2008年5月4日日曜日

一日遅れの憲法記念日



 「泰平」という名の大学時代の友人がいた。生まれた年に朝鮮半島で休戦協定が結ばれたからだという。

 戦国の世の最終的な「もち」を食ったのがタヌキと言われる家康だ。戦国の世が収斂するなかで秀吉の時代には結局数十万の軍隊ができあがっていた。秀吉はこの軍事力をその誇大妄想もあって朝鮮半島へ差し向けた。このときに朝鮮半島の古代中世の文化財がかなり破壊されている。侵略した方の日本側も相当の疲弊を蒙っている。このときの現場部隊と後方司令部の軋轢がその後の関が原での敵味方になった。
 その関が原では数十万の軍隊がぶつかり合い雌雄が決した。政権を握った家康は、肥大化した当時の全国の軍事力を再び海外侵略に向けるのではなく、他藩の軍隊のリストラを実行し、海外進出そのものをやめてしまった。その後これを鎖国策と呼んだ。
 天下泰平260年とは「平和主義に転じた」そういう見方ができる。

 敗軍となった薩摩は幕府への従順の姿勢を示しつつ、一方で徳川の脅威から身を守るべく、ハリネズミのように領内に防備を固めた。各地に麓(=府元)と呼ばれる武士集落を配置し、今に残る他藩に比べ圧倒的に武士の数が多く、しかも地方武士は半農半兵で藩からは何の支給もなかった。痩せた土地柄だったから領内の農民の負担は重く抑圧は相当のものだった。関が原後、直ぐに琉球侵略および支配の承認を幕府から得て実行している。
 島の支配<農民の収奪<地方武士<城下武士という厳しい支配構造をうちたてた。これに被差別部落も存在した。

 時代が下って戊辰戦争でぶつかり合った戦力は数千である。260年前の関が原の動員力に比べればいかにも少ない。内戦がこの程度の動員で済んだというのは平和がどれほど続いたかという証左である。薩長の明治政府は帝国主義の脅威から身を守るべくというよりも自ら帝国主義となって出発し、その後は太平洋戦争で破綻するまで数百万の軍事動員力を持つまでになった。その原型が薩摩にあったといわれている。

 自らとアジア太平洋の人々に多大の犠牲を強いた長い日本の戦争は1945年に終った。そして戦争そのものとその手段となる武力を放棄する憲法を持った。今度は世界にたいしても「平和主義に転じた」ことを公言した。
 
 徴兵制も敷かれず、現在に至っているが、20万の軍事力(士官、いざとなれば下士官となる)を持ち、また5万の外国軍隊=アメリカ軍の支配的駐留がある。人口にたいするこの軍隊の数を軍人密度というが世界有数といわれる。これが実態だ。

 憲法記念日の昨日、行動したかったが仕事を強いられた。メーデーにも何年も出ていない。

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