2009年4月30日木曜日

手術の日


私は跳んだり跳ねたり、走ったりすると、すぐネをあげる。アゴがあがる。
その私が言う、「気張らんバ!」と。今日、かかとの手術をするUさんに。

「生きるの死ぬのではない」とは、私が愚痴をこぼすときに、この人からいつも言われた言葉。

心臓と脳に活力がある限り生きていける。仮に足に不自由が残るとしてもそれと付き合って生きていくしかない。

「今週手術でしたね。気張らんバ。男の子やけん。治癒回復を祈っています。元気な姿を待っています。」
「心のこもった激励、ありがとうございます。行って参ります。予定ですと5月下旬には再会できると思います。いずれの結果になろうとも肯定的に受け止めて生き方のチェンジ!をチャンスととらえて前向きに生きていこうと思います。」

Uさんは勝ち負けにこだわる。
30代で覚えたテニスが好きで「将来はウィンブルドン」と豪語していた。地域の試合ではいかに勝ち進んでいるかということを休み明けに私に自慢するのが常だった。
どうもかかとに違和感があると訴え診てもらったら足の中が骨折して破片がカラカラとしていたらしい。それでもテニスはできたから気にもとめず、むしろ鍛え方が足りないと思ったのか更にテニスを続けたらしい。
Uさんはこちらが世の窮状を訴えるときは耳が日曜日になり、自分が窮状になると切々と訴えてくる。それでいい。4歳も年上というのは学生時代だったら「神様」である。それでなくともこの人は少林寺拳法部のキャプテンを張った。普段でも眼光が鋭い。
「突然ですが、古傷がいよいよ限界になり右足首の手術をすることになりました。最終的には足首(ヒコツ)と膝から下の脛骨をつないで固定するようですが、これでは日常動作が不自由になるので、応急処置としてじん帯剥離の治療、余分な骨を削り整えることで様子をみることになりました。まあ、じん帯が剥離していてテニスの試合や練習をしていたのでしょうがないですね。この程度で収まってよかったと思っています。」とか。
「(ひざを痛めているので)二足歩行動物であることを私も実感しています。手術がうまくいくことと早い回復を祈っています。足の不自由が仮に残るとしたら、それと一緒に生きていくということしかないのでしょう。生き方のCHANGEでしょうか。」

2009年4月29日水曜日

みなみへ(Ⅱ)


トカラ列島、漢字は読めるが書けない、実際パソコンでも簡単には入力転換もできない。どこにあるか?この島々のことは小学4年のときの社会科、郷土教育のなかで知った。しかし、これまであまり眼中にはなかった。

7月22日に皆既日食が観られるのはトカラ列島あたりらしい。
今生きている人でこれを逃せば、もう一生観ることは無いらしい。悪石島、なんとなく人聞きの悪い名前の島、断崖絶壁の島、この島あたりがポイントで6分余り観察できるらしい。本土でも部分日食は観られる。

九州の南、「南西諸島は何か規則があるかのように孤を描き、遥かに連なる」とこのブログで書いたが、トカラ列島は少し西にそれる。それで種子島屋久島でもなく、奄美諸島でもなく、より不便さもあり、あまり注目されることはなかったように考える。

行政的には「十島村(としまむら)」という。元々は、三島村とは一緒だった。上三島、下七島という、合わせて「十島村」だったが、戦後の米軍占領支配で分かれる。役場は鹿児島市内にある。役場が石垣島にある竹富町と同じだ。人の住む島、住まぬ島で構成される。北から口之島、中之島、平島、諏訪瀬島、悪石島、小宝島、宝島の有人7島と、臥蛇島、小臥蛇島、小島、上ノ根島、横当島の無人5島の、合わせて12の島々で構成される。その距離南北に160km、日本で一番長い村であるらしい。平家落人伝説、火山でできた島であるらしく温泉がある。ジャングルもガジュマルもある。そして「渡瀬ライン」がある。

鹿児島本港あるいは南の名瀬港から南下または北上で「フェリーとしま」で行くことが出来る。七島にはそれぞれ民宿(旅館も)がある。時間がたっぷりなければ行くことができない。お金もかかる。「十島村友好島民の会」に入ればいろいろな特典がある。諸氏諸君、手を携えてスローに、そう年をとらぬうちに行きたいものだ。

なお、口之島には野生化した純血種の和牛がいるらしい。

2009年4月28日火曜日

呪文から逃れる


昨日は公民館に用事があって遅く出勤した。
家の新緑がこんなにきれいだったかとあらためて見入る。前夜まで激しい風が吹き荒れ、朝は晴れ上がった。出勤途上の畑からみる富士山が一段と大きく見える。

世の中大型連休が始まったというが出勤しなければいけないので実感が無い。製造業に勤める甥っ子たちも長い休みだ。休業と言うほうが正しい。深夜に帰ってくる残業も困りものだが、残業無しや休業で収入がかなり減ったという。いや正職員だからまだいい。

「まだましだ」が呪文緊縛であろう。

広瀬隆さんの『資本主義崩壊の首謀者たち』(集英社新書、09年4月刊)で何に踊らされていたのか、何がこの事態に貶めたのかみな正体を今更ながら知りたい。平積み2列がまたたく間に売れた。この本屋さんは世相に敏感で、陳列や特設コーナーの作り方がうまい。大手書店は田母神さんの本や新書をずらりと並べている。敵をつくって勇ましいことを言う、気分はこちらの方がいい、そういう世情は繰り返す。しかし、元軍人や現役の軍人が跋扈する時代はホントに危ない。

堤未果さんと湯浅誠さんのビッグ対談『正社員が没落する-貧困スパイラルを止めろ-』(角川新書、09年3月刊)、尾木直樹さんと森永卓郎さんの対談『教育格差の真実-どこへ行くニッポン』(小学館新書08年10月刊)
題名の通り、ひとり派遣労働者、契約社員、請負労働者へのひどい仕打ちだけではない、公務員・正規職員労働者へその仕打ちが波及しつつある。

企業の生き残り、再生産、内部留保はあっても、肝心の人間・労働者の方の生き残り、家族をつくること子を育てることの「再生産」や「蓄え」の糧がない。なんのための企業、そして社会なのだということだ。今年の春闘は、賃上げはおろか、定期昇給さえも危うい。散々な結末だ。

大型連休を充分に楽しめる層と大型連休(休業)であるが故に収入の不安を考える層の格差が一層拡大する。そうなると気分は「田母神」様だ。「希望は、戦争」(赤木智弘さん)。危うい。

反貧困、たすけあえる社会、ともに生きていける社会への押し返し。

海外への軍艦の派遣をしている。バラマキ財政の反応に自信をもたげた麻生さんの本性が出ている。憲法を変える中曽根大勲位、阿部元首相のみなさんがまたうごめき始めた。

上から目線への抵抗、草の根活動、民権、平和、ねばり腰、自分たちにできるありとあらゆるやりかたで「次の社会づくり」へ向かおう。

2009年4月27日月曜日

みなみへ(Ⅰ)


竹島という。
日本海にあって韓国ともめている「竹島」ではない。その名の通り竹(リュウキュウチク)が島をすばらしく覆っている。

硫黄島という。
太平洋の激戦地、小笠原諸島の南にある「硫黄島」ではない。すこし見るとまるでミニ桜島だ。噴煙をあげている。海の色さえ変えている。「鹿ケ谷の陰謀」の首謀者、僧俊寛が島流しにされた伝説のある島はここと喜界島。 海ぶどうをつくったといって知り合いが職場を訪ねてきたことがある(海ぶどうは水槽で陸上養殖できる、地熱もあるはずだ)。

黒島という。
沖縄八重山諸島の「黒島」ではない。太平洋戦争の末期、飛び立った特攻機が不時着、島の人に助けられたこともある。

みな有人の島でそれぞれ個性がある。

三島だから「三島(みしま)」という。

九州の南、薩摩半島のすぐ南に臨む。天気のいい日には島影を臨むことができる。命の綱のように鹿児島港から航路があって、三島村フェリー「みしま」で行くことができる。

夏には天の川が美しいらしい。

これらの島々から、南西諸島は何か規則があるかのように孤を描き、遥かに連なる。日本列島は南へまだまだ長い。

「海道を行く」だが、そう行けるところではない。でも、いつか訪れてみたい。


ね。といって地図を見ながら昨夜は早く寝た。

2009年4月25日土曜日

Aさん

しめさばに骨があると、さすがに商品として具合が悪い。

それでAさんの故郷の加工屋さんのところへ乗り込んだのが、もう四半世紀も昔の話。

世はまさにバブル。当時の一部の魚の加工屋さんの社長室はディーラールームになっていた。

3K、魚の加工の現場にくる若い人はいなかった。
元気が良くて手捌きも見事なのだが、なにぶん現場に従事するご婦人たちは高齢だった。しめさばの場合、いちいち、たて骨をピンセットでとるのだが、さすがに若い人でなければ視力に無理があった。

まもなく、しめさば加工は首都圏近辺ではできなくなり九州や八戸など地方へ求めた。

魚に骨があって大変なお怒りをちょうだいする時代がきた。
わからないでもないが、わからない。
この列島の人々は魚を食べなくなる。そして食べられなくなるなと考えていたら、その通りになった。

Aさんたちが若いときに理想に燃えて起こした会社を、ついにたたんだ。Aさんはシャイな人だからそのことが恥ずかしいと思っているのかも知れない。もう連絡がとれない。

突然のAさんからの連絡;「長年、公私にわたりお世話になりまして、本当にありがとうございました。」

間に合わなかった私の返信;「私だけでなくみんな心配しておりました。大変ご苦労なさったことと拝察します。で、こういうのもなんですが、今日、破産は日常茶飯事。それよりも、まだお若い、これからどうなさるのですか?人生の折り返し。私も人生を変える準備をしています。これからおもしろくしましょう。別れのあいさつはおもしろくありません。 ね。」

2009年4月24日金曜日

集まれ出演者、スタッフ


 有明海およびその干潟は生き物の宝庫で珍しい魚や貝類がいっぱいあった。玄界灘など外海で獲れるものとは違った。福岡に住んでいたとき、ときどき魚屋や鮮魚売り場に山盛りで並んだものだ。
  「貝汁定食」は普通に北部九州のメニューだが、関東で紹介してもイメージがわかない。そのあさり、はまぐりも昔にくらべればめっきり減った。しかし資源回復の努力は生産者自身によってなされている。私もそのことを紹介することに多少努力したが道半ば配置転換になった。
 冷凍ギョーザのような事件があってさまざまなことがあったが、よく頑張った。使命についての本質的な路線の転換はないにしても。しかしここにきて無店舗供給、水産加工品(といっても冷凍パック品だが)、冷凍食品の売り上げが失速しつつある。幹部は販売促進を忘れていたからだというが、生産者の状態や気持ちを伝えなければ結局は利用につながらないと私は信じている。
 
 さて有明海の一部、諫早湾があの「ギロチン水門」によってその豊かな干潟を失って何年経つのだろう。4月14日はギロチン水門が諫早湾の命を奪った『干潟の日』と言うそうだ。
 埼玉で始まり三多摩に引き継がれた「LIVE!憲法ミュージカル2009」のテーマは『ムツゴロウ・ラプソディー」。実行委員会が立ち上がり、出演者を100人募集している。
 実行委員会のブログはこちらhttp://2009mutsugoro.blog79.fc2.com/

2009年4月23日木曜日

浜児ヶ水


浜児ヶ水、岡児ヶ水、伏目児ヶ水という地名が続く。なんと読むか?
地元のひとが言うには、昔ここを殿様が通りかかった、喉の渇いた随行の稚児さんに地元の人たちが水を与えたというのでこのへんの集落をそう呼べというようになったとか、ならないとか。
温泉通なら知っている。日本一安いというポイント。「浜児ヶ水区営温泉」。
私の手元に2001年版の『鹿児島温泉大付図鑑』(地元で頑張るローカルな出版社が発行)があって私はこの版をとても愛用している。その後、版を改訂しているのだが、私はこの編集になにか愛着がある、素朴だから。それによると、当時は入浴料60円とある。その後70円、80円となり、ついに昨年4月から100円になった。だから今でも日本一安いかどうか。この県の庶民的な立ち寄り湯の相場は200~300円である。少し有名どころの旅館・ホテルでも地元の人にそのぐらいの値段で開放している。
浜児ヶ水という集落を案内の看板に沿っていつまでも行くと結局集落の一番奥地、海の近くにやっと見つけられる。この辺の海岸は海岸段丘になっていて海の近くといっても丘の上だ。しかも護岸工事が施されていて海岸はコンクリートのかたまりだ。昔はこの海岸を降りていき砂浜を掘れば温泉に入れたという。この一帯に有名な砂蒸し温泉ができる。現にここに続く伏目海岸には砂蒸し温泉設備ができて、私は訪問のたびに愛用している。
九州の南端は2つの半島が突き出ている。東側が大隅半島。その突端は佐多岬。西側が薩摩半島。その南端の山川という地にこれらの集落はある。東南に佐多岬を臨み、西側にミニ富士山のような開門岳を臨む。海から立錐しているので高く聳えて見える。北に行けば池田湖、お茶と特攻基地跡で有名な知覧がある。
浜児ヶ水、岡児ヶ水、伏目児ヶ水、整備された田園風景が続き、自然の景観も風光明媚という字があてはまる。

2009年4月22日水曜日

宿屋の日阪さん


いやされの宿「田舎や」http://www.enakaya.com/の日阪さんに話をうかがうのは2回目。

日阪さんは埼玉の生まれ。
私には何も無い。学歴も無く、体も小さく、失うものが無い。中学を出て住み込みで東京の問屋で働いた。残業をすればカツ丼が食べられて、それがうれしくて遅くまで働いた。それがカメラ屋だった。『岸辺のアルバム』あれで感動した。仕事の大切さがわかった。自分のやっている仕事がこれほど人の役に立っているとは、仕事の大切さがわかった。やりがいのある仕事だとわかったら、居ても立ってもいられず、何も無くて独立した。さすがに親父も心配した。

全国を卸して歩いた。使い捨てカメラを100台売って6万円設けている土産物の売店に12万円儲けさせてやるといって自分も儲けた。儲けて豪邸も建てたが、デジカメの時代がきた。カメラ屋に見切りをつけ、この地を選んだ。

この場所が気に入った。えんもゆかりもないが、全国を歩いてこの地がいいと思った。空気、水、農作物、景色どれをとっても日本一だ。この「竹山」(「たけやま」という南薩摩の景勝地、202m高)を目前にする藪を買って宿屋をやろうと考えた。みんなに反対された、家族にも。ならば、単身赴任でもやろうと考えた。真っ黒になりながら老人が南国の藪を刈り、木を倒した。周りのこの地の人も狂人と思ったことだろう。

レストランにファミリーレストランがあるように、宿屋に「ファミリー宿屋」があってもよいではないか。日阪さんには日阪さんの「戦争論」と「家族論」がある。話せば、また長い。若い家族全員が安く泊まれる宿を提供したい。それで1戸建てコテージをつくり一棟一万円、家族4人連れで泊まれば1人2,500円。平日はもっと安くする。休前日、GWはきちんと高くする。

温泉地だから温泉も掘った。宿の目の前にはヘルシーランド大浴場、大露天風呂、砂蒸しがある。それがよい人にはそこに行けばよい。彼の宿の温泉は35~36度。ぬるい。これはじっくり入る。24時間掛け流し。家族みんなで入れる混浴がコンセプト。子どもが思いっきり遊べるように深さは90cmで広い浴槽。人の体温とほぼ同じ35~36度は「不惑泉」というらしい。肌一枚で、湯と身体が同じ温度になる。空気と同じように「湯であるのか身体であるのかわからぬ」ようになるらしい。彼の理屈はそのまま宣伝コピーだ、営業も玄人だ。この湯ともうひとつは源泉の沸かし湯(42度)の深さ60cmの浴槽もある。出入り口の重い引き戸が開けてあるときは入ってよい合図。脱衣場には不惑湯の能書きが書いてある。

家族・夫婦は裸で付き合え、子どもは伸び伸びさせろ。

なお、「浴場施設」ではないので石けん、シャンプー、リンスは使えない。「まっ、楽しんでいってください」と。

宿屋をやるからとカメラ販売の会社と自宅など不動産を担保に億の借金をしたらしい。そして、「返せない」と当の銀行に乗り込んでいって頼み込み、このような持論を展開したらしい。売れなくなった不動産物件の担保と借金の釣り合いがとれているようだ。この経済環境のなかで「貸しはがし」にはあっていないらしい。

こんな自己主張の強い男になった以上「120まで生きざるをえない。」
生まれることは自分で決められない。死ぬことはねぇ、自分で決めさせてくれと念じている。私の借金の返済は120までかかるから、120まで生きることに決めた。だからこの歳(73)で次の人生のスケジュールができるんだ。

ここの人たちは遊びが好きだ。この地でカメラを卸して一緒に儲けた金でみんなと遊んで振舞った。当地では「いい人」だという評価をつくり人脈をつくった。億単位の借金をもっているが、生活は年金だけで暮らせる。

日坂さんのビジョンはまだまだ大きい。話は尽きない。


*『岸辺のアルバム』(きしべのアルバム)は、1977年6月24日から9月30日まで放送された東京放送のテレビドラマ。原作・脚本は山田太一。1974年の多摩川水害が背景にある。この水害で多摩川の堤防が決壊し、19棟の家屋が崩壊・流出したが、家を失った事のほかに家族のアルバムを失った事が大変ショックであったという被災者の話を山田が聞き、そこからドラマの構想が生まれた。-以上『ウィキペディア』より引用

2009年4月21日火曜日

モノ豊かな生活


 20数年前だった。箱根のホテルに詰めこまれペガサス理論を叩き込まれた。そのときのチェーンストア理論の完成イメージが私には今のユニクロの姿だと想像できた。フィットするデザインやサイズをいくつも揃ったカラーの中から選ぶことができリーズナブルな価格で買える。豊富な品揃え、心地よい、美しい消費という。
 主宰者の渥美氏が示唆した供給源(ソース)の可能性は、当時香港だった。日本には無いさまざまな染料や繊維、プラスチック加工、あらゆる分業された家内工業が可能であると。スペシャリストとワーカーの仕組み、アウトソーシングそこにおけるサプライヤーとの結びつきあるいは配置の仕組み。
 今、ワーカーは流動可能で不安定な無権利労働者へとなりつつある。「モノが安くなる仕組み」にはさらに都合のよい労働力が生じてきている。アウトソーシングは中国、東南アジア、インドに根を張った。児童労働すらありうる。「グローバル化」というアメリカ化。スペシャリストや時流にのった経営者には巨万の富が集中する。そして人々はモノが豊かな選択肢の中に暮らしていると見間違う。
 軍隊には靴が必要だ。かつて日本の靴メーカーも国策に沿った会社だった。庶民の履物が部落産業に負っていたのとは対照的に。靴の製造はそれなりに複雑な工程を経る。部品と労働の集約型商品でかつ熟練が必要だった。熟練と言えば、大昔、私は工場生産を直に見たことがあるが、どの工程もそれは芸術のような見事な捌き方で驚嘆したことを覚えている。必需品で消耗品ではあるが、サイズ、色、型、流行があって製造にも販売にもコストがかかった。たくさんの人手がなければ経営は儲からなかったので一番にアウトソーシングした。久留米に2大メーカーはあり、まずは没落した周辺の炭鉱地帯に下請けを移した。そして韓国に移した。それからはインドネシア、そして開放政策のとられた中国へ。安い人件費を求めて。技術、生産の海外移転、国内空洞化の走りだったように感じている。そして当の国内の製造ブランドは没落し、今はスポーツ用品ブランドが靴といえば有名ブランドになって世界を席巻している。
 チェーンストアの仕組みづくり・スキルがあればモノづくりメーカーではなくても、確立したブランドで生産と販売を支配できる。消費者はTPOに合わせて心地よく美しく消費する。ただし物言わぬ低賃金労働(ワーカー)が無ければ成り立たぬ。
 衣料品のユニクロは欧米進出を経て、ついに生産国である中国で本格展開する。低賃金で作られる産物が日米と同じように格差社会をひた走る中国その地で消費される。
 安くて豊かなモノに囲まれそして多くの人々が幸せではない。

2009年4月19日日曜日

新緑


この間までは「長生きしてよ、百歳まで生きんば」は半分冗談、励ましだった。

姉夫婦が母のところを訪ねている。昨夜は、血行障害が起きている足をさすってあげたらしい。今日は天気がよく、車椅子で連れ出して施設を一周したらしい。とても喜んで野ばらの香りが母の脳を少し刺激したようで嬉しそうとのこと。気晴らしをさせたようだ。写メールが届く。

元気なころの母は、心配の種を自分でわざわざ探しているような性格で一緒にいても気が重くなることがあった。今はすっかりぼけてしまった。ぼけ方は、まだら模様で、今日は名前がでてきても明日はわからない。妻や姪っ子には「べっぴんさん」、婿どのには「よかにせどん」、話を交わせば「幸せの絶頂だ」、好物の甘いもの、季節の果物には「舌がちぎれそうだ」と繰り返す。ただし、ぼけていても漢字はきちんと読める「正七位に叙す」とか。

我が家はさつきが咲き、新緑が目には青葉だ。さわやかな気候だ。函館と女川の知人に予約で故郷の新茶の手配をしてある。気分はよいが、また明日からの仕事が小さい事にみえる。

97、98、を乗り切れば、白寿、そして百歳を迎えさせたいと考えるようになった。さらに症状が進むだろうか。なんとか添い遂げられたらと算段を考える。

2009年4月14日火曜日

読むべし


 平日にもかかわらず、夜だったから参加できた。市内の公民館の小さな一室で湯浅誠さんの講演を聞いて目から鱗が落ちた。90分、大学での講義以来だがまったく長く感じられなかった。10数人程度この参加者では実にもったいないと考えた。それが昨年の出遭いで最初の深い印象である。つい引き込まれるようなその語り口の通りに、わかりやすく書いてある。
 
 著作『あなたにもできる!本当に困った人のための生活保護申請マニュアル』(同文館出版、05年8月12日初版、1200円+税)。私は法律とか規定とか商品の「取説」なんぞにほとんど興味がない。その私ですら読める。それはそうだ路上生活者など生活困窮者のために書いた易しくてそして優しい本だ。ずっと以前に長男も講演を聞いてこの本にサインをもらっていたそうだ。最近知った。湯浅さんの手強さ、特徴は“活動家”をめざすという実践力だ。長男のようなこういうことを専門にする分野の人ですらこの本は重宝するそうだ。
 花をみるべし、格差・差別に立ち向かうべし

じゃあね


我ら老い易く、光陰矢のごとし、田園に居つくべし

日曜日の深夜眠っていて足が突然つる。こむらがえし。妻殿を起こして足をひっぱってもらう。なかなか収まらなかった。2時半だった。ふくらはぎが硬直し湿布をする。検索するといろいろな要因があるようだが、降圧剤の副作用によることもあるらしい。突然のこむらがえしは恐怖だ。いずれにしても右足に異常が起きる、弱点があるようだ。

日曜日の夜は長男夫婦を招いて我家2回目の花見会。娘も参加。花桃もすっかり新緑が出てきた。もみじもあっという間に新緑だ、夏は近い。別れにはなるが、話は明るい未来。少しバラ色になりすぎたが、未来志向。あまり飲めぬ息子もこの焼酎うまいねと。ビールも焼酎も進む。娘もいけるクチ。飲んでしまえば、駅まで車で送っていけない。玄関で「じゃあね」と。

ちょうど農に関ることや田舎暮らし関係の本を読んでいるところだった。「ジャーネの法則」(フランスの心理学者)によれば“60歳の年齢は10歳のころより6倍のスピードですぎていく”らしい。ボケは静かに忍び寄ってくる。ボケよりも先をいく未来志向。過去を耽っているヒマはない。今やることを持っていること、70、80で苦労をし、90歳代で花を咲かす生き方を目指せとか。そういうことから言えば、私は無限ではないが若い。経験はおろか知識もないが中島紀一さん(茨城大学農学部長)の「農業では若造です」という言葉を思い出す。じゃあね。

2009年4月9日木曜日

奄美のFさん


 「Fさんは60を越えて女に走ったらしい」

 数年前に夫婦で初めて訪れたときはそういうことも知らずにFさんとその女性にお会いした。後日、Fさんが捨てた実質自分の会社の後継者Sさんから「実は・・・」ということで聞いて驚いた。

 Fさんは1942年(昭和17年)生まれ、今67歳だ。8人兄弟の下から何番目、食えぬ経験をしている。この島のひとはどういう伝手(つて)か、神戸や川崎に出て行くひとが多い。Fさんは中学を出て川崎あたりで苦労の末、いつしか公共事業を請け負う会社を興した。軌道に乗ったその会社を弟に譲り、Sさんを連れて新たに食品の卸会社を立ち上げた。故郷の有力者の従兄弟から頼まれたらしい、町を挙げて復活させた「さとうきび酢」の普及再建に乗り出した。どういう営業力かあるいは政治力か、マスコミにも取り上げられ健康にもよいと一時期ブームをも巻き起こし、特産品に押し上げた。確かにストーリーの描ける商品である。
 
 事情がいまひとつわからないがケンカ別れのようにして、この会社は今ではSさんが継いでいる。Sさんは実務的商才があるようだ。譬えれば周恩来だ。Sさんは若いとき劇団にもいたことのあるヤメ役者だそうだ。
 
 Fさんはだから毛沢東で、旗揚げ者で破壊者でもある、どうもご婦人が好きなのだろう、勝手な想像である。あまりお金がないことを気にしない。無いお金を使うことも気にしない。

 仕事上でつきあいが始まったのに無料の航空券をよこそうとしたので、やんわりと「馬鹿にするのでない」ときつい内容で責めたから、逆に心が通うようになった。大先輩だがジャブを放てる。
 
 今を捨てて、未来に生きる、聞いているとほとんど大法螺だ。Fさんの大ロマン、大法螺が好きだ。だが破茶目茶なようで確実に実践していることに気付く。
 
 克てて加えて元国立大学大学院教授のMさんが登場する。耳がやや不自由になられたらしく人の話は聞かない、大声でお説をぶたれる。学者さんに理屈では敵わない。大酒呑みの好々爺。大ロマンのブレーンだ。大法螺を理屈づける。
 地元では町長が代わって逆風。かつての自分の会社を敵にまわし、JAも向こうにまわしているのではないかと推測する。どこ吹く風のようだ。
 
 藪に見えた耕作放棄地のさとうきび畑を再生させて数年経つ。ハブが何匹も出てきたそうだ。さとうきびは台風災害に強いようにと何年もかけて改良されつづけてきた。その品種ではなく、味が深い昔ながらの品種を一部復活させた。「大茎種」と聞く。黒糖もこさえて、出来立てを送っていただき、感想を聞かれた。なんでもそうだが産地で出来立てを食味するとおいしい。シンプルなものほどそうだ。粋なデザインの包材だ。このひとにはその方面の感性の良さを感じる。多量生産ではないから特定の顧客を獲得すれば足りる。
 
 それをこのたび、いよいよ「さとうきび酢」作りに入るらしい。M元教授がお出ましだ。甕は常滑焼きで調達したらしい。さらにもう一歩伝統の復活、在来品種。加計呂間島の対岸で、これにかける。「さとうきび酢」の文化大革命だ。
 
 Fさんは酒を一滴も飲めない、甘党だ。先日私の贔屓の「のせどん」から名物の「軽羹」を送った。返礼で近況報告の内容が以上のようなことだった。Fさんとはすっかり友達になったHさんからあの人とは別れたらしいと年末に聞いた。さすがにこの話はできない。
 
 今月下旬に仕込みに入る。ホントは飛んで行きたい。奄美の蘇鉄。

2009年4月8日水曜日

お湯がいい


 かつて母は元気な独居老人として市のケアマネージャーさんたちの「注目の的」だった。身体を衰えさせないために自覚してよく歩きまわったからとくに目立ったようだ。そしてよく転んだ。独居がおぼつかなくなるようになってから、兄弟手分けして故郷に帰るようになった、それでも長男の責任からか兄は努めてよく帰り母に付き添った。兄も姉も60を過ぎても働いたから、さほど自由には帰れなかった。兄は資格をもっているから70を過ぎても働いている、そして病に冒された。
 私はどうせなら近隣の温泉宿に泊まろうということを始めた。それでわかった。我が故郷は温泉天国だった。歴史は古く由緒は正しい。
 町からバスが出ていたが、その昔はガタガタ道を遥か遠く山の方に行くようで、ひどい車酔いをする若いころの私には恐怖の行程だった。
 今では空港でレンタカー。あれほど遠いところだと思っていた温泉地がすぐ近くではないか。
 掛け流しは当たり前。むしろ捨てるようにお湯は湧き出ている。総じてアルカリ泉、つるつるしている。入れば肌を包み込むような感じだ。髭剃り後もローションは要らない。そしてもちろん全てのお湯が違う。その宿によっても個性が異なる。それが故に老舗の宿もいまだに続いている。
 レトロを感じさせる「高城(たき)温泉」、母方の父祖発祥の地。田園地帯にある「市比野(いちひの)温泉」、一時期は歓楽地として名を馳せた。県都から裏道の山を越えて一時間“奥座敷”として男どもが何をしていたか女の噂にのぼった。情報通の叔母の口にかかれば眉をしかめて尾ひれが舞う。再びさびれた。もともとは殿様も入りにきたという由緒ある土地柄。今はビジネス客の誘致も含めて営業努力をしている。母のホームが近いのでよくここに逗留する。「紫尾(しび)温泉」はやや奥地、いのししや鹿の肉を出す。ここら一帯は大昔、修験者たちの工房のあったところだ、中世の宇佐八幡などの分社とお寺の分院があり神仏習合がみてとれる。
 私たち町の人間には田舎の馴染みの保養地だった。だから母も叔母も老舗の名前はすらすらと言えた、「梅屋」「松屋」「みどり屋」「八重山荘」云々。今は今様に変貌を遂げた旅館、ホテルが繁盛してはいるが。
 田園地帯の中にあって、あるいは山腹にあって農家のひとびとの農閑期の楽しみであったことだろう。
 なにしろお湯がいい。伊達に何百年も続いていない。保証する。
 
 <画像は子供たちの母校の小学校>

2009年4月7日火曜日

居場所、寝所


 一万数千名の応募があって70名の採用があったそうだ。「寄らば大樹の陰」若者にこの傾向が強くなっているのだろう。恐怖の労働市場だ。同じような服を着て同じような態度で就職活動をしていることだろう。私には「歩くマクドナルド」(就活マニュアル人間)かあるいは逆に「歩くM1もどき」(芝居地味て個性を強調する)に見えてしまう。

 私とて自ら居場所、寝所をつくることをしてこなかったような気がする。大樹の中ではそんなことをしたくはなかったが、大樹を離れなかった。私自身のバリアは解けるだろうか。

 Nさんとは2回目だ。最初は私から偶然飛び込んだ。笑われた、みんな、そうおっしゃいます、と。相手にされなかったのだなと考えていたら、こんどはいきなりNさんの方からお便りをいただいた。あまりの好条件に詐欺ではないかと疑った。その間、偶然Nさんの話にでてきた日阪さんとも話がうかがえるようになった。

 どういうわけか私を最初は自由人と思ったらしい。
あなたがそういうところにお勤めならば、ぜひここの農産物を全国に紹介してください。

 ここの農産物はおいしいのです。Mくんもあなたたちの仲間のところに出荷しているようですよ。農家の人たちはとにかくそういうルートがほしいと思っていると思いますよ。私はできないけれど、紹介はいくらでもできる。

 見てまわった限りでは、耕作放棄地や集落における無人家は見受けられなかった。後継者もいるところにはいるらしい。

 Nさん、あれは2代目でお人好しだ。だが、信用はできるよ、とは日阪さんの評。保証人で借金はかぶったようだ。ずいぶん年上かと思っていたら、来年還暦、少し先輩なだけだった。

 ここに住んで、とけこんで、集荷場でもつくって全国に流してください。農業が大事です。農民は待っていますよ。

 さつまいも発祥の地。琉球から山川港(写真)に上陸した甘藷はこの地で栽培に成功した、その人の名は、現在地元の焼酎の銘柄として残っている。「甘藷翁」として奉られる前田利右衛門のこと。この甘藷は当地では「唐芋(からいも、かいも)」と呼び、全国に普及して「さつまいも」となった。かぼちゃ、大根、にんじん、たまねぎ、レタス、そらまめ、いちご、すいか、なんでもできる。ご多分に漏れず、収穫はしたが出荷されずに畑に放棄された作物は散見される。屈強そうな中年、若者の男性もみられるが、基本的には老人が支えている。世が世ならほんとにさつまいもと畜産しかなかった。広域潅漑事業とやらで変わった、豊かな圃場地帯がひろがる。聞けばよく遊びもするらしい、南国人の気風があるようだ。

 <指宿側から山川港を望む、大隈半島からのフェリーが到着>

2009年4月6日月曜日

自分の運命


 先週末は本土の南端にいたのに暖房が必要だった。だが、桜は散り始めていた。帰って来てモノレールから見る東京の光景は桜が満開だった。

 日頃、あと何回桜を観られると思うのか、働き尽くめではなく生きられないのかといった趣旨の憎まれ口を兄にはきいていた。検査入院とは聞いていたが、いきなり、転移していた肺をとった、それで退院し一月後には今度は肝臓の手術だと、帰省先の旅館でメールを受け取った。「お母さんをお願いします」とも。 ただ、まじめに働くことだけしか能のない小さい人間にどうしてこんなことが降りかかってくるのだろう。 、、、たまらない。

 この時期の本土南端の茶畑は美しい。くねくねしたスカイラインを抜けて、有料道路よりりっぱな広域農道に出れば、鮮やかな薄グリーンの色が広がる。新芽、新茶の季節だなと直感でわかる。その通り滞在中の4日土曜日には例年よりずっと早く新茶が上場された。量が多かったらしく価格は暴落した、気の毒だ。滞在中に新茶を求めて人に贈りたいなと思い翌日故郷のデパートに行ったが、店頭にはまだ並ばなかった。薩摩半島南部のお茶はおいしい。手入れが行き届き、ものが違う。

 母さんのことは以降、まかせてほしい、治療養生に専念してほしいと答えた。「医者に自分の身体を任せるのではなく、自分の身体は自分で直すしかない」とかなんとか受け売りの励ましをする。

 予約のとき帰りの日曜日はスカイネット航空という便しか空いていなかった。乗ったことの無い便に乗った。モニターテレビも無ければイヤホーンもない。シンプルだ、それでよい。たまたま、非常口座席だったのでスチュワーデスさんに緊急非常時は脱出の援助を要請された。「よっしゃ、まかしとけ」とガッツポーズで受け答える。そうだひとの役に立つことだ。乗務員が非常口を開ける間、他の客を制止することとか、つまり「皆の衆、あわてるんじゃねぇ、お待ちなせぇ」という役割だと想像した。他の客の脱出を助け見届けた上で自分は最後の方で脱出する、かっこいい、粋ではないかと膨らんだ。よっしゃ、まかしとけ。自分の運命も自分で変えよう、と考えた。
 <画像は鹿児島県知覧辺りの茶畑>

2009年4月5日日曜日

県産パパイヤ

 故郷にはデパートがある。それだけで他の町とは格が違うと思っていた。我が県ではここの包装紙の権威は絶大だった。上の姉も独身時代に勤めていた。外商ではよい成績をおさめたらしい。 
 街はさびれたが、まだ健在だ。その食品売り場でなんと県産のパパイヤが売っていた。沖縄料理で使われるあの素材だ。1個250円、ちと重そうだったが妻殿もじゃあやってみるかと姿勢を示しめしてくれたのではるばると持ち帰った。他には地鶏手羽元(鶏刺しに使った手羽元らしい)、鶏炭火焼。娘を呼んで食べた

2009年4月2日木曜日

長寿越え


ひと月前の母の誕生日に立ち会った兄からのメール内容。
 母の実家は長寿の家系。その一番の長寿が母の“ひいおじいさん”で97歳だったそうだ。私も最近聞いたことがある。母の家は宗家で長男相続だろうから母の曽祖父は江戸時代(1830年代か)の生まれだと考えられる。そして曾孫である母と同時代を生きていると考えられる。
 認知症が進んだ母だが、誕生祝いで「97歳を越えたのね」と何回も兄に訊いて、「やったぁ」とばんざいして喜んでいたそうだ。次ぎは白寿、そして百歳だ。その母にようやくまた会いに行く。

2009年4月1日水曜日

美人論

馬が合うというのは似たものどうしなのだろうか。当の本人はそう思っていないことがある、突き詰めれば似たものどうしなのかもしれない。共通するもの通底のものがある。
美しい人には縁があるが、美人には縁がない。えてして性格が悪いので近寄らない。美しいと思う人は性格がよい。姿勢が潔い。心が動く人である。
「美しいね」と常に話しかける。「どこが」と続ける。だから「どこが美しいのよ」と問い返される。美しいではないかと答え返す。いったい何年続けているのだろう。
金さえあれば手に入る。この世は春だ。人は微笑み、傅(かしず)く。では、いくらあればいいのだろう。いくらでもだ。美人は近づく、西太后だ。
さあ、新書読むぞ。