2008年6月24日火曜日

6.23慰霊の日


 沖縄戦写真集で見たひとつの写真。撃墜された特攻隊飛行士の遺体。頭は向こう側になっていて損傷はよくわからない。腰に約25cm四方の厚いコンクリートブロックを2個結わえてあった。仮に不時着しても生きて帰らぬ覚悟と解説してあったが、目が点になって釘付けになった。
特攻は形のうえでは「志願制」をとったが、これでは操縦席についた時点でまるで死刑囚ではないか。目的地に飛んでいけないほどのポンコツの飛行機を使った。生命を引き換えに戦おうとする兵士に与えた兵器は目的を達することのできぬシロモノであった。だから「死ぬ」ことが目的の発進だった。兵士というが17~19歳ぐらいの若者たちである。国家が「国を守る」という美名で騙した。軍官僚たちが国防を遂行しているようにみせかけるため、戦意高揚、士気を鼓舞するためにやたら若者達の命を、貴重ないのちを、杜撰に消耗した。敗戦後、済州島に隠匿していた新鋭機(陸軍戦闘機「飛燕」など)が多数見つかりただちに処分された。本土決戦のために温存していたのだろうがまともな兵器はそれでもまだあったのだ。たぶんまともには飛んでいけない飛行機で不時着は想定されておるから、そうなっても断じて生きて帰るなという残酷な発進だったと考える。死ぬしかない特攻隊兵舎に外科手術に貴重なヒロポンがあったのは何をか謂わん。

 沖縄戦はとにかく数多くの死を強制した。国軍、友軍が国民を守らなかった、どころか盾にした。むやみに「人の死」を強制した。何故、死なねばならなかったのか。「誰のために」は避けて通れない。沖縄でははっきり言われているが、うやむやにされたままである。

 「ガマ」(沖縄南部に点在する鍾乳洞の天然壕)の見学を終えてバスで次に出発するとき「気分の悪くなった」人はいないかと尋ねられた。「霊感」のようなもの(感受性)が強いひとはそうなるそうで、修学旅行生などで動けなくなる子がいるらしい。また稀に亡霊が見えるというひともいるらしい。たくさんのひとたちが苦痛の末、亡くなった場所である。

6.23慰霊の日
「沖縄前戦没者追悼式」の準備で、「有名」な戦跡はその手入れに余念がなかった。
政府要人がくるために警戒が厳重になり一般のひとはむしろ近寄れなくなるそうだ。
わずか25分だったがNHKで全国中継放送(0:25~0:45)された(60周年以来2回目)。
「平和の礎(いしじ)」沖縄から平和の発信。そういうふうに外に向かって波型にできている。世界に平和が広がるようにという願いでできている。

写真は「魂魄」とだけ刻まれた慰霊塔。
南部の米須海岸の近くにある。戦後、住民があらためて住まなくてはならなかったとき、住もうにもあちらこちらに遺体があってこれを葬ることから始めなくてはならなかった。住民を中心に累々たる遺体その数敵も味方もなく約35、000人分。住民の手で46年2月に建立された。そして土饅頭のように盛り上がった。最初に建立された慰霊塔。今日に至るまで各県ごとの慰霊塔があるが、沖縄県はとりたててない(21日撮影)。

 牛島司令官は作戦的には不可解というか、防衛戦の基本と臨機応変をしていない。ところが、名もなき兵士、住民たちは勇敢で砲弾も尽きれば爆雷と手りゅう弾をもち戦車を阻止する激戦を演じている。司令官の頭にあるのは、とにかく大本営に因果を含められたこと、すなわち本土決戦のために時間を稼げ、つまり「持久戦法」という沖縄や住民を守ることとは無関係の作戦をひたすら遂行する。しかも負け戦で切羽詰まっても天皇と大本営に対してのみ責任を負う形で自決をする。残存兵にたいしても住民にたいしてもまだ戦えという遺言を残す。そのために沖縄戦は収束をせず悲劇は続く。住民虐殺、集団自決が引き続くのである。牛島司令官、長参謀長は「国に殉じた将軍」ということで美化され、6.23をもって組織的抵抗は終わったとされているが沖縄では異論が多い。また事実に照らしても終わってはいない。

 防衛戦という極めて軍事的な作戦遂行能力をみれば簡単に言えば無能である。しかしながら大本営の目的という観点からいうと実に忠実に遂行して殉じた。つまり官僚の典型をみる。国民にたいしてはなんの責任も負わず、体制にたいしてのみ忠誠と責任を負う。現場指揮は滅裂なのに、上からの指示遂行には長けている。このパターンが今の社会の組織にも残っているように思えてならない。ぞっとする組織の論理、そこに輩出する能面の官僚。沖縄戦を勉強し直してみてやりきれないことのひとつである。

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