2008年12月24日水曜日

お呼ばれされている


4人も育てたのに、2歳の男の子のプレゼントにふさわしい絵本がわからない。ブルーナが好適だが、ありきたり、それに持っている可能性がある。

ジジババが4人いて、両親がいて、たった一人の孫。モノと愛情は過剰に注がれる。

そうだクリスマスだった。
この寒空に、イルミネーション輝く大都会の下に途方に暮れる人々がいる。安定した働き口を、いいや明日食うための何でもいい働き口を求めている。

農民も漁民も中小企業零細企業主も商店街の商店主も世襲はされない、もはや世襲のしようがない。実入りが無い。子どもを持てば将来大学に行かせる収入が無い。

金持ち、政治家と、貧困者が世襲をされる。前者にはカネとモノと優遇制度が有り余り、後者には人間らしい仕事も扱いも収入もなく、住居にすらあぶれる。

うちの職場の私たちは食うには困っていない。できることでいいから。いやなら逃げていい。こんなことができる、あんなことができる、やろうよと昼休みに話しかけた。寄付は5,000円で済む、「にんげん」としての名誉が獲得できる「サポーター」という。バッジなら200円。「ヒンキーくん」というキャラを身につけることができる。「実はねぇ」と話のキッカケができる。岩波新書「反貧困」(湯浅誠著)買って読んで欲しい、建設的な主張だ。納得できたら何かを伝えて欲しい。今朝の『東京新聞』、頑張れ。なんでもいい、意見を言え、議論を沸騰させよう。そう考えている。

プレゼントは迷ったあげくに「もったいないばあさんカルタ」にした。ちょっと早いかもしれないが(ムダにするなよ)・・・。

2008年12月23日火曜日

ささえることが必要だ

 昼休みはできるだけ歩くことにしている。だから近辺のあっちこっちを知っている。

 陸橋の上で突然、若い女性に真正面から呼び止められて一瞬身構えた。「○○院大学はどこですか?」という道案内を請う問いだった。高層ビルをもつ大学で知っている、おやすい御用だ。陸橋おりてってまっすぐ行ってガード下くぐって大きな通り、明治通りに出たら右に折れ、またまっすぐ行ったら“希望”が見えて来る、あっチガッタ、その大学の大きなビルがみえてきますよ、と答えた。人の役に立つというのは気分のいいものだ。

 ビラを受け取った。
 ターミナル駅南口のモヤイ像の前で「労働・生活緊急相談」をやっていた。首切られた派遣労働者たちの生活支援に立ち上がる人たちもいる。あきらめないで、と。

2008年12月22日月曜日

30歳


彼女が引っ越してくるのが先で挙式が後になった。だから月足らずで第一子が生まれたとき、弁明に努めた。実際に予定日よりも1箇月早く生まれた。

「今日病院に行ったの?えっ、どこか具合でも悪いの?」「実は」というシーンを想像していたが、実際には全然ちがった。泣かれた。わたしの青春が終わった、と。確かに若かった。

一緒に暮らしてみてわかった。外で付き合っているときと違って、家では物静かだった。今では面影が無い。気を遣って好きなケーキを買って帰ったりしたが、食べたくないと言われた。経験がなかったので二人ともそういうことに気づかなかった。あのときはつらかったのに「オレのケーキが食えないのか」と言われたと、今でもなじられる。

里に帰ってお産をしたので生まれたときのことを知らない。職場にお姑さんから長距離電話があって「男の子だよ」と告げられた。そっと上司に報告したら、大きな声で職場のみんなに告げられ慌てた。わずか18人の職場だった。とても家族的だった。
 
指は五本あるか、五体満足か、聞いた。顔は似ているか、聞いた。なんだかこのオレに子どもができたなんて不思議だった。彼女からは赤ちゃんって顔はシワシワだと聞かされた。

妻が実家を引き上げるとき、迎えに行って初めて対面した。里は遠方で新幹線などを乗り継いで行った。口の悪い妻の同級生からは「はるばる汽車で来た」と言われた。あのころはまだ飛行機に乗ったことが無かった。

勢いよくミルクを飲み、泣けばのけぞって泣いた。動くものにはなんでも興味をもった。与えたおもちゃは分解できるものはみな分解した。

その後も私たちは子宝に恵まれ、そして今年子育てが終わった。

あれから今日で30年、驕(おご)らず正義の士として社会に役立ってくれればと希(こいねが)う。

呉(お)さん


幼馴染のご近所の子ではなくて次男が初めて幼稚園のお友達を連れてきたのは女の子だった。家族みんなで顔を見合わせたものだった。もっともそれが最初で最後だったが。

ご近所の清美さんとは次男三男の幼稚園が一緒で母親どうしのお付き合いが始まった。妻殿より年下だが、親分肌だ。好き嫌いはあるようだが、付き合いは幅広い。おとなになったうちの次男たちとも飲み友達、相談相手だ。土曜日の夜も、そういうみんなと何回目かになる仮装忘年会を基地の近くにあるスナックを貸しきって催した。たのまれて、次男、清美さん、次男の友人2人を車で次々にひろって会場まで送った。聞けば韓国人もはるばる東京からくるらしかった。

次男の友人は、ひとりは会社が再建中でどうなるかわからない、もうひとりは会社の売上げが急に落ちて試用期間だったので採用を打ち切られたという。今日は羽を伸ばすという。おいおい、それは世相の通りではないか。送っていく後ろの座席の車中話。

夜12時を過ぎて次男から突然妻殿に電話があって起こされたらしい。韓国人を泊めるから布団を用意しておいてくれと。妻殿は寝ていたので私に用意をたのまれた。週末で部屋を思いっきり散らかしていたので慌てた。また、酔っ払って連れてくるのかと思えば、もっと早く言えよという気分になった、まして外国の人ではないか。これまでも、我家にたどりつく韓国の人は酔いつぶれるほど飲んでいたのを見ることが多かった、うちの息子も同様に酔いつぶれて。

朝起きたら、夜中の3時半ごろ帰ってきたらしいと妻殿から聞いた。その妻殿が下に降りていき、また上がってきた。玄関に女性の靴があると。おいおい。

酔いはなにも残ってはおらぬ風だった。日本語の流暢なお嬢さんで3箇月前から留学のために日本にきていたらしい。社会学を専攻する、日本語は2年間勉強したという。私たちには思わぬ訪問者だった。名は呉(お)さんとおっしゃる。

2008年12月21日日曜日

年賀状ができたど

私のパソコンは酔っ払うらしい。

年賀状の裏面をつくって、住所録を訂正して、印刷するのに一日かかった。私が手順通りにやらない、砂時計を待ちきれない、キーを不必要にたたく、そのせいだろう。購入してまだ4年しかたたない(そういう問題ではない?)。

かつて家庭での印刷といえば理想科学の「プリントごっこ」が全盛のころ、へそまがりで二番手のブランドの機械を買って使ったが、使い物にならなかった。結局「プリントごっこ」を買うはめになって余計な出費をしてしまった。いくら使いやすくてもやはり一日がかりだった。ただ手作り感とイラストと字には人柄は出せたとは思うが。

考えぬいた原案は「おもしろくない、かたい、ふさわしくない」と相方様に不評で没。

いつか職場の後輩に、翌年「はいはい、お説ごもっとも」という皮肉の返事をもらって反省した。相方の親戚には「んだんだ、そうだ」とたのしみにしている、と評判がいい。私のほうの叔母なんかには「何派だかしらないが」とかジャブをいれられるが、印象には残るらしい。ちょっとしたプレッシャーを楽しんでいる、投げ出した年もあったが。

私のそれは「世相」を反映させることにしている。

長谷川さんたちのかぼちゃ


野菜など北の産物をいただいていた。かぼちゃは冬至までもちますと書いてあって本日食べた。おいしかった。

谷川さんは女性のボクサーで「ボクササイズ」のクラスをもっていた。若いがしっかりした人格で、また教え方がうまかったから、みなに人気があった。私もファンのひとりで、その一時間の教室の最後のころはもう「あごがあが」っていたが、終われば達成感があった。あるとき自分は有機農業をやりたい、そして一緒にやる人がいてそれが結婚相手であること、そのために北海道へ行くのだと発表した。赤ちゃんがほしいとも言っていた。最後の教室の日、みなでささやかな送別会を催し、惜しまれながら去って行った。その後「谷川」さんが「長谷川」さんになり、たまに文通をしていた。数年が過ぎたがおめでたの話は聞かないので最近はそのことには触れない。むこうでもまたボクサーも続けているらしく、掲載された地方紙の切り抜きもいただいた。

明日からまた日が長くなる、それがいい。

2008年12月18日木曜日

親友Tさん

親友のT君は頭脳明晰だった。今もそうだ。推されて人前で話せば弁舌爽やかだった。人の心を揺り動かした。なによりも実践に裏打ちされていたから、反対の意見を持っている人でも無碍にはできなかった。簡単に言うと人柄がよかった。

夜を徹してこういうことをやってきたと言っては、私の下宿にきた。管(くだ)を巻かれた。電熱器を持っていたからピーマンを焼いてもてなした。当時一緒に何を呑んだのだろう。何日間もこういう闘争をやってきたと詳らかに聞いた。あとをたのむと言われた。そういうことが緩和されたあとに、のこのこと出て行ったがそれでも大変だった。彼は先陣をきり何年も裁判闘争などで苦労をしたらしい。私は「うなずく、逃げる、ひきこもる」だったから、てこずったことだろう。

活動がリアルだったわりには、女性に関しては「ミーハー」だったように感じている。彼は女性からも圧倒的に信頼があったのに、つまり普通にもてたのに、マドンナをゲットすることは無かった。ゲットすることはないにしても、今でもつきあいはあり「あご」で使う信頼があるらしい。「マドンナ」がそう思っているかどうかは別にして。

数年前に飲むことがあったとき、尋ねたら人事、総務、財務ありとあらゆる部局の統括をしていると聞いて舌を巻いた。私がつらいと発信したらわざわざ飲みに来てくれたが、もはや立場というか地位が違い過ぎ、話は噛み合わなくなっていた。

偶然彼とすれ違うことがあり名刺をもらったらトップになっていた。合併することは難しいと言っていたが、紆余曲折、今はその通りになったと聞いている。

難しい本を読んでいるらしい。左のことから右のことらしいことまで難しいことをすらすらという。今でもとてもざっくばらんだ。ただし、うちの妻殿は「あいつぅ」という、親しみもこめて。

2008年12月16日火曜日

ふとん


ずっと肩か背中のあたりに鳥が止まっていた。足でぎゅっと掴まれていた。なんとかしようと思ったが逃れられなかった。

遠い昔、くに(故郷)を離れるとき、母は布団をこしらえてくれた。何かの生地を再利用して、カクイの綿を買ってきて、布を広げて手伝わされた。器用につくってくれたものだ。

後日、映画「サンダカン八番娼館 望郷」(高橋洋子さん、田中絹代さんが熱演、熊井啓監督)のワンシーンにその光景を想い出した。その布団はとうの昔に使い古して捨てた。

前の夜、敷布団を新しくした。ふかふかとしていた。

前日は久しぶりにストレッチをした。とくに腕、肩を入念にしていた。

寝苦しくて、はっと目覚めたら6時をまわっていた。込み入った案件があって早く出勤するつもりだったが寝過ごした。

鳥はどこに行ったのだろう。
先週の月曜日のこと。

2008年12月15日月曜日

これ以上排除するな、と


舞台に出てくる黒子は見えていても見えない。歌舞伎ならそれでいい。

大きなターミナル駅の連絡通路の脇に人が寝ていても、紙袋をもって座り込んでいても、それがまるで見えていないように通り過ぎる。見えていても見えない。

ついこの間までは5,500人も集まろうがなんだろうが取り上げもされなかった「なくせ貧困!集会」。社会には「貧困」が存在していても見えていなかった。その人たちが声を挙げても見えていなかった。

「無視」ということになる。「見てみぬふり」という言葉がある通りだ。

見えていても見えなかったが、連日見えるようになってきた。報道がとりあげる。

仕事をして生きていきたいその人たちが住処(すみか)さえも失いつつある、と。
なんでこんな目にあわなければいけない、と。
今朝は冷え込んだ。

2008年12月14日日曜日

スゴイ時代 2


水曜日の夜は「明るい話ではありません、つらい話です」と前置きして始まった湯浅誠さんの講演でした。30人ぐらい入ればいっぱいの地元の公民館の小さな一室で聴きました。話は、何の資料も原稿もなくて「立て板に水」、1時間半なんぞ短いと思うぐらいの中身の濃いそして「恐い」内容でした。

 経団連リーディングカンパニー(トヨタ、キャノン、ソニーなど)の「派遣切り」、「期間工中途打ち切り」がどんどん進行していく状況下での企画でした。『貧困は自己責任か』という趣旨のテーマで、半年も前から準備されていたそうですが、まさに時宜を得た内容になりました。

 労働市場(非正規)および労働市場の外側(失業保険、生活保護)での貧困の進行の実態を聴きました。

 働く貧困層=ワーキングプアのワーキングさえもが奪われようとしていることが目の前で起きている。失業保険も事実上受け取れない、生活保護も締め出そうという行政のあり方。もちろん蓄えはない。家族が支えてきたが、これがもうもたなくなってきている。

 まとめの最後では現状を「イスとりゲーム」に例えていました。10人いて8脚のイスを取り合う。座れなかった2人をとろいヤツ、しょうがないヤツとみる。ただし、もう一度やってみても誰かが必ず2人は落ちる。これはゲームだけれども、謂わばこれが現状の事態。であるならば落ちた人に注目するのではなくて、イスの数に着目しようよと。

 明日(15日)夜7:30からのNHKスペシャル「非正規労働者を守れるか」は収録してきたらしいのですが、ここに出演する湯浅さんの発言にご注目ください。また、規制緩和を推進してきた八代尚宏さんも出演しているのではないでしょうか、わかりませんが。

 本日の『朝日』では湯浅さんの著書『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)が第8回大仏次郎論壇賞に決まり特集されていました。選者たちの評は湯浅さんの講演を聞いた私たちにとってもほぼ同感するものでした。

 彼がいつも胸につけている反貧困のバッジは200円。2色あってその日の服に合わせてコーディネイトできるそうです。このキャラクターは有と無の間にある幽霊「ヒンキーくん」というそうです。無関心でいると大きくなるそうです。どうか成仏してくれと向き合い、取り組むことではないかと。ここに聴きに来るような人たちは意識的な人たちだからうなずくが、それでは世の中は1mmも動かない。伝えてほしいと。このバッジは胸につければ結構ハデ。「じつはねぇ」と伝えようよ、と。

 この企画を主催したのは元市会議員の秋山さんのグループ。無党派で落選、「市民に絶望した」と冗談をおっしゃるとてもおしゃれな御婦人です。

2008年12月13日土曜日

意外な講演者

 府議会議員時代の野中広務、伊吹文明両氏は反蜷川虎三京都府知事の闘士として売り出したと記憶する。自共対決のなかで這い上がろうと野心満々、権謀術数の政治家と、耳にする報道や目にするポスターなどで窺えた。後年、御両人とも国政のなかで自民党の大物となった。同様に谷垣父子もいる。野中氏は革新府政を倒した林田悠紀夫府政のもとで副知事を努め4年間辣腕を振るった。
 この社会には生まれた家系や土地で不当な扱いを受ける、またその逆もある。前者の例は部落差別、後者の例はそれこそ麻生さん、福田さん、安倍さん、小泉さんの政治家2世3世の世襲だ。野中広務さんは悔しい思いをしてきたことだろう、麻生さんがそういう言動をとったという報道がある。「憎まれ役」の野中さんはネット社会でも激しい攻撃にさらされている。差別、それは卑劣で不当である。それこそ断固憎むべき所業だ。

 昔、東京というところに行き、目的は忘れたが明治大学を訪ねたことがあった。昼食をとろうと思って生協の所まで行って思わず後ずさりした。貼り紙、立て看、まるで赤い要塞だった。近年お付き合いのある人たちが、あのときのあの人たちだったのだと思うことがあって、心の中で苦笑してしまう。御茶ノ水は息子が通っていて少し雰囲気を聞いてはいたが、明治大学の大きなビルには目を見張った。久しぶりの大講義室、作り付けの机とイスの幅が狭い。さすが都心だ、会場が埋まった。

 「憎き野中が何故こんなところに呼び出されたのかとお思いでしょうが、」という前置きで83歳の野中広務さんが演壇に立って、講演が始まった。背の低い人だった。本日の「─過去と向き合い、東アジアの和解と平和を─南京事件71周年 12・13集会」だ。

 日本は過去と向き合うべきだ、見聞したことを正直に言い続けること、と主張しつづけ、相談が来るようになって、ついに司会の南弁護士にひっぱられ、こんな集会にでるはめになった。かつての同志や後輩たちが激しく攻撃してくるだろう、とも。確信と覚悟をこめた発言から始まった。蜷川虎三さんや共産党との対峙、教組との対決、国政へ転出、71年に最初の南京への慰霊の訪問から始まり中国へ足を運び対話を重ねていること、昨今の小泉純一郎さんとの対決、福田さんの修復への評価、安倍さん麻生さんの頼りなさ、などなどほぼ1時間余り、立ちっぱなしのまま、話が途切れることも無く講演は続き、終わってみれば会場の万雷の拍手に包まれていた。

 保守政治家としての信念に基づく言説だったが、「日本は東アジア、ロシアと傷口のない関係を構築すべきではないか、積み残されたこと戦後の処理、小さな紛争はあっても一衣帯水の国々だ、乗り越えるだけの信頼関係をつくるべきだ、生きているうちに道筋をつけておきたい、これからの日本の在り方に。ぜひ立ち上がってほしい」と締めくくられた。

 街宣車(右翼の街頭宣伝車)にいじめられ奥さんは病に倒れられたらしい。

 蜷川虎三さん、林田悠紀夫さんや野中広務さん、私の人生のなかで若いときにすれ違い、今日始めて野中広務さんのその生の声を聞いた。

2008年12月12日金曜日

スゴイ時代


巷では3万人と言われているが、あれは氷山の一角。

数十万の人が文字通り路頭に迷うだろう。「派遣切り」に始まる情け容赦のない事態のことだ。トヨタ、キャノンにはじまる有力企業の横暴のことだ。連鎖する下請け関連企業のとる手段のことだ。

職場の労組から声が挙がらない。正職員労組にも及んでくる社会の地盤沈下のことだ。海の向こうのアメリカではビッグ3の企業の賃金がどうして日本のように安く引き下げられないのかと指摘された。そうして公的資金の注入が見送られたそうだ。
 明日の収入すらない人にはどんな仕事でもどんな低賃金でも受けざるをえなくなっている。追い詰められる。社会に“いがみあい”が始まることだろう。あぐらをかいている正規職員が悪いと、ぬくぬくとした公務員が悪いと。そうすると‘キャツラ’の思うつぼだ。地獄へのスパイラル。芥川龍之介の描く「蜘蛛の糸」の世界だ。

73年には薬局とスーパーからトイレットペーパーちり紙の類と洗剤が消えた。わずか1週間で食べ物が2倍になった。それを当時下宿生活で体験した。 87年は東京に転勤になった。バブルの真っ盛りで家賃が3倍の10万円を払わねば貸してもらえるところはなかった。 私は生涯のなかでそのような激動を経験した記憶があるが、そんな程度の社会の変動ではないらしいというのが金子勝さんの見通しらしい。スゴイ時代が到来している。

ベトナム戦争のあのときのように、あの空爆の下で殺され傷つき、住むところや田畑を奪われる人々のことを想像した。こんどは他国ではなくこの列島のなかで職場を追われ、まさに住処を奪われることが現在進行しつつあることだ、傷つき、絶望で自死に追い込まれる人が出てくる可能性も大きい。「生きさせろ」(雨宮処凛さん)だ。連日の報道を傍観しているうちに私たちと「地続き」の周辺でもう進んでいる事態だ。

2008年12月10日水曜日

盲腸の


 人生で初めて手術を受けた日だ。父親が亡くなったその年の今日がその日。
 親戚の「おてい」おばさんの息子さんで、産婦人科を開業していた人を母が呼んできて診てもらったことを覚えている。今で言うセカンドオピニオンということだったのだろう、さっさと切ってしまった方がいいという診立てで、それで母は私の入院を決心したような気がする。手術後、看護婦さんから「おならも出てよかったね」と言われたが、しばらくして足がしびれるようなガラスの破片で切られているような感覚が襲ってきた。医師に訴えたら麻酔が切れていく現象だったらしい。母は忙しくてなかなかやって来ない。個室部屋の電灯も点けられず、ひとり心細かった。あのころの12月は文字通りの師走だった。
 回復していくときの食事の内容が日に日に変わっていき最後のころのカツ丼はうまかった。女の子も含むクラスメイトが見舞いに来てくれてはずかしかった。喪中だったので年賀状は出せなかった。遠い昔の記憶が蘇る。

 「おてい」おばさんは父親の実姉であることが後年判明した、その息子は当然ながら従兄弟だ。このお医者さんは数年後に癌で若くして亡くなった、「おてい」おばさん夫婦はさぞかしがっかりしたことだったろうに。ひげの濃いひとだったようにかすかに覚えている。

2008年12月9日火曜日

記念写真


比嘉さんがあの時の、沖縄先島と本島で撮った写真を回覧してくれた。

50をいくつも過ぎていうのもなんだが、みなで撮った写真は「夏休みの写真」のような気がした。それでつい、心のなかで「少年時代」を口ずさむ。自分がいつまでも童顔ということもあるが、みなの表情に童心が出ている(そういえば今夏、みんなで撮ったインドネシアの写真もそうだった)。

比嘉さんは蝶々が好きで詳しく、優しい人柄だ。カメラもそんなこころが出ているのだろうか。所望したので後日メールで画像を送ってくれた。

私は子育ても終わった。もう一度「夏休み」を楽しみたいと無意識に思っているのかもしれない。それぞれの人生を歩んできたお友達と。

2008年12月7日日曜日

消息

 歳暮を贈った。

 早速お礼の電話をいただいた。聞けば地元の世田谷で作物づくりをしているという。その地に200年続く農家が畑を貸してくれているらしい。貸す方も自分で農業をやるわけでもなく、教えることもできて都合がよいらしい。仲間が30数人もいる農業の塾のようなものがあって、群馬県のナントカという農村との交流もあるらしい。東京農大のお話も聴いているとのこと。もとは50代の前半から少しずつ作物づくりを始めたのだという。現職時代おつきあいはしていたが初めて知った。
 今日は蕎麦打ちをして仲間と打ち上げをやって帰ってきたところだったらしい。

 やっぱりこういう人がいた。今年退職したばかりの先輩だが、意気軒昂の様子だった。

2008年12月6日土曜日

以心伝心


掃いた?と、思わず聞いた。
昨日突風が吹いたようだ。まるで掃き溜めたように枯葉が都合よくたまっていた。ご近所に迷惑をかけるし、難儀だなと思っていたが思わず手間が省けた。その代わりあまり紅葉を楽しめなかった。

三つ子の魂という。今でもよく覚えている。初めて娘にりんごを与えたとき、かじったものをそのまま口から出した。それ以来娘はりんごを口にしない。食べ物の好き嫌いが多い人生だ。

逆に長男は大の好物だ。好きこそものの上手なれで、幼稚園にあがる前からナイフでりんごを剥けるようになった。器用だ。三男もそうだ。実は私はりんごをうまく剥けない。「不器用だ」は言い訳で、昔は母に今は妻殿に甘えているだけだろう。りんごは食べたいが皮むきは苦痛だ。「皮むき器」を買ってみた。数回使って放ったらかした。

生協のギフトに産直のりんごがあったので長男夫婦に贈った。お届け日は指定できないとあった、ずいぶん横柄な企画だとは思ったが、かねてより消費者は神様ではないと言っている手前、受容して注文した。で、早速届いたらしい。長男からお礼の電話があった。そしたら今年は姑さんの方からもいただいていたそうで、それが無くなりちょうどよかったそうだ。この子のりんご好きはむこうの義母さんにも知られているようだ。

一年過ぎた、どうなのかなぁと、思っていた。
朝日新聞に有名な方の膠原病との闘病の連載が始まっていた。
妻殿はお勉強で朝からお出かけ。朝から電話が鳴った。義兄だった。薬も減らせるようになった、南の島行きの件、計画をお願いします、と。「計画」という言葉が訛っていて聞き返した。自分は毎日日曜日だが、奥さんがパートで2ヶ月前に申請が必要だからそうしてほしいと。ならば、来年2月でほぼ決まりだ。さて、あと何日有休があったっけ。

なんとかしなければ


日本は世界でも水産資源に恵まれた国です。

 例えば鮭も22万トンほど獲れて、かつては10万トンほどを余らせていました。一方ではその10万トン余りを輸入していました。鮭の種類(紅鮭など、今では養殖魚)が違うので嗜好という意味では仕方のないことですが、過剰な輸入の一方で、未利用国内資源を発生させていました。簡単にいえば獲る一方で、世界から食料を持ってきて食い散らかしていました。その常に繰り越し在庫になる国内鮭(秋鮭)を10年近く前から中国に輸出して販路を広げる努力をしました。当初はそれが加工されて日本に還流される仕組みでしたが、そうこうしているうちに中国自身で他国への加工輸出用の原料になるようになって、むしろ国内流通する値段より高く買ってもらえるようになったのが数年前からです。複雑なのはそのことによって今度は国内の加工屋さんの原料代が高くなって経営を圧迫する廃業に追い込むという現象が発生するようになりました。

 日本のりんごがそうであるように台湾のひと(中国人)にとっては日本のさんまもよく好まれる食材だったと昔研修で訪れて実感したものでした。韓国船や中国船、台湾船が三陸沖でさんまを獲っているという話はきいたことがあります。さんまは今のところ豊漁ですので中国へ販路を求めたのも無理のないことです。ただこれも鮭とまったく同じ構造です。中国へ輸出して加工されて日本へ還流する。ギョーザ事件が起きるまでは鮭もサンマもさばも止められない動きでした。メイド・イン・チャイナの食品が忌避されるようになって、今は恐らく「仕掛品」つまり加工途中原料になって還流するようになると考えます。日本で少しだけ手を加えてメイド・イン・ジャパンになるのではないかと考えられます。
 数年前に訪れた中国では沿岸部ですが日本料理店が結構流行っていました。さて、さんまはどうやって中国のひとびとに食べられるのでしょうかね。

 おコメを食べなくなりましたから、これほど獲れている魚を今の日本人は食べ切ることができません。自給できる資源を活かせないのです。中国に輸出でもしなければ捌けない、お金にならないのではないでしょうか。スーパーでは一尾59円ぐらいの「サンマの開き」もみかけます。国内資源である秋鮭、秋刀魚を輸出する一方で世界中から鳥肉、豚肉、牛肉、養殖鮭の輸入をして、その挙句食べ散らかして廃棄する。そんなチグハグな社会です。

 各地の港で起きていること、三陸の牡蠣、和歌山の太刀魚、道東の鮭などが国内ですら「買い負け」が始まっていると聞くことがあります。為替が動きますので一過性のことかどうかわからないのですが。少なくとも自給できるのに「食べない」、ときには「高くて食べられない」この国の食の右往左往を感じます。

 さて、今まさに数万人の人が職を奪われ住むところを追い出されようとしています。野党もみな集会に駆けつけた、あの連合でさえ動いた、よかった。集会はまだ数千人です。
昨日今日できたユニオン(労働組合)のビラを、会社が見ている前で受け取る労働者の姿をニュース画面で見ました。正規職員の組合は動かない。明日はわが身です。ふた昔前なら反合理化、反首切り闘争で社会は騒然としたろうに、です。処遇に不満で退職、失業した年上のHさん言う「バラマキでもなんでも12,000円はほしい」「田母神は正論だ」と。むかし、勉強したことのある満州事変1930年代初めのときの「気分」を感じます。
 私には弁舌もなく、ひとを動かす力もありません。勇敢なわけでもありません。ただ歩くことができる。シュプレヒコールに唱和することができるだけです。

2008年12月4日木曜日

樋口さんのお米と農業、食料

 隣の町内に住む樋口さんは運転手さんだった。10年ぐらい前に、地域の有志で「開運ナントカ初詣」という企画で長野県別所温泉の「北向観音(きたむきかんのん)」に出かけたとき、マイクロバスの運転を引き受けていただいた。上田市の、アーケード商店街の老舗本屋さんの二階にあがり戦前の小作争議の話を伺ったように記憶している。

 新潟県魚沼郡ナニガシの生まれ。一泊した旅館の男、女に分かれた相部屋で「自分は米つくりをしたいのだ」と聞いた。その時からかその後かは忘れたが、故郷に田んぼと家を借りて、つくり方は幼馴染に教わったそうだ、そしてリタイア後の今では1年の半分を新潟で過ごし、雪のある間はこちらに帰っているような話を聞いていた。

 この前のバザーに久しぶりに顔を出したとき、樋口さんの「魚沼産こしひかり」が出品されていた。奥さんの「買ってって」のひとことに義理ではなく、迷わず買わせてもらった。奥さんもいつのまにか野菜づくりの方に精通されたらしい。
 そのお米はうまい。樋口さんの人柄のままだ。

 あなたがたの「産直は元気が無いようですけれども頑張ってくださいよ」と中島紀一先生(茨城大学農学部長)はよくとおる声でおっしゃる。あの事件以降、消費者の手作り志向がたかまった、その「てづくり」という名の着いたギョーザが海の向こうからやってきていたと「本丸」の会場でおっしゃるので失笑、苦笑がもれる。

 「農産物直売所」の販売額これがスーパーに負けていない。元気と手応えがあると。茨城なんかは土日になると車で買い求めにくるのだそうだ。それは私の旅に出たときの購買行動に実感がある。

 05年の国勢調査によると、日本の就業人口総数は約6200万人。うち、農業就業は270万人。わずか4.39%である。以下、年代別にみる農業就業人口/就業人口総数の比率。(以下、中島先生の資料より)

20歳代    0.82%
30歳代    1.03%
40歳代    1.99%
50歳代    3.50%
60歳代   10.94%
70歳代   33.44%
80歳代   37.26%

 この国では若い人の職業選択肢のなかに農業が入っていない事態という現実。
「食べものをつくるという生産領域に歪み」があるという。
 
 農業就業者に占める65歳以上の比率は58%(05年「農業センサス」より)。
 日本の農業は高齢者が担っている。

 しかしながら、上の表をみると農業とは高齢者が働ける産業であるともいう。60~70代で支えられている日本の農業では、40~60代の参入者は若いとも言えるそうだ。

 下記の表を見れば、1990年から15年間で100万戸の農家が消えた。

 <単位(農家数:千戸)>
      販売農家 主業農家 準主業農家 副業的農家  計   自給的農家
1990年  2970   820    954     1195  2969   865
2005年  1949   428    440     1081  1949   899
増減   -1021  -392  -514    -114  -1020   34
増減率    66%    52%   46%     90%   66%  104%
1990年  構成比% 27.6   32.1     40.3  100
2005年  構成比% 22.0   22.6     55.5  100

*年間の農産物販売金額が50万円以上の農家を販売農家、それ以外の農家を自給的農家という。

 担い手がいなくなっている厳しい現実ではあるが、ところが中島先生は自給的農家が減っていないということに着目する。「農産物直売所」に供給をして、元気がある農家はこういう自給的農家や副業的農家であるという。

 自然に触れ合いたい、作物を育ててみたいと思う40~60代は多い。その1割でも実際にやってみたら裾野が広がる。40~60代の参入者は農業にとっては若い。本格的な農家になるのではなく、国民が農業に触れ合う裾野を広げるべき支援をすべきではないかという。

2008年12月2日火曜日

南京事件71周年 12・13集会


あれ、野中広務さんが講演するらしい。
保守政治家では以前は故後藤田正晴さん(~05年)が軽々しい戦前回帰への動きを抑えていたように思う。アジアとの未来志向の共生を唱えて。

次のような集会があるらしい、以下引用。

──過去と向き合い、東アジアの和解と平和を──
  南京事件71周年 12・13集会

日時■12月13日(土)13:30会場/14:00開始
会場■明治大学リバティータワー3階1302教室
資料代■1000円(学生500円)

●講演  野中広務 氏(元官房長官、元自民党幹事長)
     「戦争体験と歴史和解」(仮題)
●対談:かつて、百人斬りが賞賛された時代があった
      笠原十九司 氏(歴史学者)/能川元一 氏(哲学者)
●提案:和解と平和のためのこれからの課題
      尾山 宏 氏(弁護士)
■主催:南京事件12・13集会実行委員会/子どもと教科書全国ネット21

2008年12月1日月曜日

甕という製造容器

 今日の夕方、「三日月と木星と金星がきれいだよ」とメールがきた。私が駅に降り立ったときには雲がかかっているようで見ることができなかった。

何日か前、元大学院教授のM先生から電話が掛かってきた。先生は耳が遠いから大声で話せねばならない。それでも私の返答は聞こえぬらしい。先生の一方的な話で堂々巡りになった。

奄美のFさんがさとうきびの「大正種」を復活させていよいよ収穫期になった。それでさとうきび酢を昔のつくり方で作りたいのだが甕がない。入手できないかという。焼酎を造っているところにでもあたってくれとのこと。

私の小さいころには甕はいくらでもあった。焼酎屋さんもさることながら醤油屋さんの工場にもごろごろしていた。ところが、この甕の製造は廃(すた)れた。

今は有名になったが、鹿児島県福山町(現霧島市)の黒酢を復活させようとしたとき、甕の入手に苦労したという話を坂元醸造の皆さんから聞いた。粘り強く伝統の黒酢のよさを世に問い、認められブームが起きた。ところが、いざ増産をしようにも甕が国内では入手しづらくなっていた。もともとは薩摩焼があって日常品としての甕生産の背景があったとは考えられるが、もうない。韓国、台湾、ベトナムあらゆるところを頼り、入手したそうだ。先生にはそういう話をした。

今は昔ながらの甕や壷で醸造品を熟成させるというのが見直されている。焼酎製造もプレミアム商品にしている。手放すはずがない、そういう話もしたが先生には聞こえなかったらしい。

甕は骨董品、美術品になり、とうの昔に生活用品ではなくなった。鹿児島の黒酢もそうだが、工業的につくる酢と違って、焼き物の壷ないし甕はそういう酢をつくるためのどうも適正な製造容器であるらしい。

奄美のさとうきび酢は奄美大島南部、加計呂間島という地域にある特有のなにがしかの浮遊菌が付着して、これを醸し出すらしい。何故かその風土でしかつくられない産物だ、これを奄美大島の北部で試したそうだが作れなかったそうだ。山の湧き水と菌と気候というそこの条件が合わさって、さとうきびの搾汁液が発酵してできるそんな酢だ。要するに工場でつくらない。甕(壷ともいう)に入れてそれらを並べてつくる、だからそこを「畑」という。

甕(おそらく素焼き)を入手できないだろうか。ただ、先生の予算がわからない。