みは、http://www.ambafrance-jp.org/へ。電話03・5798・6301か6305(平日午前9時30分~正午)。無料。定員250人(応募多数の場合は抽選)。締め切りは9月25日。
(フランス大使館、サミュ・ソシアル主催、朝日新聞社後援)

2009年9月14日月曜日

組合員のために


産声をあげて6年目。ようやく専従の役員を再び戴くに至った。その人が全てを請け負う必要は無い。

モノづくりと助け合いで品質向上をめざそう、規模の大きくない企業が寄り集まって協同組合をつくった。

理事長の言うことがわかる。ざっくばらんにここに出したらと。そういう趣旨だ。

出資をして利用する、その組合員のために、困難な時には社会にたいして声も挙げるべきだし、普段は互いに知恵を出すべきだろうと考える。

食品会社や流通会社の経営者や、営業や品質管理の熟練者が集まった。扱う‘おかき’ひとつ、‘生チョコ’ひとつ、10分でも15分でもこの場で俎上にのせれば、愛着も知恵も集まる、営業の工夫も浮かぶ。安くなければ、お得でなければ仕入れてもらえない、やりようがあるのではないかと無い知恵をみんなで絞る。

困ったときの組合、定期に集まって馬鹿言って楽しめ、本気でありがたいと思える組合づくりにできればよいと考える。

2009年9月13日日曜日

なかなかのもの

 我が家には「ほかになんの楽しみがあるか」という「楽しみ」がある。

 まるで部活の終わった女子中学生のようにくたくたに帰ってくる。と、思っていたら今日はそうでもないらしい、身体ができてきたのかな。何人かで唱うところに選ばれたよ、とのこと。ミュージカルの全体が少しわかってきた。でも、監督からはもう台本無しでやれ、と気合がいれられる。

 ほとんど夜中に目が覚めるので、日曜日だから2度寝をしようとする、すると未だ早朝にもかかわらず、キャーと奇声を上げて妻殿が上がってくる。何事かと思えば昨日来ていた郵便物を渡すのを忘れていた。封を開けた郵便物を示して合格しているのよ、ご・う・か・く。どんなもんだい、と言いたいようだ。まったく自信が無いと言っていたくせに、こういうセイセキはよいヒトだ。キャッ、キャッと喜んでいる。で、その資格で時間給が10円でもあがるのかと聞くとそんなことは関係ないらしい。第一回の資格を取った、そこに意義があるの。らしい。7月に受けていた業界の筆記試験。いや、たいしたもんだぁ。

 練習を先にしなければいけないから、お金は先に出て行く。実行委員会みたいなものでやるミュージカル、だから前売り券を売って、資金繰りをしなければならない。友人知人に営業を開始した。おもしろいぞ、100人もの人が出演していて前売り2,500円(当日2,800円)は安いぞと声をかける。みんなどこに住んでいたっけ?。「御無沙汰です、」と手紙をしたため、郵送した。有明に車で行って帰ってきて、今日は有明の干潟の泥を届けた若い出演者とその夫がいたらしい。このミュージカルはみんなでつくる。

 唱も踊りも駄目みたい、でも土日が楽しいと妻殿はそこまできたようだ。さっ、来週は合宿。衣装も完成させる見通しがでてきたらしい、いや、これも、たいしたもんだぁ。

2009年9月12日土曜日

リナとコータロー


 昔、9つ違いの姉が小さい私をこっそり連れていってくれて、よくおごってくれた。それがラーメンだった。おばさんふたりでやっている飲食店で、夜はなんとなく入ってはいけないお店の雰囲気があった。このラーメンの味が摺り込まれる。湯気立ち上る温かさ、濃厚な白いスープ、もやしの茹で具合、細かく刻んだねぎ、チャーシュー、胡椒の刺激、「さつまラーメン」だ。

 リナとコータローはお留守番をさせるという。お留守番といっても駅の裏にできたばかりのビジネスホテルだ。「やっちゃいましたぁ~」の非常識会見で社長がバッシングを受けたあの全国チェーンのホテルに兄たち家族は陣取った。葬儀、お寺参りが終わって、兄たちは甥っ子のレンタカーで役所・銀行まわりをする。私たちは母の部屋に残した大型ゴミの処理を受け持ち、片付く見通しなので、二人をあずかるよと申し出る。

 ラーメンでいいか、さつまラーメン食べたことないだろう。温泉入るか。姉のリナちゃんは中学一年だが見た目が幼い、コータローはでかい。母の施設の近くにたまたま私のお気に入りの専門店があった。帰れば必ず一度はこの店に立ち寄る。さつまラーメンの看板は県内かずかずあれど微妙に違う、私のイメージの味に合うのはこのお店。たまたまラーメンと焼き飯の半チャンセットがあって、それをとる。「こんなおいしいものは初めて」だとお姉ちゃんがいう。意外なそしてうれしいことを言う。神戸のお嬢さん学校に通い始めて、お葬式にはそのいかにも都会的な制服で参列していたが、聞けば3月30日生まれだという。初めて持たされた母親の携帯で、「おいしいよ」とジジの携帯にメールする。この母親と弟(この子たちの叔父)が幼い時、私は学生でお守りをたのまれよく遊んだ。「時代はめぐる」(中島みゆき)だ。

 肌をくるっと包むようなつるつるした泉質の市比野温泉に入れてあげる。お姉ちゃんは初めてで感激する。コータローは母の一字の「幸」をもらったらしい。おもしろい子だ、母親の財布でも持たされたのかと思っていたら、ひいばあちゃんの部屋のものを整理処分するときに欲しいからもらうといっていたものだった。母の遺品だった。あのときは、急いでなにもかもさっさと捨ててしまった。
 なんだこれ?あっ、それボクの…。そうかそうか、どうする、持って帰る?いい、捨てていい、いい。コータローがひいばあちゃんに宛てた便りや工作がいっぱい出てきた。優しい子なんだ。

 畳の部屋はいいねぇ、もっとゆっくりしていたそうだったが、母親は今日中に飛行機で帰るというのであまり遅れないように戻す。私の故郷の街が一望できる展望台へ立ち寄る、ここがひいおばあちゃんとおじいちゃんの街。おじちゃんの育ったところ。大きな川だろ、あっちは海だ。ふ~ん。もっと遊ばせたかったが、帰りの時間に遅れては申し訳ない。

  兄の孫、姪っ子の子。あのころの姉弟と同じ姉と弟、初めて会ったリナちゃんとコータローくん、さようなら。帰りの飛行機の中で今日の話を母親とジジ・ババにしていたらしい。

2009年9月11日金曜日

温室効果ガス


鳩山さんは「CO2」25%削減をよくぞ言った。岡田さんもどうやら腹をくくったようだ(「高速道路無料化」とは矛盾すると考えるが)。

官僚のトップが早速難色を示し、
経団連の御手洗さんが反対し、
電機労連が非現実的と非難を浴びせた。

誰が地球温暖化対策への取り組みを遅らせているか、
言わずもがなであぶりだされてきた。ブッシュさんだけではなかった。

もちろん本腰を据えて取り組まなければならない。我々も今ほどの安楽で過剰消費の生活にたいして決別の覚悟が必要だ。

「逆立ちしても実現されなければならない、子や孫たちのためにも」とか、石原慎太郎さんは鳩山さんにエールを送ったそうだ、2016年のオリンピック東京招致を要請しつつ。

ミュージカル異聞


朝鮮学校のみなさんは「緊張した生活」を強いられている。生徒、学生の子どもたちだ。そして先生、父母のみなさんだ。

拉致、核兵器、ミサイル問題を口実に。

生まれたときから日本に居住するこの子たちに、冷たくあたる、あたるどころか嫌がらせをする。心無いことで卑怯だ。日本人として、いや人間として恥ずかしい。

そうでなくても祖国は厳しい現実だ。加えてこの列島での差別と無理解、八つ当たりの冷たい風に耐えなければならない。隣人の苦難に思いを馳せることができない自らの狭量さをこそ振り返るべきだろう。

毎週、土日にしかも長時間の会場を借りるのは大変だ。
事務局長の若い小林さんは初めてこの学校を訪れ、ミュージカルの稽古場として体育館を貸していただくことをお願いした。昨今の空気のなかで、見ず知らずの「日本人」にいきなり申し入れられた校長先生もさぞかし面食らったことだろうが、快諾されたそうだ。

老朽化してお世辞にもりっぱな体育館とはいえなかったそうだが、校長先生は奮発して当日は冷房をいれてくれた。台所事情厳しく普段はいれないのに。

「パッチギ」の最初の映画のあのヒロインのような生徒が、交流の時間に朝鮮胡弓(カヤグム)を奏でてくれたそうだ。美しい音色を聞かせてもらったのでやんやの!喝采を浴び、はにかんでいたそうだ。こんなときのチマチョゴリ風の制服ってかわいいなと妻殿は言う。

まるで日本右傾化のリトマス紙にさらされているような事態を、地元では学校の人たちと一緒に「ウリ(わたしたち)の課題」にしようと活動のネットワークが一昨年あたりからつくられつつあるそうだ。私たちにはひとのこころがある。

毎週、旅の一座のように稽古場が変わる。同じ列島に住む「隣人」と触れ合えてよかったと思う。事務局長もたいしたものだし、校長先生も見上げたものだ、“宿屋”のふんどし。

ムツゴロウ・ラブソディ

何でも食べるナントカという貝(貝さん、すみません名前が)になっていくんだそうだ、妻殿は。おもいっきりスゴイ顔の物凄い顔の練習を積んでいる。

2009年9月10日木曜日

山田洋次さんが来て観て語った


 代表作「男はつらいよ」が盆正月興行の国民的映画になっていくころ、山田洋次監督は同時にこれらの作品も残している。
「家族」70年10月
「故郷」72年12月
「同胞」75年10月
 そして、90年代に入って「息子」「学校」Ⅰ~Ⅳをつくり、21世紀に入って時代劇三部作に取り組む。08年封切りの「母べえ」は吉永小百合さん笑福亭鶴瓶さんを起用して制作した。来年正月封切りの「おとうと」が最新作の予定で今に至る。同じく吉永小百合さん笑福亭鶴瓶さんが出演する。寅さんは「愚兄賢妹」を描いたが、「おとうと」は賢姉愚弟を描くことになる、と監督は言う。

 そこで会場から新作「おとうと」の次はどんな映画をつくる気か、との質問が寄せられる。

 一種の企業秘密ですがと軽妙に受けて、次もつくりたいと。ただ、「あの山田洋次が、えっそんな映画!?」[山田洋次ギャング映画に挑戦][SF映画に新境地]というものはつくれない。いつも見慣れたものを「こんな角度で」というものを撮るだろう。

 この年配になり、同じ年配の人がどんな映画を撮るか気になると言う。年老いたなと感じる(安直な)ものは撮りたくない。年をとったからこそできるものを撮りたい。自分の生い立ちから始まって、これからもとりとめもない映画をつくるだろう。

 昔の長屋の話。ひしめくように暮らしている。今のような娯楽はない。どうしているかというと人間自体を観ることに娯楽をみいだしていた。テレビドラマやゲームよりも本物の人間の方がどんなに「娯楽」であることか。歌舞伎も文楽でも能も最初はわからない。しかしそれに通じた人から教えてもらえばわかるようになる。人間も同じこと、こんなアングルでみればこんなにおもしろい人だと、その案内人が映画であり文学であり芸術だ。それらが「なんて人間っておもしろいもんじゃありませんか」と問い掛けているような気がします、と。

「学校」ことさら社会的弱者の立場でつくっているわけではない。自閉症のお子さんをもっているお母さんのノンフィクションの原作が魅力的で、なんとか描けないかなと思った。そして北海道滝川の養護学校の先生たちを訪ねた。あるときの先生たちのやりとり。「あれ、うれしかったよな」「カズが先生、うんこ」と言ってくれた。それが「やった」と思ったという会話。カズくんはなにかを「要求」するたびにうんちをするという行動をとってきた。知的障害者にとってうんこをするというのは便秘を避ける意味でも大事なこと、それを小出しにできることも意思表示の仕方のひとつで大切な行為。ああ、そういう先生がいるんだということで山田洋次さんは興味をもったという。

 寅さんは憲法を読んだことがあるか?
ん~ン、読まなかったかもしれませんねぇ。美しい女性から「読まなければ」と言われれば、わからなくとも読んだかもしれませんねぇ。刑法なら少しわかるけど、なんて言いながら。それでも憲法の精神を聞いたら「なるほど」と感心するかもしれませんねぇ。

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以下、「goo映画」より引用

「家族」70年10月
出演: 倍賞千恵子 / 井川比佐志 / 笠智衆 / 前田吟 / 春川ますみ / 花沢徳衛 / 森川信 / ハナ肇 / 渥美清
解説 /山田洋次が五年間温めつづけてきた構想を、日本列島縦断三千キロのロケと一年間という時間をかけて完成した、話題の超大作。脚本は「男はつらいよ 望郷篇」の山田洋次と宮崎晃、監督、撮影も同作の山田洋次と高羽哲夫がそれぞれ担当。

あらすじ /長崎港から六海里、東シナ海の怒濤を真っ向に受けて長崎湾を抱く防潮提のように海上に浮かぶ伊王島。民子はこの島に生まれ、貧しい島を出て博多の中華料理店に勤めていた。二十歳の民子を、風見精一が強奪するように、島に連れ戻り、教会で結婚式を挙げた。十年の歳月が流れ、剛、早苗が生まれた。炭坑夫として、精一、力の兄弟を育てた父の源造も、今では孫たちのいい祖父だった。精一には若い頃から、猫の額ほどの島を出て、北海道の開拓部落に入植して、酪農中心の牧場主になるという夢があったが、自分の会社が潰れたことを機会に、北海道の開拓村に住む、友人亮太の来道の勧めに応じる決心をする。桜がつぼみ、菜の花が満開の伊王島の春四月、丘の上にポツンと立つ精一の家から早苗を背負った民子、剛の手を引く源造、荷物を両手に持った精一が波止場に向かった。長崎通いの連絡船が、ゆっくり岸を離れ、最後のテープが風をはらんで海に切れる。見送りの人たちが豆粒ほどになり視界から消えても、家族はそれぞれの思いをこめて故郷の島を瞶めつづけた。やがて博多行急行列車に乗り込む。車窓からの桜の花が美しい。汽車の旅は人間を日常生活から解放する。自由な感慨が過去、現在、未来にわたり、民子、精一、源造の胸中を去来する。生まれて始めての大旅行に、はしゃぎ廻る剛。北九州を過ぎ、列車は本土へ。右手に瀬戸内海、そして徳山の大コンビナートが見えてくる。福山駅に弟力が出迎えていた。苛酷な冬と開拓の労苦を老いた源造にだけは負わせたくないと思い、力の家に預ける予定だったが、狭い2DKではとても無理だった。寝苦しい夜が明け、家族五人はふたたび北海道へと旅立っていった。やがて新大阪駅に到着し、乗車する前の三時間を万博見物に当てることにした。しかし会場での大群集を見て、民子は呆然とし、疲労の余り卒倒しそうになる。結局入口だけで引返し、この旅の唯一の豪華版である新幹線に乗り込んだ。東京について早苗の容態が急変した。青森行の特急券をフイにして旅館に泊まるが、早苗のひきつけはますます激しくなり、やっと捜し当てた救急病院に馳け込む。だがすでに手遅れとなり早苗は死んでしまう。教会での葬儀が終え、上野での二日目が暮れようとしていた。なれない長旅の心労と愛児をなくした哀しみのために、民子、精一、源造の心は重く、暗かった。東北本線の沿線は、樹や草が枯れはてて、寒々とした風景だった。青函連絡船、室蘭本線、根室本線、そして銀世界の狩勝峠。いくつものトラブルを重ねながらも家族の旅はようやく終点の中標津に近づいていった。駅に着いた家族を出迎えたワゴンは開拓部落にと導いた。高校時代の親友、沢亮太との再会、ささやかな宴が張られた。翌朝、残雪の大平原と、遠く白くかすむ阿寒の山なみを見て、雄大、森閑、無人の一大パノラマに民子と精一は呆然と地平線を眺めあうばかりだった。夜更け、皆が寝しずまった頃、長旅の労苦がつのったためか、源造は眠るように生涯を終えた。早苗と源造の骨は根釧原野に埋葬された。やがて待ちこがれた六月が来た。果てしなく広がる牧草地は一面の新緑におおわれ、放牧の牛が草をはんでいる。民子も精一もすっかり陽焼けして健康そのものだった。名も知らぬ花が咲き乱れる丘の上には大小二つの十字架が立っていた。「ベルナルド風見源造」「マリア風見早苗」。

「故郷」72年12月
出演: 倍賞千恵子 / 井川比佐志 / 渥美清 / 前田吟 / 田島令子 / 矢野宜 / 阿部百合子 / 笠智衆
解説/瀬戸内海の美しい小島で、ささやかな暮しをつづけてきた一家が、工業開発の波に追われ、父祖の地に哀惜の思いを残しながら、新天地を求めて移往するまでの揺れ動く心を追う。脚本は「泣いてたまるか」の宮崎晃、監督は脚本も執筆している「男はつらいよ 柴又慕情」の山田洋次、撮影も同作の高羽哲夫。

あらすじ/瀬戸内海・倉橋島。精一、民子の夫婦は石船と呼ばれている小さな船で石を運び生活の糧を得てきた。民子もなれない勉強の末に船の機関士の資格をとった。決して豊かではないが、光子、剛の二人の子供、そして精一の父・仙造と平和な家庭を保っている精一に最近悩みができた。持船のエンジンの調子が良くないのである。精一はどうしても新しい船を手に入れたかった。そこで世話役に金策の相談を持ちかけたが、彼は困窮した様子を見せるだけだった。各部落を小型トラックで回り、陽気に野菜を売り歩いている松下は精一の友人で、精一の悩みを知って慰めるのだが、それ以上、松下には何の手助けもできない。精一は大工にエンジンを替えるにしても、老朽化して無駄だと言われるが、それでも、夫婦で海に出た。その日は、海が荒れ、ボロ船の航海は危険をきわめ、夫婦の帰りを待つ家族や、松下は心配で気が気ではなかった。数日後、万策尽きた精一夫婦は、弟健次の言葉に従い、尾道にある造船所を見学し、気が進まぬままに石船を捨てる決心をするのだった。最後の航海の日、夫婦は、息子の剛を連れて船に乗った。朝日を浴びた海が、かつて見たこともない程美しい。精一は思い出した。民子が機関士試験に合格した日のこと、新婚早々の弟健次夫婦と一家をあげて船で宮島の管弦祭に向った日のこと。楽しかった鳥での生活が精一のまぶたをよぎった。翌日。尾道へ出発の日である。別れの挨拶をする夫婦に近所の老婆は涙をこぼした。連絡船には大勢の見送りの人が集った。松下も駆けつけ、精一に餞別を渡し、山のようなテープを民子たちに配り陽気に振舞った。大人たちは涙をこらえたが、六つになる光子だけは泣きだすのだった。やがて、船が波止場を離れた。港を出て見送りの人がだんだん小さくなっていく。精一と民子は、島が見えなくなっても、いつまでも同じ姿勢で立ちつくしていた。

「同胞」75年10月
出演:倍賞千恵子、寺尾聰、岡本茉莉、下條アトム、渥美清、井川比佐志、下條正巳、大滝秀治、三崎千恵子、杉山とく子
「岩手県のとある農村を舞台に、東京の劇団のミュージカルを公演しようとする青年団の活動を描く。」
解説/岩手県のとある農村を舞台に、東京の劇団のミュージカルを公演しようとする青年団の活動を描く。脚本は「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」の朝間義隆、監督は脚本も執筆している同作の山田洋次、撮影も同作の高羽哲夫がそれぞれ担当。

あらすじ / 岩手県岩手郡松尾村は岩手山の北麓、八幡平の裾野に広がり、四つの部落からなっている、人口七二○○、戸数一七○○の村である。斉藤高志はこの村の青年団長で、酪農を営んでいる。兄の博志が盛岡の工場に通っているので高志が農事のすべてを切りまわしている。村の次、三男のほとんどが都会へ出て行き、残った青年たちも東京・大阪方面へ出稼ぎに行って閑散している三月半ば、松尾村を一人の女性・河野秀子が訪れた。彼女は東京の統一劇場のオルグとして、この村でミュージカル「ふるさと」公演を青年団主催でやって欲しいと、すすめにきたのだ。秀子の話を聞いた高志は、公演の費用が六五万円かかるため、青年団の幹部が揃う春になってから理事会をひらいて検討することを秀子に約束した。五月、桜が咲く遅い春。青年団の理事会がひらかれたが、公演費用に責任を持ちかねるという強硬な反対意見が出された。何度も理事会が行なわれ、意見の交換がくり返された。しかし、高志の「赤字になったら俺が牛を売って弁償する」との一言で、公演主催が決った。夏が来た。目標六五○枚の切符が、青年団全員の必死の活動で目標をオーバーするまで売り切った。公演三日前、会場に予定されていた中学校の体育館が、有料の催物には貸せない、と校長に断わられてしまった。急を聞いて秀子が盛岡から飛んで来たが、校長の答は変らない。秀子は遂に最後の条件を切り出した。「無料ならいいんですね」「勿論です」無謀とも思える秀子の提案。しかし、秀子は、自分達は金儲けのために芝居をしているわけではない、無料で公演するのは苦しいけれど、芝居を楽しみにしている人たちのために中止することはできない、と言って校長室を出た。今回に限り特別に許可する、という校長の許可を聞いたのは、秀子が校門を出てすぐだった。公演は大成功だった。千人を超える人々が集ってくれた。劇団員の歌うお別れの歌を青年達は泣きながら聞いた。八幡平に秋が来た。山肌は紅葉に色どられ、遥か彼方、岩手山の頂上には、もう初雪が白く光っている。
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2009年9月9日水曜日


そのまま歳をとっただけでしょ、
苦労をしていないんです

と言いかけて夢から覚めた

3年間クラスが一緒だった
口をきいたこともなかった級友に・・・


青木雄二さんは駆け抜けるように生きた
マルクスとドストエフスキーに出遭ってまるで悟っているようだった
「ボクの人生道」(96年/フォーラム・A)をなにげなく読み返す

「劇場政治の誤算」(加藤紘一09年4月/角川新書)を電車で読もう
スリー・ナイン 999 090909 人の話を聞こう

2009年9月8日火曜日

デイデイデイ(泥、々、々)


国境は人間がつくったものだ。朝鮮半島南部と九州北部のそれぞれの西海岸の自然は同質、似ているらしい。その中でも内海になった有明海はとりわけ干潟が豊かでユニークな海だ。豊かとは生物に独自性があってしかも多様だということだ。人間の経済生活にとってもこの海の産物は有意義だった。

先の陛下のお最後の下血がどうのと例を出して説明してもキョトンとしていた。おとうさん、若い人はもう知らないよ。20年以上も経っているのよ、あっそうか。

そういうことと同様に、若い人は諫早湾奥部の世界一長いギロチン閉門のことをもう知らない。12年も前の97年4月14日のことだ。「バンザイクリフ」シオマネキはバンザイの形をして死骸になっていた。有明海は死の海となりタイラギも海苔もアサリもとれなくなり漁師さん達は国を訴えた。2008年6月佐賀地裁は開門を命じた。 国は応じず控訴した。

諫早閉門を得々と誇っていた久間章生さんは今度の選挙に落ちた。 しょうがない。

海と命、生命の物語をミュージカルにする。出演者100名が募集されて、我が家の住人約1名がこれに応じた。隣で今宵もミシンと悪戦苦闘だ。7月18日から稽古を始めて42時間、合計150時間の猛練習を経て11月の公演へと向かう。

まだ人間の殻を抜け切っていないと田中監督から叱咤が飛ぶ。あと20日間の練習を積む間にきっと干潟の生き物になれるだろうと、団員の代表は自己紹介する。「デイデイデイ」と「回帰」の場のパフォーマンス披露。前に出てきている人たちの歌の旨さ、この人たちと同じ水準になれるのだろうか、これはすごいぞ。 おおいに期待できる!

さっ、「人足」やろう、券を売ろう。こっちはソシキなんかもっていない、ひとりひとりに売る、え~と、AさんとMさんに、Oさん、Uさんは夫婦で、・・・。あっ、あなたにも。

2009年9月7日月曜日

白い一日


 山田洋次さんの淡々と語るそしてなにげないユーモアの含まれる話にいつのまにか心が動き、そしてまだできあがってもいないミュージカルの‘お稽古’にずっと立ち会っていた人柄に感心した。9時も過ぎていたが、「ここはおごるから」と練習で疲れて早く帰ろうとする妻殿を引き止めて飲んだ。今日の話と事柄をふたりでかみしめたいと思ったから。若い御夫婦がやっている居酒屋を覚えていて2年ぶりに訪れた。出すものが手作りで工夫してあって暖かさを感じるし、奥さんも愛想が良く、よく立ち働く。その記憶は正しく、気持ちよく今日の感動の余韻を楽しんだ。電車を乗り継いで家に帰り着いたのは12時前だった。飲んだといってもホッピー一杯と追加でたのんだ泡盛一杯である。昨夜のことだ。

 二日酔いでも何でもなく、だるい。いい天気だ。

 「山田洋次さん来る」ということが新聞の地方版に出たらしく、前日になって問い合わせが殺到したらしい。市民会館の小ホールしか借りておらず、お断りするのに大変だったらしい。私はたまたま予約しておいたので参加聴講できた。

 本を3冊読もうと、いや読まなければいけないと考えた。
 日曜日はお留守番。一念発起で終日お片づけをした。ようやく机の表面が現れた。そして新聞が2年分あった。‘2年分の新聞’は手がつけられず、今度は主のいなくなった子供部屋へ緊急避難。その新聞をなんとかしなければならないと考えた。
 映画「同胞(はらから)」を借りてこようと考えた。
 市内温泉に行きアカスリをしてもらおうと考えた。

 よし、休むことにした。職場に、いや相棒に迷惑をかけるが明日あやまろう。

 妻殿がお休みのときは、あれとこれとたのんで、最後に掃除をしておくようにと念を押す。帰ってくればほぼその通りにしてあるので、気持ちいい。妻殿は突然職場を休むような“ヒキョーな”ことはしない。

「まっしろな、陶磁器をながめては、あきもせず♪ かといってふれもせず♪」

…で、ときどき居眠りをした程度でなにもせずに過ごした。

 映画「同胞」はレンタル屋さんになかったが、隣の古本市に『「江戸しぐさ」完全理解』(越川禮子/林田明大2006年12月刊三五館)をみつける、ゴキゲン♪。

 夕方、これではいけないと、お風呂の掃除をして、お夕食の準備。
えーと、昨夜の居酒屋を参考にしてキャベツの乱切り、きゅーりも、ただそれだけ。氷見うどんを茹でる。そばつゆしかなかったからそれで。「そのまま枝豆」は解凍しただけ。あなたは、どかっと座っていなさいと、お片づけ食器洗い。おっと、缶詰の杏仁フルーツも冷やしていた。

 妻殿は洋裁に挑戦、悪戦苦闘、目が使えなくなった、やってやれないことはないヨと横でミシンの音。

人生一度しかない、なんでもないいちにち。 明日はプラごみの日。

おいおい

頭を短く刈り上げて行った。そしてすぐお葬式になった。その時の会場側で撮った写真が兄から回送されてきた。

私のまわりには心に思ったことをそのまま言う人が多い。

この前なんぞは「実行委員会って、で、どういう参加の仕方をしたら」とけなげに申し出たら、「おう、ニンソク、そう人足やって」ときた。いつの時代の用語だ、ここは佐渡か天領かとこたえる。実にすなおな表現の人と付き合っているものだ。

写真を見て「おとうさんの眉って、犬にマユゲを描いたようね」と、のたまふ。ほんとにもう、妻殿まで…。 まぁ、あたっているけど。

この次は眉毛も刈り上げてもらうことにする。

2009年9月5日土曜日

♪「銭形平次」


 30代前半、四人の父親になった。子ども全員をお風呂に入れるのが私の分担。次から次にほいほいと気合でもって、入れて、洗って、あげた。そのときの調子付けに「男だったら、ひとつにかけるぅ~♪」(「銭形平次」の主題歌)を口ずさんでいたらしい。この出だしのフレーズだけ。

 夏なんぞ1時間以上も入っていてのぼせる寸前だった。 思い出した。

 父のフルソングを初めて聞きましたと子どもたちが口を揃えて義兄に言う。こんな歌だったんだと。

 葬儀を終えて、夕食のあとのカラオケ屋さんで、とりあえず私の一曲目に入れた。ほう、初めてだったのか、聞いたことなかったの。

 以前は消極的だった姉も今回進んで歌った。練習を積んだな。若いときは歌がとっても好きだった姉だ。そのおかげで、私はとても古い歌なら知っている。ザ・ピーナッツとか、西田佐知子さんの「アカシアの雨にうたれてぇ、このままぁあ死んでしまいたい、夜が明ける日がのぼる」とか、何でも口ずさんでいた。ところがそんな歌に水を向けてもすっかり忘れている。今は秋元順子様だ。「あぁ、この世に生まれ、巡り逢う奇跡♪」ろうろうと歌える。

 しかし、義兄は甘い声で、美声だ。いや、妻殿もなかなかだが…。

お導師様


 映画「ベン・ハー」はかなり遅れて我が町にやってきたが、ビートルズの音楽はすぐにやってきた。当時、高校生が男女ペアで映画館に入るのはまだかなりの度胸がいった。

 当時LPは3000円もしたと思うが、KO君たちは何枚も持っていた。ステレオだっていくらもしたと思う。冷静沈着で優秀なKO君は、我が国最大手の食品メーカーの執行役員になっている。

 我が町で初めてのエレキバンドが結成された(大都会に比べればずっと遅いことだが)。テケテケテケテケテッて、あれである。その中心メンバーにAさんがいた。産院のKI君もいた。Aさんはひとつ年上の幼馴染だった。家に講堂があったので練習ができたのだろう。いつか高校の文化祭で披露して女子たちにキャーと騒がれた。KI君はその後市役所に勤めたらしい。

 Aさんのところは同じ町内会だと思っていたら境目で隣の町内会だった。お焼香とAさんの読経でうっとりとした。3日も続けてあげていただいたが、実に美声だ。お経がその場面に来ると脳のどこかが癒されるのがわかる。あのころバンドのボーカルだった。お母さんは若くてきれいな人で母とも仲良しだった。Aさんは母親ゆずりの涼しい目をしていてよくもてた。あちらはバーコード頭、こちらは坊主頭になっていたが「お久しぶり」とあいさつをして、磨き上げられた読経をありがたく拝聴した。お父上の読経とはまた違う趣の癒され方、ありがたさだった。

 晩年にはすっかりイケメン好きになっていた母も成仏させてもらったことだろう。
 
 *かなたに見えるのは丸山という。母方の祖母の里の山。田んぼの中にもっこりとその名のとおり丸く盛り上がったひと目でユニークな山とわかる。旅館の窓より撮影。

2009年9月4日金曜日

特訓


 私は落ちこぼれたら這い上がることができないかもしれません。誰かの手助けを待つのかもしれません。さもなくば、奈落の底まで落ちて行くのではないかと考えます。

 我が家のつれあい殿は一念発起、一度しかない人生、生まれて初めてミュージカルというものに応募しました。腕に覚えのあろうはずがありません。“素人歓迎”その一点に賛同しての果敢な応募。しかしながら、応募はしましたが、オーディション、初顔合わせ、初めての練習、始まってからの役のオーディション、数々の重要な局面に立ち会えませんでした。私の母の容態が悪化し、亡くなり、何度か同行してもらったからです。

 不在することが多く、練習内容はどんどん先に進んでいます。「おたおたしているの…」と訴えられます。わかる、わかる。で、どうすの。やめちゃう。いや、やると言います。

 聞けばミュージカルとは複雑多岐な芸術です、歌も踊りも劇もやらなければなりません。参加者の人の中には、人に教えて食べているセミプロもいるらしく、とにかく腕に覚えもあって好きで加わっているらしく水準も高いようです。熱気があるようです。

 練習場はどこかの公共の体育館や施設を借りて毎回会場が違うらしいのです。空調のない会場では汗だくでみっちり土日を鍛えられるそうです。さすがに体力を使うらしくくたくたになって帰ってきます。

 さて、各自銘々で衣装をつくるように、型紙と布地を渡されました。あとでまとめて衣装の先生が染色をするそうです。それはいいのですが、洋裁について我がつれあい殿は腕に覚えがありません。昔、町には仕立て屋さんがあったと思いますが、今は探してみてもありません。衣服のリフォーム屋さんに尋ねてみましたがそこまではやっていないとのこと。また、仕立てれば4~5万円はかかるのではないかとアドバイスを受けたらしいのです。

 皆が一斉に逆を向きざざっと動く、はっと気付いてふた呼吸ほど遅れて体を転換し付いて行く。と、今度は一斉に皆がこちらを向く、目と目があっても吹き出すわけにはチトいかない。目と目があっても、向こうの目はこちらを見ていない、成りきっている。ひと呼吸も遅れてこなたへ動く。背中から出るのは冷や汗のほう。

 …と、そんな情景だと思います。私だったらきっと夜‘ウナセラディ東京’です。ついていけないの。おたおたしている。・・・。

 肝心なときの練習に加われなかったのだから当然だ、仕方がないとなぐさめます。さて、ピンチだ、頑張れ、我がつれあい殿。

2009年9月3日木曜日

つばくろめ

 学校の勉強はとにかくきらいだった。何もかも点数を取るためにと考えられたから。
進学コースのクラスにいながら、ほぼ落ちこぼれ状態だった。
高校3年のときのクラス主任は現代国語の先生だった。いい先生ではあった。

『のど赤き玄鳥(つばくろめ)ふたつ梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり』

 その当時、教科書で習ったこの句がずっと心に残っていた。
教師はたったこの一首で、この情景をとうとうと「授業」してくれた。そして、どの辺のことが受験にでるかという要領も。これがいつも私には白んだ。しかしこころには残った。

斎藤茂吉「死にたまふ母」(初出誌『アララギ』)

 嘆息、放心、・・・、うまく表現できないがそのようなものを感じていた。

 級友たちのお母さんたちよりうちの母はずっと年寄りだったので、少し現実的にいつかこういう日が私にも来るのかなと思っていた。斎藤茂吉と言えば北杜夫の父で、作品の句を読めばとても難しく感じていた。

 施設にはこういうときの出口と門があるのだろう。ストレッチャ-に乗せられた母の遺体を、迎えにきた葬儀社の車(洋式の霊柩車だった)に鄭重に乗せていただく。いつのまにか深夜勤務の皆さんが集まっていて、合掌の姿で送り出していただいた。私はふわふわとした感じで、レンタカーのところに跳んで行き、その車を追う。そのときの深夜の帳(とばり)のあの施設の出口の明るさが妙に頭のなかに絵コンテのように残ってしまった。母が二度と帰ることはない。

 飛行機で来て、レンタカーで来た。酸素吸入で小さな上体があがりさがりして呼吸をしている母に対面して、明確に意識の戻ることはなく看取った。「死にたまふ母」とは時代が違うが、その情景となんとなく重ね合わせていた。

 人はいつか死ぬ。つばくろめ、つばくろめ、そのときが来たのだな、とふわふわした体調を感じながら、ずっとそう考えていた。

 田舎では一日の時間が変化していくなかで飛んで来る鳥も変わる。この葬儀場の周りは、かつて、あたり一面田んぼだった。私が高校を出るまでは確かそうだったはずである。よく覚えていない。鳥が飛来してきたり、梁に止まっているような情景はない。山の中のすごく寂しいところが火葬場だったと記憶しているが、よく整備された施設に変貌していた。

 名も成して、いい年をして斉藤茂吉というひとはなんて甘えんぼうなんだろうと思っていた。昔のことだ。

『白ふぢの垂花(たりはな)ちればしみじみと今はその實の見えそめしかも』
『みちのくの母のいのちを一目(ひとめ)見む一目(ひとめ)見むとぞいそぐなりけれ』
『はるばると藥(くすり)をもちて來(こ)しわれを目守(まも)りたまへりわれは子(こ)なれば』
『母が目をしまし離(か)れ來て目守(まも)りたりあな悲しもよ蠺(かふこ)のねむり』
『 我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生(う)まし乳(ち)足(た)らひし母よ』
『灰のなかに母をひろへり朝日子(あさひこ)ののぼるが中に母をひろへり』

2009年9月2日水曜日

薩摩の文弥人形


 “灯台下暗し”とはこのことです。
この7月にわざわざ海を越えて佐渡島まで珍しいものがあるものだと文弥人形劇を観にいきました。ところが、どっこい実は私の故郷にその文弥人形劇があったのです。奇な縁とはまさにこのことでしょう。今回の帰省で私は初めて知りました。

 「平成の広域合併」をして今は同じ市内になりましたが、それ以前、川の上流の東郷町というところは故郷の町の隣町でした。ここに斧渕(おのぶち)という昔からの集落があります、高校時代、斧渕君という友達もおりました。おそらく我が薩摩地方の数少ない農業生産性の高いところ、簡単にいうと田んぼの地力(美田)があってお米のよくとれたところだと考えられます。

 故郷に滞在中たまたま、母の部屋のものを処分しに行った場所が東郷町で、そこで「東郷町斧渕の文弥人形」の看板をみかけました。「通称『人形踊り』といわれ、江戸時代以来、近郷の人々に親しまれてきた」そうです。7月に佐渡の野浦というところに行って観て来たあの芸能が、この薩摩の一集落にも守り伝えられておりました。不思議な縁を感じます。由来には2説があって、そのうちの一説には「参勤交代の供で上府(江戸へ来た)した東郷侍が、佐渡の人形師を連れてきて習いおぼえた」という佐渡由来説もあります。

 ウェブ検索すると「昔は、収穫が終わって農業をしなくてもいい時期に、野外などで演じたそうです。舞台は、上はワラ屋根をふき、黒幕をかぶせ、人形の頭上にも黒幕をたらした。拍子木で開幕し、雪も降らせた。見物する人は、焼酎を飲みながら見て、あとになると、舞台に上って人形と一緒に踊ったという。東郷には、道化人形サイロク、ソロマというものがあると書かれている。佐渡の、のろま人形とは、作り方も、操り方もちがい、これらは、マキョ(間狂言)のとき、両手に一本の竹の棒を渡されたサイロクとソロマは、オハラ節、ハンヤ節などを、見事におどる。しかも、手首を曲げて踊ってみせ、赤い舌も出して、哄笑(こうしょう:大きな声でどっと笑うこと)の表情で踊る。このようなものは、佐渡にもないもので、薩摩らしいものであり、これが、「人形踊り」といわれる由来であるといわれている」と紹介してありました。

 ちなみに、京都・大阪ではやっていた「岡本文弥」が語る人形浄瑠璃が伝承されているのは全国で4箇所(石川県尾口村、新潟県佐渡、鹿児島県薩摩川内市東郷町、宮崎県都城市山之口町)だそうです(【山之口麓文弥節人形浄瑠璃】より)。

 薩摩川内市観光ガイドのホームページには以下のように紹介してあります(画像もここから引用させていただきます)。
『文弥節人形浄瑠璃:郷土芸能である「文弥節(ぶんやぶし)人形浄瑠璃」は、義太夫節人形浄瑠璃以前の古浄瑠璃人形の系統を伝える文弥節による一人遣人形浄瑠璃で、新潟県佐渡郡、石川県尾口村・鶴来町、宮崎県山之口町、鹿児島県薩摩川内市にのみ伝承されています。いつの頃から行なわれたものかはっきりしませんが、江戸時代元禄11年(1698年)頃、参勤交代の折り、島津氏の随行役をしていた東郷の郷土が、郷里の子弟の士気を高めるためにと上方(京都・大阪地方)から文弥節の師匠を連れ帰り広めたものといわれ、また一説には寛文10年(1670年)頃、江戸から連れ帰ったとも言われています。
 2003年10月14日には、もっとも距離が離れていながら、語り口などに相似が認められる本町と佐渡の人形が早稲田大学より招かれ、具体的にその類似点・相違点が研究されるとともに、一般に公開し、記録が作成されました。今後は「東郷温泉ゆったり館」専用会場にて定期的な公演も行なわれる予定です。』


 11月3日(火)東京おもちゃ美術館で『佐渡のトキを帰す運動と「文弥人形」上演を行います』とのご案内をいただきました。

2009年9月1日火曜日

弔問客


 母と一緒に暮らしたのは母の人生98年のうち、わずか18年である。親といえども断片しか知らないことになる。まして遠く離れて40年近い。ひとり暮らしの母は話し相手になってくれる人がいれば、一時間でも二時間でも引き止めて話をしていたらしい、さもありなんと思う。

 死亡広告は各新聞の地方版に事務的に掲載されるらしい。同意を求められ合意した。『読売』『朝日』『毎日』など全国紙とはいうが、地方に行けば地元紙の方が圧倒的に部数が多い場合がある。私の故郷もそうだ。『南日本新聞』という。母はこの新聞に大きく広告を出してほしいと言っていたが「大言壮語」のように聞こえて出しそびれてしまった。悪いことをした。「生花」は25本、大きな斎場で母の思い描いていたような壮大なお葬式になった、だが弔問客が多かったわけではない。叔父叔母、本家筋にしか連絡しなかった。私たちはむしろ来る人がいるのかなとさえ思っていたが、そこは田舎のこと、聞きつけて来ていただき、何十年ぶりかの再会を果たした。割り切れる都会とはちがう。

栄恵おばさん
 歳をとってはいたが、まだしっかりしていたころ母はしみじみと言った。お友達が亡くなっていくのが一番寂しいと。
 「幸子さぁん、あたいを置いてはっちきゃしてぇ(私を置いて逝ってしまって)」母の遺体にすがり泣きついたご老人。「あたいな小学校も女学校も師範学校も一緒ごわしたと…、あん人の方が少しばっかい勉強ができやった」受け付けのしっかりとした署名を見れば上野のおばさんではないか。この歳で亡くなって、母の友人が存命とは思わなかった、しかも元気だ。竹馬の友で、親友でライバルだった。いつもうちに遊びに来ていたおばさんだった、「こげん、おおきくりっぱになって、んだ、もしたん」「お母さんがおはんのことをいつも自慢しといやしたよ、4人もお子さんがおいやしとな」「おばさん、嫁です」「んだ!」とおばさんが妻殿を「見上ぐごった」という。

老婦人
 上の姉と長く話し込んでいたのは、一人は中嶋写真館のお姉さん。裁判所の並びにあった。幼いころ姉に連れられて遊びに行ったとき撮ってもらったスナップ写真が残っている。家にはカメラがなかったので、小さいころの写真はほとんど残っていない。長じて受験写真を厳かに撮ってもらったことがある。もう一人はお豆腐屋さんのお姉さん。ひとり娘で中学を出てそのまま家業を手伝った。みなが感心する働き者だった。朝の早い仕事だったので、おじさんは夕方早くには銭湯に入っていた。頭髪が毛沢東に似ていた。私は片腕が無いと思い込んでいたが、今回おじさんは片足のほうがないとわかった。そういえば、移動はいつも自転車だった。おふたりとも白髪が目立っていた。

施設の介護士のみなさん
 母は死ぬ直前までお化粧とおしゃれを忘れなかった。晩年のことだが、衣服の色は藤色と紫を好み、それ以外はどんなものを買ってあげても頑として着なかった。その辺ははっきりしていたが、私が育つころは知らない好みだった。なんだって着ていたような気がする。施設では仕上がった洗濯物はリハビリのため各自でたたむように仕向けているようだが、母は「一度もしたことがありません」とにこにこと悠然としていたそうだ。そんなお嬢さん育ちだったことがあったのだろうか。私には、眉間に皺を寄せ、こめかみが浮き出て立ち働く母の思い出しかない。
 「幸子さんはおしゃれを欠かしませんでした。一度間違えられて眉毛をマジックで書かれたんですよぅ」仮通夜だったか、通夜だったか介護士さんのひとりがエピソードを話してくださり大爆笑で場が和んだ。

淳平さんの奥さんと娘さん
 淳平さんは父の甥で、淳平と呼び捨てにし、淳平さんは叔父さんと呼んでいた。序列からいえば当然だが、歳は10歳ぐらいしか違わなかった。だから私とは従兄筋だが「おじさん」だった。とうの昔に亡くなったが、その奥さんが存命で娘さんに支えられて参列していただいた。淳平さんには私と同級生の娘さんがいたがあの人だったのだろうか。同じ苗字の親戚筋のひとたちに「お夜食」(という通夜のときに持ってくるもの)やご香典をいただいたが、時が流れどういう親戚筋か俄かには判らないお名前の人もいた。

家村さんのご兄弟
 母の一番下の弟、叔父の嫁、悦子さんの実家。義叔母はひとり娘で四人の弟がいた。「義兄は来られないようだ」と二人の弟さんがお見えになった。「高江」という私の故郷では最もお米の採れる集落がお里だ。その替わり洪水にも見舞われるところだが。