2008年7月31日木曜日

赤城の山も


1、674mありましたが、1、400mまではあっという間にバスで登りましたので実質200mのハイキングでした。しかし、さすがに涼しかったですね。頂上はガスってしまい眺望は見られませんでした。昨年は鍋割山でした、登ってみたら、園児の一団に出遭いまして、なんだこりゃと思ったものでした。今年は地蔵岳、小学5年生の一団と遭遇しました。帰りは富士見の湯に浸り、久々の温泉で生き返りました。隣の「ふれあい館」という地産のお店で、近辺の高原でつくった野菜をしこたま買って、うまかったなぁ、その夜。とうもろこし「ゴールドラッシュ」種、トマト、ゴーヤ、あれこれ。公民館の行事に参加して行って来ました。夏バテ、人間マシーン化していましたので息を少し吹き返しました。束の間、今宵限りでした。1日休めばその分仕事が溜まっていますので忙しかったなぁ、今日の仕事。

引率の先生、ひとつふたつは花の名前も覚えて帰ってください楽しいですから、と。えーと、えーと・・・

2008年7月29日火曜日

先の見えない行進


 日本人は長くお茶を飲んできた。作法があったり、こころづくしがあったり、世間話があったりして。その昔、医食同源、薬としてまだ当時は新宗教のようなものだった禅宗のお坊さんによってもたらされたという。江戸時代、農民が喫茶をするとはけしからん、贅沢怠惰として何度も禁圧された。そんなことにはおかまいもなく、日本人の食生活になじんできた。庭にお茶の木を植え日常のお茶をたのしんできた。

 それが今ではペットボトルで飲む。加工飲料の主流は紆余曲折を経て結局、茶飲料か水に落ち着いてきた。おいしい果汁や珍しい野菜汁、魅惑的なフレーバーにあこがれもしてきたが、糖分の摂り過ぎにも気付いたし、なにか落ち着かなかった、そういうこと。メタボを脅迫して「濃いお茶」もある。

 猛暑に臨んでお茶のペットボトルがタイトになって調達部隊はいきなり右往左往する。みずもの。事業的には儲かりもする。ただしペットボトルはリサイクルしても確実に消耗する。誰かが儲かり、地球が損をする。今の私達が「豊かさ」を享受し、あとの孫達が「貧しさ」に泣くかもしれない。「便利」は後戻りできない。「豊かな」国の安くて簡単便利、ラットの行進。

迫真


その場に臨んでこの耳で聴く、表情も目の動きも所作もこの目で観る。熱意。
活字ではわからない。
若者を使い捨て。お年寄りを切り捨て。亡国の農政。貧困。
人間が人間として大切にされない寒々とした、バラバラにされた「自己責任論」。
意図的な分断と対立。生産者と消費者。正規と非正規。年寄りと若者。
真の人間性とは何か、全力を挙げて生きる、迫害に頭を下げない、傍観しない。
こころにこたえる。

2008年7月25日金曜日

ブンガワンソロ


映画「いのちのたべかた」で工業としての農業、一部は工業としての鮭養殖も垣間見ました。大きな動力を使って流れ作業のようにつくられる大量の食べ物です。
食糧の「豊かさ」をそれによって受けています。

人間は自然というものに働きかけ営々と食べものをつくってきました。受け継いできました。インドネシアにおける「農業としてつくるエビ養殖」もその例です。マングローブの伝統的な開発(利用)の方法により、育み育てる生命のエビです。“生きるため”の営みです(うちは「粗放養殖」しか扱わないという仕入れ担当がいましたが、本質をみていません。商業的なまやかしがいくらでもあるからです)。

マングローブを破壊してのエビ養殖、現実にはこれによって「食の豊かさ」を享受しています。この営みは国や土地の有力者が“より儲ける”ために始めた営みでした。「開発」という名の資金はさまざまな名目で国際的にも調達されました。日本は日本市場にあわせた大量の買い付けということでこれを促進しました。

たまたま人生のなかで、台湾、タイ、中国のえび養殖産地の潰滅、地域の取り返しのつかない荒廃を、それぞれ時間を置いて見聞することがありました。買い付けをするひとたちの外国での所業も傍らで見聞しました。

どこかの隠れ島から、どこかのスイートルームから、儲けのためにこの地球の食糧を操作し始めているひとにぎりの輩(やから)がいます。いま瞬間これを制御すべき方策を少なくとも日本政府もアメリカ政府ももっていません、いやヤル気がありません。

エビをつくりながらいつまでも貧困、えびを食べながらいつのまにか貧困、この仕組みと連鎖を断ち切らねばなりません、すくなくともそのことに目を向けなければなりません。

2008年7月22日火曜日

暑気あたり

NHKのアーカイブスで向田邦子さんの「父の詫び状」観て、ああ惜しい感性を失ったものだ、ああおもしろかった、あれ津波と始まった連休。夏が好きだ、うだるような暑さが好きだ、と普段思っていたが、ホントにうだった。水風呂なんぞ何回も浴びているうちにお腹をこわしダウン。何とか、もったが、気力が萎えた。家に不要なものが多い整理しましょ、ダンゴムシが増えた、黒葉病にやられている、壁の下にどうも巨大な蟻の巣ができているらしい、共生できないどうしましょ、ヘアキャッチャーないのかな、でホームセンターに行ってまたバテた。あれもこれも視て回れるがひろすぎる。急に起き上がった時のめまいのようなバテ。来週、ライシュウ、先送り。日記も投げ出し、なにもしないで、夜になれば泡盛飲んで寝た。ああ、わたしの本性。

2008年7月18日金曜日

向き合い


価格は真正面から向き合い、上げるべきです。
逃げまわったってしょうがありません。うちらも鳩首集めてこすい知恵を絞っていますが無理です。さらに誰かを犠牲にするだけです。寝ずに働いている業種はいくらでもあります。寝ずに働いたからといって報酬が多いわけでもバカンスがとれるわけでもありません。全くその逆です。社会的大(おお)事故が起きても不思議ではないほど疲弊を重ねて「便利」「豊かさ」を溢れさせています。「窓に西日が当たる部屋」で「沈む太陽」が必要です。
ためらっていれば取り返しのつかないことになります。いま「農と漁」と「ものづくり、技」とが危ないのですから。すでに運輸配送業者はとっくの昔に追い詰められていました。
そのことと政治や労働運動が生活要求に沿ってまっとうに闘うのは併行して当然です。不当な負担、消えた公共財産、不正義な労働形態・低所得、富の分配がおかしいだけですから。
輪をかけて昔流に云えば「飢饉に米を買占め、大火に木材を買い占める」ヤカラがグローバル規模でいるのですから。今様には「資源枯渇に向かう油に投機し、食糧不足にコーンを油にまわす」とでもいうのでしょうか。

「食べる」ことが、「つくる」ことも「収入」のこともたしかに私達の生命にかかわる次元になってきています。環境も社会的な安全も向き合わなければならなくなっています。

勇気をもって負の連鎖を断ち切る波を起こさなければいけません。仲間がいてこころ強いです。

拝借「土の道」


川辺に育ちましたので「土の道」は堤防の道の思い出です。今ごろの夏は、人が歩くよりも雑草の方が強かったので生い茂りました。昼間に歩くものではありませんでした。空の青さと雑草の緑と木の黒陰がくっきりとした、今でも思い出せば目がくらくらとくる南国の夏でしたから。堤防の道は右と左にまたほんの細い道ができた程度で、半ズボンで歩くには難儀をしました。バッタやいろんな昆虫がいたと思います。今そんな道ではありません、堤防の道と言えどいつでも歩きやすい「歩道」です。あのころ人はまだそこまで、おおげさにいえば道を征服していなかったように思います。ですから今では、いろんな昆虫に出遭えませんし、秋になれば土手のススキ、春に還ればつくしんぼの芽吹きをみつけだすことができません。それでも町の範囲の堤防は皆が通るので歩けました、上流は鉄橋のあるあたり、下流はうちのお寺さんのあるあたりまで。それを越えて下流にずっと歩いていくと、といっても子どもには歩けないほどの距離でしたが、父の里がありました。雑草が生い茂りところどころ下の道に迂回しなければなりませんでした。下の道はトラックなど車が通れば土埃がもうもうとあがるので、できるだけ上の堤防の道を辿りたかったのです。父の里まで行くと堤防はゆるくなり、対岸は高江地区といい美田地帯でした。土地柄、私の地方には美田は少ないのです。この地区には「嫁に行くものではない働き尽くめだ」といつか叔母から聞いたことがあります。その対岸に行く渡し舟がいつものんびりと川に揺られていました。南の夏はそんなものでした。父は少年のころカッパになって自在に遊んでいたそうです、私はトンカチでした。私の地方は「ガラッパ」と呼ばれ「ひとの足をひっぱるやつら」とあまりよくは言われません。ずっと北の地方は「へこ(兵児)どん」と北辺の守りにふさわしく呼ばれます。対岸は見えるのですが行ったことがなかったので大人になるまで遠い、遠いところだと思っていました。生い茂った雑草群は何かがでてきそうで「おっとろしかった(恐ろしかった)」そんなひよわでしたがよく歩く少年でした。

2008年7月17日木曜日

20万隻休漁


昨年の今頃は営業をしていました。
 我が業界では老舗の、ある得意先の課長さんへの「魚の営業」です。業績不振に悩んでいました。このお若い課長さんには筋があると見込みました。
「目先を追うな」とかズケズケ営業していました。お互いムカムカしてやりとりしていました。それを乗り越えやっと一年が巡りホントに分かり合えるようになりました。
 が、我社ではあの「事件」の玉突きで「あなたの経験を活かして」とか云われて、担当をいとも簡単に首になりました。埃(ホコリ)ならいいのですが、誇りを落とされると人間つらいものです。めげます。


以下、内容は昨年のものです。
 表現は一部変えています。営業メモなのでやや支離滅裂調。「売れ筋」を持って来い、という期待に「説教」をもってこられたのではさすがに相手様も困られたでしょうに。不幸にもその後の進展が言うとおりになっていきましたので対話が成り立つようになりました。ほんとに不幸なことに。もちろん、新商品の案内や製造者、産地の紹介、紙面づくりの営業はやったうえでの「営業」です。

「価格と品揃え」という手段が目的化していませんか?

「紙面を拡大する、紙面の技術を改良する」という方向が示されています。その手段でそれだけで解決する道をさぐっていませんか?

食の危機は迫りつつあります、協同の力でこの問題解決に近づきたいと願っている貴社のコアな消費者の要求に応えているのでしょうか?そして新しい消費者には問題を提起、継承しようとしているのでしょうか?

エネルギーや食品の価格が上がっていることに、戸惑っていてどうしていくのでしょうか?もはや価格の値上げをどのように容認していくかという問題ではありますまいか。

「食の環境の変化」の本質を消費者とともに語り合い、協同して行動を起こすこと。
そのことが利用のアップにつながる道筋をもたねばなりません。

07年度の米価が下がります。
お米を食べていない(年間一俵=60kgも食べなくなった、ピーク時の半分)。
では、これから誰が米をつくるのでしょうか?
統計上、魚は65kg食べています(つまりいろいろな形で)。


世界中で「和食」が栄養バランスの点で評価され、魚食志向が高まり、しかも天然ものに回帰しているときに、その日本で食文化と家族の姿が目の前で崩壊しつつある皮肉。

食糧自給率は39%に低下しました。しかしながらこれは今後上がる見込み、何故か?世界での日本の食糧の買い負けはもう始まっていますから。

こんなにまぐろを食べた時代があったでしょうか?金にあかして食糧を買っていた時代が終わります。
過剰漁獲は魚の棲家を奪い、魚の子を好んで食べ(魚卵、しらす)続けたことは資源の持続可能性をも阻害し、未熟な養殖事業で海の生態系をも変えてしまいました。人間の活動による地球規模での環境悪化は魚種によってはもう再生産できないほど資源は枯渇しつつあります。

資源の短期的な過剰や不足による価格の上がり下がりに一喜一憂、品揃えの競争を自己目的化しているうちに、しかし長期的な逼迫は実はすぐそこに迫っています。

貴社には産直の米と同じく「土づくり」を標榜した野菜と提携農民があります。土づくりはすなわち健康な国土であり環境でありものづくりです。生命を維持する「食べ物」にかかわることです。中国の不祥事があるときに「だから国産」ではなくて、だから「土づくり」なのでしょう。だから日本の「ものづくり」なのでしょう。
中国の水準をあなどってはいけません。アサヒビールの農業しかり、日本になくなりつつある職人技(例えば水産加工の基本中の基本の「切身」作業能力はもはや中国の人の方に多い)など枚挙に暇はありません。

日本のお米と野菜をたべよう。このことに貴社はもっとテーマを明確にすべきです。食の基本を押さえた上での品揃えと価格は当然必要です。
お米を食べよう⇒和食のメニューに挑戦(?)しよう。⇒野菜を食べよう(貴社有機の露出)⇒おさかなを食べてみよう。⇒味付けがわからない、20分でできるレシピが浮かばない、味付けのできる素材が少ない、赤ちゃんには骨が心配、などの組合員の要求に応えよう。⇒どんな魚がどこにいてどんな魚であるのか、誰が漁獲をし、どんなひとが加工(家庭の厨房を工場で肩代わり)しているのか、今は一方的発信でも双方向的な受発信をめざしていかなければ、恐らく何年経っても「売り場」でしかない紙面に終わります。

 我がグループの無店舗供給の水産部門は「不確実な計画数量」を「特定の短期間に」「一過性的大規模調達」という特性をもつために、大量調達可能な水産資源と備蓄可能且つ瞬発的製造能力が可能な品目しか品揃えできていません。したがって、日本の遠洋漁業そしてそれに替わった大量輸入時代に対応してきました、また国産も大量漁獲(過剰漁獲)ができた沖合漁業に対応できました。それらにのっかってきました。技術的には大規模冷凍保管加工運搬技術の進化でありましたし、労働力はかつての地方漁村の安価な労働力(高齢化していました)から、80年代に韓国台湾から東南アジアに移行し90年代後半から中国に依存を始めました。本来お母さんが赤ちゃんのために、子が年老いた父母のためにとっていた魚の骨とりを、工場で他国の若い女性の作業に依存しています。いずれも、遠からず、必ず限界のくる内容なのです。

 四方を海に囲まれた国土においてまだ持続可能な漁法が続いているのは沿岸漁業であり、いわゆる「お魚屋さん」に並ぶ魚種、品目(ラウンド、ドレス、三枚おろし、切身、干し、漬け物、など)、これらには季節があり、漁獲はつねに不確実です。多量とはいえないけれど、超大規模ならともかく、普通の規模ならば充分に足る量です。そのために生産者(地域漁協)加工者(産地または技術を集積している専門事業者)との関係を構築しなければならないと展望しています。これは、難儀でこちら側の組織としての人格力が必要だと思います。もちろんこちらの「器(うつわ)」も作り変えなければいけないでしょう。「価格と品揃え」だけでは追求できません。

2008年7月15日火曜日

お友達Uさん


こんなに山積みされているとは思わなかった。ターミナル駅の近くの大型のこの本屋さんに連れてきてくれたUさんは中味を見もせずに、上から2冊目のものをとって、おまけに関連本も一冊とってあっという間にレジに行って清算した。よく見たら別の入り口にも山積みしてあった。「そんなぁ、いちおう、ちょっと目を通してから買うべきでは・・・」とかなんとか申し上げたのだが。

声が大きく顔が赤かったので入ったときから知ってはいたが、10年前に偶然、異動で席が隣り合ってから親しくなった。5歳年上の団塊世代。以来、本音が話せ、「傷をなめあう」ことのできる関係。

某有名私立大学の空手部のキャプテンをはっていた猛者。目つきが鋭い。故郷はお隣。やはり「もっこす」。だから方言は似通う。聞きだせば、彼等がチョンコーと呼ぶ朝鮮高校の人たちをなぐったとか、他の大学の剣道部・柔道部の連中と「肩が触れた」というパターンの出入り、他の大学のスト破り、武勇伝はいくらでもある。あけすけにいえば蛮行。東京の地下鉄はほとんど俺がつくったというアルバイトもしたらしい。

朝鮮人を支配、差別したことや、いわんやこれを襲撃したことの不当をやんわりと非難してさしあげる。生まれた町にも朝鮮の人がいた事情と歴史的背景を私の知る範囲でお話してさしあげる。理科系でご存知なかったとはいえ、もちろんご理解いただける。「いや、いや、なにもしらなかったんだ」命じられれば考えもせず、なんでもしたという典型的な体育会系右翼。そのひととつきあっている不思議を感じる。年寄りになったから同じ話題になりがちで、そのたびに昔の蛮行をつっついてさしあげる。そう云えば殴られた方はよく覚えているらしい、とかひとごとのようにもおっしゃるのだが、そうです。

組合の分会集会に出ないかと誘うが「あげなものは好かん」とおっしゃる。執行部に偽善を感じるらしい。同感だがそれでは変わらんと申し上げる。巷の派遣労働者のたたかい、名ばかり管理職ユニオンの立ち上げを話すと、最近はニュースでよくご存知。社会派的な「評論家」というのはさすが我社的共通点。以前若いひとたちに『蟹工船』が売れているらしいこの本のことも作家のこともご存知ないので話していた。あらためて1933年2月20日に逮捕され虐殺された様子も。それが築地警察署だったことも。わずか29歳の生涯であったこと。彼も築地警察署で取り調べを受けたことがあったらしい。「えっ、右翼には寛大なはずですが・・・」と申し上げた。

金曜日に買われたから月曜日にどのくらいお読みになったか尋ねた。1ページだと。ずっと昔『沈まぬ太陽』を紹介したときには全巻一気に読まれた。それとは趣きが違いますよ、だからトレンドに乗っただけで買っちゃいけませんよとお留めしたのです。いや、読みます、ヨミマス。それよりも余情さんは私をどんな人間だと思っていらっしゃるのですか。あっ、なんの落ち度もない朝鮮高校のひとを追い回したことのある、とんでもないやつだと思っています。いや、いやあのころはなんにも知らなかったの、ひとは右にも左にもいくもんですとかなんとか、しどろもどろ。絆創膏をときどきはがして塩を摺り込んでさしあげることのできる間柄です。私と同じで情念では社会の不合理を感じていらっしゃる方です。

キヨスクでも売っていたらしい。「最も原始的な搾取のもとにさらされている未組織労働者のストライキを取り扱った」作品の内容が80年後の今、似たような状況にさらされている。ワーキングプアと闘う展望をしめすチカラになるということで静かに普及しつつあった。それを気の利いた本屋のある店員さんが共鳴して火をつけたらしい。山村聡さんの脚本・監督で映画(1953年作)もある。

昔買った文庫の字の級数(ポイント)はかなり小さく、若かったので平気でしたが、今はそれが大きくなって随分読みやすくなったものです。

2008年7月13日日曜日

もくもくとした営みと信念

 そうは言ってもサンゴは白化して死んでいた。途中、色とりどりのサンゴが群生していたとは想像する海が続くが、案内されたポイントに行かなければ生きたサンゴは見られなかった。沖縄県恩納村の海。

 海流と地形の関係で近年のオニヒトデの大量発生元という悪名をいただいたらしい。漁協技術指導員の比嘉さんたちは実地に調べ対策をとった。12年周期で大量発生を3回繰り返した。海域におけるオニヒトデの親の個体数の密度を1,000以下にすることによって大量発生を防ぐメカニズムを発見し「産卵を防ぐ」という対策をとることにした。
 ところが行政は大量発生した場合これを駆除するという方式をとっている。発見し、申請し、対策の補助金を給付するという仕組みのため有効ではないという立場をとっている。いわば「お上にたてつく」やり方のため補助金もおりないらしい。

 サンゴの再生のため、サンゴの増殖設備を域内に3箇所持ち、サンゴ部会という組織を持つ。これも一度立ち消えになりそうになったらしいが、信念を持つ人がいてこれをもちこたえたらしい。サンゴの植え付けも試行錯誤があって実践を積み重ね、最近ではサンゴ礁跡に植えつけるよりも、少し流れのある海中に棒筒のようなもので支えてバスケット方式で置いておく方法(「養殖」という概念になる)が有効であることがわかってきた。一度植え付けてしまうとそれは動かしてはいけないものになるが、養殖方式だと漁協の財産で場所を適切なところに移し変えることができる。また固体を植え付けで増殖させるだけでなく、産卵をさせて自然の力で再生する方法も追求している。

 サンゴ再生の営みは、美ら海(ちゅらうみ)を守るという抽象的な事業だけでなく、この沿岸の漁場と養殖場(ここの養殖とは餌を与えない養殖で海藻養殖)を守ることに繋がっている。

 この漁協では、あと1℃、もう2℃高い水温帯に耐えられるサンゴやモズクの種をつくっている。今はその戦略もとっている。地球温暖化、水温上昇が深刻に進んでいる。いつか本土がサンゴ礁帯になりモズクの産地になって沖縄から買い付けに行く日が来るかもしれないという冗談を交わす。実はこの「冗談」は成り立たない。沖縄でサンゴが潰滅すれば、たとえ本土の水温が沖縄並みになったとしても生き物であるサンゴや地形としてのさんご礁は簡単には継承されない、そうなればモズクもつくれない。

 ここと提携する山陰の食品加工業者さんは、サンゴ増殖の事業に幾ばくかの費用を負担している。モズクを食べることが良心的な加工屋さんを通じて間接の間接的にサンゴを守る事業と活動を支えているらしい。食卓にあがれば、みんなが見果てぬ南国の海に想いを馳せることができるようになるとよいと考えた。
 
 グラスボートに揺られながら、上空を幾度も大型米軍機が通り過ぎるのを仰ぎ見ながら、もくもくと続けられる営みに思いを馳せた。

* 上の画像は恩納村の海、下の画像は増殖用のサンゴ。 
* 本日の『朝日』の2面に「造礁サンゴ 3分の1が絶滅危機」の記事が掲載されています。

2008年7月11日金曜日

海ぶどう

 「海ぶどう」は先島諸島あたりの産物で、生(なま)はとても珍しくおいしかったのが最初の出会いでした。たしかに宮古島で賞味したのが最初で当時は季節の食べものでした。
 そのうちフィリピンあたりから入ってくるようになっていましたが、国内でもついに養殖に成功します。

 実はこれも先日(7月7日)紹介した沖縄県恩納村漁協でしたが、モズクの養殖方法と同じくその技術を開放しました。モズクも海ぶどうも適作地は沖縄・奄美ぐらいで同じ地域の仲間、漁業者たちに貢献するのだから構わないと思ったそうです。実は誤算がありました。モズクは海でつくります。海ぶどうは「陸上養殖」といって、海水を引く装置と水槽と建屋(日光の遮断を調整する装置)があればつくれます。つまり漁協(漁業者)でなくともできました。現実には土木業者やホテル資本、その他漁業者でなくとも参入ができ、実際にそうなっています。
 「陸上養殖」はひらめなど極端にいえば山の中でもできます。新興ファンドの投資先になったりもします。一方で海に四方を囲まれていながら断崖絶壁であるが故、漁業がままならない鹿児島県トカラ列島の硫黄島での事業の可能性も秘めていました(どうなったのか知りません)。世界的に資源の枯渇がすすんでいるタコもイタリアではこの方法での養殖がはじまったと3年前に聞いたことがあります。

 写真中央の方が恩納村漁協組合員の銘刈(めかる)さん。この人が初めて海ぶどうの養殖に成功したひとです。1989年のことで、漁協では94年から本格出荷が始まります。今では息子さんも後を継いでおられます。海ぶどうの開発、さんご礁の生態系を保全するための「さんご植え付け技術の開発」にたとえ独りになっても執念を燃やし貢献されてきた方だと紹介されました。つまり「変わり者」だと、恩納村漁協の変人で且つ科学者の比嘉指導員(右の方)に紹介されました。はぐれものの私にはとても親近感が湧いたわけです。変わり者とは一途な人が多いようです。

 さんごは植え付けることによる繁殖だけに留まらず、卵を産むさんごとしての再生産に寄与することが期待されているそうです。沖縄で潜ることが好きなひとは是非植え付けにご協力ください。

 海ぶどうは扱いがやや難しい商品でまだ高価な「みやげ物」の範囲ですが、遠からず身近な食べ物になるかもしれません。それがよいことかどうかわかりませんが。

 この漁協も06年に沖縄県から水産第1号として地域特産品の産地認定を受けています。商品開発がすすんでいます。

2008年7月9日水曜日

えびの記憶の断片


 私はえびの仕入担当をしませんでした。80年代日本はバブルに入っていました。90年代初めに日本はヨーロッパ、アメリカを抜いてエビの輸入量が世界一になったことを覚えています。たしか30万トンを越したと記憶しています。30万トンというのは、あじ、さば、さんまのような馴染み深い魚の消費量に相当します。飽食、つまり食べ余していたと思います。さまざまな「つじつまの合わないこと」を見聞もしていました。
 えびというのは伊勢えびとか甘エビとか桜えびとかいろいろありますが、主には車えびのような種類のことを指します。当時好まれていたのが、商業的には「ブラックタイガー」とか「ホワイトエビ」とか呼ばれていた種類です。
 87年に営業で初めて台湾・タイ・インドネシアを見学する機会がありました。このとき既にえび養殖によって台湾の産地は壊滅状態でした。病気の蔓延です。地域全体が文字通り地盤沈下、田→池→荒廃、使いものにならなくなっていました。この台湾の方式をちょうどタイに輸出し、タイで華僑資本によるえび養殖が隆盛を迎えるときに遭遇しました。バンコクの周辺、タイ南部のシャム湾(風光明媚なところでした)。インドネシアは始まったばかりでした。集約養殖をしようにも資本蓄積がなく粗放でせざるをえないインフラでした。そこでは台湾の飼料を輸入して使っているという養殖業者は胸をはっていたのが印象的でした。

 当時の我社グループの命題は「生鮮強化」でだれでも国内仕入はできるんだから(?)、我社の役割は国内やっていても意味がないということで、輸入水産物の扱いの拡大を指向していました。事業的観点のみの発想でした。
 急激な円高、世界的な過剰漁獲・漁場乱開発、魚食は日本人の専売特許、という環境でした。買いたい放題でした。ただ足元では日本列島のまわりの資源枯渇化、魚種交替が忍び寄っていました。そのことを肌で感じていました、将来の危機のことも。

 私は国内ものを扱えるということで「青物」を志願してやっていましたが、皮肉にもヨーロッパのあじ、さば、ししゃもの類を調達することになりました。

 その後もタイや中国のえびに関する惨状を聞く機会にたちあいました。90年代半ばだったと思いますが、中国大正エビの養殖が国内南部から始まってあっというまに中国で壊滅しました。そのころタイもバンコク周辺を手始めに、壊滅がはじまっていました。地域に残ったものは荒廃でした。かつて水田であった池は使えなくなり、大規模な加工場の操業は周辺の産物によるものではなく、閑古鳥状態でした。
 当時私が遭遇したのはそういうエビの荒廃と哲学もなく刹那的な仕入れ、また、あけすけにいえば不正の断片も垣間見ました。私自身にも反発だけや不当性を嫌う反面、確固たる哲学がありませんでした。


 現在、えびでは「バナメイ種」(南米原産)というのがとびかって、病気に強いだけの味もそっけもないえびをいかに安く大量に売るかということに血道をあげ、昨今の「買い負け」「産地生産力の低下」のため昨年あたりから再び破綻し始めているようです。

 もう仕事とは関係ないのですが、経験をさせてもらったことがあるので、勉強しなおそうと思ったりもしています。

2008年7月8日火曜日

ハイビスカス


 ときどき利用する古着屋さんから「1個買えば同じ値段のものがもう1個“ただ”」というセールのDMもらって、のぞくだけのつもりがつい買ってしまいました。その古着屋さんの並びに花屋さんがあって、鉢を買います。1個100円のポーチュラカ鉢を2個買ったら10円、それとハイビスカスの鉢680円を買ったら80円おまけしてもらいました。いつも買ってくれるからとおっしゃるのですが。個人商店で儲かるのかなぁ、とか思いながら次のお店に行きました。日曜日、午前中はお買い物、午後から鉢植えで汗をかいておりました、そんなことで。水遣りに拭き掃除。あと何をしていた?なにも考えないでおりました。夜中しっかり雨になりましたが。
 月曜日は職場の机の移動、つい一週間前は異動でフロアの移動でした。エレベーターは使わぬ主義ですから、上の階に行きましたのはちとつらい。なにしろ我社は強化したり凍結したり、冷静に逆上しているものですから発令が頻繁。社員としてはナンとか盛り上げねばなりません。現場に罪はありませんから。「業績を好転させなければならない」とかなんとか組合の大会方針にも書いてありましたし。
ところでハイビスカスの花はぽとりと落ちるものですね、びくっ。休肝日でした。

2008年7月7日月曜日

「協同組合」らしい漁協


 全国で漁民と統計される人たちはわずか20万人そこそこです。老齢化、後継者不足の事情は農業と同様で深刻です。にもかかわらず、沖縄県の恩納村(おんなそん)漁協は若い漁師さんの多くいる漁村でした。モズクなどを生産している元気な漁協さんです。

 モズクの生産量は沖縄県だけで2万トン、実はこれは過剰気味です(08年は生産調整をしようとしたみたいですがあまりうまくいかなかったと聞いています)。今では日配売り場、鮮魚売り場の定番です。カップに入った「モズク酢」のさまざまなアイテムで、もうお馴染みでしょう。とくに日本海側のモズクは風情のあるものだったと思いますが、昔は、料亭や割烹の、あるいは飲み屋で出てくる「付き出し」だったと思います。ですが、これほどお茶の間にポピュラーな品目になったのはここ30年ほどです。苦労の末、養殖の産地が沖縄県全体に形成されたこと、山陰のあるライバルメーカー2社がそれなりに切磋琢磨して商品開発をして、売り出してきたこと、これらのおかげだと考えています。

 もともとは、奄美大島の瀬戸内町にある鹿児島県水産試験場でモズクの養殖技術が開発されたのが始まりだそうですが、設立されたばかりの恩納村漁協の若き経営者たちがここに学び取り、1977年には養殖収穫に成功しました。この漁協はこの技術を開放し沖縄県全体に普及しました。もともと沖縄県そのものは天然のモズク、南方系の太いモズクの産地です。本土系の細いモズクもできるところです(南限)。塩モズクとしての商品はずっと以前からありましたが、これをもどして「酢モズク、モズク酢」として且つカップに入れるなどして個食化した商品は先の山陰の加工メーカーの商品開発と営業の貢献に負うものがあります。そしてなによりも両者(産地と加工メーカー)の関係の構築によるものが大きいと思います。

 当時の恩納村漁協の若き経営者たちは何故「モズク」に着目をし、どういう経過を経たかということです。恩納村は沖縄本島中北部西海岸に立地し、海岸線は約45km、リーフ、イノー=礁池、干潟で成り立ちます。他の漁協から独立して新しい漁協をたちあげるにあたって、「生業を何に求めたのか?」というお話を聞きました。ほぼ真っ直ぐな海岸線は「さんご礁由来の自然のプール状態」です。この海岸線を生かした栽培事業を当時の先進的産地見学からの結論は「餌を与えるような海洋養殖はしない」その理由は「海を壊すから」ということだったといいます。そして昔からの産物に基づく海藻養殖(もずく、あーさ)と、しゃこがい養殖に特化しよう、と。
 経営者は言います、当時の長老達が若い我々の意見を尊重してくれた、やりたいようにやらせてくれ、支持してくれたからだと。ただ、海藻養殖は漁域保全がなければ存立しない、「海域を守ろう」は文字通り死活問題となります。那覇に近い有名なリゾート地で何故、養殖が成り立つのか、どう取り組んだのかということです。ホテル側との排水規制への合意、「美(ちゅ)ら海」は両者にとっても根源的資源でした。また漁協にとっても観光漁業も重要な資源でした。その両立の道は、最初から平坦ではありませんでした。その話はなかなかの武勇伝もあるのです。

 軌道にのってきた80~90年代でしたか、こんどは県全体でも、赤土流出被害を経験します。この未曾有の危機でまた、「組織」をつくり組織でまとめていこうという機運が高まったそうです。赤土流出被害の防止・克服の取り組みはまた組織を成長させていったそうです。

 恩納村漁協はモズクの養殖方法(中間育成方式)の技術を開放することによって沖縄県における先進的役割を果たし、沖縄県のモズク養殖のメッカとなります。普及するだけでなく、モズクの種(胞子)の自前の生産、さらには高品質モズクの開発と生産(本土の加工メーカーさんとの共同開発)という「開放しつつ競争力の保持」というチカラをもっているようです。また実際の商品供給の実践から、漁場、漁船、荷揚げ場、加工場における組合員自らによる品質管理につながる実践、環境保全の実践、生産責任の明確化と切磋琢磨の気風・実践を積み上げているところも、先進的な取り組みです。

 ですから、私にとっては出遭ったことのないほど若い漁師のいる漁協でした。それは、後継者の若者にとって魅力のある収入が見込まれ、生き甲斐と生まれたウチナーでの就業ができる仕事になってきたからだと考えます。一方で潜水作業が主力のモズク養殖は体力がないとできない労働です。若者が引き継がねば、成り立ちません。
現在、 オニヒトデ駆除の取り組み(未然防止への研究、取り組み)、さんご増殖のとりくみ(これはエコ/ブルー・ツーリズムにも関連付けた方向を模索) 、干潟保全、漁場機能回復の取り組み 、などなどにも取り組んでいます。
 ですから、「協同組合」らしい漁協だと、パートナーの加工メーカーの経営者の方はそう評価して紹介してくださいました。
  
 この漁協は漁場=海域保全のための対話・提案・管理の実践経験の蓄積が評価されて、07年「全国豊かな海づくり大会」での顕彰(農林水産大臣賞)を受けられたそうです。

2008年7月3日木曜日

らっきょうの産地


 東シナ海に面した北部薩摩地方の海岸線は山がストンと海に入り込んでいるところが多い。現在は新幹線が開通して、以前の鹿児島本線は「おれんじ鉄道」とかいう第三セクターになったが、最初の鹿児島本線はここではない。今の肥薩線、鹿児島から県中央を北にぬけて人吉に向かい八代にでる路線だった。西郷軍も熊本へはこの経路をとった。
 
 こちら側は交通の難所だったようだ。そのなかで唐浜(からはま)と呼ばれる砂浜が少し続くところがある。その名のとおり真っ直ぐ西へ行くとちょうど上海あたりの緯度である。昔のことで海岸線には防砂林で松林が続いた。だから景色のよいところだった。なにしろ南国である。夏の日差しと暑さと蝉の声はまるで重い気圧のようだった。旧水引村というところで、海岸線のところは少し砂丘地帯になっている。だからおいしい「すいか」や「らっきょう」がとれた。いや、そんなものしかできなかったと理解している。ここの「すいか」「らっきょう」はまたいちだんとおいしかった。
 
 唐浜は絶好の海水浴場だった。季節になればバスが運行されたが公共交通手段はそれしかなかった。乗り物にはからっきし弱かったので、また舗装もされていない道路だったのでなおさらそんなものに乗る気はなかった。家にはポンコツのおなご自転車しかなくこれを使った。片道1時間ぐらいはかかったろうか。パンクをすればおしまいだった。ここではその記憶はない。国道からはずれておんぼろ道を行けば、砂道になるそのへんがすいかやラッキョウをつくっている畑のある周辺だったと思う。松林を抜ければ美しい南国の海があった。
 
 晴れて蒸していなければ彼方にくっきりと甑島が見えた。土日でなければほとんど海水浴客はいなかった。いま考えれば広大な砂浜がマイビーチ状態だった。そのかわり女の子もいなかった。そのほうがよかった。高校時代は女子とほとんど口をきいたことがなかった、だから異郷の大学で「人が変わった」。季節の売店が営業していたように思うが、市営のシャワーや脱衣所、水道、トイレがあって無料だったからお金は使わなかった。
 
 唐浜の南端っこには小さな漁村集落があって季節になれば煮干やちりめんじゃこをつくっていた。後日(私が30代半ばのころ)この人たちの一部が台湾にわたりちりめんじゃこ(しらす干し)をつくっていたことを知った。
 
 もっとずっと南にくだり河口を越せば久見崎海岸というここも美しい砂浜だった。ここの漁村は秀吉の時代、ここは軍港で、薩摩の軍勢(ぐんぜ)を送り出した。「想夫恋」(そうふれん)という還らぬ夫を慕う夫人の舞うもの悲しい踊りが400年を経た今でも伝えられている。お盆に踊られる。小さいときはその意味も価値もまったくわからなかったが、とにかく言い伝えられていた。山からストンというところで松林が濃かった。この一帯は海にむかっているのに山の中ではないかという眼下に突然、砂浜が開けてくるところだった。
 
 今では、この海岸には原子力発電所ができ海岸線はほぼ有刺鉄線で覆われている。あの砂浜が消えたのはなによりも残念でならない。
 
 河口の対岸の唐浜に近い方、「京泊」(きょうどまり)というが、ここには一社を除いて誰も入っていない海岸が埋め立てられた工業団地があってその北には火力発電所がある。原発よりもこちらの方が早かった。「京泊」というのは殿様が参勤交代で上方へ向かう時にここから船で出航する場合があったらしい、そういう由来であると記憶している。
 
 唐浜はどうなったか、まちがいなく砂浜は後退し、漂着物の山となっていた。ただ、今でも海水浴場ではあるらしい。昔の面影はない。
 
 ここは火力発電所、自衛隊、原子力発電所、新幹線、こんどは高速道路などを思いっきり誘致する形で生きのびようとしてきた。私がここをあとにしてから30数年後の「今」である。
 
 ただし、変わらず「らっきょう」の産地ではあるらしい。

2008年7月1日火曜日

先が見える?


 考古学博物館などでいつも不思議に思うのは、ほんの欠片の破片から大きな土器が再現されて展示されている。ほんの少しのアゴの化石から猿人や古い人間の仲間が再現された想像図がある。なんであんなカケラからできるのだろうかと。

 さまざまな苦情やお問い合わせが現場から最終的に寄せられてくる。ときによっては「丸投げ」とも受け取れる事例もある。こじれていることや、なにかボタンの掛け違いが感じられる「トラブル」もある。摩訶不思議な事案もある。ほんの少しの「事実」から事象を組み立てていかなければならない。しかもこれに「感情」がからむ。迅速、誠心誠意、事実で対応する。

 事実という「ピース」から分かる範囲、可能性も含めて全体像を組み立てる。当然それの拡大性の有無を迅速に判断し、できうる限り原因を究明し再発防止を追求する、説明責任を全うし、落ち度についてお詫びをする。当然、商品の取り扱い方そのものにも反映されなければならない、ときには製造現場や工程の抜本的な改善、仕様の見直しにもつながらなければならない。これが「光」

 破片や化石から土器や猿人を再現する、それには考古学的手法が背景にある。科学として今も研鑽されつつある。

 未だ職人芸という観がある。しかも「社内のステイタスは低いママ」。業界紙には「体制強化」と報じられていたが、それは誤認をまねく見出し。実態は検査と仕入れ部門のみを強化。人事部は頭数も人材も未だによこさない。「経験が豊か」という美名で定年間際の老骨に鞭打つ仕打ち。勿論、経験見識豊かであれば大きな戦力だが、残念ながら。将来は幹部にも登用しようという若い候補生こそ配置すべきと実感しているが、残念ながら。言えぬことだらけの「闇」。

 仕組み、手法のそれなりの積み上げがあるが、肝心の経験見識が継承されそうにない。システムだけができあがって、対応の内容を平準化する魂胆のようだ。誤解を恐れずに言うとマクドナルド化する。右から左。人工的な愛想と霞みのような受け答え。マニュアルの範囲。まず派遣社員さんへの委託業務化。件数が増えればコールセンターへの丸投げ。このように想像する。もしそうなればどうなるか。我社は本気で対応する気はなくなる、処理する対象となる。問い合わせと回答のすれ違いがはじまれば、対話はなくなっていく。意見を言うのをあきらめさせる(?)。本来の主権者を完全に「お客さん」化する、職員(専従)に任せてくれと。「出資、利用、運営」の本質的な崩壊。存在価値の希薄化が進む。文字通り「言ってもはじまらなくなる」。