2008年12月24日水曜日

お呼ばれされている


4人も育てたのに、2歳の男の子のプレゼントにふさわしい絵本がわからない。ブルーナが好適だが、ありきたり、それに持っている可能性がある。

ジジババが4人いて、両親がいて、たった一人の孫。モノと愛情は過剰に注がれる。

そうだクリスマスだった。
この寒空に、イルミネーション輝く大都会の下に途方に暮れる人々がいる。安定した働き口を、いいや明日食うための何でもいい働き口を求めている。

農民も漁民も中小企業零細企業主も商店街の商店主も世襲はされない、もはや世襲のしようがない。実入りが無い。子どもを持てば将来大学に行かせる収入が無い。

金持ち、政治家と、貧困者が世襲をされる。前者にはカネとモノと優遇制度が有り余り、後者には人間らしい仕事も扱いも収入もなく、住居にすらあぶれる。

うちの職場の私たちは食うには困っていない。できることでいいから。いやなら逃げていい。こんなことができる、あんなことができる、やろうよと昼休みに話しかけた。寄付は5,000円で済む、「にんげん」としての名誉が獲得できる「サポーター」という。バッジなら200円。「ヒンキーくん」というキャラを身につけることができる。「実はねぇ」と話のキッカケができる。岩波新書「反貧困」(湯浅誠著)買って読んで欲しい、建設的な主張だ。納得できたら何かを伝えて欲しい。今朝の『東京新聞』、頑張れ。なんでもいい、意見を言え、議論を沸騰させよう。そう考えている。

プレゼントは迷ったあげくに「もったいないばあさんカルタ」にした。ちょっと早いかもしれないが(ムダにするなよ)・・・。

2008年12月23日火曜日

ささえることが必要だ

 昼休みはできるだけ歩くことにしている。だから近辺のあっちこっちを知っている。

 陸橋の上で突然、若い女性に真正面から呼び止められて一瞬身構えた。「○○院大学はどこですか?」という道案内を請う問いだった。高層ビルをもつ大学で知っている、おやすい御用だ。陸橋おりてってまっすぐ行ってガード下くぐって大きな通り、明治通りに出たら右に折れ、またまっすぐ行ったら“希望”が見えて来る、あっチガッタ、その大学の大きなビルがみえてきますよ、と答えた。人の役に立つというのは気分のいいものだ。

 ビラを受け取った。
 ターミナル駅南口のモヤイ像の前で「労働・生活緊急相談」をやっていた。首切られた派遣労働者たちの生活支援に立ち上がる人たちもいる。あきらめないで、と。

2008年12月22日月曜日

30歳


彼女が引っ越してくるのが先で挙式が後になった。だから月足らずで第一子が生まれたとき、弁明に努めた。実際に予定日よりも1箇月早く生まれた。

「今日病院に行ったの?えっ、どこか具合でも悪いの?」「実は」というシーンを想像していたが、実際には全然ちがった。泣かれた。わたしの青春が終わった、と。確かに若かった。

一緒に暮らしてみてわかった。外で付き合っているときと違って、家では物静かだった。今では面影が無い。気を遣って好きなケーキを買って帰ったりしたが、食べたくないと言われた。経験がなかったので二人ともそういうことに気づかなかった。あのときはつらかったのに「オレのケーキが食えないのか」と言われたと、今でもなじられる。

里に帰ってお産をしたので生まれたときのことを知らない。職場にお姑さんから長距離電話があって「男の子だよ」と告げられた。そっと上司に報告したら、大きな声で職場のみんなに告げられ慌てた。わずか18人の職場だった。とても家族的だった。
 
指は五本あるか、五体満足か、聞いた。顔は似ているか、聞いた。なんだかこのオレに子どもができたなんて不思議だった。彼女からは赤ちゃんって顔はシワシワだと聞かされた。

妻が実家を引き上げるとき、迎えに行って初めて対面した。里は遠方で新幹線などを乗り継いで行った。口の悪い妻の同級生からは「はるばる汽車で来た」と言われた。あのころはまだ飛行機に乗ったことが無かった。

勢いよくミルクを飲み、泣けばのけぞって泣いた。動くものにはなんでも興味をもった。与えたおもちゃは分解できるものはみな分解した。

その後も私たちは子宝に恵まれ、そして今年子育てが終わった。

あれから今日で30年、驕(おご)らず正義の士として社会に役立ってくれればと希(こいねが)う。

呉(お)さん


幼馴染のご近所の子ではなくて次男が初めて幼稚園のお友達を連れてきたのは女の子だった。家族みんなで顔を見合わせたものだった。もっともそれが最初で最後だったが。

ご近所の清美さんとは次男三男の幼稚園が一緒で母親どうしのお付き合いが始まった。妻殿より年下だが、親分肌だ。好き嫌いはあるようだが、付き合いは幅広い。おとなになったうちの次男たちとも飲み友達、相談相手だ。土曜日の夜も、そういうみんなと何回目かになる仮装忘年会を基地の近くにあるスナックを貸しきって催した。たのまれて、次男、清美さん、次男の友人2人を車で次々にひろって会場まで送った。聞けば韓国人もはるばる東京からくるらしかった。

次男の友人は、ひとりは会社が再建中でどうなるかわからない、もうひとりは会社の売上げが急に落ちて試用期間だったので採用を打ち切られたという。今日は羽を伸ばすという。おいおい、それは世相の通りではないか。送っていく後ろの座席の車中話。

夜12時を過ぎて次男から突然妻殿に電話があって起こされたらしい。韓国人を泊めるから布団を用意しておいてくれと。妻殿は寝ていたので私に用意をたのまれた。週末で部屋を思いっきり散らかしていたので慌てた。また、酔っ払って連れてくるのかと思えば、もっと早く言えよという気分になった、まして外国の人ではないか。これまでも、我家にたどりつく韓国の人は酔いつぶれるほど飲んでいたのを見ることが多かった、うちの息子も同様に酔いつぶれて。

朝起きたら、夜中の3時半ごろ帰ってきたらしいと妻殿から聞いた。その妻殿が下に降りていき、また上がってきた。玄関に女性の靴があると。おいおい。

酔いはなにも残ってはおらぬ風だった。日本語の流暢なお嬢さんで3箇月前から留学のために日本にきていたらしい。社会学を専攻する、日本語は2年間勉強したという。私たちには思わぬ訪問者だった。名は呉(お)さんとおっしゃる。

2008年12月21日日曜日

年賀状ができたど

私のパソコンは酔っ払うらしい。

年賀状の裏面をつくって、住所録を訂正して、印刷するのに一日かかった。私が手順通りにやらない、砂時計を待ちきれない、キーを不必要にたたく、そのせいだろう。購入してまだ4年しかたたない(そういう問題ではない?)。

かつて家庭での印刷といえば理想科学の「プリントごっこ」が全盛のころ、へそまがりで二番手のブランドの機械を買って使ったが、使い物にならなかった。結局「プリントごっこ」を買うはめになって余計な出費をしてしまった。いくら使いやすくてもやはり一日がかりだった。ただ手作り感とイラストと字には人柄は出せたとは思うが。

考えぬいた原案は「おもしろくない、かたい、ふさわしくない」と相方様に不評で没。

いつか職場の後輩に、翌年「はいはい、お説ごもっとも」という皮肉の返事をもらって反省した。相方の親戚には「んだんだ、そうだ」とたのしみにしている、と評判がいい。私のほうの叔母なんかには「何派だかしらないが」とかジャブをいれられるが、印象には残るらしい。ちょっとしたプレッシャーを楽しんでいる、投げ出した年もあったが。

私のそれは「世相」を反映させることにしている。

長谷川さんたちのかぼちゃ


野菜など北の産物をいただいていた。かぼちゃは冬至までもちますと書いてあって本日食べた。おいしかった。

谷川さんは女性のボクサーで「ボクササイズ」のクラスをもっていた。若いがしっかりした人格で、また教え方がうまかったから、みなに人気があった。私もファンのひとりで、その一時間の教室の最後のころはもう「あごがあが」っていたが、終われば達成感があった。あるとき自分は有機農業をやりたい、そして一緒にやる人がいてそれが結婚相手であること、そのために北海道へ行くのだと発表した。赤ちゃんがほしいとも言っていた。最後の教室の日、みなでささやかな送別会を催し、惜しまれながら去って行った。その後「谷川」さんが「長谷川」さんになり、たまに文通をしていた。数年が過ぎたがおめでたの話は聞かないので最近はそのことには触れない。むこうでもまたボクサーも続けているらしく、掲載された地方紙の切り抜きもいただいた。

明日からまた日が長くなる、それがいい。

2008年12月18日木曜日

親友Tさん

親友のT君は頭脳明晰だった。今もそうだ。推されて人前で話せば弁舌爽やかだった。人の心を揺り動かした。なによりも実践に裏打ちされていたから、反対の意見を持っている人でも無碍にはできなかった。簡単に言うと人柄がよかった。

夜を徹してこういうことをやってきたと言っては、私の下宿にきた。管(くだ)を巻かれた。電熱器を持っていたからピーマンを焼いてもてなした。当時一緒に何を呑んだのだろう。何日間もこういう闘争をやってきたと詳らかに聞いた。あとをたのむと言われた。そういうことが緩和されたあとに、のこのこと出て行ったがそれでも大変だった。彼は先陣をきり何年も裁判闘争などで苦労をしたらしい。私は「うなずく、逃げる、ひきこもる」だったから、てこずったことだろう。

活動がリアルだったわりには、女性に関しては「ミーハー」だったように感じている。彼は女性からも圧倒的に信頼があったのに、つまり普通にもてたのに、マドンナをゲットすることは無かった。ゲットすることはないにしても、今でもつきあいはあり「あご」で使う信頼があるらしい。「マドンナ」がそう思っているかどうかは別にして。

数年前に飲むことがあったとき、尋ねたら人事、総務、財務ありとあらゆる部局の統括をしていると聞いて舌を巻いた。私がつらいと発信したらわざわざ飲みに来てくれたが、もはや立場というか地位が違い過ぎ、話は噛み合わなくなっていた。

偶然彼とすれ違うことがあり名刺をもらったらトップになっていた。合併することは難しいと言っていたが、紆余曲折、今はその通りになったと聞いている。

難しい本を読んでいるらしい。左のことから右のことらしいことまで難しいことをすらすらという。今でもとてもざっくばらんだ。ただし、うちの妻殿は「あいつぅ」という、親しみもこめて。

2008年12月16日火曜日

ふとん


ずっと肩か背中のあたりに鳥が止まっていた。足でぎゅっと掴まれていた。なんとかしようと思ったが逃れられなかった。

遠い昔、くに(故郷)を離れるとき、母は布団をこしらえてくれた。何かの生地を再利用して、カクイの綿を買ってきて、布を広げて手伝わされた。器用につくってくれたものだ。

後日、映画「サンダカン八番娼館 望郷」(高橋洋子さん、田中絹代さんが熱演、熊井啓監督)のワンシーンにその光景を想い出した。その布団はとうの昔に使い古して捨てた。

前の夜、敷布団を新しくした。ふかふかとしていた。

前日は久しぶりにストレッチをした。とくに腕、肩を入念にしていた。

寝苦しくて、はっと目覚めたら6時をまわっていた。込み入った案件があって早く出勤するつもりだったが寝過ごした。

鳥はどこに行ったのだろう。
先週の月曜日のこと。

2008年12月15日月曜日

これ以上排除するな、と


舞台に出てくる黒子は見えていても見えない。歌舞伎ならそれでいい。

大きなターミナル駅の連絡通路の脇に人が寝ていても、紙袋をもって座り込んでいても、それがまるで見えていないように通り過ぎる。見えていても見えない。

ついこの間までは5,500人も集まろうがなんだろうが取り上げもされなかった「なくせ貧困!集会」。社会には「貧困」が存在していても見えていなかった。その人たちが声を挙げても見えていなかった。

「無視」ということになる。「見てみぬふり」という言葉がある通りだ。

見えていても見えなかったが、連日見えるようになってきた。報道がとりあげる。

仕事をして生きていきたいその人たちが住処(すみか)さえも失いつつある、と。
なんでこんな目にあわなければいけない、と。
今朝は冷え込んだ。

2008年12月14日日曜日

スゴイ時代 2


水曜日の夜は「明るい話ではありません、つらい話です」と前置きして始まった湯浅誠さんの講演でした。30人ぐらい入ればいっぱいの地元の公民館の小さな一室で聴きました。話は、何の資料も原稿もなくて「立て板に水」、1時間半なんぞ短いと思うぐらいの中身の濃いそして「恐い」内容でした。

 経団連リーディングカンパニー(トヨタ、キャノン、ソニーなど)の「派遣切り」、「期間工中途打ち切り」がどんどん進行していく状況下での企画でした。『貧困は自己責任か』という趣旨のテーマで、半年も前から準備されていたそうですが、まさに時宜を得た内容になりました。

 労働市場(非正規)および労働市場の外側(失業保険、生活保護)での貧困の進行の実態を聴きました。

 働く貧困層=ワーキングプアのワーキングさえもが奪われようとしていることが目の前で起きている。失業保険も事実上受け取れない、生活保護も締め出そうという行政のあり方。もちろん蓄えはない。家族が支えてきたが、これがもうもたなくなってきている。

 まとめの最後では現状を「イスとりゲーム」に例えていました。10人いて8脚のイスを取り合う。座れなかった2人をとろいヤツ、しょうがないヤツとみる。ただし、もう一度やってみても誰かが必ず2人は落ちる。これはゲームだけれども、謂わばこれが現状の事態。であるならば落ちた人に注目するのではなくて、イスの数に着目しようよと。

 明日(15日)夜7:30からのNHKスペシャル「非正規労働者を守れるか」は収録してきたらしいのですが、ここに出演する湯浅さんの発言にご注目ください。また、規制緩和を推進してきた八代尚宏さんも出演しているのではないでしょうか、わかりませんが。

 本日の『朝日』では湯浅さんの著書『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)が第8回大仏次郎論壇賞に決まり特集されていました。選者たちの評は湯浅さんの講演を聞いた私たちにとってもほぼ同感するものでした。

 彼がいつも胸につけている反貧困のバッジは200円。2色あってその日の服に合わせてコーディネイトできるそうです。このキャラクターは有と無の間にある幽霊「ヒンキーくん」というそうです。無関心でいると大きくなるそうです。どうか成仏してくれと向き合い、取り組むことではないかと。ここに聴きに来るような人たちは意識的な人たちだからうなずくが、それでは世の中は1mmも動かない。伝えてほしいと。このバッジは胸につければ結構ハデ。「じつはねぇ」と伝えようよ、と。

 この企画を主催したのは元市会議員の秋山さんのグループ。無党派で落選、「市民に絶望した」と冗談をおっしゃるとてもおしゃれな御婦人です。

2008年12月13日土曜日

意外な講演者

 府議会議員時代の野中広務、伊吹文明両氏は反蜷川虎三京都府知事の闘士として売り出したと記憶する。自共対決のなかで這い上がろうと野心満々、権謀術数の政治家と、耳にする報道や目にするポスターなどで窺えた。後年、御両人とも国政のなかで自民党の大物となった。同様に谷垣父子もいる。野中氏は革新府政を倒した林田悠紀夫府政のもとで副知事を努め4年間辣腕を振るった。
 この社会には生まれた家系や土地で不当な扱いを受ける、またその逆もある。前者の例は部落差別、後者の例はそれこそ麻生さん、福田さん、安倍さん、小泉さんの政治家2世3世の世襲だ。野中広務さんは悔しい思いをしてきたことだろう、麻生さんがそういう言動をとったという報道がある。「憎まれ役」の野中さんはネット社会でも激しい攻撃にさらされている。差別、それは卑劣で不当である。それこそ断固憎むべき所業だ。

 昔、東京というところに行き、目的は忘れたが明治大学を訪ねたことがあった。昼食をとろうと思って生協の所まで行って思わず後ずさりした。貼り紙、立て看、まるで赤い要塞だった。近年お付き合いのある人たちが、あのときのあの人たちだったのだと思うことがあって、心の中で苦笑してしまう。御茶ノ水は息子が通っていて少し雰囲気を聞いてはいたが、明治大学の大きなビルには目を見張った。久しぶりの大講義室、作り付けの机とイスの幅が狭い。さすが都心だ、会場が埋まった。

 「憎き野中が何故こんなところに呼び出されたのかとお思いでしょうが、」という前置きで83歳の野中広務さんが演壇に立って、講演が始まった。背の低い人だった。本日の「─過去と向き合い、東アジアの和解と平和を─南京事件71周年 12・13集会」だ。

 日本は過去と向き合うべきだ、見聞したことを正直に言い続けること、と主張しつづけ、相談が来るようになって、ついに司会の南弁護士にひっぱられ、こんな集会にでるはめになった。かつての同志や後輩たちが激しく攻撃してくるだろう、とも。確信と覚悟をこめた発言から始まった。蜷川虎三さんや共産党との対峙、教組との対決、国政へ転出、71年に最初の南京への慰霊の訪問から始まり中国へ足を運び対話を重ねていること、昨今の小泉純一郎さんとの対決、福田さんの修復への評価、安倍さん麻生さんの頼りなさ、などなどほぼ1時間余り、立ちっぱなしのまま、話が途切れることも無く講演は続き、終わってみれば会場の万雷の拍手に包まれていた。

 保守政治家としての信念に基づく言説だったが、「日本は東アジア、ロシアと傷口のない関係を構築すべきではないか、積み残されたこと戦後の処理、小さな紛争はあっても一衣帯水の国々だ、乗り越えるだけの信頼関係をつくるべきだ、生きているうちに道筋をつけておきたい、これからの日本の在り方に。ぜひ立ち上がってほしい」と締めくくられた。

 街宣車(右翼の街頭宣伝車)にいじめられ奥さんは病に倒れられたらしい。

 蜷川虎三さん、林田悠紀夫さんや野中広務さん、私の人生のなかで若いときにすれ違い、今日始めて野中広務さんのその生の声を聞いた。

2008年12月12日金曜日

スゴイ時代


巷では3万人と言われているが、あれは氷山の一角。

数十万の人が文字通り路頭に迷うだろう。「派遣切り」に始まる情け容赦のない事態のことだ。トヨタ、キャノンにはじまる有力企業の横暴のことだ。連鎖する下請け関連企業のとる手段のことだ。

職場の労組から声が挙がらない。正職員労組にも及んでくる社会の地盤沈下のことだ。海の向こうのアメリカではビッグ3の企業の賃金がどうして日本のように安く引き下げられないのかと指摘された。そうして公的資金の注入が見送られたそうだ。
 明日の収入すらない人にはどんな仕事でもどんな低賃金でも受けざるをえなくなっている。追い詰められる。社会に“いがみあい”が始まることだろう。あぐらをかいている正規職員が悪いと、ぬくぬくとした公務員が悪いと。そうすると‘キャツラ’の思うつぼだ。地獄へのスパイラル。芥川龍之介の描く「蜘蛛の糸」の世界だ。

73年には薬局とスーパーからトイレットペーパーちり紙の類と洗剤が消えた。わずか1週間で食べ物が2倍になった。それを当時下宿生活で体験した。 87年は東京に転勤になった。バブルの真っ盛りで家賃が3倍の10万円を払わねば貸してもらえるところはなかった。 私は生涯のなかでそのような激動を経験した記憶があるが、そんな程度の社会の変動ではないらしいというのが金子勝さんの見通しらしい。スゴイ時代が到来している。

ベトナム戦争のあのときのように、あの空爆の下で殺され傷つき、住むところや田畑を奪われる人々のことを想像した。こんどは他国ではなくこの列島のなかで職場を追われ、まさに住処を奪われることが現在進行しつつあることだ、傷つき、絶望で自死に追い込まれる人が出てくる可能性も大きい。「生きさせろ」(雨宮処凛さん)だ。連日の報道を傍観しているうちに私たちと「地続き」の周辺でもう進んでいる事態だ。

2008年12月10日水曜日

盲腸の


 人生で初めて手術を受けた日だ。父親が亡くなったその年の今日がその日。
 親戚の「おてい」おばさんの息子さんで、産婦人科を開業していた人を母が呼んできて診てもらったことを覚えている。今で言うセカンドオピニオンということだったのだろう、さっさと切ってしまった方がいいという診立てで、それで母は私の入院を決心したような気がする。手術後、看護婦さんから「おならも出てよかったね」と言われたが、しばらくして足がしびれるようなガラスの破片で切られているような感覚が襲ってきた。医師に訴えたら麻酔が切れていく現象だったらしい。母は忙しくてなかなかやって来ない。個室部屋の電灯も点けられず、ひとり心細かった。あのころの12月は文字通りの師走だった。
 回復していくときの食事の内容が日に日に変わっていき最後のころのカツ丼はうまかった。女の子も含むクラスメイトが見舞いに来てくれてはずかしかった。喪中だったので年賀状は出せなかった。遠い昔の記憶が蘇る。

 「おてい」おばさんは父親の実姉であることが後年判明した、その息子は当然ながら従兄弟だ。このお医者さんは数年後に癌で若くして亡くなった、「おてい」おばさん夫婦はさぞかしがっかりしたことだったろうに。ひげの濃いひとだったようにかすかに覚えている。

2008年12月9日火曜日

記念写真


比嘉さんがあの時の、沖縄先島と本島で撮った写真を回覧してくれた。

50をいくつも過ぎていうのもなんだが、みなで撮った写真は「夏休みの写真」のような気がした。それでつい、心のなかで「少年時代」を口ずさむ。自分がいつまでも童顔ということもあるが、みなの表情に童心が出ている(そういえば今夏、みんなで撮ったインドネシアの写真もそうだった)。

比嘉さんは蝶々が好きで詳しく、優しい人柄だ。カメラもそんなこころが出ているのだろうか。所望したので後日メールで画像を送ってくれた。

私は子育ても終わった。もう一度「夏休み」を楽しみたいと無意識に思っているのかもしれない。それぞれの人生を歩んできたお友達と。

2008年12月7日日曜日

消息

 歳暮を贈った。

 早速お礼の電話をいただいた。聞けば地元の世田谷で作物づくりをしているという。その地に200年続く農家が畑を貸してくれているらしい。貸す方も自分で農業をやるわけでもなく、教えることもできて都合がよいらしい。仲間が30数人もいる農業の塾のようなものがあって、群馬県のナントカという農村との交流もあるらしい。東京農大のお話も聴いているとのこと。もとは50代の前半から少しずつ作物づくりを始めたのだという。現職時代おつきあいはしていたが初めて知った。
 今日は蕎麦打ちをして仲間と打ち上げをやって帰ってきたところだったらしい。

 やっぱりこういう人がいた。今年退職したばかりの先輩だが、意気軒昂の様子だった。

2008年12月6日土曜日

以心伝心


掃いた?と、思わず聞いた。
昨日突風が吹いたようだ。まるで掃き溜めたように枯葉が都合よくたまっていた。ご近所に迷惑をかけるし、難儀だなと思っていたが思わず手間が省けた。その代わりあまり紅葉を楽しめなかった。

三つ子の魂という。今でもよく覚えている。初めて娘にりんごを与えたとき、かじったものをそのまま口から出した。それ以来娘はりんごを口にしない。食べ物の好き嫌いが多い人生だ。

逆に長男は大の好物だ。好きこそものの上手なれで、幼稚園にあがる前からナイフでりんごを剥けるようになった。器用だ。三男もそうだ。実は私はりんごをうまく剥けない。「不器用だ」は言い訳で、昔は母に今は妻殿に甘えているだけだろう。りんごは食べたいが皮むきは苦痛だ。「皮むき器」を買ってみた。数回使って放ったらかした。

生協のギフトに産直のりんごがあったので長男夫婦に贈った。お届け日は指定できないとあった、ずいぶん横柄な企画だとは思ったが、かねてより消費者は神様ではないと言っている手前、受容して注文した。で、早速届いたらしい。長男からお礼の電話があった。そしたら今年は姑さんの方からもいただいていたそうで、それが無くなりちょうどよかったそうだ。この子のりんご好きはむこうの義母さんにも知られているようだ。

一年過ぎた、どうなのかなぁと、思っていた。
朝日新聞に有名な方の膠原病との闘病の連載が始まっていた。
妻殿はお勉強で朝からお出かけ。朝から電話が鳴った。義兄だった。薬も減らせるようになった、南の島行きの件、計画をお願いします、と。「計画」という言葉が訛っていて聞き返した。自分は毎日日曜日だが、奥さんがパートで2ヶ月前に申請が必要だからそうしてほしいと。ならば、来年2月でほぼ決まりだ。さて、あと何日有休があったっけ。

なんとかしなければ


日本は世界でも水産資源に恵まれた国です。

 例えば鮭も22万トンほど獲れて、かつては10万トンほどを余らせていました。一方ではその10万トン余りを輸入していました。鮭の種類(紅鮭など、今では養殖魚)が違うので嗜好という意味では仕方のないことですが、過剰な輸入の一方で、未利用国内資源を発生させていました。簡単にいえば獲る一方で、世界から食料を持ってきて食い散らかしていました。その常に繰り越し在庫になる国内鮭(秋鮭)を10年近く前から中国に輸出して販路を広げる努力をしました。当初はそれが加工されて日本に還流される仕組みでしたが、そうこうしているうちに中国自身で他国への加工輸出用の原料になるようになって、むしろ国内流通する値段より高く買ってもらえるようになったのが数年前からです。複雑なのはそのことによって今度は国内の加工屋さんの原料代が高くなって経営を圧迫する廃業に追い込むという現象が発生するようになりました。

 日本のりんごがそうであるように台湾のひと(中国人)にとっては日本のさんまもよく好まれる食材だったと昔研修で訪れて実感したものでした。韓国船や中国船、台湾船が三陸沖でさんまを獲っているという話はきいたことがあります。さんまは今のところ豊漁ですので中国へ販路を求めたのも無理のないことです。ただこれも鮭とまったく同じ構造です。中国へ輸出して加工されて日本へ還流する。ギョーザ事件が起きるまでは鮭もサンマもさばも止められない動きでした。メイド・イン・チャイナの食品が忌避されるようになって、今は恐らく「仕掛品」つまり加工途中原料になって還流するようになると考えます。日本で少しだけ手を加えてメイド・イン・ジャパンになるのではないかと考えられます。
 数年前に訪れた中国では沿岸部ですが日本料理店が結構流行っていました。さて、さんまはどうやって中国のひとびとに食べられるのでしょうかね。

 おコメを食べなくなりましたから、これほど獲れている魚を今の日本人は食べ切ることができません。自給できる資源を活かせないのです。中国に輸出でもしなければ捌けない、お金にならないのではないでしょうか。スーパーでは一尾59円ぐらいの「サンマの開き」もみかけます。国内資源である秋鮭、秋刀魚を輸出する一方で世界中から鳥肉、豚肉、牛肉、養殖鮭の輸入をして、その挙句食べ散らかして廃棄する。そんなチグハグな社会です。

 各地の港で起きていること、三陸の牡蠣、和歌山の太刀魚、道東の鮭などが国内ですら「買い負け」が始まっていると聞くことがあります。為替が動きますので一過性のことかどうかわからないのですが。少なくとも自給できるのに「食べない」、ときには「高くて食べられない」この国の食の右往左往を感じます。

 さて、今まさに数万人の人が職を奪われ住むところを追い出されようとしています。野党もみな集会に駆けつけた、あの連合でさえ動いた、よかった。集会はまだ数千人です。
昨日今日できたユニオン(労働組合)のビラを、会社が見ている前で受け取る労働者の姿をニュース画面で見ました。正規職員の組合は動かない。明日はわが身です。ふた昔前なら反合理化、反首切り闘争で社会は騒然としたろうに、です。処遇に不満で退職、失業した年上のHさん言う「バラマキでもなんでも12,000円はほしい」「田母神は正論だ」と。むかし、勉強したことのある満州事変1930年代初めのときの「気分」を感じます。
 私には弁舌もなく、ひとを動かす力もありません。勇敢なわけでもありません。ただ歩くことができる。シュプレヒコールに唱和することができるだけです。

2008年12月4日木曜日

樋口さんのお米と農業、食料

 隣の町内に住む樋口さんは運転手さんだった。10年ぐらい前に、地域の有志で「開運ナントカ初詣」という企画で長野県別所温泉の「北向観音(きたむきかんのん)」に出かけたとき、マイクロバスの運転を引き受けていただいた。上田市の、アーケード商店街の老舗本屋さんの二階にあがり戦前の小作争議の話を伺ったように記憶している。

 新潟県魚沼郡ナニガシの生まれ。一泊した旅館の男、女に分かれた相部屋で「自分は米つくりをしたいのだ」と聞いた。その時からかその後かは忘れたが、故郷に田んぼと家を借りて、つくり方は幼馴染に教わったそうだ、そしてリタイア後の今では1年の半分を新潟で過ごし、雪のある間はこちらに帰っているような話を聞いていた。

 この前のバザーに久しぶりに顔を出したとき、樋口さんの「魚沼産こしひかり」が出品されていた。奥さんの「買ってって」のひとことに義理ではなく、迷わず買わせてもらった。奥さんもいつのまにか野菜づくりの方に精通されたらしい。
 そのお米はうまい。樋口さんの人柄のままだ。

 あなたがたの「産直は元気が無いようですけれども頑張ってくださいよ」と中島紀一先生(茨城大学農学部長)はよくとおる声でおっしゃる。あの事件以降、消費者の手作り志向がたかまった、その「てづくり」という名の着いたギョーザが海の向こうからやってきていたと「本丸」の会場でおっしゃるので失笑、苦笑がもれる。

 「農産物直売所」の販売額これがスーパーに負けていない。元気と手応えがあると。茨城なんかは土日になると車で買い求めにくるのだそうだ。それは私の旅に出たときの購買行動に実感がある。

 05年の国勢調査によると、日本の就業人口総数は約6200万人。うち、農業就業は270万人。わずか4.39%である。以下、年代別にみる農業就業人口/就業人口総数の比率。(以下、中島先生の資料より)

20歳代    0.82%
30歳代    1.03%
40歳代    1.99%
50歳代    3.50%
60歳代   10.94%
70歳代   33.44%
80歳代   37.26%

 この国では若い人の職業選択肢のなかに農業が入っていない事態という現実。
「食べものをつくるという生産領域に歪み」があるという。
 
 農業就業者に占める65歳以上の比率は58%(05年「農業センサス」より)。
 日本の農業は高齢者が担っている。

 しかしながら、上の表をみると農業とは高齢者が働ける産業であるともいう。60~70代で支えられている日本の農業では、40~60代の参入者は若いとも言えるそうだ。

 下記の表を見れば、1990年から15年間で100万戸の農家が消えた。

 <単位(農家数:千戸)>
      販売農家 主業農家 準主業農家 副業的農家  計   自給的農家
1990年  2970   820    954     1195  2969   865
2005年  1949   428    440     1081  1949   899
増減   -1021  -392  -514    -114  -1020   34
増減率    66%    52%   46%     90%   66%  104%
1990年  構成比% 27.6   32.1     40.3  100
2005年  構成比% 22.0   22.6     55.5  100

*年間の農産物販売金額が50万円以上の農家を販売農家、それ以外の農家を自給的農家という。

 担い手がいなくなっている厳しい現実ではあるが、ところが中島先生は自給的農家が減っていないということに着目する。「農産物直売所」に供給をして、元気がある農家はこういう自給的農家や副業的農家であるという。

 自然に触れ合いたい、作物を育ててみたいと思う40~60代は多い。その1割でも実際にやってみたら裾野が広がる。40~60代の参入者は農業にとっては若い。本格的な農家になるのではなく、国民が農業に触れ合う裾野を広げるべき支援をすべきではないかという。

2008年12月2日火曜日

南京事件71周年 12・13集会


あれ、野中広務さんが講演するらしい。
保守政治家では以前は故後藤田正晴さん(~05年)が軽々しい戦前回帰への動きを抑えていたように思う。アジアとの未来志向の共生を唱えて。

次のような集会があるらしい、以下引用。

──過去と向き合い、東アジアの和解と平和を──
  南京事件71周年 12・13集会

日時■12月13日(土)13:30会場/14:00開始
会場■明治大学リバティータワー3階1302教室
資料代■1000円(学生500円)

●講演  野中広務 氏(元官房長官、元自民党幹事長)
     「戦争体験と歴史和解」(仮題)
●対談:かつて、百人斬りが賞賛された時代があった
      笠原十九司 氏(歴史学者)/能川元一 氏(哲学者)
●提案:和解と平和のためのこれからの課題
      尾山 宏 氏(弁護士)
■主催:南京事件12・13集会実行委員会/子どもと教科書全国ネット21

2008年12月1日月曜日

甕という製造容器

 今日の夕方、「三日月と木星と金星がきれいだよ」とメールがきた。私が駅に降り立ったときには雲がかかっているようで見ることができなかった。

何日か前、元大学院教授のM先生から電話が掛かってきた。先生は耳が遠いから大声で話せねばならない。それでも私の返答は聞こえぬらしい。先生の一方的な話で堂々巡りになった。

奄美のFさんがさとうきびの「大正種」を復活させていよいよ収穫期になった。それでさとうきび酢を昔のつくり方で作りたいのだが甕がない。入手できないかという。焼酎を造っているところにでもあたってくれとのこと。

私の小さいころには甕はいくらでもあった。焼酎屋さんもさることながら醤油屋さんの工場にもごろごろしていた。ところが、この甕の製造は廃(すた)れた。

今は有名になったが、鹿児島県福山町(現霧島市)の黒酢を復活させようとしたとき、甕の入手に苦労したという話を坂元醸造の皆さんから聞いた。粘り強く伝統の黒酢のよさを世に問い、認められブームが起きた。ところが、いざ増産をしようにも甕が国内では入手しづらくなっていた。もともとは薩摩焼があって日常品としての甕生産の背景があったとは考えられるが、もうない。韓国、台湾、ベトナムあらゆるところを頼り、入手したそうだ。先生にはそういう話をした。

今は昔ながらの甕や壷で醸造品を熟成させるというのが見直されている。焼酎製造もプレミアム商品にしている。手放すはずがない、そういう話もしたが先生には聞こえなかったらしい。

甕は骨董品、美術品になり、とうの昔に生活用品ではなくなった。鹿児島の黒酢もそうだが、工業的につくる酢と違って、焼き物の壷ないし甕はそういう酢をつくるためのどうも適正な製造容器であるらしい。

奄美のさとうきび酢は奄美大島南部、加計呂間島という地域にある特有のなにがしかの浮遊菌が付着して、これを醸し出すらしい。何故かその風土でしかつくられない産物だ、これを奄美大島の北部で試したそうだが作れなかったそうだ。山の湧き水と菌と気候というそこの条件が合わさって、さとうきびの搾汁液が発酵してできるそんな酢だ。要するに工場でつくらない。甕(壷ともいう)に入れてそれらを並べてつくる、だからそこを「畑」という。

甕(おそらく素焼き)を入手できないだろうか。ただ、先生の予算がわからない。

2008年11月29日土曜日

届いたぞ

 職場に日高昆布が届けられていた。国労争議団の年末チラシで求めた。表示をみたら販売者はそういうふうになっている、負けるな、頑張れ。お正月には掛け声を掛けて「伴侶様」に昆布巻きをつくってもらう。昆布巻きの芯には私のお里ではさばを使う。昨年は身欠きにしんを使った。紅鮭もいい。

 家に帰ったら、マハラバ文庫さんで注文していた岩手のイーハトーヴ農場の食品セットが届いていた。同封の「便り」によるとテスト販売なのだそうだ。ビンに入っているものは同じ色なのでどれがどれだか、なので、自分でもふたに品名を記入した。「人生の伴走者様」は東北の出身で「ミズ」も知っていたし、「辛いね大根」もわかったそうだ、紫色だ。南国育ちの私には珍しいものなので、とっておきの東京(青梅)のお酒「澤乃井」大吟醸「梵」を開けることにした。

うん、うまい!

 「不安だ、私だけは安全でいたい」の「お客様第一、ご無理ごもっとも」の仕事の世界から、解放される。
香山リカさんの世界で解明しながら・・・。
年末に仕事と住処を奪われる人たちがいることにまた落ち込みながら・・・。

 我が労組も一時金を昨年並みに獲得したことで鼻高々だが・・・。所詮「我が世界」の中。
二大政党と大労組にこの社会に生きるひとへ励ますチカラがない。

2008年11月27日木曜日

現在進行中のできごと

 合併したり連合したりして大きくなった企業や組合が仕事上の相手先だ。社内の常識や大組織に属していることで人生を勘違いしている人たちに日々接している。その企業名に「大」をつけると納得がいく。もっとも他人様のことをとやかくは言えない。

 かすみを食って生きられれば、この精神的不具状態からは逃れられる。とは言っても、今まさに首切られようとしている派遣や期間労働者に比べれば屁でもないこと。

 *雑誌「POSSE」が創刊されているぞ。

2008年11月25日火曜日

東京での催し


 虚ろな都市だと思っている。都心に20年以上も通いながら、この街をたいして知らない。いつまでたっても不案内だ。何もかも一極集中は気に食わないといいながら、興味ある催しに接することもできる。

 乃木坂から青山墓地を突っ切れば渋谷に出られた。陸橋から六本木方面を臨む。
 以下、それぞれの案内より引用。

1)ハイナンNET  http://blog.goo.ne.jp/hainan-net  (中国海南島戦時性暴力被害者への謝罪と要求を求めるネットワーク)
 
 海南島は中国の南端にある島です。来る12月25日、暖かな海南島から何時間もかけて原告の陳金玉さんは真冬の東京にやってきます。戦時に受けた性暴力、そしてその後も続く苦痛を訴えるためです。
 今回の裁判は結審であり、おばあさんが証言台にのぼるのもこれが最後になります。おばあさんの声に耳を傾けてみませんか?裁判を傍聴することで裁判官に世間が注目している裁判であるということをアピールすることもできます。そしてなにより、陳金玉さんは今回が初めての来日です。皆様から応援していただくことが裁判に臨む励みになると思います。
 裁判所なんて行ったことがないので勝手がわからない、という方。9:30に丸の内線霞ヶ関駅A1出口に来てくださればハイナンNETのメンバーが案内します。
 また、裁判の後には報告集会にて一般の方々にも解るよう、裁判の解説を行います。是非、お誘い合わせの上、気軽に裁判所に足を運んでみてください
 【日時】2008年12月25日(木)10:00
 【場所】東京高等裁判所424号法廷(丸の内線・霞ヶ関駅A1出口徒歩1分)
!!注意!!法廷が変更したり、傍聴券配布になる可能性もあります。変更の場合はハイナンNETブログにて情報を掲載しますので
http://blog.goo.ne.jp/hainan-netをご覧下さい。
―――海南島日本軍「慰安婦」裁判 報告集会―――
☆日時☆2008年12月25日(木)18:00-20:00
☆場所☆文教シビックホール シルバーホール 
     
2)日弁連主催の講演会(申込不要・入場無料)
「なぜ、無実の人が自白するのか? 」- アメリカの虚偽自白 125事例が語る真実 http://www.nichibenren.or.jp/ja/event/081213_2.html 
日時 :2008年12月13日(土)13:00~17:00  
場所 :発明会館(会場地図) 港区虎ノ門2-9-14 (地下鉄銀座線虎ノ門駅下車3番出口徒歩3分)
 アメリカでは、近年、DNA鑑定の発展によって多くの死刑・懲役囚が実は無実だったことが明らかになりました。その内の多くの事案で、ごく普通の市民が、取調べを受けてから短い時間でやってもいない重大な犯罪について自白をしていたことが明らかになっています。それはなぜなのか。 アメリカの冤罪救済の第一線で活躍し、完全無罪事例の虚偽自白の実態を研究したスティーブン・ドリズィン教授をお招きして、この問題を解明したいと思います。
プログラム
講演「アメリカの虚偽自白125事例が語る真実」  
 講師:スティーブン・ドリズィン氏(ノースウェスタン大学ロースクール教授)
特別報告「免田事件の自白経過」  
 報告者:免田栄氏(免田事件元請求人)
報告「日本におけるDNA鑑定-再鑑定の保障の必要性」  
 報告者:佐藤博史氏(弁護士)
パネルディスカッション「自白が生む誤判・えん罪の悲劇を生まないために」
 パネリスト   スティーブン・ドリズィン教授
          桜井昌司氏(布川事件請求人)
          小坂井久氏(弁護士)  
 コーディネーター   
         高野隆氏(弁護士)

3)アムネスティ・フィルム・フェスティバル
アムネスティ・フィルム・フェスティバル 2009年1月17日(土)・18日(日)
 2009年1月17日(土)・18日(日)受付開始10 時30 分/ 開映11 時
 上映作品:※フィルム・フェスティバル公式サイトをご覧ください。
  http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=1950
 会場: ヤクルトホール(東京都港区東新橋1-1-19 ヤクルト本社ビル)
 主催: 社団法人アムネスティ・インターナショナル日本
film@amnesty.or.jp
上映スケジュール
1月17日(土)
 11:00 : 免田栄 獄中の生
 12:35 :トークイベント『対談 免田栄氏(元確定死刑囚・再審無罪)×森達也氏(『死刑』著者、映画監督/作家)』
 13:05 休憩
 13:30 : にくのひと
 15:00 : アンナへの手紙
 16:45 : 刑法175条
 18:25 : プロミス20:09 終了予定
1月18日(日)
 11:00 : 関西公園~Public Blue
 12:10 休憩
 12:40 : サルバドールの朝
 15:10 : スタンダード・オペレーティング・プロシージャー
 17:20 :イベント ~日本の中の多文化共生って?~カポエイラby グルーポ バントゥス カポエイラ ジャパン
 18:00 : ヴィットリオ広場のオーケストラ
 19:40 終了予定

2008年11月24日月曜日

佐々木さんたち


今年も佐々木さんのつくったサトイモで豚汁を味わった。白菜もすばらしい。菜園仲間と出品する。交際範囲は広いらしい。このバザーを始めて10数年が経った。どんどん高齢化しているが、その出品する作物の出来は毎度最高だ。今日は寒く午後からは天気も悪くなった。佐々木さんはバザーの出品商品にあまり高い値段をつけたがらないらしい。毅然とした人生の態度と人のよい人柄が共存している。地域の大先輩たちだ。

2008年11月23日日曜日

汗かき

 総理大臣になりさえしなければ、かつての宇野宗佑さんはハーモニカも吹ければピアノも弾ける文化的な外務大臣ぐらいで政治家を終えただろうに、なったばっかりに昔囲った芸者さんに名乗られしかもミミチッチィことをしていたことがばれて「ピンク首相」として選挙に惨敗し政治生命を終えた。  

 踏襲(とうしゅう→フシュウ)、未曾有(みぞう→ミゾユウ)、頻繁(ひんぱん→ハンザツ)、詳細(しょうさい→ヨウサイ)。ラジオでも新聞紙上でも庶民の風刺に苦笑させられる。この人も首相にさえならなければ、単なるマンガ好きの三代目政治家で好き勝手に料亭やホテルバーで楽しみながら陰謀でもめぐらしていただろうに。このテイドのひとが今の難局を担っているとは、つらい。 

 家に居る連休はホントに久しぶり、天気に恵まれた。ときどき激しい寝汗をかくことがあって、すんでのところで風邪をひかない。せんべい布団を思う存分干した。掛け布団は重くなければならない。三男もそうらしい。 

 昨年は年末に庭木の手入れをお願いしていたが、二日間あったので、これまでの見よう見まねで自分でやってみた。景気が悪いのに植木屋さんには悪いことをしたが、よかったのかどうかしれないけれど、二日間で数万円稼いだ気になった。お陰でお隣とお向かいのご亭主とも滅多にない会話ができた。  

 明日はバザー、あいにく雨模様の予報だ。餅つきもやるという、主催者も高齢化で担い手がいない、老骨に鞭打つらしい。汗をかきそうだ。

2008年11月21日金曜日

年季


 トイレットルームに閉じこもっていても多少の大声で話せば会話ができる。うちの夫婦はそれができる、年季がちがう。シチュエイション上、簡易な会話であるが。
 うら若き息子に同じようなノリで語りかけようものなら、ドアの向こうで押し黙る。あとから出てきてマナー違反、非常識をなじられる。もっともだ。
 恥じらいかなぐり捨てて、実質本位、対話はどこででもできる、ベテラン夫婦の相思相愛は揺るぎもしない。

 その息子から初めて聞いた。普通の表情のとき、若者には鼻の両側から頬、口にかけての線はない。歳を重ねたひとにはある。「ちょっと東京へ、映画観に」の先週の電車の中で確かめた。その通りだった。その線が最近出てきたと息子は嘆く。この線も人生の年季の証。

2008年11月20日木曜日

配達の生協の現場


大変になった。

今回の宅配を装ったテロによって、早速、集合住宅の入り口が簡単には開けてくれなくなったそうだ。

年配の方にお問い合わせへの返事のお電話を差し上げたら、振り込め詐欺と間違われていきなり切られたそうだ。

誰れのせいだ。

 自分で握った大きいおにぎり。お昼ごはん。食べる時間も惜しいそうだ。

告知


一昨日(正確には昨日未明)。深夜に酔って帰りました。
パソコンを開けました。Cドライブが満杯で整理することを勧めるという表示がでました。
かねてより重くて作動がとにかく遅いので、何も考えず、容量の大きいものを2つ捨てました(アンインストール)。
昨夜開けてみて愕然。使用中のメールいっさいがっさい、ワード、エクセルのソフトを捨ててしまっていました。
酔っておりました。真夜中の所業です。

みなさん、メールいただいても見られません。送れません。

あわあわ、わわわわわわ、わ。

2008年11月19日水曜日

「さら戦」映画祭鑑賞記Ⅳ


「さらば戦争!映画祭」は有志による自主上映企画だ。

NHKドラマ「帽子」が私にとっては緒方拳(「こぶし」というのがホントウ読み方のだそうです)さんの遺作になった。そのドラマと同様趣旨で“戦争と今”が映画『早咲きの花』(06年)の設定だったように感じた。こちらは浅丘ルリ子さんを起用していた。

上映のあとこの映画の監督菅原浩志さんのトークショーだった。
8・6ヒロシマと8・ナガサキの間に、実は8月7日の愛知県の豊川で大空襲があったそうだ。当時豊川には東洋で最大級の海軍工廠(海軍の兵器工場のこと)があった。たった25分余の空襲で3,000人近くの人が死亡、その数倍の負傷者が出たと考えられる。軍需施設(工場)であったため、この事実は徹底的に秘匿されたそうだ。そのため、あまり知られていない。その犠牲者の中には多くの学徒動員勤労奉仕の生徒たちがいた。今でいえば中学生ぐらいの子ども達だ。短時間の3,000人の死者は「史上最大の悲劇9・11」に匹敵する。
戦争の夏をテーマにした映画は夏に撮影する、灼熱の豊橋で進行されたらしい。女優の浅丘ルリ子さんは夏の撮影を毅然と演じきったプロであったと紹介された。

舞台は戦争中の愛知県豊橋の国民学校と現代。戦時中のシーンでは地元の子どもたちをオーディションで使った。太っていないこと、三河弁が使えること、そして男児は坊主、女児は刈り上げのおかっぱになれること。早くいえば「かつお」と「わかめ」ちゃんをわんさかつくった。この子たちが出演者。食べるものがない、着たきり、青っ洟(ぱな)をたらす(栄養失調のせい)、を再現した。昔の子どもたちになれたという。環境に適合できるもの。ただ坊主にしてみたら円形脱毛症の「現代」の子がたくさんいたらしい。最初は隊列を組んで歩く、右向け右ができなかったらしい。そんな撮影裏話を聞くことができた。

会場にいたプロデューサーの佐久間さんが紹介された。映画の裏方は男の世界でスクリプターを長くされていたご婦人。「感覚だけが刺激される映画ではなく、心にしみわたるようような映画を作りたかった」とごあいさつ。

最後に監督は、つくる人と観る人のほかに、今は映画を伝える人が必要だ、―――この(さらば戦争、映画祭の)実行委員会はすばらしい!と。

2008年11月18日火曜日

「さら戦」映画祭鑑賞記Ⅲ


「さらば戦争!映画祭」は4年目だった。

ゲストトークの西本治子さん(長崎の被爆者)が壇上にあがったとき、初めて観た今日の映画にショックを受けた、自分を見失ったとおっしゃっていた。今まで「ゲンバク」を見たくなかったと。これは8085本安打の金字塔的記録保持者の張本勲さんも広島の被爆者で、同様のことを最近発言している。8月6日も9日も忌まわしい記憶で、怖くてと。今年初めて長崎原爆資料館、広島平和記念資料館に行ってみたそうだ。そして発言を始めている。西本さんも「何か言って死んでいかんば、一人でも、小さい声でも訴えてやろうち思うた」とおっしゃった。聞き手は弁護士のTさん。

そのときどきだったり、断片的であったりした私の原爆の実相のとらえ方が、ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」(07年、スティーブン・オガサキ、アメリカ)によって、より深くなった。腹に落ちた。製作に25年かかったそうである。

1945年7月16日初の原爆実験。

「はだしのゲン」の作者中沢啓二さんが14人のヒバクシャの証言者のひとりとして登場する。「6歳だった、鮮明に覚えている」と。
他の人の証言。
「まず、死体からどかさなければならなかった」(これは沖縄の南部でも聞いた)

ヒバクシャはその後を生きなければならなかった。
生き残った人も医者が経験したことのない放射能による後遺症。差別。
「死ぬ勇気と生きる勇気、妹は前者を選び私は後者を選んだ」という壮絶。
西本さんは戦争でいいことはちっともない、と。

「さら戦」映画祭鑑賞記Ⅱ


「さらば戦争!映画祭」の副題は「~人間が始めたものは人間がやめればいい~」。

小説「蟹工船」は今年に入って50万部を超えたという(「朝日」11.14付け)。新潮文庫版は110刷を超えたらしい。

このドキュメント映画「時代(とき)を撃て・多喜二」(05年)ができたとき、正直言ってこれほど読まれるとは思わなかった。

「蟹工船」が発表されたときこの小説は4万5千部も売れたという、昭和4年、1929年のことだ。これも驚異の売上げだったという。しかし当時は伏字(ふせじ)だらけだ、場面によっては数行が検閲によって伏せられる。昔の読者は読解力、想像力があったとしか考えられない。この小説によって多喜二は後日不敬罪で投獄される。

多喜二は小説「一九二八年三月一五日」で当時の警察の大弾圧(3・15事件と呼ばれる)のことを描き、「蟹工船」、そして「党生活者(発表当時は検閲があって「転換時代(仮題」)」で侵略戦争への反対を明確にした。このドキュメンタリー映画でインタビューに応える小樽出身の経済学者浜林正夫さんは語る。多喜二は時代を鋭く真正面からとらえ、「警察、天皇、戦争」に触れた、権力に狙われるべくして狙われたという。
「人間らしく叫ぼう」とした。
その勇敢さ、あふれる才能が、そして排除され、あろうことか抹殺された(1933年築地警察署にて拷問によって虐殺された)。

この映画のプロデューサーとして紹介された池田博穂さんは、ドキュメント映画「靖国」はもらえたが、文化庁から(製作)助成金の750万円はハナからもらえなかったと振り返る。少しでも反政府的な匂いのするものには助成金はださないと。

国禁の書の作者、「アカ」として迫害を受けたが、この多喜二の原稿や遺稿や記憶が数多く残された。立場が違うが彼の支持者がいたこと、才能を知るひとびとがいたこと、なによりも家族が、彼の多くのものを残したという。「いずれそういう時代がくる」と信じて。

「我々の芸術は飯を食えぬ人にとっての料理の本であってはならぬ」彼の残した言葉である。

2008年11月17日月曜日

「さら戦」映画祭鑑賞記Ⅰ「靖国」


「さらば戦争!映画祭」という。11月15日に催された。若い人たちが主催者だ。

 プロデューサーの張雲暉(チャン・ユフィ)さんは語る。ドキュメント映画「靖国」の製作には10年かけた。最初は彼女と監督の中国人二人で始めて、後に日本人のスタッフもいれた。その10年間で日本の社会の変貌を実感したそうだ。

私は考えた。
 この映画は日本で撮られて、日本の既存の映像を使っていながら、日本人のあまり見たことのない映像がふんだんにとりいれられている。それだけでも一見の価値がある。つまり、昔の日本人自身が制作した映像が活用されている。それでいて、いまでは一部の日本人にとって都合が悪いと思われるようになった画像といえよう。
 それで「反日」とか「反戦」か、といえば、右翼の論客鈴木邦雄さんが評しているように、むしろ日本右翼の宣伝かと思われるほど靖国を肯定する人たちの主張がこれでもかと出てくる。

 一番の大きな問題は「圧力はかけていない」とおっしゃる自民党の有村治子参議院議員、稲田朋美代議士(弁護士で05年郵政選挙で当選)の言動、介入だろう。これによって上映を予定していた劇場が「空気を読んで」みな上映を自粛した。
 このお二人に私は前空幕長の田母神さんにも通じるものを見る。「狂信的」信念である。そんなことがあったでは済まされない「時代の流れ」のことだ。戦前もこういう狂信的なものに顔をしかめることはあっても、「触らぬ神に祟り無し」で見てみぬふりをした、我が身には降りかからぬと思っていた。そして社会は軍国主義へ、戦争へと突き進んだ。三流の御仁が権力中枢(国会議員、自衛隊幹部)にいて、狂信的信念で振舞う時の恐さ、理性の通じなさ、これを庶民として覚えておかねばならぬ。押し返さなければならない。
 みんなエリートなのである。これを間違いだと言い切る一方のエリート、知識人にも、どこかこれを見過ごす弱さを感じる。

 映画「靖国」は反日じゃん、侵略国家だったなんて自虐史観じゃん、と安直に流される「空気」をこそ悪(にく)まねばならない。

2008年11月16日日曜日

ばらまくな


 場末のスーパーではあるまいし原価割れの超目玉、客寄せ目当ての大安売り。

 そんなことを国家的レベルでやろうとしているのが「定額給付金」だ。天下の愚作と言われた「地域経済振興券」のようなことを二度やろうとしている。どこの政党がご執心であるかということを最近マスコミは報道しない。何を信じようが勝手だが、ホントの「生活を守る」ことができないではないか。振り込め詐欺のかっこうのネタになるではないか、我々の安全にもかかわることだ。
 そもそも増税や医療、福祉を削り、人を困窮に追い込んでおいて「生活に困っているでしょう」と言って、目の前に迫った総選挙の票ほしさにやろうとしている。こういうのを場当たり、人を愚弄するというのではないか。

 丁か半かの大博打。感と度胸の小泉さんは選挙で山を当て後進に道を譲った。それを思い通りにならないと言ってお坊ちゃま総理が2代続けて「ボクやめた」をやった。次の3代目のお坊ちゃまが「踏襲」「未曾有」「頻繁」を読めない。ブッシュさんの国語(英語)力にも似通う。漢字のひとつやふたつ読めないことは誰にもあるにせよ、マンガはともかく本は読んでいないなということが窺える。金持ち度胸、「感とハッタリ」で生きてきた人かと想像される。

 新自由主義と称して自分に都合のよいルールの世界への押し付け、自分の借金の世界へのばらまき仕掛け、境目なしの世界的金儲け、難くせつけての殴りこみ戦争(人殺しだ)、ブッシュさんは何でもやった。間違いなく歴史に残る愚策の8年間だった。この列島の2代目3代目のお坊ちゃま施策もほぼそれに準じている。私たちはその同時代に生きている。

 あけすけに言えば「バカ殿」の治下にいると考えればよい。
 しかもそれはバカ殿固有の問題ではなくて、殿様体制を変えるしかないと考えている。そのアメリカは「チェンジ」した。

 なにがしかのハンディキャップのあるものがのし上がる。ハングリーの原点を忘れずに。地に足を踏ん張って。
 *画像は3日前の満月、1箇月前には南の島で臨んだ。

2008年11月15日土曜日

未練


胸にトキメキがある。

夢や希望やご婦人にたいするときめきならよいが、やたら勝手にときめく。目に違和感が走る。血管に詰まりがあるような自覚症状を西洋医学の医者に訴えた。

「もうだめかもしれない」は若いときから連発してきたのでつれあいから相手にされない。医者に行けで済まされる。

「あれもしてない、これもしてない」の反動で1年間を貪欲に生きてきた。新たにお知り合いになった人、再会した人、人生の収穫だ。「あれもほしい、これも欲しい」が昨年だった。欲がシンプルではないので未練が多い。こころの安寧を持っていない。胸のトキメキがそのせいならいいのだが。

一升瓶は6本買った。まだ呑んでいない。「おんな1号」は未だに食べていない。まだ誰とも忘年会、いや望年会をしていない。孫文先生曰く「革命未だ成らず」。

昨日


忙しかった。
みんな仕事がばらばら。みんな仕事が専門的。だからどこの誰に何をきけばいいのか内部にいても案外わからない。わからないから、「とりあえず」みんな「お問い合わせ」に来る。外からは当然、内からもまわされてくる。それぞれは「正しい」仕事だ。提案文書もすばらしい。社内ページでは縦横に検索機能がある。総務もあれば広報もあるだろう。
だけどもこれがホントのお客様には通じない。「えっ、ここは本社じゃないの?」組織というものは上から下にと思っている人が多い。キムジョンイル体制好きですか?

○さん、Hさんゴメン。お茶のひとつも出さず、立ち話で。えっ、読んでたって!?○さんのことは勝手にブログのネタに使っていたから、恐縮。誰がバラしたんだぁ。

Tさんもゴメン。久しぶりだったのに。また偉くなっちゃって。謝罪記者会見なんぞでテレビに出ないようにしましょうね。こっちも「再構築」やってます。

2008年11月13日木曜日

肉まんで下痢?


株式会社ABCD 品質管理室 EFG様

ご報告ありがとうございました。

少し長いけど労作です!製造のことがよくわかりました。

誠実なる対応ありがとうございました。

ホントの事故をおこしてはいけませんが、
いま、ひとびとは自分のちからで生きていけません。
だから、「不安だ、恐い」の「お問い合わせ社会」になりつつあります。
私たちはそれに答える「対話」のちからを磨かねばなりません。
EFG様は科学者ですからその力を磨き、人との対話をこの業務を通して高めていけば「人間」がおおきくなります。

「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」ようなことではいけません。

たいへんな業務と想像します。
いまいちど言います。
肩のちからを落としてほどほどに頑張ってください。
長時間労働にいいことはありません。
鼻から吸って口から吐く、背筋を伸ばす、なるだけ早く帰ること。

文章はみじかく!「手にとるようにわかる」という内容で。

誠実に正確に事実に基づき迅速に。

2008年11月12日水曜日

能力に欠ける


 私はお役所文書が書けると思っていた。ところが豈(あに)(はか)らんやなかなか書けない。エクセルシートでこれを埋めよというレポートを提出できない。さあ下期6箇月のあなたの目標はなんですかというワード表を埋めることができない。ああこれは落ちこぼれていくなと思っていたら案の定そうなった。パワーポイントを用いてみんな発表する。聞いていて見事だ。そういうことができない。表現力のスキル・技術はともかく、何かひずみ、ゆがみが私のなかにあるのかもしれない。天邪鬼もある。一種の適応障害。
 南の島の樹木の根がゆがみねじれ傾いて立っていた。自分のようだと冗談を飛ばしたが、どうも冗談ではないようだ。本土の場合「風雪に耐えて」というのだろうが、南の島の場合もっと激しい「嵐、台風に耐えて」というのだろう、どっこい生きている。
 狭量さが災いしている。いつまでたっても人間ができていない。世の中についていけない。

 食品製造業の合併が進む。何か事故事件にでも巻き込まれたら企業がもたない。合併を繰り返してきた銀行名のように2つや3つの社名がくっついた巨大企業が生まれている。大きな企業でさえそうやって生き残りをかける。その下にくっついた下請け企業は、今一度肥大化した会社の傘下に入る。昨今の不安社会にたいする品質「管理」のしめつけ。「指導徹底」の要請のもとに、やることは自前のコストと人材でやらなければならない。親会社やユーザー企業のまるで検察官のような品質保証部や工場点検の担当たちにあれこれ指図を受ける。

 そういう大企業傘下の製造業か、あるいは自立しつつ相互研鑽する助け合う方法によって乗り越えていく製造業か。それを模索していこうとしているのがJASMEQ(協同組合 品質安全推進センター)の方向かもしれない。自立した協同組合によってユーザー企業や同業他社の大企業に向き合える、そう展望することを考えている。大企業傘下の製造業か、自立した協同組合に拠る製造業かで生き方が違ってくる。梁山泊から歩みだすのかもしれない。

 こういうことを筋立てて表現できない。生きるためと昔の話は書けるようだ。

2008年11月11日火曜日

ぞっとする話


 この国の自殺者の数は年間三万人を超えています。職業的には自衛隊と警察に異常に多いと言われます。この間の事件、判決で閉鎖社会あるいは閉鎖空間におけるいじめ、リンチが想像されます。

 王朝時代、東国の農民が兵士としてはるか遠い九州にひっぱられました。防人の歌として万葉集に伝えられています。どれほどつらい賦役であったことか悲惨なことであったことか。年季を終えて東国に帰るにも行き倒れになったと伝えられています。 どれほど無念であったことか。

 安倍晋三元首相は教育基本法を変えました。私がつらかったあの時期なのでよく覚えています。その安倍さんが任命したのが田母神(たもがみ)航空幕僚長です。遡れば小泉元首相の時代にこの人は航空総隊司令官に昇進しています。

 日本国政府は1995年に初めて村山首相の談話によって「植民地支配と侵略」を認めています。ですが、それ以前にそれはもはや世界では常識でした。なによりも朝鮮半島や中国、東南アジア、太平洋諸島のひとびとが被った事実でした。

 田母神さんは公的な立場、しかも実質上の国軍という実力組織のトップの立場にありながら、つまり軍人の立場にありながら、侵略戦争を否定し、イラク派兵についての国権のひとつである裁判所判決に対しても「そんなの関係ねえ」とうそぶいた人です。

 軍人に二度とこの国を支配されないというのは戦前の狂気の軍国主義社会からの教訓です。政治的主張はどうあれこの国のルールです。この人の立場、言動は「札付き問題幹部」の不良行為や非常識ではすまされない話でしょう。文民統制が機能していないどころか、そういう三流の人物を重用する組織の、まして武力組織の危うさ恐さを語らずにはいられません。政権党の人を見る起用する能力の無さでしょう。

 旧日本軍の内務班の様子は「真空地帯」、「戦争と人間」(小説、映画)などでも描かれています。徴兵のシステムによって年齢に達すれば有無もなく軍隊という国家的監獄へ引き込まれ、善良な庶民の人間性が全て否定され、ひとを殺すそして死ぬことを恐怖しないマシーンとして改造されました。天皇に忠誠を尽くさせられた兵士がつくられ、他国を踏みにじり侵略をしました。

 田母神さんのような人がこの国の軍隊のトップにいる、ぞっとする話です。

2008年11月10日月曜日

壮絶


辛淑玉(シン・スゴ)さんの「けんかの作法」(角川0604)「怒らない人」(角川0707)を読み進んでいると「悪あがきのすすめ」(岩波新書0706)のあとがきで弟さんの話がでてくる。何故「あとがき」だと思う。

2008年11月9日日曜日

狼が来た蔵くん


 「黒米」には香りがあります。

 稲のときから香りがあるということを石垣島に訪ねて行って知りました。だから鳥が寄ってくるそうです。田植えのあとは苗が食べられてしまうので1~2ヶ月はこの鳥との戦いだそうです。それでも食べられてしまうのだそうです。なんて牧歌的なのでしょうか。生産者のご苦労は田んぼに泊り込みで大変だとお聞きしたのですが。

 この香りの成分が都会の人には「異臭」と誤解されます。
この「黒米」は健康ブームになって復活はしましたが、食べなくなって1,000年ぐらい経つのだからそうなのかもしれませんね。この成分は黒米だけではなくほかの食品にも含まれ、異臭騒ぎになるときがあります。

 もう、食べる方も売ったほうも敏感です。というかビクビクしています。検査、ケンサ、ケンサ、ピーポーピーポー注意速報、狼が来た蔵くんです。オオカミが1日に100回来ます、担当は寡黙になっていきます。全体の株が暴落しても検査株は上がっているかもしれません。

 社会に許容性がなく、人はキレるようになり、監視社会になっていきます、工場や倉庫は鉄条網や堀で囲い、IDカードがなければ入れなくなっていくでしょう。監視カメラ、私物点検は容赦なくなるかもしれません。労働組合なんか入ってこられません。運送手段のセキュリティシステムも負荷されるでしょう、ただでさえコスト圧迫を受けていますのに。「誰も信じない」と煽られています、誰からなのか正体がわかりません。見えざる不安。

 生産から消費が離れ、野生味なんぞはなおさら遠くなって私らが小さいときに考えた「未来都市国家」になりつつあります。「無味無臭混じり無しの柔らかい食品」か、或いは不自然なのに「決まりきった味とフレーバーの食品」しかわからなくなるときが近づきつつあります。要するに宇宙食化しつつあります。昨今の食品の問題はつまるところ完全無欠の包装食品を目指さなくてはなりません。でも誰がつくるのでしょうか、安く細かく加工調味して完全無欠の包装食品を。中国のかたにお願いするのでしょうか、安く細かく完全にと。

 押し返さなければいけません。生活をまもるのは常識と想像力と食育・食の継承と寛容、笑いの絶えない食卓と家族、かけがえのない環境です。農業、漁業、製造業などありとあらゆる現業が尊重され、人間がモノである社会ではありません。

2008年11月8日土曜日

待ってたよ


 浪速の人間国宝桂米朝の長男、 桂小米朝の桂米団治への襲名披露講演の様子をBSで観た(11月3日)。
 襲名口上の場面ではこれまで見てきたどんなものより肩肘張らずざっくばらんで、米団治には辛らつで観衆の本音をくすぐるものだった。だから愉快だった。親の七光り、プレッシャーを散々揶揄され期待され、高座のひとり桂文珍からは、「いつもお客様から待ってたよと、声を掛けられる芸人になれ」と励まされていた、そうでなくては。
待ってたよ!

2008年11月7日金曜日

ラッキー

 この間、聞き損ねたと思われる村井吉敬さんの話を、今日まったく偶然に地元のケーブルテレビで、聞くことができた、というより見た。
「野村の自由学校」という番組。
『11月 は「エビから読み解く日本の食文化」というテーマ 、今回は、早稲田大学教授の村井吉敬さんをスタジオにお迎えして、日本人とエビの関わりなどについてお話しを伺います。食品の安全性に注目が集まっていますが、村井吉敬さんは輸入食材の一つであるエビから日本人の食文化を見守っています。』という内容でした。
ぜひ、みなさんも地元のケーブルテレビでみてください。「えび」から私たちの食と日本と世界がみえます。

「さら戦」という


「さらば戦争! 映画祭」がアップしていた。山形のドキュメンタリー映画祭とか新潟のナントカ祭からの選りすぐりを朝から晩まで4本立てで上映してくれる。しかも安い。毎年トークショーも催される。一昨年は「ディア・ピョンヤン」の監督ヤンヨンヒ(梁英姫)さんで、昨年は「パッチギ2」井筒監督だった。前売りには割引がある。自己申告制でワーキングプアならさらに割引がある。
この映画祭は若者達が運営している。このことに注目している。第4回らしい。
そんじょそこらじゃ見られない映画、いいぞ。
http://sarasen.noblog.net/blog/index.html

11月15日(土) さらば戦争! 映画祭 2008
―人間が始めたものは人間がやめればいい―
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■さらば戦争! 映画祭 2008 プログラム
   10:05 『靖国YASUKUNI』
   12:10 張 雲暉プロデューサー トーク
   12:30 休憩 (60分)~ハイナンNET短編映像 (30分)~
   13:30 『時代を撃て・多喜二』
   15:00 休憩 (20分)
   15:20 『ヒロシマナガサキ』
   16:50 西本治子さん (被爆者)トーク
   17:10 休憩 (20分)
   17:30 『早咲きの花』
   19:15 菅原浩志監督 トーク

2008年11月6日木曜日

1升瓶


 焼酎の1升瓶を買って飲む。
 経済的であるし瓶がリユースできると思っていたから。ところが売っているくせに引き取ってくれるお店が無くなってきた。せいぜいビール瓶までだ。ビンと缶のゴミの日に捨てられている。ボランティアの資源回収の催しでも対象にはならない。たいへんもったいない話だ。

 かつて日本の炭鉱は基幹産業であった。ただ、そこに従事する労働はつらいものであった。しかも命がけだった。だからそこに働く人々は自ずとよく組合に集まった。詩人が生まれ地底の歌を友にしてよく闘った。組合は生活協同組合をつくり生活をともに支えあった。日本が依存するエネルギーを国産できる石炭から安い輸入の石油に転換するとき職場と生活を守るために働く人々は闘った、国の進路を左右するエネルギー政策、日米安全保障条約という国策にまで人々はよく考えこの反対闘争に立ち上がった。それは文字通り燎原の火のようであったろう。

 筑豊も大牟田も高島も杵島も炭鉱のあるところはどこもかしこも我家からは遠い九州北部のことだった。三井三池闘争、安保闘争は我が両親には、ならずものの貧乏人が騒いでいて、背後には社会党や共産党がいてお上にたてつく「けすった」人たちと映っていた。ニュース映画で観る激しい労働組合の闘争の様子、それは田舎の小市民には理解できない世界だったのだろう。首相の岸さんは戦争中も戦後も偉いひと、筑豊の麻生家はたいへんな「分限者(ぶげんしゃ)どん」逆らう相手ではなかった。岸さんの鼻の高さ、それはりっぱな人だという証拠のように母が言っていたように思う。「革命」それはソ連や中国のようになること、自由がなくなる、恐怖のようにとらえられていた。

 どれがボタ山なのだろう。最初はわからなかった。石炭のくずの山、黒い三角錐そういう山を想像していたがそんなものはもはや無かった。70年代後半以降、就職して九州の旧炭鉱地帯を巡るときがあったが往年の趣きはなかった。

 若くて威勢がいいからお前はいちど訪ねて来いと誘われながらあちこちに不義理をした。今にしてそのころのことを悔いる。要するに生意気だった、今をときめく方になびいていた。

 それでも佐賀県の山にある得意先に訪ねていったことがある。大きな体育館のようなお店だった。往年の賑わいを想像はできたが、その旧炭鉱地域は火が消えたようだったのが目の前の姿だった。専務でありながら、発注もすれば納品の荷物も受ける。お店はまだ醤油も油も1升瓶で販売していた。確か1升瓶は木枠の箱に6本か8本入っていたように思うが、大変な重量物だった。だから入り数を減らすようにいつも訴えられていた。そのことよりも1升瓶という規格そのものが食品から急速に消えていきつつあった。今私はあの穏やかな老専務さんの年に近づきつつある。

 我家ではその空の1升瓶が車庫に山のように溜まりつつある。

2008年11月5日水曜日

兄弟


失礼だが「ウエコーのハゲ」と呼んでいた。だんだんに禿げてゆき最後には前頭部のところだけ残る禿げ方だった。度の厚いメガネだった。もらったわけではないが、年賀状には自らの風貌を漫画にしてサイン代わりにしていた、そういう茶目っ気もあった。

大阪に行く前日、共産党の上田耕一郎さんの訃報を知った。

腕は毛深かった、野武士の論客という印象だった。人を覗き込むような鋭い眼光、論敵の言うことを受けとめ、呑み込んでする反論は舌鋒鋭いのだが、どこかユーモラスでユニークだった。弟の不破哲三さんと比較される所以である。若いときの不破さんは必ず「自分の土俵」でモノを言ったし、その鋭さは切って捨てるようだった。それはそれで痛快だった。共産党は恐ろしい、きらいだという母もこの人と松本善明さんだけはテレビの国会中継で見て好んでいた。当時、若くて頭がよさそうというミーハー好みだったようだ。

以前、その不破さんが中曽根康弘さん、土井たか子さんとテレビ朝日に出演したときに、「与えられたものとしてどこに自分の居場所があるかということではなく、居場所のないような社会は変えて居場所のある社会をつくる。自分で夢と希望の条件をつくれ。今の社会の貧しさを自分の貧しさにしてはいけない」と老人然として若者に呼びかけた。風見鶏の大勲位も「その通りです」と。この人の苦労はこの人なりに“プリンス然”としていたのではないと知った。二世三世の根性なしまたは口先だけの“ソーリ”たちとは違う重みを思った。

神戸三宮で兄と会った。70を越してまだ働いている。働き尽くめだから、あと何回桜を見られると思っているのか、この季節だったら紅葉をあと何回楽しめると考えているのかと悪態をつく。君が言うからそれをこのごろはいつも思うと言う。いい年になって死ねば自然かなとも思う、どっちが先かわからぬが。しかし、悲しかろう。
別れ際になにをくれるかと思えば、高血圧生活読本の類、ぁ。

2008年11月4日火曜日

大阪、ええねん


大阪の「京阪京橋」から電車に乗れば今は京都市左京区の出町柳まで行ける。出町柳から京福電車に乗れば一乗寺、岩倉、鞍馬に行ける。青春の地だ。あの頃は制帽を粋に被った車掌さんがいた。

その京橋に近い大阪城ホールで開催された「食べるたいせつフェスタ08」の出展者の事務方として出張した。25,000人の来客見込み(目標)だったが、あの得意先の「副理事長」が動員をかけたらしく、終わってみれば37,000人余の押すな押すなの大盛況であった。昨年の東京が27,000人の参加だったからいかに多かったか想像できる。

久しぶりに思う存分大阪弁に浸った。大阪城を臨みながら会場のお弁当をいただいた。「ネコさん、おそとのネコさんやからお腹ぺこぺこでいてはるねん」おかあさんの子どもに使う大阪弁はやわらかい、他者のことをいうのに大阪風の敬語を用いる。

大阪城は開かれた公園だ。市民が憩う。金さえ払えばエレベーターで天守閣に登れる。ひとりの警官にも出遭わなかった。警戒厳重な江戸城とは違う。ざっくばらん。天候にも恵まれた。

一難去ってまた一難の一週間を過ごし、「食品の安全」ブースが受け持ちだったから身構えたが、詰問はとくになかった。「しっかりしてや」の雰囲気。起きているのも主に関東だったからだろうか。会場全体は「食」の大事さ、食育の必要、大阪(関西、中国、四国)の食の結びつきを訴えるものだった。これと事業が一致していれば何の問題もないと思うのだが。会場では「紙風船」の公演も聴こえた。

若いおかあさんやあるいは若い夫婦、そしてお子さん達が大勢訪れた。子どもはかわいいものだ、いつしかそう思うようになった。子どもを見る目の余裕を感じる、孫がほしいな。

2008年10月30日木曜日

ザンネン


 村井吉敬さんが岩波新書で『エビと日本人』(87年刊)を書いた頃、私は現役だった。そして20年たって再び『エビと日本人Ⅱ』を上梓した。この人を呼んでインドネシアの報告会をやろうという話は知っていたが、案内が来たのは一昨日の28日の夜だ。こんどの土曜日の昼だという。もっと前から決まっていただろうにと、地団駄踏んでもしようがない。 メーリングリストに洩れているのかな。
 滅多に出張なんぞない内勤の仕事。今度に限って、ずっと前から大阪の金土日の「フェスタ」の仕事に志願していた。もう少し前に案内が来ていたら調整もできただろうに。
 本でしか知らないが、内容に納得、共鳴していた。水産研究者内の中では、ああだのこうだのの噂は聞いている。人となりと、肉声でその唱えるところを聞いてみたかった。
 また、インドネシアに同行したみなさんとも再会したかったのだが、ちょっと残念。

2008年10月29日水曜日

食品を捨てる


 防虫剤成分が食品から検出されたという発表と報道は冷静さが欲しい。検出された(定性分析)ということでの危険性の警告はそうだとしても、どのくらい検出されたのかの定量分析の結果も観なければならなかった。マスコミは電話取材だけで強引に「事件・事故、隠していたということ」に持っていこうという姿勢さえ見られるところもある。生命や健康に関わる危険を察知し、この危険性を回避するべくあらゆる努力をするのは供給する側の当然の責任だが、紙一重とはいえ異常だ。供給する側も自己防衛に走って「回収」をする。いったい何十万個の食品が処分されるのだろう。

 お客様相談室係や苦情承り係の世界では、「防虫剤」の“移り香”はある意味「日常茶飯事」である。匂いを吸収しやすい性質があるからだろうが、とくにお米に多い。お米は積み上げたりするので破袋を防ぐために空気穴が空けてある。最近の米袋は空気穴に代えて通気性のよいものに替えてあったりしている。いずれも袋の中の空気を逃がして袋がパンクするのを避けるため。したがって、なおさら移り香を受けやすい商品だからやっかいだ。注意をするのは当然だ。

 もはや我々の祖先のように原野や山林で毒蛇や毒きのこであるかないかを試すわけではない。快適な暮らしをもたらす人工的な物質は、使い方を間違えば危険を我が身に及ぼすということを学習してきた。ときには善からぬ行為をする者もいるのではないかという恐怖に怯えている。虫が入っていたり、くっついていたりする苦情も相変わらず多い。一方で殺虫や防虫をやりながらそれが自らの食品に影響するという矛盾に満ちた中で生きていることに気付く。