2009年6月29日月曜日

夏明


ご心配かけてすみません。お見舞いありがとうございます。木曜日のことは薬が合わなかったのだと考えられます。糸が切れたような気がしたのでよもやとは思ったのですが、大丈夫です。しつこい夏風邪のようです。愉快に過ごし、よく寝たので大丈夫です。

2009年6月27日土曜日

はぐれ


木曜日の夕方、変調をきたした。職場で、自分が何を読んでいるかわからない、何を聞こうとして、何を言おうとしているのかよくわからない。極端に言うと人事不省に陥った。職場の相棒にも訴えた。

風邪薬を処方してもらい服用を始めていた、それしか理由は見当たらないので医者に行き訴えたが、明確な原因はわからない、服用を中止しましょうとそれだけで、金を払って出る。訳が分からなくなった。

何か発症したのだろうか、それにしても急だ。激しい疲労感で仕事を休む。急に休めば相棒に負担がかかる。負い目を持ちながら。

夢を見た。何かパソコンめいたものを買いに行ったようだが、何をどう置いてあるかわからないお店、結局分厚いカタログをもらい、そこを出ると自分がどこにいるか分からない。暗い道に出る、明るいところにたどり着き、自分の学校はどこか、下宿はその方向だが、と尋ねる。それは簡単だ、あちらの方向だとおしえてもらう。と、そこで目覚める。誰もいない。Phytrんどsmwか、・:」#&()****:****:
と、また夢の中。

人の流れと逆に行く、はぐれる、独りっきりになる。

階下に降りて行き、やっと妻殿に会う。
妻殿もめまいがするという。

夫婦してサリンでも撒かれたかと冗談を言うがジョーダンにならない。独りではない、ということで落ち着く。

はぐれおいどんではある。薬の副作用なのだろうか。疲れがたまってしまったのだろうか。深くも浅くも寝た、寝た。発症してしまったのだろうか。妻殿とてめまいが続く。

土曜日になった、北へ。

2009年6月24日水曜日

今時の長靴


梅雨らしく雨がよく降る。
今日はミニスカートにロングブーツがよく目に付いた。どうやら流行っているらしい。なかなかおしゃれだ。早い話がゴム長、雨靴だ。都市の豪雨には雨靴が必要だ。
道路事情が発展途上であった昔、雨靴は必需品だった。
今も昔ながらの雨靴を持って入るが、電車に乗っても、まして事務所に履いていけばサマにならない。それで履く機会がない。しかし、この前の局地的豪雨に考えた、雨靴は要るなと。その点、女性のほうが自由だ。ジーンズにも合う。おしゃれで実用にもなっている。
男性用のサマになるようなゴム長ブーツも売り出されているのかなあ。

2009年6月23日火曜日

梅を漬けた


姑様、妻殿、次男と物知りである。博学というか、雑学というかよく知っている。そちらが知らなすぎるのだと言われる。それもある。しかし、訓練をしたわけでもあるまいに、昔、妻殿は予選を難なく勝ち抜いて某有名クイズ番組に出たこともある。それがどうしたと思って、後日、その予選のそのまた予選に舌きり雀のおばあさんよろしく私も出たことがあるが、歯が立たなかった。
いつも「常識」だよ、と言われるのでこちらも冷や汗モノだ。みんなが知っていることを案外知らない。だから、一応妻殿に確かめることにしている「アタシの常識」うろ覚え。

「曽我の十郎」を買い求めていたので、追熟を終えて漬け込んだ。去年やらなかったので漬け方をよく覚えていなかった。次男は梅干が苦手だったが、まさに塩が吹き出るような現場労働をするようになって、大きなおにぎりのセンターは詰まるところ梅干がよろしいということがわかるようになった。そしてときどき企画にあがる「曽我の十郎」が一番おいしいという境地になっている。その息子のために漬けることにした。出勤前の作業であたふたと。ところでなんで「南高梅」というか知っている?と妻殿。いや、というとすらすらと教えてくれる。次男も知っているとのことで、じゃあその高校名を言えということをやりとりしたことがあるらしい。

「親ばかチャンリン」で梅雨だ、明ければ、文字通り梅干しだ。マスクして出勤、沖縄「慰霊の日」。

2009年6月22日月曜日

他人のこころ


用心深い私が自分の眼鏡を初めて踏んづけてしまった。しかも、思いっきり。他人のこころでなくてよかった。

子どもたちから貰ったものを着用して戯れのポーズをとった。写真に撮ってもらって、愕然とした。写っているのは老人ではないか。

いや年相応であり、他の人に比べれば若い方なのだが、老人の域に入ったことを自覚せざるをえない。手元の字が裸眼でも見えづらい、同じことを繰り返し述べる、ふと我に返ればそういうことに気付く。

ときめくことがなくなるのだろうか。タマをとらなくなったゴロ・ニャンのように。

よし、目標!腕立て伏せ10回、前屈±0cm(あっ、これって私には精いっぱいの…)。

風邪か?のどの痛みが治まらない。鼻水。64年前、沖縄の真っ暗なガマ。

2009年6月21日日曜日

こんな感じにも


『お野菜を食べよん!』といういつもおいしそうな料理や明るい話題が満載のブログに、この間「コールラビ」、キャベツの親戚とかいう野菜を紹介してありました。

せいぞろい へんないきもの』という本に出てくる「バットフィッシュ」がひっくり返ったような感じに似ています。

「龍馬」♪


四国の「坊っちゃん劇場」で演じられたミュージカル「龍馬」を市民会館で観劇。プロは違うな、歌も踊りもビシッとしている。話し合えば、助け合えば、信じあえば、分かち合えば、ひとつ♪ 暗殺された龍馬も、虐殺された多喜二も(NHK BS11で放映「いのちの記憶~小林多喜二 二十九年の人生/北海道放送制作」)、無念だったろうに。
「こてめん堂の和帽子」を所望していたので子どもたちから贈ってもらった。併せて甚平と雪駄ももらった。 娘がケーキをつくった。息子には、お中元の注文を渡した。
夏至、明日から昼間が短くなる。
左から、おはら節を踊ったひと、岩倉具視役のひと、中岡慎太郎役のひと。

2009年6月20日土曜日

挑んだわけでありました


多少、高校時代の延長みたいな気分があって、誰かが世話役となって入学したばかりのクラスでアンケートをまとめたのでありました。あなたの「好きなタイプ」とかなんとかという主旨の質問項目がありました。配られたアンケートの中で、ある人は「主体性のある人」と答えてありました。なるほどとは考えたのですが、具体的には難しいように思えました。自分を持っている人、芯のある人かと考えられたのですが、そんな自信はなかったのであります。おつきあいしてみれば、奥行きのある人で、高嶺の花でありました。誰も射止める人はいませんでした。「私より背の高い人」というシンプルな答えがありました。「おっ、上等じゃないか」と挑む気になりました。人間の中味より、外見を条件にしているとは鼻持ちならない。門前払いなら“だめもと”、そんなことがきっかけで射止めてしまったのであります。このひねくれ根性、モノ好きがなければ、生涯結婚できなかったのかもしれません、あるいは失敗していたのかもしれなかったのであります。足のサイズが一緒なのでありまして、運動靴とTシャツは互換性があります。旅先などでは「おう、貸せ」とか、言いっこして融通しあっています。結婚して長いのですが、ときどき合宿しているのではないかと錯覚するときがある今日このごろであります。

2009年6月19日金曜日

みいけⅢ 『三池終わらない炭鉱(やま)の物語』


私はまだ小さかったが記憶にあったりするということは感受性があったのだろう。
床板を踏みたたく振動が伝わるように、三池の「何事か」は、伝わってきた。そして安保。日本中が揺れるようだった。まだ子どもで、何が起きているのか分からなかったが、ただごとではない雰囲気を覚えている。そして想いだした、少し経ってからの三井三池炭鉱の大爆発の惨事を。もう遠く、遠く過ぎ去ったことだと思っていた。炭鉱の惨事は茶飯事だったような気もするが、モノクロのスクリーンから、ただでさえ真っ黒な画面の中から悲惨な状況が伝わってきた。子ども心にも「可哀相(かわいそ)か」と胸に刻まれてはいたが、今回まで想いだすことはなかった。

学生時代、節約のために夜行列車の寝台ではなく自由席に乗った。時折、不知火海に夕日が映える。島原の山が見えるころは大牟田あたりだったのだろう。県境を越え水俣、再び県境を越えて大牟田、そして九州最後の門司と通り過ぎて行った。大きな駅にはプラットホームに、学校にあったような水道口が並んであった。座りっぱなしで行けば山口県徳山のコンビナートあたりで暗くなり、広島では真っ暗な光景だった。
そう「みなまた」、「おおむた」は私の育ったところとは地続きだった。

何やら炭鉱夫たちがお上にたてついて騒動をおこし、そして今度は大規模な災害を蒙った。げに炭鉱とは、景気はよかろうが、恐(おっと)ろしかとこという印象ばかりが残った。たぶん、おとなたちがそうささやいていたのだろう。

三池といえば労働争議、総資本対総労働の血戦、荒木栄、それらのイメージ一色であとはとくになかった。しかしながら、あらためて考えた。水俣も三池の大牟田も、私にとっては同時代のことで、しかも振動が響いてきそうな地続きのところで起きたことだった。

これまで「みなまた」であればなにがしか触れることや出遭う機会はあっても、「みいけ」は過去のことという感じで記憶の彼方だった。事実、上二人の子育て時代は同じ県内にいたが、そのころに知る三池とは、巨大な跡地にレジャーランドができて今様に脱皮したところという感じがあった。「兵(つわもの)どもが夢のあと」そんなところにできた「三井のレジャーランド」にあまり行きたいとは思わなかった。炭鉱もなにもかも過ぎ去ったことと思っていた。

(ドキュメンタリー映画「みいけ」ホームページhttp://www.cine.co.jp/miike/process.htmlより)
三池炭鉱は、福岡県大牟田市を中心に20あまりの坑口(坑内への入口)を持ち、その坑道は有明海の下に迷路のように延びていた。最も深い所では海面下600メートルにも及ぶ。石炭を掘るトンネルの先端まで、坑内電車を乗り継ぎ1時間かかることもあった。一時は、全国の石炭の4分の1を掘り出していた日本最大の炭鉱。

三池炭鉱の歴史(年表)
1469年(文明元) "燃える石"が発見される。
1873年(明治6) 国営の炭鉱となり、囚人を使った石炭の採掘が始まる。
1889年(明治22) 「三井」に払い下げられ民営になる。
1899年(明治32) 与論島(鹿児島県)から三池炭鉱への集団移住始まる。
1939年(昭和14) 炭鉱へ朝鮮人の強制連行が始まる。
1941年(昭和16) 太平洋戦争始まる。
1959~60年(昭和34~35) 約1年続いた三池炭鉱の労働争議。
1963年(昭和38) 死者458人を出した炭じん爆発事故。
1997年(平成9) 三池炭鉱閉山。


水俣も大牟田も企業城下町だった。企業に逆らうことはできなかった。運動家として覚悟や自覚があるならともかく、当地を訪ねてもよそ者として問題に触れることは避けるべき「マナー」(!?)だった。遠く離れていてこそモノが言えた、評論、傍観ができた。

「みなまた」ならともかく、いまさら「みいけ」の観があった。大方の人がそうだった。

和田さんは、これをどうしてもみんなで観たいと思ったそうだ。炭労本部での生き残りは自分をいれて二人しか存命していない、85歳になっていた。正月に実行委員会を立ち上げて、熊谷監督にも連絡をとり、メッセージをもらい、お宅を訪ね、話をうかがい、ニュースも発行した。そして、地域のメーデーの壇上で自ら訴えた。そこで私は鑑賞券を買い求めていた。

そして、当日、私たちは思い違いをして会場の公民館を間違えた。青くなって移動してようやく上映に間に合った。

涙が出てきた。ナレーション。出てくる顔。初めて目にする新労(第2組合)の人、会社の人、与論島からの移住者の二代目の人など。とくに婦人の顔、奔走したことへの回想、子育て、争議、いがみあい、闘病、家族崩壊の危機、対立。記録に出てくる子どもたちに、あのころの私が投影する。ひとのつながりがあったこと、対立と憎しみがあったこと、そしてつながりがあること、人間らしさ、くささ、みなぎるものに触れて、悲しいのではなくて、そう、こころが動いて涙が出てきた。私の生まれたところと地続きの「おおむた」を初めて知ることができたように思う。

争議でこころある人たちが職場を追われたことと、3年後の炭塵爆発事故は会社側が安全対策をとっていれば防げたはずであったことがリンクする。犠牲があまりにも大きく、遺族と一酸化炭素中毒の後遺症の残る被災者、家族の苦しみ、支えあい、被災後の必死の生き方が伝わる。おもに家族、女性が描かれる。終わってはいない「みいけ」がある。

ノスタルジアではない、町が2分されたほどのものを超えて、必死に生きるいろいろな姿に自ずと涙が出てきた。私に限ったことではないようだ。

監督の熊谷博子さんは壇上から話しかけるのでなくて、壇上に腰掛けて話させてくださいと、この映画の打ち明け話を披露された。
この秋に『負の遺産って何なのさ!炭都・三池から日本を掘る(仮題)』を光文社新書で発刊するそうだ。

◆メモ『心の貌(かたち)』柳田邦男編08.01刊 P-181より
三井三池炭塵爆発事故 63.11.9 15:10発生。
死者458人、負傷者839人 CO中毒の後遺症(脳の器質障害)
炭鉱事故には、落盤と爆発(ガス爆発と炭塵爆発)、メタンガス+火源=爆発、堆積炭塵→炭塵雲+火源=爆発
炭塵爆発は防げる(方法は①清掃による炭塵除去、②散水による炭塵の浮遊抑制、③炭塵に岩粉を散布して混ぜ爆発性を抑制)この安全対策を怠った。
原田正純『炭じん爆発―――三井三池鉱の一酸化炭素中毒』参照

2009年6月18日木曜日

雨のち曇り晴れ


 渋谷駅裏の「ビッグイシュー日本版」の販売人の方はいつも礼儀正しいのです、代金を払うまであたかも最敬礼の形で待っていますので、小銭入れから300円払うのがもどかしいのです。
 昨日は肝を冷やすことがいろいろありました。冷たく見ている人もいましたが、思わぬひとから心配してもらったりしました。事なきを得たときには思わずみんなで小さな拍手と握手をしていました。解決しなかったら、大変なことになっていました。私も少し人間ができていたようです。
 長男から宮崎のマンゴーが送られてきていました。ほかの人からスイカを先にいただいており、長男からのマンゴーも加わり、我が家は南国、気温は“梅雨寒”、気分は雨のち曇り晴れ。

渡嘉敷流琉球舞踊


 交流会をしたので「本日中」に帰り着きませんでした。

 今、どこですか?永田町です。だったら、長男か次男のところに泊まってきたら?、いや貴方のところに帰ります、ワタシには第2夫人もおりません、とかなんとか言ってほうほうの体で帰り着きました。

 町の夏の祭りは“おぎおんさあ”(「御祇園様」)と言いました、商売繁盛を祈願したのでしょう。故郷の各地の町にありました。おさな馴染みのたけちゃんのお父さんが仕切って司会もつとめました。ご近所のエンターテナーでした。幼い時はずいぶんと大きな舞台だと思っていましたが、今訪ねていけば単なるご近所の小さな公園の空き地です。楽しみが少なかったので、夏の祭りは押すな押すなの大盛況でした。裸電球が並んで、みんなが描いた紙灯篭がずらりと飾ってあって、朝顔絵、武者絵、怪獣絵、いろいろなものがありました。

 あるときの夏祭り“おぎおんさあ”で琉球舞踊のみなさんが登場しました。当時まだ本土復帰していなかった沖縄からのお客様でした。隣の県とはいえ、もの珍しく、やんやの喝采でした。あのとき、あの人たちは何故来場したのでしょうか。記憶の彼方です。

 昨夜は比嘉さんたちのお陰で、都心のあらたまった劇場で琉球舞踊を鑑賞できました。

2009年6月16日火曜日

特攻


太平洋戦争末期の今頃、地上戦の戦われていた沖縄では米軍、日本軍両方から住民が追い詰められていた時期である。守備軍は持久戦に持ち込み本土進攻をできるだけ遅らす作戦をとっていた。大本営の支援は「十死零命」の、つまり生ける命を部品にした神風特攻しかなす術はなかった。1900機余が沖縄戦に「投入」されている。「国を守るため隊員たちは勇躍大空の彼方へ飛び立っていった」か、このことにノンフィクション作家の保坂正康さんは検証を重ねた。そして断定する。「つくられた神話」である、と。

「神話」につくられ、そのことに安んじようとするが、それは事実ではなく、死地に赴いた人たち、戦場の前線にいた人たちの「思い」に通じないという。死ななくてよい平和、二度と戦わない決意とは、腹の底からの願いだったという。憲法の平和条項は非常に素直なあのときの日本人の気持ち、決意、願いであった。そこから日本の再出発があると述べる。


保坂さんは1939年(昭和14年)生まれ、戦後の46年4月「国民学校」(47年から小学校となる)にあがった。戦後民主主義教育を受けた第一世代だという。

彼は昭和史の数多くの取材を重ねた。そして戦場体験のある人たちは例外なく現憲法を肯定するという。立場の如何にかかわらず。

「パイロットは勇躍特攻機に乗って出撃して行った。」「日本軍は最後の最後まで戦って散った」という話が神話化された。玉砕、特攻、などの神話がまかり通り、軍事指導者を免責した。それは戦後社会の病理だという。

事実の問題だという。特攻とは100%死ぬ作戦。玉砕とは全員死ぬ作戦。戦陣訓では捕虜になることを許さなかった。そういう、およそ作戦とはいえない作戦、先の大戦はそういう戦争をしてきたのだ、と。

学徒出陣で特攻機の整備兵をしていた人の証言;「パイロットは勇躍、出撃したのではない、失禁をしたり気絶したり、それを無理やり正気にしてのせた」。衛生兵、軍医の証言、撤退するとき重傷重病の兵隊には口をこじ開けて「赤玉(青酸カリ)」を飲ませた。生き残ってこういう経験をした人たちの実感が現憲法であるという。「二度と戦争はいやだ。」という。

身近では、ニューギニアで死ぬような体験をした私の叔父、それを聞いた祖母の話に実感としての「二度とごめんだ」があった。「とっても、いや」は私のお姑さんだ。

日本国憲法は過去との相対のなかで生み出したもの。歴史から成り立っているという。「改正」派のいう「過去にいつまでこだわっている」「現実をみよ」というのは都合のいい言い方なのだと。

戦後一般のわれわれは武器を持ったこともなかった。保坂さんと同世代の知人のアメリカ人はベトナム戦争を戦った。ロシア人の知人はハノイでアメリカ人捕虜の尋問(拷問)を行ったことがある。みな、心になんらかの傷を負っている、「日本人はいいな」と言われたという。「日本人はいいな」で、それで済むか。「戦争を超えていく力」をつくれるかということが課せられているのではないか。

「9条は理想論か、押し付けられたのか」―――は意味が無い。後ろ向きの議論ではだめだ、と保坂さんは説いた。

2009年6月15日月曜日

なんだ!こりゃ

前の駅まで真っ暗にはなっていたが、まだ雨は降っていなかった。踏み切り2つ手前から降り始めており、駅に着き屋根のあるはずのホームに下りたときからもう濡れた。駅には人が溢れみな逡巡、それがどうしたと道路にでれば、“ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、”なんてものではなかった。駅裏のいつもの道路がまるで急流の川、側溝からは水が勢いよく噴き出している。20数年この町に住んでいるが、初めて見た光景だ。なんだ、これは。脛から下をびしょ濡れにしてようやく自転車置き場にたどり着く。乗れば、傘を差せども濡れる、行き交う車は水を大きく撥ね上げ、それをまともに浴びていっそうびしょ濡れ。ほうほうの体で坂ひとつ分高い我が家の近所に近づき、ようやく道路が単なる雨水の溢れた道路になる。それまではまるで川、どうなるかと思った。聞くところの「都市型集中豪雨」もかくやと思った。そのあと、ニュースを見ているも、そんなことはどこにも出てこない。これが東京の千代田区のどこそこであったら取り上げられたのではないかなと、ひがむ。いや、それはすごい雨と道路の状況だった。この町ではホントに初めて。

2009年6月14日日曜日

徳光すいか


「んだ」 と、
語尾をあげてでいえば東北弁でYESだ。「ん」を強く語尾をさげて「んだ!」と言えば薩摩弁で驚いたときの言葉。

薩摩半島の南あたりで「とっこう」といえば知覧、「特攻」と連想してしまいがちだが、実は「徳光」と書く、徳光神社、そして徳光すいか。徳光神社は唐芋を普及させた前田利右衛門を祭る。「徳光すいか」は知る人ぞ知る名品。そのおいしさに「んだ!も知たん」と驚嘆する。

Nさんから送ってきた。

2009年6月13日土曜日

みいけⅡ


5月21日から施行された裁判員裁判の対象事件は全国初ということでは東京地裁らしい。8月3日。実は埼玉か松江かという話もあったのだが、東京ということになったらしい。やっぱりオウベイか、いやトーキョーか。全国初の裁判員裁判は東京地裁で8月3~6日に開かれる見込みで、埼玉では初公判を8月10日に開く方向で調整中全国2番目となる可能性が高いとのことだ(産経)。最初かもしれない、それでマイクをいっぱい浴びたそうだ。ん~ん、力んだ顔をしている、力を抜くべし。信念もつべし、ひとの役に立つべし。

ドキュメンタリー映画「みいけ」の感想を夫婦ふたりで話し合った。その余韻が残る。いまさらジロー、いまさら炭鉱、いまさらロウソ、いまさらタンジン、いまさらツナガリ、この感動を伝えたい。ただ、酔った。なにが?なんの!若者に通じるらしい。東京の東中野ではカップルが来て手をつないで観たそうだ。こりゃカニコーだ。おおむた、あらお、くるめ、みなまた。ハマタヌさん、そりゃいつもほめすぎ、ありがたいけど。とにかく酔った。よったろう。にほんのあおぞら、みいけ、あったんだねぇ。ケイボー、ホッパーパイプ、コンボー、にくしみがあったんだろうけど。映画「みいけ」いいぞ。熊谷組、あっ違う熊谷さんという素敵な人が監督だ。観るべし。寝る。

 *映画を鑑賞した人の書棚に50年間眠っていたという「ホッパーパイプ」、熊谷監督にプレゼント。

2009年6月12日金曜日

駅を出てリュックから傘を出してさすのが面倒でついそのまま歩き始めてしまう。じゃあ、なんで傘をもってきたのだというそんな生き方をしているような気がする。

たいした雨でなければ傘をささずに行く。

今のように学校に置き傘はなかったように思う。急に雨が降って、待っていればほかのお母さんたちのように、働いている母が傘を持って迎えに来ることはなかった。考えたこともなかった。
帰り道が同じ方向の友達の傘に入れてもらっても、別れたら濡れて帰るしかなかった。途中から濡れるも最初から濡れるも同じだったので、いつからか、えいやっと濡れて帰るようになった。うえからしたまでびしょ濡れになってそれからどうしたのだろう。覚えていない。

たぶんその不注意から18のとき体を壊したのだろう。さすがにびしょ濡れは避ける。

使うべきときに使いもせぬ荷をいつも背負っているようにも考える。

梅雨が今年は早く明けてほしいと願う。夕日をみたいと早めの夏休みを計画したから。

2009年6月11日木曜日

魚食文化


売り場を歩いてこのところ魚の値段が安くなっているな、というのを感じていました。
魚は漁獲後、冷凍保管という形で在庫を積むことができます。その在庫がついに過多となり値崩れが始まったようです。投機の対象になっていたらしく「まぐろ」の例でそういう報道を聞きました。安くなれば、世界で魚を好んで食べるのはやはり日本人です。食べる「技術」や「感性」を持っているのは私たちでしょう。ただし混獲や乱獲で水産資源を後退させているのに変わりはありません。資源の奪い合いも起きているし買い負けもしています。

町から魚屋さんが消えて久しいです。で、あのような活気があるのは今どこかなと考えると、デパートの地下売り場かな、とあらためて思っています。スーパーマーケット(SM)の売り場ではだめだなと考えます。商品部の机上でつくった定番しか並んでいないからです。今日はどんな魚がそろっているかなという「わくわく」する魅力がないのです。価格の幅でしか売り場をつくっていません。そのこと自体は「(チェーンストアの)売り場づくり」の定石なのですが、季節の主要な魚の動向はあるにせよ自然の漁獲物で、価格幅に本来収まらないものです。ですから、活気ある鮮魚売り場がつくれないのです。本末転倒しているのです。魚のことが主であって、価格が主であれば、結局豚肉や鶏肉に負けてしまうし、せっかくの漁獲物が流通できず、挙句の果ては廃棄に等しいことがなされると聞いています。寺泊や那珂湊がどうのこうのという「専門店」も結局は同じことで、漁港の賑わいみたいなものはなく(そもそもその漁港に今は、水揚げは乏しい)、まぐろ、鮭、いか、たこなどのあれこれの定番が数多く並んでいるだけのように見えます。

いま、魚を買うならデパ地下の気の利いた売り場ではないでしょうか。いいものがそう高くはなく並んでいます。それにしても、小売の主流となったスーパーの売り場に魅力的な仕入れと販売技術がありません、だから魚離れは一層進む可能性があります。

ガソリンと一緒で投機が崩れた現象があるようですが、いずれまた高くなるでしょう。調理の腕前がある中高年層が買い支え、自ら食を楽しみつつも、次世代に繋ぐには、今がひとときのチャンスかもしれません。都市に住む人はデパ地下の気の利いた魚売り場を覗いてみたらどうでしょう。

現在漁師さんの数は20万人ぐらいで、年に1万人ぐらいずつ減っていっています。それで沖合、遠洋、輸入いずれもこころもとないのですが、いまのところ沿岸漁業は堅調だったのです。ただ、それを買い支える町の魚屋さんがいなくなって、スーパーも生活協同組合もまるで工業製品のようにしか仕入れることができません。今生きている人たちが普通に鮮魚を食べられるのはあと20年ではないかとテレビの番組で言っていたようですが、理屈からもそのように考えられます。
魚と言えば「冷凍(加工)食品」という時代になりつつあります。それだけでいいのでしょうか。

2009年6月10日水曜日

よし、フンバルフルト


私には地方に故郷がある。あまり幻想はない、つもりだ。
農家の野菜の無人販売、ほぼ100円均一。日阪さんに言わせれば「おばあちゃんの貯金箱」。あれで、馬鹿にならない。死ぬまでに300万円ぐらいは稼ぐ、葬式代は自分で稼ぐのだと。日阪さんは農家のために、家族の宿がテーマの「田舎や」の入り口に場所を提供してミニ共存共栄をしている。
4月にNさんが連れて行ってくれたのは、イチゴ栽培のハウス。品種は「さがほのか」、そのハウスの道路に面している一部分はイチゴの無人販売所。プラスチックの半透明のカーテンの向こうでは家族の人たちがイチゴのパック詰め作業に余念がない。イチゴのケースがあって見事なサイズのものが1パック350円、次のサイズが200円、少し小さなサイズでジャム用と案内してあって100円。料金箱があって、千円札や硬貨が無造作に、少なくない金銭が既に入っている。自分で計算していれて、必要であればお釣りをそこから自分でもらう。
無人販売とは信頼でしか成り立たない。「悪いことをする人はいませんよ」とNさんは言う。
私の故郷にはまだそれが残っているのだろうか。

人と人を繋げる、繋がりをつくるという役割を果たす。私たちの職場はそれでよいのではないかと「トキ」さんは、いつもの通りわかりやすくいう。「セカンドリーグ」と呼んでいる。セカンドとは三つの意味があると。ひとつは「モノ売り」から暮らし協同というもうひとつの事業だと。ひとつは、子育て、企業人としての「以外の生き方」という意味。もうひとつは、「お金」ではなくて「違う価値」というもの。そうか「二軍」ではなかったのだ、もうひとつの事業、以外の生き方、違う価値だったのか。なるほどだ。

大切なものをぶち壊してしまった社会になったという実感がある。こころある人たちはみな、そう思っている。主張を読み取ることができる。いろいろな方法、いろいろな立場で見直し、助け合おうということと繋がりの社会を取り戻そう、いや新たにつくろうという運動や活動、違う概念の「事業」がつくりだされている。それにしても「待ったなし」の社会的課題もある。逃げ出す、立ち止まる、ときどき踏ん張る。

2009年6月9日火曜日

保護色化


埋没しておきたいと思う。安楽だからだ。ただ逃げ出したいとも思う。はぐれているからだろう。普段はカメレオン化している。お追従して、なるほどと言ってうつむいている。したがって、印象は薄いだろうと考える。存在を消す。広い背中の後ろからモノを申している。
ところが、いないいないばぁをしてしまう。

2009年6月8日月曜日

ラットレースの小鼠

お昼のチャイムが鳴ればさっと席を立つ。まるで工場労働者だなと思う。
事務労働者ではあるが、システムになっていて案件がどんどん送られてきてひろっていって、個々の案件を吟味して対応をしていく。時間との闘い、件数との闘い。質を問いたいと心してはいるが、コンベアのごとく案件は次から次へと発生してくる。
大量販売をしなければ大きくなった図体は維持できない。営業本部は号令をかける、商品本部は芋づるで商品をみつけてくる。暮らし向きが苦しい、だから商品は安くなくてはならぬ、貢献せよ。安いものを大量に販売促進しなければ図体を維持できぬ。
ストアブランド(SB)の闘いになってきたという。KY(空気が読めないではなく、カカクヤスク)の世界最大のチェーンストア・ウォルマートと間接的に戦っている。国内最大のチェーンストアI社はお客様のニーズに応えていませんでしたと大げさな反省をし、更に価格を安くする。そのためにはSBだ。製造工場のラインと稼働時間をそっくりそのまま買い取れ。大型トラックを乗りつける。ロジスティックシステムを構築せよ。不採算は撤退だ。工場と生産者を囲い込め、陣取り合戦。売れないメイドインチャイナはとりあえず棚上げだ。台湾がある、タイがある。
常にトップブランドを意識せよ、それに近いものをつくれ、そして利益率を上げよ。市場にて売れているものでなければならぬ、それが支持されている証左だ。市場追随なんのためらいも無い。
歯車の中で「らしさ」をだそうと奮闘努力の甲斐も無く、全体は生き残りをかけて邁進する。
大量販売をすればするほど案件は次から次へと送られてくる。待ってくれ、売れているとは言え、問題が多い、販売促進待ってくれぇ。みんな、目標面接で刹那的な数値目標を掲げている。売り上げアップの派手な成果を挙げなければ組織の中で落ちこぼれる。そんな不安を持っている。売り上げを落とすのが恐いか、事故を起こすのが恐いか、ミニミニカジノ資本主義を日々演じている。そのために食品防御システムは構築される。
それでも地球はまわっている、組織もまわる。ゆったりと時間は流れない。地球と生き物が壊れていくのは先送りの課題、今を生きなければならない。大量生産は使い捨てと食べ残しと廃棄をしなければ成り立たない。

2009年6月7日日曜日

今日の日記


お洗濯(晴れた、はれた)、衣替え(ノーネクタイになったから首周りの合わなくなったお気に入りのYシャツがまだ使えるゾ)、お買い物(ふきを買って妻殿がこしらえ、葉も食える)、パンづくり(今日は妻殿が、お勉強からの逃避、レーズンパンに)、鉢植えの蟻退治(心は鬼)、靴磨き(何故、靴を清掃し磨かねばならなかったか!?)、自転車に油挿し・空気入れ。長男から電話、身長は何センチかと。ボーっとする、転がって本読む、お風呂、飲んで寝る。また、新聞片付けなかった、かれこれ8ヶ月分たまった、妻殿のクレーム続く。

2009年6月6日土曜日

ツレの挑戦

 贔屓目である。
 私に比べれば妻殿はリズム感も音感もある。ちなみに私は0に等しい。茶封筒があって宛先が書いてあった。妻殿が応募用紙を出した。ミュージカルに挑戦するという。ここの実行委員会はほとんど誰でも採用する。それなのにオーディションの日は出られないし、第一回目の練習の日も予定が入っている。物理的に出られない。それでもいいかと訊いたら応募してくれと言われたらしい。主催者が募集で困っているわけではない。私も生涯にそう機会のあることではないのだから、出せ出せと煽る。
「そうかな」「一度やってみたかったんだ」と言って出してしまった。知らんど。

2009年6月5日金曜日

フリーという生き方


岸川真さんが初めて小説を書いたようでいつかの朝刊に出版社の広告で載っていました。その岸川さんの著書『フリーという生き方』(岩波ジュニア新書07年6月刊)の中に、援農アルバイトで薫陶を受けた農民の方の言葉が紹介されています。以下孫引き「農業ってのは、一番の博打」「おれは20歳のころから農業している、50年だぞ50年」「それでも収穫たったの50回、まともに収穫できたのは38回、12回は台風やら虫やらなんだかんだで失敗よ」

2009年6月4日木曜日

かたいかたい、ばぁ


天安門事件から20年ということは、野良猫のトラちゃんが不慮の事故で亡くなって20年ということになる。天寿をまっとうしていたとしても、もうこの世にはいない歳月の長さだ。それほどになるのか。あの夜のこと、明け方までのこと。

今度の先生はかわいいひとよ、と言われて「ハイ、そうですか」と出て行くのもいかがなものかと多少の抵抗があった。と言いながら出て行っている。リラクゼーションヨガ。夜遅いので若い人も多い。

ストレッチ、ヨガ、ピラティス、どれもこれも私には難行苦行だ。みな、額が床につかんばかりの状態で前屈できているのに、私ひとりがぽつんと屈曲できずに鏡に映っている。寝転がり、曲げた片足を胸につけ、その足を伸ばせという、そんなこと誰ができるのかと周りを見回せば、みなピンと足が伸びている。まがりなりぐらいで、ついていってなんとか終えて、まっ、気持ちがいい。それにしても、なんでこんなに身体が硬く生まれたのだろう。おかげで頭も固い、それを自覚している。

『誰れも知らない「死刑」の裏側』(08年8月刊、近藤昭二著)によれば誤審ではないかと考えられる死刑判決事例がいくつもあげられている、しかも当然ながら死刑は執行されれば取り返しがつかない。足利事件で釈放された菅家利和さん(62)のニュースを聞いてこの本の内容を思い返した。

2009年6月3日水曜日

みなみへⅣ(大島)

「大島」といえば、妻殿は生まれ故郷の港からフェリーで行く目の前の島を言い、私にとっては阿久根の島のことだった。鹿が放たれていて殿様がこれを見にくるといって、実は幕府に隠れて密貿易をしていた島だと言い伝えられる。かように大島は各地にある。

いつだったか東京駅の大丸デパートで田中一村展をやっていた。その後このデパートは大改装をしたので5年ぐらい前のことになろうか。
この人は死後、評価された。九州各地のデパートで作品展が催されたようで、Uさんも熊本で観たことがあるとのことだった。
この人は50歳になって「みなみ」へ移住し働きながら絵を画いた。当時、国内では奄美大島が最もみなみだった。名も知られず、大島紬の染色をして糊口をつなぎ、森へはいり、峠を越え、絵のモチーフを求めた。
南国の色彩と幽玄を得た。なにか共鳴する。

まだ若かったころ兄夫婦がお土産としてくれたのが大島紬のネクタイだった。なんと地味な!と思ったが締め心地は抜群だった。求めれば安いものではなかった。なにがしかの年齢になって、えいやと買い求めるようになった。大島紬のデザインは老若に関係ない。似合うか似合わないかは、締める人の品格のせいだ。風合い、締め心地、どんな有名ブランドよりも良いと考える。

大島紬の着物は一生に一度は持つものとされ祖母も母も持っていた。また持ちもよく世代を超えて引き継がれた。上の姉も母のものを持っている。もう着る機会はなかろうに。

2009年6月2日火曜日

いとこ会


 姑様は岩手県の山中の農家に生まれた。三人姉妹の真ん中。父親は早くに他界し、女手ひとつで育てられた。女だけの家族で苦労し、悔しい思いもしたそうである。なにがくやしかったかというと、戦時中のこと。
 ひとつは家族同様の農耕馬を軍用として供出しなければならなかった経験。別れるときの悲しそうで訴えるような目が忘れられないという。言葉に出せないだけ目が語っていたらしい。そして女だけの農家で農耕馬を失うということは打撃的であった。おそらく中国戦線につれていかれたのだろう、愛馬はふたたび帰ってくることはなかった。
 もうひとつは軍事教練。今では妻殿ぐらいの背丈はめずらしく無いが、学生時代は背の高さが目立った。母親である姑様は妻殿とほぼ同じ。戦前ではかなり大柄だったと考えられる。あまり敏捷な方ではない、むしろどちらかという動きたがらないタイプ。そこを軍事教官に目をつけられ、いじめられたらしい。二十歳にも満たぬ乙女だった姑様にはとてもおぞましい思い出として残っている。戦争なんてとってもいや、という実感をいつもおもしろおかしく真剣に語る。

 妻殿の母方のいとこさん達で毎年「いとこ会」を催してきた。姑様の姉夫婦は亡くなっていない。姑様夫婦と妹である叔母夫婦が毎回出席するが高齢になったということで、今年でとりやめるらしい。今月が最後の「いとこ会」になる。

 婿である私も最後でもあるし久しぶりに参加することにした。もうあまり会うことがなくなるかもしれないから。飲み、騒ぐ人たちではない、歌う(謡う)ことの好きな東北のよきいとこたちである。

 そうしたら秋の宮の「鷹の湯」にも寄ってこよう。「JR大人の休日クラブ・パス」を買いに行こう。

2009年6月1日月曜日

みなみへ、にしへ

 たとえばつばめ。南方からやってきて二羽で巣を作る。卵をかえしてひなを育てる。ひなが巣立ち、彼らもまたいなくなる。帰るのだろう。秋が訪れる。

 仕事に就き、若いときの10年は長く感じた。その後の20数年もそろそろ長く感じる。何をなしたのだろう。あげられることと言えば、つばめと同じ。子をなし、家族をつくり巣立たせた。

ならば、かえろう。みなみへ。

 『「やめる」から始める人生経済学 』森永 卓郎 (著/単行本2004/09刊)の新書版が出て書店に並んでいた。「デフレ、アメリカ追従、成果主義、出世、仕事ひと筋、人脈づくり、残業、都会暮らし、横並び、貯金、保険、キャリア志向、自分探し…をやめる。仕事、世間、家庭、自分にしがみつかない生き方ことが、未来を生きる方法である。」という内容。

やめようか。ひがしへ。

 モノを捨てることができない、どころか、溜め込んでしまう。「もったいない、いつかは役に立つ」かといって生活空間は大事、苦しい葛藤。挙句の果ての放り出し。人が訪ねて来るとなるとあわてて避難しなければならない。ややビョーキ状態だ。

ならば、捨てよう。きたへ。

 北朝鮮が核実験だ、ミサイル試射だののせいだろうか、こちらも夜間飛行訓練を行うだのやかましい。テレビの音も聞こえない。まだ、双発の飛行機だからいいようなものの、これが4基のエンジンを搭載した大型機であれば騒音はたまらない、それが沖縄だ。

逃げ出そうか。にしへ。

 全国シンポジウムが6月28日(日)に決まった。
以下【ご案内】より、

派遣村全国シンポジウム「派遣村から見えてきたもの」を開催します!

「派遣村」全国シンポジウム「派遣村から見えてきたもの」
-今こそ労働者派遣法の抜本改正とセーフティネットの構築を-
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東京・日比谷公園で行われた「年越し派遣村」が示したのは“生存すら危うくなった労働者”の姿でした。それは、家族と一緒におせち料理を食べるという牧歌的・伝統的な日本の正月イメージに、日本社会はここまで来てしまっているという現実を対置しました。その後、全国津々浦々で同様の取組みが行われ、“生存すら危うくなった労働者”は、もはやあらゆる地域・学校・職場に、私たちのすぐ隣にいることを明らかにしました。都市部の労働者の背景には、地方の貧困がある。ワーキング・プアの前後には、貧困状態で暮らす子どもや高齢者がいる。それもまた、覆い隠しようのないことになっています。目を背け続けることは、もう限界です。ごまかそうとする人たちには、もうガマンできません。私たちは、この社会の一員として、この社会の衰退と先細りを、これ以上黙って見過ごすことはできない。各地の派遣村的な取り組みの中から、この社会を立て直すためのどのような課題が見えてきたのか、全国各地の取り組みを踏まえて、考えてみたいと思います。
【日 時】 2009年6月28日(日)13:30~17:00
【主 催】 派遣村全国シンポジウム実行委員会
【会 場】 浅草「すみだリバーサイドホール」
     東京都墨田区吾妻橋1-23-20 電話03-5608-6430
     交通 = 営団地下鉄銀座線・浅草駅、都営地下鉄浅草線・
    本所吾妻橋駅、東武伊勢崎線・浅草駅より、徒歩5分程度
【タイムスケジュール】
13:30~ 主催者あいさつ 
        小久保哲郎(大阪・弁護士)
13:40~ 派遣村からの提言「派遣村的活動の到達点と改革試案」
        湯浅誠(東京派遣村・村長)
14:10~ 政党、諸団体からのあいさつ 
14:35~ 休憩
14:50~ シンポジウム
       コーディネーター 新里宏二(宮城・弁護士)
       パネラー 藤田孝典(埼玉・NPO法人ほっとポット)
            関根秀一郎(東京派遣村・派遣ユニオン)
            森 弘典(愛知・弁護士)
15:25~ 各地の取り組み、元村民からの報告
16:50~ 閉会あいさつ
17:00   終了予定

――――お問い合わせ・ご連絡―――――――
派遣村全国シンポジウム実行委員会  
〒116-0014 東京都荒川区東日暮里1-36-10
派遣村実行委員会気付 
電話 03-3801-4867 FAX 03-6458-3670
メールアドレス hakenmura@mail.goo.ne.jp ―――――――――――――――――――――