2009年6月19日金曜日

みいけⅢ 『三池終わらない炭鉱(やま)の物語』


私はまだ小さかったが記憶にあったりするということは感受性があったのだろう。
床板を踏みたたく振動が伝わるように、三池の「何事か」は、伝わってきた。そして安保。日本中が揺れるようだった。まだ子どもで、何が起きているのか分からなかったが、ただごとではない雰囲気を覚えている。そして想いだした、少し経ってからの三井三池炭鉱の大爆発の惨事を。もう遠く、遠く過ぎ去ったことだと思っていた。炭鉱の惨事は茶飯事だったような気もするが、モノクロのスクリーンから、ただでさえ真っ黒な画面の中から悲惨な状況が伝わってきた。子ども心にも「可哀相(かわいそ)か」と胸に刻まれてはいたが、今回まで想いだすことはなかった。

学生時代、節約のために夜行列車の寝台ではなく自由席に乗った。時折、不知火海に夕日が映える。島原の山が見えるころは大牟田あたりだったのだろう。県境を越え水俣、再び県境を越えて大牟田、そして九州最後の門司と通り過ぎて行った。大きな駅にはプラットホームに、学校にあったような水道口が並んであった。座りっぱなしで行けば山口県徳山のコンビナートあたりで暗くなり、広島では真っ暗な光景だった。
そう「みなまた」、「おおむた」は私の育ったところとは地続きだった。

何やら炭鉱夫たちがお上にたてついて騒動をおこし、そして今度は大規模な災害を蒙った。げに炭鉱とは、景気はよかろうが、恐(おっと)ろしかとこという印象ばかりが残った。たぶん、おとなたちがそうささやいていたのだろう。

三池といえば労働争議、総資本対総労働の血戦、荒木栄、それらのイメージ一色であとはとくになかった。しかしながら、あらためて考えた。水俣も三池の大牟田も、私にとっては同時代のことで、しかも振動が響いてきそうな地続きのところで起きたことだった。

これまで「みなまた」であればなにがしか触れることや出遭う機会はあっても、「みいけ」は過去のことという感じで記憶の彼方だった。事実、上二人の子育て時代は同じ県内にいたが、そのころに知る三池とは、巨大な跡地にレジャーランドができて今様に脱皮したところという感じがあった。「兵(つわもの)どもが夢のあと」そんなところにできた「三井のレジャーランド」にあまり行きたいとは思わなかった。炭鉱もなにもかも過ぎ去ったことと思っていた。

(ドキュメンタリー映画「みいけ」ホームページhttp://www.cine.co.jp/miike/process.htmlより)
三池炭鉱は、福岡県大牟田市を中心に20あまりの坑口(坑内への入口)を持ち、その坑道は有明海の下に迷路のように延びていた。最も深い所では海面下600メートルにも及ぶ。石炭を掘るトンネルの先端まで、坑内電車を乗り継ぎ1時間かかることもあった。一時は、全国の石炭の4分の1を掘り出していた日本最大の炭鉱。

三池炭鉱の歴史(年表)
1469年(文明元) "燃える石"が発見される。
1873年(明治6) 国営の炭鉱となり、囚人を使った石炭の採掘が始まる。
1889年(明治22) 「三井」に払い下げられ民営になる。
1899年(明治32) 与論島(鹿児島県)から三池炭鉱への集団移住始まる。
1939年(昭和14) 炭鉱へ朝鮮人の強制連行が始まる。
1941年(昭和16) 太平洋戦争始まる。
1959~60年(昭和34~35) 約1年続いた三池炭鉱の労働争議。
1963年(昭和38) 死者458人を出した炭じん爆発事故。
1997年(平成9) 三池炭鉱閉山。


水俣も大牟田も企業城下町だった。企業に逆らうことはできなかった。運動家として覚悟や自覚があるならともかく、当地を訪ねてもよそ者として問題に触れることは避けるべき「マナー」(!?)だった。遠く離れていてこそモノが言えた、評論、傍観ができた。

「みなまた」ならともかく、いまさら「みいけ」の観があった。大方の人がそうだった。

和田さんは、これをどうしてもみんなで観たいと思ったそうだ。炭労本部での生き残りは自分をいれて二人しか存命していない、85歳になっていた。正月に実行委員会を立ち上げて、熊谷監督にも連絡をとり、メッセージをもらい、お宅を訪ね、話をうかがい、ニュースも発行した。そして、地域のメーデーの壇上で自ら訴えた。そこで私は鑑賞券を買い求めていた。

そして、当日、私たちは思い違いをして会場の公民館を間違えた。青くなって移動してようやく上映に間に合った。

涙が出てきた。ナレーション。出てくる顔。初めて目にする新労(第2組合)の人、会社の人、与論島からの移住者の二代目の人など。とくに婦人の顔、奔走したことへの回想、子育て、争議、いがみあい、闘病、家族崩壊の危機、対立。記録に出てくる子どもたちに、あのころの私が投影する。ひとのつながりがあったこと、対立と憎しみがあったこと、そしてつながりがあること、人間らしさ、くささ、みなぎるものに触れて、悲しいのではなくて、そう、こころが動いて涙が出てきた。私の生まれたところと地続きの「おおむた」を初めて知ることができたように思う。

争議でこころある人たちが職場を追われたことと、3年後の炭塵爆発事故は会社側が安全対策をとっていれば防げたはずであったことがリンクする。犠牲があまりにも大きく、遺族と一酸化炭素中毒の後遺症の残る被災者、家族の苦しみ、支えあい、被災後の必死の生き方が伝わる。おもに家族、女性が描かれる。終わってはいない「みいけ」がある。

ノスタルジアではない、町が2分されたほどのものを超えて、必死に生きるいろいろな姿に自ずと涙が出てきた。私に限ったことではないようだ。

監督の熊谷博子さんは壇上から話しかけるのでなくて、壇上に腰掛けて話させてくださいと、この映画の打ち明け話を披露された。
この秋に『負の遺産って何なのさ!炭都・三池から日本を掘る(仮題)』を光文社新書で発刊するそうだ。

◆メモ『心の貌(かたち)』柳田邦男編08.01刊 P-181より
三井三池炭塵爆発事故 63.11.9 15:10発生。
死者458人、負傷者839人 CO中毒の後遺症(脳の器質障害)
炭鉱事故には、落盤と爆発(ガス爆発と炭塵爆発)、メタンガス+火源=爆発、堆積炭塵→炭塵雲+火源=爆発
炭塵爆発は防げる(方法は①清掃による炭塵除去、②散水による炭塵の浮遊抑制、③炭塵に岩粉を散布して混ぜ爆発性を抑制)この安全対策を怠った。
原田正純『炭じん爆発―――三井三池鉱の一酸化炭素中毒』参照

1 件のコメント:

ハマタヌ さんのコメント...

私は今でも泥臭い労働運動が好きです。もうとうに労働者ではないのですが、かつての三池のように真っ黒な煤けた顔に坑内帽のオジちゃんたちが、ジタバタと闘っているのを記録映画などで見ると、無条件で涙腺がゆるくなります。二組との乱闘を見ると別な意味で涙が出てきます。

♪クロガネの男の~こぶしがひとつ~などという歌は春闘の時に大分歌いましたが、なぜか現業の職場の奴のほうが様になりました。

今、農家のほうもWTOハンタイなどで動員されて行ってもちっとも迫力がありません。動員されて来るのは兼業農家や全農協労連(名は違ったかな)のJA職員のほうが多いようだからでしょうか。

労働者や農家が泥臭くなくなったらアウトです。泥臭いうちが花です。