2008年5月8日木曜日

残しておきたい記憶

モノの豊かさは誰が支えている?

 今回のミャンマーのサイクロン被害は
痛ましい。 国情のことや、
強力サイクロンと地球環境悪化のことにも
思い及ぶが、さておく。

 実は04年12月26日のスマトラ沖大地震のときの犠牲者にも多くのミャンマーの人々がいたらしい。
らしい、というのは実態が把握されていないからだ。
どこの記録にも残されていない、記憶にのみ残っている。

 タイのラノンは国境の町だ。ミャンマーの南端に接している。
アンダマン海で獲れる水産物の水揚げと加工の町だ。
ここで加工されたヤリイカなどが日本に入ってくる。
ここから南の海岸に沿って
ミャンマーの多くの人たちが住み着いた。
 
 ミャンマーは軍事政権で最貧国のひとつである。
だからひとびとは豊かな隣国のタイに出稼ぎに出てくる、
または不法入国して住み着く。
タイの政府は黙認をし、
その社会は安い日雇い労働力としてこれを受け入れた。

 あのときの津波の程度は地形や海岸からの距離により異なる。
被害にあったところは20mの高さの波で、甚大だった。
植物や建物がさらわれ、小学校の跡地には国旗だけが立っていた。
その小学校は日曜日だったことで最悪の人的被害は免れた。
 海岸近くに住み着いていた不法滞在ミャンマー人が犠牲になった。
タイ政府はこのことを公には話さない。
もっとも不法滞在状態だったので掌握もしていなかった。
この人達は漁や浜加工の低賃金の格好な労働力だった。

 個々の人々が消えたというのではなく、
     格安賃金の労働力が消えたという
 無機質なそんな記憶だけがこの地域のひとびとに残った。

 「バカボンの頬」に見えたので印象深く覚えている。
小柄でより浅黒いその人たちは黙々と立ち働いていた。
この人々は頬にくるくるとした模様で何か塗っている。
それは、何か肉桂のようなもので、それで涼しいのだそうだ。
それがタイ南部の地方の町ラノンの工場で、
また首都バンコックの郊外の工場で
みかけたミャンマーの合法的な出稼ぎ労働者のひとびとだった。

 タイでも、もう「汚い、きつい、危険な」仕事には就かない。
西はミャンマー人、東はカンボジア人の出稼ぎ労働者に頼っている。

 人件費が高騰し始め、通貨も高くなり始めた中国から
再び東南アジアへ委託加工が還流しつつある。

私達のモノによるみかけの豊かさは、
  世界の貧しく勤勉な人たちによって支えられている。

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