2009年1月31日土曜日

昼の講演、夜の公演

 雨があがってよかった。

 ちょうど今ぐらいのころではなかったろうか。「本官は転属になりました」「はぁ?」10年以上も前のことだ。診療が終わりかけたころそう言われた。そういえばここは防衛医大付属、昔風に言えば相手は軍医様。転勤とはいわないんだ。それでどちらですか。広島です。広島にもあるのですか。これは愚問だった、相手は国家機関だ。お世話になりました、お元気で。その若い医官は親身になって診てくれたような気がして名残惜しかった。

 「ご卒業なさっても、決して戦禍の中ではなく、平和な社会の中でそのすばらしい演奏を続けてください」とアンケートには記した。夜は弦楽アンサンブル部の卒業コンサートを拝聴した。防衛医大のみなさんは学校の性格上みんな何かのスポーツの部活に所属するらしい。だから弦楽アンサンブル部は決して大きな部活ではないけれどという紹介だった。今年は3人の卒業生を送り出すコンサートだった。そのうちの一人は5歳のときにバイオリンの先生にこのバッハの曲に句読点を入れなさいと言われたそんな思い出話を演目の由来で紹介してくれた。想像するに家庭は医者かまたはそのような裕福なところに育ったのではないだろうか。みんなすばらしい弦楽の演奏ができてしかも医者のたまごだ。最後は「翼がほしい」をアレンジした曲でしめくくっていたが、楽器を演奏しながら卒業生を送り出し、それに応えるとはなかなかいいものだった。

 昼間は「貧困と教育・そして平和」と題して湯浅誠さんの話を聴いた。
 痩せたのかな、髪形のせいかなと思った。毎年、路上生活者の支援のために年末年始は同じことをしてきたのに、むごい派遣切りと寮からの即刻の立ち退きで行き場を失い年末年始を路上で生活せざるをえない人々のために、みなと一緒に創意工夫の「派遣村」を立ち上げ村長に推されたちまち時の人となった。それより少し前に著書の「反貧困」が賞をとりその意味でも注目をされた。身辺を探られるなどいやな思いもしたらしい。『何かしら、学生紛争の時の戦術、戦略が垣間見えるような気がした』(坂本政務官の1月5日の総務省での発言の後半部分)と恐れられたというか警戒もされているのが時の権力の本音だろう。しかしその政権与党が今起きている本当の実態を彼から聞かねば、なにが起きているのかもわからない状態だ。彼は言う、坂本さんは航空写真をみている(上から目線で)、「建物も道路もちゃんとあるのに、何故その道を歩いて建物へ行かないのだ」と。その道を歩いてみるがいい、穴ぼこだらけで歩けないのだと。首切られても寮追い出されてもその人は「貯金をしていなかった」のかと世間は言う(実は元契約社員のうちの娘も言った)。かれは貯金ができなかった派遣会社のからくりを詳らかに説明する。
 彼のレジメがあって、9ページを説明すると場内がざわつく、資料がいくつか挿んであって、どこに9ページがあるかわからないという雰囲気を察して、彼はそれに気づき丁寧にユーモアを交えて説明をやり直す。この手の集会の高齢化の側面だ、別に私も若くはないが若い仲間を集められない。この事態の当事者は若者たちそのものなのだが。まだまだ広がりをつくっていかなければならない。彼流にいえば「他流試合」、垣根を越えること。反対の立場にあるように見えて対話ができる人、その対話が必要だ。いがみあっている場合ではない。

 人間らしく生きたいということは、不当な待遇・処遇に対して「ノー」と言うこと。せめて言えるように押し返そう、と呼びかけている。 

 「時の人」だから会場の看板はいつもより大きかったように思うが、話し始めた湯浅さんにそんな気負いはない。いつものようにという印象だった。遠くから来てくれた人もいるようだった、参加者は150人ぐらいだったように思うが、講演後の休憩時間に回されたNPO「もやい」へのカンパは154,000円だったそうだ。金の多寡が本質ではないにしろ、これはすごい額だ、世の中捨てたものではない証拠だ。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

すごく温かい記事です。余情半さんにはいわゆる「体制側」もその逆も関係がないのではないと思う。
でなければ「ご卒業なさっても、決して戦禍の中ではなく、平和な社会の中でそのすばらしい演奏を続けてください」とは言えない。あなたが見ているのは、その人のたまたま置かれた社会的な立場ではなく、人の体温のようなものなのだと思う。

私の亡き叔父は、飯野という宮崎の山の中で唯一の共産党員だった。国労でレッドパージに合い、駅の小さなキオスクで細々と生きていた。徹底的に土地のボスにいじめられて、その手下どもは毎晩、勤勉に無言電話をかけてきた。それも20年間も。私が訪問した時もかかってきて、「オジさん警察に言ったら」と言うと、「バカ、こんなのがなくなったらオレが退屈するだろうが」と笑った。

とうぜんかけた奴も叔父貴は分かって、無言電話相手に人生相談すらしたそうだ。そうしたら、無言電話が泣いてたってさ。懲りるかと思ったら、また翌日からかかってくるので、仏壇の鉦をチーンと鳴らしたら終わったそうだ。

エントリーと関係ない話ですいません。