2008年6月30日月曜日

ひとりポツン

朝早く出勤したら駐輪場のいいところに留められる、
だけど遅く帰ってきたら私の自転車だけ
ひとりポツン

いっしょうけんめい迎えに行っても
昔、息子は保育園に
ひとりポツン
(想像、妻の話から)

駅裏の「後期高齢者医療制度は直ちに廃止」の
共産党さんのポスターは剥がされたまま、
ひとりポツン

金曜日の朝出した生ゴミリサイクルのポリバケツ、
家族みんな遅く帰ってきたら
ひとりポツン

前屈しているつもりが
スタジオ鏡をみたら
ひとりポツン できていない

2008年6月29日日曜日

ユビキタス家庭


 三男は新入社員でいつも夜遅く帰ってきていました。ある日の我家の状態をこう言いました。

 妻殿はパートさんですが、私のPCに従属しているのはいやだったそうで、あるとき、息子にたのんで最新型で軽量のものを通信販売で自分の金で買い求めました(我家は結婚や就職、独立で核分裂が始まっていますが全員がPC持っています)。
 以来、気がつくと「お茶の間団欒」が丸い卓袱台の上の銘々のノートパソコンにむかったまま耳半分の会話になっているのです。これってまるで今様の職場の情景と同じです。
 雨降りの日曜の今朝もそうでした。おぞましい現実ですが、誰それのブログは「ははは」とか「へぇ、ほー」とかやっておりました。世の中おかしいとつぶやきながら、おかしなことをしている、おかしなやつです。

 三男は任地が決まり昨日引越の荷物を送り出し、今朝未明出発し、もう荷物を受け取ったというメールを受けました。たまたま次姉夫婦がいる県都で、お世話をお願いしておきました。親分肌の義兄なので安心です。息子にはこの前買ってきた泡盛を手土産に持たせました。独り暮らしの始まりです、巣立ちました。
  (ちなみにユビキタスの意味は私にはわかりません)

2008年6月26日木曜日

「とうちゃんがいちばんだぁ」

――と、義姉が身内によく言っていました。「工場はうちのとうちゃんでもっているんだぁ」とも。「無理が祟って」というパターンで10年ほど前に40代で亡くなくなりました。自分に言い聞かせているようでもありました。
 その妹である妻は、久しぶりに帰った実家でNHKの朝の番組「生活ほっとモーニング」のその日のテーマ「シリーズ・どうする日本の食(1)~輸入食品の安全を守れ~」をたまたま見ながら、「うちのとうちゃんは上に批判的なんだぁ。だから認められてないんだぁ。とうちゃんがいちばんだぁ」とつい言ってしまったらしい。
舅姑さんは「たぁいしたもんだあ(東北弁)」を言うのが好きです。私達夫婦にも孫たちにも連発します。

おもはゆい。

今日は梅雨寒、今夜はキムチ鍋食べました。お餅をいれて。
画像は「えだまめ栽培セット」18日に植えました、下は本日の成長具合。

2008年6月24日火曜日

温度差

沖縄では梅雨が明け32度前後で蒸し暑かったから汗をかいた。昼間は好きな「さんぴん茶」で水分補給を、夜はオリオンビールと泡盛を浴びるほど飲んだ。本をしこたま買った。それでリュックが壊れて往生した。ホテルから宅急便にして送ったらもう届いた。
日曜日、羽田に着いたら大雨だった。家に帰る時もみやげがびしょぬれになった。月曜日は日本海から寒気がきているということで涼しい。

「9・11」以降狂ったようなアメリカの戦時体制、米軍犯罪・迷惑、中央政界の憲法改悪論議、自衛隊の海外恒久派兵法の動きなどなど、とても平和な社会にむかっているとは思えない現実が、日本の南の最果て、極東の中心からむきだしで見える。

かぶれたのではなくて、ホントに温度差がある。

なんと例えればいいのだろう。
崩壊する前のローマ帝国の市民の饗宴。
食糧をつくれない、それを買えない近未来。
「安全の崩壊」におびえる都市富裕市民。
富の再配分を拒む狭量な財界、政府、アメリカ。
突出した日米の軍事力。
あまり感心を示さない成熟した市民社会。

「4.28」、「6.23」学生時代は街頭に出た自分自身。

6.23慰霊の日


 沖縄戦写真集で見たひとつの写真。撃墜された特攻隊飛行士の遺体。頭は向こう側になっていて損傷はよくわからない。腰に約25cm四方の厚いコンクリートブロックを2個結わえてあった。仮に不時着しても生きて帰らぬ覚悟と解説してあったが、目が点になって釘付けになった。
特攻は形のうえでは「志願制」をとったが、これでは操縦席についた時点でまるで死刑囚ではないか。目的地に飛んでいけないほどのポンコツの飛行機を使った。生命を引き換えに戦おうとする兵士に与えた兵器は目的を達することのできぬシロモノであった。だから「死ぬ」ことが目的の発進だった。兵士というが17~19歳ぐらいの若者たちである。国家が「国を守る」という美名で騙した。軍官僚たちが国防を遂行しているようにみせかけるため、戦意高揚、士気を鼓舞するためにやたら若者達の命を、貴重ないのちを、杜撰に消耗した。敗戦後、済州島に隠匿していた新鋭機(陸軍戦闘機「飛燕」など)が多数見つかりただちに処分された。本土決戦のために温存していたのだろうがまともな兵器はそれでもまだあったのだ。たぶんまともには飛んでいけない飛行機で不時着は想定されておるから、そうなっても断じて生きて帰るなという残酷な発進だったと考える。死ぬしかない特攻隊兵舎に外科手術に貴重なヒロポンがあったのは何をか謂わん。

 沖縄戦はとにかく数多くの死を強制した。国軍、友軍が国民を守らなかった、どころか盾にした。むやみに「人の死」を強制した。何故、死なねばならなかったのか。「誰のために」は避けて通れない。沖縄でははっきり言われているが、うやむやにされたままである。

 「ガマ」(沖縄南部に点在する鍾乳洞の天然壕)の見学を終えてバスで次に出発するとき「気分の悪くなった」人はいないかと尋ねられた。「霊感」のようなもの(感受性)が強いひとはそうなるそうで、修学旅行生などで動けなくなる子がいるらしい。また稀に亡霊が見えるというひともいるらしい。たくさんのひとたちが苦痛の末、亡くなった場所である。

6.23慰霊の日
「沖縄前戦没者追悼式」の準備で、「有名」な戦跡はその手入れに余念がなかった。
政府要人がくるために警戒が厳重になり一般のひとはむしろ近寄れなくなるそうだ。
わずか25分だったがNHKで全国中継放送(0:25~0:45)された(60周年以来2回目)。
「平和の礎(いしじ)」沖縄から平和の発信。そういうふうに外に向かって波型にできている。世界に平和が広がるようにという願いでできている。

写真は「魂魄」とだけ刻まれた慰霊塔。
南部の米須海岸の近くにある。戦後、住民があらためて住まなくてはならなかったとき、住もうにもあちらこちらに遺体があってこれを葬ることから始めなくてはならなかった。住民を中心に累々たる遺体その数敵も味方もなく約35、000人分。住民の手で46年2月に建立された。そして土饅頭のように盛り上がった。最初に建立された慰霊塔。今日に至るまで各県ごとの慰霊塔があるが、沖縄県はとりたててない(21日撮影)。

 牛島司令官は作戦的には不可解というか、防衛戦の基本と臨機応変をしていない。ところが、名もなき兵士、住民たちは勇敢で砲弾も尽きれば爆雷と手りゅう弾をもち戦車を阻止する激戦を演じている。司令官の頭にあるのは、とにかく大本営に因果を含められたこと、すなわち本土決戦のために時間を稼げ、つまり「持久戦法」という沖縄や住民を守ることとは無関係の作戦をひたすら遂行する。しかも負け戦で切羽詰まっても天皇と大本営に対してのみ責任を負う形で自決をする。残存兵にたいしても住民にたいしてもまだ戦えという遺言を残す。そのために沖縄戦は収束をせず悲劇は続く。住民虐殺、集団自決が引き続くのである。牛島司令官、長参謀長は「国に殉じた将軍」ということで美化され、6.23をもって組織的抵抗は終わったとされているが沖縄では異論が多い。また事実に照らしても終わってはいない。

 防衛戦という極めて軍事的な作戦遂行能力をみれば簡単に言えば無能である。しかしながら大本営の目的という観点からいうと実に忠実に遂行して殉じた。つまり官僚の典型をみる。国民にたいしてはなんの責任も負わず、体制にたいしてのみ忠誠と責任を負う。現場指揮は滅裂なのに、上からの指示遂行には長けている。このパターンが今の社会の組織にも残っているように思えてならない。ぞっとする組織の論理、そこに輩出する能面の官僚。沖縄戦を勉強し直してみてやりきれないことのひとつである。

鉄の軌道

はじめて沖縄でモノレールに乗った、建設中は見ていたが。便利になった。
大昔、県の得意先のメンバーみなさんと会議があれば労働会館だった。那覇の入り口みたいなところで、空港からは近場のためタクシーの運転手さんに嘆かれた。「3時間待って・・・」。

戦前、「ケービン」と呼ばれていた鉄道があったそうだ。あちこちの資料展示で知った。かわいい鉄道だったそうだが、全長約40km、各地に駅があり民生上の足になっていたそうだ。

以下はTBS「NEWS23」での報道(23日)。
戦時中、軍事輸送に使われた。44年の時点で、どうも作戦上南部戦線を敷くことを軍はすでに考えていたようだ。中北部にある兵器弾薬を、人を運ぶのが精一杯のこの軽便鉄道を酷使して運んだ。そして44年12月にその事故は起きた。弾薬であることがわからぬように被せていた乾燥サトウキビに火が燃え移ったようだ。上り坂で機関車からでた火の粉だったのかもしれない。火薬に引火し爆発炎上。悪いことにその現場付近のサトウキビ畑に隠蔽してあった火薬にまで引火、火の海になったらしい。兵士、乗客200人あまりが巻き込まれた。沖縄守備軍の武器弾薬が半減した大事故、軍の大失態だったらしい。軍事機密として厳しいかん口令が敷かれたらしい。「対馬丸」事件と同様である。以後、沖縄守備軍長参謀長の厳命によって武器弾薬の厳しい管理が軍内部に通達される。したがって、住民に手榴弾が配られたという事実は軍の命令なしにはありえなかったという。戦闘を前に慶良間諸島ではそれが実施され悲劇的な集団自決が起きている。

昨日のブログでとりあげた大城さんのことも、ご本人の証言活動の姿、および本の編著者大田昌秀さん出演で紹介されていました。

2008年6月23日月曜日

『琉球新報』08年6月22日の記事


深夜2時まで飲みました。もちろんオリオンビールと泡盛です。

得意先のシンスケさんとは同じ年です。数年前に東京で会っていましたからさほど久しぶりではなかったのですが、那覇では20数年ぶりでした。あの頃は同じように1時くらいまで飲んでいてさぁお開きにしようよと言ったら、その時間ぐらいから得意先のみんなが続々と集まってきたので“沖縄の慣習”に往生したことを覚えています。その“のり”でいたのですが、みなもう2時になったらそそくさと帰りたかったようでした。月日は流れたのでした、悪いことをしました。

宿泊ホテルの所在がたまたまシンスケさんの生まれ育ったところだったそうです。通った中学、小学校、実家の跡(他人の家が建っている)、そして海。磯と砂浜があったそうで、夕日の沈むのがきれいだったそうです。東シナ海、日本海に臨むところに育ったひとの共通の郷愁ではないでしょうか。今ではテトラブロックとコンクリートの護岸、見上げればバイパス道路が走る景観になっているのですが。あの戦争で犠牲者が身内にもでたのかと聞いたら祖父伯父5人死んだというのです。それで没落したとか。

高校時代のアイドルがやっているというお店(スナック)に連絡してあるというので連れて行かれました。げっ、アイドルと言ったって同い年ではないかと思ったりもしたのですが。結局、彼の小中高の同窓生8人ぐらいが集まりました。女性がママさんもいれて4名。シンスケさんはシンスケベーと呼ばれていたそうです。うなずけます。本土とわけ隔てなく価格対応と提案をしたと私がとうに忘れていた昔話で私をほめるのです。それで思い出して、私のほうから今常識になっているティッシュペーパーの5個組み、トイレットペーパーの12ロール(当時は55~65m巻、今は120~130m巻の6ロールだが)をつくったのは我々の業態且つ我々の地方だという説を展開したのです。とまぁ、いろいろな昔話や、みな仕事は違いますから色々な話に及びました。よく覚えていません。

あのころ出張仕事の帰りに国際通の大きな本屋さんに行って当時買い求めたのが『これが沖縄戦だ』です。表紙の子の説明に「傷つき血みどろになった少女」と書いてあります。つまり女の子だと、そう思っておりました。

実はこの子が『表紙写真「うつろな目の少女」で知られる大城盛俊さん(75)であること』を本日(6.22)の地元紙『琉球新報』で知りました。21日に石垣島で沖縄戦を語られたそうです。その記事が載っておりました。記事によれば、沖縄戦当時、育ての父から「兵隊にやられないように」と言われ、女の子のように装っていた。12歳のとき上陸してきた米軍から逃げて玉城村のガマ(鍾乳洞の洞窟のこと)に入った。日本兵に黒砂糖の入ったリュックを取られそうになり断ったら思いっきり殴られたそうです。その暴行で右目は今も見えない。実母はスパイ容疑をかけられ日本兵に手榴弾で殺された。

63年前の沖縄戦のこと、今沖縄では続々と証言が増えつつあるそうです。戦後、重くかたく口を閉ざしていたひとたち。とりわけ「集団自決」にかかわった人たちは身内を手にかけているということがあったり、自分だけが生き残ったということで63年もの間、口を開くことができなかったそうです。地元紙の『琉球新報』も『沖縄タイムズ』もともに戦争体験と安保体制下の現実としての米軍基地被害、これらを真っ向から取り上げてあります。こちらの『朝日』『読売』とはまるで違いました。

2008年6月20日金曜日

農協、漁協、加工業、切干ともずく

 故郷に帰ったり、仕事で訪れる機会があったりして、農村の風景が変わっているのに気付いていました。とくに地方です。農業とは縁がなかったのですが。廃屋と耕作放棄地。
 南の○○富士と呼ばれる裾野は大昔、春になれば一面の菜の花畑でした。それはそれは見事なものでした。油をとることが成り立っていたのだと思います。数年後には一面の大根畑になっていました。特産の壷漬けが成り立っていたのだと思います。今は幾重にも整備された道路とお花畑、テーマパークの点在する風景になっています。田舎の香水=堆肥の匂いもなければハエもとんでいません。生産と生活の気配が薄いのです、思い違いかもしれません。
 同じようにこの列島の海と漁港も悲しく変貌していました。

 さて、もう10年近く前になりましょうか当時安い中国産におされて瀕死の状態にあった切り干し大根を気難しい得意先に売り込むために産地に勉強に行きました。仕入先は系統でしたので産地、生産者は確実であるだろうけれど検証も兼ねていました。昨今の事件だけではなくて、かなり以前から「偽装」というのがあるということは肌で感じていました。耳をすましていれば、また統計などをつぶさにみていれば感じることです。市中に出回るおおよその量と生産量が矛盾していました。ですから現場主義を信条としていました。本音を聞きだすのです。裏をとるのです。裏もとらぬコロッケなんて信じられません。
冬の田んぼに棚が組み立てられて斜めに立て置かれた網に大根のスライスが並べられます。「霧島おろし」と呼ばれる乾燥した寒風と燦燦とした短い冬の日差しで仕上げられます。切干は工場で作るものと違って、わかりやすく且つ壮観です。
 ただ素朴な農村加工品で混じり物や異物が混入することがあります。荷を受けて商品にする系統の加工場は本来このことについて生産者と解決の対話と実践を重ねていてほしかったのですが農協の事務という組織の限界を感じます。当然これまでも努力は積み重ねられてきたことなのですが。
 個々には頑張っていらっしゃるのですが、いかんせん全体を鳥瞰し長い目で解決をはかるということができていないという観があります。異動もある農協の上部組織のサラリーマンという観は否めません。他人事ではありません、似たような体質をもっていますから。

 自然の生産物で素朴な加工品は実は海藻なんかもそうで、同じ苦労をしています。そういう点では商系の加工屋さんによい実践例、ヒントを学ぶ機会がありました。条件は違うわけですが、その加工屋さんが教えてくれました。必ず失敗例も成功例も産地にフィードバックする。産地も誰がつくったかあきらかにすることを組み立てる。そういう意味ではずっと以前からトレサビリティーの仕組みが自ずとできていました。個々の責任も明らかにしつつ協同で水準を引き上げていく、漁協の漁協たる本懐です。加工も隠さず公開する。互いに交流する。売買の関係から、相互の自立(たぶんに産地、生産者のことですが)を前提にした関係をつくりあげていく。加工屋さんも自立を促していく。それは私達、卸小売にとっても理にかなった方法だと気付いた次第です。意欲があがる、品質があがる、事故が減らせる、安定して供給を受けられる、関係がつくれます。なによりも信頼が築けます。そうしてこそ「顔が見えてくる」のでしょう。
 商店ですので金銭にはシビアです。歩留まりも仕入れ価格にも緊張感があります。ただし、価値を生み出せば産地にたいして無理な仕入れをしなくてよいのです。この良い方の循環、先に進んだ価値、これが本当の競争力だと同感するようになりました。安売り一辺倒で得をするものはおりません。この商店の幹部は30年来の知り合いですが、ついこの間 年が一緒だとわかりました。私は今でも堂々の平(ひら)ですが彼は最初から幹部でした。ようやく「安く買うぞ」「高く売るぞ」という立場を超えられたのかなと思うのです。互いに苦笑いをするのですが。
 なんとも凄いのが生産者を束ねるその漁協なのです。協同組合らしさ、たくましさ、楽観未来志向型、積み重ねてきた実践。あの、戦跡と米軍基地とリゾートの混在する沖縄にあって、県の産業のひとつ、この列島の数少なくなった水産資源を形成(全体で生産量2万トンです)し、同時に人類の財産である環境を守る実践。語ることは付きません。いつかお話しましょう。ねぇ、鴇さま。お百姓さま。Oさん。

トラちゃん


 ずっと以前に住んでいたところの裏にほんの小さな竹やぶがあって野良の子猫の姉妹3匹がいました。他人様の土地です。その母猫も前年に産み落とされたばかりの若さでした。ですから生まれたときから2代続けて知っています。野良らしく人間には慣れず、会えば「シャー!」と威嚇されました。当然いつもお腹をすかせていましたので、魚の残飯などをときどきそっと置いて与えたりしました。ご近所様にも憚りがありました。食べる様子をこっそり覗いたりしておりますと、3匹のうち、われ先に他の子の頭を押さえつけて食べるなんともお転婆な子がいました。おそるおそる食べる時もまず一番に手を、いや口をつけるのがその子でした。3匹とも身体の模様が違っていてその子は縞模様だったので「トラちゃん」と名づけていました。母猫は生まれながらにして警戒心が強く、トラちゃんもその血をひいていましたが何事につれ積極的でした。
 
 どういうわけだったのでしょうかその日の朝に限って、ためらいつつ勝手口から一歩入ってきて、いや二、三歩入ってきて与えた牛乳をゴクゴク飲みました。何か言いながら飲んでいました。野良猫生活でよほどお腹がすいていたのでしょうか。こちらもおっかなびっくりでしたが、はじめて頭をなでることができました。あっ、これで少しお友達になれたのかなと思ったことも印象に残っています。
 
 確かその夜は神宮で野球を観戦したと思います。帰ってきたら暗い路上に小さな物体が横たわっていました。まさか。こわがりの私は直視できませんでしたが、妻が拾い上げて包みに入れてあげました。まぎれもなく子猫のトラちゃんそのものでした。目玉が飛び出ていたそうです。薄幸とはこういうことを言うのでしょう。野良に生まれ、たくましく生きるそんな環境ではありませんでした。人間の世界はカネとモノと食べものが溢れ、まだバブルだったように思います。

 夜は遅く、テレビをつけましたら「天安門事件」のニュースが飛び込んできました。一転した出来事とさまざまなやりきれない思いも含めてこの日のことがとくに印象に残っています。

2008年6月19日木曜日

トンツートンツーこちら極東特派員



『サルクニア物語』前章

本土決戦のために近衛仕入部隊は30万増員100万体制にすることになりました。サティアン検査所には15万増員ここも85万体制に。拡大し過ぎて目も届かず毒ガス攻撃に狼狽した戦線を6200陣地から4000陣地に、しかしそれは質ではなく量での判断とされています。月に50万発しか飛んでこない陣地は放棄(足切り)します。住民を守るためではありません。また中小民間需要製造者の切捨てにつながることを危惧します。複雑すぎてアイソがつきた9001部隊を再編成し、さらに「安全」のため22000部隊を創設します。10002部隊を持っていたことは初めて知りましたが前線には知らされておりませんでした。新兵器はぞくぞくと近衛部隊とサティアン検査所に投入する予定です。

さて我が守備隊ですが、一層の防衛強化を高らかに宣言いたしました。外に向かっては。9万の増員(ホントはこれだけでもどう計算しても不足するのですが)。しかしこれは言ってみただけです。これがホントの「大本営発表」。
さすがの現地指揮官もあきれはててはおりますが「大命は下れり」の一点張りで、増員の具体化もないまま新任務遂行を余儀なくされています。高級将校たちも「おれも上には言ったんだ」と胸を張りますが、あとは前線部隊で工夫してくれと、とりあってくれません。昇格された後方本部に2名の高級参謀が配置され全体を監視判断、我が前線はもちろん輜重部隊での異変も見逃さず水も漏らさぬ体制が整えられつつあります、後方では。
我が守備隊の主流は現地召集「にわかづくり」の老兵と傷病兵で構成されております。昔取った杵柄と培った人格でなんとか糊口を凌いでおりますが、技術、システムは日進月歩、なんらの研修も講習もなく、ひたすら蛸壺反撃を余儀なくされておりますのが実態です。

すでに鉄の暴風は吹き荒れ、反撃の域を超えております。

 足手まといの老人子どもを疎開させましたが「対馬丸」は撃沈されてしまいました。乗客1661名のうち1484名が命を奪われました。このことは士気にかかわることなので助かったわずかな子供や親達には慰労ではなく厳重な口止めをいたしました。むしろ住民を疎開させることはとりやめ、老若男女を問わず住民を根こそぎ動員する必要を思いつきました。防衛のための飛行場をつくらせることです。とくに生徒学生をこきつかいました。機械動力がありませんでしたので手作業でありましたが、とにかく急がせて作り上げたのです。しかし、いざとなってカンジンの、肝心要の飛行機がありませんでした。
本土防衛の大義に鑑み、水際掃討を放棄し持久戦法をとることにしました。司令官が大本営に因果を含まされていたためです。そのために敵の無血上陸を許しましたので、敵軍は上陸のその日のうちに占領した飛行場を使用することができました。ただちに我が特攻機を迎撃されてしまいました。

なんだったんでしょう、国家総動員法のもとに生活のための土地をとりあげられ、血のでるような突貫工事でつくった飛行場づくりは。

青年少年は急ごしらえの兵隊や補助隊(鉄血勤皇隊など)に、女学生は看護兵(ひめゆり、白梅隊)に、彼ら彼女らを水汲み、炊事、洗濯、伝令あらゆる雑用にこきつかいました。平時ならともかく戦時の前線で実は最も危険な任務でありました。住民を盾に使った数々の事例の典型でありますす。持久戦法をとり続け南部に逃げて「ガマ」にたてこもったとき、危険な入り口には住民を配置し、軍は奥に陣取りました。火炎放射、黄リン弾、ナパーム弾で、最初に生きながら焼き殺されたのは住民たちでありました。ガマを出れば後ろから撃たれ、留まれば食糧を強奪され泣く子は殺されました。手りゅう弾は何のために渡されたのでしょう。

海軍守備隊全滅にあたり何故「沖縄県民斯く闘へり」の電文が発せられたのか。当時、本土、大本営では「一等劣る琉球人の皇民化」が進まず現地で敗退を重ねたのは沖縄住民の非協力のせいであるという噂がまことしやかに流されていたそうであります。誰が流したか。将軍たちの住民への責任の転嫁、なすりつけでありました。美化されてはおりますが、海軍大田司令官の「いくらなんでも」という義憤の打電であったといいます。その電文すら本土決戦を呼号する戦意高揚に利用されたのですが・・・。

 本土防衛の捨て石、本土決戦の時間稼ぎ、最後には沖縄戦を収拾することすら放棄してその後も住民虐殺、集団自決が続きます。「国体護持=天皇制を守ること」つまるところはこれでありました。やりきれないこの戦跡、その後の米軍世界戦略の「極東の要石(かなめいし)」の一端を機会があって少し見に行きます。

 今日は生き残っていたひめゆり部隊40名の教師・生徒が無残な最後を遂げた日。

2008年6月17日火曜日

このような世情なので


問い:餅に黒いシミのような物があった。このような世情なので、一応調べて欲しい。

答え: お米の生育時に天候の影響を受け一部にお米の色が茶や黒色に色づくことがあります。この原料米の混入に由来するもので見た目の問題はありますが害はありません。

 色彩選別機などが発明される以前は普通に食されており、健康への影響はございませんのでご安心ください。

 お米は天産物でございますことから、天候や稲の生育状況により、部分的に茶色や黒く色が付いた米が全体の内、わずかに実ります。
 夏から秋にかけての実りの時期の水不足や、高温もしくは低温障害によりお米が完全に成熟できませんと、表皮部分が厚くなり茶色や黒色に色がついたお米が発生することがあります。
 
 このような色が着いた米につきましては、玄米を白米へ搗精する工程におきまして色彩選別機および異物除去機を使い、除去をしています。
 
 色彩選別機等で除去されなかった着色米が、そのまま餅に加工され、その後の検品作業でも発見、除去されず商品として出荷されたものと判断いたしました。

2008年6月15日日曜日

風化させない


 シリーズで「今度は夏用」とか。冬の誕生日には皮製だった。「直射日光に気をつけて」とか。長男から父の日に。

 二男、三男からは、最近「マイブームのようで」とのことで「枝豆栽培セット」とか。安直のゴーヤ栽培、田植えセットのことを見透かされたようなプレゼント。今から種まきすれば収穫は9月。いやぁ、お百姓さんにはとても言えない。はは。
あと「potty putter 」。トイレでパターするんだとか。

 三陸からはかつお。そろそろとは思っていた。Aさんの魚はプロのこだわりとプライドで鮮度と旨さは抜群。もう、ほかでは買えない。

 63年前の今頃、沖縄地上戦があってほぼ追い詰められていたころ。13日には小禄の司令部で海軍が全滅。直前に「沖縄県民斯く戦へり」の異例の電文が打たれた。
 以前なら「労組はもう卒業」で考えもしなかった。労連の企画に応募。無風当選し、この週末「基地・戦跡めぐり」に年休をとって行く。恐らく若い参加者のなかにポツンかもしれない。一念発起した。ではハンチング帽姿で行こうか。
 私には高校のときだったか、久米島のひとの『朝日』への投稿を読んだときの記憶がなまなましい。それが異様に激烈な内容だったことと、何が起きたのだろうということで強烈な印象がずっと心に残っている。当時、戦争末期に住民虐殺を惹き起こした軍の当事者が生きていて、謝罪や反省ではなくその行為を正当化していたことが報道されたらしい。このことへの非難、「臆面の無さ、おめおめと生きておったとは」という内容だったように思っている。表現は定かでない。切り抜きはとっていたはずだが。本島での組織戦は23日に終わったとされているが、久米島の事件はその後のこと。

ドキュメンタリー映画監督の森達也さんは言う、
「戦争 風化させないこと 刻むこと」

2008年6月14日土曜日

なんか言います


嫁いだことがないのでなんか言います。
一緒に働こうね、というのを裏切りました。私はそういうやつです。
西の出身で軽い気持ちで希望地をそのように書いていたら赴任先はそちらになりました。

腱鞘炎にならないようにしながら職場ではレジを打ち続け、組合婦人部ではヒロシマに行ったりして活躍しておりましたが、遠距離交際はつらくコストもかかり、一緒になろうということになりました。あちらの職場からはお前がこちらに来いという大合唱でしたが、結局職場をフイにして「嫁いで」もらいました。

設立はしたものの当局に認められていない組合の売店が新しい職場でした。専務一人、彼女一人で外から支援を受けていました。長男を儲けても働き続けました。最初は店のパン箱に寝かせて育てておりましたが、なんとか、保育園に預けられるようになりました。ふたりの通勤が逆方向でしたので保育園の送り迎えも全て彼女の「広い肩」にかかっていました。迎えに行くのはいつも最後で、息子がポツンと待っていたそうです。いまだに胸がキュンとなる思い出です。第2子ができたときにさすがに働けなくなりまして、また職場をフイにしました。

 3人目、4人目を授かり転勤もあり夢中で育てました。末の子が幼稚園にあがるころ「私の人生はなんなんだぁ、このままで一生を終わりたくない、外に出たい」と訴えられました。求職活動をしましたが、30代後半ではなかなか機会がありません。ご近所のお友達に誘われ保険の外交員になりました。初心者マークを4枚もつけて我家のワンボックスカーを運転して通勤しました。今ではペーパードライバーでそのときの気概はありません。向き不向きというものがありますが、全く不向きで、それでも支えられ、しばらくは頑張りましたがそれまでのことでした。お友達とペアで繁忙期のギフト配達とかいろいろと変転し経験を積みました。

それはハローワークの求人だったそうです。女先生から「採用します」の電話を受けたのは私でした。彼女は留守で「喜ぶと思います」と答えたのを印象深く覚えています。1年先に入った方が正規職員で彼女はパートでした。向いていました。潜在的な能力がひきだされました。

先生は女性の地位、人権、不正義あらゆることに立ち向かう激しい人だったといいます。ただ日常は誰ともダブルブッキング、ドタキャン・スッポカシ、バッジの紛失などそういうことには頓着なさらない“おおらかな方”だったそうです。周囲は大変でしたが、“らしくって”、みなそれがまた好きだったようです。どこの世界にもそういう人はおられます。事務員としてとても大事にしていただき、頼りにしていただいたそうです。体調が悪いと訴えられ、診断を受けたら癌の宣告を受けまして、アッという間でした。告別のときにはありとあらゆる世界の人々から弔辞があり、人柄、人望と交流の幅の広さを窺わせました。「惜しい人を亡くした」とはこういうひとのことを言うのだと思いました。先生は小柄な方で、妻殿のスーツ姿のほうが恰幅がよいため、ときどき間違われたそうです。ほんの数年でしたが物凄い影響を彼女の人生に与えました。月日は流れ、長男も背中をみていたのでしょうか。この道に進みました。

核家族ですから「嫁いで」はもらったものの、しがらみも慣習も作法も宗教行事も無く、家庭を営みました。ただ、もったいない、無駄にするな、いじめるな、いじめられるな、を信条にしてまいりました。私の勝手で彼女の人生を変えてしまった、と思っています。私は楽をし、彼女には苦労をしてもらったと考えます。私はそんなやつです。

  8:43岩手宮城内陸大地震発生

2008年6月13日金曜日

ルート58


 R-3とR-10の行き着くところ。
そこからR-58は始まる。知る人ぞ知る『海を渡る国道』だ。

これをやろうと話しあった。いまは法螺(ホラ)だ。

鉄砲伝来の種子島がある、そして奄美があって沖縄だ。

種子島の芋(いも)、何か滋味があるらしい。奄美はさとうきび。南国では燦燦とふりそそぐ太陽光はストレスだ、半端ではない、これに抗して成長するさとうきびはエネルギーをたくさん蓄えると学者先生は言う。それをやろうということになった。

 食品加工事業を繋いでみること。地域の特長をつかみ、その地域の食の伝統、知恵を受け継ぎ、そしてさらに「食の創造」につなげたいと発想している。まずは「こころざし」の確認だ。

 酢がつくれる。さとうきび酢はブランドだ。さとうきびに2年、酢をつくるのに3年かかる。黒糖をふんだんに使った黒糖焼酎づくりから、もろみ酢もわかれてつくれる。いもからも酢はつくれる。酢とはきってもきれない加工食品や調味料がある。例えば、もずく酢、酢だこ、マヨネーズ、などなど。
黒糖をつくるときの絞り粕から、さとうきび穂先から、なにかつくれる。パウダーだ。粉をつくる、粉にするという人間の知恵、技。つくれなくとも釜の燃料にして与論では塩づくりをしている。製造工程で出る残渣、未利用資源はおもしろい。ゼロエミッションだ。
いも(紫芋、安納芋)からはペーストがつくれる。
パウダーとペースト、搾汁液からなにがつくれるか。スープ、パン、お菓子、飲料、ドレッシング、なんでも発想できる。
中小だが技術をもったものづくりの企業のみなさんがあちこちにいる。元気にやっている郷土菓子屋さんがある。黒糖、砂糖は悲しい歴史を背負ってお殿様にはふんだんにあった土地柄。

協同の力ができる。ある中小企業協同組合。発掘しよう、開発しよう、と。一歩から。

2008年6月12日木曜日

ビギナーズラック


高橋圭三さんという当時NHKの看板アナウンサーがいて民放に移りました。その高橋さんがスタジオで客席をまわりながら軽妙なクイズを出して、正解したらポケットから取り出した高価な時計や万年筆やなにかを惜しげもなく与えるというオープニングの番組がありました。とにかく終始クイズに答えて高額な景品をこれでもかと提供していました。その番組があまりにも人をモノでつるような、モノを粗末にしているような制作でよろしくないという趣旨のことを投稿しました。人のもつモノへの卑しい心根を弄んでいるように見えましたから。初めてでしたが、それはテレビ番組欄に掲載されました。新聞社を通して「若いのによく言ってくれました」という旨の便りが回送されて来たりしました。近所のお菓子屋のおばさんがそれが載っていたことを母に伝えたようです。後日、謝礼の郵便為替が送られてきまして、初めて稼いだそのお金で母と一緒に町の洋品屋さんに行き、自分のセーターを買いました。

秋葉原の無差別殺傷事件の報道の仕方で、犯人の親まで引っ張り出すのはいかがなものかということを、黙ってはいられなくて女房殿が、新聞社に初めてメール投稿したそうです。その夜のうちに取材の電話がかかってきて掲載されることになりましたそうです。

2008年6月11日水曜日

イトウさんは人気者


夕食時で閑散としていたプールに、涌いてきたのかと思えるようにいつのまにか人が増えている。開始時間だ。

間にあうように駆け込みで入館すると彼女が受け付けの奥にいて「アイジョーっすね」「おう」と応える。足は25.0cm。昔で言えば10文半、母は○○の大足と呼んでいた。

たった30分のアクアビクス。7つの運動を指導と音楽に合わせて3回繰り返す。大声張り上げ、金切り声での音頭が、またいい。階上から見れば、シーワールドでお姉さんが“あしか”か“いるか”を調教しているようだ。モー娘のBGMでからだをひねる。腕を使って水中で力いっぱい掻く。彼女に唱和して、みんな無心に奇声を発して飛び跳ねる。合間の水中ジョギングでぐるぐるまわり、彼女のところで跳ねて手にタッチ。巻網の“まぐろ”の水揚げのときのよう。みんなのバシャバシャ、水が飛び跳ねる。どうみても、われ等平均60代。ほとんどご婦人。老紳士も2、3人。アタシは若い方。元気はつらつ約20人。

新米インストラクター、栄えある職員。イトウさんは見上げるよう。下の息子と同い年。みんな彼女の元気が目当て。ゆえに、イトウさんは人気者。

2008年6月10日火曜日

悪だのう


報道ステーションを見ていたら加藤容疑者の両親がマスコミの前に出てきて(事実上ひっぱりだされて?)、インタビュアは「社会にたいして被害者に対して親としてどういう責任をとるのか」という趣旨の質問を浴びせていたが、それは「おかしい」。
これでは「罪、累に及ぶ」の江戸時代だ。ことの残虐性、重大性とは別問題だ。それを望む視聴者がいることを背景としているかもしれないが、それを煽っている関係でもある。浅はかそのもの、これではマスコミも危ない。

「脇息」
自然にこの言葉が出てきて、この漢字が書ける。「変わり者」だと謂われる所以。
昨年の今頃ネットのオークションで2個買い求めた。これは掘り出しものだった、使い心地がいい。この世界も新品の多くは今では中国製だということも知った。舅、姑殿が来たときに慇懃に接待の道具に使いながら、内心(どうだ、参ったか)これをやってみたかった。自分を「俗物」と思う所以。ただし、このたくらみは瓦解した。舅殿の家に同時期にある事情でこれが5客も揃っていたのを後日知ったから。
あとは「越後屋ぁ、お主もワルだのう、むひひひ、ひ」をやってみたかった小道具。
飢饉に際してお米の、大火事に際して木材の買占めをやる悪徳御用商人、これとグルの悪代官。勧善懲悪の時代劇に出てくる、「あれ」。

儲けの行き先を石油ばかりか食糧にまで求め始めた世界的投資ファンド、まさに絵に画いたような投機。あとは野となれ山となれ。世界が規制することができないでいる。暴走する資本主義。ガツンと懲らしめが必要だが。

2008年6月9日月曜日

まさかの


車内放送で「急停車をする」という間も無く、電車は急ブレーキをかけた。そのときドシーンと鈍い音がしたのをたしかに感じた。踏み切りを越したのが見えて、急停車した。まさかとは思った。「人身事故を起こした」という再びの車内放送。先頭車両に乗っていたので、まさしく真下か周辺での進行形のできごとだった。車内に閉じ込められたままでいた。すぐにパトカーがきて消防車が数台並んだ。いよいよストレッチャーが用意され、覆いがされたが、車内から斜め下に見えた。白髪のご老人だった。おりからの雷雨。昨日あんなブログ書いたばかりだった。

鈍い音はたしかにあのときもそうだった。私が到着して入れ替わりに父がお呼ばれの叔母の家をあとにしたとき、その音がして叔母がすぐにおかしいと言った。国道で父はオートバイに跳ね飛ばされていた。そのときのことをそれぐらいしか覚えていない。外科に運ばれ、頭や腕を骨折して包帯にぐるぐる巻かれ、氷を魚屋さんから買ってきてとんとんとんとん割ったのを覚えている。最初は「うわ言」を言っていたが、まもなく昏睡状態になった。ほんの一瞬、意識がもどって何か言いたげだったのが最後だった。お正月過ぎの震えるようなときだった。事故の4日後には亡くなった。あと2日で私は13歳になるときだった。そんなことを思い出してしまった。にぶい音。のことをからだが知っている。

2008年6月8日日曜日

職場への道


 通勤路は何本かある。私鉄2経路からJR2経路の道。乗り換え2回。ターミナル駅を抜ける。どの経路にするか、初めのころは迷った。

 10年以上前に先に値上げされて運賃を余計にとられ、その資金で整備され、今でこそ複複線化しつつあるが、関東に引っ越してきたころは大変だった。当時の赤羽線なんか到着の電車から人が降りてくるのを傍で見ていたら、映画「人間の条件」の貨物列車に詰め込まれた中国人俘虜たちが列車の蓋が開き放り出されてくるようなシーンすら想像した。すごい混雑で、時差通勤も普及されておらず、定刻にはぎりぎりでしか職場に着けなかった。今ホームドアの普及が始まりつつあるが、よく落ちた。ときには酔った人がホームから落ちて、それを助けようとした人まで電車に轢かれてしまったという悲劇もあった。新大久保駅の事件がそれ。異国の地に散った息子を嘆く韓国のお母さん(オモニ)も、もうひとりの中年の方も気の毒だった。職場の先輩(転勤してきたときの上司)もおおきなターミナル駅で転落して亡くなった。事故なのかなんなのかわからない。強がっていたけども出世からはずされて寂しそうだった。独身だったのでお母さんだけがとり残された。一緒に仕事をしていたころ酔っ払って転がり込んで泊めてもらったこともある。お正月にはうちにも遊びにきてもらってうちの子は多いのにお年玉までいただいてしまったこともある。「大我社主義」の人だったけれども、人が良すぎて悩んでばかりいた。「人身事故」を聞けばいろいろな事情があっただろうその人のことと残された人のことを思う。とにかく多い。それなのに、電車に乗っていればあまりにも日常茶飯事で、麻痺している自分に気付く、「ちっ、また遅れか・・・」っと。つらいものだ。
 
 往復3時間、昔はラッシュ時の急行に乗ったら最初に挙げた片足が到着するまで降ろせないほどの混雑で、人生のなかでそれほどの時間をとられるのはばかばかしいと思っていた。あがいていたが22年でさすがに慣れた。すし詰めは緩和された。ターミナル駅も急ぎ足ですり抜けられる。早朝に家を出て途中から始発電車に乗れるパターンもできた。ぐっすり寝るか、本を読むか、ものを書くか、時間が使えるようになった。前はこの時間の使い方を仕事のために使っていたからいつからか調子がおかしくなった。病気を経た後、まずこれをやめた。帰りも明るいうちにさっさと帰れば、ターミナル駅は始発なので帰りも苦痛ではない。それでも1時間半、有効に使おうと工夫するようになった。定期がなければ往復に2千円近くかかる。60過ぎて「シニアパート制」で勤めを続けているまじめな先輩たちがいる、しかも遠方から通勤する。仕事をやめるというのはつらいのかなぁ。お江戸に出てこないのは寂しいことなのかなぁ、とわからない。ベテラン技能はまだ重宝だ。

 このたび新しい路線が追加され、ダイヤ改正される。途中駅からは乗り換えなし直行便。さあ、またちょっと迷ってしまう。

 (「くたねこ」という。つらいとき三男がどこかで探して買って来てくれた、ちょっといい匂いがするにゃん)

2008年6月7日土曜日

30分の田植え


梅雨の晴れ間、昨日今日雨が降らなかった、多少暑くなった。
ある個配システムで“看板商品”の「バケツ稲」を買ったので、初めての“田植え”。
苗セット(1束&肥料)298円、土6Lで504円。はは。
秋には茶碗1杯分の玄米ご飯ができるらしい。よくできた「手順書」に沿ってやってみた。

そういえば、同時に忘れたころにやってきた「回答書」。
紙の「ひとことメール」では不便だ(月の企画第4回目にしか用紙がない)。とても便利なインターネット注文ができるところだから、意見や苦情もインターネットでリアルタイムに提出できるようにしてほしいという趣旨だった。その「ひとことメール」のメモを提出したら、センターからすぐ電話連絡がきて、そういう意見を上げておくということだったから、そうではなくて文面で回答してほしいとお願いしていた。回答は結局やるんだかやらないんだかよくわからない「さすが」の文書。ただ、相手にしてもらっているだけよい。商品の苦情を電話で連絡すると返金か返品で解決される。そういうことだけではないことがある。
規模からすると苦情の数が同業他社に比べて異様に少ない、以前からそう勘繰っている。やりかたはいろいろあるのだろうけど、不思議だ。普通に利用している人が意見や苦情をあげるのを「あきらめさせている」「不便にしている」のではないかなぁとか。

事件後、カイゼンを始めている。
我が参謀達、司令官たちに「苦情を減らそう」それと「外注化」という発想がある。
事故や事件に起因するものは当然減らすべきである。そのために根本的な対策をとるのはあたりまえだ。が、苦情そのものを減らそうとする発想。官僚的だ。
苦情に対応している現場からいえば、杜撰な仕入れ、無理な企画に本質のひとつをみている。針小棒大なコピー、安売り、大量販売、不似合いな品揃え、調達の無理、製造現場への無理、不正、そのズレやスキマにたいして見る人はみる。かくして苦情は発生する。期待の裏返しでもある。
これに対応し、その声に応えられれば存在価値そのもの、我社我がグループらしさ、財産があるといえる。それで輪をひろげてきたはずだ。
100万件あってもひとりひとりの表現、思いは違う。同じ事案であってもまずは個々のご指摘に正面から答える。その現象と対応は同じなので類型化はある。件数が多すぎる、現場が大変だからといって平準化、外注化してしまえば、こたえ、対応はいつも同じ。「処理」となる。内部的には派遣の方への肩代わり、仕組み的には今様の沖縄か中国東北部のコールセンターへの下請け化だろう。この人たちには一生懸命に忠実にやっていただけるだろう。が、そのこととは関係なく、「迅速、丁寧、愛想がいいだけ」、「マクドナルド」と相成る。

意見、苦情は増やすのである、それによってもっとアクティヴ化するのである。そしてどんなに大変でもひとつひとつに対応するのである、職場全体が。それがなければ、お客様はあきらめる、こころが離れる、あってもなくてもよい存在となる。我社我がグループの成りはでかくなってもこれからじゎっと体力が落ちるだろう。

2008年6月6日金曜日

電波式首輪


お江戸で老舗の得意先。同業他社の2社に挟撃されてついに一昨年業績不振に。「土づくりだあ」が足元の人づくりできておらず、リーダー層不在の私見。幹部もどんどん若返る。そこの筋ある中堅幹部で、仕事中に倒れること過去2回の猛者。「我社我がグループ使命、食の課題、らしさ」を説くも、「こいつ聞いとんのかぁ」で「霞みは食えぬ」ひたすら業績回復に使命感、猪突猛進。

ひさかたのあいさつのやりとりでのゴヘンジ。ははは。

『悲哀のこもったお返事ありがとうございました。
実は業務携帯の貸与には、最後まで抵抗しておりましたが遂に持てとなりました。
しかもGPS付きで、まぁ便利ではありますが・・・・・。

「ポチ」 言い得て妙ですね。

当然MG職の間のみで、返上ありでございます。

なかなかモチベーションが維持向上しにくい今日この頃です。

でも、余情様の一言(一筆)で、多くの方が救われますのも事実です。

私はそう信じております。

子供の頃の夢の道具が実は電波式首輪と気づいてしまった○○でした。

追伸
気温差が激しいと体調も崩れますし、売り上げもジェットコースターのように上がり下がりがあり、下手をするとダウン傾向になりがちで、せめてもう少し 蒸し暑ければと思うこのごろであります。』

2008年6月5日木曜日

さんしょはかつおの話


庭の山椒(さんしゅ)の木 鳴る鈴かけて
ヨーオー ホイ
鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれヨ♪

なんとうちにもあります。ただ植えてほったらかしで大きくなりました。春になれば若葉を摘み料理に添えています。お店で高く売っているのをみると夫婦でほくそ笑むのです、やったねと。とくに竹の子とは最高ですね。そうかカツオにもいいのか。実はならないのですが、在地博士様あれはどうしてでしょうか?  

肥後の友人が「いきなりだんご」を買ってきてくれませんでした。日向の焼酎はやわらかくていいですね。はぶもしょうちゅうもかつおもみんなその地のにんげんと同じ性格をしているのではという「仮説」をもっています。

先日、土佐の「かつおのたたき」屋さんに聞いたら原料のかつおは三陸産でした。もどりかつおですね。お江戸で商売するにはそういうことなんでしょうね。てっきり地場のものだというイメージがありましたが。かつおのたたきもすっかりこの30年で全国区になりましたね。南の生まれなのでかつおは春早いときのものだと思っていました。傷みやすくてくさいので食べにくいものでした。30年近く前、初めて土佐のたたき(冷凍の試作品)を食べたとき感心したものです。まだ見ぬ土佐をイメージしたぜよ。鯨酔あれほど大酒飲みの土地柄とは。後年 博報堂 飲まされたぜよ。

お里は歌にも唄われた三陸のある有名な港町。ご両親に結婚の許しを乞いに参りましたときに振舞われたのが刺身の山盛りでした。最初なんの刺身かわかりませんでした、なんせ刺身を山盛りで見たのは初めてだったので。それが「下りがつお」だったのでしょう。緊張しておりました。

土佐のかつお屋さんに連絡をとったのは、「イシガツオ」とは何かという質問でした。例えば産卵後なんかで体力の落ちたかなんかで身の全然旨くないかつおがあるそうです。それをそう呼ぶとのことでした。外見がわからずそんなかつおの製品に遭遇することがあるそうです。三陸の浜にきいたらそちらでは「き(=木)がつお」ともいうそうです。木の葉を食うように味気ないという意味だそうです。

おとどし三陸の浜からかつおを丸のまま送っていただきました。捌くのに大騒ぎだったとそれとなく伝えたら、昨年からは四つ割で送っていただいています。浜のひとはやさしいひとたちです。さばくのは妻と二男です。私は掛け声、作業環境整備担当係長です。ビールも買ってきます。ただし、大黒柱を背に「いただきます」は私の発声で始めます。内弁慶のチャウチェスクさんをしています。

2008年6月4日水曜日

あんちゃん


 高倉健さん演じる唐獅子牡丹がもてはやされた時がある。あのころのプチ・インテリ学生さんたちに。その世代は私からいえば幼いころのご近所遊び仲間のころのあんちゃん達世代だ。


巨大なその看板が立てられたとき、とにかくわくわくした。
通学路の途中にあって見上げるようだった。
その日が早く来るように待ちに待った。学校は許可制だったので何月何日が観ていいと決まっていた。

『キングコング対ゴジラ』がわが町に来た。

 対決だからどちらが勝つのだろう。
ガキの仲間で論議に花を咲かせた。論議に加わるにはキングコングのことを、ゴジラのことを研究せねばならなかった。研究するもなにも、小学一年生には材料が何もなかった。その姿と看板とポスターの謳い文句だけで最大限の想像力を働かした。字はたいして読めなかった気がするけれど、そのために習ってもいない漢字も覚えた。ああでもない、こうでもないと意見をたたかわせた。
映画館のショウウィンドウのポスターや予告編のスチール写真を食い入るようになんーども何度も見に行った。

 でも、あんちゃんは明快だった。
「よかか、聞けっち」「キングコングが勝っど」
「ないなら、ありゃアメリカじゃ、ゴジラが勝つわけにはいかんど」
―――「じゃっどん、そやないごてか?」
「よかか、聞け。日本はアメリカの子分じゃ。ゴジラが勝てばアメリカが怒っち、どうじゃ」
―――「ほいなら、じゃっど!」で衆議一致した。

 一年生、幼稚園の我々は戦いを現実世界のものとしてとらえ想像力を働かせたが、さすが高学年のあんちゃんは映画をバーチャルとしてとらえ、社会的背景から説明した。
我々のあんちゃんを見上げる目はきらきらしていたろう、口をあんぐりと開け、鼻汁をすすりながら。
私たちは幼くしてもう「アメリカ帝国主義従属論」を「理解」していた。
ただ、なんで恐竜(ゴジラ)がゴリラ(キングコング)に負けるのか、今ひとつわからなかったが、あんちゃんの言うことだから信じるに足りた・・・。

 あんちゃんには私の姉と同い年のねえちゃんがいた。私が小学校にあがったとき、同時に姉も高校に進学した。お盆のころ、我々の広場に見知らぬおねえさんが現れた。「半ちゃん、おおきゅうなったね」と声をかけられたが逃げた。私の知っているねえちゃんには見えなかったし、お化粧をしていてしかも女の匂いを感じたから。おねえちゃんは大阪で住み込みのお手伝いさんをしていると姉から聞いた。

 あんちゃんの家にいけば暗がりにおじさんがいつも横たわっていた。リューマチで寝たきりだった。荷駄車の馬曳きをしていたそうだが、私はその姿を見たことがない。あんちゃんには兄ちゃんもいた。兄ちゃんも中学を出て都会に働きに出ていた。おばちゃんも真向かいの病院の先生のうちのお手伝いさんをしていた。あんちゃんちは縁の下でにわとりを少し飼っていた。

 ひたむきに働いてやさしい家族のひとたちだった。
あんちゃんだけは公立の商工高校に進学した。その後は知らない。
名前は雪(せっ)ちゃん、おねえちゃんは「てるちゃん」それしか覚えていない。
 

 都会を好き勝手に破壊した健さん好きのインテリ学生さんたちのことを、その武功を美化する人たちのことを、いまひとつ信じない。あのころのあんちゃんのことを信じて少ししか疑わなくとも。

2008年6月3日火曜日

不起立


職場でノーネクタイが昨日より始まっていて忘れていた。それにしても雨が降って、自転車を握る手が冷たい。ふつうに植えたゴーヤは育たない。
ノーネクタイとは、そうでないときは着用せよということになる。着用する、しないはいい。ネクタイの規定はそれまではなかったから、おおげさにいえば服務規程に加わったことになる。男のネクタイ、革靴着用は職場のビジネスマナー、常識の範囲ではあった。

「日の丸をみると胸がジーンとする」と北の湖さんが現役のときに言った。友人たちで話題にしたことを印象的に覚えている。同い年の発言だったから少しショックだった。「飢えも虱も知らない、親は昭和の生まれ、兄弟はだいたい二人」の「花のにっぱち」と呼ばれた世代。世代的には潮目だったのかもしれない。

日の丸は間違いなく血潮に染まった。日の丸は侵略と支配の印として、される側を威圧し、する側を鼓舞した。ひとの命よりも大事にされたもののひとつだった。御真影、菊の御紋、日の丸、軍旗など。

空気があった。
学校で「祝日には日の丸をあげましょう」と猫なで声に教え込まれて、すなおに家に伝えても、そうだねと言いながらそのころの親たちにはやりすごす雰囲気があった(今も普通にはそうだろう)。そんなに無理にさせられなくてもいいんだという戦後の安堵があった。ことさら日の丸を掲げることに懲りていたのではないか。

時代は移ろい、今、日の丸に戦(いくさ)のシンボル、血染めのイメージをもつ人がいかほどいるのだろうか。アスリートたちの北京で日の丸を揚げたいという無邪気さをとりたててどうのこうのとは考えなくなっている。

父兄という立場でさえ不起立はストレスだった。「一同ご起立ください」と号令をかけられても当然のように着席のままでいたが、4人も育てるうちに段々少数派になっていくのを肌で感じた。
もとは同僚または後輩あるいはずっと軽輩の「教頭先生」から慇懃に「ご起立ください」と脅され、屈せずに不起立を貫きとおす先生たちが都内の公立の学校にいるらしい。
いや、いる!
幾度も「処分」を受け、不当な処遇を受ける。先生たちの「葛藤の末の勇気」、苦労、いや‘悔しさ’を思う。

君が代は今更いくら古典的解釈をしようとも、言い逃れをしようとも、天皇君臨賛美の歌である。しかもそれは戦前の天皇制を肯定することに作用する。

日の丸のもとは国籍を表す船の旗印(島津斉彬が最初に使ったという)だった。とはいえ、明治以来の戦争では侵略のシンボルと化した。戦地、占領地、支配地、役所学校駐在所、臣民宅、ありとあらゆるところに翩翻とひるがえった。

石原慎太郎さんはこのことが好きで、こういう有様が美しいと思っているのである。年下のお坊ちゃま安倍晋三さんもそう勘違いし、錯誤した。この方は人間の個性と尊厳を謳った前の「教育基本法」を06年12月15日に葬り去った「戦後の戦犯」でありますまいか。

だうなるのだろう。この昨今の肌寒さ。

2008年6月2日月曜日

民主主義の学校


 今は組合がつらい。
 本来、民主主義の学校であるべきだが、形骸化が著しい。

 執行部を経て経営の幹部へ転身する。まして人事部長やその上の管理本部長にでも「出世」すれば、見ている方が恥ずかしくなる。「李下に冠を正さず」もなにもない。組合が“おちょくられ”ている、後任の執行部は反発もしない。どの立場でも能力があるからといえばそれまでだが、組合を踏み台とする野心をみる。俗物には保身を見て取る。献身がないから本質的に見透かす。第2インターみたいな大げさなこと(批判)まで言わないが、「闘う」と言っても迫真はない。組合費は天引きされるし、脱退すれば失職する仕組みが逆の桎梏になりかねない。これではまるでルポルタージュ「偽装労連」の世界だが、本質そこまではないとは信じている。どうあれ組合は大事な社会的組織のひとつだ。

 我が組合が今春闘において社会的不祥事続きの局難に鑑みベースアップを自粛するとした。社会的責任、諸般の事情からそうだとしても、次の冬の一時金要求の戦いに「業績アップ」を呼号し、これを条件に言い出したのには異論を展開せざるをえなかった。経営一体化の本性をみせたのか、未熟なのか、業務提案の練習をしているのか、情けないというか呆れた。私のいくらなんでもという指摘に分会ではなんの発言もなかったが、皆はうなずいてはいたように思う。撤回修正を信ずる。若いときにはおおげんかになったと想像するが、労働組合の大事さが希薄になっている。生活ができぬわけではなく、長時間労働があっても周囲に比べればましな方だ。残業代は支払われるし、わずかだが一時金で「成果主義」という差別給が機能している。名ばかり管理職どころかトップ意思は伝言ゲームのように下に降りてくる。

 社会を動かす連帯の力も鈍ってきている、方針にはりっぱに掲げてあるのだが実感が乏しい。街頭に出なくなって久しい。

 うちのパートの皆さんは任意加盟だが、我がセクションの皆さんは、ついに昨年集団脱退した。十数年間加入していたが、成果がただのひとつもなかった。それならば組合費を払い続けた勘定があわない、という理由だ。生活要求に基づき一致、団結して要求をかちとるという基本のキを執行部、正規職員労組が貫かなかったからだ。要求を降ろしたわけではなかったが、「新規雇用をしないでパートをなくし、派遣に替える」という経営の方針を知りながら、パートのみなさんのささやかな要求(時間給の上限を撤廃して仕事の貢献をみとめ10円でもあげてくれ)を見殺しにしてきた結果の報いと私は思っている。当時の歴代委員長が現在の経営幹部であれば納得できる構図である。

 しかし、組合は大事なものだ。弱いものの立場、味方、献身でなければならない。
 巷の派遣労組の皆さんの決起、管理職ユニオンの立ち上げ、まるで組合の黎明期が再び巡ってきたようだ。

2008年6月1日日曜日

義兄の思い出


 夫が末期癌であと半年の命と告げられて上の姉は狼狽した。だが夫には知らせなかった。会えば義兄はすぐ治るよと楽観的だったが、痰が切れぬようになり痛みも増してきて、余命幾許かを悟っていたと思う。故郷の私の母のところに姉達は夫婦で会いに行った。母は聞かされていたので知らぬふりをしながら応対した。好きな酒も進まなかった、ほとんど食事もとれなかった。なによりも痛みがあったろう。母は後年、このことを幾度も話した。

 岩手で釣った鮎を焼くからといって、次の姉の家にみんなで集まった。わいわいと明るかった。義兄もにこにこしながら、少しずつ食べ、少しだけ相伴した。写真に撮った、ビデオに撮った、ファインダーが曇った。「なあに、すぐ治るよ」が口癖のようになっていた。入院をし、見舞いにいっても同じ口調だった。しかし背中は異様にもりあがっていた。

 臨終の時見たのは胸に穴が空けられ、そこから呼吸をし、栄養を注入されている姿だった。最後まで弱気をはかなかったそうだ、まだ五十台で現役だった。高齢の母は遠方の葬式にはでられなかった。

 あのときのことをわざわざ「最後のあいさつ」に来てくれたと言って、母は涙が止まらなかった。

 あれから11年、母は90をいくつもすぎて健在で、呆けたが、この義兄のことを話す。