2008年6月14日土曜日

なんか言います


嫁いだことがないのでなんか言います。
一緒に働こうね、というのを裏切りました。私はそういうやつです。
西の出身で軽い気持ちで希望地をそのように書いていたら赴任先はそちらになりました。

腱鞘炎にならないようにしながら職場ではレジを打ち続け、組合婦人部ではヒロシマに行ったりして活躍しておりましたが、遠距離交際はつらくコストもかかり、一緒になろうということになりました。あちらの職場からはお前がこちらに来いという大合唱でしたが、結局職場をフイにして「嫁いで」もらいました。

設立はしたものの当局に認められていない組合の売店が新しい職場でした。専務一人、彼女一人で外から支援を受けていました。長男を儲けても働き続けました。最初は店のパン箱に寝かせて育てておりましたが、なんとか、保育園に預けられるようになりました。ふたりの通勤が逆方向でしたので保育園の送り迎えも全て彼女の「広い肩」にかかっていました。迎えに行くのはいつも最後で、息子がポツンと待っていたそうです。いまだに胸がキュンとなる思い出です。第2子ができたときにさすがに働けなくなりまして、また職場をフイにしました。

 3人目、4人目を授かり転勤もあり夢中で育てました。末の子が幼稚園にあがるころ「私の人生はなんなんだぁ、このままで一生を終わりたくない、外に出たい」と訴えられました。求職活動をしましたが、30代後半ではなかなか機会がありません。ご近所のお友達に誘われ保険の外交員になりました。初心者マークを4枚もつけて我家のワンボックスカーを運転して通勤しました。今ではペーパードライバーでそのときの気概はありません。向き不向きというものがありますが、全く不向きで、それでも支えられ、しばらくは頑張りましたがそれまでのことでした。お友達とペアで繁忙期のギフト配達とかいろいろと変転し経験を積みました。

それはハローワークの求人だったそうです。女先生から「採用します」の電話を受けたのは私でした。彼女は留守で「喜ぶと思います」と答えたのを印象深く覚えています。1年先に入った方が正規職員で彼女はパートでした。向いていました。潜在的な能力がひきだされました。

先生は女性の地位、人権、不正義あらゆることに立ち向かう激しい人だったといいます。ただ日常は誰ともダブルブッキング、ドタキャン・スッポカシ、バッジの紛失などそういうことには頓着なさらない“おおらかな方”だったそうです。周囲は大変でしたが、“らしくって”、みなそれがまた好きだったようです。どこの世界にもそういう人はおられます。事務員としてとても大事にしていただき、頼りにしていただいたそうです。体調が悪いと訴えられ、診断を受けたら癌の宣告を受けまして、アッという間でした。告別のときにはありとあらゆる世界の人々から弔辞があり、人柄、人望と交流の幅の広さを窺わせました。「惜しい人を亡くした」とはこういうひとのことを言うのだと思いました。先生は小柄な方で、妻殿のスーツ姿のほうが恰幅がよいため、ときどき間違われたそうです。ほんの数年でしたが物凄い影響を彼女の人生に与えました。月日は流れ、長男も背中をみていたのでしょうか。この道に進みました。

核家族ですから「嫁いで」はもらったものの、しがらみも慣習も作法も宗教行事も無く、家庭を営みました。ただ、もったいない、無駄にするな、いじめるな、いじめられるな、を信条にしてまいりました。私の勝手で彼女の人生を変えてしまった、と思っています。私は楽をし、彼女には苦労をしてもらったと考えます。私はそんなやつです。

  8:43岩手宮城内陸大地震発生

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私たちの場合は駆け落ちでした。沖縄に逃げたのは、ひとつには、単に私が好きな土地に逃げるだけではなく、認めてもらえない関係から「逃げる」という感じがありました。

当時、ウチのカミさんはラジカルなフェミニストでして(今は違いますが)入籍にも抵抗していました。おまけにバツイチ。私よりも年上という三拍子でした。当然結婚式などの親戚にたいするお披露目もなし。
親は激怒し、ひとり子の私を廃嫡にするという遺言状を書いたそうです。

私は、言ってみれば石もて打たれるが如く沖縄に行ったのです。

余情半さんの体験とはかなり違いますが、なにかどこかで似ている気もします。男は「嫁げ」ませんが、その哀しみや怒り、あるいは歓びをしっかりと抱きしめることていどはできます。