2008年10月30日木曜日

ザンネン


 村井吉敬さんが岩波新書で『エビと日本人』(87年刊)を書いた頃、私は現役だった。そして20年たって再び『エビと日本人Ⅱ』を上梓した。この人を呼んでインドネシアの報告会をやろうという話は知っていたが、案内が来たのは一昨日の28日の夜だ。こんどの土曜日の昼だという。もっと前から決まっていただろうにと、地団駄踏んでもしようがない。 メーリングリストに洩れているのかな。
 滅多に出張なんぞない内勤の仕事。今度に限って、ずっと前から大阪の金土日の「フェスタ」の仕事に志願していた。もう少し前に案内が来ていたら調整もできただろうに。
 本でしか知らないが、内容に納得、共鳴していた。水産研究者内の中では、ああだのこうだのの噂は聞いている。人となりと、肉声でその唱えるところを聞いてみたかった。
 また、インドネシアに同行したみなさんとも再会したかったのだが、ちょっと残念。

2008年10月29日水曜日

食品を捨てる


 防虫剤成分が食品から検出されたという発表と報道は冷静さが欲しい。検出された(定性分析)ということでの危険性の警告はそうだとしても、どのくらい検出されたのかの定量分析の結果も観なければならなかった。マスコミは電話取材だけで強引に「事件・事故、隠していたということ」に持っていこうという姿勢さえ見られるところもある。生命や健康に関わる危険を察知し、この危険性を回避するべくあらゆる努力をするのは供給する側の当然の責任だが、紙一重とはいえ異常だ。供給する側も自己防衛に走って「回収」をする。いったい何十万個の食品が処分されるのだろう。

 お客様相談室係や苦情承り係の世界では、「防虫剤」の“移り香”はある意味「日常茶飯事」である。匂いを吸収しやすい性質があるからだろうが、とくにお米に多い。お米は積み上げたりするので破袋を防ぐために空気穴が空けてある。最近の米袋は空気穴に代えて通気性のよいものに替えてあったりしている。いずれも袋の中の空気を逃がして袋がパンクするのを避けるため。したがって、なおさら移り香を受けやすい商品だからやっかいだ。注意をするのは当然だ。

 もはや我々の祖先のように原野や山林で毒蛇や毒きのこであるかないかを試すわけではない。快適な暮らしをもたらす人工的な物質は、使い方を間違えば危険を我が身に及ぼすということを学習してきた。ときには善からぬ行為をする者もいるのではないかという恐怖に怯えている。虫が入っていたり、くっついていたりする苦情も相変わらず多い。一方で殺虫や防虫をやりながらそれが自らの食品に影響するという矛盾に満ちた中で生きていることに気付く。

2008年10月28日火曜日

満腹なのに


朝から宮古方面に釣りに出かけて帰ってきたYさんたちが言う。川を鮭が遡上していたよと。三陸では鮭がとれる。孵化放流事業をして資源を再生産している。日本は世界的にも鮭の資源に恵まれた国だ。その漁獲量全体で充分自給できるのだが。

今晩は「いも煮」をするのでと私たちを案内してくれたTさんが盛岡市郊外の大きなスーパーに寄る。Tさんが買い物をしている間、魚売場を覗いて見ると地元の生鮭も売ってはいるが、むしろ多いのはチリ産の鮭だ。養殖で脂質が多く、そして安いからだ。

さんまは今も漁期。40万トン以上獲れる。これは日本人が1年間で食べる2倍近い量だ。ロシアや中国への輸出もあてにしていたそうだが、急激の円高で輸出がままならぬと『朝日』(27日朝刊)。岩手から帰ってきたら、女川からさんまが届いていた。土日の休養が充分だったらしく、気分屋だが「腕に覚え」の次男が刺身、カルパッチョ、なめろう、塩焼きなどを作ってくれた。息子の包丁の入れ方はすばらしい。

鮭もさんまも充分に自給ができる。しかも今は旬だ。私たちは安くて腹いっぱい食べられるのに、漁師さんたちは「食っていけない」。

南島漫遊記 余話


旅立ち前の数日間、血圧が上がり、めまいと動悸の自覚症状があった。出発の前日、その日に限って朝から「今日中にっ」という督促があった。依頼のあったインドネシアのレポートの提出をサボっていた私が悪い。夜遅くまでかかってようやくメールで提出した。翌朝は早い。

4時起きで血圧を測れば余計悪くなっている。「キャンセルしな」とつれあいは言う。「無理を押して参加して、倒れてみんなに迷惑を掛ける」と「ドタキャンをしてみんなの信頼を失う」を天秤にかけて、「ままよ」でフラフラの出発になった。「義理がすたればこの世は闇だ」の気分が少しはある。

何時の便でどこに行くかは承知していたが、いつもは事前の準備をしていたのに、今回に限って何も確かめていなかった。どっちのターミナルだ、JALとは思うが?

この血圧ではせっかくの泡盛と祭りの地に行っても飲めない、楽しめない、旨いものを食べるどころではない。あれこれ損得勘定が走った。

月のあがった赤瓦の竹富島は美しい。昔の琉球があるよで、「世乞い(ユークイ)」についてまわった。訪問された家は一族総出でこれを出迎える。訪問者は多ければ多いほど福がくるという。私たち観光客もおおいに歓迎だ。神の間と仏間を開放して迎える。前庭に敷物をしてお神酒(=泡盛)と「たことにんにく」の漬物を振舞うしきたり。その家によって味が違う。基本的には塩味。食べなければよいのにそれができない。血圧は上がる、ほぼ限界。

高血圧でも、寝苦しくても、バナナが出なくても(?)、やさしい比嘉さんとマダムたちの明るさがあれば、そして暑さに慣れれば活力が涌いてきた。道中で倒れるか、海水浴で死ぬかと思っていたが、全て凌いだ。この旅を私に振った彼は、「やっぱり精神世界」だ、「神との触れ合い」を言うかもしれない。いやいや人と風土と気持ちの触れ合いだろう。私のセコな精神力かもしれない。

2008年10月27日月曜日

生きろ

駄菓子屋に行けば飴が1個1円で買えた。1日5円の小遣いをもらっていた。そのお金を父のお見舞いにといって貯めて、母に内緒で持って行き渡した。

父は胃がんのため全摘手術を九大病院で受けた。九州一の大学という権威にすがることと、甥の七次(しちじ)さんが執刀してくれたからだろう。はるかな道程(みちのり)を熊本駅で乗り換え、博多駅で降りた。母の手に引かれ、見上げるような、見下ろすような階段を一段ずつ、一段ずつおそるおそる昇り降りしたのを覚えている。そして初めて見る大都会の駅の人の多さに目を丸くした自分の幼き姿が想像される。

父はおそらく喜んでくれ母に言ったのだろう。中州川端の玉屋デパートのおもちゃ売り場に母と一緒に行き何かを買ってもらった。母におもちゃを買ってもらった記憶は後にも先にもこの時だけだ。

胃を全て摘出した姿とその後の生活はプロ野球の王さんを見てもらえればわかる。

明け方のログハウスの布団のなかで思いをめぐらしていた。

そうだったのか・・・。往きの新幹線の中で消息を聞いた。

「・・・んなもの誰だってみんな毎日がん細胞はできている、あいつは気弱になっている。めげるのが一番いけない。西洋医学に頼ってはいけない。一生付き合うことだ。検査だ、なんだで自分の身体を他人に委ねるだけでいいのか、ということだ。元来、身体にはチカラがあるんだ。」「呼吸法だ、余情さんもまだ口から吸っている」「鼻から吸うようにする、こうだ、こう」

発動機を止めて電気を消した林の中から夜空を仰ぐ。ここは本州で一番寒いところだという。彼は「ガリレイは今の我々のよりはるかに劣る、発明したばかりの望遠鏡で土星の惑星を見つけた。いかに目がよくて、感性がよかったか」と説く。

瞬(またた)く間とはよくいうものだ、目が慣れてくるうちにようやく2つほどの流れ星を見た。
誰でも病魔に襲われれば気弱になるだろうとも、考えながら。

生きてほしい。

2008年10月26日日曜日

混じり物は海中生物のウミセミ

 海藻や海草類(以下、便宜上「海藻類」とひとくくりにして言います)を我々列島人はよく食べます。昆布、わかめ、ひじき、海苔、もずくなどです。これらは干したり、塩漬けにしたり、漉(す)いたり、いろいろな加工をして保存して、更にまた加工して食べる食品です。この海藻類を食べることによって微妙なミネラルなどを摂取することができますし、なによりも食卓を豊かにしています。伝統的な食品です。実はこれは列島人には何程でもないことですが、大陸に住む人々はこれらのミネラル分の摂取に大変苦労していることなのです。

 さて、これら海藻類は海の中でその種類だけでそこに繁茂しているわけではありません。いろいろな生物と一緒に暮らしています。収穫のときにいろいろなものと一緒に水揚げされます。商品にとってはつまり混じりもの(「夾雑物」キョウザツブツと呼びます)です。棲息環境や採取方法によっては人工的なもの、つまり異物が混じる場合もあります。これらが非常に多く、海藻類の加工のひとつの重要な点はこの選別作業にかかります。原料の状態に近い場合はなかなか機械だけで選別排除できることではなく、人の作業による、目で見て行う作業=目視選別や、手で触れて行う作業=触手選別が重要な工程(異物除去選別工程)になります。大変緻密で根気のいる作業なのです。

 それが収穫される産地での作業(浜の加工)、原料が仕入れられて行われる加工屋さんでの作業、常日頃大変な苦労のすえに私たちの売り場を通して食卓にあがります。

 例えば「もずく」は沖縄のきれいな海で養殖に成功し増産が可能になり、今では日常の食卓にあがるようになりました。数多くの食品が輸入にたよっているなかで、国産100%で賄える食品のひとつです。その「もずく」も夾雑物や異物の選別が重要でかつ大変な作業なのです。

 それでも、やはり見逃すことがある事例で「ウミセミ」という生物を紹介します。海中生物のウミセミ(甲殻類のうみせみ科に属する動物でえびの仲間の一種)は「もずく」の養殖場付近の海域にともに棲息しており、工場の選別工程でもよく発見される混じり物のひとつです。万一食しても人体に害を及ぼすものではありませんが、商品としては排除すべき対象物です。画像のように目と目が離れてかわいらしい顔をしています。

 工場にて選別マニュアル(もずくをよくほぐしながらうすく広げ、目視と手の感触で除去する方法)に従い、丹念な除去作業をしていますが、これらの工程でごく稀に見落され製品化されることがあります。

 昔は浜のことも畑のことも食の生産の仕事が消費者には身近にあって、その苦労がわかっていて、また自然のものですから、「取ればすむこと、お互い様」だったと考えますが、残念ながら今の社会に「生産の現場」への想像力がありません。「消費者」が「王様」になってしまいました。わたしは想像力が欠如していく社会を悲しく思っています。もちろん、入っていていいという訳でもなく、また更にこのことと消費者主権の確立とは別次元のことです。決してモノを粗末にしない、モノをつくるひとびとのことを足蹴(あしげ)にしないというのが私の言いたいことで信条です、当然のことだと考えています。
 さて、「もずく」製品は個食用にカップに充填されたいろいろな味付けの「もずく酢」が普及していて、簡単便利、お手ごろな値段です。でもそれだけの利用方法ではなくて「塩もずく(塩抜きが必要です)」や「生もずく」が手に入ったら、ぜひ天ぷらやお味噌汁、卵焼き、海藻サラダに、ときには自分の好みの「もずく酢」を楽しんでほしいものです。単価的にも「塩もずく」や「生もずく」の方がお得です。

2008年10月24日金曜日

南島漫遊記 Ⅳ


 最後の夜は首里城周辺を散策し、石畳通りの中腹で最後の晩餐。途中ではここの町内会の会長さんに出遭いワンポイント観光案内をしていただいた。周辺は首里王朝の大臣や家臣の住まいしたところ。この屋敷は今で言う外務大臣の住んでいたところ。彼が「石敢當」の習わしを中国から持ち帰った、ほれそこの小さいのが琉球で最初の石敢當(目立たぬものでした)。いいかな、向こうに見える登りの坂道、舗装道路になっている。あそこも戦前までは石畳。王朝のころ王様が通った。沖縄戦のときの艦砲射撃で何もかも吹き飛ばされたが、こちらは陰になって残った。集会所では祭りの準備が進んでいた。
 
 O社のY社長は47歳で「シュリンチュー」(この見晴らしのある高級住宅街に一軒家を持つ人のこと、住人)。私たちのオーダーを含めていろいろな種類を一皿づつ単品で注文。お勧めは二皿で。この心配りが「素敵ぃ!」とマダムたち。ナルホド、美しきマダムたちのコロシカタを習得した次第。ナンボでも食え、どうだマイッタカとか言う大手組合の役員さんにはできないマター(それはそれでありがたいが)。Yさんの部下のTさん。石垣島でK さんがあの人はインド人だと言っていた訳がわかった風貌の人。確かにターバンを巻いていても不思議ではない。おふたりとも久米島出身のシマンチュー。

 晴れ渡る沖縄本島中部の恩納村漁協では養殖もずくの種付けが始まっていた。わざわざ私たちのために船をだしていただきリーフの珊瑚回復の努力の現場を見学、また加工場ではマダムたちがもずくの選別加工の実体験。厭わずこれを体験される元幹部のこのマダムたちはエライ!

 おいしかったなぁ、案内された地元の食堂。注文名が「ミックス」という皿の単品はアバサー(ハリセンボンのこと)の皮、ナマコ、地イカ、地ダコと野菜の炒めもの。琉球の「浜の食堂」でしか食べられないような珍しいものでした。魚のバター焼き定食は大きな地元の魚をまるごと食べました。ホントに久しぶりに丸ごとの魚を食べた気がします。大勢でいただきましたのでどの魚が出てくるかわからないのです。画一ではない定食はサイコーです。漁協技術指導員の比嘉さんは選り好みしておりました。私があやふやな言い方でもしようものなら、いちいち訂正してくるすばらしい科学者。ここを最後の訪問地として那覇市内の牧志市場にも大急ぎで立ち寄って無事帰って来たのでした。

南島漫遊記 Ⅲ

 島のタクシーの運転手さんから聞いた。この島には5,000人ぐらいの幽霊人口があると。行政が水道の数で把握したらしい。またこの島の米作は二期作ができて「ひとめぼれ」をつくっているとも。

 中新城(なかあらしろ)さんは72歳だ。奥さんと31歳の長男と次男がいて一緒に農業、米作りをやっていらっしゃる。従業員もいてタイムカードもある‘精米店’のりっぱな経営者でもあるらしい。ご自分の足跡と米のことと田んぼとその生き物のことを話せば、まるで長く独房にいた人が久しぶりに解放されて他人と話すように、たて続けに話される。ただし、私は初対面でもあり話の時系列がいまひとつわからない。田んぼも畦も水も虫も貝も鳥も山も品種も掛け合わせ(交配)も何もかも話す。二期作目の稲を手にとりながら話す。水をすくいながら話す。彼の概念に国境などない。今のままでいけば必ず食糧難がくる、飢えるという、だから暑いところでも収穫のあがる品種をつくっているという。「まぼろし」と名づけているそうだ。これをカンボジアやフィリピンに送りたいと。彼は自然交配の仕方を体得した。私にはよくわからないが、これは大変な技術なのだそうだ。

 かつて島の古老たちが「赤米」を「白米」に混ぜて炊いたら、もちもちして香りがする、おいしいと言っていたそうである。「赤米」は南方系、「白米」は普通の米のようだ。彼は「赤米」と「白米」をかけあわせて「赤米のもち米」というものをつくった。それが今では「古代米」とか「黒米」とか言うものになって「ブーム」になった。彼のつくる品種は普通の米と違って1.8mぐらいの背丈になる。今から20年前ぐらいに3年かけてつくった。苗から香りがあるそうで、鳥が降りて来る。鳥が来るから稲が小さいうちに食べられるそうで、彼の田の中には池がある。

 彼は8年前から自分の田んぼを無農薬にした。雑草が大変だったそうだ。「2年でお父さんの時代の土壌に蘇った」と言う。田にいる生物を指差しながら話す。この人の田んぼに「池」があると聞いていたら、確かに田んぼのところに小さくはない水溜り(=池)があった。ここの米を「古代米」という商品で各地の産直事業に供給しているM社のN社長はできるだけ要領よく西宮弁で解説しようとする。出発の時間が迫る。

 あの人の家に行けば本だらけさぁ。あの人が若いころは農協もたじたじだったさ。大先輩だからねぇ、つくっているものは違っても。敬意を込めてパイン生産者の辺安名(へんな)さんは言う。

 海岸にヒルギ(マングローブを構成する海辺の植物)が自生するところを少し北に行く。名蔵地区の丘の斜面いっぱいに広がる赤土、ここに辺安名さんのパイン畑があった。名蔵湾の水面がきらめく。光景だけでも美しい。この適作地と彼の技術で他では手に入らないおいしい国産パインが育つ。みんな内地に送られ沖縄本島でも手に入らないと地元O社の社長はおっしゃっていた。辺安名さんは色が真っ黒だ。47歳、長子は来年大学受験。小さいときは電機も水道もない生活をおくったという。台風が来て急に明るくなったと思ったら屋根が飛ばされていたという。牛も飼っていて、餌代があがり、売る子牛は50万が30万円に値下がりしたという。エサは輸入に頼っているからいけない、国産化をすすめるという国の方策をいう。八重山商工出身で現役時代は応援団団長。

 ご同行させていただいたもうひとりの麗しきマダム。前夜、辺安名さんと会食交流しながら10年ものの古酒(クース)をボトルでたのむかどうかやりとりしていた相手。ボトルは「ん万円」もしたので大手組合の役員をしているヤモメのスポンサーと今度同行したときにはたのむか、などと企(たくら)んでいたお相手(向かいの美しきマダムにはその様子が聞こえていたらしい。一合のクースを追加し皆ほどよく酔っていた)。

 このマダムが自宅でパインを育てるためにここ石垣島の赤土が欲しいという。「いいよ、持ってけ、たぶん育つとは思うけど、思いっきり酸っぱくできるよ」育て方があると辺安名さんはいう。「いいの、観賞用だから」と元気なお方。ずっしりと重い土が入ったバックをりっぱな肩に掛けてお持ち帰り。飛行機を乗り継ぎ、乗り継ぎ品川まで見届けた。土は6kgあったと後からうかがった。

2008年10月23日木曜日

南島漫遊記 Ⅱ

 今回のツワーコンダクターの役割を担ってくれた比嘉さんは心やさしい人だ。蝶が大好きでこの島は蝶の越冬地だという。朝の散歩に誘われた。宿泊したペンションの海に臨む庭の片隅にこともなげに蝶の群れを見つけた。

 八重山諸島の空の玄関口となる石垣空港は滑走路が短い。着陸すると、まるで急ブレーキをかけたように前につんのめる。今日のパイロットは上手だと隣の席の比嘉さんは言う。かつてこの空港を移転して新空港を東部の海岸、白保地区の沖合につくる案があった。完成すればちょうど現在の奄美空港のイメージだろう。だが、これはかけがえのない白保の珊瑚群落を破壊することであったので、集落住民だけではなく自然保護団体、研究者が立ちあがった。声をあげた。住民運動があった。離島である島全体では新空港が望まれ、その住民運動にも紆余曲折があったようだ。今は海上埋め立てを伴わない条件で、白保地区の北部に建設ということで決着しているようである。

 この住民運動に関り、その後この地方の価値ある産物を販売することによる支援、あるいは掘り起こして販売を手がけることに転じた故人。その後継者の会社の人たち、同じく研究者に転じた人を紹介された。会社はM社という。故人となったU氏とはあのころすれ違ったことがあるような気がする。商談室で会っていたかもしれない。電話でも試食用サンプルをお願いしたことを覚えている。ずいぶん声の落ち着いたご婦人だったような印象は残っている。M社の扱う内容は私の職場とは開きがあるが、まんざら異業種でもないので交流を深められた。

 白保の海岸で後継者のNさん(M社の現社長)から運動の歴史とお話を皆でうかがった。この人もご婦人。部下で営業のKさんも石垣島出身のシマンチュ―で、子育て中のご婦人である。WWFの施設(注)では日曜朝市をやっていて出店していた新城(あらしろ)栄子さんというご婦人を紹介いただいた。ここの海人(うみんちゅ)の住民で運動を担った。この人がこの海岸の「天然もずく」の採取加工の生産者であるということも知った。 
 注:WWFジャパン白保に設立されたサンゴ礁保護研究センター

 この日曜市で新城さんが売っていた「ほら貝」をちょっと迷って、えいやで買い求められたのが今回ご同行の麗しきマダム。気にいられたらしく、壊れ物だからその後の行程でご自分の頭は強く打つことはあってもこのほら貝だけは守り通された。「木口小平は死んでもラッパを放しませんでした」(日露戦争時の軍国美談)とご自分からおっしゃっていた。誰のことだかは言えない、我社にとっても前会長の覚えめでたき‘やんごとなき’お方。お江戸の地元、下町の職人に依頼して吹き口をこさえ、次のツワーでは集合の合図にお使いになるそうな・・・。

2008年10月22日水曜日

南島漫遊記 Ⅰ

「暑いところから来たさぁ」が訪問地最後の本島中部の漁協の参事さんのあいさつだった。おいおいここも29度はあるぞと内心苦笑い。「こちらはもう秋さぁ」先島は沖縄本島にとってもはるか遠いところ。あそこは復帰前の沖縄(ウチナー)があるさ、復帰前の祭りはこの辺でもああだったさぁ。どこに泊まるの?ゆっくりしていけるの?「いや今日で4日目、夕方東京に帰ります」

竹富島の民家の白い石垣の上には桑の実が成っておりました。ミンサー織りを体験できる資料館は休館しておりました。年に一度の、住民が、ここを故郷にする人たちが待ちに待った祭りのために。私たちも数多い観光客としてこの地を訪れました。「種子取祭(たねとりさい)」の奉納芸能が行われるのが今年は金曜日土曜日にあたるというので誘われました。シマ・ナイチャー(島=沖縄出身の本土住人のこと、いろんなニュアンスがあるらしい)の比嘉さんに引き連れられて。早朝我家を出てきてようやくたどり着いた。

ここで紹介いただいた学者さんによると(よく聞き取れなかったが)、夏は暑すぎて秋から農業に入る。粟の栽培らしい。それで種子からとる「種子取祭」らしい。作物の豊穣を神に祈る約600年の歴史を持つ神事。私たちが着いたのは午後で既に御嶽(うたき、沖縄の神社のこと)の舞台で奉納の多種多彩な芸能が演じられていた。島の2つの集落が2日間にかけて出し物を演じる。

そんなにあるのかと感心するほどの演目である。先島に伝わる琉球古典芸能。古式の舞踊、民謡。中には「ちっちっちっ、ほっほっほっ」と調子がよいリズムの民謡がある。狂言がある。芝居といっても歌舞であるが、台詞は方言だからさっぱしわからない。琉球にも「さむらい」という身分があってユーモラスに描かれる、庶民のしたたかさ。「さむらい」はヒゲを大きく蓄え、身分が高ければ厳(いか)つい冠を頂く。大太刀回りがあって見事だ。ナントカの「敵討ち」という演目ではかぶりつきの観客席に向かって太刀や槍がすんでのところで突き刺せるような仕草はなんともユーモラス。毎度の太刀回りでそれを演ずるから、客席もそれを期待してやんやの喝采だ。

学芸会はいつまでやっていたのだろう。自分の台詞を覚えるのでせいいっぱいだった。舞台に上がれば胸がどきどきした。知ったひとや親が見えればそれだけで頭が真っ白になった。

この素人の村人たちはこの日のためにいくつもの演目の台詞と演技を覚えたのだろう。いや、国立劇場でも演じたことがあるらしいから素人とはいえない、たいしたものだ。

御嶽(うたき)を背景にした正面には村の長老や来賓たちが並び、向正面には子どもたちが並ぶ。朝から夕方までみなずっと楽しんでいる。大人たちにはオリオンビールやお神酒=泡盛が振舞われる。正面からは横の席だが、舞台の背景幕からみれば正面は一番広い。ここが主に観光客が陣取る。席といってもゴザのような敷物に直に座る。村人のための大事な行事であるが、余所者である観光客のために実によく開放されている。テントを張って屋根がこしらえてあるから上からの直射日光は遮られるがそれにしても暑い。

この島の住民は300人ぐらいだという。2日目には東京から駆けつけた島出身の郷友会の代表が紹介された。なんと駆けつけたのは140名という。

初日の夕暮れから「世乞い(ユークイ)」の行事に夜遅くまで付いて廻った。そして見よう見まねの作法に則り参加した。月のきれいな夜で10時半の臨時の最終便で島をあとにした。

宿をとった石垣島から通ったので、両日とも朝と暮れの行事には立ち会わなかった。次の機会の楽しみに残しておける。専ら舞台を堪能した。なにか一生分の琉球舞踊と民謡を味わった気がする。


2日目の夕方、ほんのひととき島のコンドイビーチで海水浴を楽しんだ。ホントに何年かぶり。「水着だ!」と準備していた麗しきマダムたち。足をつけるだけかの仕草の後、素早く着替えてためらわず海に入った。この日は恐らく海に沈む夕日が見られたかもしれなかった。この日のフェリーの最終便の時間のために再び竹富島をあとにしました。 ~つづく~

2008年10月21日火曜日

南島漫遊記 序


「商品」で利用することがあったその生産者のみなさん。毎年日本で一番に田植えをすると言われる方、商品名で言う「黒米」を復活させこれを意欲的に作られていました。石垣島の白保で「天然塩もずく」をつくっているご婦人、石垣島の名蔵湾を臨む赤土の斜面でパインをつくる農民の方。機会があって紹介され、休暇をとってみなさんと一緒にお会いしてきました。そしていつも利用する「もずく」をつくる沖縄本島の漁協の皆さんを紹介し、再会してきました。どちらも景勝地でした。

2008年10月16日木曜日

伏目海岸の砂蒸し温泉

 どんな癒しのサロンに高い金を払って行くよりも効果があるのではないかと考える。

 学生時代、最初の春休み、ふらりと奈良の友人が訪ねてきた。今、駅だという。一晩泊めてやり、お前も行くかと言うから一緒に県内をまわった。さすがに関西人だ、玄関先で「今晩部屋はあるか、それで幾らか」と交渉した。そういうことをしたことがなかったので、その後の人生で参考になった。

 国民宿舎でレンタサイクルを借りた。海の近くにおもしろい形をした山が見えるので目標にして行ってみた。あたり一面菜の花が咲かせてあった。たどりついたのは伏目海岸というところで海岸段丘になって砂浜があった。その砂浜の一部分から水蒸気が上がっていた。近づいてみると砂が相当に熱い、地元のひとがふかし芋をしている。おもしろそうだからやってみようということで近在の農家を訪ねた。

 当時は牛糞堆肥の類の匂いが全体に漂い、農家の軒先では蝿がすごかった。芋を買い求めようとしたが、老人の話す南の薩摩弁は私でも簡単には理解できなかった。今ではそういう老人はいない。海岸に帰り試してみたら見事にふかし芋ができた。旨くておもしろくて胸焼けするほど食べた。

 卒業の年に彼女とも訪れた。その人が生涯のつれあいになってその後何度も訪れた。

 まもなくして地熱が吹き上げているところは町によって「砂蒸し温泉」の設備がつくられた。砂浜はほとんど消失し、海岸はテトラポットのようなコンクリートで守られる景観となった。近くには最近、公営の大露天風呂の設備もつくられた。遠くから訪れる客も多くはなったが、本土の南の端でさほど混んではいない。

 寄せては返す波の音を聞きながら、仰向けになり、掛けてもらった砂を布団代わりに、砂の熱さと重さでしばしウトウトする。海風を受ければなおここちよい。
 上がりの温泉のお湯はまるで捨てているように出てくる。お湯から揚がれば海から突きでる薩摩富士を眼前に仰ぐ。ぷはー。

 ぜいたくをするというのはこういうことだ。私は常々そう考えている。

 鳶がぐるぐると舞い、雲が流れる。

 開門岳の頂上の表情で明日の天気がわかるという。
“きびなご”が獲れ過ぎれば地区の有線放送で取りに来いということを聞いた。

 露天風呂には赤蜻蛉、足元には猫がじゃれついてくる。

 ここちよいと思うところにカラダを持ってくればよい、何にしがみついているのだ、ひとの役に立つことをせよ、理念はあるか、そうして生きていけるではないか、戦争を知っているか、という人に出遭った。東京に帰れば温度差。体調が芳しくない。

のせどん

 母の里は麓集落。麓集落とは地方の半農半士といわれた武士集団が住まいしていたところ。その集落の国道沿いの四つ角、停留所のところにあったのが「のせどん」と呼ばれる和菓子屋さんだった。盆と正月はおばあちゃんのところに「ごっそ(ご馳走)」にお呼ばれして、夜このお店の前で帰るバスを待っていたものだ。今では本業が粉屋さん。小城製粉(こじょうせいふん)という。地元では「のせどん」は誰からも親しまれている。ただのお菓子屋さんではなくて粉からこだわる、嵩じて粉屋を始め、製粉業に転じた。

 もう30年ぐらい前になるのか、まだ小さな会社だったが夢を聞いた。ずんぐりむっくりした専務(当時)さんだった。品質の追求、そして当時からこぎれいな管理、食品加工の基本のキのできた企業、工場であった。だから決して価格で安くはなかったが、安心と信頼でむしろ大きくなった。次々に街の和菓子屋さんが廃業していったなかで、生き残っているどころか、この間、素敵なお店をリニューアルオープンした。「かるかん」、「いこもち」などは郷土のお菓子。これを伝統的タイプに則ってつくれる、また創作も取り入れている。私はわざわざ足を延ばしてここで買う。人にも贈る。ただ息子にいわせると「重い」という。たしかに今はライトでむしろ包装やお店のイメージコンセプトでチェーン化したところが、勢いがあるようだが、いまひとつ納得いかない。なにかが違う。
 機会があればこのお店を訪れてほしい、また小城製粉のつくる製品(米からつくるものが多い)に注目してほしい。日本の片隅にこだわって何十年、地元密着型の中小企業がある。

2008年10月15日水曜日

「田舎や」をつくった変人



 あなたにはなにかがあるとつれあいは言うが、偶然の所産には違いない。
 バブルのころ別荘地の宅地造成をしてやり散らかしたような山の中腹に迷い込み、そこから下りてきたら、その「田舎や」があった。ずっと行ってみたいと思っていた。

 時間もなかったが、車を置いて覗いてこようと向かった。そしたら、まさに出口から車で出て行こうとしたオーナーに出くわした。

 エンジンも切らずに「なにか?」と言う感じで不審者に臨むようにワゴン車から降りてきた。こちらの1万円で泊まれるコテージをみせてほしいということと、実はということでここを開発した経過を訊ねた。

 理念というものを持っているか。理念をもつことである、少子化、家族の崩壊、高齢化に役立とうと思っている、いきなり尋ねてきた私にとうとうと持論を述べられた。

 聞けば当地の人間ではなく、元は大宮のカメラ屋さんで通信販売なども手掛けてきたが先を見限り、移住と次の事業を考えたらしい。全国各地を訪ね20箇所ほどを候補にしたが、結局住みやすさではここが日本一だと考えたという。目の前の竹山(という絶景地)を借景とし、海があって薩摩富士と謂われる開門岳を望むこの地を気に入り「雑種地」2000坪を買い求めた。藪の草刈から始めた。飛行機代を使って草刈りに来たと言われた、開墾をしたが、国立公園地内で家を建てるには道路から20mは市の指導、県は50mの指導で引っ込んでいること、不動産屋からは何も知らされずに土地を買った。親子が楽しめる施設、家族みんなで泊まれるコテージをひとつひとつ大工さんと一緒になってつくった。温泉も掘った。バーベキューもできるようにした。食糧が無くなる、自分は戦争を知っているから芋の大切さを知っている。芋ひとつで生き延びてきた、今の人は食がわからない、脆い。

 次は行き場のない老人の終の棲家を提供したいと考えている、年金6.6万円で食事付の施設を。どうするかわかるか。生きていけない現状にしがみつくのではなくて、ここちよく生きていけるところに身体をもっていけばよい、という。わかった、今度ゆっくり泊まりに来るので是非またお説をうかがいたい。彼は私の名前すらきかなかったが、「おう来い」と。

 平日は1万円であるが、連休は1万6千円であることも冒頭に言われた。理念を持つ人はしっかりした事業家でもある。

 田舎やのスタッフにも会ってきた。☆清掃をしていた人はアジア系の人、親切に施設を案内していただいた。 ☆ヤギのメイちゃん(草刈り担当) ☆柴犬のマイちゃん(警備担当)寝っ転がっていましたが。 ☆ネコのミーちゃん(いやし担当) ☆子ネコのミーワン、ミーツー(いつも元気) ☆チャボのチャボチャボ ☆ニワトリゴイシと地鶏

2008年10月14日火曜日

あら、誰かと思えば


 今年は南から帰って来るたびに温度差に見舞われる。故郷に滞在中は冷房を付けっぱなしだった、持っていれば半袖で足りた。海に沈む夕日を見たかったが、その機会のある日は雨に降られた。あとは晴れてよかった。故郷は温泉天国、食い物はうまい。つれあいの気に入るところ。

 昼食時間になって母を皆さんと一緒に居るテーブルにつかせた。しばらく食べる様子をみた後、施設の人たちにも挨拶を済ませた。「お母さん、また来るね」と声を掛けて別れを告げたら、こちらを向いて「あら、誰かと思えば」などと言われてずっこけそうになった。「バイバイ、バイバイ」といつまでも手を振って笑顔で別れてくることができた。

 私のことも、妻のことも今回は直ぐわかった。だが、前までは壊れたテープレコーダーのように同じことを繰り返し話しかけてきたが、今回は言葉少なでこちらから語り掛けなければおし黙ったままだった。昔のことなら聞きだせることがあるので、アルバムを見ながら話しかけたが、もうぽつりぽつりだった。会わぬ間に体調を崩したときもあったようで、さすがに衰えを見せていた。これまでが歳相応とは思えぬほどに健常だったから。それでも自力で歩けて食事もとれる。

2008年10月9日木曜日

いざ帰りなん


 普通に帰ってきたら、あなたのところは大変なのだから、節約しなさいと言われた。私は大丈夫だからと言うのが口癖だった。そうではなくて出張のついでだと言ったら何も言わなかった。母がまだ元気だったころは気丈夫で始末屋だったから、それなりに気を使った。

 今では子どものようになって明日はどうなのか、次はいつ来るのかと聞かれる。見送りしたいと言われる。これを振り切って帰るのがつらい、そのたびに鬼になるしかない。

 夏休みはとれたがほかのことに使った。7ヶ月ぶりになる。施設にお世話になっている母を見舞う。先月、兄夫婦が帰ってみたら肺炎に罹りそこなうところで大変だったという。認知症はすすんでいるだろう、たまにしか帰らぬ私のことをわかってくれるだろうか、覚えていても私が子どもなのか弟なのかわからないと言うかもしれない。

 いつまでもあると思うな、親とコメだ。早朝出立。

2008年10月8日水曜日

なんだったのだ


 安い、簡単便利の方針は降ろしていない。

 中国産は「売れない」から企画ができない。あの事件の前に契約したり、起用したりした中国産製品は引き取れないか、不良在庫化している。
 「売れるから」国産にシフトにし直した。猫なで声で国内の産地や製造者を囲い込みに入っている。いまさら恥ずかしさもなにもない。中国産でさえなければよいから、台湾産やタイ産、ベトナム産にも替えている。こんなこと本質的な取り組みでもなんでもない。

 春までの、値上げ要請を蹴飛ばしてきたあの威勢はない。手に入らなくなるからだ。だが「安く」なければ売れない巨大組織をつくってしまったから、目先を変えるように、例えば400gを300gに、8個入りを6個入りにどんどん替えている(そのこと自体は結構だが)。もはやその手の提案は慣れっこになって大手を振ってまかり通る。今度は実質値上げの躊躇、恥じらいもない。あのときカメラの前で頭を下げた幹部が目標として行き着いた先、仕入先はあこがれの「一流企業」「大企業」。

 生き残り戦略として組織合体、その成果として低価格路線、その手段としての海外(中国)加工になんのためらいもなくシフトしてきた。低コスト(低賃金)でなお且つ細かく難しい加工を求めてきた。その工場のその工程室(「車間」という)だけは明るく清潔だった。が、その工場を一歩出るとどんな状態であるかということには目を塞いできた。中国の「○○集団」を率いる経営者たちがどれほどの志や見識も持っていないことも見抜かずにきた。米国式や国際的なHACCEPやISOが取得され通じればそれでよかった。なんといっても驚くほどの安さと加工度が、現地で一貫して作れば実現するという魅力にとり付かれた。冷凍食品はその好例。60%以上の値入率が可能であった。経営を維持できる、赤字を押し返せる、事業連合をつくった成果を具体的に表現できる。ひたすらそういうことだった。この事態でまじめに取り組んできた中国のパートーナーすら庇うこともできないご都合主義に陥っている。

 一例が西のある我社グループ事業連合のやっていること。さつまいもの加工品(おさつ棒、大学芋の類)を地元が産地でありながら、生産者と加工屋さんを捨て安くてボリュームがあるからといって中国産にシフトしていた。が、全く売れなくなった。つまり消費者に見捨てられた。いまさら、国産の加工品の仕入れに加わらせてくれと言ってきているという。情けない。保身と目先の成果だけを追及してきた。

 虚勢を張ろうとも、物流を実質めぐんでもらい、商品までひろってもらう。やがて名実ともに我社の傘下に入るだろう。なんだったのだ。

2008年10月7日火曜日

父方のこと


 祖父は徳蔵という。幕末の生まれ。嘉永元年(1848年)、篤姫さんが12歳のころだ。父は明治37年(1904年)の生まれ。日露戦争の年だ。小林多喜二さんの一つ歳下、元首相の福田赳夫さん(康夫さんの父上)より一つ歳上。それぞれが50歳を越してから末子を儲けた。

 祖父は金山で財を成したらしい。父は何故か神戸の山本通りという高級住宅街で生まれ、水道の水で産湯に浸かったというのが自慢だった。祖父は男児には鶴亀、松竹梅からとって名を付けた。父は長兄の鶴蔵に事実上育てられたらしい。だが、なぜか父だけは次郎という名だった。

 鶴蔵は大正年間に醸造業を興した、正しくは蒸留業と呼ぶべきだろうか「しょつや(焼酎屋)」と呼ばれる。○○山の伏流水が湧くというそのローカルな地名をブランド名にした。これを継いだのが次男の喬(たかじ)という。俳優の志村喬さんと同じ名前で分厚い唇が同じ特徴だったなという印象がある。父は甥だから呼び捨てにしていた。喬さんは父と3つしか違わなかったが父を叔父さんと呼んで立てていた。このように父の実家は焼酎屋だった。だが、分家の末子である私にとっては「本家というところ」でしかなかった。おもしろいことに父方はみな下戸で、母方はヘビーユーザーだった。血筋からいえば喬さんは私の従兄弟で、本家の当主としてよく分家には目を配っていた。私にとっては世代がずれてしまい、今の本家の当主は喬さんの子、孫、ひ孫の世代でありもはや親近感は遠い。苗字が一緒というアイデンティティーだけという感じがする。本家との関係では父も末子、私も末子で随分歳が離れ、世代がずれた。

 喬さんは営業で自ら全国を飛んで回ったと母から聞いていた。30年前に第1次のブームがあって、当時は「白波」のような有力ブランドにのみ恩恵があった。今は第2のブームで、とうの昔に日本酒を凌駕し、もはや女性にも親しまれている。今、本家は有力ブランドのひとつである。身内の贔屓になるが、じゅうぶんに芋くささのある芋焼酎で、個性が強くて、嵌(は)まればリピーターは多いと思う。

 おていおばさんという品のよい親戚の人がいた。なにかあれば必ず本家の人と同じように寄ってくれた。この人が亡くなっても、どういう関係か知らなかった。父が祖父の後妻の子であったことは承知していた。戸籍を調べて私たち兄弟は驚いた。「てい」さんは父の実の姉であった。つまり伯母さんだった。それで父が2番目の子という意味で「次郎」だとも想像できた。父からも母からもおていおばさんが、実の伯母さんであるようなことは一度も聞いたことがなかった。なにか事情があったのだろうか。あまり顔つきも似てはいなかったように思う。父の母つまり祖母は一時期父母と暮らしたことがあるそうだが、外地での生活であったのでホームシックになって帰ったらしい。戦前の話でそれ以上は知らない、兄姉にもあまり記憶にはないようだ。

 我家では妻も娘も次男も本家のブランドを嗜(たしな)んでいる。

2008年10月6日月曜日

ふたりのイトーさん

 「最近サボリっすね」と声をかけてくれるのが人気者で職員のイトーさん。ハンドボールをやっていたらしい。25cmの足、170cmを超える今様のカッコよさのある娘さん。マクドナルドの新しいメニューとそれを食べた感想がソラで言えるそうで、それを掛け声にするらしい。いつか家族を持つようになったとき、ちと食生活がシンパイ。仕事でなかなか出られない。たった30分のアクアビクスがしんどい。気合、キアイ。

 もうひとりはラミさん。教室はいつも満員。BGMはアジアンテイスト。浅黒い肌、目の輝き、なまりのある言葉。名前からして、元は日本人ではないようだ。でも日本姓をもっていて会話は完璧。ただ一点、「つむじ」が「ツモジ」という発音になる。つれあいがサウナの井戸端会議で聞いた話によれば(かしましいことだが)、子供が二人いて独りで育てているらしい。理屈とユーモアを交えて私たちに反復練習をさせる。下腹、お尻をしめて力をいれて、「フカーイコキュッ」鼻から吸って口から吐く、「フカーイコキュッ」、ふとももに上半身のせて首と頭はダラン。合掌の手は上に、ツモジは天井にひっぱられるよう、伸びる、のびる、のび~る。腰を高く挙げてきれいな三角形。下腹、お尻をしめて手はのばぁす。足の裏はくっつけて伸ばす、のばぁす。濡れた雑巾を絞るような汗。捻る、ねじる、ネジル、お腹の「浮き輪」をとるように。このインストラクターのイトーさんはカリスマ的な人気者。教室はいつも超満員。

  つれあいは格好から入る。専門店に行ったら5、6千円したからあきらめていたが、私が遠いところを自転車でイオンのお店に探しに行って買ってきた。さすが、トップ企業PB商品1,280円で品揃え。つれあいは喜ぶ、それがうれしい。私は後日リサイクルショップで498円をみつけて使っているヨガマット。長身のイトーさんに「アイジョーっすね」と言われる。
 一緒に腸腰筋(チョウヨウキン)を鍛える。私はこれで体重が安定し血圧も抑えられる、硬くて伸びない身体が少し三角形をつくれるようになりつつある。

2008年10月4日土曜日

行かねばならぬ


 私には「命の次に大事なもの」がゴマンとあって心の平穏がない。

 腕時計とカフスが片一方みつからない。肥後象嵌(ひごぞうがん)のカフスボタン、ドルチェの腕時計。

 階下から、行くのか行かないのか、弁当が要るのか要らないのか、矢継ぎ早の「お問い合わせ」。行く、要ると応えるが起き上がれない。
 這って降りて行くと「飲むなとは言わないが、程度というものを知れ、周りに迷惑を掛けたのだろう、恥ずかしい、ああだらしない、κΘ仝≠≦・・・」とたたみかけられる。「まとめて夕方に言って」と嘆願するが収まらない。

 昨日のぶどうが食べたい、梨食べたいと訴えれば、自分でやれと言いながら、しばらくして出してくれる。やっと「鬼」が普通のひとに見える。

 カフスは床の上から、腕時計は枕元から出てきた。「行かねばならぬ」で出勤した。

 私は職場ではビシッとしている。びしっと。誤解召さるな。闘う曹長である。かもしれない。

 それにしても思い出せない。帰り際に何か深刻な話を聞いたような気もする。

2008年10月2日木曜日

南の島へ


 政治家は世襲で総理にでもなれる。この国の有権者は甘い。

 妻の祖父は自転車を駆って行商から身を起こした。山の片田舎から大きな港町の一等地に店を構えた。繁盛したらしい。古い住人ならここの屋号を知らぬ人はいない。キリスト教を信じ篤志家であったらしい。孫たちには聖書からとって名前をつけた。舅殿、義兄は長男で家を継いだ。チェーンストア展開なんぞ発想したりする才覚はなくひたすら暖簾を守ったが、やがて街と一緒に商いは傾いた。現金収入のため義兄は50近くになって求職したが、現業の仕事しかなかった。職にありついたはいいが、すぐにリストラが吹き荒れた。現場の人員が一番に削られ、中途雇いの中高年にモノは言えなかった。肉体労働の負担増はひたすら耐えるしかなく、リストラの対象にだけはなりたくないという一心で頑張ったと、姑さんは言う。休みもとれずローテーションも常に重くのしかかってきたらしい。やはり無理がたたった。病に冒されていた、しかも難病に。

 昨年、義兄の長女の結婚式があって招待された。停留所を降りてしばらくして後ろから声をかける老人がいる。その痩せた老人が義兄であるとすぐには気付かなかった。遠く離れた県都の病院を一時退院して帰ってきたらしいが、同じバスに途中から乗ってきたことすら気付かなかった。

 私は披露宴の終わりの万歳三唱を受け持った。一世一代の音頭取りだったと人のいい妻の親戚一同が言う。これは語り草になりそうだ。

 台所事情のことは慮(おもんばか)れたが、義兄夫婦に思い切って病気回復後に南の島に旅行に行くことを誘ってみた。お舅様夫婦も数年前に連れて行き人生が変わった。東北の港町では想像もつかない世界があった。「実はこの歳になるまで飛行機というものに乗ったことが無い」と言う。両親を送り出すだけで遠方の旅行など滅多にしたことがなかった。一晩考えて「行ってみたい、医者に相談する」という返事が返ってきた。

 あれから1年近くになる。退院はしたがまだ行けないという。ただそれだけを楽しみにしているという。励みにして療養しているという。

2008年10月1日水曜日

メラミンの害


 その痛みが襲ってきたのは秋分の連休の時だった。その日は穏やかな日和でベランダのガラス戸越しに野良猫の遊び相手をしていた。突如、ただ事ではない痛みで、市の救急センターへ駆け込んだ。尿に潜血反応があると言われ救急病院へ回され、集中治療室へ入れられた。なにやら痛み止めを打たれたり、点滴を打たれたりして、当直医にどうかと訊ねられたが、少しも治まらないと訴えた。モルヒネだからたいがいは治まるはずだがと、怪訝に言われた。例えていえば、身体の内側から画鋲をブチブチと突き刺され続けているような痛みだった。尿路結石だった。幸いその後、石も体外に出てさほど大事には至らなかった。話してみたら経験者が多いことも後日知った。これが30代後半のときだった。

 ネフローゼに罹り入院生活を送ったのが18歳のときだった。幽体離脱というのか、自分が客観的に見えた。苦しかったが死ぬ気はしなかった。しかし打撃的に身体が弱ったためか、いろいろな病気を併発した。鈍い頭痛が続き絶えず吐き気がした。胸に影があることと加えて、髄膜炎が疑われ、検査の結果、結核性髄膜炎と診断された。腰の脊椎の間に太い注射針を刺して髄液を採取して検査する。内科医の先生だったのであまり巧くはなかったようだ。神経に触れれば下半身に拷問の電気が走ったようだった。病気よりもこの検査の方が恐怖だった。薬の副作用もつらかった。闘病の結果、克服した。なんといっても若かった。

 腎臓結石(尿路結石)と髄膜炎を発症する危険性があるというメラミンの害。
 私は両方とも発症した経験があって、だからメラミンを食品に添加するなど、とんでもないことだと身を以って言うことができる。