2008年8月31日日曜日

我家のさんま


 さんまの季節、昨夜留守電に「送るぞ」と電話が入っていた。ちょうど酔っていたころ。

 この人の目利きの魚を食べるようになって、スーパーの魚が食べられなくなった。

 売り場の過当競争が嵩じて、「走り」もより早くなった。ふた昔も前なら今ごろが十分「走り」のようなものだったが、昨今そうではない。だから生産者の価格はもたない。店頭の価格は128円ぐらいから158円ぐらいになっている。水揚げ高をあげるためには量をたくさん獲るしかない。それがまた価格を下げる悪循環。何回かの休漁を申し合わせる。

 3年前に北海道の野付の食堂で「走り」のさんまを食べた。7月下旬だった、北海道のはるか東の漁場の試験的操業で獲ったもので市場に出回る。小さいが脂がのっている。最初は小型船から操業が許可され8月の初めには首都圏にさんまが出回るようになる。結局生産者にとって価格がもつのはその頃ぐらいまでで、あとは一挙に下がっていく。「走り」が嵩じて、こういう競争になる。

 待っていさえすれば、さんまの群れは道東沖に集まり、やがて南下を始め三陸沖に漁場を形成する。それが秋という季節。順に近くの漁港から獲りにいけばよいのだが、ところが、より早く獲ろうとする。そして「さんまは道東沖」という売り場の創り出した「神話」にも呪縛される。

 売り場の側で「さんまは北海道」がよいという決め付けが創り出されたと思っている。それもカタログを持つ我々のグループによってではないかと思う。
 夏から初秋にかけては長く北海道沖(道東という)にさんまの魚群はいるし、また太ってくるから確かに旨い。しかし、秋になれば一気に次々と三陸沖、常磐から銚子沖へと南下する。一般的に回遊をし、婚姻と産卵の準備のために移動する魚群の第一群つまり最初のころの群れは「チカラ」があって、旨い。「走りの良さ」の本質はそこにある。早ければよいというものではない(早さを競った江戸っ子気質なら別だが)。

 すぐ近くの沖合でとって近くの港に水揚げする三陸ものは、決して北海道のさんまには劣らない。第一群、第二群、・・・、といった有力な魚群が主体だからだ。
 北海道と三陸の中間に漁場がある時期、意識的に北海道にもっていって「北海道のさんま」にすることもある不合理。「さんまは道東」という中には、杓子定規な「虚構」がある場合がある、安直な売り場のコピーのためのもの。

 北海道ではさんまは根室にあげ、より漁場に近い厚岸(あっけし)に揚げた。根室、釧路という加工基地があるが、昔は魚種(とくに秋鮭や蟹と時期が重なる)も水揚げ量も豊かでさんまどころではなく、それで厚岸だけが専門の漁港になっていった。

 三陸では気仙沼がブランドだったが体質が古くて捌ききれず、量を捌く女川(おながわ)に漁船は多くを水揚げした。以北の漁港に比べれば、消費地への距離が圧倒的に有利だった。

 その女川で水産加工業を営むAさん。加工業といっても浜の加工屋さん。港でダンプごと買った魚を加工場の巨大な魚槽に運び込み、仕立て直して消費地市場に出荷する。九州なんかの事例を示して、当時まだ珍しかったコンシュマーパックまでやるような食品加工工場への発展をすすめたが、応じてはくれなかった、20年近くも前のこと。魚はいくらでも揚がっていて、また魚の目利きに覚えがあって、その必要を感じなかったのだろう。北海道・三陸は日本の大量漁獲の水揚げ基地、供給地として食っていけて必要を感じなかったのだろう。産地での付加価値加工のことだったが、荷捌きで手一杯だったことも事実だ。

 やはり破綻した。大量水揚げがなくなった。釧路も気仙沼も女川も有名漁港の老舗はほとんど没落し、日本の有力漁港の賑わいの灯が消えつつある。代わりに勃興してきたのが、商社や大手水産会社と手を組んで「検品と技術指導」ということで中国に進出して工場を営み帰ってきた目先の利いた加工屋さんたちである。漁港における有力加工屋さんの力関係が変貌していた。産地、食品加工工場の経営である。彼等にとっての港や産地は「中国」である。中国からは剥き身の切身やかにの棒肉、骨無しの切身やフィレー、もろもろの加工仕掛品がやってくる。この「水揚げ」も長くは続かぬようには思えるが・・・。

 女川のAさんは、浜の魚の荷捌きをする。目利きはプロだから、私にはいいものを送ってよこす。だからいいものがあがったときにしかよこさないから、こちらの都合はおかまいなしの時があって大慌てする。

 水揚げが激減してさすがに食っていけなくなったようだから、養殖の銀鮭も手掛け、そして魚の一次加工なども常時手掛けるようになったらしい。聴けば我がグループの取引先の下請けのそのまた下請けのようなものに甘んじているようだ。
 出遭ったころはまだ若くて子育てや教育のことなども話題にしたが、Aさんもそろそろ60に近いらしい。それぞれの人生、大病もしたらしい。大成しなかったような気がするが、チマチマしたことではなくて、信頼し合ってその腕と人生を認め合っているような気がする。

 「腕が落ちたね」というころは孫のことでも話しているころかもしれない。
 急遽、独立した子供達をそれぞれに呼んで、さんまの刺身、塩焼きを楽しんだ。我家の「走りのさんま」。ほかでは味わえない。

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