2008年6月4日水曜日

あんちゃん


 高倉健さん演じる唐獅子牡丹がもてはやされた時がある。あのころのプチ・インテリ学生さんたちに。その世代は私からいえば幼いころのご近所遊び仲間のころのあんちゃん達世代だ。


巨大なその看板が立てられたとき、とにかくわくわくした。
通学路の途中にあって見上げるようだった。
その日が早く来るように待ちに待った。学校は許可制だったので何月何日が観ていいと決まっていた。

『キングコング対ゴジラ』がわが町に来た。

 対決だからどちらが勝つのだろう。
ガキの仲間で論議に花を咲かせた。論議に加わるにはキングコングのことを、ゴジラのことを研究せねばならなかった。研究するもなにも、小学一年生には材料が何もなかった。その姿と看板とポスターの謳い文句だけで最大限の想像力を働かした。字はたいして読めなかった気がするけれど、そのために習ってもいない漢字も覚えた。ああでもない、こうでもないと意見をたたかわせた。
映画館のショウウィンドウのポスターや予告編のスチール写真を食い入るようになんーども何度も見に行った。

 でも、あんちゃんは明快だった。
「よかか、聞けっち」「キングコングが勝っど」
「ないなら、ありゃアメリカじゃ、ゴジラが勝つわけにはいかんど」
―――「じゃっどん、そやないごてか?」
「よかか、聞け。日本はアメリカの子分じゃ。ゴジラが勝てばアメリカが怒っち、どうじゃ」
―――「ほいなら、じゃっど!」で衆議一致した。

 一年生、幼稚園の我々は戦いを現実世界のものとしてとらえ想像力を働かせたが、さすが高学年のあんちゃんは映画をバーチャルとしてとらえ、社会的背景から説明した。
我々のあんちゃんを見上げる目はきらきらしていたろう、口をあんぐりと開け、鼻汁をすすりながら。
私たちは幼くしてもう「アメリカ帝国主義従属論」を「理解」していた。
ただ、なんで恐竜(ゴジラ)がゴリラ(キングコング)に負けるのか、今ひとつわからなかったが、あんちゃんの言うことだから信じるに足りた・・・。

 あんちゃんには私の姉と同い年のねえちゃんがいた。私が小学校にあがったとき、同時に姉も高校に進学した。お盆のころ、我々の広場に見知らぬおねえさんが現れた。「半ちゃん、おおきゅうなったね」と声をかけられたが逃げた。私の知っているねえちゃんには見えなかったし、お化粧をしていてしかも女の匂いを感じたから。おねえちゃんは大阪で住み込みのお手伝いさんをしていると姉から聞いた。

 あんちゃんの家にいけば暗がりにおじさんがいつも横たわっていた。リューマチで寝たきりだった。荷駄車の馬曳きをしていたそうだが、私はその姿を見たことがない。あんちゃんには兄ちゃんもいた。兄ちゃんも中学を出て都会に働きに出ていた。おばちゃんも真向かいの病院の先生のうちのお手伝いさんをしていた。あんちゃんちは縁の下でにわとりを少し飼っていた。

 ひたむきに働いてやさしい家族のひとたちだった。
あんちゃんだけは公立の商工高校に進学した。その後は知らない。
名前は雪(せっ)ちゃん、おねえちゃんは「てるちゃん」それしか覚えていない。
 

 都会を好き勝手に破壊した健さん好きのインテリ学生さんたちのことを、その武功を美化する人たちのことを、いまひとつ信じない。あのころのあんちゃんのことを信じて少ししか疑わなくとも。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

いい話しだなぁ。こういう話しは余情半さんじゃないと書けないよ。
なんていうのか、日常の切り取りがうまい。まるで昔の日本映画のセピア色のひとこまみたいだ。私には逆立ちしてもできない。感動した。