2009年5月31日日曜日

久方の我が家での


 汗を流して気分がいいと、黒糖焼酎をふたりでいただく。私はあおる。明日は休みだと家で飲めば簡単に酔う。酔えば眠たくなり、すべてを放り出して寝てしまう。早く寝れば、夜中に起きて簡単に夜昼ひっくりかえる。そんな週末だった。久方の我が家での。

 他人様のブログへの投稿で「農業がわかるようになりたい」とは我ながら殊勝だが、やっとこさ「バケツ稲」の田植えを終えた。なんのことはないこと、木曜日に来ていた苗を。今年は出穂させたいもの。

 昨日は衣類のリサイクルショップの近くにある花屋さんで花の苗を幾つか買った、上品な御婦人が店主で私たちのことを「いつも買ってくれて」と覚えていてくださる。個人商店を大切にと言うことに反して、安さと品揃えにつられてつい大型店で買ってしまうことが多い。この間のNHK「趣味の園芸ビギナーズ」を観て、はぁ知らなかったと思った移植の仕方。そのときのうろ覚えのコツ、注意事項にそって初めてそんなことを丁寧にやってみた。長く咲きそろってくれればいい。このお店で去年買ったハイビスカスの鉢が今年はよく咲く。うれしくなる。南国の空間をつくれる。

 午前中はそれで汗をかいてそれでおわり。農業がわかるようになりたいとは遥か遠い現実。

  「田舎や」の日阪さんは言った。とにかくこちらから飛び込んで行って、そう収穫時期がよい、あのときは猫の手も借りたいときだから何がしか手伝いに行け、そうして知り合いになり教えを乞うべし。とけこめればみんな手とり足とり教えてくれるだろう、ただしみんな教え方は違う。耐えろ、十年もすればこちらのもの。実際にやってみなければわかるまい。

会長によろしく


 次男がお中元は何がいいかと携帯メールで訊いてきたらしい。お中元?どういう風の吹きまわしだ。売り上げノルマがあるんじゃないのと妻殿が斟酌する。
 長時間労働に加えて顧客と共済の拡大。父親が「もうだめだ、絶望だ、この世に神も仏ない」とわめき叫ぶ手合いであるのに、辛抱強い。それどころか成績をあげているらしい。
 こうなれば親バカだ。家の中元、全部そちらで注文する、と妻殿を通じて伝えたら、やはりありがたいらしい。それにしても大変だねぇと妻殿はつぶやく。
 日テレホームページの画像をみればなんと職場の相棒が、その次にはこれまたなんと次男の配達姿。観たよとCメール。会長によろしくと次男の返信。

 路線と体制は続く。   *今朝の食事は訳あってパイ

2009年5月29日金曜日

31回目


 僕と結婚してください、きっと幸せにしてみせます、とかなんとか言った覚えがありません。一緒になるのは自然、当たり前のような感じがしていました。ただ、一緒になるのをいつからにするかという問題だけでしたから。彼女がいるのだろう、実は、ということで職場のみなさんに「祝う会」の実行委員会をつくっていただき職場の近くのビジネスホテルで式を挙げました。映画に出てきた「さくら」さんの結婚式よりはるかにささやかな式でした。一週間の特別休暇がもらえましたから、何の予約もとらず、日本海方面へ新婚旅行に出かけました。一畑電鉄、出雲の国には美人が多かったのを覚えています。そういうことを口に出すものだから、新妻殿に「まっ」と言われました。

 給料は封を切らずに渡し、家族を食うに困らせまいとの「美学」を心に誓い、その通りにしました。それで未だに家計がどうなっているのか、どこにどれほど蓄えがあるのかないのかよく知りません。逃げられたりしたら直ちに困るでしょう。学生時代に買った70cm四方のコタツを食卓にしていました。それを囲んで家族で輪をつくり、肩をたたきあって「四人、よにん」、「六人、ろくにん」と唱和することを想像しました。四人家族は現実かなと考えていましたが、えいやっと六人家族まで実現しました。私が四人兄弟であったこともあり、家族も六人いたらうれしいなとは思っていました。今は禁煙とかお子様連れ優先とか駅のエレベーター、エスカレーターとか社会的配慮がありますが、当時はありませんでした。短かすぎた二人だけの新婚生活が過ぎ、「子沢山」の子育ては主に妻殿が、ひとくちで言うと「島原大変、肥後迷惑」でした。けれども「過ぎてしまえば♪」で、みな美しいのでしょうか。今では「叔母ちゃん、四人も産んだの、よく育てたね、尊敬しちゃう」とどの姪っ子からも言われます。「叔母殿」は忘れちゃったとか言っていますが、(どんなもんだい!)と私の方が密かに自慢しています。今はめぐりめぐって再び二人きりになりました。

 ふたりで生きていこうと思っています(そのはずですが)。
 昨日が31年目の結婚記念日。式をあげた日(同居した日や入籍した日はあれこれ違う)。そう、宗教色を排して式は「人前」という形式をとりました。「幸せにします」とみんなの前で誓ったように思います。はたしてそうしてきたのでしょうか。妻殿からは「異論、反論、オブジェクション」を喰らいそうです。いや、現に毎日喰らっています。

2009年5月28日木曜日

反省したものの

30代後半のあるとき、財布を失くした。青くなって、カード会社に電話をしたら、遺失届けが必要だと言われた。交番に行くなどして、必要な手続きをした覚えがある。
お札を曲げないタイプの財布を愛用していた。背広の内ポケットに入れて使っていた。このことがあってからは2つ折のタイプの財布にして、お尻のポケットに入れるようにした。

今日は悪夢を見たようだった。

扉が閉まる。朝S駅を過ぎるころに電車の中で、はたと気付いた。いつものお尻のポケットに財布がない。立ちっぱなしで本を読むのに夢中になっていた。後ろのポケットのボタンがかかっていない。普段、財布を入れて念のためボタンをする。忘れてきたのかなと気を取り直すが、そのうち心配になってきた。いつも無意識に財布を定位置に入れている。携帯しないことはない。掏(す)られたか!?と頭をよぎる。仮にそうならカードが心配だ。あのころカードは2枚しか持っていなかった。今は幾種類も持っている。心配が増幅する。

あのときの財布は後日出てきた。心あたりの飲み屋さんで背広からぽとりと落としたらしい。飲み屋さんでとって置いてくれて、そのときご一緒した方がわざわざ届けてくださった。無事だった。

今やあれやこれやのカードだらけだ。買い物だってカード1枚で済む。サインも暗証番号も要らない。常用のカードを除いては、そもそもどんなクレジットカードを持っていたかも定かでない。加えて、あれこれのポイントカードもあれば、会員カードも、診療カードだってある。リスクの分散を考えてもいなかった。仮に分散しても今度は不便だ。いつでも使えるために財布に入れておくのが便利という経験則になっている。いざ使おうとしてもっておらず、家に置いてきたことが少なからずあった。それで、えいやっと何もかも財布に閉じ込める。

段々、頭の中が火事場になってくる。他人による不正利用、再発行、届け、連絡・・・。

いやいや、たまたま忘れてきただけのこと。いや、出勤の際の財布携帯は習慣化しているので今日に限って持ってこなかったはずはない。電車のなかで掏られたのではないかという感じ、実はそうなのではないか。いや、やっぱり家に忘れただけのこと、あの引き出しにある。交互によぎる。

仕事に没頭する。ふと、またよぎる、万が一、と。考えないために、また仕事に没頭する、目を点にすればよい。

帰宅の電車の中で、後悔をする。身辺整理をしておくべきだった。ご入会ポイントサービス欲しさに、ネットショッピングのために言われるままにどれだけカードをつくったことか。

単なるポカ、自宅に忘れてきただけのことと念じて自転車のペダルを漕いで家路を急ぐ。

今日は生協の配達日、玄関に山ほど積んである。鍵を開けて入る。あの引き出しへ。

あった。
ありました~~~♪

妻殿へCメール。「心配かけないでよ!」との返信。
職場の相棒の携帯へ通話、「お騒がせしました」「それでぱっとやりましょう」と相棒。

文字通り現金なもの。
ついさっきまでのあれこれの反省、後悔が消えていく・・・。

身辺整理、私に必要なこと。
「今から帰ります」と妻殿からCメール。
カサにかかって迫ってくるのは目に見えている。マイリマシタと私は避難することにする。

「今日だったのですけど・・・、会合」とか携帯へ連絡が、「え~~!?今日は都合がムニャムニャ・・・」

財布、ジムのTシャツ、結婚記念日(!)、忘れ物の多い日だった。自分のことを忘れるときも来るのかな。74歳?83歳?はたまた92歳?そもそも生きているのかな。

2009年5月26日火曜日

信州信濃のお蕎麦


早く到着したので昼食をとる余裕があった。会場の大きなホテルでは俗っぽい気がして、湖の周辺に出た。道路より引っ込んだところに「こだわり」の看板、のぼり旗で「いかにも」というお店。入れば普通のお家のような玄関で茶の間のような部屋があって座敷にテーブル。蕎麦栽培から何からなにまで自家製という。今打ったばかりでお店を開けたところ。しばらく待ってという。観光地の蕎麦屋さんで、あまり期待はしなかったが、これがなかなかだった。

私は「信州信濃の蕎麦よりも」派で、あまり蕎麦はおいしいと思ったことが無い。松本に長く仕事で通ったが、本当においしいと思ったのは得意先のみなさんが連れて行ってくれた蕎麦屋さんぐらいだった。げに蕎麦の味はお店によって違うと考えた。

蕎麦好きでも、まして蕎麦通でもないが、私でもここの蕎麦はおいしいと感じた。山菜の天麩羅もまたおいしかった。苦い山菜の味がおいしいと思うようになったねぇと二人でしみじみと話す。もはや老夫婦の域だ。また機会があれば行ってみたい。

2009年5月25日月曜日

そこを支える弁護士さんたち


年越し派遣村が画期となった。問題が可視化された。

非正規労働者の立ち上がりがある、110の労組が新規にでき、いずれかの労組に約5,000人が加わった。大企業の違法な行為に告発の当事者となった。これにたいし弁護士さんたちが奮闘している。事実を提起し、直視し、現場に入り、突きつける。過酷な実態を余すことなく世の中に明らかにする。

「人々の苦難あるところに、弁護士有り」
26件の解雇反対闘争に取り組んできたことが分科会で報告された。
『非正規黒書』をつくろうと提唱された。差別と収奪という裾野の広い問題を社会に問う。現場の事実に立脚して生々しい事実を伝えよう、と。

これまでも若い弁護士さんが動いてきた。「クレ・サラ」「破産」「貧困」「生保」という言葉がとびかう。それぞれ「クレジット・サラ金問題、債務整理」、「自己破産」、貧困という生活問題全般、「生活保護申請同行」という取り組みである。さまざまな活動、実践例が発表され、「生活保護申請」のその後、その先までの支援と横の広がりと繋がることが必要であることなど課題が活発に提起された。

まだまだ、すごい実態がある。「おにぎりが食べたい」と言って餓死者までだした北九州では生活保護の申請書はくれるようにはなったが、受理しないことが続いている。ハウジングプアの実態が浮かび上がってくる。大分(キャノンがある)宮崎では賃貸住宅追い出しが猛威をふるっている。生活保護行政がまだ変わったわけではない。 弁護士さんたちの奮闘が続く。

2009年5月24日日曜日

憲法集会

不名誉ということを忌避したのではないか。
昼間霞ヶ関で会ったとき、妻殿が誤ってノ・テウさんというからムヒョンさんの名前がなかなかでてこなかった。経済が振るわず人気を落としたが、強欲な世界経済に巻き込まれた、マハティールさんのような強い性格をもっているべきだったと思う。痛ましい最期だ。ノ・ムヒョンさんも身を起こした弁護士出身だった。

地下鉄の出口から直接入ったのでわからなかったが、弁護士会館は帰路正面玄関から出ると聳えるようなビルで、官庁街にあった。図書館で偶然知って入場無料だったので参加した。もう18回目の催しだという。「昭和史における憲法九条~その今日的意義を考える~」保阪正康さんの講演、パネルディスカッションを聴講した。

松元ヒロさんは本来パントマイムが得意だ、その出し物はなかった。麻生さんのモノマネで笑わせた締めくくりに、持ちネタの「憲法くん」を披露する。このひとが、日本国憲法前文をそらんじて朗読すると、あらためて「ああこういうものなんだ」と感動する。理念への高邁さが感覚として入ってくる。それは、それはいいものだ。息子も学生時代そらんじたがぺらぺらと早口で、そらんじたことだけを感心したものだった。

パネルディスカッションで司会を務めた内田弁護士も進行のなかで随所に「前文」や「条項」をそらんじる。仕事柄とはいえ、かみしめて言われれば、なんでもない私たちの生活や生き方を憲法はさししめしてており、守っているように考えられる。そうなんだ。

『労働ダンピング』(岩波新書)の著者中野麻美さん(弁護士)はパネリストで壇上に。こんな人だったんだ。著書の通り明快な論理とはっきりした口調。何が入っているのだろうと思われる大きな黒いリュックを背負っていらっしゃいました。

さあ、今日は長野へ。第3分科会「貧困・社会保障」。

2009年5月22日金曜日

「おい、地獄さ行ぐんだで!」


駅から自転車で我が家へ向かう南の夜空は明るい。東京の方向だ。その東京・六本木から妻殿と二人で帰ってきた。金曜日の夜だ、我が町の駅に近づくにつれ酔い客が多くなる。ホームのベンチからはたと起き上がり私たちが今降りた電車に駆け込む人とすれ違う。あれは今週月曜日のアタシの姿。

エスカレーターを下ったり上ったりして6番出口をめざす。「おかあさん、反対方向は六本木ヒルズらしい」、出口をでればそこは俳優座。二人マスクをかけてJR恵比寿駅から待ち合わせ。

演劇とはすごいものだ。心と体力と発声だ。指定席が一番左の端。なんだ、こんなところからよく見えるのかと開演前は思ったが、なんの支障もなかった。平面な映画のスクリーンとは違う。

Mさんのお友達が出演、その縁で席がとれた。大枚をはたいて『蟹工船』を観劇。演劇は劇団カラーチャイルド以来。傾向は全然ちがうが、生で観るというのは迫力、すごいものを感じる、高揚する。「蟹工船」の演劇は「監督の浅川」の役どころが肝要、俳優さんがなかなかよかった。24日が千秋楽。

聞いていた通り、ガイジンさんもママさんもいる。妻殿は東京からは一刻も早く飛んで帰りたい派。そそくさと地下に潜る。多喜二だぁ。日比谷線、丸の内線を乗り継ぎ帰ってきた。

明日は弁護士会館、霞ヶ関。


~以下、日弁連のホームページの案内から引用~

「第18回憲法記念行事 昭和史における憲法九条 ~その今日的意義を考える~」
戦後日本の骨格となった憲法9条、その9条が果たしてきたこと、なしえなかったことを考え、21世紀の指針として、今後更に9条をどのように豊かなものにするかを考えます。なお、このイベントは日弁連・東京弁護士会・第一東京弁護士会・第二東京弁護士会の共催です。
日時 2009年5月23日(土)13:00~16:30(12:30開場)
場所 弁護士会館 2階講堂 クレオ
(千代田区霞が関1-1-3 地下鉄丸の内線・日比谷線・千代田線 「霞ヶ関駅」B1-b出口直結)

参加費等 入場無料・予約不要

内容

基調報告
9条の役割とその未来~戦後第一世代の責務と覚悟~
保阪 正康 氏(ノンフィクション作家・評論家)

スタンダップコメディ
「憲法くん」で全国行脚
松元 ヒロ 氏

パネルディスカッション
昭和史における憲法九条~その今日的意義を考える~
パネリスト
小林 節 氏 (慶應義塾大学法学部兼大学院法学研究科教授、弁護士)
田中 伸尚 氏 (ノンフィクション作家)
中野 麻美 氏 (弁護士、東京弁護士会会員)
保坂 正康 氏 (ノンフィクション作家、評論家)
コーディネーター
内田 雅敏 氏 (弁護士、東京弁護士会憲法問題対策センター副委員長)

2009年5月21日木曜日

爪の垢でも


 森達也さんの洒脱な著書『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』(集英社新書07年8月刊)の中(第2話「桃太郎」)にたまたま「豚インフルエンザという聞いたこともない名前の感染症が日本中に流行する」というくだりが出てくる。可笑しい。
 今朝の車内の光景は花粉症の最盛期のようなマスクマスクマースクだった。くしゃみでもしようものなら、じろりと一瞥される。私は「所構わず」のくしゃみ持ちだから、かなわない。

 ノートパソコンを買ったときに、初めてデジカメも買った。とくにどれを買いたいというものもなかったので、とっさに中田がキャラクターをしているIXYがいいかなと、ミーハ-な考えが浮かび、深く考えもせず当時日の出の勢いのキャノン製を求めた。

 そのことを2つの理由から後悔している。

 ひとつは、保証期間内にカメラが作動しなくなって買い求めたお店に修理に出したら1ヶ月ほど待たされたうえになんの説明もなくニューモデルのIXYを交換で渡された。新品を渡されたのでとっさに文句が出なかったが、どういう不具合があったのか品質保証上、説明されてしかるべきだったと考える。新品に交換すればそれで済むみたいな対応で快く思わなかった。ただ、それを追及しなかった。

 そしてふたつ目の理由は、非正規労働者への仕打ちのせいだ。

 消費者にできること「不買」、なんとかそれを実践したいのだが。今所持しているのはプリンターもインクジェットもみなキャノン製だ、からめられてしまっている。

 豊の国、大分県は九州の中にあって瀬戸内海に面している、県民は穏やかな人柄・気質の人が多いという印象がある。穏やかな人柄が商才にも長けているように考える。対岸の伊予商人ともよく比較される。

 経団連の会長でもあるキャノン会長の御手洗さんは大分の出身だということで“郷土の誇り”だった。県内に新工場を建てるにあたって、県と多くの県民は雇用拡大につながるとしてこれを歓迎し、膨大な県民税を注ぎ込み工場立地の環境を整えた。大分に知り合いは何人かいる。御手洗さんのことを批判するのはほぼタブーだった。

 今週の日曜日(5月17日)の朝10時のNHK「地方発!ぐるっと日本」という番組で「ふるさと発 おふくろ商店日記」と題した内容は秀逸だったと考える。 捏ねて手作りパンをつくった朝だった。

 NHKは大分キヤノン(大分県国東市)の工場の近くにあるお店の取材を昨年の12月から始めた。

 宮本さんというご婦人が経営するよろず商品を扱う食品店で、たまたま訪れたところ、非正規労働者が次々と宮本さんを慕って訪れてくるのに着目したためである。訪れる人は、たまたまキャノンに派遣された人、請負された人である。奄美出身の戸内さん、沖縄出身の比嘉さん、福岡県宗像出身の安倍さんらが紹介されていた。宮本さんはお客で訪れるみんなのことをまるで家族のように親身になって心配する。みな、雇い止めにあう。近所の人も「ばぁばぁは寝ちょっても心配で」と大分弁で声をかける。話を聞いてあげる、手を差し伸べる、ごくあたり前のことをしているという。比嘉さん夫婦は二人とも働かなければ食べてはいけないが男の子が生まれた。宮本さんのお店にふたりでやってきて、宮本さんは習字がうまいから子どもの「命名」を書いてほしいとたのむ。安倍さんは福岡の親元に帰っていく。戸内さんは次の就職先がなかなか決まらない、はらはらさせる。

 地域の人が支える姿が淡々と描かれる。自立への励まし。支えがあれば人は頑張れる。

 戸内さんはようやく塗装業の親方夫婦のところに面接で採用され、アパートを引っ越して行く。

 なんで、人は他人に親切にできるのだろう。つめの垢でも煎じてお偉い“郷土の誇り”氏に飲ませてあげたい。

2009年5月20日水曜日

物流講演


魚の行商のおばさんたちをめっきり見なくなった。
房総方面から青い電車を乗り継いでやって来て、早朝に池袋や新宿の駅ですれちがっていたあのおばさんたちを見かけなくなった。大きな缶のような籠を三つも四つも担いだ姿を見かけない。
笹山久三さんの小説「四万十川」(河出文庫版全5部、1991年樋口可南子さん主演で映画化)でも描かれる、主人公篤義のお母さんは遠い宇和島に魚を仕入れに行き重い荷をもってきて商いで一家を支える。
私の故郷の町も地方の中心地で北の阿久根、南の串木野の両有力漁港からおばさんたちが行商にやってきた。今はあとかたもなくなったが、宮之城線という国鉄の支線があって更に内陸部に入っていった。
海のない内陸部に魚の加工品がかつては、いやついこの間まではこういうふうに運ばれていたと考える。そして世の中は変わった。

言い足りなかったのではないか。社内では3時間の講義をするらしい、その内容を1時間半で講演せざるをえなかった。また、コストの求め方など社内ではざっくばらんに提起できるところを、社外での話であったのでその辺は意識してはずされたようだ。

「金城さん」というから沖縄のルーツかと最初思ったが、茨城の御出身。「かねしろさん」とお呼びする。JASMEQ理事会研修会で「物流」のお話を拝聴した。内容の深い話だった。これからの在り方などもっと聞きたかった。

歴史上は流通革命によって、それまでの「運送」という概念が「物流」という概念に変わり、その専門業者が誕生した。「○○屋さん」(例えば魚屋さん、八百屋さん)の流通で済んでいたものがチェーンストアの出現によってそうではなくなった。そう古い話ではない。そして不況期に新しい物流業態が生まれる。最初は大恐慌期(1929年)以降のスーパーマーケットチェーンの出現による「物流」概念の誕生、次の例が国内では第一次オイルショック期(1976年)の宅急便の誕生。そして、現在IT革命期、無店舗とインターネットになった。小売業におけるこのシェアは数パーセントの現在から、10年後には10~15パーセントに達するだろうと。それには、物流業に新しい使命が生まれ、付加価値のついたもの生まれてくるのではないかと。

2009年5月19日火曜日

行く方向

 心地よい相手とのみ付き合い、心地よい事柄だけやっていては人間としての進歩はないのだろう。やな奴、いやな事とも向かいあわなければいけない。
ただそのことによって、胃を壊したり、あまつさえ日々生じるガン細胞に負けていては元も子もない。
 俸給生活者だ、いいかげん歳もとった。
 心地よい相手と議論を交わし、経験を交流し、相手に学ぶことができるのは、すごく楽しい。つい深酒もする。血圧も膝の痛さも忘れる、世のため人のためになると信じられる事柄であれば、道には迷いながらも、それに突き進みたい。
 食うために、いやお金のためにそろそろ我慢する必要はなくなりつつある。不当な雇用条件、雇い止め、リストラにあっている人達のことを考えればぜいたくなことだ。
 新たな異見、私にとって違う体験、価値観、それらを聞いてみて腑に落ちることや、喉元ぐらいに入るものだったら、食わず嫌いをやめてみよう。さて、これまでにどのぐらい食わず嫌いをしてきたものか。一見むっつりした人、とっつきにくい人にもかわいらしい面があるものだ。闇と光、両方見る。

 それにしても飲み過ぎた。わけもわからず地下鉄に乗り込み、方向は間違っておらず、最終電車では帰って来ることができたようだ。つい先ほどまで、昨日脱いだスーツを片付けるのがうっとうしかった。反省、はんせい、「サルにでもできる」とつれあい殿はわんわん。だいたいサルに失礼だ、きゃんきゃん。わわわ。

2009年5月18日月曜日

想い出したひと

 「孫崎さんのほら、元イラクだかイラン大使のほら、なんとかというほら、新書の読書会やるから、来て」と誘われた。活動をいきいきとやってきた人達だからリタイアしても元気がいい。元は学校の先生でお付き合いすれば人間の奥と知識、経験が深い。ひとりひとりの生徒や父母に接してきた。人間まとめて「なんぼ」、「右向け右」ではない。
 『日米同盟の正体~迷走する安全保障』(講談社新書、孫崎享さん、09年3月)を取り上げるなんてトレンドだ。いきいきとやってきたといっても、活動は迫害の対象だったし、当局におもねる人もいたし、組合もひとつではなかった。だから歳をとってもみんな個性が強い。「変わり者」だ。根底に人の良さと芯がある。金持ちではない。1時間200円で借りられる地区労の2階で読み会をやって気炎をあげる。「最近の先生たちは気の毒ですね」と。

 西村さんのことを。
自転車が趣味で近所の自転車屋さんのお得意さんだった。娘さんに先立たれ、御自身も癌との闘病の末、あっという間に亡くなられた。人懐っこそうな風貌で、けらけらと笑い、人を信じて疑わないひとだった。引っ越してきたばかりの私たちへの態度もそうだった。私たちへの「お別れのあいさつ」が残されていた、死を悟りしたためられていたおだやかなものだった。先生としても活動家としても慕われていたのだろう多くの人が追悼に集まり、遺文をみなで本にして出版した。深い悲しみ、あれから十数年になるだろうか。
 ふと、想い出した。

 人はひとりひとりの「ひと」でなければならない、とそう考える。そう接したい。

2009年5月17日日曜日

感想


 「政権交代」が自己目的化しているなと考えた。これではだめだろう。
土曜日の昼はたまたま民主党の代表選の中継を観てしまった。

 戦後保守政権は反共改憲を党是としながらも擬似社会民主主義的あるいは「社会政策的」施策を営々と築き上げ「反共親米」(加藤紘一さん)を貫き通してきた。
 しかるに世界にサッチャーイズム、レーガノミックスに始まる新自由主義がはびこった。つきつめれば、資本主義の思うままの弱肉強食の再来、野獣の政策である。自民党にも台頭し、さらにその自民党からあぶれた野心家たちは民主党に集まった。経営者集団にも人間らしい志と心は舞台から消え、奥田さん御手洗さんのような浅薄な人柄がこの国の成り立ちを主導し始めた。「人」を分断し、「人」をモノにおとしめた。「二大」政党はこの人たちの算盤の手のひらの上にある。

 政権交代これは必要だろうと考える。腐敗、停滞へ緊張感をかもし出す。

 しかしながら、次の社会を提示しなくて、高速道路の無料化だの土日の千円(ETC)と変わらぬ政策のような類を提示したところで、何の代わり映えがあろう。むしろ、新自由主義的施策の推進を競っている観さえある。「政権交代」ではなくて「権力交代」を目論んでいるようにしか映らない。「ひと」というものへの「ものの見方」(哲学)で、教育論、改憲論に不気味なものをみる。

 喧嘩上手の小泉さんが「構造改革の旗手」として持ち上げた、オリックスの宮内さん、グッドウィルの折口さん、ザ・アールの奥谷さん、挙げればキリが無い(もっとオオモノがいると思う、経団連の御手洗さんは露骨な典型だが)、この列島の豊かさをまたたくまにハイエナのように貪(むさぼ)った。社会の修復を根本的に取り組まなければならない、その流れは世界に起きていると考えられる。ひとが安心して生きていけないからだ。

 「よりまし」、ではなくって「もっとまし」「より庶民的、働く側」でなくてはならない。

2009年5月16日土曜日

陽だまりの中で


 義兄が運転するワゴン車の中で、ここが馴染みの床屋さんだと姉から聞きました。

 床屋さんが髪を切るよりも髭剃りや肩もみに時間を費やすようになって私は通わなくなりました。人生、その出費がなくなり家計上の節約ができています。

 子育てを始めたころ、シンプルな電気バリカンを買いました。ナショナル製で優良な性能でした。当時、「理美容衛生商品」というカテゴリーで理容バサミや関連商品はよく売れたものです。

 子どもが幼いころはほとんどこれで済ませました。娘の髪を刈り上げ過ぎて、妻殿とアパートのご近所の奥さんたちから陰に陽に顰蹙を買いました。今でも言われます。当の娘はそのことには触れません。子ども心に傷をつけたのはまだいくつもあるかもしれません。

 下の息子たちは少年野球をやって野球部に進みました。自ら坊主にして、いつからか、私に頼らず自分自身で器用に刈るようになりました。次男などは県大会の壮行会のために髪を刈って自分の高校のイニシャルを頭につくりました。母親の手助けも借りたようですが、それは見事なものでした。

 20年ほど使いこなし、さすがに寿命が尽きたようでうまく動かなくなりました。

 私は今、妻殿に丸刈りにしてもらっています。
 2代目もやはりナショナル製を買いました。いろいろなヘアスタイルもできるというアタッチメントの付いたものでした。しかしながら、さすがに私には手遅れ、息子はいやがり、とうとうその機能は未だに使わずにいます。

 暑くなれば一番短いサイズのアタッチメントで刈り、寒くなれば二番目に短いアタッチメントで刈り上げます。最近はヘアキャッチャーに落ちる髪の毛の量も極端に少なくなりました。ほとんど後ろ髪らしいのです。このヘアキャッチャーも形状記憶品の走りで優れものでしたが、最近ようやく生協の「雑貨屋さん」で新しいものを見つけ買い替えました。企画になかなか巡りあえませんでした。

 「もう済んだの、手を抜いているんじゃないの」と妻殿へ問い質しますが、おかしさをかみ殺して「手は抜いていません」と応えます。散髪に5分もかかりません。人生のたそがれを覚えつつ、ありのままを受け容れます。おかげで人間も少しできてきつつある、ようです。

 いつの日か、陽だまりの芝生の上で、ヘアキャッチケープをしながら、散髪をしている老いた自分達を想像しています。

 「おとうさんは刈り上げるとかっこいいよ」と妻殿はフォローします。洗面台に寄って鏡を覗いてみる。苦虫をかみしめてみればいい男だ。

 義兄は目が大きくて美男子。若くして見事に禿げましたが、それで貫禄も増しました。シャイだから律儀にご近所の馴染みの理髪店に通っています。ただ、どこを刈ってもらっているのでしょう?

2009年5月15日金曜日

開封

 得意先のI さんは部長になって来春定年を迎える。昨年あたりから本格的な自転車を始めて、週末は数十キロを走行しているらしい。ほかには定年を超えてフルマラソンできる人もいるし、挑んでいる人もいる。

 少年時代に逃したものは、社会に出ても封印してきた。

 私は少年時代、自転車によく乗った。そして聞いたことはあるが行ったことのない周辺の地名を訪れた。初めて買ってもらった少年用の自転車(24インチ)は盗まれたから、家にあったオンボロの女自転車(「ママチャリ」)を乗り回した。遠い土地でパンクして途方にくれたこともある。オートバイで通りがかった高校生のお兄さんに事情を聞かれ、親切なことに家まで乗せて行ってもらった。あとから自転車屋さんと一緒に取りに行った、そんなことでも昔の自転車屋さんはよく応じてくれたものだ。
 盗まれたものが数年後に還ってきて、新たに買ってくれとは言えなかった。当時は数万円した。
 足は短い。ドロップハンドルのスポーツ車などまず足がとどかないに決まっている。さまにもならず、変則ギアなど使いこなせないに違いない。しかし、カッコイイ自転車を駆ってさっそうと風をなびかせて行く姿を夢想したことはあった。あこがれた。

 近所のリサイクル店にこの連休からマウンティンバイク26インチ24,800円、ドロップハンドルのスポーツ車26インチ45,800円が置いてある。

 少年時代に逃したものを買うお金だけは持ってはいる。

 もし、この一週間売れていなかったら、私に買ってくれということだと、密かに考えている。

2009年5月14日木曜日

夏の計画


敵もさるものだ。

「友人宅にも泊まれる」という自分で組み立てられるパックツアーは帰郷の際、安くあげられて助かる。

料金が高くなる夏休みの前に帰郷することにした。その7月22日から東京への復路の便が3万円も4万円も高い。計画してみてからわかった。

皆既日食がみられるのはトカラ列島から奄美大島の北端。九州南部でも限りなく皆既に近い部分日食が観られる。7月22日の午前中だ。

それで妻殿と話し合った。二人で6~8万円高い料金を払って留まるかどうか。金が惜しいということに決した。前の日まで本州南端の絶好地にいながら、帰ることにした。

関東で部分日食を観よう。金を貯めなければならない。先の計画がある。

2009年5月13日水曜日

岩谷堂箪笥


誕生日のプレゼント、旅行のお土産に困ることがある。
宝石、装飾品の類は一切要らないと言う。異存は無い。だから指輪のひとつもプレゼントしたことがない。とは言っても、たまには人並みにペンダント、ネックレスのひとつも買ってあげたいと思わないでもないが、ホントにありがたがらない。
その妻殿がほかに贅沢を言ったことがあるかとか言って、先日「岩谷堂箪笥」を買った。
「岩谷堂箪笥」は家具、箪笥の類では安いものではない。しかしその「岩谷堂箪笥」の中では一番安いであろうものをお買い求め。その分、パートで稼いで頑張るからと。
妻殿の実家の地方の産で、一生に一度は持ちたいとあこがれる和風家具、それが「岩谷堂箪笥」であるらしい。私は妻殿がHAPPYであれば、それでうれしい。今日うちに来た。

2009年5月12日火曜日

目がテンさんへ


笑いましょう。
自身は「♪笑いなさい」
人には「♪微笑み返し」。
どうしていますか?
また、仕事に夢虫ですか?
明日から雨降り、
威風堂々、外にでましょう。
んにゃ、また虫になっておるとですか?シゴトの。
それはねぇ、シゴトチューという害虫ですばい。
なんでも私に尋ねんシャイ。

2009年5月11日月曜日

チェンジ


昨年の「もったいないばあさん」ワールド展でのユニセフ報告だったかと思いますが、バケツ1、2杯の水を汲んで運ぶために、1日の多くの時間を費やしていること。その役割を女性、児童が負っていること。そのために学校にいけない子供たちがいることも紹介されていました。世界の貧困のひとつ、このような「南北問題」は言われて久しいことです。

お金がすべて、勝つか負けるか、負けるのが自己責任では、ヒトと世の中がこわれていくことを短時間に経験しつつあって、今そのただなかにいるように思えます。
それでなくとも新自由主義は、格差を世界中で拡げ、環境問題も、水の問題も、女性の問題も、子供の問題もその解決への取り組みを遠ざけました。そういう意味ではチェンジ、やりなおさなければなりません。

アメリカのオバマさんは核兵器についても使用した当事者の国の大統領として初めて言及しました。

シロクマ、コアラ、ペンギン、バッファロー、ジュゴン、・・・、

以下、ご案内(引用)
もったいないばあさんのワールドレポート展は気候変動、環境問題、戦争、貧困など、いま地球上で起きている問題と それに巻きこまれている世界の子どもたちの話が私たちの暮らしと どのようにつながっているのかをお伝えします。
なぜこんなことが起きているのでしょう?
これらの問題はすべて 命をまず第一に考えていたら、起きなかったものばかり。
命の大切さを伝える「もったいない」ということばと、もったいないばあさんのメッセージによって問題のつながりをまとめました。
どうすれば 皆で幸せに平和に暮らしていくことができるでしょうか?
2009年も各地を巡回展示してまいります。 
これからは、以下の日程です。
『もったいないばあさんのワールドレポート展 in SAGAMIHARA』
2009年6月21日(日)~7月5日(日)
in さがみはら環境まつり at 神奈川県・ 相模原市立環境情報センター    
『もったいないばあさんのワールドレポート展 in CHIBA』
2009年6月30日(火)~7月6日(月)
6/28 in 財団法人 日本ユニセフ協会千葉県支部5周年記念式典 at 千葉大学 & 
6/30~7/6 in グローバルフェスタ2009 at 千葉そごう
☆ 真珠まりこによるワールドレポート展トーク
2009/6/28(日)15:20~
at (財)日本ユニセフ協会千葉県支部5周年記念式典
千葉大学 けやき会館大ホール
入場無料・要申込・小学生以上対象

2009年5月10日日曜日

堤をも壊す


実家は数年前に取り壊した。そして更地にして売り払った。母が健常だったらできなかっただろう。人が住まぬに等しい町になっていた。父母が築いた戦後の財産は二束三文だった。

老いた母が住んでいたころ、畳の間はふかふかだった。白蟻にやられていた。母は駆除をしたというが、そんなだった。とくに暖かい地方では被害に遭うらしい。防除はするものだということを最近再び聞いた。

蟻を駆除している。駆除剤を撒き虐殺している。外壁の下に巣を作った、前にも駆除したが同じところに復活した。すごい。

今度はハイビスカスの鉢を上げたら、わんさかと蟻が出てきた。動転して、また蟻の虐殺を始めた。ホームセンターで求めた蟻専用の駆除剤は大容量だと考えていたら、不本意ながら使う機会が増えた。

ありのままに、自然との共生と思いながら、こういうことをやっている。

「ハカラメ」と言っていた。小笠原には普通に樹木として生育している。亜熱帯の植物で、寒さにはめっぽう弱い。はるばるいただいてきて、鉢で育てて22年になる。葉から芽が出て増殖する。すごい生命力だ。だから「葉から芽」。沖縄でも売っていたように思うが、私は「おがちゃん」と呼んでいる。ところが、昨年から葉が黒くなり、弱り始めた。最近よく観たらダニのような虫がびっしりついていた。これも駆除剤、要するに農薬だろうがホームセンターで求めていたものを使用したら、たちどころに駆除できた。気温が上がり新しい葉が育ち始めた。

農薬、なんと有用な!実感だ。おいそれとは「無農薬がいい」とはとても言えない。

立ち向かえば蟷螂の斧かなと考える。
ならば、蟻の一穴。おおきな堤をいかに崩してやろうかと考える。
浪費でしかない「大量消費」という堅固な堤のことだ。

組織の「生き残り方針」というものに、はかなく“駆除”されるだろうか。因果応報。

「おがちゃん」は元気になってよかった。

2009年5月9日土曜日

ありのままに


Uさんは我が社内で共稼ぎだ。奥さんとすれ違った。「手術は成功しました。今、松葉杖。直ったらまたテニスするってはりきっていました」「それはよかった、でも(無理するから)スポーツできない程度に回復してちょうだい」と伝えた。

こう書くのはつらいことだが主治医によれば母の症状は末期に近いらしい。随分以前に、母が大腸癌であると告げたとき、お世話になっていた市のケアマネージャーさんから老人の一般的な大腸癌の末期へ向かう症状を聞いたことがある。そういう段階にきたようだ。

かねてより家族の意思として延命治療は望まないということを施設と主治医に伝えてある。連休中、母は熱が続いたそうだ。検査をしないから主治医は何もしないように聞いた。それはないだろうと考えた。主旨が違う、解熱のような対処療法は施してほしいよねと、兄からの電話で話した。

その兄は明後日、2度目の手術をする。転移をしていて今度は肝臓だ。母をたのむということだが、それは当然で任せてくれればいいが、母のことに関する出納などの引継ぎが無い。手術への不安をもっているであろう兄へそのことをせかすのはつらいことだが連絡をした。姉たちもそのことを懸念している。

ありのままに生きる。

2009年5月8日金曜日

みなみへ(Ⅲ)

昔、休みをとって宮古島へは東京から直行便で行ったことがあります。そのときのこと、今どの辺かなと、通路の窓から下を覗いたとき目に入った緑の濃い島の印象を忘れられません。それが奄美大島でした。いつかは行ってみたいと思っていました。

奄美大島はちょうど二等辺三角形のような形をしていて底辺のところには海峡があって、加計呂麻島があります。その大島海峡の西の端に小島があって江仁屋離(えにやはなれ)といいます。そこまで船で連れて行ってもらったことがあります。海峡から外海に出ると南に大きな島が見えました。あれは何かと訊いたらあれが徳之島だと。私はもっと遠くにあるものだと思っていましたから意外さに驚きました。

島によってハブはみな違うということを瀬戸内町の郷土館の方に伺いました。ハブと島の人の気性が比例する、徳之島が一番激しいと。たしかに徳之島の伊仙町というところの町長選の激しさは有名でした。闘牛の島でもあります。行ったことはありません。

今の奄美大島の空港は北の方の西側の海にあります。いかにも珊瑚の海をつぶしてできた感じの空港のように思えます。その空港から真東に平たい島が見えます。それが喜界島です。親友のUさんは若いとき仕事でここに入り浸りになり我が社の黒糖焼酎のブランドをつくりました。モデルさんも連れて行き宣伝写真も撮ったそうです。

奄美大島、喜界島、徳之島を「道の島三島」といいます。「道の島」とは薩摩藩からの見方です。琉球へ渡るための懸け橋という意味だそうです。1609年薩摩藩は琉球王国を侵略し支配下に治め、奄美地方を直轄地とします。ちょうどそのころ中国の福建省あたりから伝わってきたさとうきび栽培を強制し、それからできる黒糖を「物成り」=税として激しい収奪をします。やがて島の稲作もつぶし、島はさながら“さとうきびのプランテーション”と化します。とくに1777年からの「惣買い入れ制」(藩による独占買占め)により島民はより一層激しい収奪にさらされます。黒糖地獄あるいは「蘇鉄地獄」といいます。台風などによってひとたび飢饉に陥れば食うものは無く、蘇鉄の実を食べて餓えをしのいだといいます。蘇鉄の実は粉にしてよくさらさなければ毒があり命を落とす危険性がありました。鉄分やカルシウムの多いものです。「私の腕の骨は太いでしょ、先祖が蘇鉄を食っていたんです」とFさんは教えてくれました。今は蘇鉄の粉はみやげものとして売っています。使いやすいもの、おいしいものではありません。幕末期、破産状態にあった藩の財政を急いで建て直すためにこの「道の島三島」で行われた厳しい収奪は黒糖地獄として鹿児島にもながく言い伝えられました。

奄美の、高い声を使い、掛け合いする民謡は哀調を帯び、引き込まれていきそうになります。また名瀬の酒場では蛇味線と太鼓で陽気に謡うこともできます。沖縄とは違う独特の良さが魅力です。

こちらの三島(さんとう)、あと二島に行ったことがありません。

2009年5月7日木曜日

『検察官』


「かあさん、不幸って続くもんだんねぇ。彼の無二の親友が亡くなったらしい」「あらぁ!?」

連休中は1時間で職場に着く、しかも座れた。
明けて我がセクションは全員揃った、時間とのたたかい。ところが、他のセクションでは続々と海外へ御出張だった。政治家のようだ。で、早速成果を聞きたいと振り返ればいない。帰国しても10日間は出社に及ばずの通達だ、おいおい。そして、当面は渡航禁止、ご時勢だ。

『検察官』(ゴーゴリー)だ。
あくまでも海外商品にしがみつく。この商品は売り上げが3億ですとか。何を言いたい。笑えない。

「おとうさん、その人ひょっとしてキヨシローといわない?」「そんな名前だったねぇ」(絶句…)。

身体がなまっていた。それでなくとも、身体はかたい、並外れている。
おまけに頭まで固い。
久しぶりに、ストレッチ。足は伸びない、開かない、「お股開いて」と先生。汗だか、冷や汗だか、たらりたらっり♪。

「ふーど」は「風土」だと思っていた、FOODだったのかぁ。てんとうむしだ。

縦線のつくり方であるので、トップの言ったことをアレンジしておればよい。新任の管理職になったみなさんの抱負。「安さと便利さ追求」異口同音。生産者と工場の囲い込みの大号令も。大量、多量に買うことによって、なびくという前提だ。

海外商品のズサンさには閉口。仕組みは非のうちどころがないのに、何でそんなに見逃すのという代物に出くわす。コストがあるから立ち往生。それで、工場点検だ、重箱の隅の裏側だと、波状的に出向く。『検察官』と相成る。

安さを求める、大量販売(消費)を求める。加工を駆使した簡単便利商品を提供することを競う。何時間分の、その製造工程を買い取ります、と。ご時勢だ。

電車は止まる、連休明けだ。

2009年5月6日水曜日

頑張れ「つがるロマン」


内地の北と南の県は半島が2つあって湾を囲む。それぞれ、東北弁のなかでも、九州弁のなかでも、訛り、イントネーションンは独特だ。近畿あたりから同心円を描けば北と南でそんな風になってしまうのではないかと勝手に想像したりしたこともあった。だから青森には多少親近感がある。

北海道でもなければ三陸でもない。水産基地としての青森港は中途半端だが、捕鯨が盛んなころは由緒ある加工工場が並んでいた。その面影だけで、水産加工は大変だ。仕事が無く、最低賃金だけでいくらでも人は集まる。日本の最低賃金とは企業が払える最低の賃金であって、労働者が食っていける最低限度ではない。食ってはいけない賃金ですら、人々は仕事を奪い合う。それをみすかしてバイヤーたちは競争をさせる。辺鄙なところはそれだけでもコストがかさむ。賃金を削るしかない。

「つがるロマン」と「ほしのゆめ」を“ゆびきりげん米(まい)”している。経済的であることとマイナーな方が好みだ。“ゆびきりげん米(まい)”は米作農家を支え、また確実にそのお米を届けていただける。ところが、二人暮しになって食べ切れなくなった。

温暖化だろうか、米作適地が北上しているのだろうか、北海道「ほしのゆめ」がおいしい。去年の作柄があるのだろうか「つがるロマン」は味を追い越されているような気がする。

2009年5月5日火曜日

子どもに格差


夜のNHKの番組で取り上げられるそうですが、「少年マガジン」「少年サンデー」は59年の創刊。二大誌でしたが、私はその後に創刊された「少年キング」の愛読者でした。63年の創刊だったらしくちょうど年代に合っていたのと、例によって「二大」などそれがどうしたというへそ曲がりのせいもありました。当時、一冊40円で既存誌より10円安かったらしい(そのうちどんどん値上がりしたと思いますが)。これがホントの理由かな。

小学生のころ小遣いは一日10円が相場でした。私は5円でしたので、母と「闘争」しました、人並みにせよと。ところが水道工事店の同級生は50円ももらっていました。50円玉といえば当時、名実ともに大きかったのです。遠足には100円もする板チョコをもってきました。明治か森永だったでしょうか。私には「板」のように見えました。

不二家のルックチョコが発売され30円ぐらいだったでしょうか、中から香りの強いセンターがとろけでてきました。そんな珍しいものを買えばガキ仲間内では「食わせろ」と手を出すのがあたり前でした。みんなに分ければ自分の分はわずかでした。私なんか不承ぶしょう、分けたものですが、その富裕な友人は頓着しませんでした。ロッテやグリコが参入したのは後だったように記憶しています。チョコレート、ひとりで死ぬほど食べたいと思っていました。

今、ドラッグストアなどで特売のロッテガーナチョコが出ていると、たまに無意識に手が出てしまいます。少年時代のあこがれがあって、つい親の仇のような行動にでてしまうことがあります。相対的にずいぶん安いものになってしまいました。

チョコレートの主な原料はカカオと砂糖などです。

砂糖は昨年の食料高騰でもあまり値上がりしませんでした。原料のひとつサトウキビは南の作物です。ブラジルの生産量がもっとも多いらしい。児童労働の例として、ブラジルのサトウキビ畑など農場での労働があげられます。

安さを支えるもの。児童労働の実態を『世界から貧しさをなくす30の方法』(合同出版06年12月刊)の最初の1項目で鈴木かずえさんがレポートしています。

カカオは「アフリカの国々にとって先進国に売ることのできる数少ない換金作物」「価格競争がきびしい商品」安く売っても利益がでるように子どもたちをもこき使う実態を示唆しています。

はるか昔の奴隷貿易の時代、そんなことがまだ行われていたのかと耳を疑うような実態が、安くて豊富なチョコレート売り場の奥にみることができます。フェアトレードチョコ(このチョコレートは、児童労働がおこなわれているカカオ農園のカカオ豆からつくられたものではありませんと保証されたもの)というムーブメントが紹介されています。ただ、私自身はフェアトレードチョコそのものをあまり買ったことがなく、大手のブランドにもフェアトレードチョコを販売してほしい、そういうことを消費者として呼びかけようと提案されています。

安さが不当であるとき、収奪と貧困が現実に横たわり、しかもそれが目に見えず、解決途上どころか引き返している現実にあるように考えます。

子供の日。
虐待のうえ死に至らしめられた子どもの報道が絶えません、やりきれない思いは私だけではないでしょう。いっぽうで、身近には両親と双方の祖父母に祝福される「王子様、お姫様のような子ども」もいます。これはこれで、この先どうなることやらと思わないでもないのですが…。
かつての小遣い銭程度の格差ではありません、それはどうにでもとりかえしのつく格差でした。いま直面しているのは、封建時代ではあるまいに、「生まれながらにして」あまりの格差社会の到来を思い知ります。
ほどほどに等しくひとは幸せに育てられるべきと、フツーに考えるのですが、いつから「現実をみていない、理想を言うな」と反論されるようになったのでしょうか。

2009年5月4日月曜日

みいけ


学生時代に金銭出納みたいなものはつけたことはあったが日記はつけたことはなかった。
三日坊主を懸念しながら、ようやくこのブログは一年目を迎えた。背中を押してもらったおかげかな。

幼いころの安保闘争をかすかに覚えている。我が町でもデモが起きたと記憶している。ニュース映画だろうか、ラジオだろうか、テレビはなかったと思うが、世の中の騒然とした雰囲気が幼児の私の肌にも伝わってきていたような気がする。父母は眉をひそめていた。

肥後や筑後の言葉は他地方の人がイメージする九州弁のような気がする、太い。比べて我が故郷の言葉は「黄色い」、早口で甲高い。筑後には九州太郎の筑後川があって、農業力も工業力も我が故郷とは段違いだった。鹿児島本線沿いの大牟田はそういうところにあった。

安保に先立って大牟田の三池炭鉱がもめていた。炭鉱夫というものへの偏見があった、また労働組合への無知、憎悪があったのだと思う。三池ではよからぬものたちが、そう炭鉱夫ふぜいが、おんなごときも、アカに煽られて騒いでいる、分限者どんに刃向かう「けすった」ひとたちと受け取られていたように思う。弱者が弱者をたたくパターン。

「ヨーロン」と呼ばれて差別されるひとたちがいた、そのことを学生時代に知った。奄美の与論島から集団移住してきて炭鉱労働に従事したひとたちのことである。

熊谷博子さんのドキュメンタリー映画「みいけ」(06年)が隣町で上映されることになった(6月13日)。実行委員会をつくり尽力する人がいる。私たちが直面する「格差・労働・家族」がここにあるとは、熊谷監督からのメッセージ。当時この争議に炭労本部として参加した和田さんが朴訥と鑑賞券の購入を訴えられた。

2009年5月3日日曜日

憲法記念日と未来


 午前中、繁盛するスーパーは買い物客でひしめき合い、ところが午後は汐が引いたようにガラガラ。このGWの昨日今日の現象。定額給付金の手続きの通知が自治体から家庭に届き始め、「定額給付金セール」のチラシや企画が目につきます。土日のETC高速料金1,000円でもレジャーの行き先が変わっているように感じます。

 政権にとってのバラマキ、目くらまし的な景気浮揚策の効果が出てきているようには思います。選挙があるからやっているだけで、つけは大きく後からまわってきます。小泉さんは郵政民営化「是か非か」で国民を熱狂か催眠術にかけ、議会の過半数はおろか憲法改正発議可能な2/3の議席を占めました。なんでもできる手段を渡してしまいました。それでなくても第2党は政権党と区別がつきません。こんなやり放題の手練手管にまたひっかかるとしたら、つけは取り返しのないことでまわってくることになりかねません。

 さて、政府が「水際作戦」で伝播をくいとめようとしているのは豚インフルですが、そもそも食料の輸入についても、この問題にしても国は検疫の体制を削ってきました。医療、福祉、介護、食料、教育など国民の生活全般にかかわる事柄が政治によって危機にさらされている一方で、ひとり軍事費は聖域にされ超然としています。そして新自由主義的政策によって国民の最低限の生活を営む権利すら危うくなってきました。身内の我が子、甥、姪っ子たちの様々に違う境遇に接していて「紙一重」「崖っぷち」「格差」を感じます。

 この閉塞感を「タモさん」現象のように軍備を一層強化せよという熱狂が一部にもてはやされつつある世情も感じます。「タモさん」を無批判にもてはやそうとするマスコミすらあります。

 競争による生き残りなどという殺伐とした社会。ゲームのなかにいるような現実。選択の余地のないぎりぎりの生活。はたらく人々が生きていけない、格差、差別で絶望的になる社会が健全だとは言えません。

 日本の憲法はその最後の条項(第99条)に「憲法尊重擁護の義務」を課しています。政府・国会・裁判所・公務員は「この憲法を尊重し擁護する義務を負う」のですが、政権は意識してこれを怠ってきたと考えます。とくにそれは今、争点になる9条平和条項、25条生存権と国の生存権保障義務条項です。政府は今日を休日にしているだけです。また、同じ「水際作戦」でも生活保護の申請を門前払いにするやり方は餓死者まで出し、「非人道」これすら感じました。

 戦力の不保持、国際的な紛争における武力行使を行わないという、世界をそうしたいと願う流れをなお一層強めて生きたいと考えるのです。みなそれぞれ生き方や好きなことは違っても、地球環境の保全とともに平和への希求なくしては生きていけないと考えるからです。9条で世界と未来へ提起をしていける、発信できると考えます。

2009年5月2日土曜日

益子春の陶器市


昨夕、下りの湘南新宿ラインを終点まで初めて乗った。混雑していてほとんど座れず、途中、ああここが蓮田か、ここが東鷺宮かと通り過ぎる。

息子が日ごろお世話になっているので姉のところへご挨拶。考えてみれば夫婦で訪れるのは久しぶり、結婚式だ、なんだかんだと外ではあってはいたが。

近くに住む姪っ子夫婦もお出迎え、婿さんとは結婚式以来、初めて。初節句を迎える初孫がかわいらしい。ちょうどペコちゃんを男の子にしたようだ。

姉は家の装飾やガーデニングにはそれなりの感性があるようだ。気の利いた器も揃えていて、品数多く食卓を飾る。うちの息子にそれ食えやれ食べろと勧め、息子もそれによく応える。義兄は親分肌でそういう姿に目を細める。夫婦二人になって、昨年リフォームした。塗り壁が独特だ。施工したのは婿殿の親の会社で、婿殿は設計をしたらしい。

川越の紙細工屋さんで求めたちょっとしゃれた張子の鯉のぼりをお祝いに。婿どのに気に入ってもらえたようだ。この婿殿は飲めない。ペコちゃんは終始ご機嫌、だがおネムには勝てない。姪っ子夫婦が帰っていく。

義兄と黒千代香で杯を交わす。サプライズ発表。義兄はさすがに会社の役員、飲み込みが早い。夜遅くまで杯を交わした。自分のアパートまで息子は歩いて帰った。

今日は益子の陶器市へ。相当の混雑と想像していたが、人出が少なかった。ETC1,000円の高速でみんなもっと遠くへ行ってしまったのだろうか。土の感じが強い陶器、陶芸品や骨董、様々なものが露店を中心に並ぶ。様々な作風があって、自由な感じを受ける。

急須があって一品だけ1,000円安い。質感が気に入って、これはなぜかと、あまり商売っ気のない売り人に訊いた。金属の茶漉しボールを入れるとふたが閉まらない、そのせいだと。もっとまけると言うから、じゃあちょうどにしておけと言ったら、それでいいと言ううので買った。煎茶ではなくてほうじ茶なんかだったらいいだろう、とも。

「大てまり」の大きな木があって花が咲いている。その下で、その苗木を売っている。買った、育ててみよう。この花を姪っ子が好きで、結婚式もこれで飾った。

そば打ち愛好家のみなさんの「下野そばの会」の出店でおそばをいただいた。素人の人たちで趣味が高じて発表会もやる。打ちたてのそばはおいしかった。義兄の知り合いのHさんは本格的な畑もやるらしい。教え方がうまいという。

明日は姪の嫁ぎ先で端午の初節句にお呼ばれという姉夫婦。地元には地元のしきたりが様々にあるらしい。お姑様と一緒にいる若いお母さんはピリッとしてくるらしい。むすめもきっとそうなるだろうと姉は言う。

頑張れ姪っ子。

2009年5月1日金曜日

菜の花


Sさんは一滴も飲めない。
GPS(ジーピーエス)は Global Positioning Systemで「全地球測位システム」のことらしい。カーナビや携帯で自分の位置を知ることができるので、世に知られる。
しかしこのことではなく、『グリーン(Green)・プラザ(Plaza)・システム(System)』といえば知る人ぞ知る株式会社。頑張っている。
この組織のひとはシステムが好きなようだ、横系列の。我が方は縦系列であると嫌われる。軍隊(旧軍)のようだとさえ言われる。
5年ぶりだった。メールでたまに挨拶のやりとりはしていたのでそんな久しぶりの感じはしなかったが。この人の経験、知識、プラン、は聞いていて腹に落ちるそして心地よい、久しぶりにまた聞いた。「私も私らしくって」と言われた。相談を持ちかけた。その地のことも期待したとおり詳しかった。現実の問題も思い知った。菜の花を復活させる、あれは夢ではなくて実現可能ではないか、オーストラリアの、その島のなんのと構えているのではなく、多量ではなくとも国産が必要ではないかと意見が一致した。それを提供する器と要求がある。
そして事業を「モノを売る」と構えるのではなく、事業は「参加する、してもらう」という組み立てが、無理が無いのでないかとの示唆も受けた。地域に根を下ろすこと、互いに持っている人との繋がりを活かすことができるのではないか、と。Sさんは私よりはまだ若く現役の大学生のお子さんがいる、身動きはとれない。かれもいずれは故郷に帰って貢献したいという人生設計をもっているらしい。その前に会社の行くべき方向のプランももっている。自分でパソコンも組み立てる腕前。うんうんとうなずいた。
Sさんはシラフ。私はまた口をすべらせたかもしれない。
菜の花が一面に咲いている、私の脳裏の原風景にある。

祝メーデー


 私の市のメーデーは夕方6時半からだ。大きな企業もあるが、支えるのは中小企業の労組だから。

 有休をとった。夜は姉のところへあいさつに出かけなければならないから隣の市の昼間のメーデーに参加した。妻殿も市民団体のスポークスマンとして壇上でアッピールした。大都市や中央系のメーデーと違って手作り系でよかった。参加者では介護士の組合のみなさんぐらいが若かったように思う。

 ホントは心の底から湧き起こる言葉のある「生きさせろ、差別するな」のインディーズ系のメーデーに参加したいというか、覗いてみたかったが。ありのままの言葉、ホントの行動。臆するのかな。
 20世紀に労働者が8時間労働制を克ちとった世界的な記念日だというのに、なんでこんなつらい人々がいる世の中に戻ったのか、いまいちど闘いの原点にいたい、加わりたい、できる範囲でも。